ねむたいむ

演劇・朗読 ゆるやかで懐かしい時間 

身体と心ともうひとつのもの

2012-07-19 | Weblog
子供のころから継続して見る夢に、「水の中を飛ぶ夢」がある。

夢の中の私は、何かから逃げているというわけではなく、何かを追いかけているというわけでもなく、でもかなりのスピードで、上昇したり下降したりしながら飛んでいる。電信柱や街路樹やビルも建っている。でもなぜか人影はない。そしてそこは確かに水の中なのだ。水の中なのに、泳ぐのではなく飛んでいる。
子供のころは頻繁に見ていて、大人になってからは少なくなったが、それでもたまに見る。
目覚めた後は、とても懐かしい気持ちになっている。

この間、八咲舞遊館でのヨガのレッスンの終盤、床に横たわって目を閉じゆらゆらしていた時、その夢の感覚がふと甦った。
それは笑美ちゃんの「沈んでいく感じを味わって…」という声を聴いていた時だ。本当に水の流れのようなものがやってきて、その流れに乗るような感じで、身体がすーっと下に下に引き込まれていって、あ、あの夢と一緒だ、と思ったのだ。

敬愛する今は亡き心理学者の河合隼雄氏は、著書の中で、「アニマーたましいー」という言葉をよく使っていた。氏によると、人間存在を身体と心とに割り切って考えた場合、どうしてもそこに取り残されるものがある、それがたましいなのだそうだ。
で、キリスト教伝道師が来日した時、日本人がそのアニマという言葉を聞き違えて、在り間(ありま)ととらえ、その在り間というとらえ方もまた素晴らしいと書いている。
つまり、存在するものとものとの間にある目にみえないもの。ものが普通に存在するような意味では存在しないもの、それがたましいであると言うのだ。

ものとものの間にある、人と人の間にある、時と時の間にある目にみえないもの。
ものごとを割り切って考えようとすると、消えてしまうもの。
でも、ないもの、見えないものを信じる力が、現実を生き抜く力にも通じると、私は思う。

夢に中で空を飛んでいるとき、どういう気持ちだったのか、よく思い出せない。
楽しかったり、怖かったり、不安だったり、その時々の状況で違っていたのかもしれないし、
そういうものからは解放された「素の私」だったのかもしれない。















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身体と心ともうひとつのもの

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子供のころから継続して見る夢に、「水の中を飛ぶ夢」がある。

夢の中の私は、何かから逃げているというわけではなく、何かを追いかけているというわけでもなく、でもかなりのスピードで、上昇したり下降したりしながら飛んでいる。電信柱や街路樹やビルも建っている。でもなぜか人影はない。そしてそこは確かに水の中なのだ。水の中なのに、泳ぐのではなく飛んでいる。
子供のころは頻繁に見ていて、大人になってからは少なくなったが、それでもたまに見る。
目覚めた後は、とても懐かしい気持ちになっている。

この間、八咲舞遊館でのヨガのレッスンの終盤、床に横たわって目を閉じゆらゆらしていた時、その夢の感覚がふと甦った。
それは笑美ちゃんの「沈んでいく感じを味わって…」という声を聴いていた時だ。本当に水の流れのようなものがやってきて、その流れに乗るような感じで、身体がすーっと下に下に引き込まれていって、あ、あの夢と一緒だ、と思ったのだ。

敬愛する今は亡き心理学者の河合隼雄氏は、著書の中で、「アニマーたましいー」という言葉をよく使っていた。氏によると、人間存在を身体と心とに割り切って考えた場合、どうしてもそこに取り残されるものがある、それがたましいなのだそうだ。
で、キリスト教伝道師が来日した時、日本人がそのアニマという言葉を聞き違えて、在り間(ありま)ととらえ、その在り間というとらえ方もまた素晴らしいと書いている。
つまり、存在するものとものとの間にある目にみえないもの。ものが普通に存在するような意味では存在しないもの、それがたましいであると言うのだ。

ものとものの間にある、人と人の間にある、時と時の間にある目にみえないもの。
ものごとを割り切って考えようとすると、消えてしまうもの。
でも、ないもの、見えないものを信じる力が、現実を生き抜く力にも通じると、私は思う。

夢に中で空を飛んでいるとき、どういう気持ちだったのか、よく思い出せない。
楽しかったり、怖かったり、不安だったり、その時々の状況で違っていたのかもしれないし、
そういうものからは解放された「素の私」だったのかもしれない。















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