蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

いま

2014-04-30 | 
どうやら日本は今は深夜2時のよう。

こちらは午後7時。

Wi-Fiが、1時間だけフリーなので焦っている。

わたしが、旅に出ると、旅ブログとなった、わたしのブログを途端に読まなくなる、と、とあるリアル知人が仰っていた。

嫌いなんでしょう。
わかります、その気持ち。

多くの方々もそうでしょう。

でも、わたしは、わたしなので。



始めと終り

2014-04-28 | 日々のこと
A4ノート、紙の日記を書いている。
書いているというよりは、つけている、メモしている。
感想抜きの、客観的な行動メモである。
面倒なので、たいがいは、一週間まとめて書く。

見開き、真っ白の一週間分の日記。
まずは、毎日のブログの閲覧数、アップした記事名を書く。
あとは、えっと~、何をしたっけ・・・??
と、アタマをひねる。
忙しくて、なにをしたか、すぐに思い出せない週や、暇で、なにをしたか思い出せない週がある。
つまり、なかなか思い出せない、ということだ。
ちゃんとメモしておかないと、いつに何をしたか、確信、確証がない。
とりあえずは、直近、一番身近な日から思い出し作業を開始する。

日記にメモできないぐらい、おぼつかない、おぼろげない場合は、いつも携帯している手帳(紙)を見る。
それでも、自信がない場合は、ケータイのメール履歴を見る。
あとは、レシートをチェック。銀行の通帳を見る場合もある。
もやもやと思い出せない部分は、そうやってカンニングして、やっとこさ、正確な日時を書くことができる。

(毎食のメニューもメモしていたが、1日1日その日にメモするなら正確だろうけれど、
今は、一週間分となると、曜日が前後して、おぼろげすぎて、書くのをやめた)


重要書類が、ない! どこに置いた?? ・・・キーンとアタマに不自然な静寂が訪れ、即、思い出せない。
とりあえず、可能性の高いところを探す。このときは、けっこう気分は普通。
あれ? ない!
では、どこに?
う~ん・・・と考えてみる。
まさか、あんなに重要な書類を捨てるということはないはず。
しかし、思い当たらない。
必死で、アタマをぎゅ~っと凝縮させ、絞る。
思い出せない・・・
疲れてしばらく休む。
ありえない・・・ほんのちょっと前だったはず。
で、深刻な面持ちで、また脳をぎゅ~っと・・・する直前あたりに、突然、脳内の裸電球が、ぱっと点灯する。
あ、そうだ。
あの書類といえば、あそこ、って、決めてたじゃないか!
で、一目散にそこに行く。
ほっと胸を撫で下ろす。

こういうことが、多い。
冷や汗も、固まり、塩みたいになり、タラタラ流れもしない。
老化現象をしみじみしみじみ実感する。
が、そういう状態をいくつも体験すると、行動のサンプル数が増え、おおまかな「傾向と対策」が自然とできる。
ノウハウができる。失敗・手引きマニュアル。

フットカバー(パンプスを履くときなどに着用する、薄くて小さな靴下みたいなもの)は、
必ずといっていいほど、洗濯すると、一つは、どこかに行って、ない。
最近、その紛失率の高さ、その正確ぶりに、自分でも驚いている。
なぜ、いつも、ない? しかも、片方だけ。
「傾向と対策」テキストを、ぱらぱらと紐解く。
しかし、今回は、非常に意外なところで発見した。
しかし、ありがちな、ありえる場所。
洗濯物を干している場所から、洗濯物をたたむ場所までの、いつものルート、
ほんの7~8メートルの間に、モノを紛失する、しかも、なん通りもの紛失パターン。
またもや、「傾向と対策」に、新しい事例が増えた。

(発見場所の正解は、ルート途中にある、キッチンのゴミ箱の上)

これは、不思議だ、哀しい、悔しい、いらいらする・・・を通り越して、笑えた。
日常の小さなミス、小さな発見、まったく一人芝居。

というか、そんな些細なネタで、ブログを延々と書いている自分も、ある意味、笑えて楽しい。
楽しいことは、いいことだ。
プチ鬱(うつ)転じて、プチ躁(そう)か。

いや、しかし、これは、フットカバーが、さりげない場所で発見できたから笑えるのであって、
そして、重要書類も発見できたから余裕の笑顔が生まれるのであって、
もし、発見できなかったら、プチ鬱は、もっと進んでいるのかも知れない。
まあ、とりあえず、今のところは、自分の忘れん坊症状を把握、自覚しているので、なんとかなる。
母は、それなりに年相応の忘却ぶり、義母も、年齢よりは、はるかに賢いだろうと思われる忘却ぶり。
二人とも、自分の忘却を嘆いている。

