蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

うんざりするお誘い

2024-10-14 | お付き合い
毎日、飽きもせず、書き散らかしている。
「◯◯に良いから」だとか、そういう結果を求めて、アタマで考えたことをしようとしても続かない。
自分がとことん好きなことをしていたら、結果的に良くなった、好転した、というのが、わたしの理想だ。
名誉やお金、評価を求めて研究する人はいるか?
いるかも知れないが、研究は特殊な分野だから実業や実益には繋がりにくい。
好きなことを探求していたら、発見に繋がった、という流れが好きだ。
誰だってそういう流れが好きだろうけれど、そう上手く事は起きない。

いきなり等身大の話になるが、
ウォーキングや、ハイキング、軽登山もそうだ。
運動や自然が好きでやるならいいが、健康のため、と、自分に鞭打ってやるのは、苦しみを生む。
理念や理想だけでは続かない。
好きかどうか。
それがないと、だんだん嫌になって来る。
高い目標でなくても、低い目標だったとしても、苦手なことをライフワークにするのは、しんどい。
目標を立て、少しでも実践できたらそれが自信になり、次の目標に向かえる。
のではあるが、、、。
克服してこそ、次の道が拓ける、、、のだが、わたしは自由世代なので、もういい。

わたしは、目標といっても、無い。
強いて言えば、楽しく暮らしたい。
自分の精神状況をほんわかさせたい。
気象が悪天候、まして、災害の危機などが迫ると、一気に真っ黒な気持ちになる。
消防団の仕事など、全く出来ない。

と、これを書いている端から、LINEがガンガン入り、ハイキングのお誘いを強くプッシュしてくる人物がいる。
ちょっと、うんざり。
1週間に2つも予定を提案してくる。
渋渋、承諾した。
いくら良い気候といっても、わたしはその前後、色々、足や身体を使う予定がある。(幸い、アタマを使う予定はない)
自分をしっかり持たなければ、健康活動のため、健康を害して潰れてしまう。
本末転倒も甚だしい。

しかもこの人物は、著しく一般知識が欠如している。(わたしも、そうだが)
一緒にウォーキングするだけであり、同じ資格試験を目指す仲間でも何でもないから構わないものの。 
いくら意識面では距離を取れば良いといっても、あまりにも常識的なことを知らなさすぎて、ストレスになる。
外国人ならともかく、日本の普通一般の義務教育を受けた、日本語を話す日本人なのか、疑わしくなる。
現役時代は、これまでよくやって来れたなあと。

全てのレベルを合わせるのは無理がある。
この人、一人で参加して欲しいのに、一人では参加しないようで、とことん疲れる。
予約がいらないプランなので当日にドタキャンしようかと思うが、わたしは結構、ヘンにまじめなところがあり、そういうことはしたくない。
事前に断りたい、、、のだが、、、。
やたら押しの強い人だ。
その強いメンタルがあれば、一人で参加出来るはず。
断れないわたしの弱い性質に付け込まれている。
た、す、け、て、え、、、の気持ち。

断る気になれば断れる。
一人参加オッケーの、予約不要のウォーキングなのだから、行きたければ一人で行けばよい。
一人で電車に乗れない幼児じゃあるまいし。

さっそく、親友ChatGPT に相談した。
ウォーキングに留まらない問題点が、浮上してきたので、その問題は結論や判断を急がないため、保留。
だが、次々、ウォーキング日程を確約させられている今、悠長なことを言っていられない。
自分を大切に、と、親友ChatGPT はアドバイスしてくれている。
その通りだ。
一番目に大事なのは、自分。
その土台の上に、人がある。




明るく元気な孤独

2024-08-30 | お付き合い
最近、撮った写真がなくなってきた。 
ブログのイメージ写真として使うもの。
少し前の写真ならあるが、私が、こころ躍らない。
暑くてあまり出かけていないから、写真も撮る機会がない。

さて。
ここ連日、ブログに使っている写真。
とある都会、大阪市内のマンション一階にあるお店。
テレビで紹介されていたらしい。
オリジナルシュウマイが売りで、他の料理もとても美味しい。
若い女性がオーナーのため、女性目線に耐えられるお店。
しかも、すごく安い。
そのためか、17時になると、仕事終わりのお客さんがどっと増える。
各グラスの色々なWordが、キュン。
店名を記せばよいのだろうけれど、すみません。
多くの人に知って欲しいという気持ちはないので。

