蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ファミリーヒストリー

2023-08-31 | 
わたし自身のファミリーヒストリーを知るには、親戚のホームページを見るとわかりやすい。
商いのためにWEBホームページを開設している親戚が、さらっと商売沿革を紹介している。
ほんの数行ではあるが。
ホームページの現在の跡取りの顔写真を見ると、先代のお父さんにソックリ。
血は争えないとしみじみ思った。
小さい頃の色白おぼっちゃまの面影は、微塵もなかった。
商い所在地の写真も懐かしい、わたしが子供の頃に知っているまんま。
ホームページも何年か前とは見せ方を変え、リニューアルしてあった。
WEB販売も前々から行われ、今は、インターネットの時代だと痛切に感じる。

しかし、、、わたしはあまり古いことを知らない。
おそらく、家によって伝える内容が違うのではないかと想像する。
立場が変わると見方も変わり、歴史さえ変わってしまう。
どちらの言い分が正しいのか。
大きな声で言った者の勝ちのような現状に、諦めにも似た傍観者のような目で見ている。
しかも言った本人たちは今はあの世。
その話を聞いて育った子供たちは、それぞれに聞かされるストーリーは違うわけで。
まさに諸説あるのだが、当の本人は自分が親や祖父母などから聞き伝えられたことを信じる。
そういうものだ。

昔、昔の争いが尾を引くこともある。
農業が国の基幹産業であった昔(そうとう昔)は、田んぼへの水の権利は死活問題である。
「我田引水」なんていう諺もある。
人口のほとんどを農民が占めていた。
今は食糧自給率がガクンと落ち、輸入に頼っている。
国の政策の影響が大きいが、大丈夫か、日本の将来。
大きな目で見た長いスパンの計画は、国の行方を左右する。
国の舵取りは重い責任がある。
と、話がどんどん俯瞰的になってきた。

えーっと、何だった?
話を元に戻す。 
自分のファミリーヒストリーはあまり知らないということだ。
なぜなら、話を伝える立場の人が、あまり積極的でなかったり、キーマンの不在だろう。
少しぐらいは知っているが、ほんの少しだ。
母方も、知っているが、直に聞いたことは少ない。
今ある事実としては、それまでの歴史を物語っているが。
幼い頃に母の実家に、正月や、葬式や法要で行ったことはある。
母方の祖父母、おじ夫婦、おば夫婦、いとこたちと度々顔を合わせた。
家で執り行われるお葬式も何度も。
今はわたし自身が還暦を過ぎているのだから、上世代はあの世に行っていても何の不思議もない。

実際、わたしが目で見て経験したこと以外は、あまり伝承されていない。
少しだけエピソードはあるものの。
受け手であるわたし自身が、神経を集中させず、あまり注意して見てないこともあるだろう。
それに実家に居た時間より、実家から出てからの時間のほうが2倍近くになっている。
婚家のほうが過ごした時間も内容も濃くなっている。
そして、伝承係の姑が知っていることは全て嫁に伝えようという積極的姿勢のため、たくさんたっぷり見聞きした。
1年間同居していたし、10年ぐらい毎週末、核家族メンバーは、嫁ぎ先の家に泊まっていた。
毎年、盆正月、彼岸は必ず仏祀り。
そりゃあ出るわ出るわ、おしゃべりの源。
空で暗記できるほど。同じ話を何回聞いたことか。
それで覚えられなければ、よほどだ。

だがしかし、まだわからない不明な点もあり、関係者の頭がハッキリしている間に聞いておきたいものだ。
けれど、わたしより若い、しっかりした親戚がいるので心丈夫だが、わたしの頭のほうが心配だ。

ということで、ファミリーヒストリーは、婚家のほうは情報や物証には事欠かない。
ただ、わたしのところで、止まっているのが気がかり。
次の世代がファミリーヒストリーなどに興味を示すのは70歳過ぎないと無理なのではないかと思っている。
興味ないのに無理やりベラベラ喋って押し付けも、聞かされる方はストレスで、話す方は徒労だろう。

今日の記事、いつも長いが、またまた長い、、、。
なかなか終わらない。

子供の頃

2023-08-30 | 思い出
わたしが幾度となく蝶ブログで書いている、幼い頃。
田舎で暮らした昔日。
街の幼稚園に行くまでの日常。
近所の子供たちと遊んだ。
近くの野山に遊びに行く時には、当時、小学6年だった、皆んなの中では1番年長の女の子の小指をぎゅっと握って、みんなに着いて行った。
わたしは最年少だったと思われる。
この女の子は三人姉妹の長女で、わたしとは歳が離れすぎていて、あまり遊ぶことはなかった。
その下の妹たち(次女、三女)と遊んだが、主に三女のSちゃんは、わたしと(たぶん)同じ歳。
家は、隣の隣。
といっても田舎なので、一軒一軒が広く大きく、蔵や作業所、庭などもあり、さらに牛舎の坂を上がり、結構遠い。
彼女の家の玄関前で、座り込んで地面の土を石で磨いて遊んでいた。
何がしたかったのか、何が楽しいのかよくわからないが、つるつるした黒光する石の感触を覚えている。
家の中に入った記憶はあまりない。
彼女たちが、うちに来た記憶もあまりない。
3人の名前も覚えている。Mちゃん、Yちゃん、Sちゃん。
幼稚園に行く頃以来は、一度も会っていない。軽く60年以上前。
その家の子供たちは女の子だけなので、お婿さんを迎えたかも知れない。

