蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

キリリと頭脳明晰な人

2023-04-30 | わたし
ブログ村エッセイカテゴリーで、頭がキリリ!!冴え渡る人のブログを読んだ。
長文の説明がとてもわかりやすい。
頭が良いのだろうと感じていたが、これまでの経験や経緯を知ると、やはり頭脳明晰の方だった。
ただし、残念なことに、頭が良すぎると、キレすぎて大変なようだ。
所持しているナイフで、使わなくても持っているだけで自分も傷だらけ。

わたしは、キレが悪いので、自分のキレで傷つくことはない。
鈍いから。
キレないナイフ。
鈍器で殴られたとしても、鋭利な刃物で一突きではない。
ただし出血して外に出ている血は見えないが、内出血していることはある。

キレ過ぎも良し悪しだ。
キレなさ過ぎも良し悪しだけど。

わたしは、基本的なライン以上進むと自分の頭脳処理能力をオーバーして理解を超える。
途中までわかっても進んで行って「わからない!」というところに来る。
わからないことが、実にわかりやすい。
難しいことがわからない、という脳構造。
人も傷つけないし、自分も傷つかない。
昼行燈。
どよ〜ん。

最終詰めが甘い。
脳が暴走、制御不能、ではなく、おなじ制御不能でも、動け!という指令を聞かず、動かない、止まる。
テコでも動かない牛。
ストライキ、スイッチオフ、ブレーカーが下りる。
例えるなら、高速道路でガス欠停車は高速自動車国道等運転者遵守事項違反らしいが、高速道路でよろよろサービスエリアまで辿り着き、ソフトクリーム。
あ、これ、意外に美味しい!ラッキー!と、最初の目的を忘れてニコニコ。
というか、ある日を境に、自分では運転しない。


ではあるものの、、、
突然、まったく関係ないのだが、、、
3年前のダイアリーから自分の行動を遡り、ある調べものをしていたら、かつての人間関係で苦痛だったことを思い出した。
黒い泥のようなものが渦巻く。
心臓に貼り付く、どんより重い不快感。

人間だもの、悪い面も良い面もある。
確かに良い面はあるのだが、悪い面に塗り潰され上書きされてしまう。
どんな良い面があっても、どんな大きな数字でもゼロをかけるとゼロになるように。
その良い面も、理性的に判定するだけで、こころは、全く動かない。
上からかける灰のようなものが一瞬にして火を消し、ぷすりともしない。
いつになったら、客観的なニュートラルな感想を持てるのだろう。
よほど嫌だったんだろう。
離れた後々もまだこんなに嫌いだなんて。
揺り戻しがあってもいいはずなのに。
時間が必要なのか。

嫌いだ嫌いだと叫んで書けば、わたしは救われるのだろうか。
不毛なことをしている。




雨ニモマケズ風ニモマケズ

2023-04-27 | 思い出
わたしが高校を卒業した春の18歳、番茶も出花の頃(はい、昭和です)、新学期までの間、1ヶ月だけアルバイトをした。
勤務は、神戸の某有名菓子メーカー直営レストランだった。
その1ヶ月間しか顔を合わせなかった、後、半世紀近く一度も会ったことがない人々、、、なのに、今でも顔をしっかり覚えている。
提供されるメニューのスパゲッティ・ペスカトーレのガーリックの匂いや、ストロベリーパンケーキのほわほわした柔らかい甘い匂いも、昨日のごとく。

ホールで料理担当の口髭をはやした30歳??ぐらいの笑顔が親しみを感じる、味のあるお兄さん。
白調理服上下に、白長靴。
ウェイトレス、重鎮ボスとしては、真っ白い(と思えるほどの)ファンデーションに真っ赤な口紅で彩られた毒々しい唇の、都会の垢でスレて荒んだ、いかにも意地悪そうな性格が悪そうなひね曲がってそうな(形容長い)お姉さん。(あくまでも見た目)
ウエイターは、軽々ひょうひょうとした、東南アジア系の顔をした細い若い男子。
その他のウェイトレスは、地味だが、どしっとした重量系、貫禄ある若い女性。
さらに、小柄でキュートな若い女性。
もうひとりぐらい、ホールにおじさんがいたかも知れない。が、忘れている。

重鎮ボスには、わたしが4月から通う学校の名前を噛みそうになりながら彼女の口から発するのを何度か聞いた。
休憩時間は、別の場所に休憩所があったと思う。
ご想像の通り、わたしは「大正の姫」と侮蔑を込めて呼ばれていた。
当たっている、うまいこと言う。
が、いじめられた記憶は全くない。鈍いだけかも知れないが。
彼らと話をした記憶も全くない。
共通話題もなくお互い無関心、無関係なのだろう。
今思えば、わたしは浮いていたのだろう。
たった1ヶ月だけのバイトだし、問題が起きてもつまらないし、皆の意識下になかったのだろう。
期待もされず邪魔にもならず、いてもいなくてもよく、流れて来る石の一つだったのかと。(石って、流れる?)