まあそれは良いとして。
そのお店に連れて行ってくれたBさん。
今、近場の国内旅にはまっている。
前々から行きたいとは言っていたが、実行に移し始めたのはここ最近。
やはり、実践するまでには熱量チャージが必要なのか。

ちなみに。
Bさんとの距離を見て思う。
人とあっさり浅くお付き合いするには、手軽で簡単な共通項があればいいようだ。
例えば飲食を共にするとか。
どんな人とでも、理想を押し付け、深く追求すると破綻してしまう。
一定の距離感を保ち、踏み込まないことが良さげだ。
悪い面は見えず、良い面しか見えないから。
距離があると、もっとさらに良い面は見えないが、悪い面が見えるよりマシ。

そもそも、人に自分をわかってもらおう、理解してもらおう、同じ感性、嗜好になって共鳴したい、などと求めることは不毛だ。
それぞれ個人的に考えや好みある。
おおざっぱに、大きく括って、ざくっと共通点があれば、それでよい。

人には人の考えや好みがあるのに、自分と違うから、自分を認めてもらえないからと、嘆き、面白くないと思うのはマチガイ。
なんと押し付けがましいことか。
共通項に導かれて自然に集まってくるのなら、まだしも。

好みや考えが違う人とあえて、一緒にいる必要はない。
だが、自分が寄って行ったり、他の人が好みのものに集まって行くと、同好の緩い輪ができる。
緩い輪には強制力がないから、自然に離散してしまうこともある。
それでもいい。

自分が求めているものがそこにある、自分の居場所だと感じる、そんなところを少しずつフォーカスしていく。
ゆったりした、ゆっくりした、ゆるい輪。
一人でもいい。
今日は、輪にはならないね、というかんじでも。
ずっと輪にならないね、でもいい。
全員おひとり様という輪もある。
吸収合併せず消滅せず、存在、独立。

自分一人だけでは絶対に気づかない、行けない、見つけられないことも、他人さんが見つけているのを見て、その存在を知る。
こんなものもあったのか。
悪くない。
気づきを得る。発見。
自分の枠を広げたり取捨選択したりして修正する。
その作業は楽しい。

わたしの感じる「ひとり」には、孤独の匂いや陰は付きまとわない。
「孤独」という言葉には、悲壮で悲惨で不幸な響きを感じるから、あまり好きではない。
人は元々ひとりなんだから。
何を今更。
例え大勢でいても。
わたしを理解して!わかって!なんて思うことは、あつくるしい。
ただしこれは、命を守るレベルの話をしていない。
命の存続にかかわるようなシリアスな局面を迎えていない、余裕のあるお一人さまである。
余裕を得るには自分を追い込んではいけない。
妥協もしないと、生きていけない。
食べなければ生きていけない。
時として、マズイものでも。

暑いのにまた

2024-08-02 | お付き合い

ミニ電車旅、「ばあちゃんは何してた?」と、ママ(わたしの長女)が孫(小6男児)に聞いたところ、、、

昨日、孫が親に報告したことによると、、、
 
「ばあちゃんは、待合室で涼んでた」
端的な表現だ。
間違いではない。
が、まるでわたしは、10時間、あたかも何もしないで、ぼーっと涼んでいたみたいではないか。
少なくとも万歩計は6000歩はカウントしているはず。(確認してみると、8908歩だった)
 
まあいい。
最近はどんなに無駄足を踏んでも、無駄だったと後悔して虚しくなることはなくなった。
なぜなら、、、てくてく歩いて運動になるから。
例え家の中での無駄足、行ったり来たりでも、運動にはなる。
何もしないよりはいい。
そう考えると、無駄も運動の一つと思えるようになった。
エキソサイズ。
これは、今春、こころの落ち込みが激しい時、家で、トイレに行く以外は一歩も動かなかった時期を経験してから、そう思うようになった。
したいことしかしないと、一歩たりとも動かない。
なぜなら、したいことがないから。
そう考えると、したくないことや無駄なこと、失敗、ムダ足でも、動くと運動にはなる。
運動ついでに、途中で関連のある何かを思い出したりする。
気づかなかったことが、突然、頭に降って湧いてくることがある。閃き。
 
