蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

毎日サンデー

2015-02-28 | 日々のこと

昨日、図書館に行った。
平日の午後。

ご近所友人とウォーキングしていたら、雨がぽつりぽつり、
急遽、途中で図書館へとコースを変更した。
(平日、わたしは自宅にいることは、ほとんどないので、そうとう、貴重な一日であるため、
一日の過ごし方として、ご近所友人をウォーキングに誘うかどうか、悩んだ)

けっこう、静かではあるが、固定客のような人々の姿。
私がソファに座って本を読んでいると、前で寝ている人あり・・・いびき、かかないでください。

年配男性が多い。

新聞、読み放題。
雑誌、読み放題。
図書館の本は全て読んでしまっても、新聞や週刊誌、月刊誌は、日替わり、週替わり、月替わり。
私の貴重な市民税は、ここにも使われていた!!(嬉しい実体験)

全て無料の本の宝庫を見て、税金が市民のために使われている実態を肌でをしみじみ感じた。
というと、大げさかもしれないが。
孫の絵本も、素晴らしい絵本の数々。
1回につき、3冊か、5冊の貸し出しだか忘れたが、長女が毎回、利用している。
図書館は、す・ば・ら・し・い!!!

だいいち、暇つぶしや、気分転換に、ぴったり。
とくに、毎日サンデーの人にとって。
午後の散歩がてらに。ついでに、食材を帰りに買ってきたり、と、行き帰りの労力を無駄にしない。
というか、散歩は、労力の無駄と捉えると、話がややこしくなる。
身体を動かす、心身の健康のため、と捉えると良いが、
わたしは、超省エネ者なので、どうも、散歩だけではもったいない。
同時進行の付加をつけたくなる。

たとえば、目的地で何か目的行動をする、とか、近所の人とべらべらおしゃべりをしながら、とか。
音楽や落語、語学リスニングしながらとか。(時折、季節の風景を楽しむのも捨てがたい)
しかも、べらべらおしゃべりも、ただ単に、べらべら無駄に、ではなく、ほんの3分でも、ハナシの中からニュースやネタを拾う。
意外に、ご近所ネタや、自治会ネタは、それなりに貴重である。


図書館がある建物のエントランスホールに置かれたソファに、並んで座っている女性たちがいた。
5人ほどが、地下鉄のシートに座って並ぶように、押し合いへし合い、仲良く座って、おしゃべりしていた。
年齢は、60代後半~70ぐらい??

ちょっと離れた位置から見ると、みなさん、地味である。
年齢によるものか、ご近所だからか、図書館だからか、ウォーキングか何かの途中だからか???
わたしも、待ち合わせの時間スレスレに身支度したので、雑な見かけ、格好である。

ちゃんと外出する時は、ちょっと気合を入れている(笑われそうだが)せいだか、なんだか知らないが、
話しかけられたりすることが、ちょこちょこある。
同じ人物と偶然が度重なると、めんどうなので、目を合わせないことにしている。

しかし、図書館やスーパーなら、暮らしそのまま、等身大なので、
そういう場面でお知り合いになるということは、ある意味自然である。
が、わたしは、メリハリ人間なので、等身大の自分は家の中に置いている。
一歩外に出ると、別の自分。
しかし、平日の、生活圏にある図書館なら、等身大かなあ・・・と感じた。

と、話は脱線。

・・・で、新しく出来た喫茶店に入ってみる。
コーヒー480円。10枚綴りでも4300円。
サイフォン式ではあるものの、高いと感じる。
梅田の一等地ならともかく、郊外に住む、お金に余裕のある毎日サンデー組を狙ったのかも知れないが、
自分が入れるコーヒーのほうが、コクがあって濃厚で、美味しいと感じる、コーヒーにうるさい、わたし。
友人とどれを注文するか、そうとう迷った。
セットにしても1000円ぐらいするし、単品でも高いから。
新しく丁寧な設えの美しい店内ではあったが、経営がもつかどうか、心配になった。

去年あたりから、ご近所友人は、特別になにをするでもない「毎日サンデー」になっているが、
わたしは彼女のようには、まだまだ、なれないと思った。
(わたしからの平日ウォーキングお誘いのメールに、即、その場でOKは、彼女ぐらいだ。
それはそれで、フットワークが軽いと言える)

おそらく、毎日サンデー、毎日自宅で、平穏生活には、10年は、かかることだろう。
半径5キロ圏内の活動では、とても満足できそうもないからだ。
(半径5キロでも、充実できる趣味などがあれば、別だが)
そして、東奔西走、まだまだ果たすべき義務役割がある。

