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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

お通夜のようなエッセー・・・と、なりました。

2012-10-20 | ブログ

仏・乳兄弟が去って、一日。
昨日まで異母兄弟だったんだけど、今日は乳兄弟になった。
なんとなく。理由は、特にない。
がっくり、がっかり、わたしは気を落としている。

でも、乳兄弟は、どっかに行っちゃって、お家には不在、お留守にしているものの、
ブログ村のランキングは上がっている。
人気記事にも、いくつかランキングされている。

でも、あの、人気記事の選び方は、いたって、不透明の限りであって、
ブログ村の村長さんが、何度も、アンケートかなんだか知らないが、実施されていても、
あの選択基準は、依然、不透明なまま、明らかにされていない。

自分の記事が人気記事ランキングに入っても、踊りたいところだが、踊れない。
だが、乳兄弟の記事が入ると、けっこう嬉しい。

ところで、乳兄弟クン、自分のブログは断筆しても、人のブログは、ご覧になっているのだろうか?
「はぁ~~っ」、と、わたしの深いため息が、聞こえるだろうか?
拗ねてちゃダメよ、出ておいで。
あ、そっか、仕事、忙しいんだったね。

わたしも、いつまでも、この世界にいない人を追いかけて、自分まで魂がなくなっても、よろしくない。
わたしはわたしで、毎日、ブログをアップするのが、ひとつの「黄色いハンカチ」なので。
しかし、乳兄弟の、あまりにも、速い、速攻技だったので、ちょっと、ショックで・・・
なかなか、遺作をじっくり読む気になれない。

・・・・・・・・・・・・・・・

ああ、そういえば、ダンス、頑張ってます。
素人の自己満足ですけどね。
ごく最近、新たな教え魔が登場して、その人の力量レベルがどれぐらいなのか、イマイチわからず、
引き続き、師事すべきか、否か、躊躇、検討中。

というか・・・・・・・・・
こんな、しょうもないこと、書いても仕方ないような気がしてきた。

エッセーというものは、こんなことを書くものなのか?
・・・違うと思う・・・

ぶーたれブログに、模様替えしようか。
・・・あ、今と同じか。

明日は、しゃきっと、まともなことを書くべく、頑張ります。
・・・と、とりあえず、自分を鼓舞しよう。
・・・と、書くとまた、大げさになる。

わたしは、もともと、大げさにモノゴトを騒ぎ立てる事を生業としていたので。
どおってことないことを、いかに、大それたことのように、人々の注意を引き、意識下に残させるか、
嘘八百を並べ立て、ほんの、0.01%の真実を混ぜることによって、あたかも、真実であるかのように見せ、
人々をだまくらかしていた前科を持つ。
前科モノといっても、法治国家に住み、べつに、法は決して犯していないので、ご安心を。
というか、しょーもない戯言を言って、誤解を受けてはつまらない。
自分の身の潔白を守らないと。

・・・などと、上述の説明こそ、大げさそのものだ。
でも、0.01%の真実を混ぜている。

あ、他のわたしの記事は、ちゃんと事実に基づいている。
ちょっと、表現が、クサイだけだ。

と、話が、どんどん別の方向に逸れている。
しゅ~んとして、心を痛めていたのではなかったのか?
エッセーとは、なんぞや?と、真摯に考えていたのでは、ないのか?

いま、わたしが、真摯に真面目に考えていることは、夕食のおかず、何にしようか、ということだ。
これは、エッセーのネタになるのか?

なるのか、ならないのか知らないが、とりあえず、
今日は、ここでオシマイである。

 

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彗星の如く現れ、、、、

2012-10-19 | ブログ

わたしは、ブログ村には、無料で(CM貼りまくりではあるが)、あれこれしてくれて、
参加させていただき、感謝はしている。
存在すら知らなかった、まだ見ぬ、わたしの異母兄弟を引き合わせてくれた、という、キッカケも作ってくれたことも、大きい。

大海原であるブログの海の、とっかかりの窓口としての役割は、無料なのに(・・・しつこいか・・・)、充分、評価すべきものがある。

ただ、ポイントやランキングに関しては、モノ申したい。
自分のブログへのポイントに関しては、どうでもいい。もう卒業した。
だが、他の人に関しての、ポイントが、非常に、わたしの意見、感想と一致しない。

まったく、どうでもいい、つまらない、ほんとうにほんとうにほんとうに、つまらないブログに、
ものすごい多くのポイントが集まっている。
営業活動の賜物、というケースもあるようだが、
本人は、そんなことをまったくしていないと思われるものに、どっと集まっているケースもある。
いったい、どこが、よくて、・・・まったくまったくまったく、理解に苦しむ。
かくいう、わたしも、怖いもの見たさに、ごく稀に、
パソコンを開けて、やることを全部やって、時間が余りに余ったときに、
オシャブリやガムの代わりの如く、口ではなく、指さびしくて、そのブログを訪れたりする。
で、・・・つまらん・・・やっぱり、このブロガーさんは、キライだ・・・と確信、再確認する。
なら、行かなきゃいいのに。
時間余り現象は、マイナスの効果を生み出すので、時間はあまり多く自由にならないほうがいい。

逆に、
ものすごく面白い、ありえないほどツボ、というブログのポイントは、低い。
こんな面白い、濃厚な、格調高い、知とエンタメとエスプリとユーモアがぎっしり詰まっているブログに、
なぜ、ポイントがあまり集まらない?
(訪問数は、多いのかも知れないが)

世の中の人の動向、好み、嗜好というものが、まったくわからない。
一(いち)マーケッターとしては、地の底に落ちた気分だ。
自分が、世の中とズレているのか。

玄人受け、玄人好みするものは、広く大衆、一般には受け入れられないのか?
(わあ、高飛車発言! 小市民のわたしが・・・!)