ガキ大将もいた。
家の向かい隣の男の子。Tちゃん。悪ガキ。
家の向かいには3人きょうだいがいた。
長男Yちゃん、次男Mちゃん、末っ子長女Tちゃん。
Yちゃんは小学生ぐらいの時に亡くなった。
皆んなで野原や川に遊びに行ったり、うちの家の外で、馬乗りや大縄跳び、ダルマさんが転んだ、など、元気よく皆んなで遊んだ。
昭和の遊び。
家の中では遊ばない。

わたしより歳下の女の子もいた。
(倉庫などを挟んで)隣の家。
AちゃんとKちゃん姉妹。
むこうの家に遊びに行ったり、うちにも遊びに来て女の子同士よく遊んだ。

全員、62年間ぐらい会っていない。音信不通。風の便りもなし。
といっても家は近所。地続きで、今も家はある(はず)。
1軒、女の子姉妹の家は無くなって、近年、隣りの親戚が(たぶん)土地を合わせて家を新築した。

向かいの家のおじいさんは、晩年、うちの隣の小さな離れ(一間だけ)で一人で住んでいた。
亡くなるまでの間。
小説や映画、昔のモノクロ写真で見るような、いかにも人生終盤のおじいさんだった。
たぶん、母屋からお嫁さんが舅さんに食事を運んでいたのではないだろうか。
その離れはおじいさん亡き後は、うちの土地と合わさった。

遊ぶには5軒の子供たちだけで十分。
一軒にだいたい3人いるから15人。
保育所同期仲間みたいなものだ。
親は介入せず、子供たちだけで遊んでいた。
古き良き時代。
(わたしの父の帰宅時、自動車音が聞こえると、子供たちは、わーっと散り散りばらばら三々五々、逃げ散っていく)

ちなみに、小川を隔た隣りは父の妹の家があり、歳の近いいとこ(女児)も住んでいたが、遊びには一切加わらなかった。
(今、思えば、何でだろう? テリトリーの問題か?)

わたしも3人きょうだいなので、仮に例え外部と接触がなくても、身内できょうだいで遊べる。

じつは、今回の記事で、この子供コミュニティにあえて名を入れていない子供たちがいる。
これはイジメや差別ではない。
これこそ子供は何の関係もない家の事情で、遊ばない、いや、遊ばせない。
家同士が、こじれている。
大人の雰囲気を子供は敏感に察する。
が、親や親の親がこの世を去り、こじれは形を変える。
うるさい人々はあの世。
まあ、その、当時遊ばなかった子供たちと、今、現在、姉は地元の諸々のことで、代が変わった元子供(現在、還暦過ぎ)とビジネスライクにやり取りをしている。
話は代々、昔に遡って、いくら当人が亡くなっていても、ややこしい。
姉に任せっきりで、わたしは報告を聞くのみ。
亡霊の皆さん、後世の人々が仲良くする応援をよろしくお願いします。





先生はセンスがない

2023-08-29 | 無題
孫。
3番目孫・6歳女児は、絵を描くのが大好き。
最近は、裏が白い広告チラシや使用済事務用紙を使って、ミニ冊子仕立てでお絵描き。
ストーリー付きで、お姫様がヒロイン。
現実的な展開は絵と共に、なかなか面白い。
手足が大きい伸びやかな人物と、色使いが大胆。

1番上孫・小5男児は電車の路線図などは細かく描けるが、絵となると、性格が出る。
大きな白紙スペースに、隅っこに小さな小さなものを描く。
パパが、「もうちょっと大きく描いたら?」とアドバイスすると、ほんの少し気持ちだけ大きくなるが、やはり余白だらけ。
1回目とそう変わらない。
最初から大きく描くと全部描き切れないと危惧してのことだろうか。
ユニーク。

わたしの兄。半世紀以上前、中学生の頃。
当時、同じ中学に通う姉が、ある日、美術の授業でのこと。
「こんな絵を描く生徒がいるが、これは最悪。最もダメな見本」
そう言われて先生が皆んなに見せてくれたのは、見覚えのある兄の絵。
姉は、顔に縦棒線、ざざざー。
電車マニアの兄が田園の向こうに走る電車を描いているのだが、絵の3分の1は、画面に黄色の服を着た人の胴体、上半身だけが斜めになって占める。
その胴体の向こう側に、田んぼと電車が見える。
姉は、すごく恥ずかしかったらしい。
が、何にも周りに言わなかったそうだ。

わたしが今、思うには、斬新な構図だと思う。
美を担当する美術の先生ともあろう人が、あんな評価をするのには失望した。
身内を貶されたため?身贔屓か。
いや、それ以前に、わたしはあの構図は良いと今でも思っている。
かえって、向こうのほうに小さく映る電車が強調される。
メリハリ。