しかし、皆さん、年齢を重ねると、遠出するのが億劫になり、近所に楽しみを見出すようだ。
わたしの場合、国際空港が比較的、近くにあるので、
ひょいっとお出かけする時は、飛行機に乗って海外に行きたい。
行くときは、誰にも言わず、こっそり姿をくらまし、こっそり帰り、何食わぬ顔で、いつものように日常生活を送る。
しかし、そんな行動力があるのは、あと何年なんだろう。

超老齢化社会を目前に、身近な生活風景を見て、いろいろ勝手にアタマでシュミレーションする。

 

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自分の正体

2015-02-25 | 人生

わたしは現実派すぎて夢がない。
超クール。
冷たいと言われることがある。
何を言われるか、怖いときがある、とも。
核心を突きすぎて、鋭利で、思いやりや優しさがないんだろう。

「すべてを言ってしまっては、だめ」、と、最近は自分でセーブしている。

しかしながら・・・

みなさん、現実直視の目が甘すぎる。
なんで、あんなに自分に良いように解釈するのだろう。
そっちのほうが不思議だ。

自分を卑下している人もいるが、それも自分への期待が強すぎるからだと思う。

自分への評価や期待値が高いあまり、それに追いつかない現状を見て、あっぷあっぷする。
営業マンが、高すぎるノルマに押しつぶされるかのごとく。

あるいは、卑下している自分を
「そんなことはないよ。あなたには、あなたの良さがある」と慰めてほしかったりする。
泣きながら薄目を開けて、誰かいないかな?と、まわりをきょろきょろ見ていることもある。

自分を持ち上げたり、落としたり。
やっかいな自己評価。

下げすぎて、嘆いてみても、一度しかない人生、
そんな自分で自分の首を絞めて、真っ暗にしても、つまらない。
どうせなら、上げてみたら?
ただし、上げすぎると、頑張りすぎたり、ついつい評価が気になったりする。
ボランティアのつもりが、善意の押し付けになったりする。

この、善意の押し付けほど、暑苦しく鬱陶しいものはない。
キラキラ光り輝くご本人には、まったく気付く風もないが。

自分そのものを、能力も含め、等身大に評価すると、省エネ人生を送ることになる。
はっきり言うと、楽です。

 

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人さまのブログには、気付きが隠れている

2015-02-24 | 日々のこと

直近の、とある、人さまのブログ、じつは、とても面白い。
ぐいぐいと読み進んでしまう。
それは、彼女の文章力に因るところが大きい。
しかしながら、わたしと非常に近い興味ゾーンがあり、接近しているのものの、接近しているだけに、違いが気になる。

 

ほとんど似たような立ち位置にいるのだが(鑑賞立地ポイント)、
違いは、自分は、どうなのか、だろう。

 

自分もできるけれど、やらない、のか、
自分はできないから、やらない、のか、
自分もやってみたが、できない、のか、

自分はできないけど、無理してやっているのか、
自分はできないけど、頑張り続けて努力しているのか、
自分はできないから、さめているのか、
自分は、できようが、できまいが、関係ないけどやっているのか、
はたまた、やっていないのか。
自分は、難なく当たり前のようにできて、やっているのか、

 

参考にしている文献は多いが、それを取り入れているのかどうか、実践しているのかどうか。
世界の一流セレブのやっていることでも、取り入れられることもあるだろう。
たとえば、想像あてずっぽう創作だが、
「寝る前に今日の出来事を繰り返してみる、一人一人、顔を思い出してみる」だとか。
「どんなに忙しくても、子供には必ず一日に一冊は絵本を読んであげる」だとか。

 

ぱらぱらと記事を読んでみたが、そうとう、力作もあり感心、うなずくものもある。
参考になる、納得できるものもある。
気付きがあるものもある。
全部、読んでいないので、なんとも言えないが、テーマには、ちょっと偏りもある。
題材へのアプローチの仕方である。
題材そのものも、著者の好み、興味あるものだけ。(あたりまえか)
そのあたりが、趣味の範囲に留まり、専門性がなくて、面白みに欠ける。
そりゃあそうだ、もっと読みたければ、お金払ってね、というシステムになっている。
世の中、タダで、良いものには出会えない、という、
彼女のスタンスを、文章ではなく、ブログそのもので表していて、非常に意外というか、必然と言うか、興味深い。
彼女自体は、お金では手に入れられないもの、ことの素晴らしさを文中に説いていると感じるので。
アンチ・テーゼ。
人間だもの。