具体例を述べれば、仏・異母兄弟ブログ、彼のブログは、ツボ中のツボだった。
さあ、これから楽しみにしよう・・・と、思っていたノリノリ矢先、ブログ断筆宣言をされてしまった。
こんなショックなことはない。
(彼の思うツボに、はまった? 
キャンディーズは永遠に不滅です・・・あ、巨人軍だっけ?)

肉親にも死に別れ、この世で一人ぼっちだと思っていた、
戦火を逃げ回っていたところ、自分の知(血)を分けた分身がいることが、わかった。
しかも、わたしを長年、理屈ぬきに魅了し、呼び寄せ、ついに昨年、夢遊病者の如く、舞い降りた地に、
その人物は、生息していた。

(→話のノリでこうなってます。肉親、まだ生きてます。
いちいち説明するの、めんどー。でも、わたし、小市民だし)


断筆宣言の前の記事あたりに、その人のエピソードが書かれていた。
育成過程、学校や環境、周辺事情、じつによく似ている。
(わたしは、優秀ではなかったけれど)
道理で、思春期あたりに受けた心の傷(糧?)が似ていて、
(こころがピュアで柔軟な時期に、形成された「核」の部分が偏差値教育で歪められ)、
性格的に共通するものがあるはずだ。
(その人は、歪められていないかも知れないけれど)
説明をくどくど受けなくても、ほんの少しの端くれの言葉からでも、ピンとくることばかり。
同じニオイを感じたのも、そのせいだろう。

こんな面白いブログ、さぞやポイントは高いことだろうと思って、見てみると・・・
意外や意外・・・予想外だった。
なんで?

しかも、彼は、断筆宣言。
どうしてくれる?

関西のバルタン星人が、
「もっと仕事しろ」とテレパシーを送ったのか、送らなかったのかは、定かではないが。

わたしは、かなり、楽しみにしていたのに、ほんとうに、がっかりだ。
彼の遺した遺作を、これから、ちびりちびりと、舐めるように読むしかないではないか。
しょーもないテレパシーを誤信したと見受けられる、関西のバルタン星人を怨んで止まない。


それはそうと・・・
去年は、パリ在住の社長のブログを読んでいた。
けっこう、パリを中心にしたフランス生情報が満載で、まさにパリに行く直前のわたしには、とても役立った。
だが、前後の動きから気づいたが、ブログは、彼の仕事の一環だった。
彼は、れっきとした目的があったのだ。
それが、わかったのは、ファンになって、ずいぶん経ってから。
そうだろうなあ・・・
世の中、純粋に趣味だけで立ちゆくことって、ないもんなあ・・・
お金か・・・ビジネスか・・・企てか・・・

そう思うと、しょぼしょぼと、風船が萎び始めた。
ブログはあいかわらず面白いのだが、その奥に隠されているコトが見えてしまった。
と同時に、わたしも、パリに行ってみて、自分の力というものが、よくよくよく、わかって、
自分は、どうやって今まで生きてきて、どうやって、これから生きていけばいいのか、
ほんのちょっとだけ、見えるものがあった。

でも、行動は、パリ前も、パリ後も、まったく同じだったけれど。
毎年、パリ行きを恒例行事にしようかと思ったが・・・高齢行事ならイザ知らず、
しめりかけたマッチに火がつくには、それなりのパワーがいる。


わたしごときの蝶ブログ、お読みくださる殊勝な方もおられ、恐縮する次第でありまする。
生活感のない、うだうだでありまする。
地に足つかない、発想、感覚が基準になっているので、あまり、一般的な共鳴はされないと自覚している。

すぱっと、断筆宣言をされるお方、立派だ、かっこいい。
わたしも、断筆・・・といきたいところだが、どう頑張っても、期間限定のストライキ程度しかできないだろう。

わたしは、生きながらえて、生き恥をかくしかない。

 

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影響を受けてます

2012-10-18 | 日々のこと

生活者と、芸術家の違い。
これは、相反するものである。

芸術家は、生活者になれない。
その逆も然り。

でも、家庭を持っている芸術家もいる。
学校の美術や音楽の教師をやって生活費を稼いで、リタイア後に本格的に芸術活動に打ち込む人もいる。
(しかし、芸術力が炸裂しているのは、やはり現役の頃。
仕事もしないといけないから、負のエネルギーも溜まるが、それを芸術パワーに昇華する。
だが、たいがい、実生活と芸術の同時進行、そんな器用なことは、難しい)