それと同じ感性で、小5孫の、画面にスカスカの、余白だらけの小さい絵も、悪くないと思う、、、のではあるものの、やはり絵心、センスがないのは認めざるを得ない。
まあ仕方ない。
彼は運動もあまり好きではなさそうで、オタクの道、まっしぐらに進むような予感がする。
しかし、オタクはサブカルチャーとして地位を確立されているし、オタクのほうが、いじめられなさそうで良いかも。
みんな、オタクの子が多そうなので、オタクはオタクをいじめないのではなかろうか。
同類。

性別は関係ないとは思うが、6歳女児はなかなか感性豊かで、わたしを楽しませてくれる。
オタク街道まっしぐらの、絵の下手な兄ちゃも。
電車のことで知りたいことがあれば彼に聞けばわかるので、心丈夫だ。
覚えることが好きなオタク孫は、駅名、地名をはじめ、ニュースに興味がある。
学科として、社会科は好きな科目になりそうだ。
低学年の頃は宿題が嫌で嫌で、絶対に宿題したくないと抵抗して結構、難儀したが。

それにしても。
兄の中学の美術図工の先生へ。
身内を庇う気持ちはさておき、時代が半世紀以上前とは言え、もう少し柔軟な目を持ってほしい。
数学のように答えは決まっているわけではない。
仮にも学校で生徒を教える立場で教育に携わる先生がそんなことでは、センスそのものを疑う。
究極は、テイストの個人的な好き嫌いなんだろうか。

神様がいっぱい

2023-08-28 | 
母が言った、わたしのこころに残る言葉。
「世間はいろいろ言うけれど、何もしてくれない」

これには、聞いた当時も今も強烈に響いた。
全くその通り。
世間は言うばかりの一方通行。
どこそこの誰が言っている、と、特定できないのに、世間の声が聞こえてくる。
母は戦中派なので、わたしなんかの平和世代に比べると話にならないぐらい強い。
父も然り。
昔は多産多死だったため、生き残った者は生き残れなかった人の分まで生きる強さがあった。

(蝶ブログにはかつて書いたが)
晩年の母に相談したことがある。
姑Aが信仰心が強く、昔からの仏さんのお守りはもちろんのこと、それだけでは飽き足らず、姑Aの姑B(Bは、Aの一代前の嫁。AとBは、嫁姑の関係。書くとややこしく聞こえる)と相談して神様を家のあちこちに祀っている。
姑Aの姑Bが神様にまつわる体験をして、それを嫁A(わたしの姑)と相談して、2人で新しい神様を祀った。
さらに、姑Aは、姑の姑Bが亡くなった後に、またまた新たに別の神様を祀った。
家の中には既に2つの神様が祀ってあったので、合計4つ。
神様ばっかり、神様連合組合、設立だ。
なんであんなに神様を祀るのか意味不明。
日本中に、水の神様や火の神様、森の神様、木の神様、、、、数えきれないほどの神様がいる。
トイレにも神様がいる(らしい)。
にしても、、、個人の家に祀るのは、外の自然の神様とはまた違う。
そしてさらに、またもう一箇所、姑Aが家の中で拝んでいる場所がある。
わたしにしてみると、「蜂の巣」の感覚。
こんなところに蜂の巣、あんなところにも。
どんどん増えていく、危険な蜂の巣。
本人たちは合意の上で祀り拝んでいるから良いようなものの、なんの宗教心もない、なんのいわれもないわたしにとっては、潰し壊すわけにもいかず、腫れ物に触る思い。
撤去したら祟られそう。
神主さんにお願いしてお祓いしてもらい撤去する選択肢もある。
が、、、神様の使いの地元の神主さんのお祓いは、なんだか効き目が弱そうだ。(神様>神主さん)
拝む人にとっては、後世も祀り続けなければならない人のことは、全く念頭にない。

そこで実母に相談した。
すると実母の答えはシンプルだった。
「俯瞰的に高いところから見て、一つにまとめて『宇宙の神様』というのにしたらどう?」
ナイスアイデアだと思った。

後世の人のことを考えず、どんどん神様を増やす先代、代々の姑たち。
それは、代々、家が続くものと何の疑いも持たず確信していたからだろう。
家制度が崩壊する未来を予測できなかったのは、その時代を、脇目も振らず一生懸命まっしぐらに生きる人にとっては仕方のないことだ。
今のように価値観の多様化の世の中、個人主義など、想像も出来なかっただろう。
時代の流れをお互い責めることは出来ない。

時は移ろい価値観は変わる。
変わらないものもある。

蜂の巣は、行政の担当係に依頼して駆除してもらわず、そっと近寄らず置いておこう。
だが、次の代の人は確実に問題に直面する。
どうするだろう。
蜂の巣付きの家だけでなく、墓もある。
墓じまい、仏壇じまい、実家じまいをする人も出始めている。
ご先祖さんたちは、さぞやビックリすることだろう。
自分たちの居場所がなくなるわけで。
しかし、現世に生きている人がそう実行するのであれば、この世にいないご先祖さんたちは、声を上げようにも上げようがない。
ディズニーのホーンテッドマンションに住むかのように、あの世から声をあげる?