 

まあ、無料の部分だけを、本屋の立ち読みコーナーのごとく、(有難く)ざざっと読ませていただいた。

 


そのなかで、地味な記事が目に付いた。
和風美人について。

わたしは、決して美人ではないが、和風顔である。
ブロガーさんも、そうらしいが、褒めることがない場合に、「和風ですね」と言われるとか。
地味で、なんの特徴もメリハリもない、そういう顔なんだろうか。
(わたしの顔を知っている人、ここからは、読まないでください。あるは、笑うか、スルーしてください)
わたしは、自分の顔は、こころの底から地味で特徴がないと思っている。
美醜ランクで言えば、10人並。ごく、ふつう。
が、女性に対しては、ごくごく普通であっても、たいがいは、社交辞令で「お綺麗ですね」と人は言うものだ。
それをまともにとって、自分はキレイと信じ込むか、社交辞令だととらえるか、
冷静に判断するかどうか、それは本人しだい。

 

身なり、服装や表情、雰囲気でも変わる。
実際にキレイけれど、「自分のことをキレイと思っている顔」というのが、あるらしい。
その場合、まだ、キレくない人のほうが、好かれる。
内面が反映されるってことだ。

 

10人並というのは、どんな風にも変化できる。
これは、おもしろい。
良くも悪くもなれるってことだ。
まあそれはそれとして、「和風は地味顔」とわたしも思っている。
が、わたしがまさに自分はそうだと言うと「え~っっ?! 派手な顔しているよ」と言われる。
「派手」の定義が、人によって違うのだろう。
決して、地味が悪くて、派手が良いわけではないと思う。
他人から見た場合の、見方、捉え方であろう。

 

一昨年の秋、
パリの地下鉄の車窓に映る自分の姿、特に、顔は、とてつもなく、みすぼらしく、バアさんに見えた。
周りの乗客が若い人ばかりだったわけではない。
自分から見る、自分の顔、見方、捉え方である。
パリの地下鉄が、あまり美しくないせいもあるし、
いったい、パリくんだりに一人で来て何がしたいのか、不安な自分のこころを映しているせいでもある。
自分は何人で、何なのか? どういう人物なのか?
これが、パリではなく、バンコクだったとしたら? 上海だとしたら?
周りは、皆、同じアジア人。

とはいえ、フランスも物々しくなってきて、世界情勢はめまぐるしく変わると感じる。
(ハナシがころころ変わる)
自分軸をはっきり持たないと、時代に翻弄される可能性がある。

 

・・・

今日のブログは、締められないまま続き、オチどころも無く、みすぼらしく終了いたします。

 


最後に、
わたしは、オネエの反対で、身体は女性で、アタマは男性かも知れない。
でも、オナベではない。男性しか愛しません。
と、またまた、まったく関係ない話で、終わってしまいました。

 

 

 

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人さまのブログを読んで

2015-02-22 | ブログ

やはり年齢の違いは大きいと感じる。

それは、何か?

ある、ブログ村のエッセー部門にちょこちょこ顔を出しておられる方の記事を読んでみた。
かつての、・・・う~ん・・・彼女(ブロガーさん)ぐらいの年齢の時には、とても興味があったかも知れない内容だ。
というか、興味があったに違いない内容だ。

が、今、わたしの年齢になると・・・
あら不思議、なんの興味もなくなっている。
これは、まさしく、年齢のなせる業だと感じずにはいられない。

わたしは、もう、この年齢で、(早いかもしれないが)人生を守るほうに回っている。
器を広げるよりも、充実させるほう。
切り拓く系のことには、興味を失っている。
(が、感性など、自分にとって、未経験ゾーンや、新しいものへの目覚めには、積極的。
先入観にとらわれずに新発見があると、単純に嬉しい・・・)
子育ても終了し、孫への子育てを、垣根の外から、治外法権下のように、見せてもらっているだけ。
強制権などまったくないし(あたりまえ)、口出しをする気持ちは、さらさらない。

金持ちと結婚する方法やら、美人さんのことやら、もはや、私にはどうでもよくなっている。
興味があるということは、自分もその枠内にいる、共通項があると感じるからなんだろう。
逆に、興味がない、ということは、自分はもうそんな世界には居ないということだ。

