蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

あんまり明るくない未来予想図

2023-07-31 | 老い
今朝は早くから家を出て母のところに行く。
ほんの一瞬、顔を見るだけだが、片道2時間。
まあしかたない。
ずっと同居して世話をしている人もいる。
アタマが下がる思い。

バス、電車をいくつもいくつも乗り換えるのだが、間に徒歩が入る。
バスも時刻通り来ないことがあるため、待ち時間を多めに取る。
前倒しでどんどん早くなることもあり、目的地手前で、喫茶店やベンチで時間調整をする。
公共交通機関を利用するだけなのに、時間に振り回される。
最終目的地には行き帰りとシャトルバスを利用する。

シャトルバスはお昼時間、11時台から13時台、2時間の休憩が入る。
なので、その時間は外して行かなければならない。
シャトルバスを利用しなければ、タクシーか、地元のバス。
タクシーは値段が高く、地元のバスは運行回数が少なくバス停から遠い。
となると、シャトルバスに頼るしかない。
当然ながら、時間の制限を受ける。

遠距離移動は疲れる。
わたしの実家も遠い。
母のいる老人施設も遠い。
どちらも遠い。
しかたない。

この老人施設には知り合いが多く利用していた。
あんなにキビキビ、シャキシャキしていた人が、あんなところに入るのか、、、
オシャレで知的で行動派で気位の高い人だった、、、
時の移り変わりは残酷なような、しかたないような。
知り合いの仲良し入所者同士、最初は大歓迎だったのが、そのうち大喧嘩。
退所された後は、どうされたのだろう。
あるいは、そのまま他界されたのか?
よく知らないが。


わたしも将来、老人施設に入ることだろう。
我が家と、長女宅の真ん中あたりに位置する(どちらかというと長女宅寄り)、元スーパー跡地に老人施設が建設された。
うちからは、最寄りのバス停より近い。
なので、あそこなら、長女一家も顔を出しやすいだろう。
実家より近い。徒歩1〜2分ではなかろうか。
その頃には、我が家は次女に分け渡しているかも知れない。
旦那さんは老いた両親の住む、うんと離れた遠方の地にある自分の実家に帰っているような気もする。(親の介護)
長女宅と次女宅(今の我が家)は、目と鼻の先。悪くない。
そしてわたしは、これまた目と鼻の先の老人施設。
その頃まで運営されているかどうかはわからないが。
20年先の世の中事情にもよる。
というか、20年先もわたしが健康であったら、という条件付き。

わたしは、しょっちゅう、自宅に戻って、用事だのモノを取りに来ただの、至近距離をよいことに老人施設から抜け出し、徘徊禁止で居室の外から鍵をかけられているかも知れない。
我が家のゴチャゴチャゴミは、見事に全て処分され、ゴミ屋敷からリフォームされていることだろう。
(気が向けば、わたしが元気なうちに、ぼちぼち断捨離もあるかも?ないかも?)
次女も長女も仕事をリタイアする頃。
孫たちは、全国のどこかで勤務しているだろう。
長男は?
うーーん、、、未来予想図にはハッキリした姿が見えない。
まあどこかに居るだろう。
夫の実家を拠点にしている??ことは、あまり考えられない。
が、まだ仕事をしているかも知れない。
わたしは、自宅にヘルパーさんが通うのが理想だが、いずれ老人施設と自宅を行ったり来たりを希望するだろうけれど。
自宅に居られないから入所するのであり、一旦入所したらそれっきりだろう。
子供たちも、ほっとするに違いない。
これは20年後の予想図。
近所の第一希望の老人施設が破綻、閉所していたら、もう少し(車で5〜10分?)足を伸ばすと、他にも老人施設はたくさんある。
どの施設もあんまり良くないけれど、近さ重視。
まさか、今から予約は出来ないだろう。
出来ればいつまでも住み慣れた家で暮らしたいのは山々だ。
が、そうも言ってられない事態が来たら、アタマがしっかりしているうちに、自分の意思表示をしておこう。
でも、ころころ変わったりして。
あり得る。

そうこうしているうちに、電車の乗り換え駅が近づいてきた。

しかし、この未来予想図、夫の姿がない。
どうなってるの?
どこにいるの?