芸術家は、生活者としての視点を持ってはいけない、かも知れない。
芸術の世界と、アブナイ世界は、紙一重だったりもする。

生活者の視点を持ちつつ、芸術を愛する。
これって、なんだか高尚な、教養高そうな、知的でカッコイイのかも知れないが、
自分は、芸術を鑑賞する側で、発する側では、決してない。
そういう人でも、うんと、お金がある場合は、パトロンにでもなって、美術家やら音楽家やらを育てるとよろしいかと。
ちょっとだけ、お金がある場合は、美術館やコンサートに出かけたり、
お気に入りの絵画やCDを買ったり、
芸術パワーが少しだけ自分から、あふれ出た場合は、
休日に、アトリエと称する物置小部屋(納戸)で素人絵画を描いたり、
なにやら楽器を奏でたり、シンセサイザーをいじくったり、
もそもそ、ごそごそ、小説めいたものを書いてみたり。

そうやって、生活に潤いを与える。
低い賃金、劣悪な労働条件、ひどい政府、ダメなお役人、・・・そういったことも気にならず、こころを豊かにする。
これは、非常に結構な、文部科学省も絶賛するであろう、模範国民的・効果をもたらす。
これこそ「小市民」と、ひそかに、いえ、普通に、わたしは、そう、こころのなかで呼んでいる。
わたしこそ、小市民のステレオタイプではないかと自負している。
そのうち、文部科学省から、「一般・典型小市民部門」 模範国民栄誉賞が与えられるのではないかと、
ひそかに、授与式に着ていく服を物色中である。(→うそ)

ちなみに、今のこのノリは、つい最近、知った、ある仏ブロガーさんの影響を受けている。
わたしは、すぐ影響を受ける。
文体は、少々違うかも知れないが、ノリが、周波数、振動数が、似ている。
細かいことは、さておき、
(わたしは、読書嫌いのため、音で言葉を覚えているので、時々、文字にすると間違っている)
滑るような、スイングするような、音感に似た文体というか、韻とはちょっと違うんだろうけれど、
(そのへん、文学部じゃないんで、専門的には、語学、わかりません)
ピアノを弾く感覚で、文字を打つ。

文字ひとつひとつに、責任を持つ、という、言葉を言霊として重く扱う、文章の師匠ブロガーさんもおられるが、
わたしは、彼女の、その真摯な姿勢も、とても尊敬している。
そして、文章における師匠として仰いでいるが、
哀しいかな、わたしは、語彙も読書量も知識も少なく、ちょっと、いえ、おおいに軽い。
なにごとも、感性に頼るところが大きい。

へぼ小説もトライ中であるが、小説になると、とたんに、指がフリーズしてしまう。

なんにしても、いずれにしても、・・・やはり、プロは素晴らしい。
心から尊敬してやまない。
その才能には、こころから拍手を送りたい。
プロと、多くのファン、あとは、斜めねじれの卑屈なコメンティター。
これらで、成り立っている?


どんな分野であれ、知識を得て、体感して、さらに深まる・・・
わたしの場合は、知能部門が、少し劣るので、知識やら見識やらが欠落しているにもかかわらず、
いきなり体験、直行便となって、体当たりする傾向にある。
そして、ああ、痛かった、ああ、良かった、ああ、酸っぱかった、ああ、寒かった・・・
そういえば、誰かが、なんか、そんなこと、言ってたぞ・・・どこかで、こんな本を読んだとか、言ってたなあ・・・
映画の中で、主人公が、かつて読んだ本のなかのヒロインの台詞で、こんなこと言ってたなあ・・・
こんな、画面、・・・登場人物のアタマのなかで回顧される映像が映し出されていたなあ・・・

また聞きの、また聞き知識が蘇る。

つまり、自分で、ちゃんと直接、知識を得ていない、読んでいない。
コピーのコピーのコピー。

絵画も、ニセモノを何百回と見ていて、ホンモノにお目にかかると、
・・・・???、似てるなあ・・・今まで見てきたニセモノと、、、そっくりだ、
と、なる。
自分の感性や、モノを見る目自体、とても疑わしく、ホンモノを見極める目など、とても持っていない。
ホンモノを見た瞬間、今までのニセモノを、どこにしまえばいいのか、どう隠せばいいのか、
どうやって消せばいいのか・・・?
そのニセモノを土台に、今までの人生を積み上げてきたのに、どうする?
たんに、上書きするだけで、コトは済むのか?

(昔の王族や貴族の子供だったら、ホンモノばかりに囲まれて育ってただろうけれど)

頼りとなるのは、たんに、好きか嫌いか、ぐらいか。
キャビアやフォアグラよりも、ラードが好きなら、それで、いいのか?(カロリー、高すぎ)
本場の本格シェフの腕を振るった逸品より、カルビーのポテトチップスが好きなら、それで、いいのか?