まずは先決として、目の前の予想図。
夫かわたしか、どちらが先にあの世に行くか。
心臓は動いていても、ちゃんとした意思を示せない状態なら、意思決定、実践者としては、いても、いなくても同じだ。
アタマと体が動くうちに、ちょっと席を外してホーンテッドマンションの先祖たちと相談するか?
相談する相手は生きている人?


うちは、娘婿や外孫しかいない現実。
そもそも、この直系男子だけがイエを継ぐという既成現存ルール、今の世に合っているのか。
(養子や養女、夫婦養子など、あの手この手で技を駆使して非存続の危機を乗り切るイエもあるようだが)
わたしが来月、お彼岸にホーンテッドマンションに立ち寄って、聞いてくるか、相談してくるか。
頭が痛い問題ではあるが、生きて行く上での優先順位はかなり低い。
毎日が綱渡りで、それどころではない人もたくさんいる。

が、話を広げすぎると焦点がぼやける。
それはそれとして。
とりあえずは、夫のアタマと体が丈夫なうちは、現状を維持しなければならない。
わたしが諸事情で出来なくても、夫は誰かに依頼して代行してもらうことだろう。
ということは、何もなければあと20年はこのまま。
その後は、、、今のうちから後世の人々と話し合い、方向性を示すべきだろう。
ぴんぴんしている健康な現時点で、自分の葬式の具体的なプランを立てるかのようなことは、まだちょっと切羽詰まってなさ過ぎるが、ある日、突然、そんな日はやって来るかも。
危機管理は必要だ。
が、知らん顔してほったらかしてあの世に滑り込む(問題未処理のまま先送り)という手もある。

しかしまあ、時代は変わる。
特に夫のような、古い価値観を引きずり、微塵も変えようとしない人と一緒にいると、毎日、生きた蜂の巣を抱えて暮らしているような気になる。
夫は絶対に自分を変えることは出来ない。
危険物、取り扱い注意で接するしかない。
残されたお互いの貴重な人生、夫が自分を変えられないと同様に、わたしはわたしの幸せを大事にしたい。


神様はさておき、 
現実問題として、あと何回、お坊さんにお参りに来てもらえばいいのかな。(仏さん)
1年3回✖️20年🟰60回
加えて、数年、数十年に一度の何人かの法要。
毎年、つつがなくお坊さんが来てくれたらそれでよし。
(ちなみに、お坊さんは、わたしと同じ歳。
彼が高齢で来れなくなっても後継息子さんがいる)

こんな問題、全く関係もなければ関わりも興味もない人にとっては、はあ?なんのこと?
である。
お時間取りました。

教養って何?

2023-08-27 | 読む人々には興味ない話
いつも一緒に運動をしている、体育会系仲間が一過性の病気になった。流行病。
で、運動の場に引っ張り出されなくなり、あまりにも退屈。
この酷暑の中、不要不急の外出は避けてください、とニュースの声。
ウォーキングなど、とんでもない。
自宅でもエアコンをつけてください、と、キャスターの声。
今月の電気代に戦々恐々としている人は少なくないだろう。

さて、トップ画像。
退屈すぎて、戸棚から引っ張り出してきた。
姑の本。百人一首、漫画版。
すごく面白い。
でも、読むのは1日3首にしておこう。
著者は2人いて、1人はわたしより一歳、上。
子供向けに書いたところ、好評だったそうだ。
もう1人は、手塚治虫氏に指導を受けたという漫画担当で、わたしと同じ歳。
同級生が書いているようなノリ。
かなり優秀な同級生ではあるが。

もう一冊は、舅の本。橋のない川。
昭和44年26刷、定価350円のハードカバー装本。
夫の実家で発見して以来、読もう読もうと思いながら手付かずになっていた。
持ち帰って来ていたのも、20年ぐらい前かも知れない。
紙の色はもはやキナリ、ベージュになっている。
まだ3ページしか読んでいない。
読む本を2冊、机の上に用意すると、なんだか安心する。

舅は文学全集をズラリ揃えていて、次女が学生時代、興味を抱いて何冊か、うちまで持ち帰ってきた。
それは、立派な装丁ではなく、紙が劣化してパラパラめくると粉粉になって散ってしまうのではないかと思うほどのもの。
紙は、耐久性が低い。
驚くべきことは、文学全集と舅が結びつかないこと。
舅は文学青年の片鱗もない。カケラもない。
見事、昇華したのだろう(と思いたい)。
晩年、NHK「趣味の園芸」のテキストを見ると、それらしい好みが窺い知れる。
人間って、変わるものだ。

わたしの父は割合、書くことが好きだ。
文学より自作。
晩年は、時間の隙間を見つけて1人で映画を見に行っていた。
(生涯現役のため、オフタイムがとても少なかった)
わたしは父に似ているかも知れない。(文章を書く意味では)
兄も寄稿を頼まれると嫌いではなさそうだ。

父のこころに残る言葉。
「自分から自慢アナウンスしなくても、周りが自然に知る」
背伸びしたり見栄を張っても、いずれバレる。
逆に、何も言わなくても見ている人は見ている。
自慢したくて、言いたくてウズウズしていても、言わないほうがスマートということか。

しかし、悪いことは隠し通せるか?