お客さんでは、後のボーイフレンドになる男子が彼の友達と通って来ていた。
その友達と、どうしたらわたしに声をかけられるのか、相談していたらしい。
友達も後のボーイフレンドもわたしも、同じ歳だった。
このボーイフレンドは、背も高くカッコよくオシャレで頭も良かった。シティボーイ。
降って湧いたような恋バナ。
今も顔、はっきり覚えている。
懐かしい話。

それはそれとして。
学生時代、大手百貨店で夏季バイトをしたことがある。
その中に、仕事をしたことが全くない、ピカピカの奥様もバイト仲間としてご一緒させていただいた。
貫禄ある部長みたいな上の方とお茶に二人で行ったことがある。
この部長は、わたしを実社会にはかすりもしない人間のように感じているのではないかと、言葉の端々から感じた。
社会との接点はまるでない、空間に生きている、無味無臭、人畜無害な若い女性??
おどろおどろしい世界に、誰もわたしを誘ってくれなかった。
わたし自体もぜひ誘って欲しいとは思わなかったし、別に興味津々でもなんでもなかった。

また違う機会に、とある夏季講習で知り合った男子大学生に、ドライブに誘ってもらったことがある。
同じく彼も、わたしを別の惑星の住民のように感じたように思う。
着いて行ける、着いて行けない、ではなく、接点がない、という宇宙人ぶりをわたしは発揮していたような気がする。

生活感もなければ、生きている熱さもなければ、退廃的でも悲観的でも悲壮でもない、、、
社会に出たとは言え、社会には全く出ていなかった。

今も社会に出ていないような実感がある。
きっと一生このまま、社会には出ない、病室療養か、自宅軟禁か、施設収容か、そんな感覚がある。
だが、閉じ込められている部屋の鍵はない。
あるとすれば、住宅警備システムのロックと解除。
自分で開けたり閉めたりする。
外出、外泊自由なのに、快晴でも一歩も外に出ない日もある。
別にこころを病んでいるわけではない。
自分の城なんだろう。
頑丈な城を長い時間かけて築いた。
(期間限定で時々、お城食堂に、ちびっ子とその親達が無料食事をしにやってくる)

わたしは遠くに行っても、ちゃっかり元に戻ってくる。
別に誰が待っているわけでもない。
なんの束縛もない。
自分で勝手に戻って来る。
お掃除ロボットのルンバみたいに、お掃除が済んだらチャージ器に乗っかる。

時を戻そう。
高校卒業時の春のバイト。
一人だけ浮いているのに、いじめられても何の不思議もないのに、なんの摩擦もトラブルも不安も不満もなかった。
これは、何なんだろう。
これに共通するものがあるように思う。
天然自己装置??

幼稚園から高校卒業まで、わたしは1日たりとも雨の日も風の日も休まず学校に通った。
わたしの子供たちもそう。
質はともかく、身体とこころが丈夫なんだろう。
「健康は健全なこころから」かと、宇宙人らしからぬ当たり前のことを思う。

追記
だが、こころは健全でも病気になることはある。


眠い自分

2023-04-25 | 暮らし
最近はあまり自分が楽しみながらブログを書いていない。
つまり、ノッてない。

ところで、女性の一人暮らしは、男性に比べると楽しいかも知れない。
何を作って食べようかな、何を買って食べようかな、と、自分で出来る。
家の中を自分の好みに片付けたり、縫い物をしたり、掃除をしたり、好きなように出来る。
男性は家事をしてこなかった人が多いから、家に一人で居てもTVを見るぐらいしかすることがなくて退屈だろう。
生活を工夫して楽しむノウハウがない。

一人暮らしのシニア男性が3食手作り食事をSNSでアップしていて、美味しそう。
なかなかマメな人だ。
趣味は料理なんだそう。
趣味と実益を兼ねていて結構なことだ。

脳にだけ刺激を与え続けるのではなく、生活を楽しむことが出来れば良いのに、男性は生活そのもの、暮らしを楽しむことをしないような気がする。
暮らしと切り離した趣味に没頭したり、スポーツや、車、登山、などなど、暮らしとは別の、特別なことをしないと面白くないのではないだろうか。
そんな人は暮らしのベース、つまり家事はどうしているのか。
器用にこなす男性もいる。
逆に、不器用な家事嫌いの女性もいる。