・・・・
ちょっと、あるブロガーさんの、影響を受けて、ただでさえ文字数が多いのに、
どんどん、文字数が増えてきてしまっている。

影響を受けるのはいいのだが、質は問わず、ただただ、多いだけになりつつあるので、
今日は、このへんにしておきます。

 

と、いきなり、
もう誰もここまで読んでくださっていないだろう、最後になってしまいましたが・・・



昨日、中之島ウォーター・フロントを歩いていたら、
ぴーひゃらぴーひゃら、ドンスカ、ブラスバンドの演奏が聞こえた。
(写真中央、白い仮設テント部分で、演奏)



この界隈、NHK朝ドラの「純と愛」で、おなじみ、毎日、お目にかかっている風景。



こういうイベントをやっていた。
ウオーター・フロントで、ちょっと涼しげな秋。

ただし、自宅から出るときは、タクシーがつかまらす、20分間歩いて、ずぶぬれ。
靴も、靴下も、シャツも、バッグも、びっちゃびちゃ。
哀しい情けない、冷たい雨でした。

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ばらばら雑感

2012-10-17 | 人生

わたしの長所でもあり、短所でもあるところは、人に合わせられるということだ。
影響を受けやすい。
まるで、鏡のように、相手をそのまま反映してしまう。

ダンスに関していえば、教え魔の格好の餌食となる。
相手の言うまま、意のままに操られ、フォローは出来ても、自立ができない。

勉学や仕事において、立派な尊敬できる師匠に出会っても、
哀しいかな、わたしは、頭脳明晰ではないので、相手をそのまま反映できず、
まったく吸収せずに、そのまま、まるごと跳ね返してしまう。
脳ミソが、カチカチ、錆び錆び、ガタガタで、拒絶反応を起こすのだろう。
互換ソフトがあれば、脳の内容を少しは交換できたかも知れないが。

いずれにしても、
けっこう柔軟なアタマは持っているものの、勉学の面では活かされなかったのが、残念なところだ。

付き合う人との影響はどうか?
これは、勉学とほぼ同じパターンで、自分と同じレベルの人としか、付き合えない。
なので、影響の幅が広がらない。

そもそも、自分に自信がない。
年齢、容姿、頭脳、性格、能力、キャリア・・・すべてにおいて、自信がない。
恋愛の場合は、ほんの一人でも、ライバルがいると、もう、とたんに、逃げて撤退する。
「張り合う」「しゃしゃり出る」という意識は、生まれる時に、母の胎内に置き忘れてきたようだ。

こんな人なら、絶対モテないから大丈夫、という、もっさりした不細工な人にしか、確信を持てない。
ステキな人がいると、憧れるだけであって、決して自分の立っているラインとは交差せず、荒波も立たず、安心できる。

でも・・・
ダンスの課題と同じで、自立を目指したい。(この年になって、お恥ずかしいけれど)
自分の持分、仕事をこなし、そして、個性も発揮できるダンス、
これは、優劣がつけられない。
個性の違うものは、争えない。
最近、どうにか、そういう方向へと脱皮できつつある。
これは、ダンスだけではなく、実生活や人生そのものにおいても。


それと、また、まるっきり関係ないが、
文体について。
若いとか、新鮮とか、古臭いとか、おじんっぽいとか、そういうのは、読み手側の受けるイメージを左右させる。
じゃあ、オカマの文体は?

わたしは、内容が第一と感じる。
が、世の中、見てくれが、大事。
パッケージやデザインで、モノが売れたり、売れなかったり。
人間も、売れたり、売れなかったり。
ダンスも、パーティで壁のシミになったり、引っ張りだこになったり。
理屈よりも、好き嫌いが、優先されたり。

なので、「中身が勝負じゃー、文句あるか?」と、あまり開き直るのもよくない。
年寄りなんだから、年寄り臭くしてどこが悪い?と。
無理しすぎて、ぎっくり腰になったり、限界を超えてまで頑張る必要はないけれど、
自分の理想、なりたい自分、なりたい年寄り、っていうものが、ある。
それには、やはり、少々の努力をしないと、自然にまかせっきりでは、なれない。


若い人には、勝てない。
若い情熱の時代が終わり、でもちょっと黄昏前の、微妙なお年頃。
夏ではなく、冬ではなく、夏の終わりなのか、秋、真っ只中なのか、冬、直前なのか、
そのあたりは、毎日の天候にも左右されるかも知れない。
どの世代もそうだが、同世代にしか、わからないと思う。

だよね! ですよね! みたいな、同級生同士の同意・共感のノリ・・・
この安易なノリが、わたしは、一番、年齢を感じるときかも知れない。

若さに刺激を受ける、触発されることもいいだろう。
逆に劣等感を感じて、それが不快で、同世代としか付き合わない人もいるだろう。
居心地がいい、安らぎを得るのは、素晴らしいことだ・・・が、発展はない。
発展は、棺桶にどんどん近づき、カウントダウンすること?


