蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ひとり~(その2)

2013-04-28 | 交友

なんだか、お気遣いコメントをいただいたようで、有り難く、恐縮である。

落ちこぼれ見守りパトロール隊のような、
「目指せ、いじけっ子ゼロ」キャンペーンに関わるボランティアさんのような・・・。


このパターン、どこかで経験した覚えがある。

そうそう・・・
学生時代の友達たち。

なにを隠そう・・・わたしは、学生時代の友達をすべて失っている。
ゼロからの出発なのだ。

なぜ、失ったか・・・・・
自分でそれは、よーく理由がわかっている。
が、書かない。書く必要もない。
身から出た錆、自業自得、の類であろう。

すべてリセットして、一から出直した。
(ブログは、リセットせず、延々、恥ずかしげもなく同じブログをやっているが)

充分、反省もした。
わたしのものの見方、感じ方、考え方が、間違っていた。思い違いをしていた。
人間が出来ていなかった。
だが、新しく友だちを作ろうという気がない。
気付いたのだ。
わたしは、ひとりのほうが向いているって。
気楽だ。

なぜかというと、わたしには気配りが足りない。
気遣ってくれる人は常に気遣う役で、気遣われる側は常に気遣われる側。
こんなのじゃあ、アンフェアである。
一方的すぎて、気遣う側が疲れる。消耗する。やってられない。


ただし、義母とわたしは、この永遠のアンフェア普遍法則(「give&give」 と「take&take」)に則った中にいる。
摩訶不思議。
気遣うのが義母、気遣われるのが、わたし。
彼女は、疲れないのか? 見返りを求めないこころの持ち主だ。
わたしは、「感謝のこころ」で、お答えするだけだ。
しかし、気持ちはそうでも、時折メールでそう伝えるだけで、「糠(ぬか)に釘」、「のれんに腕押し」の、わたし。
義母は、もう、限界にとっくに達していて、諦めているのかも知れない。

とかなんとか言っても、我々には、暗黙のルールがあるのだが。
義母は、わたしに保険をかけていて、わたしは、保険をかけられている。
掛け捨てと貯蓄型のミックス版。(実際の生命保険ではない)
「恩」と、「恩返し」、という、保険の方程式。
恩をあだで返すというような、非人間的なことは、絶対にしたくないと、わたしは思っている。
しかし、この恩(情け、とも言える)、お返しもせずに、どんどん積み重なると、
真綿で首を絞められるように、結構ツライものがある。

まあ、現実的には、経済的な流れがルールの基盤となっている。
なので、一方方向ではなく、バランスは取れている。
口だけではだめ、出すものを出さないと円滑に回らない。


販促システムで、ポイントを有効期限内に使わないと失効する制度があるように、
ある程度の期間がくると、一度、恩を精算しないと、後々、恐ろしいことになりそうな気がする。
これは、家族だけでなく、友人関係においてもだ。

友人関係は、破綻するだけだが、
家族は、破綻しても離散するわけにもいかないし、破綻は絶対に避けたい。
なので、顔を恐る恐る伺い見て、状況をチェックしている。
ほっておいて、大きな請求書が来るよりは、小まめに様子を見たほうが、安全、安心だ。
双方、風通しも必要。



以上は、べつに、今回、言いたかった内容ではなくて・・・
友人としてのお付き合いの話。

わたしは、もともと気遣うということが出来ない性質のようだ。
努力して、最低限度、気遣おうとするのだが、途中で息切れする。
で、グループからは当然、脱落する。
あ・・・ひとり・・・になっている。
協調性が欠如している。

学生時代の仲良しグループが事実上、消滅したあと(決して自然消滅ではない)、
グループ同士でお付き合いしていた別のグループと、わたしはお付き合いをし始めた。
それは、学校を卒業して30年近く経ってからだ。
でも、やっぱりだめだった。
結婚祝い、改装祝い、なんとか祝い、香典、・・・なんやらの会・・・
会う、会わないとは別にした、時間とお金が必要。
そういうお付き合いは、わたしは好きでないことがわかった。
親戚付き合いだけで、充分、こりごりだ。
皆と会うにしても、正統派の皆々様、服装のひとつも気にかけなければならない。
時間を合わせるのもさることながら、めんどくさいのである。
なのに、これといって別に得るものは、ない。
なんのための、お付き合い?