わたしに関して言えば、家に一人で居ると、わりとご機嫌だ。
退屈することもあるが、活動日とほぼ日替わり、交替なので、退屈は刺激の下準備、メリハリになる。
たくさんの退屈があってこそ、ほんの少しの刺激がスパイスになって効く。
わたしは、歳を取ったなあと、つくづく思う。(悪い意味ではなく)

去年は、ちょっと刺激があり(趣味分野で、ワタワタした)、そちらに気を取られすぎ、とても大事なことをすっかり忘れて、大変なことになった。
実社会(実業分野)で大ダメージ、被害を被った。
まだ次善策は整っていないが、被害を拡大せず食い止める手はとりあえず打った。
大きな地滑りはストップ状態ではあるが、小さな地滑りは収まらず良い方向には向かってないものの、静観、待機。
今年は打って変わって、落ち着きすぎて退屈。
とは言え、昨年の失敗をまだ修復していない。
マイナスは落ち込んだままで、回復していない。
もっと躍起にならなければいけないのだが、騒ぎもせず、落ち込みもせず、未解決なまま、へんに落ち着き、退屈してしまうほど。
どうなっているのだろう。

さらりとした自分。
余計なものが洗い流された感はあるが、大事なものも、同時に流れ落ちてしまったような気がする。
眠くなりそう。
また復活する日は来るのだろうか。
20年早い感想だ。
だが、静かな自分も嫌いではない。
ひっそり動かない日々を楽しんでいる。






退屈すぎて

2023-04-24 | 老い
この頃、ぼかっと空き時間がある。
ほとんど自由時間なのだが、自由時間と自由時間の間に、空きがある。
この空き時間を持て余している。
さあ、次は何をしようか。

以前ならすぐに次の行動に移っていた。
せいぜい、時間が空いてもコーヒーを飲むぐらい。
ところが、、、
最近は違う。

ごはん、、、もう食べた。
コーヒー、、、飲みすぎて胃が痛い。
お菓子、、、食べ過ぎて体重増加中。
TV、、、面白くない。
スマホ、、、ほぼ中毒、依存症のため、自粛。
目にも悪いし。

ということで、ぼーーーっとしている。

去年はこんなこと、なかったよね?
去年の今頃は何してたんだろう?
ダイアリーをチェック。
よくわからない。
一昨年の今頃なら、すごくよくわかる。
5番目孫が産まれた年。
バタバタ、バタバタ、動きがあった。

ひょっとして、何も気になることがなくなり、脳がふやけてしまった?
それはあり得る。
幸せボケ。

ストレスがある時は、ストレス状態でない時に思いっきり自分時間を貪り満喫し、次のストレスに備えようとする。
が、次のストレスがないことが続くため、脳がサボる。構えない。備えない。
あ、別に頑張らなくてもいいんだ、と。
たぶん、これ。きっと、これ。

今、読んでいるFIREブログでは、シリーズで仏教の解説を連日されている。
科学者の実験を踏まえた実証的理論も含めて、凡人にわかりやすく解説してくれるので、大助かり。
難しい専門書を読まなくてもよい。
というか、読めない。アタマ悪くて。
数秒後に眠りに落ちるのが見えている。

ちなみに、この仏教理論、得度?した人からも何度も教えられたことがある。
僧侶になれるけれど、なっていない一般人だった。
その人自身が自分の人生の参考にした文献を見せてくれたり、目指す境地を実践している人の書いたものを見せてくれたり、わかりやすく何度も説明してくれたり、、、で、わたしは頭の中には薄らと入っている。

人は自我などない、ということ。
自分の意識や意志で行動しているのではない。
無意識で導かれるままに行っていることを、あたかも自分が考えて選択してやっていると勘違いしているそうだ。
最初に聞いた時は、そんなことはない、自分で考えてやったのだ!!と反発したが、色んな方面で色んなものを読むと、同じことが書かれている。
どの人も同じ仏教の教えの一部分を取り入れたのだろうか。

ところで、、、
これからユングの心理学を読もうという、ブログ村エッセイのブロガーさんを今朝、初めて見かけて、ブログを読んだ。
自分の意識と無意識の間を探ろうと、ユングに挑戦するそうだ。
この人は、わたしと共通点がいくつかある。

天然と言われるが、自分には自覚がないこと。(人とズレているらしい)
やりたいことはほぼやったので、自分が知らない部分の自分を発見してみよう、と、解析に挑む。

わたしは、あまりその、無意識の自分を知る行為はしたくない。
最近は、うんざりするほど知った。
知りたくないのに。
もっと知るのは怖い。
暗黒の沼にズルズル引き込まれていくようで。 
なので、あえて意識的に必要もない時は、無意識の世界を覗かない。

必要な時とは、、、(これが大事)
あれ?ここに置いていたアレがない!
置いてから1メートルの間になくしている!
どこ?どこ?どこ?