本日は、ばらばらブログになっている。(いつも、だが、今日は、とくに)

ある、仏在住のブロガーさんを新しく知った。
わたしと、とても似ていることに驚いた。
父が、外地に赴いた時(赴いた経歴はないが)、
現地の女性との間に出来た、まだ見ぬ兄弟だろうか、と思うぐらい。
とても似ていて、びっくり。
もし、わたしが、違う道を歩んでいたら、違う面が特化されたら、
こういう人生を送っていたかも知れない、という、そんな気がした。

ひょっとすると、そのブロガーさんは、普遍のことを、じつに、自然体で書いておられるので、
読んだ人は、皆、ああ、自分と同じだ、と感じるのかも知れないが。
(大昔、太宰治を読んだ時に、ああ、わたしと同じだ、と感じた、若き日のように)

月や太陽や、タワービルが、
どこからでも、自分だけに見えると思っていても、実際は誰の目にも見えるように。
(この例えは、ちょっと、しっくりしなかったけれど・・・)


人生は、面白い。
人の出会いも、面白い。

 

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アホでも、カシコでも、今日という日がある

2012-10-16 | ブログ

わたしは、誉め殺しには、弱いのか、強いのか?
弱いかも? いや、強いかも? いや・・・内容による。

ブログとは、不思議なものだ。

過去の、ほんの1年前の自分のブログを読むだけでも、ドキドキ。
めちゃくちゃ、アホっぽい。
どんなアホなことを書いているのかと、冷や汗が出る。(ほんとうに)
「おやじギャク」、とか、自分で書いて、自分だけでテンション上がって、はしゃいでいるものもあるが、
意味不明だったりして、もう、終わっている。
それ以上、とても読む勇気がない。

しかしながら、もっと前の記事では、カシコっぽい時もある。

どっちも、わたし、だ。

フランス、ほんの一年前のブログ記事のさわりを、ほんのひとつか、ふたつ、読んでみた。
やはり、冷や汗が出た。
恥ずかしい・・・。


でも、そんな日々のあとに、今日という日がある。

 

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おんなよ、邪心も、ほどほどに。

2012-10-15 | 趣味

なんだか、誉めていただくと、とたんに、キーを打つ手が震えてしまう、
小心者の、わたしだ。

わたしは、末っ子というせいもあって、どうも、重みに欠ける。
この年になっても、可愛がられたい甘えっ子気質がまだ抜けず、気持ち悪いばかりだ。ゾゾっ。

どしっとした重みや風格が欲しいところだが、程遠い・・・・・。

服装も、じつに、軽い。
自分の年齢に相応しいファッションではないので、
いつも、母から「あんたの服は、理解できない」と、センスを疑われる。
流行、プラス、自分流アレンジをしているだけなのに。
ちょっと、顔や年齢と合ってないだけなのに。
ちょっと、バーゲン、お買い得品、安物ばかりなだけなのに。
最近は、「それ、いいなあ。わたしにも買ってきて」と母に言われることもあるが、
母の年齢、体型には、絶対、無理。
母も、焼きが回ったのか。

その点、社交ダンスのパーティ・ドレスは、なんでもあり。
まるで、妖怪の棲家かと思われるほど、年齢を無視した、派手派手さ。
先日、店内からはみ出るほど、すごいドレスが並んでいるパーティ・ドレス ショップで、
これまた、すごい年齢のご婦人の方々が熱心に選んでいるところを
通りすがりの年配の男性がご覧になり、「この店は、いったい、なんの店や」と驚いておられた。

ドレスと着る人、年齢の、大いなるミスマッチ、
魔女の店、お化け屋敷、とでも思われたかも知れない。

パーティでは、正統派、高価で上品な美しいドレスを纏っておられる、お美しい方もおられるが、
そうでない方もおられる。

ショップで、お気に入りを見つけ、同じドレスを奪い合う場合も、相手の女性の顔を見ると、うんと年上。
「あら、それ、いいですわね」
「あなたも、よくお似合いですよ」

にっこり微笑みながら、内心は、

「あなた、こんな派手なドレス、着る気?」
「そういう、あなたこそ?」

ああ、おんなの戦いは、こわい。


かくいう、わたしも、先週末、これ以上目立つ赤はない、という、真っ赤なドレスを買った。
じつは、レッスン用のスカートを持って行くのを忘れ、レッスンホールで販売されているものを間に合わせで買った。
あんまり気に入ったものがなくて、その日のレッスンが受けられないし、どうしよう・・・と、ぐずぐず悩んでいたら、
あら?!と一瞬、真っ赤のドレスが目に入り、即座に飛びついた。
派手だなあ・・・とは思ったが、真っ赤は持っていなかったし、ほかにいいのがないし、レッスン時間は迫るし、
迷う余地はなかった。

案の定、「今日ここで、一番、目立ってるよ」と、男性クラスメートに言われーの、
いつも、わたしとドレス争奪戦を繰り広げている女性クラスメートは、目ざとく見つけ、
「あら? それ、どこにあった? わたしも、着させて。
ぜひ、また、譲ってね」
と、キラリと目を光らせ、迫られーの、
「わあ、今日は、違うイメージですね」と先生に言われーの、
「オシャレね」と、いつもオシャレな人に(嫌味で?)言われーの、
その後に行ったパーティで、また、辛口コーチに、コメントひとこと言われーの、
マッカッカ・ドレスの効果は、即効テキメン。

いつもいっしょにパーティに行く、クラスメート女史は、けっこう、立派な体格で、
「ねえ、これ、似合う? 太く見えない? お腹、ぼんっと出てない? 本当のこと、言って」
と、いろんなドレスを試着し、純真な目で、問いかけてこられるのだが、
わたしは、「うん、似合ってるよ。お腹は、そんなに目立たないと思うけど」
などと、つい、口から出てしまう。