が、深刻なものではない。
そういう傾向にある、ということを本人も回りもわかっていて、傾向と対策を研究しておけば、
まあ、それほど落ち込むようなことはないと思っている。
どんどん進んできたら、また、それはそれ。
わたしも進むし、母たちも進む。
人間、生きているのだもの。あたりまえ。

いつまでも、若く美しく、賢く、立派なままでいたければ、時を止めるしかない。
それは、もう、生きる状態を止めることである。
醜くたって、生きていく、・・・生きていかなければならない。

映画「サクラサク」で藤竜也が、ぼけていく哀しさを上手く演じていた。
明るく、希望を持った展開になっていた。
ストーリーは、かなりポエム的であって、わたしは、シラけたが、
現実をあえて忘れて、ありえない、キレイ事すぎる、と、わかっていても、
まあ、作品として楽しむのは、映画の良いところなので、それもありかと思った。
かの、「愛のコリーダ」の藤竜也も、こうなりますか・・・と、対照的な役どころであったが、
メリハリが、人が生きるというハードさを際立たせていて、良いキャスティング、演出だったのでは。

多くの愛、恋愛も、ハードといえばハードだが、老いることは、もっと多面的な多くの色合いを含む。
老いることに、喜びや実を感じるには、よほどの屁理屈やら宗教やら信念やらが要りそうだ。
愛は、子作りをしたり、末広がりで発展していくが、
老いるのは、消滅していく過程の一部分である。

ものごとには、始まりがあり、終りがある。
それは、ごくごく当たり前のことである。
哀しいとか、憐れとか、なにをいまさら・・・
そんなことは、人類の歴史の分だけ繰り返されてきている。



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いずれやってくる、人生の冬。
しみじみ自分のこととして、今後の展開に覚悟が必要と、自分に言い聞かせている。


春なのに

2014-04-25 | 日々のこと
いま、プチ鬱(うつ)になっている。
わたしのような天然系が、非常に珍しい。

前に一度、40歳代の頃に、なにもやる気がしない脱力感に見舞われたことがある。
その時は、母たちの元気さや、彼女たちの、あれこれしたいという自発的な欲求が、
不思議なような気がしていた。
わたしは、楽しいイベント提案を受けても、まったく、行きたいと思わなかった。
更年期の年齢やら、空の巣症候群の影響を含んでいたであろうに、自覚していなかっただけかも知れない。
ノー天気系は、自覚に欠けるところが、よくない。
自分の不調を見抜けない。
痛みがないので、悪化していることに気付かず、どこまでもどこまでも放置する。


わたしでも、落ち込むときがある。
たいして、これという大きな理由はなくても、
いくつかの要因が重なり、ある、なにかのキッカケで、どっと来る。
ただし、プチ。

どよっと頭が重く、霧が晴れないかんじ。
もっと深刻な鬱の症状は、辛いものなのだろうと想像する。
そして、今のわたしの状態は、鬱ではなく、たんに気が重いだけのような気がする。

病気でもないのに、なんとなく微熱が続く、ああいうかんじか。
GWが終われば、たぶん、クリアすることだろう。

こういう時は、ブログは、わたしを救わない。
よけいに悪影響を及ぼす。

ブログという、目に見えないものに、無意識に依存していたのだと思う。
自分を救うものは、ブログでもなければ、何だろう?
明日、また考えよう。

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自慢

2014-04-24 | 人生
前にいつ訪れたのかも忘れた、ずっと以前の、お気に入りブログを覗いた。

ある知人が、自慢話をしてくるんで、うんざりという内容の記事が、中にあった。
「わたしは、恵まれていて、とても幸せだ」と、その知人は仰るそうだ。

それを聞かされたこのブロガーさんは、げんなり。
幸せなのは、あなただけよ!と、嫌な気分になられたようす。

この記事を読み、わたしは、つい最近、「自分は恵まれていて幸せだ」と、同じことを人に言ったことを思い出した。
ということは、聞かされたその人も、気分を害しておられるのか・・・?