でも、それはそれ。
当然の結果である。
だから挽回しよう、とか、あまり思わない。
自分には自分のスタイルがある。

切っても切れない親戚の冠婚葬祭がらみは、まあ、よしとしよう。
自分の実家サイドなら、喜んで、お付き合いしている場合もある。
が、自由に選択できる友人関係において、
友人たちのお子さんが結婚したり、お孫さんが生まれたり、親御さんが亡くなったり(しかも義理の)
皆、同じようなコースを辿っているのに、いちいちお祝いしたり、されたり、内祝いしたり、
喜びを分け合い、悲しみを半減させ、といっても、気持ちをお金やモノで表すのは、いかがなるものか。
なので、付き合わないほうが、諸々の事情を知らないで、ずっと気楽。
(ひょっとして、「形式的なことは、もうやめましょう」、と、新たなルールが作られたのかも知れないが)

そんな付き合いをしない友人付き合いもある。
背景や家族はまるで関係ない、個人同士のお付き合い。
たまたま、わたしの学生時代の隣グループの友人たちは、めんどうな付き合いをしていた。
それもあって、わたしは、脱落したように思う。


リアルはリアルで、いろいろあり、
ネットは、ネットで、いろいろあるようだけれど。

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あなた、何歳?

2013-04-27 | 趣味

よそさまで、崇高なおハナシを拝読させていただいた後、あらら・・わたしは・・・??
わが身を振り返り、がくっとなる。

魂が、あきらかに澄んでいない。
おそらく、神経が図太く、無神経で、厚顔無恥なせいだろう。
そして、たいした人生経験をしていないので、壮絶な経験から培われた高質ダイアモンドを人に語れない。
(ダイアモンドなんぞはなく、せいぜい、出来損ないの炭ぐらいか)

さほど苦しい、悲しい思いをしていないので、人の苦しみ、悲しみが、我がごとのようにわからない。
しかし、想像することはできる。
これをノーテンキというのだろうか。
ただ、ひとさまに迷惑かけたり、悲しい思いをさせたりすることは、極力避けたいと願うだけ、
わたしのノーテンキぶりが伝わって、不快な思いをされないよう注意する、
という、消極的なスタンスになる。

つまり、ひっそり息を殺して、あたりが明るくなるのを待つだけ。
明るいところでは、ビーチバレーをしても、よほど常識を逸する方法でもないかぎり、
そう、神経は逆撫でしないことだろう。


・・・ちなみに、ハナシは、まったくころっと変わって・・・

わたしは社交ダンスを始めて、6年。
つまり、ひよっこである。
ぴーぴー、ぴよぴよ、いっている。

始めて(たった)2年の人もいて、
(飛び抜けて若いので、まわりからチヤホヤされることもあるからなのか、どうだか知らないが)、
その人は、けっこう大きな口をきいている。
「○○さんとは、友だちなんです」とか、平気で競技ダンス・プロの名前をあれこれ出す。
その人のいう、「友だち」っていうのは、会って挨拶したり、ちょこっと近況を一方的に話すことなのだろうか?
ひょっとして、わたしも、その人の「友だち」ということになっているのかも知れない。
わたしの感覚からすると、・・・ありえない・・・。

また、ある人。
けっこうお上手。
「あなた、始めて何年ですか?」
そう聞かれて、「6年です」とわたしが答えると、「そう。そんなもんでしょうね」
と、あっさり言われた。
「あなたは、何年ですか?」
と、わたしのオウム返し質問に対して、「40年です」と答えが、返って来た。
え?
なるほど・・・
踊っていて、伸び、柔軟性が、違うと感じた。
しなやかで芯がある。
その40年間には、同時に卓球もされていたそうだ。
どうりで、下半身がしっかり安定していて、足腰がぐらつかないはずだ。

で、考えた。
40年ということは・・・仮に20歳で始めても、いま60歳。
社交ダンスなどというものは、若い人にとっては、(競技選手以外は)そんなに早くから始めることはないだろうから、
30歳から始めるとすると、70歳。
いま、目の前にいる人を、まじっとみて、「このひと、70歳?」
とスポーツ歴から年齢を想定する。(加算?)
80歳に見えるとすると、じゃあ、40歳からスタート?
今度は、見た目から、スタート時を逆算する。
いやはや、どっちにしても、若い。
わたしは、到底、ついていけない健脚の持ち主である。
そんな人が、ごろごろいる。
若い頃、登山をしていた、とか、スポーツサイクリングをしていた、とか、ダンスとかけもちをして
カラダを鍛えている人も多い。
年季が入り、脚力が違う。