しかしながら、彼女との、ドレスの奪い合い合戦は、熾烈を極める。
自分が欲しいものを相手に買わせず、自分が欲しくないものを相手に買わせる、
しかも、喜んで、楽しく、いきいきと、ケンカも諍いもなく、満足して。
その誘導のテクニック。それが、また至難の業。

自分の思いに、まっすぐ。
醜いのか、かわいいのか。

ああ、おんなは、こわい。

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ブログ、、、ああ、、、この違い・・・

2012-10-14 | ブログ

あるブログに、初めて訪れてみた。
一般人の日常には縁の無い特殊な記事タイトルに、惹かれて、行ってみた。

デザインが、まず、知的。
内容は、無駄のない、知性の塊り。
文章ひとつひとつ、一文字一文字、研ぎ澄まされ、落ち着いた感性、深い思考力。

ああ、わたしとは、まったく、雲泥の差。
同じ世代とは思えない。
なんでわたしは、こんなに、おっちょこちょいで、軽くてアホなんだろう・・・と、
真剣に思った。

まあ、キャラクターの違い、性質の違い、個性の違い・・・ということにしておこう。

コメント欄はないので、「はじめまして。感動しました、アホなわたしです」とも書けない。

いいなあ・・・かっこいいなあ・・・
わたしも、あんなふうに、書けたらいいなあ・・・

でも、残念ながら、わたしには、あの、「シャープなアタマのキレ」がない。アタマの容量が違う。
脳メカの動きが、鈍い。働きが、悪い。機能が、数段落ちる。(おそらく、実生活もそうだろう)
くだらない、どうでもいいことは、だらだら書けても、
びしっと、無駄なく端的に短い行数でおさめる、あの、賢さ、アタマのクールさ、整理整頓ぶりが、ない。
きっと、お家のなかも、びしっと、埃一つ無く、片付いていることだろう。
オフィスのデスクも、誰が見ても一目見てわかるよう、整えられているのだろう。

いいな、いいな、いいな・・・

無駄が服を着て歩いているような、わたし。
カラダのどこを切っても、生活のどこを切っても、人生のどこを切っても、
「無駄」という文字が、あふれ返って、はみ出ているにちがいない。

「無駄」で、できている(構成されている)、わたし。
インデックスを見ると、コンテンツは、プロローグからエピローグまで、すべて「無駄」一色。
これに、「失敗」も加わる。
どんでん返しのクライマックスは、「へらへら笑い」。


山中さんが、おっしゃってた。
9割の失敗で、できている、って。
失敗を恐れず、突き進もう。

失敗を積み重ねると、さすがに、学習能力が徐々に備わってきて、
同じ過ちを9回ぐらい繰り返した後、成功することだってあるんだから。

へらへら笑いが、年齢にふさわしい、堂々とした大輪の笑みとなるように、
ちょっとだけ、がんばろっと。

 

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2012-10-13 | 人生

今日も、独り言。

他人さまのブログを読むと、
婚活を続けている人もいるようだけど、50歳以上の女性ともなると、お相手探しは難航しそうだ。
どーだ、どーだと、期限を決めて詰め寄るのは、いかがなるものかと。
趣味やサークルで、気の合った人と結婚するのが、自然でいいかも。
というか、なぜ、結婚したいのか、既婚者としては、いまいち、よくわからない。
他人の芝生は青いのだろう。

男性は、女性に「年齢と容姿」を求め、女性は男性に「年収」を求めるらしい。
では、60歳以上の人なら、リタイア後は、年金と貯蓄額?
女性への希望年齢も、自分よりマイナス6歳からプラス2歳、という男性が具体例として出されていた。
仮に男性が、62歳だとすると、希望女性は、56歳~64歳というわけか・・・。

あまり、年齢が違いすぎると、いろんな面で、お互いに合わせるのが大変だろう。
いくら若い女性がいいといっても、若い女性を満足させる、あれこれ、年がいってから、頑張れるのか?
無理をするのも、しんどいと思うが、
それが、若さへの挑戦やら、若さの維持やらにつながると、感じている男性がいるのなら、それはそれで、けっこうだが。
無理してカラダを壊さないことを祈ります。

相手の女性が若くて、男性が、うんと年がいってから、子供が出来ると、学費やらなんやら、年金生活にはツラすぎる。
おじいちゃん年齢のパパは、ごくごく限られた、雲の上の大金持ちの人のことなのだろう。
はたまた、発展途上国の女性を相手に選ぶか。
円パワーで、女性を惹きつける。これって、なあ・・・。

女性がお金持ち、年収が高い場合は?
その場合は、自分よりぐっと若い男性を選ぶはず。
よりによって、自分が介護しないといけないような年上男性を選ぶとは、到底思えない。
痛いところに手が届くような、きめ細やかなイクメンを選ぶだろう。
(相手も、年収の高い女性を求めている、若い男性の場合、お互いのニーズが一致する)