兄の名言。
「教養は人を見下すためにあるのではない」

これはまさにその通り。
自分が知っているからといって、知らない人や間違っている人を馬鹿にするぐらいなら、そんな教養は無い方がマシ。
ひけらかした知識が間違っている時は、凍る。
コワイ。
わたしはしょっちゅう、日常茶飯事だが。


就学前の子供(孫)が、黄金のおまじない言葉のように、百人一首の句を口にすると、ほぉーーっと大人が目を輝かせる。
あの快感は、水戸黄門の葵の印籠だろう。
それがキッカケとなって、興味や探究心が生まれたらよいのだが、◯◯の一つ覚えにならないことを祈る。
大概は、1句しか知らない。
せめて5句、間違えずに言えるといい。意味も。

知人で、高校生ぐらいの時に覚えたという憲法の第◯条の一文を丸暗記して、今も言える、と、早口で呪文のように言ってくれる人がいる。
のではあるが、その人の知っているのはそれだけで、あとの学校で習ったであろう、あらゆる分野のあらゆることは成人になってから脳から滑り落ちている。
興味がないことは忘れるのだろう。
脳の省エネ。
憲法はたまたまだと思う。

今日の記事、カンジワルイと感じた人は、いろんな経験がおありだと推測する。
逆に、無い人、いるのだろうか。




人気ブロガーさん

2023-08-26 | ブログ
人気女性ブロガー、ちきりんさん。わたしはファンだ。
以前に、ちきりんさんのことをわたしのブログで書いたこともある。
アタマの良いシャープな人。無駄がない。
月間200万アクセスには、それだけの理由がある。
経歴、経験に裏打ちされた知的エッセンス。
時間を効率的に使い、無駄をしたくない人にはぜひ、オススメ。

凡人が回り道を何周も何十周もしている間、秀でている人は、短距離、短時間でポイントを掴む。
羨ましいかというと、そうでもない。
偶然が生み出す産物には、脳で計画し整理し考え出す内容と、また違う色合いのものがある。
道草をすると、なかなか目的地には辿りつかないが、道草こそ美味しいものが隠れ、宝物が詰まっている。
ちきりんさんなら、結果論の後付けでしょ、と一言で片付け一蹴されることだろう。

いいの、いいの。
人生に意味なんか無くても。
後付けの意味は、自分を納得させるためのおまじない。

もちろん、仕事、ビジネスはそういうわけにはいかない。
合理的で能率的でなければならない。
仕事においては、自己満足は仕事が終わって成果が出て評価の後から。
やっている最中も生き甲斐を感じているなら言うことはない。
「勉強が好き」という義務教育中の子供ぐらい、世の中にはあんまりいないかも知れない。
いたとすると、恵まれている。幸せだ。

大した功績も残さなかったわたしが、負け惜しみをして逃げるわけではないが、わたしはもう仕事から離れた。
リタイア人生。
なので、仕事を軸にした価値観は、自分にとっては卒業した。
(ああ、卒業できて幸せ)

とは言え、仕事以外の日常生活にも、老後の価値観や見方、ものさしは、ある。

「人は妬みの気持ちがあると匿名でなければ吐き出せない」と、ちきりんさんの名言として、とあるブログで紹介されていた。
マイナスの感情は、役職などがある現役の人なら公表できないだろう。
だがしかし、リタイアしたからと言えど、自分自身のプライドもあり、やはり名をあげては嫌だろう。
中には匿名でない実名の人が発信したとしても、この人、誰?と、誰もが知らない人だったら?
無名では発信しても影響力はない。

逆に無名人は気楽だ。
お行儀が悪くても、誰も見ていない。
ではあるが、悪質なコメントは犯罪である。
野放しの悪態、誹謗中傷も、書き逃げは社会に容認されない、許されないようになりつつある。
ネットで匿名だからといっても、良識、常識が必要だ。

さて、影響力のないわたしは、いつものびのび、無名、匿名を満喫している。
が、リアル社会で繋がっている面もあり、ハイブリッドカーのように、両方の良いとこどりを享受している。

と、こんなに長い、ちきりんさんの感想。
わたしのブログは、ちきりんさんの真逆で、伝えたいことを精査、整理しないで、ひたすら書きたいことを思いつくまま書き散らしている、無駄時間の権化である。

とは思いつつ、今、ちきりんさんのブログを読みに行くと、ああなんと面白いことか。
興味あることや、問題意識の喚起提案に、ぼーっと眠っている眠たい意識に水をかけるような記事が次から次へと。
そりゃあ人気なはずだわと、今更ながらの感想である。








下山迷路

2023-08-25 | 老い
下山。
膝に悪いらしい。
登山、行きは苦しいけれど、頂上に登る使命感、期待、楽しみがある。
なんと言っても、これまで耳にしている、まだ見ぬ景色が見られる。