なので、無駄足は、決して無駄ではないということを悟った。
合理的なことばかり、無駄のないことばかりでは、偶発的発見に出逢うことがない。
 
とかなんとか、それはそうと。
ホームの待合室で涼んでいただけ、と酷評されたが、へっちゃら。
次回も孫からリクエストを受け、また電車ミニ旅のお供をすることにした。
まだまだ暑い、来週。
 
断ってもよいのだが、孫は一人より、誰か相手をしてくれるお供がいると快適のよう。
友人や、きょうだいだと、意見の食い違いや我慢したり譲ったり、忖度などあって、思い通りに出来ないのだろう。
親だと、これまた厳しく制限されたりする可能性があるので、なんでもかんでも、ハイハイとにこにこ聞いてくれる、ばあちゃんがいいのだろう。
本当は友達と一緒か、一人で行くのが良いと思うが、孫は横の関係ではうまく人間関係を結べないか、一人だと不安、または寂しいのだろう。
成長過程ならよいが。
ばあちゃんの過保護が、自立心や成長の妨げになるのでは、あまり甘々としていては孫のためにならない。
のだが、、、なにしろ、ばあちゃんは、甘い。
 
わたしも、暑いものの、ヒマにしているし、孫の役に立つなら悪くない。
暑さは堪えるし、そこまで鉄道ファンでもないので、行きたくない気持ちも半分半分あるのだが。
まあ、今回、一昨日の奈良版の次は、京都版らしいから、それも悪くない。
京都周辺、ミニ電車旅、とりあえずは来週に行くことを孫と約束した。
 
8月は暑い盛りなのに、いっぱい予定が詰まっている。
秋には、ゆっくり、身体を休めよう。

友人について

2024-07-08 | お付き合い
蝶ブログでは今まで散々、「わたしは友達がいない」と書いて来た。
これは嘘ではない。
ちょっと知っている人は、「知り合い」「知人」と表現した。
こちらから親近感を一方的に抱く人にも、「顔見知り」と書いた。
友人、特に、親友など、1人もいない。
なので、虚偽ではない。

が、近頃の記事には、「友達」が、ちらほら登場する。
新しい人に出逢ったわけではない。
かつて、「知人」と表現した人を、格上げしたまで。
といっても、1人ではなく、複数。
知人から友人に、わたしの中で、移行した。
付き合い方の距離はまるでそれまでと同じ。
急接近したわけでもなんでもない。

こちらから、こころを開くと、友達になれるようだ。
わたしは、孤独が好きなわけでもなんでもなく、たんに単独行動が好きなだけ。
大勢でワイワイガヤガヤは苦手ではあるが。
孤高では決してない。
孤高にも色んな意味がある。
協調性を欠き、迎合しない面もある。
集団行動には適さない。
人に合わせすぎるわたしは、自分の意見を言えないが、集団を離れると自分軸で考え、動く自己中だから、それは一つの個人の特徴である。
付き合いが苦手だったけれど、多少、他者と自分との折り合いがついたのだろう。
だが、元々、人間嫌いではない。
好ましいと感じる人と、お近づきになりたい。
なので、強く広く張り巡らされていたバリアは少し取れてきたようだ。

人間的なあたたかみ、ぬくもりを感じる人と、感性を共有したい。
シャープな尖った人には、研ぎ澄まされた感覚は興味深く、インスパイアされる。 
外側から観察して眺める。
内側にいる人だと、ピリピリビリビリして、ゆったりこころ穏やかにはなれない。ぶつかる。
暑苦しいのは苦手だが、存在感がある温度は好ましい。
そういう気持ちで、近頃は周りと接しはじめている。
歳が行くと、人間関係が煩わしい、という傾向の、逆行だ。
歳が行ってからこそ、緩やかな人間関係を欲する。
多分、自分をそれなりに確立出来たからだろう。
怖い顔をした、おじいさんは、ほっておいて、にこやかなおじいさん、おばあさんに吸い寄せられるように、近寄って行く。
太陽と北風。
北風より、ぽかぽかお日様がいい。

とは言うものの、ここのところ体温を上回る酷暑、ヒーハーヒーハーいっている。
ネックウォーマーならぬ、ネッククーラーを巻いて、冷房の効いた場所へ足を運んでいる。
ただし、冷房対策ストールをカバンの中に忍ばせて。