と言うことは、決してない。
なぜなら、言う相手を選んで、言っている。
自分と同じ境遇、同等か、それ以上の、自分より恵まれた人に言う。
まかり間違っても、自分より下の人には、絶対に言わない。
(もし言うとすると、その人自身が優位を自覚できるような別ジャンルのことを、おそらく話題にするだろう)

自分のほうが優位に立っている分野を自慢したとすると、
「あっそ、よかったね!」とイヤミを言われる。
「こっちは、それどころじゃないんだよ!」と、はっきり口に出して、態度に現される。
そこまで言われて、やっとわかるというのは、かなりのノー天気を通り越して、究極のアホである。
羨ましがらせてはいけない。刺激してはいけない。

逆に、自慢ばかり、延々とされる場合。
わたしは、けっこう、苦痛でもなんでもない。
なぜなら、わたしのこころのどこかで、わたしは基本的に幸せであると感じている。
あるいは、具体的な実例はなくても、他人や他のコトと比較できるものではないと思っている。
幸せの根拠を検証したり、勝ち負けを競うものではないと確信している。
なので、なにを聞いても、嫉妬心は生まれず、聞く姿勢になる。余裕がある。
そして、その自分の幸せを、なにも人に聞いてもらう必要は、まったくない。
口に出して言うと、かえって目減りする。
言ったことによって、幸せが消えてなくなりそうで、不安になる。
なので、わたしは、ねー、聞いて聞いて、とばかりに、自分の幸せを聞いて欲しくなんかない。

でも、話の流れによっては、言う場合もある。
その流れは、自分の態勢が不利になった時に、奥の手として出してくる。
例えば、ある特殊技能分野で明らかに自分が負けているとすると、
いいもん、わたしのほうが、私的生活は幸せだから、とか、なんとか、こころのなかで自分に言い訳する。
これを「負け惜しみ」という。

そんなことを言われて、技能分野で勝った人は、なんと思う?
(言いませんが)
しかしながら、そんな負け惜しみで、自分を納得させていたら、どんなことだって大成できない。
のほほーんとするばかりで、ぼやけただけの輝きのない人。
なにも、ものに、できない。

・・・

それは、そうと・・・

人と会話するときには、その人が卑屈な思いに駆られないよう、
その人の人生のウイークポイントである話題は、できるだけ避ける。

子どもさんがおられない人には、子どもの話はしない。
子どもさんが、就職がうまくいかない人には、就職の話はしない。
仕事がうまくいっていない、あるいは失業している人には、仕事の話をしない。
配偶者を亡くした人には、配偶者や家庭の話をしない。
お金のない人には、贅沢系の話はしない。
病気の人には、病気の話や、健康な人しかできないような話はしない。
家庭がうまくいっていない人は、家庭の話はしない。

あれこれ、あれこれ、あれこれを間引いていると、できる話は、
お天気の話と、趣味の話ぐらいか。
中には、病気自慢とかいう自慢話もあるようだが、こちらが気が滅入るので、避ける。
政治・経済・文化・芸術・時事ネタは、相手が限定されるので、難しい。
第一、自分も詳しくないと、言いだしっぺが、さっぱり無知では、恥をかくだけだ。

・・・

ある分野では勝っているが、ある分野では負けている。
例えば、プロ並に、スポーツ、芸術、頭脳の能力がバリバリでも、日常生活の家事が、ぜんぜんダメとか、
裕福でも、家庭の愛情的に恵まれてないとか、
容姿端麗でも、頭がパーとか、眉目秀麗でも、性格が悪いとか、
すべてが整って満点の人なんていない。
パーフェクトの人が、ある日、突然の不幸に見舞われるとか、そういうこともありえる。

自慢でもしようものなら、弱点をほじくられて、突っつかれかねない。
なので、いくら自分では、世界一、宇宙一と自負していても、自慢など、しないほうが無難である。

「恵まれた幸せな人生に感謝してます」なんてことは、脳内だけで言っていればいい。
あるいは、ブログにでもツラツラ綴って、ニヤけておけばいい。


幸せは、いかに守るか、キープするか、維持するか、である。
口に出した瞬間、溶けてしまいかねない。
目に見えない努力の継続が必要である。
日々、どこというわけではないが、幸せにどっぷり浸かるだけでなく、
どのポイントを守れば、幸せが維持できるかを把握し、その部分だけは手を抜くことなく、
あとの部分はそれなりに、省エネでいけばいいのではないだろうか。

