蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

大変な事態になっているのに、、、

2020-02-29 | 趣味
世界中で大変な事態になっている。
超大変な事態を回避するための措置だから、まあ最悪ではない。
イベント、集会、学校、中止や休み。
子供たち、家に閉じ込められて、平気か。
案外、自宅でネット遊びや映画などを見て、退屈ではないかも知れないけれど、勉強、出来る?
まるまる勉強は2週間、お留守になるかも知れないけれど、まあ致し方ないか。
全国一斉になら、不公平感もなさそうだ。
私立学校や、県の対応によって、多少違ってきそうだが。

ちなみに、、、
わたしは、趣味会場難民になっている。
公営の市民スポーツセンターや、市民センターは、軒並み、開催中止されている。
そりゃあそうだ。
締め切った会場で、腕より近く接近する、濃厚接触。
なぜ、いち早く中止にならなかったのか、不思議だった。
だが、開催されている会場を目指して、趣味難民が押し寄せる。
わっしょいわっしょい、おしくらまんじゅう。
皆さん、高齢者が多いのに、なんであんなに元気なんだろう?
世界の七不思議。(昭和の表現です、はい、それが何か?)

開催されているのは、ちょっと僻地にある会場なのだが、市内では他には開催されている会場がないため、市外へと愛好者が押し寄せてくるかと思いきや、それほどでもなかった。
やっぱり、そこまで偏狂的な酔狂者は、人数が限られているようだ。
わたしも、そのうちの一人ーだが。

しかも、明日も行く。
ほとんど病気だ。
まあ、この歳になって、それほど好きなことがあるのは、幸せだ。
2週間以内に、体調が変化しないことを祈る。
皆さんがそう祈るのと同じように。

明後日から、小学校は休校。
小学一年の孫、一人では留守番出来ないが、さて、さて、、、


全力で何もしない

2020-02-27 | 日々のこと
いくつかのブログを読むうちに、どんどん自分の書く意欲が低下する。
なぜなんだろう?

今朝、(とっくに成人した、いい年の)わたしの子供たちとラインで、コロナウイルス情報をやり取りした。
ガセネタや、しっかりした内部情報筋からの情報やらを知った。
が、わたしはその時間には、まだ布団の中にいたせいもあるが、情報の全てをすらすら理解出来なかった。
長文、何ページにも及ぶ、関係者から取材した記事などは、長すぎてうんざり。
本来ならスラスラ頭に入ってこなければいけない内容なのに、わたしのアタマは弱っている。読解力不足。
解らない専門用語もちゃんと解説してあるのに、解説自体を理解するのに、ふーふー息切れ感。
もう一度、時間がある時に再読すればいいや、なんて、ざっと読み、斜め読みとなる。
結局、理解していない。

自分にとってどうなのか、ということだけしか解ろうとしない。
途中経過、プロセスは、端折って(読み→はしょって)、で、どうなの?と結論だけをピックアップ、脳に入れる。
究極のショートカット。
だから、わたしの説明や話は、人様には理解していただけない。
自分で、消化してしまっているから。

しかも、蛇が獲物を生きたまま丸呑みし、体内で溶けて、何を食べたのか、判別できないような状態で、客観的記録も残っていないため、本人すらよくわかっていない。

拒絶反応が起きるものなら、吐き出すか、下すだろうが、そうでないものは、身になってしまっている。
良いものも、悪いものも。
考え方や価値観なら、概念的で、はっきりとした数値で現れないし、線引きもなく明確ではないから、まあよいが、、、
今回のような保健衛生やら医療やら、政府対策やらのものは、はっきりしている。
わざと、はっきりしているものをうやむやにして国民や国際社会を欺く場合もあるが。

まあ、それはそれとして、このブログをアップしてから、他のところ(SNS)にフラフラ遊びに行って、その後、真面目にもう一度、朝あまりちゃんと理解できていなかった記事を読もうと思う。
とかなんとか、次々、別の面白そうなことに目が移り、結局、読まなかったり、読んでも上っ面だけで気合いが入らず理解してなかったり、、、なんてことも大いにあり得る。


ちなみに、、、
ある人が、わたしのキャッチコピーを考えてくれた。
わたしは、「全力で何もしない」んだそうだ。
キャッチコピー、最初は「何もしないことを全力でする」にしようか迷ったらしいが、全力で「する」ほうにウエイトがかかるイメージなので、それはちょっと違うかなあと、再考したとか。
全力で何かをするのではなく、とことん何も「しない」ことを強調したかったらしい。

この力作キャッチコピーを聞いた時、わたしは大声で笑った。
なかなか笑いが止まらなかった。
大ウケした。

ピッタリ!
よく見抜いたね!