発見した時は安堵する。
特に不可抗力の場合。
うっかり床に落としていたり、隙間に入り込んでいたり、何かの陰に隠れていて見落としていたり、、、。
自分一人の場合は、納得できる。
あら、また、不注意。と。

問題は家族を巻き込む時。
特に次女とのやり取りは最悪。
二人のうち、どちらが行ったのか?
わたしじゃない、と、どちらも主張するが、絶対的、物的証拠として、その物は右から左に、あるいは、上から下に、明らかに位置が変わっている。
これがじつに厄介。
精神の病を発症する入り口になる場合もあるかも知れない。
が、いつものことなので、突き詰めずに曖昧に放置する。
天然力を発揮する。

と、仏教やユングを引き出すまでもない、泣き笑いの天然の毎日を送っている。



女性の敵、ダメ男

2023-04-22 | 映画
わたしは映画の制作サイドの人間でもないし、スポンサーでもないし、映画愛好家サークルにも関与していない。
なので、忖度なしで書く。

ものしり博識でもなく、思慮が深いわけでもない、作り手側の苦労など全く配慮せず、無責任に感じたままを軽薄に書く。
(前置きが長い、、、)

浮雲。
1955年(昭和30年)の映画。
監督は、成瀬。
世界の黒澤明と二分するほどの名監督だそうだ。
そもそも、日本の名作を観てみたら?と知人にススメられて観た。
レンタルDVDの入手は大変だったが、まあ仕方ない。
インターネット配信を避けたので、そうなった。

家の大型TVでも観れるのだが、使い方がわからないので、中型TVのモニター画面で観た。
DVD環境は良くなかった。

と、まだ前置きが続く。
なんと、(当たり前だが)モノクロ。
わたしはモノクロの映画を観たことがない。
と思ったが、「ローマの休日」はモノクロだったか。

断片的感想を時系列ではなく、アットランダムに並べる。
主役の高峰秀子の鼻が美しかった。
最後に病で伏せた時に、下からのアングルで、まるで整形したように鼻筋が通り、鼻先が(丸い団子の対極で)尖っていた。
こんな感想を一番初めに書いたことで、落胆された熱烈映画ファンもおられることだろう。
忖度なしとは、こういうことは普通にある。

眉毛も、細く流動的に放物線を描くように綺麗に引かれていた。
当時の流行りか。

あまり大袈裟な表情変化は見せず、目が命。
それと、セリフ。
あんなにハッキリ明確に感じたことや胸の内を言葉で表すなんて、じつにけしからんとは思うが、笑ってしまった。
ごめんなさい。ファンの方。

「目で演技しているよ」と、鑑賞をススメられた人に言われたが、目、以上に、セリフ。
あんなにしっかり言葉で発すると、余韻も想像力もあったものではない。
どんな鈍感な人も、想像力が働かない人も、あれならわかるだろう。
恐れ入った。
オトコとオンナ、情念ドロドロをあんなにみっちり口に出して言う???

と、枝葉から書いた。
総合的に見ると、名作と言われるだけあって、映画学校のテキスト、お手本として学ぶには必須だろう。
映画の歴史、背景、文化など、一番はじめに習う事のようなかんじ。
娯楽作品としてはよく出来ていた。
観客は、スクリーンに吸い込まれていくかのごとく、ストーリー展開に全身で没頭する。
ジェットコースターに乗って時には水しぶきも浴びて楽しむかのごとく、わたしには、現実を離れた100%虚偽、作り物、創作、フィクションに感じた。
つまり、そりゃないやろ、と、感情移入は出来ない。
しかたない、わたしが生まれる前の映画だ。
とは言え、時代をはるか遡る歴史ものでも普遍のテーマがあったりして、時を超えて魂を揺すぶられることはある。

魂以前の問題で、わたしの経験値が低すぎて、想像力が働かない。
ヒロインは自立して一人でも生きて行けるのだが、ダメ男との腐れ縁をずるずる続ける。
ダメ男は、ヒロインをはじめ、ダメ男の妻や母、他の女性やその夫など、全員を不幸にする。
心臓を切りつけられるようなキツイことをヒロインに言われても平気。
頭が悪いのか?
農林省のお役人の役柄にしては、どんな頭脳、神経をしているのか。
太宰治似の、めちゃくちゃオトコ前。
だれが見ても嘘で、嘘!と言われてののしられても、平気で嘘を言う。
わしゃ知らん、と、嘘をつく。
優しい嘘か。
そんな嘘なら、「復讐するは我あり」の緒方拳扮する詐欺師のほうが、まだマシ。
(悪人ランクとしては、犯罪者のほうが断然酷く強烈だが)