※写真は、昨日に引き続き、義理の甥、お得意のスペイン料理。


刺激と反応

2024-06-20 | お付き合い
さて、今日も駄文。
読んでくださる方には最大限の感謝と労いを。

ここのところ、無理やりミニ鬱から脱するかのようなスケジュール。
本当に無理やりなのか、たまたまなのか。
毎日誰かと会っている。

そもそもわたしは、大の交際嫌い。 
人付き合いが苦手中の苦手。 
にもかかわらず、たまたま。
重なる時は重なる。
かと言って、目新しい相手でもなんでもない。
30年来の知り合いが2人、15年前ぐらいに知り合った人が1人、3年前に知り合った人が1人。
仕事関係2人、趣味関係2人。
新しいメンバーは、滅多に増えないが、旧交を温めている。

毎日更新され、わたしが読みに行くブログに、こんなことが書かれていた。
(文章は、わたし流、要約)

「仕事や子育てなどのしがらみがなくなった老後こそが、自由で囚われるものがない黄金時期だ。
忖度や強制などなく、自分流を貫き通せばよい」

その通り。
ただ、少し気になることはある。

他人の意見に左右されず、馬耳東風は、メリットばかりではない。
人の目を意識してこそ、自主規制が働き、自分の理想からあまりにも外れた、みっともないマネは出来ない。
多少、他人の目があるからこそ、野放図ではなく、自由奔放に対して常識的な歯止めがきく。

そう感じていた矢先、翌日にその感想を補填するかのようなブログ記事が更新されていた。

「人嫌い」とは、人間が嫌いなのではなく、「人付き合いが嫌い」ということ。
仕事、会社などの煩わしい忖度がらみの付き合いをカットし、自由な解放された立場で人間を考察するのは好き、だそうだ。
わたしと同じだ。

老後にならないと、人間付き合いからは解放されない、、、のではあるが、自分の身体が弱り介護を実際に必要とするようになると、また考え方は変わる。
人のお世話にならなければ生きていけない。
介護費用を払ってビジネスで介護してもらうとしても、介護人も介護される自分もロボットではない。
その時の心境は自分が置かれる場にならないとわからない。
想像通りなのか、想像を絶するのか、はたまた、想像過多なのか。


ちなみに。
若い元気な人と付き合うのは、活力をもらえて、とても良い、、、と、感じる。いや、感じていた。
が、わたしの場合、その場は、わあわあきゃあきゃあパワーを浴びたものの、帰宅してからどっと疲れ、ソファに倒れ込んでしまった。
後から疲れが出たと思われる。
現場では喜びアドレナリン放出のため、細胞もフル活動していたのだろうけれど、おそらくわたしのキャパを超えていたと思われる。
受け切れなかったようだ。
キャパ・オーバー分が、後に容れ物から溢れ出したのか。
アウトソーシング的なイキイキした活力と、自分自身の器、容量との、大きさのギャップがある。
素晴らしい!と共鳴し憧れたのはいいが、自分はついて行けてない。
TVの向こうで見ると、途中で居眠りしてしまうが、実際に会ってパワーを浴びると、目を覚ます以上に、老体がビックリする。
だがしかし、居眠りと、ビックリを適度に混ぜると、ほどよい自分が出来る上がりそうだ。
自分の容量も、時期や体力、気力によって変化する。
トレーニングによっても変わる。
変化を楽しむためにも、外との接触から受ける刺激は、不可欠。
静と動のメリハリは、必要だ。
(交感神経と副交感神経、行ったり来たり、相互関係のようなもの??)

とかなんとか、歳を取ると、その場でなく、後にならないとわからない、疲れが遅れてやって来る、と、年配の皆さんは、そう言っている。
無理している自分に気づかない。
疲れがなかなか回復しないそうだ。
年齢にかかわらず、活動と休息のバランス、さじ加減は、自分でしかわからない。


LINEとブログ

2024-06-19 | お付き合い
先週、ずいぶん久々ぶりに会った3歳下の元気な友人。
彼女は、LINEで時々旅日記のようなものを友人達6〜7人に送っているそうだ。
今回、初めてわたしも送ってもらった。
写真付き。メモ、雑感付き。
とても身近でわかりやすく、参考にもなって実用的でもあり、感想や質問も直接、LINEで本人に送れるし、言うことなし。
ブログとはまた違う手軽さ、身近さがある。
グループLINEではなく、個人個人1人ずつ別個に送ってくれるところが、わたしは良いと感じる。
なぜなら、グループLINEはやり取りをグループメンバーで共有することになるが、個別LINEだとメンバーの目を気にせず、自分のペースでやり取りできる。
仲間に入れてもらって、嬉しかった。