脱帽した。
全力で考えてくれて、ありがとう。



涙が溢れる幸せ

2020-02-26 | 日々のこと
今日、書店で立ち読みしながら、涙がポロポロこぼれて、文字が霞んだ。
悩んでいる人に向けての優しい指南書だった。
主に禅の考え方や教えを軸にした導き。

そうか、そうなんだ。
いつもわたしが実践していることと同じ。
なのだが、悩みの渦中にあると、自分を見失う。
書かれている言葉、一つ一つが新鮮なような気がした。
実際はもう何万回も読み聞きしているようなことなのに。

でも、涙が溢れ、感動している自分に感動した。
枯れてないんだ、わたし。
こころは、まだ生き生き、動いている。
目薬がなくても、自然の目薬でドライアイを回避できている。

泣いたり笑ったり、毎日そういうことができる、生きている実感、幸せを噛み締めた。

悶々と悩む

2020-02-25 | 日々のこと
悩む悩む悩む。
大いに悩んでいる。
知人Aさんに相談した。
(家族や友達、仲間に、胸の内は話さないと、ブログで書いたばかり、、、その舌の根も乾かぬうちに、、、ではあるが)

知人は趣味仲間でもあり、悩みの具体的なところは、はしょってなので、たんなるつぶやきみたいなものか。
そんなのに、付き合わされる趣味仲間も気の毒だ。
で、アドバイスを受けた。
たぶん、わたしはその通りにしない。

なら、相談するな!って話だ。
自分の答えをあらかじめ持っているのなら、ただの愚痴ではないか。
自分に自分が怒った。
ごめん。Aさん。

貴重な時間を無駄にさせました。
自分で決めているくせに、人に相談する人は、最高に鬱陶しい。
それを自分がやっている。

人に話すことで、より自分の考えや決意を明確にするのか。
わたしが出した結論は、「結論先送り」。
ただの優柔不断。

でも、こころ優しい知人はこう言った。
「それも、良い結論です」と。
自分で、決めるしかないのだが、決めないという、選択肢もあるわけで。
では、誰が決めるのか。
神さまじゃないかと。
ふざけるな!とまたまた叱られれそうだ、、、が、、、
自分で決める結果ばかりが正解とは限らない。
どちらが後悔を生むか、なんだろう。
人生のなかで、後悔を生む選択をする経験をしても、いいんじゃないか、とジャニーズ事務所を辞めた中居君が記者会見で言っていた。
うん。その通り。
いずれにしても、自己責任。

気分はその間も、真っ黒。
どんより落ち込んでいる。
はやく、楽になりたい。
が、性急に結論を出すのが躊躇われる。
悶々としている。
出口を探す今はパワーがないので、悶々に身を任せている。
やがて、黒いものは濁流になり、流れが出来るか、あるいは、固まったままビクともしないのか、、、
とりあえず、今は悶々時期である。

打ち明け話

2020-02-24 | ブログ
わたしの、こころの友は、ブログである。
配偶者でも、親でも、子供でも、親友でも、仲間でもない。
誰一人として、本当の胸の内の深い部分を打ち明けたことがないように思う。
打ち明けたところで、わたしはスッキリするどころか、居心地が悪い。
こころの秘密を知られたくないのに、わざわざ自分から漏らすなど、とんでもない。

で、ブログに書く。
だが、最近は、ブログにさえ書けなくなっている。
仕方ないので、別SNSと、この蝶ブログの2つを、話したいことによってバランスを取るため、使い分けている。
なにしろ蝶ブログは、至近距離の親近者が複数、このブログの存在を知っているので、ヘタなことは書けない。
というか、これだけ好きなことを平気でシャーシャーと書いているのは、わたしの親近者はわたしに関心がないだろうとタカをくくっている。
それに、わたしの関係者一同は「一日中、何もすることのない人々」の真逆の人間ばかりなので、人のブログなど、チマチマ読まないだろう。
たまたま、偶然、読んだとしても、その時の記事内容は一期一会の自分なので、絶対的なものでも未来永劫に続くものでも普遍のものでもない。
一時の感情に振り回されて書いているに過ぎない。
それと、あとは、暇つぶし。
わたし、暇してまんねん。