といって、娘世代に、「こんな記事があるよ、参考にしたら?」という気持ちもまったくない。

よくよく考えてみると、ブログネタにするために使う世間の記事やニュースを抜粋する、
「書き手(ブロガーさん)」と、わたしの目線、切り方が違うことに気が付いた。
あるいは、単純に、そのブロガーさんが興味を抱くことを、損得なしにピックアップしておられるのだろう。
その好奇心傾向は、わたしとは少し似ているが、似ていて非なるもの。

たとえば、同じ「女性の美」を扱うにも、ブロガーさんの考えありき、である。(あたりまえ)
扱うテーマが同じであっても、見方、捉え方はまったく違うし、
読み手が、記事に沿って、あたかも自然に同じように考えるかのごとく設定、誘導されていても、
わたしは、このブロガーさんとは違う考え、意見、感性を持つ。
ブロガーさんは、自分の意見を受け入れて欲しいなどとはハナから思っていないだろうし、百も承知で書いておられると予想する。

記事で、人様からのウケを狙う狙わないに関わらず、結果的にウケ、認められ成功した女性のいろいろな人生を紹介されても、
わたしは胃の不調を感じる。
(決して、やっかんでいるわけでは、ありません)

なにが気になるかというと、著者の目線、切り口。
そこに、なんともいえないものを感じ、ひっかかる。

そう感じる自分を新たに発見したキッカケを与えてくれた、そのブログに対して、
悪い感情は決して持っていない。

なんであれ、発見につながることは、プラスであると捉える。
(プラスでない発見もあるが、それはそれ)

 

今日のわたしのブログ・・・じつに、つまらん、しょうもないことを書いてしまった。

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家庭生活・防衛の知恵

2015-02-20 | 暮らし

夫のことが大嫌いな奥さんたちは、少なくないようだ。
ブログに、ばんばん悪口を書きまくっておられるブロガーさんもいる。
男性の場合は、奥さんの悪口を書く人はあまりお目にかかったことがなく(わたしが素通りしているだけかも知れないが)
若い恋人(愛人?)とのノロケ自慢話っぽいものを(半分、嘘でも)書いたりしているブログは、見かけることがある。

わたしは、両方、読まない。ヒントも解決もなく、時間の無駄。

かくいう、わたしのブログも、そうとう悪口ざんまい。
懺悔するのに相応しい。

しかし、わたしのブログは、重いものや、理屈っぽいものもあるが(ほとんど全編?!)、暗くはないはず。
一時、近しいリアル人から、「あなたのブログは暗い。だから最近は読んでない」と言われたことがある。
が、「わたしのブログ、読んでみて!」とセールス、プッシュしたわけでもなんでもなく、
むしろ、人知れず、こっそりひっそり楽しんでいたのに、ブログの存在を発見されてしまって、非常に心を痛めた。

で、ずけずけと感想を言ってこられて、まいった。
ブログで鬱憤を発散していたのに。(現在もその傾向あり。ちょっとはマシになったけれど)
まさに私生活だけでなく、こころの奥深くまで土足でズカズカと踏み込んで来られた気がした。

「暗いから読んでない」、ってことだが、またブログ内容が面白い調子になったら、読まれてしまう・・・。
暗くしなければ、読まれてしまう・・・。ああ・・・。
こう書いていると、面白がって、また読まれてしまう・・・。ああ・・・。
(→いま、お読みになっている方々へ 
わたし、書いて遊んでいるだけなので、まともに取らず、スルーしてください)

しかし、その人物も最近、多忙のようなので、人のブログまで暇そうに読んでいないと思う。
もし、読んでいたら、読んでいることをわたしに伝えないで、胸のうちにしまっていてほしい。
ましてや、感想など、ぜんぜん、求めてませんから。
聞かれもしないのに、ご自分から感想を言わないでください。
お願いします。

と言いつつ、基本的にはわたしは、おちゃらけ、ちゃらんぽらん性質なので、
人のことなど、たいして、どうでもいいのだ。


ハナシは、変わり・・・

リタイア後の生活を書き綴った、シニアブロガーさんが書いておられる人気ブログがある。
その中で、奥さんに対する機嫌の取り方が紹介されている。

奥さんにお茶や、コーヒーを入れてあげる、というのは、とても良いことだと感じた。
かんたんな、ほんのちょっとしたことなのに、絶対にしない男性の多いこと。

「おい、お茶!」と頭ごなしに命令するのは、さすがに、このご時世、はばかられるので、
「お茶にしませんか」と夫は言う。
が、絶対に死んでも、夫は自分では入れない。

「すみません、○○取っていただけますでしょうか?」と、自分で取らないで(取れるのに)、人に取らせる。
「すみません。おっしゃるとおりです、私が悪うございました」と、やたら慇懃無礼な言い方をする。
まったく、悪いなどとは、微塵も思っていないこと、ありあり、見え見えで、慇懃無礼ぶりが余計に癇に障り、気分が悪くなる。