わたしのように、さっそく膝を痛めている、そんなアマちゃんではない。
キャリアが違う。
恐れ入りました。

そんなキャリアであっても、上手下手はある。
長いから上手とは限らない。
やはり、意識の持ちようである。
上手くなりたいかどうか、計画を立てて、向上にむけて練習するかどうか、が、分かれ目だ。
ただただ、家にいても、だらだら、ごろごろなので、運動になればいい、
と、家から出てきているだけの人もいる。
こういう人は、健康維持はできるが、上手くはない。芸術ポイントは、いたって低い。
運動しないより、したほうがいいに、決まっているが。

ある程度の年齢になると、自分の伸びしろが、なくなってきて停滞、下降となる。
そこで、後輩の指導にまわる。
将来性のある若手を見つけて、指導することで、自分も別の意味で成長する。
ただ、勘違いしている人がいて、たいしたことがないくせに、指導したがる人がいる。
こういうのにつかまると、最悪だ。
でも、すぐに化けの皮がはがれるので、誰も相手にしなくなり、被害は最小限に食い止められる。

こういう人、レベル、性質、・・・これらを見抜くのに、わたしは、1年半かかった。
見る目を養う期間だ。
プロの先生であっても、自分に合った先生かどうか、あるいは、先生のレベルは確かか?
先生を識別する目も必要だ。

自分が、向上したいのであれば、いかなる努力も惜しまない、
そういう不屈の気構えでないと、ほとんどが徒労で無駄な時間だったという気になる。
それこそ、99パーセントの無駄と、1パーセントの実。
わたしには、ダイアモンドはないけれど、無駄な時間ばかり積み重ねているけれど、
せめて、向上したいという思いだけは、持ち続けたいものだ。

いずれ、必ずやってくる衰えや、続けられなくなる諸々の事情を目の前に、
今しかできないことを今やっておかないと、
という、わけのわからないエネルギー、それが自分を突き動かす原動力である。

あとは、何年かして、すべてが終わったとしてしまっても、
凪のように死んだようになって、のほほ~んとした、老後があれば、それはそれで、理想だ。
向上なんて、どうでもいい、穏やかな毎日があれば、充分だ。

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美人の嘆き

2013-04-26 | 日々のこと

ダンスフロアーで、美人さんを見かけた。

年齢は・・・何歳ぐらいかなあ・・・おそらく、わたしと同世代だろう。
美人なので、実年齢より、もっと若く見える。
(実年齢を知らないのに、若く見えるという、そのあたりが、びみょー)

そして、スタイルも良い。

ヘアスタイルも、美しい手入れの行き届いた髪、大きなカール巻き巻きで、お嬢様風、・・・当然良い。

でも・・・意地悪なわたしは、
(いえ、意地悪ではないと自分では思っている・・・。
観察力が鋭すぎるだけだ・・・)
彼女の敵は、他の誰でもない、自分自身にある、と感じた。

ファンデーションの濃さ、アイメークのすごさ、・・・そこに彼女のこころが集約されて出ていた。

あそこまで、厚塗りしなくても、充分、美しいのに。
自分では、鏡を見ながらメークしつつ、
「あら、老けたわ、わたしはもっともっと若く美しいはず」と、
どんどん上から上から厚く塗り重ねていっているのだろう。

美人には美人の苦悩があるんだ、と思った。
ナチュラルメークってわけには、いかないのか。
美しすぎるがゆえに、執着心もすごいのだ。
衰えた自分を受け入れることができないでいる。

せっかくの美貌なのに、こころは満足していないように、わたしの目には映った。

で・・・同時に同じ鏡の端っこに映るわたし。
わははは・・・
厚塗り以前の問題でありまして、ダンス自習に励むのでありました。

 