自慢ネタ

2023-07-30 | わたし
自問自答。
自分自身のことで自慢出来ることはあるのか?
ない。
自分自身のことではないことなら、自慢できることは、まあまあ、ある。
親きょうだい、家族、親戚、同級生、知人、、、
、、、
しかし、それを自慢すると、いかにも自分は空っぽだということをアピールしているようなもの。
わざわざ自慢して、自分の空っぽぶりを白日の元に晒し強調するのはいかがなるものかと。
イタすぎる。

昔の人はスゴイ。
何がスゴイかって、、、自分の中身とは全く関係ないことで、敬われたり蔑まれたりする。
お金持ちかどうかで、判断する。
家柄も。
隔世の感。
(もちろん、実力や手柄で立身出世する人もいる。
えぐい方法で成り上がった人もいる)

漫画なんかでは、わざとそういう封建時代的なメリハリをデフォルメしたりしたストーリー展開がある。
故意に安物くさくしてある。
甘すぎる饅頭のごとく。
今でもお金持ち展開ストーリーはウケている。

では。
他の自慢は?
現役時代、偉業を成した人。
今はリタイアして、ただの人。
昔の苦労話や手柄話はタブーなのか?
いやいや、そんなことはない。
なぜなら、人は昔のエネルギッシュな時代の話をすると、目がギンギン輝く。
その時の気持ちや心身を思い出して、ピーク時の輝く自分が甦る。
急に萎んだ風船に空気が入る。
悪くない。
とすると、自慢話はその本人を快活にするのであれば、格好のビタミン剤ではないか。
口がムズムズして言いたいのを我慢して、黙っているのは、かえって精神衛生上、よくないかも。
わたしが知人に仕事の話を投げかけると、待ってました!とばかり。
高齢男性にそういう人は多い。
当時にワープして、若さがみなぎるんだろう。

とすると、あちこちに行って自慢するのが良さげ。
でなければ、同じ場所、同じ人では「またあ?」となる。
1回や2回ならともかく、何回も言えない。
色んな場所で色んな人に自慢すれば、度々同じ人が聞く羽目に陥らなくてよい。
というか、昔話はやめて、今の頑張っている話をしたら、皆んな楽しく聞いてくれたり、活力をもらったり、影響を受けてやる気が出たり、、、良い効果があるかも。
何よりも効果的なのは成功話を共有できる人と話すのが1番よい。
反感を持たれ逆効果な人には、話題を選ぶべき。

とは言え、リタイアの身では活動は100%自由なのに、不思議とモチベーションが上がらない。
悲壮感漂うほどの義務感や使命感のリアル・プレッシャーが背中を押す。
何をしてもいい、自由だー!は、切迫感がない。

皆さんはまだまだ若さがみなぎっていると思うが、わたしはそうではない。
若さがみなぎらなくてもいい、今の脱力状態の自分に本当に癒されている。
これといって別に何かをしなければならないことは何もない。
人によっては、その虚無感や退屈感に耐えられないかも知れないが、わたしは全然。welcome。
自分のことだけを考えたら良いなんて、なんと幸せなことか。
自分第一主義。

ひょっとすると、よほど天涯孤独な人でもない限り、自分だけなんてことはないかも。
が、わたしは優先順位を言っている。
仮に誰かを優先することがあるとしても、自分のため。策略の一環。
後で自分が困らないように。
ややこしいことになったり、大ごとになったりして手を焼くのがわかっていると、自分はちょっと置いておいて、先にすべきことを行う。
何もしないのと、何か、しでかして後々大変、とでは、何もしないといっても、何かしたよりはプラスになっていることがある。
何かするということは、挑戦であり、リスキーである。
「何?こんな事態に何もしなかったのか?」と非難されても「静観してました」と答える。
(100%リーダーに不向きな性質)

何もしないというのは、受動的であるように見えるが、実は能動的に選択して何もしないことがある。
「何もしない」肯定論。

しかし、「しなかった後悔より、して後悔するほうがよい」と、よく言われる。
勇気をもってチャレンジしろ!と背中を押す。
頑張らないより頑張ったほうがよい、ってことだ。
いずれにしても、自分で決めて、行動すればよい。

さて。
自慢話が頭から離れない。
過去の栄光を誇りに生きて行くことの、どこが悪い?
悪くない。
大いに自分を褒め称えたらよい。
文句あるか?
ない。
そもそも自分に誇りのない人など、いるのか?
中にはいて、こころの病気になったりしている。
自己肯定感や明るさを医師に処方してもらった薬で取り返す。

わたしは、これほど自慢できることがないのにもかかわらず、薬のお世話にもならず、明るく自己肯定感ありなのは何故なんだろう?
根が単純なのではなかろうか。
母親譲りの楽天家。

母などは、100%自己肯定感で生きている。
自分の思いが否定された事態もあったが、相手を100%悪者にして、反省や今後の対処法を練る、なんてことはなかった。
あくまでも相手が悪い。自分は悪くない。
自分は正しい。相手が間違っている。
と、そういう母のDNAを受継ぎ育てられたわたしは、反面教師としての母を見て、自省心の塊ではあるが、否定しようにも、何か得体の知れないニコニコ怪物がワッハッハと大声で笑って、なんだか気がつけば、翌日になっている。
本物の母は、ついでにヒステリーでもあったが、本人はまるで自覚なし。
うまい具合に、母だけでなく、父のDNAも入っているので、バランスが取れている。
世の中の皆さんもそうだろうけれど。
(毒母の悪影響から抜け出せず悩む人もいるようだが)