その押さえるべきポイントは、人によって、まちまち、さまざまである。
なので、具体的に、ここをこう、そこを、そうしましょう、とは指摘できない。
各人、おのおの歩んできた軌跡を振り返りながら、点検していただきたい。


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からっぽ

2014-04-23 | ブログ
本日は、アタマが、ぼやっとして、なにか取り立てて脳から抽出して、書くことができない。
でも、なにか書かないと、スッキリしない。
書き出しては消し、書き出しては消し、・・・これを三回続けた。

外は、最高に天気がよさそうだ。

社会ネタ。
あれこれ、悲惨な出来事がテレビ・ニュースで流れる。

自分は、どうも、半分、地に足が着いているが、半分、宙に浮いている感がある。

・・・

どうも落ち着かない。
こころが、空白、真空状態になっているような気がする。

ブログ中毒から早く脱したい気分である。



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縦列

2014-04-22 | 日々のこと
親と子。
いつの日から逆転してしまったのだろう。

わが長女、小さいときは、小さかった。(あたりまえ)
やがて、自我が目覚めた。(あたりまえ)
そして、親をいともカンタンに、すんなり乗り越えた。(あたりまえ??)

これは、喜ぶべきことなのだろう。たぶん。

そもそもが、彼女は真面目な性格。
小学校では参観日に行くと、同クラスのお母さんに言われた。
「うちの息子、○○ちゃんに、『字が汚い』って注意されるんですよ」
「あわわ・・すみません。ごめんなさい」

で、美しい字が書けるよう、その子を育ててくれたのか?娘よ。
たんに、注意するだけなら、嫌われるだけで、損ですよ。


わたしは、サボり体質。
いつも、長女の真面目な性格には、ほほ~っと、ため息が出る。
これは、学校や職場の先輩や上司には、とても良いが、家庭生活を共にするとなると、厄介だ。
「字が汚い」、とは注意されないが、「家が汚い」、とは注意される。

よく気がつくので、わたしがヘマやミスをする以前に、「これこれ、した?」と注意を喚起する。
なので、わたしは、いつまでたっても、ぼ~っとしていて、集中力が育たない。
ひとり立ちしなければ。自立しなければ。

そう思っている間に、いつの間にか、立場は逆転。
のたのたと、やってくる老化現象。物忘れ。
だが、わたしの場合、もともと若い頃から天然系なので、あまり変化がない。
ただ、自分で、若い頃はネタにして笑っていたが、今は笑えない。
自分のボケを隠そうとしているところが、じつに、自分が可哀想で、哀れで、情けない。
が、最近は、もう、開き直りの精神。
いいんです、もう。
ぼけているほうが、ストレスが少ないことも、よくわかったし。


わたしには、もう二人、子どもはいるのだが、あとの二人は、ちょっと難解。
長女は、義母に似ているところがあるが、どうも、下娘は、わたし系、息子は、不思議系。
いろいろいて、おもしろいと言えば、おもしろい。
が、少々ユニークではある。

各人、自分の持ち味を生かした仕事をしている。
よくまあ、あんな個性的なタイプに合った仕事があるものだと、わたしは感心している。
仕事をしていて、ますます、キャラクターがそれっぽくなってきたのだろうか。
鶏が先か、卵が先か?

・・・

今日は、初の保育所、お迎え当番。
うまく迎えに行けて、うまく家にたどり着けるのだろうか?

わたしを知る人は、みなさん、わたしが自転車に乗れないと思っている。
わたしは、自転車ごとき、乗れるんですが。
よっぽど、運動神経が皆無に見えるということだ。
その自転車に、乳児乗っけて、暗い知らない道を、くねくねと・・・ちょっと不安。
自分でも心配しているが、回りも心配していて、朝からメールがいろいろ入っている。

あれして、これして、これはあそこにあって、それは、そこにあって、
あのときは、こうして、このときは、こうして、
あれあれを持って行って、これこれを持って帰って、
あの人に、こう言って、ここのドアはこうやって開いて、こうやって閉めて・・・

子どもじゃないんだから、それぐらい、わかってますよ!!と思いつつ、やや心配。
「ひとりで、できるもん!」という、30年近く前の幼児番組があったのを思い出す。

どっちが親で、どっちが子どもで・・・??
乳児は、どっちみち、だれかの手が必要。
怪我なく、ケアできるよう、精進いたします。

と同時に、最近ちょっと年相応のわたしの老母にも同日、100キロ離れた場所で接する。
わたしと同世代の人々とも接する。
この、各自の年齢と成長と、役割、上下関係のからみ、微妙で、おもしろいと言えば、おもしろい。