と、なんであんなに賢い女性が、あんなダメ男に翻弄されるのか。
そこが解せないところが、フィクションならでは。
林芙美子原作。
多分、原作以上に、よく演技されていると思う。(原作は、読んでいないが)

宇宙から宇宙人が攻めてくるぐらい、わたしには感情移入できなかったが、映画としては面白く、楽しめた。
江戸時代の人が、浄瑠璃や歌舞伎、能楽に魅入ったように、話のストーリーとは関係ない次元で、芸能、娯楽を堪能するのかと想像した。
あるいは、ホラー映画や、歴史もの、犯罪ものなど、自分とは関係ないところから鑑賞するには、テクニック的に観客を唸らせる。

しかし、あんなに、嘘とわかっていても、目の前でイケメンダメ男に、優しくされると、参ってしまうのだろうか、、、??
宇宙人は、想像以上にミラクル、パワフルなのだろうか。

わたしは、自分が幸せになる道しか選ばないので、能動的にダメ男を選ぶ女性の心境が理解できない。
が、きっと宇宙にはいろんな生き物がいるのだろう。

しっとりした感想を書けなくて、申し訳ない思い。
だって、わたしは女たらしダメ男、キライなので、どんなに擁護されても、拒絶反応、アレルギーを示す。
インスパイアされ、映画とは別の私情が爆発してしまった。
キライキライと書いていると、どんどん熱くなってくる。
(太宰治、大好きなんだけど)

映画の素晴らしさを書こうと思ったのに、ダメ男への嫌悪感が倍増し、書いているうちに敵意が剥き出しになってしまった。
それと、令和の今の時代ではあり得ない、セクハラの嵐。
あり得ないほどセクハラは不愉快この上ない。

ラストは病死で悲劇が締められるが、ハッピーな明るい家庭だったとして、最後に病死だったとしたら、どんなかんじなのかと想像した。
幸福な人生も不幸な人生も、残される側にとっては最後は同じなのかと。
見る側のシュミレーション。

それだけ感情が昂るのは、影響力のある映画だということだ。
「女が階段を昇る時」や妻シリーズも、レンタルして観ようかと思うぐらいだから。
たぶん、決めつけられた理想の女性観に、また頭から湯気がもあもあと立ち上がることだろう。
それはそれで、結構なことだ。
無関心よりは。

だが、コメントまでいただき期待されていることだと思うが、熱烈映画ファンの方には無神経、無理解のこの記事をお読みになった、残念さ、無念さを想像すると、こころが痛い。




価値観の違い

2023-04-20 | わたし
わたしは、自分の脳がピンとキリで構成されている。
真ん中がない。
両極端。
意識と無意識には、かなりの開きがある。
自分では出来ないくせに、意識や知識が邪魔して、理想を脳内で形作る。
自分の身の丈に応じていない、アタマの中だけでの基準がある。
逆に、自分自身が実際出来る能力に応じた基準がある。
この基準のギャップがかなりあり、いつもわたしを悩ませる。
口では高い理想、願望を語り、美しい?涙をはらはらと流すくせに、実際には全くと言っていいほど、やらない。
「出来ない」と「やらない」の間に横たわる、頑として動かないものに悩まされる。
実は、これが最大の元凶である。
自分でも持て余している弱点、欠陥。
この、「出来ない、やらない」スタンスを出来るくせにやらない、と捉え、やらせようと、今、他から圧力がかかり躍起になられている。

あるFMラジオDJが放送で言っていた。
「僕はやる気はあるんですけど、しないだけなんです」
やる気がないわけではなく、ただ、今はしないだけなんだそうだ。
やる気をチャージしている時期か。
その後の動向で、口先人間なのか、有言実行なのか、客観的に評価される。


「やる気スイッチはどこにあるんだ?」
と趣味仲間に凄まれる。
やる気があれば出来るはず!と、わたしを追い詰める。
やる気はあっても出来ない。
このデリケートな部分に踏み込まれると、過敏になっているので、申し開きの自己主張が出来ず、代わりに涙が出る。

ある種のパワハラではないかと感じる。
パワハラの元から距離を置くのが解決策である。
遠ざかる。
被害を受けないようなディスタンスが必要。
距離を縮めるには装甲車に乗らなければならない。

わたしはいつも自分の限界を超えて辛抱し過ぎて、泣きを見る。
自分が傷付く前に自主的に撤退しないと、また失敗を繰り返して摩耗する。
いい加減に学習しないと。
「出来る」と「出来ない」を擦り合わせ、折り合いをつけなければいけない。