途中までしか登らず下山するのも勇気が要るそうだ。
有名な登山家がそう言っていた。
一番大事なのは、自分の命を守ること。
そのためには、勇気を振り絞って下山する。
危険な山を登るのは勇敢で脚光を浴びる。
逆に途中で降りるのは、不名誉で臆病者のレッテルを貼られる。
それでも理性を振り絞って下山する。
一旦、スタートすると勢いが付いて、なかなか進路変更しにくいものだ。
まして下山など、プライドが許さない。

自分の命を犠牲にしても挑戦したい魅力があるだろう。
自分との闘いになる。

それは冒険家の挑戦。
一般人でも、危険な魅力は身近にたくさんある。
日大生の麻薬然り。
手を出すと危険だが自己責任でスリルを味わう。
手軽で日常生活的で、そんな大それたことだという、あまり自覚がない場合も多い。
法律に触れなくても色んな誘惑はある。

下山の話が、またまた脱線している。
自分の意思で、自分の状況を見て下山する。
が、姥捨山に連れて行かれようとすると、全力で抵抗する。
そんなに悟りを開いている人はいない。
まして、自分の命と引き換えに。
命の灯火を自分で消したくなる、こころの病気もある。
ふと死神に呼ばれる。
いつも家族は目が離せない。
そういう家族を抱えると、家で1人にさせられず外出もろくに出来ないという嘆きを何人か直に聞いたことがある。
大変だ。

と、またまた下山から話が逸れた。
人生の下り坂を降りる下山。
生物は生まれて死ぬのは、当たり前。
生命は生まれ、いずれ消滅する。
にもかかわらず、生きていて元気なのに、下山。
だが、摂理である。

いつまでも嘆き苦しみ執着するより、あっさり捨てると楽。
だが、そんなに教科書のように簡単にいかない。
過去を捨てろとは言わない。
捨てる必要はない。
過去は過去で、それを積み重ねた結果、今を形作っている。
良いことも悪いことも、過去を受けいれ、これからの時間に目を向ける。
悪い過去なら捨てて無かったことにするのは合理的だ。
が、良い過去にいつまでもしがみついているのが厄介だ。
損切りか、勝ち逃げか。英断しなければ終わらない。
宴は延々と永遠には続かない。
時代が移り、過去の栄光は消えて、虚無感に襲われる。
良い目をした人ほど、過去に縛られる。
ま、仕方ない。
そういうものだ。
悪い過去でなかっただけマシだ。

住まいや生活も縮小しダウンサイジングする人がいる。
省エネ。
大きくするのは大変だが、小さくするほうが楽かも。
無理やりではなく、自然に徐々に成り行きにまかせてが良いのでは。
歳をとると食が細くなるように。
いつまでも大きいままが良いなら、そうすれば良い。
規定やルールは個人個人によって違う。
(周りに多大な迷惑をかけなければ)
自分が良ければそれでいい。

旅いろいろ

2023-08-23 | 
旅の広告がたくさん届く。
文字通り、ピンからキリまで。
往復船中泊の弾丸格安ツアーから、飛行機ファーストクラスの旅。
お値段は、200倍ぐらいの格差。
弾丸船中泊旅行は、学生バックパッカーなら良いけれど、老年にはちょっとしんどそう。
かたや、ファーストクラス旅は、寿命が切れる間際に行って早くお金を使ってしまわないと、という駆け込み需要狙いか。

広告も格安ツアーは、デザインなどどこ吹く風、目いっぱいゴチャゴチャ、赤色と黄色を派手に駆使して、隙間なく情報が詰め込んである。
お高いツアーは、値段を見る時に、桁を間違えないように、一、十、百、千、、、と、一つ一つ数えなければならない。

お任せパック団体旅行は、何にも考えず、ただただ着いていくだけで楽だが、どこに行ってきたの?と旅行後に聞かれた時、(例えば)「九州」とか、一歩突っ込んで「南九州」とかは言えるが、詳細はしどろもどろになる。

叔母が旅行した昔は、田舎の家の前まで一軒一軒、団体客用バスが回って来て拾ってくれ、そのまま飛行場に行き、そのまま海外に行き、手続きは添乗員まかせで、帰りも送り届けてもらい、どこの国に行ったのか、おぼろげにしかわかっていない人もいる。
TV画面に映し出される風景が目の前に実際にある、というもの。
後日、TV旅番組で紹介されていると、
「あ、行ったよね、ここ。行った、行った」
と、TVで映る場面と現実で見た記憶を擦り合わせる。
だが、実物よりTV場面しか覚えていないことも多い。

ある団体旅行、、、
南西フランスで個人旅行の日本人と道ですれ違った。
その人は、「どちらに行かれました?」と、不自然でもなんでもなく、にこやかに話題を投げかけてきた。
「この近くの街です。素晴らしいですね」なんて、いかにも地名がわかってない答え。
その人は苦笑い。
こちらも苦笑い。

この団体パック旅行は、至れり尽くせり。
帰国後の旅の記録、思い出まで写真を添えてミニ冊子にして送り届けてくれる。
ありがたいが、これでは復習の機会がない。
あらまあ楽、と、目を細めて手作り日誌を見るが、パンフレットとまとめて保管したら、これでいつでも旅の記憶を確認できると一安心する。
記憶の確定材料が出来た安堵と共に、脳は、定着する前に早々に役割をバトンタッチしたら、あとは、すーーっと脳から消える。
脳をスポイルしてくださる、親切な旅行会社さん。
感謝するものの、あのファイル、家のどこに置いたっけ?


