2007年にりゃんめんにゅーろんで上演した「森陰アパートメント」を、今年12月に劇団大樹さんが上演してくれる。上演にあたって、大樹版として改稿しようと作品を見直していた。
書いた頃のもろもろを思い出した。私は一度書いてしまったらいろんなことを忘れてしまう。ビデオを撮っていてもあまり見ないし、読み返したり思い返すこともあまりない。でも、必要があって読み直すと、その時考えていた別の設定や言葉などを思い出す。で、今回は思い立ってヒロインの職業を変えてみた。なにやら新しくなって、楽しくなってきた。
「森蔭アパートメント」は、私の書いたもののなかでも、自分のなかの(懐かしい)を刺激する作品だ。
出来不出来は別にして、「絵葉書の場所」という初期の頃の作品も、私の(懐かしい)を刺激する断片がいっぱいの作品だった。作法が未熟であれやこれや詰め込みすぎて整理のできていない作品だったけど、これもちゃんと読み返して手を入れてみたい。
私は作品を書く時に、まず場所をどこにするかを考える。
「絵葉書の場所」では喫茶店。「森蔭アパートメント」ではアパート。どちらも古くてぼろい。子供の頃、慣れ親しんだ風景の一部であるそういう場所に、私はいつも引き戻される。センチメンタリズムにひったっていては、何も生まれない。でも、自分の原点を無視しても、うそっぽいものしか生み出せないと思う。
今私が書くということは、その原点を抱えて生きている今の自分をみつめることでしかない。
大樹版では、題を「森陰アパートメント」から「森蔭アパートメント」に変えた。もともと初稿では森蔭だったのに、りゃんめんで改稿していくなかで、森陰に変わってしまっていて、私自身最後までまったく気がつかなかった。常々言葉にこだわっていると言っているくせに間抜けな私だ。
さて、大樹さんではどんなキャスティングで、どんな装置を考えてくるのだろう。それも楽しみだ。
(写真は前に森蔭のイメージの古いアパートを捜していてみつけたアパート。場所はたぶん京都の長岡天神。それと、京都大学近くの銀月アパートメントという有名なぼろアパートも森蔭のイメージでした。銀月アパートメントは、もう存在しないかも)。
書いた頃のもろもろを思い出した。私は一度書いてしまったらいろんなことを忘れてしまう。ビデオを撮っていてもあまり見ないし、読み返したり思い返すこともあまりない。でも、必要があって読み直すと、その時考えていた別の設定や言葉などを思い出す。で、今回は思い立ってヒロインの職業を変えてみた。なにやら新しくなって、楽しくなってきた。
「森蔭アパートメント」は、私の書いたもののなかでも、自分のなかの(懐かしい)を刺激する作品だ。
出来不出来は別にして、「絵葉書の場所」という初期の頃の作品も、私の(懐かしい)を刺激する断片がいっぱいの作品だった。作法が未熟であれやこれや詰め込みすぎて整理のできていない作品だったけど、これもちゃんと読み返して手を入れてみたい。
私は作品を書く時に、まず場所をどこにするかを考える。
「絵葉書の場所」では喫茶店。「森蔭アパートメント」ではアパート。どちらも古くてぼろい。子供の頃、慣れ親しんだ風景の一部であるそういう場所に、私はいつも引き戻される。センチメンタリズムにひったっていては、何も生まれない。でも、自分の原点を無視しても、うそっぽいものしか生み出せないと思う。
今私が書くということは、その原点を抱えて生きている今の自分をみつめることでしかない。
大樹版では、題を「森陰アパートメント」から「森蔭アパートメント」に変えた。もともと初稿では森蔭だったのに、りゃんめんで改稿していくなかで、森陰に変わってしまっていて、私自身最後までまったく気がつかなかった。常々言葉にこだわっていると言っているくせに間抜けな私だ。
さて、大樹さんではどんなキャスティングで、どんな装置を考えてくるのだろう。それも楽しみだ。
(写真は前に森蔭のイメージの古いアパートを捜していてみつけたアパート。場所はたぶん京都の長岡天神。それと、京都大学近くの銀月アパートメントという有名なぼろアパートも森蔭のイメージでした。銀月アパートメントは、もう存在しないかも)。