包装紙を変えても、中身が同じなら、変えないほうがマシである。
変化の兆しだとか、変わる前の前兆だとか、そんな風には思えない。
小手先で、お茶を濁そうたって、そうはいかない。

おそらく、溝は埋まらない。
埋めようなどと考えるからストレスが溜まるのである。
埋まらないものだと理解していたら、それなりに生活していけばよい。
知恵は、なんのためにあるのか。使うためにある。生きていくために。

生きていくには欠かせない心臓が悪くなっても、
ペースメーカーを埋め込んで、ふつうに生活している人もいる。

なので、方法は一つではない。
融通性、柔軟性を持つ。
いがみ合って生活していては、つまらない。
いがみ合わないように、工夫するとよい。知恵をフルに駆使して。
解り合おう、和解しようなどと、大それたことを考えたり、トライしてみたり、そんな無駄なことは、省エネに反する。
お互いに理解できないもの同士である、ということを理解しさえしていれば、
まあまあの平和は保てる。

ある程度の年齢になると、大手術より、内服薬で
破綻を来たさない程度の現状維持がローリスクかと思うのである。
デフォルトは、避けたい。

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ご主人様たちは、閲覧注意

2015-02-15 | 暮らし

世の中に仲良し夫婦というものは、どれぐらいいるのだろうか。
あまり、仲が良すぎると、この世に置いてきぼりにされた時のショックが大きい。
依存度が高すぎて、立ち直れない。
逆に、仲が悪いと、指折り数えて、あの世に行ってくれるのを待ち望む。

なかには、待ちきれずに、犯罪に手を染める人もいるようだ。

奥さんを亡くすと夫の皆さんは、がっくりうなだれ、後を追うかのように亡くなってしまう人もいる。
女性の場合は、最初は悲しみの渦、憔悴しきって、私もいっしょに死にたい・・・(と思う人もあるらしいけれど)
1年もすると、けろっと第3の人生を楽しんでいる。

女性たちの夫への憎悪はすごい。
ストレスを外でぶちまける。
夫たちが聞いたら、目を回すことだろう。

「こっち向いて笑うんよ、キモチ悪い。笑うんなら、向こう向いて笑ってほしいわ」
と、ある奥さん。
夫は、家で微笑むことも出来ない。

「お土産なんか買ってきて。そんなもん、いらんのに」
と、いつも世話になっている妻に機嫌を取ろうと、買ってきたお土産にも、全面否定される。

もちろん、妻たちは声に出して胸の内を言わない。
女性どうし、愚痴りあって、発散しあう。


ある日、ある人がスポーツジムで耳にした、
夫がそこそこ経済力がある方々の、妻たちの会話。ご年配の皆様。
夫が病気で亡くなった妻A、現在、重い病気で闘病中の夫を持つ妻B、普通の夫を持つ妻C。

C「ああ、嫌やわ、帰ったら夫の顔見ないとあかん。気が滅入る~」
B「(Aに)あんたは、ええよ、もういないんやから」
A「(Bに)まあ、ええやん。あんたも、あとちょっとの辛抱やん」
C「Bさんは、あと少しでいいけど、うちは、まだまだなかなか死なへんわ」
A「うちも鬱陶しかったけど、死んだら、ほんま、すっとしたわ」

まあ、えげつない、えげつない。
口にしていいことと、悪いことがあると思うのだが、ストレートに口に出す。
このオババたち、家では夫に、面と向ってそこまでは言えないからって、そりゃあないやろ~という、恐ろしい会話。
ぽんぽんと口から飛び出す。

よほど、辛抱して抑圧されていると思われる。
ひと昔前の夫婦は、亭主関白、夫唱婦随、夫は仕事、妻は家事、・・・だったんだろうが、
ちょうど今は過渡期なので、年配の夫たちの行動、意識は昔のまま、妻たちの意識は現代風。
そのギャップが、「死んだら、すっきり」発言につながるのだろう。

「誰に食べさせてもらっているんだ」はモラル・ハラスメント、あるいは、パワー・ハラスメントになるらしい。

そんなこと、当たり前で常識で、口に出して言うまでもない、
「誰に食べさせてもらってるんだ? オレにだろ?」
という、若い夫はいなくても、年配のジ・オールドには、いるかも知れない。

忍の一字で、死を待ち望まれるなんて、ちょっと寂しく、コワイけれど。

さほど経済的余裕のない家庭ではどうなのだろう?
遺族年金が入る?
それよりも、いなくなることが一番の幸せ?