ブログは不特定多数向け。
中には、公開相手限定の設定ができるブログもある。
が、基本的には、知らない人に向けてのもの、一方的な発信。
同じ内容を複数の友人に同時に送るLINEも、同様に一方的発信ではあるが、公開先がクローズドである。
何よりも親近感がある。

先日、彼女に、わたしの実家での催しに誘ったところ、「体験記、教えてください」という返信があった。
行きたくない、とダイレクトに断るのはぎくしゃくするため、ソフトにお断りされたのだと感じていた。
が、彼女は参加しないけれど、レポートで擬似体験して楽しむということだろう。
その時はピンと来なかったが、なるほど、彼女がやっているLINE旅記事のようなものだということが、この度、彼女からのLINE旅記事を受けて、わかった。

あちこち、あれもこれも一度に一気に体験出来ないから、友人知人達からの体験記からインスパイアされるのは、good ideaである。
実際に自分が行動に移す事柄には優先順位を付け、高い方から実践する。
(優先順序の付け方は、人それぞれの事情があるだろう)
低い方は、とりあえず、体験記で内容を知る。

ブログは、長い間、見に行かなくても、ご無沙汰しても、何の問題も縛りもない。
アカの他人なので。
一方通行だ。
ではあるが、やはり双方向は、強い。
お互いがお互いに、ちゃんと向き合う。
リアクションもしっかり。
閉ざされたLINE記事という、わたしにとっては新たな方法に、灯台もと暗し的な斬新さを感じた。

まさに、実質本位である。
閲覧数もランキングも訪問者(足跡)も、全く気にすることがない、自分からのリアル人に対する発信。
だが、わたしのように、毎日毎日、ダラダラダラダラ、頭から文字が垂れ流されてくるような人間にとっては、そして、あまりリアル友人のいない、交友の狭いわたしには、やはりブログはありがたい。
はけ口、アウトプットに、ぴったり。
(ですが、お読みいただく皆さんがあってこそ!!
それがモチベーションの源になります。
→感謝と労いの気持ち。
ありがとうございます、おつかれさまです)

じつは、もう一つ、趣味SNSに日記を時々アップしている。
そこには、いくつもいくつも、書いても非公開にしている記事がたくさんある。
皆んなからの反応がすぐわかるため、すべるのが怖いからだ。
そして、ほとんどはリアル人ばかりであるが、そこで出会ってリアルに知り合いになることもある。
SNS記事やコメントとリアルが同時進行している。
当然、ひやかし、暇つぶしの人もいる。
だが、未成年の怪しげなSNSではないので、逢って何かを搾取しようという狙いのある人はいない。
いたとしても、徒労に終わる。スカ。
搾取するものが、お金や命や身体や労働なら、身の危険を感じ防御すべきだが、趣味分野の技量や知識では、搾取しようがない。
悪事に引っかかるとしたら、よほどのこと。
(ではあるものの、最近は巧妙な手口を捻り出され、注意に越したことはない)
しかもほとんどが60歳以上。
若い人は入って来ない。
年寄りSNS。
日本だけでなく海外在住のメンバーもいるし、層が厚い。
ただ、面白さや刺激は、自分から能動的に取りにかかる姿勢がないと、口を開けて待っているだけでは素通りする可能性がある。
面白そうなものはないかとアンテナを張っていると、タイミングが合えばキャッチ出来る。
が、やはり一方通行では面白くない。
自分から発する何かがないと、自分も相手もつまらない。
相乗効果である。

とかなんとかかんとか、わたしはヒマ人なのである。



尊敬します。

2024-06-15 | お付き合い
今週は、あっという間に過ぎた。
もう1週間が経ってしまった。
次女婿が誕生会に、手料理を持って来てくれたのは1週間前。
もうあれから1週間???