ブログはわたしの要求そのままを呑んで遊んでくれる。
ブログフォーマットそのものには意思がないようにも思う、一方通行ツールで、わたしの入力したままに、文字が現れるだけなのだが、わたしを救ってくれる絶大な神みたいなものだ。

ブログは、わたしを裏切らない。
なぜなら、わたしが入力しているから。
変換ミスとかがあっても、ブログが悪いわけではなく、わたしが悪い。
途中で消えても、わたしの手元作業ミス。
へんな写真がアップされたとしても、自分で撮ったものを、自分でアップしている。
忠実な部下、イエスマンである。

ここ、もう少しこうしたほうがいいですよ、なんてアドバイスは一切なしなので、暴走することもある。
だが、わたしは穏やかな人柄なので、あんまり人を攻撃したりすることは好まない。
恥をかくことは大いにある。
時には自己防衛のために、別の顔が出ることもあるが、自分が生きるため。
必要悪だと思っている。

内向的で大人しく非社交家のわたしにはぴったりの自己満足時間である。
おまけに、リア充で安泰なので、陰険なことをしたい欲求が生まれない。

こころの友は、自分だということ。
究極の自己愛、自己チューなんだろう、、、。
特定の人に話すと、聞いた人は、一人では支えきれないだろうが、不特定多数に向けて自己愛を投げると、不特定多数なだけに、お気楽なんじゃないかと思う。
が、ゴミを街にポイポイ捨てるように、コンビニや駅のゴミ箱に家庭ゴミを出すように、ムズムズするからといって、なんでも出せばいいというものではない。
アウトプットの仕方を考えなければいけない。
だが、明らかに読む側のことは考えていない、自己チュー。
ではあるが、自分をとりあえず救って、それから、笑顔で外の皆んなと接する。
まず、家の中で一人で思いっきり泣いて、スッキリ落ちついたら、笑顔でニッコリ。
書きながら泣く、というのもあり。

順番がある。


鈍感なのに敏感な自分に、うんざり

2020-02-22 | ささいな事
今日は、移動時間が長いから、買ったばかりのタブレット用充電器を携帯している。
エッセイブログを3つ読んだところ。
電車内の皆様は、マスクマンが多いので、我が身を振り返り、ちょっと気まずい。
家を出る時にマスクを忘れないように、とアタマをかすめていたのに、しっかり忘れている。
念じ方が足りなかったようだ。
マスクを携帯していて、マスクをする、しない、の選択肢があればいいが、マスクをしてない、できないのはなんだか肩身が狭い。

隣に座った母子は、母がヘビーに話しかけている。
あの年齢では話しても、一方通行だと思うが、ベビーは自分は話さなくても先に耳から言葉を覚えるらしい。

ただ、延々と話しているママは、なんか独り言、つぶやきみたいで、ちょっとなあ、、、
なぜなら、ベビーに言いたいことを伝えるのではなく、自分が思ったことや感じたこと、アタマに浮かぶことをペラペラ話している。
一人なら、アブナイ人だが、たまたまベビーを連れているから、どうにか独り言の変な人オーラは、感じさせないけれど、、、
やっぱり変な人のように思えてしまう。
わたしも、あんな感じかも知れない。

そのママ、心の声をいちいち発声するものだから、ついつい、「ちゃうちゃう(大阪弁)」とツッコミを入れたくなってしまう。
まだ新米ママのようで、ベビーの行動に対するリアクションや、話していることが、「そうじゃないと思うけど、、、」と違和感たっぷり。

わたしも、席、真隣でスマホ入力に余念がない、可愛げのないオバさん。
孫がいるお年頃なら、ベビーをあやしたりするものなんだけど、知らん顔。
わたしは独り言タイプの人は、めんどくさいので近寄らないことにしている。
なのでベビーにも近寄らない。

いちいち、わたしのツッコミ本能が、ぴこぴこ出て出て、引っ込ませるのに疲れる。
神経に刺さるので。

お互い、大阪駅で降りて元々そうだったように、アカの他人になった。
ママは、ベビーに「(電車内)お利口だったね」と褒めていた。
ベビーを飽きさせないよう、グズらせないよう、矢継ぎ早に話していたのかも知れないママではあるが、余計な心の声が多すぎて、わたしには、たいへん煩いノイズになった。

周りの雑踏的会話など、気にならない人は全く気にならないようだ。
が、わたしは喫茶店や電車内などでの他人の会話は、200パーセント、クリアに聞こえる。
しかも、いちいち脳内反応が起きる。
なぜか高度センサーがフルモードで機能して、わたしの感性が反応しすぎて、無駄に疲れる。