ちなみに。
わたしは、本当はもう少し頑張れば頑張れるのだが、何しろサボりなもので、頑張れない。
頑張らなかった余ったエネルギー(隠し持っている余力)で、頑張れない理屈を考え出して、頑張れないことを肯定する。
どうもエネルギー放出先を間違えている。

頑張れないのか、頑張らないのかが、永遠の迷宮ポイント。

で、自慢の話はどうなった?
もしわたしが自慢できることがあるとしたら、いかにサボって手抜きで生きてきたか、だろう。
自慢したら石を投げられそうなので自慢するのを控えている。
理性的に抑えている。
だから自慢しないのだ。
なるほど。今、気がついた。

皆さんは一生懸命生きてこられたはずなので、思いっきり自慢してください。

口を開けば、愚痴か自慢

2023-07-29 | わたし
わたしは、口を開けば自慢と愚痴しかない。
なので、口を開かない。
そうすると、話す機会は失われ、表情筋は衰え、能面のような顔になる。

愚痴は、日頃の不満や不快感を、自分の努力なしに、少しでも減少させようというもの。
この愚痴話に付き合ってくれる人はいない。
こころのゴミや鬱憤を押し付けられる相手が気の毒。
胸の中でつぶやくか、最強の友、自分の蝶ブログで発散する。
が、はっきり書きすぎると、自己嫌悪に陥るため、やんわりと。
なので、あースッキリした!という爽快感はさほど訪れない。
自主規制により不完全燃焼。

自慢話は、いつもどこでも沸々と湧き上がってくる。
だが、これこそ、こんな臭いがキツイ話ほどない。
ああまたか、また自慢?
と、周りは全く聞く耳を持たない。
しかたないから、TVでニュースを見ている孫に、「あ、このおじさん、ばあちゃんの中学時代の、卓球部で一個後輩やったんよ」と、自慢する。
何度も画面に出てくると、ほらほら!と、何度も自慢する。
関係ない話もついでにしたりして、孫はもう聞いていない。
この話、孫を使って、じつはここ、ブログで自慢している。
自慢したくて仕方ないようだ。

そもそも何故自慢したくなるのか。
自分の手柄でもない、自分のことでもないことを。
自分のことだったとしても、「⚪︎⚪︎に行った」だとか、過去の出来事自慢。
自慢ではない話はないのか?

全く関係ない話は、これまた興味がないと聞く側は退屈この上ない。
共通点があると、お互いにウィンウィン。
例えば、歴史上の隠されたエピソードだとか、聞いてためになるし、面白い。
個人的考察が入ると、奥行きも出る。
が、ピリッとアクセント程度ならスパイシーだが、延々とやると、人によっては、眠くなるだろうけれど。
社会の出来事や、仕事の解説なんかも興味深い。
日常のたわいない話も楽しい。
だが、面と向かってわたしが人と話をしていた頃は、いったいどれぐらい前だったのだろう。
わたしは、めんどくさがりなので、わざわざ時間を作って人と会うのが億劫なのだ。


かつて、姑とはものすごく話をした。
一生分、たっぷり話した。
隅から隅まで話した。
生い立ち、環境、時代、、、自分をはじめ、人の人生や、周りの人々の人生話。
何代にも渡る長いスパン。
なので、ホンネや考え方や、出来事など、山のようにたくさん話した。
というよりは、聞いた。
わたしは聞き役。 
おそらく、他人には話せないことなので(自慢と捉えられるから)、身内で自慢で盛り上がっていた。
自分たちの自慢話を二人だけでするのだから外に漏れないので悪くない。オフレコ話。
だが、距離が近すぎて胃もたれした感がある。

あ、そう言えば、姉からも、自慢話はよく聞いた。
わたしは一方的に聞き役。
姉は思いっきり自慢話を延々として、さあ今度は、わたしが自慢話をする番だ!と順番が回ってきても、もう話は終わってタイムオーバー。
姉の子供たちの自慢話もリアルタイムで散々聞いたが、その後の経緯などがあるから、あまり自慢はしないほうがいいなあと、わたしは思った。
あんなに言ってたのに、あんなに自慢してたのに、、、、人生にはアップダウンがある。
ほれみたことか、にならないため、あまり自慢はしないほうが自分のためだと痛感した。

自慢には、自分では自慢だと気づいていない自慢がある。
聞くほうは、自慢に聞こえる。
そもそも自慢というのは、マウントを取りたい、優越感に浸りたいからするのだろう。
しかし、説教や訓示を長々されるより、自慢話のほうが人間味があって良い。
人を見下したりする話も不快だから、それなら自慢話のほうがマシ。

親戚に話題が豊富な人がいる。
身近に起こった出来事を面白可笑しく話してくれる。
冠婚葬祭の時にしかお会いしないので滅多に顔を合わせないため、話が重複することもない。
話術も素晴らしいが、自分では体験出来ないようなエピソードは、興味深い。
こういう人がいると、場が盛り上がる。
欠かせない人だ。