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2014-04-21 | 日々のこと
ブラジル、サンパウロ州のある地方都市で日本語学校の教師をしている方から
コメントをいただいた。
(コメントは、ご希望に応じて、非公開にいたしました)
去年、その学校では翻訳者養成コースが開設され、その方が、担当をされているそうだ。
わたしのブログを翻訳の教材にお使いいただいているとか。
社会の事柄に抱く心理などに興味を持たれたようだ。

20代の若いブラジルの人々が、生徒さんの大半を占めるそうなので、
わたしとは、お国柄の違いだけでなく、ちょっとゼネレーション・ギャップがあるかも知れない。
わたしの考えは、日本人の典型的なものではないと思うし。
ワザと、あるいは、無意識に、文法や語法をわたし流に変えていることもある。
なので、テキストとしては・・・あまりオススメできないのではないかと思う。

そのあたりは、この先生が正確な言い回しに替えてくださっていることだろうと、期待している。
「ここは、こう表現するのが正しいですが、筆者はあえて、あるいは、知らずに、または、間違えて、こう表現しています」
というふうに、教材には間違い探しのようで、ユニークかも知れない。

微妙なニュアンスは、わたしが勝手に感じる心理なので、翻訳には、困難を極めると予想される。
そのあたりも、カンタンで、わかりやすい表現に直してください、とお願いするしかない。


いやはや、そういうコメントを頂戴すると・・・
ガラにもなく、ちょっと、キーボードを打つ指が固まってしまった・・・

・・・

話は変って・・・

ある、知り合い(リアル人)から、封書が郵送されてきた。
今どき、郵送なところが、非常にその人らしい。
その方は、そもそもは劇作家、演出家で、自もミニ・シアターで演じる人なのだが、
多くのアーティストたちに協力を仰ぎ、ここのところ、地元で、まちなかコンサートを順調に続けられていた。
が、深刻な病を発症したとのことで、このたび、その活動を休止。
煩雑なスケジュールに振り回されることなく、
自分の作品を精力的に専念して書きたいという制作意欲に駆り立てられたようだ。

ということで、その郵便物の中身は、最後のコンサートのお知らせだった。
封筒の中には、あいさつ文と、最後にお見かけした頃の写真(15年ぐらい前?)を使ったポートレート入りの告知リーフレット、
そして、2日前の地元新聞に、写真入で掲載されていた記事のコピーも同封されていた。
リーフレットを手に、にっこりした顔で取材を受ける彼の顔は、当時より、いくぶん丸やかに穏やかになっていた。

最後のコンサートに行こうか、行くまいか。
・・・行かない。

わたしは、彼の人生に巻き込まれることを恐れている。
自分の道を貫き通した人の人生は、バランスの良い一般市民とは、少し違う。
安定した職業に就き、安らぎの家庭を持ち、・・・そういう選択はしない。
まして、芸術ジャンルの火中にいる人は、激しい炎を燃やし続け、極めて高温である。
最後の作品に取り掛かるという彼に接することは、わたしには出来ない。

建築家とかで、リタイアする年齢を上回っても、穏やかにまだ仕事をしている人なら、まだしも、
すごいエネルギーを持つ人に近づくのは、若い頃は、刺激的だろうが、
今のわたしの年齢では、高熱を受け止めきれず、類焼を避けたい気持ちである。

残りの命を燃焼し切って、自分の全人生を賭けようという人のパワーに取り込まれると、
すっと涼しい顔で、抜け出す自信がない。
なにかしら、こころの痛手、後遺症を負うことは容易に想像できる。
ただでさえ、普通のときでも激しい、自分に厳しい人である。
安泰の市民生活と引き換えに、自分の命の根源となる、目的とする理想に向かう。
表現者。
東京で活動していた最も激しいピーク時を過ぎて、しばらく経った頃の彼しか知らないのだが、
最近は、年を重ね、地元の芸術振興に力を入れておられると知って、ちょっと落ち着かれたのだろうと安心していた。
最後の力を振り絞って、作品作りに本格的に取り組むという彼には、
わたしは、そっと遠くから見守ることしかできないでいる。