それはそうと。
わたしのその、自分はどうなのよ?出来てるの?と矛盾を孕む一種の脳内ラグのせいで、思考が乱れる。
失礼この上ない、けしからん(と自分でも思う、人を見下したような)感想を胸に抱く。
自分も出来ないくせに。
が、自分の能力が目の前の相手を上回ってしまうと、著しくイライラする。
自分と同質の鈍さが燗に障る。
出来ない相手に、心の中で暴言を吐き、侮蔑の感情が湧き出る。
だが、そういう想いを抱く自分が許せない。
思い上がった包容力のない未熟な自分が。

逆に自分の鈍さ、ドジさに、ブチギレられた経験が3年ぐらい前にある。
だが、わたしにブチギレた相手も大したことがない、伸び代余裕のないカツカツの能力の持ち主だった。
自分がブチギレられた、そういう経験を通し、イライラの吐口や収まりどころはない。
蒔いた種は自分で始末するしかなく、自分に跳ね返ってくる。
自分の器の小ささ、マイナスから発生した、自分の狭量なドロっとした黒いもの。
時として、押しつぶされそうになる。
それを抱え、菩薩にはなれない自分と闘う。
省エネ実践者としては不毛な闘いだ。

地面に穴を掘って、思いの丈を叫びたい。
日本の裏側、ブラジルあたりで、わたしの叫び声が聞こえるかも?
○チャンネルに無記名で投稿する?


それと。
突き詰めたところの価値観がどうしても合わないことがある。
誰にも微妙な価値観の違いや温度差はある。突き詰めなければよい。
が、気をつけているにもかかわらず、流れから、その合わない部分がぶつかってしまう。
お互い、一歩も引けない。
ばーんと繋がりが破壊されるだけ。
しかし、他の面で共有するものがあると、ぐっと我慢。
破壊はいつでも出来る。
とりあえず、引き下がる。撤退。
戦わない。
なぜどうしても価値観は、一致も融合も出来ないのか。
一歩も歩み寄れないのか。
仕方ないからその部分は切り落として、片目や片足だけでまた戦いに出る。
自分が変化して、その部分がなくても大丈夫だと思える日まで、戦いを続ける。
自分がクリアしたら、晴れてサヨナラする。
乗り越えるまでは、短気を起こさず忍耐強く辛抱強く頑張る。
ゲーム オーバーまで諦めない。

当たり前で今更感があるが、、、
どうしても価値観が違う点がある場合、距離を取って一旦休戦するのが自分を快適に保つ自己防衛策である。


いつも低温

2023-04-19 | 日々のこと
うちのハナミズキは、1本の木に2色(白と赤ピンク)の花が咲く。
一度で二度、楽しめる。
太い幹が下のあたりで二つに分かれている。
単線でなく二車線、複線。
が、いったいどうなっているのか?
家主に似た?

まあそれはよいとして。
映画DVDは、明後日に鑑賞しよう。
夜はニュースやTVを見るため、まとまって時間が取れない。
楽しみにしよう。
メリハリの一つ。

それにしても、、、。
映画をよく観るようになると、時折、制作側の目線になることがある。
役者や脚本もそうだが、照明や天気などにもこだわりを感じる。
アングルやカットにはもちろん、意図がある。
だが、これは正しい鑑賞の仕方ではないような気がする。
お勉強である。
わたしが考える正しい映画鑑賞法は、何も考えずに没頭すること。
主人公や登場人物になりきること。
こんなん、ありえへんわー、なんていうのも有り。
何が言いたいのか、何を訴えているのか、と考えると、長文読解の宿題をしているような気分になる。
スクリーンに身を任せるのが理想的。

だが、わたしはついついもう一人の自分や3人目や4人目が知らないうちに出てきて、あれこれ耳元でうるさい。
ノイズは邪魔だが、いろんな神経が騒ぎ出す。
(精神の病気ではありません)

映画を見終わった後に、みなさんの感想などを読んで、参考にしたり、想いや理解を深めたりするのは良いと思っている。

ちなみに、中国や韓国で興行収入が日本を超えてしまったという「すずめの戸締り」(新海誠監督)も観たい映画の一つ。
同監督の他の作品「天気の子」(2019年)「君の名は。」(2016年)は、映画館で観たのだが。
街の風景や建物、部屋など、実写風のタッチが好きだった。
わたしはジャンルには拘らないものの、ヤクザ映画やバイオレンスものは、嫌いである。
アクションものは、わりと無感動。
ヒューンドラマやミュージカルが好き。
ではあるが、ストーリーが難解なものは、パス。
単細胞のわたしの脳みそには何が何だかわからない。