最近のわたしは、人名、地名、名詞が瞬間的に出てこないので、会話の腰を折ること度々。
といっても、ほとんど話さないが。
気を許してベラベラ話してしまう、ある人には、面白いと言われる。
この歳になっても人見知り、甚だしい。

自慢から話が逸れた。
自慢って、人間臭くて悪くないと思う。
にもかかわらず、わたしは素直には自慢できない。
ひね曲がって自慢していることだろう。
自分のことではないのに自慢したくなる心境は何だろう?
こんなスゴイ人と過去に接したことがある、、、それがどうした?
自分までスゴイ人になったような錯覚が心地良いのだろう。
肝心の自分そのものの自慢話がない。
自慢できるような事実、実体、片鱗がない。
(が、ブログで延々と綴っている可能性があるかも)
無色透明である。
吸収、消化して元の形は無くなっているのか、
あるいは、体内を素通りして体外に出てしまっているか。
はたまた、認知症の始まりかも知れない。

※写真は記事とは無関係です。


若げの至り

2023-07-28 | わたし
わたしは美容整形ネタが大好き。
自分とは全く関係ないし、高齢者であるわたしは、今後の展開にも影響はない。
にもかかわらず、好きなのだ。

インターネットでは美容整形外科広告が盛んに行われている。
その中でやり手の若い美容整形外科医が、新卒の後、心臓外科から若いうちに転身している経歴を見ると複雑な心境。
心臓外科は命に直結する重大な科。
そこから同じ手にするメスを、命に直接関わりがなく、しかも保険がきかない自由診療へ。
まあ、ドクターにもいろいろいるし、大きな大学病院に行っても形成外科はあっても、美容整形外科はないのでは?
病気とは言えないからだろう。

健康な身体にメスを入れるのには、古い昭和世代のわたしには抵抗を感じる。
が、今は、価値観が変わっている。
同じような流行りの顔が量産されるのを見ると、映画で見たことがある人造人間のようだ。
流行りが変わると、顔もチェンジするのだろう。
ファッション、洋服のようなものか。

ではあるが、断捨離と同じで、こころ、精神を改造する効果を生み出すことがある。
長年抱いていたコンプレックスから解放され、さらに自信を持てるようになる。
すごい。
顔一つで、こうも呪縛が解き放たれるとは。
とは言え、何度も繰り返して納得いくまで手術し続けたり、失敗例もあったり、術後はメンテナンスが大変だったり、努力とリスクがつきもの。
努力の後に手に入れたお気に入りの顔やボディは、何ごとにも変えられない達成感があるようだ。
これは美容整形に限ったことではない。

だが、美容整形インフルエンサーなどの経歴を見ると育成歴に病理を抱えているケースが目立つ。
親からの虐待、自己否定が主。
ルックスでクラスメイトにいじめられたり、も。
かわいい女子はモテモテで、かわいくない女子は冷遇される。
知れば知るほど、我々の時代には日常茶飯事にあった出来事のような気がする。
昔の時代の話を持ち出して、時代錯誤と言われそうだが。
時代が変われば、価値観が変わる。
一方で変わらない価値観もある。

モテモテでもやがて頭打ちの時が来る。 
見た目だけで優遇されるのには限界がある。
評価対象は中身だから。
若いうちはそれに気づかない。
そういうものである。
もし、わたしが母親で娘が美容整形したがるとすると、極端な病的リピーターでなければ目をつぶると思う。
問題は、やり過ぎること。
尋常を逸するのは良くない。
自分の気が済むのであれば自己責任でやるのも、犯罪など、ひとの迷惑にならなければやむを得ない。

かく言うわたしも若い頃、母の言うことを聞かずに、超オススメの男性と結婚しなかったことで、かなり悔やんでいる。
なぜ、あんなに良かれと薦めてくれたアドバイスを跳ね除けてしまったのだろう。
若気の至り。
あれ以上の人はいなかったのに。
若いということは、そういうものだ。
だが、それ以来、ずっと「親の言うことは聞くものだ」、と肝に銘じている。
今の幸せは、2番手である。
なんでも2番目ぐらいが良いと言われているので、まあいいか。(→負け惜しみ)
第一希望で突き進んで行くと壁にぶち当たった時に挫折して乗り越えられない可能性がある。
なので、最初から理想から一つ落としているぐらいが力が抜けてリラックスできるかも。
とは言え、やはり親の言うことを聞かなかった自分の、若さ故の突っ走りには苦い思いが付き纏う。
選択しなかった方の過去を振り返っても意味がない。
それは重々わかっているのだが、若気の至り。
ああ、親の言うことを聞いていたら、苦労を買って出るようなことはなかったのに。
残念無念。
仕方ない。身から出た錆。誰を責めるでもない、選択したのは自分。
自己責任。