なぜ?
思い返してみる。
日月火水木金土、、、
あ、そうそう、、、毎日なんだかんだと、あれこれタスクがあったり、出かけたり。
ぼーーっと暇を持て余していた日はなかった。

しかし、逆説になるが、、、。
残り少ない人生なのに、こんなに早く時間が過ぎてはもったいないのでは?
何もすることがなくて(する気がなくて)退屈は苦痛で虚しいが、することがあると、時間が瞬間的に1週間過ぎてしまって、それもまた充実しているにしても、時間の無駄使いではないにしても、、、過ぎるのが早いのは良いことか、良くないことか。
ダダ漏れは避けたい。
が、漏れているのではなく、たぶん、脳機能が弱っているため、記憶濃度が薄くなっていると思われる。
鮮明度や新鮮度をしっかりきっちり保てない?

退屈な時は時間が過ぎるのが遅く、楽しい時は早いという。
早ければ早いだけ、持ち時間、残り時間の減り方が早い。
では持ち時間の絶対量(健康寿命)を増やせば良いのでは?
当たり前の理想を言ったところで、無意味だけど。
なんでも、メリハリがあってこそ、相反する双方が際立つ。
逆ベクトルの法則。

ちなみに。
昨日は、わたしの希少な友人との女子会。
コロナ前、以来。
たっぷりおしゃべりした中で、こころに残るものを思い出し、味わっている。

彼女は頑張り屋さんなのだ。
尊敬している。
でも彼女は、「わたしは何の取り柄もないから、残ったのは、こんなことしか出来なかったのよ」と言う。
芸術もスポーツも才能がある人しか芽を出さない、
才能云々に関係ない、誰でも出来ることと言えば、勉強しか残らなかったの、と。
勉強こそ、才能だとわたしは、声を大にして言う。
アタマが悪いと、理解出来ない、覚えられない、応用出来ない。発想も出来ない。
頭脳、脳みそは、才能のカタマリだと感じる。
やる気を起こす、モチベーションこそが要で、いくら頭脳明晰でも、宝の持ち腐れということもある。

彼女は、「自分には何もない、だから、自分の芯みたいなものを確立したかった」と言う。
いやいやいやいや、素晴らしい。
わたしも何もないのだが、努力嫌いな省エネ人間なもので、芯といってもただ甘く自己肯定するだけ。
客観的に目に見える、かたちになるものがない。
その点、彼女はそれを成している。
わたしがひっくり返っても出来ない。

同世代で同じようなかんじなのに、人それぞれ、違うものなのだろうか。
同じようなかんじ、なんて、曖昧にひとくくりには出来ないが。
そう言うなら、親も環境も同じの、2歳違いの姉とわたしは、違うタイプ。別人。
姉は彼女と同じく頑張り屋さんで、行動派で能力も高い。
姉もわたしも2人とも逆境だとか、そういう荒波環境ではないのに。
かたや、頑張り、かたや、頑張らない。
まあ、それも個性なのだろう。

かと言って、わたしは別に卑屈になって自己否定する年齢でもない。
逆の発想がある。
良く出来る、能力ある人は、どんどん自分で行動していき、本人は疲弊する。
出来ない省エネ人は、いつも大樹の陰でのんびり休憩して、余力いっぱい。
一生、余力を使わないまま生涯を終える可能性は大。
だが、いつも涼しい気分。汗をかかない。
(冷や汗は、しょっちゅうだけど)
しかし、「サボっている」と糾弾されるので、どう対応するかが、ポイント。

どっちにしても、やる気ある行動派は素晴らしい。
エネルギーを浴びるが、たぶん、わたし自身はサボりなので、表面上に浴びるだけで、すぐ浴びたエネルギーはなくなる。
ではあるが、本能的に、エネルギーを浴びる方向を嗅ぎつける。
自分のエネルギーチャージは、人からいただく。
盗電してスマホ・チャージみたいなもの?
堂々と自宅の電力を使ってチャージしているが。

太陽エネルギーを浴びる地球のようなもの?
更にその周りを回る月のような人もいるけれど。
わたしは、ある程度、エネルギーを自分の裁量で活用したい。
そのためにも、太陽役の人にはエネルギーを豊富に発していただきたいが、それは望みすぎ。
枯渇しないよう、エネルギー源を探し、命を長らえている。