お金VS年齢・容姿。
しかし、こればっかりでは、あまりにも哀しくて味気ない。


結婚なんぞ、しなくてもいいと、わたしは思う。
でも、相手が望むのなら、してあげてもいいけれど、
ただし、その場合は、自分の希望するライフスタイルを維持できるような結婚でなければイヤだ。
つまり、わがままなわけだ。
年がいっていて、美しくもないわたしに、世界中のどこの誰が、そんな好条件で結婚してくれようか?
ひとりも、いない。
これは、断言できる。
第一、わたしは、既婚者なので、いったん、離婚までして、
地球が滅亡してもありえないような、そんな、ややこしいことをするなんて、ありえないのでありまする。


結婚生活は、安定を手に入れる。
暴力やギャンブル、浮気三昧の相手との結婚は、意味が無いので、裁判でもすんなり離婚が認められる。
結婚制度は、社会の枠組みのなかで、一定の強度を保ち、幸せの土台となる。

フランスのように、事実上結婚しているのと同じだけれど、結婚しないカップルが、子供を産み育てる。
社会制度としても、認められている。
だが、わたしなら、おそらく、無理だろう。
子供が産まれ、共同で子育てしていけば、また別かもしれないが、
相手の気持ちをつなぎとめておくこと、そして、自分の気持ちが相手から離れないでいること、
絆というものが、はっきりとしたカタチや義務にでもならない限り、
男女間の愛情という無形のものは、あやふやで、頼りなくて、永遠に続く保証も無くて、決定的な拠り所が無い。
結婚式の誓い、「配偶者を一生、愛しますか?」は、虚しい約束事とわかっていながら、古今東西、
二人はあの瞬間は、永遠の愛を誓う。

だが、愛の嵐が吹き荒れ、芸術の源となる苦悩の若い時代が過ぎると、やがて、秋になり、黄昏を迎える。
長くいっしょにいると、親しみ、慣れ、愛着、憐憫、慈愛、互助、共同、同士意識、・・・などなどが育まれてくる。
これは、男女間の愛情とはまた別のものなのだが、共通のDNAを持った子供を生み育て、共同作業を行った男女が、
その後にいっしょに歩む、老化、終焉までの道のり。

たとえ、道の途中で、相手を失くしても、また、新たに歩む道を探し、構築していくころだろう。
それは、一人で歩むのかも知れないし、友人たちと、かも知れないし、趣味の仲間とかも知れない。
あるいは、霧の中を彷徨(さまよ)い続ける場合もあるだろう。
または、「ああ、一人って、なんて気楽なの!!」と、
ぱーっと目の前が開けて、急に明るくなるケースだって、考えられる。


うんと高齢になったとき、一人で自宅の自室で孤独死するのは、怖い。
首に緊急の場合の呼び出し装置をぶら下げて、毎夜、床につくことだろう。
あるいは、一日中、呼び出し装置を手でさわりながら、息も絶え絶え、過ごすことだろう。
でも、その頃は、女性の場合は、とっくに夫に先立たれているだろうから、既婚も独身も同じだ。
変わることといえば、子供がいるということぐらい。(それは、大きかったりするが)

でも、死ぬときは、一人だ。
病室であろうが、どこであろうが、大勢に見守られようが、一人で旅立つ。
旅立つまでが、たいへんなのだが。

・・・・・・

なにが、言いたいんだろう。
結婚していても、してなくても、大家族であろうが、友人が100人いようが、
人は、一人で生まれて、一人で死んでいくってことか。

人のこころは、動かそうとしても動かないんだし、わたしは、先にあきらめの気持ちが走る。
これは、失敗を今まで、ずいぶん重ねてきたことで、すっかり消極的になっているからだろう。
なので、人には、深く関わらない、入り込みすぎないように、自制装置が働く。
人に、ズカズカ入って来られるのもイヤだし、自分もしたくない。
あまり、波のない、アップダウンしないこころが、わたしには、気持ちいい。
失望しないかわりに、期待もしない。


毎日、つつがなく、楽しく、平穏無事に過ごせれば、それでいい。
ただし、幸せが続くための、ほんのちょっとした努力をし続けることが大事かも。
それと、感謝の気持ちを忘れずに。

なにを書いても、いつも、同じ結論に達してしまう。

 

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牛のように動かない、憎めない人

2012-10-12 | 無題

わたしは、まともな人であっても、「この人、アタマ、おかしいんじゃない?」
と思う瞬間が、度々あった。
それが、若い人であっても、知的な人、優秀な人であっても、肉親であっても。

アタマがおかしいと感じるのは、自分の理解を超える行動や、考えをしていると思ったとき。

本当にアタマがおかしい、老化による脳の病気である認知症の人にも接したが、
この方々は、邪心がなかった。

話を聞いても、
すんなり、「あ、そうですね」「へー。そうなんですか~」と、聞き流せた。

ありえないことを、まじめな顔でおっしゃる。
前から病状の情報を入手しているということもあって、別段、驚きもせず、すんなり受け入れられた。
だが、まだら惚けだったので、若干、ややこしい面もあったが、
惚けのなかに、ひょこっと出るマジな面がある。
その、まだらな部分に現れる、その人の本質を感じた。