話は戻る。
美容整形も自己責任でやっているのだろうけれど、取り返しのつかないような事態になって悔やんでも悔やみ切れないようになっても、本人が受け止めるしかない。




「快適」は自分で作る

2023-07-26 | 暮らし
肝に銘じたこと。
それは通勤時間帯に電車に乗らないこと。
わたしは既にリタイアしている高齢者だから、そういう要望を持ってもケシカランことはないと思う。
時間帯をずらすと良い。
これはベビー連れのママたちにも言える。
通勤の皆さんの神経のブレ方、ストレスは相当なものだと想像する。
なので、その波の中、渦の中に、自分の身を置かないのが防衛策。

朝夕を避けるなら、スケジュールを2日に分けなければならない。
1日で済まそうとするから、朝と夕方に移動時間が押しやられる。
朝ではなく午前遅めに出て、夕方前に帰る。
一つしか用事は出来ないが、まあ仕方ない。
ただし、日中は暑い。
全て良いようにはならない。

心身の事情にスケジュールを合わせることにする。
スケジュールに心身は合わせない。
無理はしない。
高齢者の特権である。

あれもこれも、ついでに一気にするのが、めんどくさがりのわたし流なのだが、言ってられない。
めんどくさくても、行動を分割する。
身体を優先する。
行動を身体に合わせると、こころも落ち着く。
無理がきかないなら、無理をしない。
それでよい。
若くないって、若さのノリで突っ走らない(突っ走れない)から、自由に自分で行動を設定できていいなあ。

自分が快適な状況を自分で作る。
電車に乗って、周りが学生さんや若い人ばかりに囲まれて小さくなったり、街ゆく人々の中でどうも自分の居場所はここではないと感じたりすると、自分が落ち着く場所を新たに探す。
やはり同世代が集まる場所のほうが安らげる。
と言っても病院の待合室ではない。

人に合わせるのは疲れる。
自分だけの快適の中に自分を置く。
他人に理解されなくてもよい。

自分が感じる「快適」も、時の移ろいによって変化する。
快適と感じる感覚に身を委ねると、幸福感に浸れる。
これは人それぞれ違うと思う。
「快適」に巡り合えると、すごく楽しい。

それと同様に「感動」というものがある。
最近、よく感動する。
すぐに涙腺がゆるむ、安物の涙。
でも、涙は癒し効果があるらしいから、良いのだ。



大好きな世界

2023-07-26 | わたし
さて、今日も指を動かす電車内。
涼しいマイルーム。
悪くはない。

暑い。
年々、暑さが堪えるというが、わたしは暑さで参ったのは初めて。
なので、暑さダウン元年。

さて。
田舎の実家のダイニングチェア。
新調したのは42年?ぐらい前。
両親や私たちや祖母が使っていたが、生地を20年?ぐらい前に母が張り替えた。
とても良い色、柄。
それを、老人施設の母の居室に1脚、居室のトイレに1脚、姉が指示して運び入れていた。
わたしも今年1脚もらって、夫の実家に運び込んだ。
老人施設の居室に置いている椅子は2脚とも両肘付き。
わたしが貰ってきたのは肘なし。
肘付きと替えてほしいなあ、、、、。

わたしは、家具や調度品が大好き。
愛着がある。
だが、置く場所によって、輝きが失せることがある。
わたしが実家から貰ってきた優美な漆塗り飾り棚と座卓、夫の実家に置いてみたが、似合わない。
息を吹き返さない。
テイストが違う。
次女は、優美なテイストより、夫の実家の質実剛健どっしりタイプが好きだと言う。
優美タイプは日常に使いにくい、と。
確かに。
手入れもさることながら、キズにもハラハラ。
それよりもやはり部屋から見える光景にしっくりこない。
どっしり派、だから。
同じ和風家具でも特徴がある。
製造地域や年代による。

自分独自のマイワールド。
どっぷり浸れる至福の世界。


※写真は、記事と関係ありません。
石垣島のスナップ写真。

老体に鞭打つ長距離移動

2023-07-24 | 日々のこと
疲れた。疲れた。疲れた。
大阪駅を経由して自宅から実家に移動。
その間に母がお世話になっている老人施設を経由。

ちなみに。
大阪駅、なんであんなに人が多い?
しかも、環状線、なんであんなに遅れる?
ホームにゴチャっと溢れる人の山を見るだけで、うぷっ。
年寄りにはもうアップアップ。
大阪駅、大嫌いだ。

大阪駅を経由せずに帰れないのか???
空から?空路?
海路?
それにしても人が多い。
母の元に毎週、通おうかなと思ったが、やめた。
無理。
つくづく歳を感じる。
電車内、4人ボックス席の隣りに座っている男性が、相撲取り級にどデカい体型で、圧迫感は半端ない。