ああ、そう言えば、ある女性が言っていたそうだ。
「なんにもしてくれなくていいから、1秒も早く死んで欲しい。同じ空気を吸っていることが、耐えられない」
と。

おお、薄ら寒い、恐ろしい話である。
毎日、一緒に暮らしている相手に、そんなことを思い続けられ、一方は、思い続け・・・・・
なにが、そこまでの悲劇的・捻じ曲がり事態を生んだのだろう。

が・・・

先述の、大阪のおばちゃん。
ガハハと笑い飛ばすエネルギー、バイタリティ。欝になるよりは、いいか。
でも、相手(夫)が、欝になったりしそうだ。

笑い話では、済まないような・・・。
もはや魔物(化け物)に成長してしまっている奥方をお持ちのご主人様方は、
決して知らないほうが、精神衛生上、よろしいかと、姥心。

もはや手遅れの場合は、枕を高くして寝るためには、「知らないこと」が一番の対策だと思うのである。

 

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創作と実写

2015-02-14 | 暮らし

蝶ブログをお読みになる、リアルのわたしをご存知の方へ。
あくまでも表現内容は、戯曲や小説、エッセー化されています。

蝶ブログに書かれていることを実写、録画のごとく、真に受けないでください。
まちがっても、「ぐだぐだ言ってサボってないで、はやく行動しなさい」とか、
そういうコメントは、方向性が違います。
わたしの場合、ぐだぐだサボっている間に、エネルギーをチャージしているのです。

わざわざ説明することはないのですが。
きっと、誤解されてるだろうな~とアタマの隅っこで思いながら書いています。


リアルなわたしをご存じない方へ。
へへへ・・・へらへら・・・いい加減なわたしです。

・・・・

さて、話は変わって・・・

今、子育て中のママたちに世界中で大人気の詩があるそうだ。
先日、夫が長女に買ってプレゼントした。

「ひどいねえ、一日中、何をしていたの? だらしないね。」
そう言われても、子供と向き合う時間は大事、
だから、家事がちゃんと、きちんと出来なくても、今は子育てに時間を使う時期だよ、
そういった内容。

漫画「離婚してもいいですか?」の夫の一言に傷つく主婦には、まさに、おススメ。

訳者のあとがきに書いてあったが、
子育てに行き詰ったときに、彼女が自分に唱える呪文があるそうだ。
「ずぼら、がさつ、ぐうたら」。
そうすると子育てだけでない、いろんな危機にも役立つことになったとか。

わたしの場合、唱える呪文があるとすると、
「すぼらにするな、がさつにするな、ぐうたらになるな」
つまり、逆。
世の中には、わざわざわたしが短所だと思っていることを口に出して、努力して実行しようとする人もいるのだ。
そっちのほうに、驚いた。
道理で年子で3人、ノイローゼにもならず子育てできたものだ、と今更ながら、
自分の「ずぼら、がさつ、ぐうたら」の三冠王に感心する。


そう書くと・・・
またまたリアルなわたしをご存知の方は、
「ああ、自分をまた正当化してる」と苦笑いされることだろう。

いいの、いいの、
自分は自分。
人のことをとやかく言っている人こそ、自分は完璧なんて思っているかも知れないが、
それこそ、間違い中の間違い。
秀でている人は確かに秀でているが、そのせいで、弊害もある。マイナスポイントもある。

なにごとにも、謙虚にならなければいけない。

 

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ワケのわからん大合唱

2015-02-10 | 日々のこと

実母が、やいのやいの、体の不調を訴えてくる。
彼女は、行動力も経済力も、腕力もあるが、年相応の脳の老化もけっこう進行している。
生まれつきの、協調性を重んじないキツイ性格もあり、老人性ボケなんだか、自分本位が際立っているのだか、
よくわからないが、思いつくまま、後先考えず、いろいろ行動して、周りを混乱の渦に巻き込んでいる。

 

勝手にタクシーを飛ばして、病院や、行きたいところに行く・・・が、
ちょっと「マトモ」と、「マトモでない」、が同時進行しているので、周囲の人間、とくに身内は非常に困る。
他人さんにも迷惑を及ぼし、火消しに回る羽目になる。
彼女は、人生の大半をお山の大将で過ごしていたせいもあり、世界は自分を中心に動いていると思っている。