旅の思い出は、状況による。
台風6号とともに行った、直近の九州旅行。
小5孫に感想を聞いたら、「サツマイモが美味しかった!」と。
ん?と一瞬なんのこと?と考えたが、これは、地獄めぐりのワニ園の横で売っていたもの。
彼は大のサツマイモ好き。
わたしもあのサツマイモはかなり美味しかったと思う。
暑い中、暑い日程、湯気がもうもうの地獄めぐり。
あの暑い時期に、まあなんと。
暑さでうだるワニ。
そのワニ園を出たところに、おじいさんが細々と出店で焼きイモを売っていた。
おじいさんの熱中症が心配だ。

と、暑い季節は涼しい地域に、
寒い季節は暖かい地域に、
そう行き先を決めると思うが、我々の場合、暑い時に更に暑い地域に、そしてその中でも更に熱い地獄めぐり。
インバウンドの外国人しかいないのではないかと思うぐらいのチョイスだった。
思い出作りは、何も快適だけが良いのではない。
不自由だったり疲れたり、不便だったりする思い出のほうが記憶に残る。
その中でピカイチ、サツマイモがインパクト大なら、結構なことだ。
旅は手作りは手作りの良さがある。



「退屈」が引き出すもの

2023-08-22 | 日々のこと
わたしのブログは、ひょっとして誤解を受ける書き方をしているかも知れない。
具体的事実も織り交ぜて書いているが、その事実は自分が書きたいこと、言いたいことを軸にチョイスしている。
なので、事実とは言え、一連ではなくスポット的な単発事実が、並べ方によっては誤解を生み、一人歩きしている可能性がないとも言えない。
(廻り廻った言い方)

虚偽はないにしても、読む方に誤解させるような書き方、事実の提示の仕方をしているかも。
悪意はないが、故意の思い入れ(意図)はあるかも。
それなら、ハッキリ書けば良いのだが。
所詮、事実の解説など、自己解釈に過ぎない。
自分に都合よく、見える部分だけを見て考察している。
見えない部分や、見ない部分は確実にある。

歴史がそうだから。
ただわたしは「こう思われたい」という故意の作為的気持ちはない。
自分が思ったままを書いているので、忖度はない。
いいね!をくださる方々にはモチベーションをいただいている。
が、交流を持つと、よく思われたいという忖度が頭をよぎる。
なので、こころの中では感謝し喜んでいるが、具体的に行動して形で示していない。
この機会に、
「ありがとうございます」と一言。

さて、自分流に自分そのものを編集して書いているブログ。
「何もしないわたし」が、最近のテーマになっている。
が、これはやるべきタスク(課題、義務)がある上で、何もしない状態でエネルギーをチャージしている。
本当に全く何もすることがなかったら、廃人の道、まっしぐら。
なので、わたしのブログを言葉のまま、真に受けていただくと、申し訳ないことになりかねない。

ちなみに。
女性学の権威、おひとり様の人生をあと推しする上野千鶴子さんが、じつは結婚していた、既婚だった、、、、
ある日、わたしは、ああそうなんだ、、、やっぱりな、、、
と、へんに納得した。
そうだろうと思った。
おひとり様を貫く決心をして邁進していた女性はハシゴをはずされたわけだ。
ではあるが、「転ばぬ先の杖」的な教え、アドバイスなのだから、悪くはない。
今までにないほどの大型台風が来ます、万全の備えをしてください、命を守る行動をとってください、
と繰り返しTVで緊迫した表情で訴えるアナウンサーに、悲壮な気持ちで臨んでいたら、、、
あら、台風、いつ来たの?

まあ、何も発信せずにアナウンスなしで、いきなりハワイのようなことになるのも怖いし、無事ならそれで良い。

話は戻る。
上野千鶴子さんの夫殿が山男でナイスガイだったとしたら、益々、あーあ、そんなもんだ、と思ってしまう。

選ぶ道、歩く道は自己責任。
考察され納得の指針を示されたとしても、自分でその後、考えなければならない。
頭から丸のみ、盲信してはいけない。
とは言え、人生は賭け。
何が良くて何が悪いのか、後にならないとわからない。

全く何もすることがなく、無理やり暇つぶしでしたことの延長で、思いもよらぬ大事なことを見つけることもある。
意図しなくても、偶然、面白いことに出会う場合がある。
「退屈」は宝物を引き出すキッカケになる。
がむしゃらに見つけようと頑張っても徒労に終わり、あ〜あ、しかたないなあ、と、ふと空を見た瞬間に何か閃くかも知れない。

退屈な瞬間は、「無」の境地である。
それまで色々してきたことが、一旦、無になって、その後に息を吹き返す。
無になる瞬間に耐えられない人は多い。
瞬間ではなく、長い長い時間、年月に長引くこともある。
わたしは、いつも無で、シャキーンとすることがない、が、これも自慢できることではない。