やはり、距離が遠いのは負担だ。
しかも人混み。
理屈抜きに疲れる。

しばらくは行きたくない。
が、そういうわけにもいかないだろう。
皆さん、こうやって無理をして身体を壊すのだろうか。
若い時なら平気なのに。

帰宅したら、朝、干した洗濯物を取り入れて、届いている生協宅配品を家の中に運んで。
ゆっくり出来ない。
それにしても、、、まだまだ家は遠い、、、。
家を出発してから今で8時間超。
炎天下の中、バスが時刻通りに来ないことがあるため、早めに行って待機する時間は結構しんどい。
自宅→徒歩→バス停(バス)→私鉄電車駅→JR乗り換え→大阪駅乗り換え→下車後徒歩→バス停(バス)→老人施設→バス→JR駅下車→徒歩→実家
→徒歩→JR駅乗車→大阪駅乗り換え→私鉄乗り換え→最寄り駅バス→徒歩→自宅
今帰路中、私鉄に乗り換えたところだが、電車だけでもあと25分はかかる。
そこからまたまたバス。
往復だけで、目一杯疲れる。

でも電車内、私鉄への乗り換え駅で座れて大喜び。
これが座れるのと座れないのとでは雲泥の差、天国と地獄。
ラッキー。
しかし、運を使い果たしてしまって良いのか??



価値観の共有

2023-07-24 | わたし
わたしはバカにされることが多い。
こんなことも知らないの?
こんなことも出来ないの?
どれだけ良く出来るのかと思ったら、口ばっかり、気持ちばっかり。
ギャップに落胆される。

勝手にイメージして、勝手に落とされる。
たまったものではない。
が、ほっている。

そう言うご本人こそ、どうなの?
人に対してそんなことを口に出して言うこと自体、ご自分の人格、能力、品格は?
わたしも結構、揚げ足取りかも知れない。
と言いつつ、大概は、相手にしない。
わたしは笑っている。

多角的に人を見ると、、、
歴史的に偉人だったりする人、、、家庭でも家事は完璧だったのか?

何?
どこに雑巾があるかも知らない??
分別ゴミ出しの日を知らない?
オシメを替えたことがない?

そんなことは女中がすることなので、偉人は偉大なる計画実践のため、東奔西走、忙しい?

狂人的に忙しい偉人であっても、肉体や時間のセルフコントロールは出来るはず。
寝食を忘れて取り組んで身体を壊しても、自己管理能力が問われる。

と、揚げ足取りに忙しいわたし。
やっつけられたら違う次元でお返し。

ちなみに。
超絶グルメさんが、強く薦めるグルメ食。
あれは不思議だ。
わたしは一つの一個人の意見として聞いている。
だが、食を全く知らない人よりは、研究、求道者の方が知識やノウハウ蓄積の分だけ、説得力がある。
それはそうと、全然、食の趣味が合わない人と食を共にすることがある。
(趣味が合う場合は、舌鼓、大感激、大喜び)
ご本人は推しまくるが、わたしは、低温。
色んな美味しいものは食べたことがある。
美味しいものは貴重で手がかかり高価だというセオリーは体感する。
(ハイカロリーであることも多い)


姑が、「○○の○○は、ものすごく美味しい」と、よく感激していた。
わたしは、ふーーん、、、と、否定はしないが共鳴もしない。
何も知らない人には良さがわからないから、そんな貴重なものをあげるのはもったいない、と姑は言っていた。
確かに。
猫に小判。
ありがたみがわかる人に味わってもらうのがベストだろう。

食べ物だけではない。
価値を共有できる人と時間を共有するのは至福だ。



見ない聞かない話さない

2023-07-23 | わたし
今日の記事はめんどくさい、無意味な内容です。
究極の独り言なので、スルーしてください。


人と距離を置く(決裂する)のは、その人の幹を見ずに、枝葉ばかり見ていたのかも?
枝葉で気に入らないことがずーっと一生着いて回ると思うと耐えられない。
ものすごいストレス。

そもそも枝葉から入り、幹を見て、これなら大丈夫だと仲良くなる。
これなら行けそうだ、と。
最初は小さな現象(枝葉)を見て、幹を想像する。
幹がだいたいオッケーなら、あとは目をつぶればいい、、、のだけれど、目をつぶれなくなるのは何故だろう?
幹そのものさえも侵蝕して来そうな、蝕まれた枝葉。

腐った枝葉なら切り捨てるとよい。
幹は生命力が強い。

ではあるが、自分と共有する部分が、幹のどの部分か?
全てではないはず。
枝葉に至ってはもっと更に違う。
どの部分で自分と繋がりたいか。
共有できる部分がアウトなら、もう共通点はなくなる。

能力面は枝葉に過ぎない。
肝心の幹は?
人を受け入れられない人は、一人でいるほうがよい。
許容できないなら無理をして合わせなくてもよい。


ちなみに。
一旦、大企業に入社すると、なかなか辞めさせられない。
クビにならない。
(リストラは別)
とは言え、大企業に入るにはそのスタート地点の合否判定テーブルにいないと話にならない。