わたしは全般的に鈍感なくせに、変に過敏な部分を持ち合わせている。
わたしこそが、変な人なんだろう。

ぼーっとして今日は、マスクを忘れた。
だが、わたしにとって、もっと必要なのは、アイマスクと耳栓かも知れない。

失敗作

2020-02-20 | 無題
最近、熱烈ファンになったエッセイ・ドイツブログ。
なぜ、あんなにも写真が美しいのか、わかった。
色に対するこだわり、だ。
色彩感覚が、鋭い。
感性もいろいろあり、音!という人もる。ミュージック。
嗅覚や舌の感覚がスゴイ人もいるが、あの方は、色!
同じ視覚から受ける印象でも、カタチからインスピレーションを受けることもあるだろう。
が、色!

人の第一印象が色で伝わる、入る、という彼女の記事を読み、道理で、、、納得した。

写真。
単に、良いと感じシャッターを押したというものだけでない、被写体を捉える目には、想いがあり、いくつもの要素が重なっている。


例えば、英語が堪能だとする。
究極は同時通訳だとか、翻訳家だとかなのか。
自分が英語を使って何を話すか?ではない。
英語そのものに徹する場合と、
英語は手段、ツールである場合がある。
材料を揃える人と、料理する人に分かれる。

英語の中でも得意分野があるとする。
政治経済、科学、医学、薬学、映画(→これだけいきなり感)、、、その分野の第一人者は引っ張りだこ。
だが、第一人者ではなく、さらっと英語ができる、他もできる、何でも屋さんは、人数も多いが、質は落ちる。
なんでもできて、質も一流の人もいる。

英語が母国語なら英語が出来て当たり前。
ただし、思考力は英語力とは、別ものだが。
ちなみに、、、
母国語が英語の、生まれも育ちも英語圏、親も西洋人という人が、高度な専門的日本語をやり取りペラペラ話しているのをライブで見ると、英語が出来る日本人てなに?となる。
もし英語が出来ると自負している人がいるとすると、相当なレベルでないと恥ずかしい。
香港やシンガポールなら皆さん英語はペラペラ。
日本は島国なので、最近でこそ外国人の訪日人数が増えたものの、英語に接する機会は日常にはあまりない。

就職する場合は少しはメリットになる。
が、ドングリの背比べではあまり意味がない。
コミュニケーション能力や、折衝能力として語学能力が一部入っている分には、生かされてるだろう。

(しかし、わたしは、一人で外国で生活出来るだけでも十二分に素晴らしい語学能力だと思う。)


長々書いて、、、何が言いたいか?
得意分野や優れている分野があるとすると、その中でどう特化するか。
たとえば、語学を例に出すと、ひたすら一つのことに特化すると、翻訳家や語学の先生になる。
これに付加価値をつけるとする。
お笑いも出来る語学堪能ビジネスマン、ついでにアスリート、とか。
あまり広げ過ぎると、主力の「売り」が霞む恐れがある。

医学部と法学部を卒業する、ある一人のイケメン学生がメディアで紹介されていたが、医師、弁護士、両方の国家資格を取得してスゴイと思ったが、2つの学部を足すと、法医学になる?
それって、案外、ワクワク感が減少したりする。
スゴイもの同士を普通に混ぜると、ものスゴイかというと、期待するほどでもないような気がする。

一つの特技に、さらに特化した特徴を加える、そしてまた別の味を足していく、、、どんどん個性が強く深くなっていく。
専門性か、総合バランス味わい性か。
一つのことだけを追求していくのも素晴らしいが、自分の色を付けていくのが、わたしの理想だ。
あれもこれもバラバラに浅く広くではなく、コンセプトを決めて追求すると、統一感、調和が生まれ、感性や個性が花開く。
コンセプトは、自分が好きなもの、自分が良いと思うもの、興味があるもの、そういう自分の感性で自然に集まったものなら、無理矢理、頑張り感はない。
だが、理数系分野では、感性は、1番最後の段階。
基本を一つでも外すと次に進めないか、どこかで行き詰まると思う。

今日の記事、書きながら、自分のボキャブラリーの貧困さが、ひしひし感じられ、あまり楽しくなかった。
やはり、こういうことは得意な人にお任しよう。
時間の無駄使いとなったが、それで得たものは?
人にはわかってもらえなくても、自分は何かしら言いたいモヤモヤを仕分け、整理できたように思う。
だが、仕分けプロセスも、導き結論も、全然すっきりしないものとなり、どよ〜んとしている。
語彙不足と、突き詰める思考力不足、出して並べた仮説みたいなもの(材料、素材)をまとめて組み立てる能力不足。
お料理失敗、建築失敗。