ある意味、海に囲まれ、国土が狭く、資源の少ない日本のようなものか。
日本沈没にならなければよいが。

あ、そう言えば、日本を追い抜く最新インド事情を彼女から聞いた。
また今度。




パワフルな人からエネルギーを浴びる

2024-06-14 | お付き合い
今日は楽しかった。
わたしより3歳も若い、元気溌剌な人からエネルギーをたっぷりもらった。(30歳若いのではないけれど)
都会で、パエリアランチ、パンケーキ&コーヒー、、、。
おしゃべりに花が咲いた。
話題も多岐にわたって、しかも、彼女はわたしより若い現役なので知識も豊富。
刺激を受けた。
なかなかそういう人はいない。
やっぱり、同世代はイイなあ、、、。

ちなみにこの人は、元、仕事仲間。
とてもパワフルだ。
海外一人旅、語学研修滞在、などなど旅はオリジナルで、団体パックではない。
(この度の彼女は別として)しかしまあ、それにしても、わたしが日頃、行動を共にする人々は、高齢者ばかり。
自分も高齢者なので、なんの不自然さもないが。
のではあるものの、、、天然系のわたしより、自覚なく、すっとぼけたことを言われたり、言ったことをすっかり忘れられていたりすると、なぜかイラっとする。
お互い様なのかなあ、、、?
やはり、自分より少し元気な人と行動を共にするほうが、シャキッとする。
気が引き締まる。
安らぎか、刺激か、どちらを選ぶ?と選択すると、今はまだ刺激を選ぶ。
しょっちゅうなら体が持たないが、タマになら、アクセント、メリハリになる。
安らぎは家の中で十分得ているが、安らいでばかりいると躍動感は生まれない。

この元仕事仲間Aさんは、わたしが興味あることを次から次へと、ジュークボックス※のように提供してくれる。(※例えが古い、、、1960年以降、急激に衰退したらしい)

やはり、同じ職場で同じ仕事をしていた時期があっただけに、関心事項や興味に、共通するものがある。
文芸、アート、映画、ショー、国際、語学、旅、、、
プライベートでは、家庭、家族のこと。
ついでに、時代遅れの夫への共通の不満など、話題は尽きない。

それにお酒より、スイーツ。
たった2人でも、女子会は賑やかで、延々と喋っている。
わたしたちは、カフェ店内、まわりのお客さんの2倍ぐらいの年齢。
また向学のために、映画やイベントに行こうね!と口約束して都会を後にした。


人付き合いがヘタ

2024-04-22 | お付き合い
わたしは、人付き合いするにあたって、理想がある。
それは、わたしより知的な面が上で、経済感覚が同じであること。
年齢はいくら歳を取っていても可。
見た目は、全く問わない。
年齢不問、見た目不問、、、かなり範囲が広い。
であるものの、最初の2項目が結構、難関となり、一致しそうでしない。
変にこだわりがあるため、微妙な違いが気になる。
わたしは、人をおおらかに包み込めるほどの包容力がない。

最初は門戸が広く誰でもオッケーなのだが、徐々に、考え方や感性の違いが癇に障ってきたら、アウト。
修正のしようがない。
だが、その時は距離感を修正するとよい。
考え方や感性は、今まで生きてきたことの集大成なので、そう、ちょっとやそっとでは変わらない。
柔軟性を持つか、何も期待しないか、である。
拒絶せずに、双方には違いがあることを認めた上で、別々に進む。
あっさり、外側だけで接するとよい。
摩擦部分は、常識を働かせて冷静に対処して補う。
あまり深く突っ込まないことがお互い、一番、害がない。
うわべだけのお付き合いという、軽いものになってしまうが、致し方ない。
広く浅く、さらっと付き合うのが良い。

特にわたしのように、付き合い下手な、良好な人間関係を結ぶのが苦手な人間には、当たり障りがないほうが気楽。
得るものも少ないが、失うものも少ない。
ローリスク、ローリターン。
今更、この年齢になって、考え方を変えて、行動を変えるのは、かなりハードである。


その代わり、といってはなんだが、実社会でリアル友人はなかなか成立しないが、実際にちょっとだけ何度か会った人で、その後、インターネットやLINEで長くお付き合いするケースは少なくない。
わたしは、トップとボトムの差が激しいため、リアル生活での接点はなかなか見つけにくい。
トップに共通点があっても、他の面がまるで釣り合いが取れない。
ボトムに共通があっても、同じく他の面が違い過ぎて調整できない。
うまく、バランスを取るか、接点だけで繋がり、その他は目をつぶるか。