所属企業だけを見て、どんな人物か判断基準にする。
ローンを組んだりするには欠かせない。
社会的信用の証にする。

家族もいる。
家族を路頭に迷わせられない。
辞めるわけにはいかない。
仕事は精一杯する。が、余裕がない。
仕事と家族で精一杯。
オフタイムに趣味に打ち込む。

もちろん、余裕があるエンジョイ派もいる。
わたしの知る、わたしと決裂した人物は、ほぼほぼわたしとは能力面では、どっこいどっこいだと思う。
やはり、どんぐりの背比べは良くない。
相手の能力がすごくはっきり見える。
本人の苦労や評価に対する忸怩(じくじ)たる思いも手に取るようにわかる。
ぽーんと突き抜けるほどの能力がない。
それならそこで満足するとよい。
だが、頑張っている割には周りの冷たい風。
たぶん、ご本人は気づいていないと思うが、わたしには見える。
だが、そんなことを本人に知らせるほど、わたしは冷酷で無神経な人間ではない。
知らない顔をする。

ではあるが、その人物は自分が感じる面白くない部分が決して解決出来ていないし、これからもあまり希望は持てない。
それが、ぼやっとわかっている。
そこで、自分より下の人間をいじめてマウントを取る。
どんどんエスカレートする。

不思議なものだ。
人は、止めなければどこまでもどこまでも自分の嫌な面、最低な面を晒す。
受け入れられていると感じるのだろう。
あるいは歯止めが効かなくなるのか。
わたしは、無理をしたり、だましたりして、受け入れている格好だけをしていたわけではない。
少なくとも最初は。
だが、次第にどんどん悪い面が地滑り的に露呈される。
自主規制は働かなくなるようだ。
本人には家庭の悩みもあったが、悪循環のせいだと感じた。
正面を向いて頑張っているのだが、真面目にやればやるほど、ボタンをかけ違えているように思えた。
大事な根本を正さず追求せず、臭いものに蓋をするように、下に埋めたまま、その上から頑張る。
自分も好き勝手しているから、家族がそれぞれ好きなようにしていても何も言えないという。
根本的に根っこで理解し合っている上で、あとは自由ならわかるが、根本に問題を抱えたまま解決しないで、知らない見えないふりをして、それぞれ家族が自由に振る舞う。
きっと心から解放されていない、楽しくないと思う。
その根本病理は、離れたところから見るとわかる。
が、わたしはカウンセラーでもないし、悩みを打ち明けられたわけでもないし、デリケートな問題にしゃしゃり出て介入するほど無神経ではないので、触らない、見ない聞かない。
目が見えすぎてしまう、問題点の本質がわかってしまう。
なので、バカにされても別に平気にわたしは振る舞っている。
頑張って振る舞っているわけではない。
どうってことない。

人をバカにする人に賢者はいない。
ある一定の殻から抜け出たことがない人だと思う。
その殻は、自己防衛なのではないだろうか。プライドを維持するための殻。

中途半端に出来が良かった、いや、出来が悪くなかったせいで、中途半端なポジションをキープせざるを得ない。
わたしと同レベルの能力であると、わたしは見ている。
出来が悪くもないけれど、さほど良くもない。
それを自覚しているかどうか。

「あなた、わたしと同じで、たいしたことないよ」などと、誰が言えようか。
そんな失礼なこと。
でも見たくもないのに見えてしまう。
だから、マスクをしてサングラスをかけて、見ないようにしている。

あまりにもわたしが耐えられなくなると、前を向きながら笑顔で後退する。
ある程度のところまで離れたら、あとは一気に猛ダッシュして後ろを振り向きもせず逃げる。




こころの、もやもや

2023-07-22 | わたし
何年も前の、もやもやしていることがまだ胸のなかにわだかまっている。
別に誰が悪いわけでもなく(強いて言えば、わたしに勇気がないのが悪い)、悪役はいない。
相手を責める筋合いは全くない。
言いがかりになる。

よくある話。
嫌ならその時、なんで嫌と言わなかったの?
なぜ、ニコニコ身を乗り出して話を聞いていたの?
わたしが「その話題に関心があると思っている」と相手は受け止めているに違いないではないか。

だがしかし。
わたしの話には相手は全く関心がない。
むしろどうでもいい。
はっきり「全くその話題、関心がない」と口に出して言われたことも度々。
ほとんどの話は、まるで興味ない、と言われた。
仕事、時事ネタ、ニュース、世の中の出来事には全く無関心。旅やグルメなど一べつもせず。
身内、家族、友人の話もNG。
その人は生まれて今まで実家暮らし、一人住まい経験なし。
一歩も遠くに出たことがなく、通学も通勤も生活圏内で、定年を迎える。