 

目から涙が出て調子が悪い。すぐに受診したい。明日!!
じゃんじゃん、電話がかかる。出られないと、留守番電話にも、わーわーきゃーきゃー。
そんな急に言われても、他府県、片道2時間かかるところに私は住んでいるし、こちらにも都合というものがある。
しかも、先日、あまりにも人気で人が多いからあそこは行きたくないとの意向を汲み、わたしが断った大病院に、再び、受診したいと言う。
近くの開業医の先生に紹介状を書いてもらい、すべて進行中のものを行ってみて「人が多いから嫌」と、キャンセルしたばかりなのに。
さほど、症状もたいしたことがない、と言っていたのは誰?
症状は、自己申告なので、本人の具合は、まったく外からはわからない。

 

人の都合など全く考えない。
これは、年齢によるものなのか、性格によるものか?

 


かたや、孫。
自分の思い通りにならないと、
まさに文字通り、地団駄(じだんだ)踏んで、顔を真っ赤にし、目から涙をぼろぼろ、大声の限りで、わめき泣き叫ぶ。
よくある、映画やドラマで見る、どうしようもない子供、そのもの。典型。
子供だから許されるのか? それにしても・・・親の顔が見たい、あのパターン。
アタマのてっぺんに、大音量のヘビメタ音楽が直撃する。
まあ、2歳だから、まだ発展途上、成長の過程のひとつであるが。
(急変する天気のごとく、泣きわめいたことも忘れ、また天使の笑顔になる)
その様子が、孫の母親(=わたしの長女)の2歳の時とそっくり。
ああ、キミもか・・・。
これからが、子育ての正念場に突入か。

 

長女に、「あなたに、そっくり」と言うと、「「じゃあ、大きくなったら、そうとうお利口になるんやね」と、負けていない。
両親(娘婿と長女)の、孫に対する冷静な対応を見て、
よくアタマにも来ず、余裕ある態度に、デキがよい両親だなあと感心することしかり。

 


かたや、わたし。
母の大病院・受診に際して、手術がどうのこうのという説明がある。
その説明をまともに理解できるか、不安。
娘を解説員として連れて行こうかしらん。
いや、連れて行くんじゃなくて、連れて行ってもらう?
孫守(まご・もり)をしながら、親守(おや・もり)をしている自分自身を、娘に守(もり)してもらい・・・
子守(こもり)している人は、一人もいない・・・


ワケのわからん母親に、ワケのわからん孫、そこへもってきて、ワケのわからん、わたし。
さらに、(世界で自分が一番偉いと思っている)偉そうな娘。

これ、どうすればいい?

 

 

 

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言葉が通じない

2015-02-08 | 暮らし

世間では大変な事件がいっぱい。
幸せで書くネタがない、とは、どの口が言う?

とまあ、それはさておき・・・

次女への婚活はしばらく休止することにした。
長男への婚活は、ハナからまったくやっていない。
二人とも、見込み薄。期待値ゼロ。実践予想、皆無。

年齢は来ているものの、まだ時期が来ていないというか、時代がそういう流れになっている、というか。

わたしの時代は、24歳はクリスマスケーキと称され、
24歳が最も高値で、あとは、なし崩し的に値崩れされると言われていた。
今は、晩婚、非婚の時代。
周りが、わーわー言っても、テコでも動かない・・・ように感じる。

そもそもわたしの結婚観が、ちょっと歪んでいるかも知れない。
そんな歪んだ結婚観を持っている母親(=わたし)に育てられ、歪みを水面下に抱える家庭生活で、
まともな結婚観が育つのであろうか。

が、世の中、仲良しご夫婦、ハッピー家族ばかりだろうか。
そういう純正・幸せな家庭に育つと、現実にはそんな家庭ばかりではないことを知ったら、どう対応できる?
嫁・姑戦争や、親戚との争い、ご近所紛争、ママ友との争い、その他、
仕事を持つ人も、仕事を持たない既婚者(無職主婦)にでも、争いの種はいっぱい転がっている。
世間に目を向けることなく、日本国内以外に目を向けることなく、半径5キロ以内の中で生活している人は少なくないと想像する。
そういった家庭で、その家庭の中しか知らないと、その価値観が全てということになる。
とても強いものであるが、ぼきっと折れたら、あとはどうなる?
なんらかの異素材や化合物が混じっているほうが、耐久度が高いと思われる。

子供を成人させたら、家庭に歪があろうがなかろうが、もう、子供は子供ではない。
自分の足で歩いていくべきだ。
親のせいにするなんて、とんでもない。
自分は別の道を選ぶと考えたなら、自分で新しい価値観、セオリーを築くべきである。

そう考えると、子供の結婚、自分で勝手にやってよね、と、なる。
夫は、子供たちを結婚させろ、とわたしを突くが、
「は~い、じゃあ、結婚させますね~」と、
相手もいない、会おうともしない、結婚する気もさらさらない、
自立力はある、結婚しなくてもなんの不自由も無い、そんな子供を、どうやって結婚させろと?