また次の機会に出直そう。

昔話。先生嫌いの小学生

2020-02-18 | 思い出
小学校の話、続きが書きたくなった。
クラスの学級委員は、いつも勉強のできるお利口さんが選ばれていた。
真面目な性格。
小学生でも既に性格のベースはできているようだ。

一学期、二学期、三学期と、順々に人物は少しずつレベルダウン。
一学期に選ばれる子、二学期に選ばれる子、三学期に選ばれる子は、だいたい顔ぶれが決まってくる。
男女1名ずつなのだが、いつも休み時間などは先生の周りを囲んでいる子たちが多かった。

わたしは、先生が大の苦手なので、休み時間という黄金のリラックスタイムに、よくまあ先生に近づくなあと、その行動が理解出来なかった。
先生も、生徒も、相思相愛なのだろう、きっと。

成績が良くて真面目。この二本柱。
成績が良くて不真面目な子はいなかった。
成績が悪くて真面目な子はいた。(哀しいかな、わたし)

一学期の学級委員はだいたいT大コース、二学期も似たような医歯薬コース、三学期は国立大コース、みたいなかんじかと。
まるで、塾みたいな割り振り。

まあ、わたしが近寄らないわけが、おわかりかと思う。
勉強が出来ないと、先生にいつも非難されているような気になり、目が合わせられなくて、説教されそうで、先生との間に、バリアを張っている。
学校に教育実習生はしょっちゅう来ていて、生徒は実習生に慣れているが、実習生は一度きりの学生期間研修なので不慣れ。
わたしは、研修実習生にも、バリアを張っていた。
すると、ある実習生である先生の卵に、「なぜ、僕から逃げるの?」と聞かれた。
わたしは、答えなかった。
嫌いだから、なんて言えないし。

小学校前半は素直な普通の子。
後半は可愛げのない小学生ではあったが、わたしは今と身長もあまり変わらず、おませではあった。
高学年にもなると、大人の男性が、まさに子供から女性へと変化していく過程の女子に、好奇心あふれる目で見てきた。
時たま大人に声をかけられたりしたが、それも、なんとも言えなかった。

まあ、それはそれとして、、、

小学校最後の最後に委員をやらされた時は、嫌だった。
不適任、極まりない。
クラスの子たちは皆んな優等生に飽きたのか、気まぐれか、最後ぐらいは規格に収まった成績重視主義から解放されようと思ったのか?
しかも、二位の子と僅差。
選ばれたとは言えない、投票状態だった。
その流れは中学に進んでも引きずっていた。

ブログランキング

2020-02-17 | ブログ
ブログ村ランキング。
注目記事ランキングほど、選考基準が曖昧なものはない。
前々から、もう何年も前からわたしはそう思っている。
根拠がない。
まあいいんじゃないですかー、、、で、放置している。

なのでムキにならない。
しかも、、、必死で丁寧に、緻密に細かく掘り下げ深く書き込み、写真も力を入れたお気に入りのものにした記事も、手抜き3分で単なる鼻歌みたいなものも、同じようなランキング。

自分比ならまだしも、他人比の場合は、さらに解せない。
素晴らしい記事がランクインされるのは、大変納得し、楽しみに、念入りに、丁寧に読んでいる。
その一方で、どう考えてもこれはあかんやろー、みたいな記事も似たようなポジションでランキングされている。
ランキングに感性を入れるとすると、いったい、誰がどのように?

わたしは、AIが選んだものに、生身の人間がほんの少しだけ自分の意見を加えているのかなあと、希望的憶測をしている。
人間の手が加えられていない可能性も大である。
血が通った人間の裁量が加えられているとしても、その人間は誰?
継続的に同じ人?
外部委託?

