ねむたいむ

演劇・朗読 ゆるやかで懐かしい時間 

大阪弁と田辺聖子

2019-10-16 | Weblog
11月24日(日)、京都のPアクトで自作の短編を読ませてもらうことになった。
今回はめずらしく大阪弁で書いてみた。

子供の頃、私は大阪弁がうまくしゃべれなかった。
わけあって母方の祖父母に育てられたのだが、その祖父母が関東の人間で、大阪弁を嫌っていたからだ。近所や学校の友達の話す大阪弁を真似して変な言葉遣いをすると注意された。
自分でも大阪弁はあまりきれいな言葉ではないなと思っていた。
ヨシモトも松竹新喜劇も嫌いだった。

私が大阪弁っていいなと思ったのは、高校生の頃、田辺聖子の恋愛小説を読むようになってからだ。
なんて柔らかで優しい言葉使いだろう。肩ひじ張らずに道徳にも縛られずに生き生きと生活している女性を、こんな風な大阪弁で表現できるなんて。

諧謔という言葉を新明解国語辞典で引くと、「諧謔の諧も謔もたわいないことを言って人を笑わせるという意味で、相手を楽しませ、その場の雰囲気を和らげるのに役立つ、気の利いた言葉」とある。
田辺聖子の恋愛小説はまさに諧謔的だ。
「休暇は終わった」「言い寄る」「私的生活」「猫も杓子も」「愛してよろしいですか?」なんて、何度読み返しただろう。
甘やかで従順そうにみえて、実は芯が強く心の底に恐ろしいものすら抱えている。そんな女性を書かせたら田辺聖子の右に出るものはいない。

写真の「苦味(ビター)を少々」という本には、田辺聖子の小説のなかの言葉が、399のアフォリズムとしてまとめられている。アフォリズムとは、やはり新明解国語辞典によると、警句、金言といった意味だ。
久々に読み返すと、ああ、あの小説のこの言葉、好きだったなあと、思い出して楽しくなる。
ただ、若いときに納得した言葉と今納得する言葉は、ずいぶんちがうなあと思うのだけど。

というわけで、11月24日は大阪弁で朗読します。
主人公はオトナの女性ではなく中学生。でも、中学生なりに諧謔の心をもった女の子。
昼と夕方の二回公演です。詳細はまた次の時。

みなさん、観に来てくださいね!



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