で、2人の話題は、相手の趣味(ゲーム)の話。(共通の話題でもなんでもない)
ゲームにはわたしは全く興味がないが、辛抱強く付き合った。
あとは最近のネット小説やアニメ。
主人公の女の子が転生したりするもの。
小中高大学生や若者が好きな類。60代真ん中でアタマの中は若い????
わたしは1ミリ1ミクロンμも興味がない。
そして将棋は打たないのに、将棋の藤井聡太の大ファン。
これは、自分は歌は歌わないのに、コンサートにも行かないのに、あまり歌も聞かないのに、CDも買わないのに、キャラクターグッズだけは買い漁る特定歌手の大ファンで追っかけ、と似ている。
ネットで情報を追っかけるだけ。
将棋の中身を深く掘り下げる実態はない。
別に服を要してもいないのに、服をネットで買うようなもの。
あと、ネットでなんやらかんやら器具、機器を買い物。
買うだけで使ってなさそう。
スマホのいじり方には詳しく、わたしがモタモタするとものすごく、こころの底からバカにする。
ひょっとしてこの人はどの分野でも冷遇されている人なのではないだろうか。
身の置き場は、スマホの中だけ。

お互い、個人的に嗜好が違うのは当たり前なんだから、悪いとは言わない。
認めている。
まったく賛同も共鳴も興味もないが。
一方的に合わせていたわたしが悪いのだが、
人の話を全く聞かない、興味を示さない相手もどうかと思う。
よくよく考えてみると、わたしぐらいしか、根気よくこんな人に合わせるような忍耐力はないのではないだろうか。
なんの興味もない、教養も深みもない、話を聞いて感動したり世界観が広がることもない、心温まることもない、接点がまるでない、の、ナイナイ尽し。
大人同士の人間関係は五分五分でなければならない。
ゼロ対100は、よくない。
2人で一緒にいる意味がない。
いつもスマホ。
わたしと居る時でもスマホ。
スマホ相手で十分。
わたしの大切な何年にも及ぶ時間と労力が無駄になった。
今思えば悔しくて虚しい。

ダンスペアだからといっても、いつも一緒にいる必要性はない。
むしろ、ダンスが終われば右と左にさようならと別々に分かれるぐらいが良い。
わたしの大失敗である。
距離の取り方を間違えた。

ダンスだけ出来れば良いかと思ったが、内容はなんであれ、やはり人間性は要。
大嫌いなウマの合わない上司の下で働くようなもの。
なんでもっと早く離れなかったのだろう。
見切りをつけて、そう行動しなかった自分を疑い自分を責める。悔やむ。
やっと思いを実践に移し行動したのは何年も何年も後。
かなり苦労した。
しかし、転んでもタダでは起きないぞ!と自分に言い聞かせる。
失敗は成功のもと。
次からは同じような過ちをしないよう、学習能力を身に付けよう。
同じ失敗を繰り返すようでは、終わっている。
ダメだと気づいたら見極めを早く、損切りの英断を下さなければ。
高い授業料についたが、勉強になった。
実際に金銭的に大穴が空いたわけではないが、お金より貴重な「時」を失った。
これは嘆くばかりではなく、取り返そうと焦る必要はないが、傷が癒えたら、人間を見る目を養い、素早い撤退を心がけよう。

相手選びの失敗が、結婚相手でなくて良かった。
それが救い。
損得勘定ではなく、見定めるポイントは、人間性。暖かさ、厚み。人柄。
これが幹。その幹に、枝がつく。

しかし、、、振り返って顧みると、、、
自分のスタンスにも問題がある。
合わせることが出来ないなら、なぜもっと早く相手にそれを告げなかったのか。
話し合わず調整もせず、手遅れで修復できないところまで来て、やっと破綻宣言は、フェアではない。
だけど、そうしか出来なかったのだから仕方ない。
少しずつ自分の意見を出して、衝突してもいいから末期症状になる前にシグナルを発信すべきだった。
(破綻は、合わせる合わせないはさておき、方向性の違いが原因だった)
家庭生活も折衝経験がないので、人との「調整」はまだ未開発分野である。
仕事面ではチームではなく個人プレーだったので問題なかった。

異分子を取り込むとお腹を壊す。
消化できない。
分離して体内で暴れて、病気を引き起こす。
人によって違う個体差があるので、ワクチンでは対応しきれない。


そう言えば、昔、職場で、わたしより後から入社した、わたしにタメ口で話す歳下女性Aがいた。
性格や人間性は、問題ありだったが、わたしは受け入れ、ランチなど、彼女と行動を共にしていた。
いずれ距離を置くことになったが、職場の人に、「Aとあなたでは差がありすぎます。皆んな敬遠しているのに、あなたがいくら心が広いからといっても無理でしょう」と感想を言われた。

また、小学校時代の息子。
クラスの嫌われ者の問題児が寄って来ていた。
息子は誰でも拒否せず受け入れるから、面倒を見ることになる。
嫌な仕事や役割も断れない性格なので、とても心配した。
もう大の大人になって社会人なので、どうにか自分で折り合いを付けたことだろう。
(親ばか)

それにしても、、、
わたしは優柔不断の、あかんたれである。