そう考えると、答えは、ユーザーからはお金を取らず無料で運営している、ブログ村に聞くしかない。
けれど、返答がもしあったとしても、その答えそのものをわたしは、信じない。

つまり、あまり正確な明確な根拠はないということ。
ではあるが、飛び抜けておかしなものもランクインされていない。
ブログ村の信用を揺るがすのは避けたいところだろうし。

兎にも角にも、わたしは、皆さんのブログを読むのに、毎日ランキングを楽しく利用させていただいている。

今更ながらだが、、、そう思うと、
話はそれるが、記事タイトルって重要だ。


話はころりと変わる。
別に記事を立ててもよいが、1日多くても1記事アップと、マイルール。
多数になると、冷蔵庫や冷凍庫に保存するように、書き溜めると良いだろう。
でも、わたしは書いた時のその気分を自分で大切にするため、ほとんど書き溜めストックはしない。
何の影響も効果もないと思われる、わたしのこだわりである。

と、こんなことが書きたかったわけではない。

今朝のお気に入りブログ新記事を読み、あ、わたしの小学校の時と同じだ!と、驚いた。
わたしの小学校も、テスト点数結果
順に、教室内で列を作り並ばされた。
席に固定とまではいかない。
教科ごと、テスト毎に並ばされた。
クラスは2組あり、上と下に分かれていたようにも思う。
塾と同じ方針か。
塾に行っている精鋭最先端の子に合わせて授業やテストが行われていたから、塾にも行っていない、もともと勉強が不得意の子供にとっては地獄だろう。
まだ、小学校高学年。
義務教育、真っ只中。
当時、嫌な思いをした子たちは、一切、同窓会には顔を見せない。

わたしは、前回までは同窓会は皆勤賞。
言っておくが、わたしは列最後に並んだビリ。
わりと丈夫な、逞しい精神を持っていたのだろう。
図太い。
無神経ともいう。
ガラスのように壊れやすい繊細なこころを持っていない。
というか、鈍い?

わたし、こんなこと、されてる〜、並ばさてる〜、あり得る?  最後や〜、ビリや〜、と、深刻すぎて、悲惨すぎて、笑えた。
が、まあ、そんなこんなの微妙なお年頃を過ごしてきた。

義務教育スパルタクラスは生徒人数は少ないにもかかわらず、全国でもトップクラスの難関中学校に何人も合格したから、塾よりスゴい成果なのでは?
そんな賢い子たちと日常を共にしているが(今も)、わたしは賢い子は好きである。
自分はともかく、さておき、超人的に優れている人は、突き抜けていて気持ちいい。
必死で机にしがみついているガリ勉タイプは余裕もないし、伸び代も少ない。
第一、下を見て崖っぷちで怯えるならいざ知らず、下にいる人をバカにするような気質は気に入らない。
それとはまた別枠の、全然、勉強脳ではない脳は、勉強脳と比較は出来ない。
ある意味、不戦勝。どっちが勝つとか、なし。(ほんとは、あるんだけど)

小学校当時、わたしの母親は、個人面談で担任の先生に、わたしをもっと勉強させろ、家庭でもバックアップしてほしい、とハッパをかけられたようだが、母は、瞬間的に降りていた。
白黒はっきり、つけすぎの母。
嫌なんだろう、そんなめんどくさいこと。
個人面談にはもう行きたくない、なんて、母は小学生みたいなことを言っていた。

わたしは勉学コンプレックスはあるが、さほど傷ついていないのは、わたしは、大人を信じていなかったから。
担任の先生も親も信じていなかった。
わたしのことなど、わかっていない、と感じていた。
理解者がいないにもかかわらず、辛い出口のない毎日なら、ひねくれて非行の道に走っても良いのだが、非行の道は全く魅力がなかった。
なぜなら、不良に素敵だと思える人は全然いないで、嫌だと思える人が多かった。
というより、わたしの肌に合わない、生理的に合わなかった。
なので非行の道にも進めず、地獄のスパルタ教育学校に、ビシバシ竹刀で叩かれ打たれ(比喩表現です)居続けたら、なぜか、小学校卒業式には、隣のクラスの(後にT大進学)秀才と共に答辞をよむハメになった。
それというのも、小学校生活、最後の最後に、最少得票数で学級副委員長に選ばれてしまったからだ。
クラスの皆んな、これで最後、この小学校ともオサラバだからって、わたしに投票するなんて、茶目っ気ありすぎる。

そして、やがて中学生になっていた。
が、その中学校は更なる秀才が集まっていた。



弟よ

2020-02-15 | ブログ
今日も書きます。
先に皆さんのブログを読まないで。
読むと、書く時間がなくなるんです。

て、時間は山のように、たっぷりあるのに。
勝手なものだ。

読んだブログは、一つだけ。

しかしまあ。
ブログ村エッセイ、新星大学生のボクちゃんの、お姉さん、やるやん!
弟に、亀のチョコ。
わたしは、こういう、きょうだいが、大好き。
というか、ちょっと変?
変さかげんが、すごく好き。
これからも、その変ぶりをうまく育ててください、と、心から応援してます。

今から、他のブログ、読みます。