これこそ、エゴの極めつけであろう。
暖かいこころのカケラもない。薄情そのものだ。
自分を守ることしか考えていない。

しかし、自分を守るのは自分しかいない。
自分はどういう状態が一番幸せで安泰で穏やかであるかは、自分が一番よく知っている。

だが、こういうときこそ、力になってあげるべきなのではないのか?
力になるといっても、具体的に何もない。
激しいスクリューに巻き込まれて、粉々になってしまっては、元も子もない。
自分以外の人のことも大事に思うが、自分を削ってまで人に寄り添い、尽くしても、なにも得るものはない。
自分を見失い、磨耗するだけだ。
一緒に周囲の人間もろとも焼き尽くされたりしたら、それこそ、わたしの残された人生ごと、消失してしまう。
第一、ほんの少しでも「献身的な行い」などと自分で思っているとしたら、
そんな押し付けがましいことはない。

・・・

人は、孤独である。
孤高である。
最後は、自分ひとりである。

もし、自分も同じような立場になったら・・・
今まで自分が人にしてきたことを思い知ることだろう。

わたしは、こころに波風が立たない。
冷たいわけではなく、暖かいものも感じる。
ただ、あまり動揺しない。
その代わりに、なにかの折に(例えば、音楽を聴いたとき、とか)すっと、涙があふれ零れ落ちる。
泣いているのだろうか。

涙は少し、生あたたかい。
いつまでも、涙は枯れることはない。
自分のこころには、あたたかい温度があることを知る。


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品格

2014-04-19 | 人生
最近、わたしは、こころが変ったように思う。
性格は、前のままだが。

世の中を斜交(はすか)いに見るのは、たんなる趣味。やぶにらみ社会学。
べつに、それで、愚痴ったり、非難したり、そんなことをする気はない。
直接、自分に害を及ぼさないものに対しては、深く関係がない。

マイナスのことを口走らなくなった。
なぜなら、口にすると、実際に本当になってしまいそうだから。
不吉なことは言わないほうがいい。
言う人も、聞く人も、気分が悪い。
趣味の悪い冗談も避けるようになった。
あえて、自分も他人も、気分を悪くさせるようなことをする意味がない。

無理やりではなく、自然に、明るく前向きにいきたい。

自分の年齢を考えて、品格が欲しくなった。
あいかわらず、あほなことを言ってばかりの、お茶目すぎるキャラはイタいが、
それはそれとして、やはり、品格は必要である。
教養は努力するなり、勉強するなりして身につくが、
品格は自覚してもしなくても、なかなか身につかない。

その人の生き方、考え方みたいなものも、大きく影響することだろう。
顔や物腰、雰囲気に出るかも知れない。
「品格があると見られたいから」という理由では、絶対に品格は身につかないと思う。
作為的には、無理だろう。
かえって、逆効果。
それこそ、どう隠そうとしても、品格も卑しさも、身から滲み出るものだろう。

・・・

最近、わたしは、自分を肯定するようになってから、とても明るい見方ができるようになった。
モノゴトが良い方向に向くよう、考え方を変えると、自然と、ふわっと浮くように、こころが躍り、軽くなった。
悩んでいたり、疑問に思っていたことが、ある日、ことんと答えが出たようなかんじ。

自分は、自分の人生を生きる。
他の人の人生ではない。
すると、自分や、自分の家族、まわりの人たちを愛しむ気持ちが生まれる。

愚痴っている人を見ると、自分を肯定できないのだと感じる。
否定したい気持ちもわからないでもないが、自分を自分が否定したら、いったい誰が肯定してくれる?

わたしは、自分の欠点や嫌な点を冷静に客観的によく知る。
そのことに、いつまでもいつまでも、四六時中、とらわれない。
今ある幸せを大切にしたい。
人のことには、首を突っ込まない。
「助けて」と、声をかけられたら、協力する。

・・・と、ここまで書くのは、ひと筆書きでもなんでもない。
何回も居眠りタイムをはさんでいる。
こっくりこっくり、非常に眠い。
つまり、書いていて、血湧き肉躍るわけではないということだ。

眠た~い、わたし。
まだまだ品格のある人間とは程遠いに違いない。

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日記

2014-04-17 | 日々のこと
ぽんと、家の玄関で、婿から受け取った孫。
一日中、孫もり、ひきこもりとなるため、
ご近所さん友人にメールして、「お散歩がてら、うちで、お茶しない?」とお誘いした。
残念ながら、外出予定あり、とのことでお断りの着信メール。