ところで。
認知症の新薬が認可されたようで、ホッとしている。
しかし、アメリカではこのアルツハイマー治療薬、年間380万円かかるとか。
お金持ちにしか認知症回避は出来ないのか。
日本での価格が気になるところだが、なんだかお安くないような予感。
自分のアタマは自分でどうにかするしか手がないのか。

しかし、世の中には色々な脳の病気、精神の病があり、受け入れ機関で働く人は日々大変である。(直接、話を聞くと)
家庭で生活を共にする家族はもっと大変。
逃げ場がない。

体育会系とソリが合わない

2023-08-21 | 暮らし
男性と女性のおおまかな違いに、今朝、ふと気づいた。
例外や個人差はあると思うが。

女性は(わたしぐらいのリタイア年齢になると)、暮らしを楽しむことで日々、充実感を得る。
ものすごくお金がかかるわけではない。
何を食べようかな。
あ、そうだ。昨夜の残りもののカボチャ、ハムとチーズを乗せて焼こうか。
それとも、ミートソースを乗せようか。
一人で自分が食べる、本日のメニューを考える。
生協宅配の申し込み書も、ひとりでほっこり食べられる苺のかき氷、これを頼もう。
今日、帰宅してから食べられるように、宇治抹茶あんみつを解凍しておこう。
(食べることばかり)
何時間か後の楽しみがじわじわ押し寄せる。

好きな器や調度品、花や草木、香りの小物、、、脇役も勢揃い。
小さくなって着れなくなった衣類を手直ししたりして、気分を一新するとまた着れる日が来る。
誰に見せるわけでもなく、自分を楽しませてくれるモノ。
自分のこころの中を表現する絵も描いてみたい。
そう、知人Aに言うと、絵画教室に通わないとね、と反応。
べつに習いたいわけではない。人に見せたいわけではない。
発表会や展覧会に出したいわけではない。
自分独自の表現をしたい。
溢れるままにアウトプットをしたい。
だが、その知人Aは基本から習う路線を譲らない。
二人の話は平行線。
次第に語気を強めて行くわたしに、知人Aはヘキヘキ。
「アタマが痛くなってきた」と一言。
で、その話はお開き。
人それぞれ好みの問題で、建設的ではない話に必要以上に熱くなり、わたしも反省した。

実はこの知人A、、、アタマが柔らかそうでいいなあ、と、第一印象を受けた、、、が、カチンコチンだった。
見誤った。
まあそういうこともある。

そもそもわたしは体育会系の人間は苦手だ。
でもわたしが文系、インドア派なので、ほっておくと全く運動をしない。
老体に鞭打ち、健康寿命を維持するため、自分にハッパをかける意味でも、この、アタマカチンコチン体育会系人間と、運動している。
体育会系は、ほんとに困る。
わたしが「足が痛い、膝が痛い」と無理したくないそぶりを見せると、「絆創膏を貼ったらいいですよ」と、取り計らってくれない。
わざと悪いジョーク。聞き飽きた。
こんな人のペースに巻き込まれたら、健康寿命がかえって目減りする。
自分の身は自分で守らなければいけない。
なので、もうダメ、MAX限界、という一歩手前で音をあげることにしている。
ギリギリまで頑張ると、身体を壊しては意味がない。
根性なし、と罵られようが、わたしは健康寿命を第一優先的に考える。
旅行はもちろんのこと、日常生活にまで支障をきたすようなことにでもなったら大変。
生活の質が著しく低下する。
自己責任。
なので、自己鍛錬や自己向上などには目を瞑り、ひたすら防衛に回る。
自分はもう闘わない局面に来ている。

向上を忘れたら老いるだけだ、と、アンチエイジングで頑張っている人がいるが、それでストレスを溜めていたら、せっかくの黄金の健康寿命が泣く。
無茶はよくないが、何ごとも程々に。
それでは生きている意味がない、生きた屍だと嘆くボルテージの高い、何ごともやる気満々、全力投球の人は、頑張ってください。
人には人の道。
現役こそが生きる証、とパワフルに頑張る人もいる。
だがしかし、もう頑張らなくてもいいなんて、なんと幸せなことかと、わたしは思う。
生涯現役を望む太く短い短距離走タイプの男性脳と、細く長くの女性脳は違うかも知れない。
リタイアして、何をそんなにシャカリキに頑張るのか、わたしにはわからない。
逆に、一気に何もすることがなくなる人がいる。
退屈で死にそうになるらしい。
両極端。
間がない。

前述の体育会系知人A。
常に毎日、何かをしていないと落ち着かない様子。
筋力トレーニング、ボディ・エキソサイズ、ウォーキング、卓球、登山。
体力はあるようで、悪くはないが。
わたしとは足並みが揃わない。
フレイルは現実問題としてはまだ先だと感じているが、いずれ行く道。
今から対策(運動の習慣化、日常化)が大事でもある。
苦手でも少しぐらいは運動したほうがよさそう。
ただし、知人Aのペースには巻き込まれないつもりだ。