ねむたいむ

演劇・朗読 ゆるやかで懐かしい時間 

思いつく場所

2006-06-29 | Weblog
物語を思いつく場所はさまざまだ。眠ろうとしている時。夢を見て目覚めた時。晩御飯の支度をしている時。掃除をしている時。花に水をやっている時。テレビをみている時。散歩をしている時。本を読んでいる時。お風呂に入っている時。喫茶店でお茶を飲んでいる時。電車やバスに乗っている時。
だから、私の場合、家中、どこにいても思いついたことを書き留められるようにえんぴつと紙を置いているし、外出する時のバッグのなかにはペンと手帳を忘れない。忘れないつもりなのだが、よく忘れる。
外出先なら化粧ポーチのなかの口紅やアイペンシルを使って、文庫本のカバーやティッシュやレシートに書き留めたり、携帯電話にメモしたりする。
この間はお風呂の中で思いついた。それは、次に書きたいと思っている作品の、テーマにもなる、とても大事な言葉だった。なのに、脱衣所には紙もえんぴつも置いていない。もう、湯船に浸かってのんびりと本を読んでいる場合ではない。忘れないように思いついた言葉を何度も口にしながら、お風呂から上がって、居間のテーブルの上にあった新聞に書き留めた。
家中の扉や引き出しをあけると紙とえんぴつが出てくる。洗面所、台所、テーブルの上、テレビの前、たんすの引き出し、食器棚のなか、冷蔵庫のなか、枕の下。
そこらじゅうに書き散らして、どこに書いたか忘れてしまう。
新聞に書き留めた言葉も、結局資源ごみに出してしまった。
久しぶりに引き出しの整理をして、書き留めた紙をみつける。そこからまた別の物語を思いつく。たまに思いつきがいくつも重なって、物語の片鱗になったりする。急いでパソコンに向かう。私の物語は、いつもいきあたりばったりなのだ。


父のこと

2006-06-06 | Weblog
父のことはあまり知らない。子供の頃から家にいたりいなかったりで、そのうちまったくいなくなっていた。どこに住んでいるのか、何をしているのかも知らなかったが、たまに私だけに連絡があり、食事をおごってくれたり、洋服を買ってくれたりした。でも、そういうこともいつのまにかなくなってしまった。
十何年も音信不通が続いたある日、電話を取ると父の声がした。私の名前を呼ぶから、「お父さん?」と聞くと、「いやだなあ、僕ですよ」と答える。知り合いの男の子からだった。電話の彼はいつもは私のことを苗字で呼んでいる。その日に限ってどうして名前で呼んだのだろう、それにどうして若い彼の声が、父の声なんかに聞こえたのだろう。おたがいに変だネエと言い合って電話を切った。
父が亡くなったという知らせを受けたのは、その電話の、何時間かあとのことだった。

今、母が気に入ってよく行く喫茶店がある。中年の夫婦がやっている店で、店は汚くコーヒーはひどくまずい。一緒に行った時に小声で母に聞いてみた。「この店、どこがいいの?」母は少し笑って言う。「ちょっと似てるのよ、お父さんに」。
カウンターのなか、働き者の妻の横で、気弱そうな、でもどこか遊び人風のマスターが笑っていた。

本を読む快楽

2006-06-01 | Weblog
本が好きだ。それだけは子供の頃からかわらない。好きな作家の場合は出版されるとすぐに買う。その他は、内容、題名、本そのものの形、色、紙の手触り。そのなかのどれかに不満があっても、どれかがとびきり気に入ったとしたら、買う。買った本はまずお風呂で読むことにしている。お風呂は私がいちばん集中して読める場所だ。お湯のなかに落とさないように、蓋を半分閉じた状態にして本を置く。乗ってくると、二時間は読んでいる。図書館の本はお風呂場で読めないので、その分、読む快楽が少し減る。
本を読む楽しみは、私の場合、その作品の世界に浸ること、というよりも、その作品から呼び起こされる自分の世界に浸ることだ。なので、読んでいる途中で、何度もストーリーの外にさ迷い出ることになる。あげく、肝心のストーリーがわからなくなり、また読みなおす。気に入った本ほどさ迷う確率は高くなる。
新しく気に入りの作家を見つけることはなかなか難しい。書評を読んでおもしろそうだと思っても、一冊読んだきりであとが続かない作家も多い。
最近繰り返し読んでいるのは、カポーティの短編集と小川洋子の「ホテルアイリス」。小川洋子には他にも好きな作品がたくさんある。
芝居を書いているくせに、戯曲を繰り返し読むことはない。例外はパトリック・シャンリィの「お月様にようこそ」。芝居なんて観たこともなかったのに、そこからさ迷い出して、「恋ごころのアドレス」という作品を書いてしまった。