ちなみに、こんなに書きながらも、映画はものすごくハマっているわけではなく、わたしにとっては、ちょっとしたアクセント、彩り。
時代考証された街中や建物、(架空の)人々を見ると知識として入ってくる。
(時にはヘンなこともあるが。
自然の風景、風俗を入れた現代ものだと、その時代を反映している)
が、出かける口実のようなものか。
だから、家では映画を観ない。
今回だけは特例である。
1回きり単発だろうと予想したので、定額の配信にはしなかった。

わたしは、音楽も映画も、本当にほんのちょっとカジる程度。
しかも読書はしない。FMラジオの聴取者。
最近は、NHKオンリーで、ニュースと歌番組、ドラマ、ドキュメンタリーぐらいしか見ない。
が、マダガスカル島(アフリカ大陸の南東)の旅の番組を先日、民放放送局で特集をやっていて見た。
案内役のナスDが異常なまでに元気な型破りで超人的な人なので、それも面白い。

と、どうでもいいことばかり書いて、一向に終わらない。
明日は早いので、終わります。




映画を観た帰りに映画DVDをレンタルした

2023-04-17 | 映画
最近、退屈である。
で、今日は意を決して、観たい映画をレンタルした。
TSUTAYAで借りたのだが、そもそもTSUTAYAは、我が街から撤退してしまった。
近隣のTSUTAYAは、電車で行かなければ行けない。
で、わざわざレンタルするために電車で出向くのもなんなので、用事がある(と言っても映画を観る)街のTSUTAYAについでに寄った。
ちなみに観た映画は、豊川悦司主役の時代劇。「仕掛人・藤枝梅安2」
池波正太郎作品。暗い映像だった。

で、帰りに寄ったTSUTAYA。
わたしは初心者マーク、ピカピカ。わからないことが、いっぱい。
支払いや手続き、全て、人を介さず、機械。
初めてなので、入会手続きをはじめ、つきっきりで係りの人にやってもらった。
次から自分で一人で出来るか、全く自信がない。
が、とりあえず、わたしがまだ生まれてない頃の映画を借りた。
そんな古い映画を観てどうするんだ?
何がしたい?

知り合いに、観たら感想を聞かせて、と言われた作品なので、それが気になった。
男女愛のドロドロ映画だそうだ。
高峰秀子主演。成瀬監督。日本の名作。
とりあえず、観よう。
1週間以内に返却しなければならない。
期限を気にしながら何度もTSUTAYAに出向くのは大変なので、郵送で返却する手続きをした。


ちなみに、只今上映中の「シン・仮面ライダー」の庵野秀明監督。
オタクと言われ、こだわり、クセがある監督。
NHKテレビのドキュメンタリー番組で何度か取り上げられている。
映画を作る側には、相当な思いがある。



今日も明るく太々しく

2023-04-16 | 老い
蝶ブログ、過去記事に、またまたどなたかの足跡。
4年ほど前の、姑の病気と悪戦苦闘していた記事である。
老化と病によって、脳が壊れかけた姑。

聞きたいことだけが聞こえ、見たいことだけが見える。
聞きたくないことや見たくないことは、一切聞こえない、見えない。
そんな状態の人に、何を言っても、何を説明しても、何を提案しても無駄。
自分が思い込んだ思考だけしか、脳が動かない。
同じ目線に立ち、相手の気持ちになり、こころに寄り添い、、、なんて菩薩みたいなことをするなら、相手を、見た目の可愛くない壊れた老人形だと思えばよい。
まじないをして、老人形をかわいい姿に変えるのも良いが、魔法使いでないと出来ない。

わたし自身もその予兆はある。
壊れた予告のようなものを日々、断片的に感じる。
認知機能の衰えである。
出来ると思っていることが出来ない、ほんの昨日まで出来ていたのに、1ミリ、足が昨日より上がらなくなって、モノにぶつかる。
もの忘れは、冷水シャワーを浴びるような気分。

一昨日、マイナンバーカードの電子証明書、有効期間が切れたため更新手続きをした。
この手続きは、役所で対面でしか出来ないらしい。
パスワードをしっかりメモして控えて現場に臨んだが、窓口で、あれれ?無い、無い、、、と焦った。
何度も足を運ぶのは嫌だから、あんなに厳重にチェックして用意したのに、、、
4枚入れた用紙が、4枚ともあるのに、肝心のパスワードがない。
しつこく、あちこちをほじくり出して探していたら、窓口の係の女性が、「パスワードは初期設定できますから大丈夫ですよ」とわたしのモタモタに痺れを切らして言った。
「いえ、徹底的に探します」と、へんに頑張り、かえって相手に迷惑をかけているわたし。(困る痛いタイプ)
だが、どうしても見つからずギブアップしたわけではないが、(相手が業を煮やし)言われるままに新しいパスワードを渋々設定し直した。
でも設定中も、まだ執念深く探していたら、4枚の用紙のうちの一枚に、自分で書き込んでいたものを発見。
パスワードが出てきたので、元のパスワードには出来ませんか?と、わたし。
一旦、設定し直したのにまた、元のパスワードに変更!!??
窓口係にしてみると、なんとめんどくさい、一市民。
しかも業務時間は17:30で終了なのに、時計を見ると17:10。
(わたしは、まだ時間内だから駆け込みで行けると思っているが)