母方の母は、にこにこした、童女のような認知症だった。
なにを言っても、うんうんと、笑顔で、うなずき、
認知症になる前の、その人の人柄と、あまり変わらないなあと、わたしは感じた。
生活面では、相当、大変であったが。
かつて、たった、一日、母は祖母を預かり、わたしも、お手伝いしたことがある。
お風呂に入れようとしたが、足の第一歩を出させるにも、すごく重くて、牛のように、一歩も動かなかった。
あのおばあさんをずっとずっと四六時中、自宅で世話する、お嫁さんの苦労は、並大抵のものではない。

当時は、介護保険もなかったし、認知症というコトバも、世に広く出てなかった。
恥ずかしいこととして、世間に隠すかのようにして、家の中に閉じ込めていた。
時代の雲泥の違いを感じる。

現在、ばりばり仕事をしていて、判断力や理解力が必要な、現役の人にさえ、
アタマおかしいんじゃないか、と感じることがある、この事実。

アタマがおかしい、ということは、どういう意味、側面を持つのだろう。
常識、非常識では、判断できない闇の部分になると、
自己チューや打算をうまく理屈で補って、さらにうまく立ち回り、荒波を立てずに、まわりの同意を得ているのだろうか。

アタマが壊れている人も、恐ろしいけれど、
アタマがいい人は、とても恐ろしい。

 

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時間か、お金か、銀シャリか。

2012-10-11 | 暮らし

最近のわたしの傾向。
それは、100%の満足を求めないこと。

ちょっと物足りなくても、まあいいか・・・と、すんなり引き下がること。

少しでも収穫があった、楽しかった、有意義だった、
良くなかったとしても、次に失敗しないために役立った、
そういう負け惜しみ思考→プラス志向に、転じかけている。

最後の最後の時間まで、ねばって、ねばって、頑張るより、
時間が余っても、ささっと、引き上げる。
(これは、ダンス・パーティの場合。
蝶ブログ・アップのケースは、まだ、しつこく、土壇場の時間まで、しがみつく傾向あり。往生際が悪い)

パーティを引き上げたあとは、おひとり様、反省会をする。
ウオーター・フロント沿いのセルフのカフェで、
パーティ直前に受けた個人レッスンで、先生が書いてくれた、カウントの取り方&ステップのメモを取り出し、
ふむふむと、アタマの中で、右足、左足、とシュミレーションしてみたり、
さらに、自分流の注意書きを追加して書き込む。
すると、あっという間に、30分が過ぎていたりして、時間の経つことの速さに、びっくりしたりする。

仲間と、わいわい、汗を流したあとのビールは最高なのだが、
悲しいかな、仲間がいない。
なので、ひとり酒・・・ではなく、ひとりアイス・カフェオーレ。
ひとり、とぼとぼ帰るのは、ちょっと寂しいものがあるなあ・・・と、
後ろ髪を引かれる思いで、足をゆるめ、ゆるゆる、のろのろ帰っていたが、
慣れると、こままた、けっこう、はんなり、まったりした時間が過ごせる。
自分の時間に没頭できる。

窓側に向かって座っているので、後ろからみると、
川べりで虫にさされたらしい足をぼりぼり掻いたり、行儀悪い姿勢で、メモをにらみつけたり、
あまり爽やかではない後姿だろう。
背後の視線は最初だけ気になるが、一旦、自分の世界に入ると、まったくといっていいほど、気にならない。

その原因のひとつとして、わたしは、あの場所が好きである。
静かでシャープ、洗練されたビジネス街は、昔から好きだ。
いくつか住所が変わった事務所も、みな、ずっと、あの界隈から至近の場所。
ど根性なにわ商人っぽいイメージは、あまりない。

場所を書くと、店内で、わたしらしき人物が、ぼーーっとしているところを発見されると困るので、
書かないでおこう。


小説も動き始め、アタマの中は、ごちゃごちゃになっている。
(ただでさえ、ごちゃごちゃなのに・・・)


今朝、秋の収穫、新米を炊いて、炊き立て、ほかほかを食べると、その美味しさに、
「百姓には、銀シャリは口にできない。いつも食べられるのは殿様ぐらいだ。
飢饉の年は、年貢をへらし、民が飢えないよう、お上は、政治に力を入れるべき」
などと、勝手に口からでまかせのように、代休で休んでいる下娘を前に、ぺらぺら口をついて出てくる。

下娘は、まったくわたしの話など、またか、という顔で(多分)、セシールのカタログを見ている。
会社も、残業手当を支給するかわりに、休みを与える。
なので、去年より、休みは増えたが、年収は減った、と娘は言う。
他の業界の会社勤めの人も、同じことを言っていた。
お金のかわりに、休みが与えられると、時間をいかに上手に使うか、その人の腕にかかってくる。

オーバーワークした分、ご褒美で時間がもらえるかわりに、ご褒美のお金が、カットされるのは、ツライ。
お金か、時間か?
二者択一は、キビシイ。
両方あってこそ。
でも、どちらか一方でもあれば、よしとしよう。
プラス志向で、いきましょう。

民は、銀シャリを食べられる喜びを十二分に満喫したい。


※(というか、身近なところでは、
予定時間内に、ブログ更新ができた喜びを十三分に満喫したい)

 

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