午前中は、まあよかった。
一回目のお昼寝をした後から、問題が起こった。

孫、顔が、「ゆでだこ」のように、真っ赤。
そりゃあそうだ。
熱があるから、保育所を休んだのだ。
抱きかかえると、熱い、熱い。

いつもは、ちゃかちゃか動き回り、後を付いていかなければならないのに、
ぐったり。
上半身も起こさず寝たまま、やたら弱弱しい。
体温計を脇の下にくっつけると、どんどん上がっていく。
39.0度、39.1度、39.2度、39.3度、4度、5度、6度。
もう止まって~と祈る気持ち。
39.6度で、取り合えず止まった。

ご近所さん、よくぞ留守でよかった。
もし、あれでうちに遊びに来てくれたら、そっちに気をとられ、孫もりが、おろそかになっていたに違いない。
あんなに熱があっても、ほったらかしにしていたに違いない。

もう、正午は過ぎていたので、午前診療は終了につき、夕方、小児科受診へ。
車で行ったが、なかなか医院が見つからない。
運転手(家人)は、イライラ。
もたもた時間を取られて到着すると、待合室には患者さんがいっぱい。
なかなか順番が来ない。
家を出るのが遅かったからだと、お互いに、ミスを相手に押し付ける。なすり合い。

待合室は、内科の患者さんと合同。
隣に待っていた、顔色の悪い車椅子の年配男性。
ヘルパーさんが付き添っていた。
「あんたが来てくれるのが遅いから、疲れた」と男性。
「どうもない、って言ってたじゃないですか」とヘルパーさん。
これまた、押し付け合い。なすり合い。

しばらくすると、その男性、眠くなってきたのか、意識が薄らいできた。
ヘルパーさんが、「眠いんですか?」と聞いたものの、
こればまずい、と、先生に、受診順番の緊急変更を申し出た。
先生は診察室から飛び出してきて、こりゃあかん、と救急車を要請した。
その医院では、入院施設がない。

わたしは、ちらとその男性患者さんを見た。
これは、まずい、確かにまずい。
こんなところで、今、亡くなられるとまずい、と真剣に本気で思った。
医院の待合室の自分の席の真横で、人に亡くなられると、シャレにならない。
その年配男性には、死相が出ていたから、わたしは、興味本位なんぞで外野気分で眺める気にはならなかった。

しかし、あのまま、救急車を待たずに、あるいは、搬送中に、あの人が亡くなると、楽な、亡くなり方ではある。
ヘルパーさんが付き添っておられる、ということは、
ご家族の方は、付き添えないのか、ヘルパーさんに頼んでいるのか、
はたまた、ご家族はおられないのか、家族としての縁を切っているのか。
腕に、小さな刺青。
人生の軌跡が想像される。
どんなところにも、身近にドラマがある。


とかなんとか、孫の受診、まあ、待たされること、待たされること。
診察で、泣かれること、泣かれること。
ぎゃ~~~と顔を真っ赤にして泣く。
検査結果を待って、また診察室に入ると、先生の顔を見るだけで、また、ぎゃ~~~。
ぐったりしていても、泣く時は泣く。

そうこう、あれこれ、なんだかんだ、子もりで、ひきこもり、の予定が、
ひきこもっていられなくなった。

夜には、お婿さんが我が家に様子を見に来た。
とりあえずは、今のところは大人しく孫は寝ている。
このまま、我が家で孫はお泊り保育と化し、延長・病人保育お預かりとなった。

孫が寝ている間に、一気に、ひとっ走り、殴り書き、ひと筆書きの、だらだら日記です。


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気遣い

2014-04-17 | 子育て
あ~。
孫が熱を出して、1日子守の日となる。
保育所には行かせられない。

早朝5時半からメールがあり、
もうじき、婿さんが、ぽいっと孫を我が家に放り込みに来る。
母親は、いずこへ? 
遠いところに行ってしまった。(あの世ではありません)

ババは、ヤンチャ坊主と格闘決定。
しかし、大人しく、ぐったりしていると、それはそれで、心配だ。
子どもは、イタズラして、なんぼ。

しかしまあ、たまたま今日は、わたしが休みの日。
まるで、それ考慮して日を選んだかのような発熱。
赤子は赤子なりに、気を使っているのか?


ということで、
今日は、まる1日、試練の日です~。


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