そもそもマイナンバーカード、めんどくさすぎる。
電子証明書は5年しか有効期間がなく、しかも出向かなければならないなんて。
マイナンバーカードを作った年によってはIDナンバーが発行されていて、スマホや郵便などでも対応できるようなかんじだが、わたしの場合は、たぶん、それより前に作ったから電子証明書有効期間通知書にIDナンバーがない。
不便だ!!
と、怒りの矛先を変えるわたし。
たまたま担当の女性が優しい方だったので、わたしは傷つかずに良かった。
以前のスマホ機種交換時のdocomoのお姉さんみたいな人だったら、またまたトラウマになっていたことだろう。

と、一昨日の話を差し込んでしまった。

話を元に戻す。
ただ、わたしはまだ自分でわざとやっている、意識してやっていることがある。
趣味分野のことで、どうしてもしたくないこと、動作は、わざと体を硬直させ、足を一歩も動かさない。
脳の指令により、硬(こわば)らせる。
その時に、ああ姑はこれを無意識にやっていたんだな、と、答え合わせをして、現象と原因を擦り合わせる。
脳の中の、自覚する箇所に一旦引っ掛からず、すっと素通り通過して、無自覚神経に誘導するようだ。
それだといいなあ、楽だなあ。
恥も痛み自己嫌悪も自省もない。
自分がしていることでも、自分が知らないことなんだから。
無意識とはなんと気楽な世界。

わたしは、意識と無意識を行ったり来たりしている。
無意識で行ったことを意識下で確認すると、落ち込む。
ジキルとハイドか。
だが、自分の能力の自己評価を下方修正する。
(上方修正ならいいなあ。まだポテンシャルを秘めている?)
いつまでも若い頃のままの能力ではない。
脳機能が一番、顕著である。


無意識にすると、傷つかない。
意識すると、深く傷つく。
神様は、天然のモルヒネをプレゼントしてくれている。
自分の非力を意識したら、絶望して生きて行けない。
知らないわ、なんのこと?なら、明るく生きて行ける。
元々、わたしは天然なので、今日に始まったことではない。
これは救いかも知れない。



ハナミズキ

2023-04-15 | 暮らし
早いもので、もうハナミズキが咲いている。
蕾を見つけた時、え?何かの間違いでは?気候変動?と、本気で思ってしまった。
時間の経過を掴みきれなくなっている。
そう言えば、桜が散れば次は新芽、新緑の季節。
ダイニング、ガラス越の向こうの紅葉(モミジ)は鬱蒼とするぐらい、もわもわとグリーンが、わっさわっさ。
またまた植木屋さんの手配にアタマを悩まされるのかと、新緑の輝かしさに目を見開いている場合ではない。

ふと思う。
すっかり年老いたら、どこか全く違う場所に身を置くのもよいなあ、と。
日々、動きのある孫の成長も目を離せない時期を過ぎたら。
(ちなみに、一昨日は、3番目孫にぎゃんぎゃんギャン泣きされ、ほとほと、まいった。泣く側も、ものすごいエネルギー)
ばあちゃんの家など、なんの魅力も必要もなくなる時は必ず来る。
子どもは自分の世界が出来る。
10歳の一番上孫なら、、、あと4〜5年か。
2歳半の一番下孫なら、、、あと10年、いや、もっと短いだろう。
本当の意味で、もしばあちゃん家に来るなら、単なる食堂として利用されると想像する。
それはそれで結構なことだ。
そのうち、近寄りもしなくなる。
彼らが成人になって、ごく稀に何か託けられて用事で、物のやり取りがあるかも知れない。
だが、就労し始めると、それどころではない。
寝たり起きたりの老世帯に、生存確認してくれるかも知れない。
見守りAI ペットか人形を設置してくれるかも知れない。
それはそれで心丈夫なことだ。
(放置されて、自分で設置するかも知れないが)

付かず離れず、または、離れっぱなし、、、それがわたしの理想。

寝たり起きたりの一歩手前の時期。
わたしが80代中半ぐらい、つまりあと20年後には、息子もそろそろ帰って来るかも知れない。
息子も定年を迎えるお年頃。
夫は首を長くし過ぎて、ろくろ首になっているか、またはあの世か。
あるいは、わたしがあの世か。

あの世に行く年齢は予想できない。
病気になることもある。
何もないと仮定した、未来図。