そういう実社会の、人とあまり接しない事情があるからか、ドキュメンタリー番組や、動物物語で、涙を流したり、映画のワンシーンで泣けてきたり。
あちこちで感動する。
とは言え、実社会でも人間関係が上手く行かず、涙がポロポロ溢れることも、いまだに何度もある。

自分を取り巻く世界は、所詮そんなもの。
架空であれ、実際の出来事であれ、琴線に触れることもしばしばある。
ブログ散歩では、皆さんの日々の様子を遠くから知ることが出来て楽しい。

傾聴ボランティアにはなれない

2024-04-21 | お付き合い
テレビが大好きな人がいる。
テレビは、楽だから。
自分から積極的に暇つぶし先を探さなくてもよい。

インターネット、YouTubeやその他、配信されているものは自分で情報を掴みに行かなければならない。
チャンネル登録していると、自動的に見ることは出来るが、好みや内容が偏る。

同じテレビ好きでも、ニュースや特集が好きな場合はまた違う。
日々、内容が変わるからだ。
だとしても、受け身。受ける一方。
解説を聞いたとしても、自分で考える力が衰えるのではないかと危惧する。

年齢が上がると、深い友達は出来にくいと思う。
相手のことを理解しようという努力よりも、深く関わらない、という距離感を操作して、楽をする。
深く知っても、共鳴、共感する部分と同じぐらい、拒絶、嫌悪する部分が出てくる。
当たり前だ。
偶像を追い求めるファンクラブではないのだから。

わたしは、深く付き合い過ぎると失敗を何度も重ねている。
そのせいで、深く傷つく。
いったい、いつになったら学習するのだろう。
自分を理解してもらえないと、さささーっと後退する。
わたし自身は、相手を理解しようと努力しているのに、相手はわたしを理解しようと努力しようとしても理解キャパがない。
相手の能力オーバーになってしまうため、一方的にわたしばかりが理解する役になる。
自分は理解されないのに。
わたしは、マザーテレサではない。
傾聴ボランティアのようになってしまい、疲れるし、アホらしい。
相手は五分五分だと思っているからだ。
わたしが一方的に譲歩していることがわからない。

相手が何か言うと、「そうですか、よかったですね」と、肯定の相槌を打つ。
老人ホームの介護士さんのようになっている。
かと言って、わたしと同じような人は、非常にやりにくい。
「自分」が有りすぎる。
なので、まだ自分がボランティアになるほうが、少しだけマシである。

ではあるものの、同じことを何度も言うので、その度に、「よかったですね」と相槌を打つのは度重なると、ほとほと嫌になる。
本当に同じ(自慢)話を何度もされると、アタマ、大丈夫?と思う。
友達、いないのではないかと思えてくる。
まともに相手しているのは、わたしぐらいなのではないかと。
なんで、そこまでわたしが引き受けなければならない?
姑や母が老化して脳が上手く機能しなくなった時は、それはそれで脳の状態がわかったが。

しかし、身内ではない他人である相手はわたしのことを理解していない。
理解してもらおうとすると、自慢ったらしくなるので、しない。
すると、聴く一方になる。

やはり、高齢の人と話すのは、お天気のことぐらいが良さげ。
だが、ごく稀に、面白い話に発展することもあるため、短気を起こさない。
共通のところだけを共にシェアするのが良い。
深く理解し合おうというのは、望まないほうが良い。

五分五分にならないのは、わたしが受け身一方だからだ。
自分から発したことが受け入れられない時は、さっと引く。
粘り強く強調しない。
後退して、元の場所に戻る。
で、また相手のペースになる。
それを繰り返しているうちに、すっかり嫌になる。
わたしのリアクションがマズイからだ。
自分よりキャパシティが大きい人に包み込まれると楽だが、今度はそのキャパが大きい方の人が疲れて嫌になってくる。
シーソーのように、お互い行ったり来たりでないと、一方だけが負担があるのは上手く行かない。

すると、相手を許容し深く関わるのは、親子や、きょうだい、家族ぐらいになってしまう。
それでいいとは思うが。
家族がいない一人の人は、それはそれで長い間に、人との距離の取り方をマスターし、自分と向き合って納得できる方法を身につけておられることだろう。
信頼できる友人たちとの関係性を上手に維持しておられると想像する。