夫は時代遅れである。一昔前、二昔前、親世代、あるいは、祖父母世代の考え方。
「そもそも、あなたが結婚したのは・・・いえ、できたのは、・・・」と言いかけるが、わたしは口をつぐむ。

シーラカンスに自分の考えを伝えるシーラカンス語の会話力も、ボキャブラリーも、わたしにはない。
なので、そっとしておく。くさい物には蓋をする要領。
通じない人に、自説を用いて説得するのは無理、時間の無駄。

彼は、世の中が変わったことを知らない。
戦後、日本は民主主義になったことを知らない。
グアム島で終戦を知らずに、いまだに戦っている、元日本兵か。
あるいは、浦島太郎?
自分は、すっかりお爺さんなのに、自覚がない。
玉手箱から立ち込める、もうもうとした煙が目に染みるだけだ。

母親たちにも、早く結婚させろ、と、同じことを言われる。
結婚させたいのは、山々だ。
世の中の多くの親がそうであるように。

問題の氷山の一角が顔を出している状態なのに、
そのほんの小さな一点だけを見て、「どうにかしろ」とカンタンに言うのは、どうかと。

ことは、そうカンタンには、いかない。

 

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しみじみ、カメラアングル

2015-02-04 | 人生

ここのところ、幸せすぎて、ブログネタがない。

ああ、今、わたしは幸せだなあ~と、しみじみ感じるシーンがある。
まるで、映画撮影のカメラを回しているかのごとく。
映画を観る側ではなく、作り手、制作側の目になっているのが、ちょっと不思議ではあるが。

ここ、作者の意図するとこ、観客側に、幸せを感じ取ってもらうとこなのかな、
などと、へんにねじれたアングルで、幸せを脳に伝達している。


わたしの年齢であれば、もう仕事もひと段落、子供もひと段落。
身体も精神も、まだ深刻な老化には、時間が残されている。
親の介護の時期に、ひっかかる年齢でもあるが。
どうにかこうにか、とりあえず、ここ半年ぐらいは、大丈夫そうだし、執行猶予は、毎月更新、毎年、更新されている。
だが、いつ、前触れなく、どっかーんと、介護の波が押し寄せるかも知れないので、
身が空いている、出来る間に、おもいっきり自由時間を満喫しておく。
自由時間の満喫の仕方は、なんにもしないで、自宅に引きこもる、というのもOK。人それぞれ。
誰の束縛も受けないのが、なによりの黄金時間。


わたしの幸せマックスは、意外に、とても平凡極まりないところにあった。
(どういう状態、状況かを具体的に文字にする途端に、つまらなくなるので、あえて書かない。
表現した瞬間に、幸せが粉々に砕けてしまいそうになる。
自分の喜びは、誰にも言わず、ひっそり胸のうちに暖めておく主義)

それを目標に頑張ってきたわけでもなんでもない。
まだ道の途中なのに、マックスと感じるのは、すべて、どれもこれもクリアできていないところにある。
物語は、完結してしまっては面白みがない。
ほのかに延長を予想できる、次回作があるから、楽しい。期待も膨らむ。
すべてを満足、完結してしまったら、生きる気力がなくなりそうだ。
思い通りにならないパーツ、逆噴射的エネルギーは、必ず要る。

飛びぬけ大きな幸せは要らない。
しかし、小さな幸せは、小さな努力の積み重ねだと気づいた。
そして、自分にとっては、小さな小さな平凡な幸せは、大きな喜びであると感じた。
そんな平凡なことに喜びを感じる自分は、なんて角が取れた、平凡で善良な一般市民なんだろうと、
へんに驚いたりしている。
いったい、自分はどんなに奇異な、変わった、特別の人間だと思っていたのだろう。
特別でもなんでもない、わたしは、いたって普通の人でした。

というか、たんに年とっただけ?

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