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無駄なことは、ひとつもない・・・はず。

2013-04-25 | 日々のこと

わたしのつぶやきブログ、
貴重なお時間を割いて、わざわざ足(指?)を運んでいただき、ありがとうございます。


あるときは、にゅるにゅるとしたもの、
あるときは、希薄性、液状のもの、
あるときは、熱々、ふーふーのもの、
勝手に、脳ミソから出るにまかせて入力してしまっている、しょーもないことばっかり。


付き合わされて、たとえ短時間であったとしても、
しっかり、すっかり時間を無駄にした、と、残念な気持ちになられたとしても、
その後の時間をちゃちゃっと有効に使えば、帳尻は合うので、まあ、ご勘弁を。


と、すでに、上記のこと、書いても書かなくても、まったく同じ、意味の無いことなのだが、
世の中、99パーセントの意味のないことと、1パーセントの意味のあることで成り立っている、
と、わたしは考える。
なので、時間の無駄遣いも、それもまた、真なり。実りへの助走であります。


というか、自分のブログへの助走でもある。


無駄なことをうだうだ入力しながら、なにを書こうか考えている、わたしだ。



はなみずき。
植えるときに、白かピンクか、とちらがいいかと聞かれ、白にした。
白い花びらが、少し地味かな、主張しなさ過ぎるかな、と思いつつ。
ピンクのほうが、よかったかな・・・?
でも、この季節、愉しませてもらっている。


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ざんげ

2013-04-24 | 趣味

執着心やら、嫉妬心やら・・・おどろおどろしいタイトル・・・、
をつけるわりには、内容は、おどろおどろしくなくて、がっかりなさった方も少なくないだろう。

肩透かしをくらわせたかんじになってしまって、ごめんあそばせ、ばせばせ。

人間のこころの闇に迫るもののほうが、訴えるものがある。
青空の下の、わーわーきゃーきゃー、ビーチバレーでもして汗をかいているブログがあったとして
(ほんとうにあったら、ごめんなさい)
同好会の人以外は、あまり興味がないだろう。

人は、闇が好き。
その分、明るい生活も大好き。
スイカに塩、おぜんざいに、塩昆布。
スパイスである。

ただ、ほんとうに、現実に、闇にどっぷり浸かりきって
二度と再び、太陽を拝んだことがないという経験が、わたしにはないので、
やはり、ビーチで、スイカに塩を振りながら、ビーチバレー、ということになってしまう。
苦しみは、当事者でなければわからないことだろう。


日曜日、ピアノを弾いた。
弾きながら、目の老化現象で、楽譜が読めない自分がいた。
音符が小さくて、ぶれて、どこに位置しているのかわかりにくい。
適当に、記憶を辿って、いいかげんに弾く。
音が濁らない場所を複数、探して、指を置く。
インチキっぽく、指をすべらせる。

弾きながら・・・子供たちには、すまないことをした・・・と、胸が痛くなった。
老後(わたしの、いまの年齢的には合ってないが)、じんわり味わえるかもしれない楽しみを、ひとつ、奪ってしまった。
それは、ピアノ。

子供たちには、幼稚園~小学校時代、無理やり、ピアノを習わせた。
家での練習。
わたしが、サボリなもので、子供に教えるのが、大嫌い。
でも、練習していかないと、レッスンを受ける意味がない。
わたし、渋々、嫌々、子供に練習させ、教える→子供、渋々、嫌々、わたしに練習させられ、不機嫌をぶつけられる
これを繰り返しているうちに、3人とも、ピアノ嫌いにさせてしまった。
わたしのせいである。
ピアノの楽しみなんか、まるで知らず、知っているのは、ピアノの練習時の母親の不機嫌だけ。
めったに不機嫌にならないわたしだが、子供たちの練習のときは、ほんとうに、イライラした。

学生時代の友人も言っていた。
「わたしが、娘からピアノを奪った」と。
その人は、ものすごくピアノ熱心な人だった。
厳しすぎて、期待を寄せすぎたようだ。

わたしは、厳しくも期待も寄せていないが、自分がなぜが、イライラした。
子供たちは、発表会も何度か経験させ、学校での行事ではピアノを弾くことになったり、と、
最低限度のピアノは弾けるようになっていたが、
誰一人として、その後、鍵盤のひとつも触れない。
わたしのせいだ。
子供たちは、点滴を打つ血管がつぶれるように、ピアノの血管が、ひとつ、つぶれた。

かくいうわたしも、ピアノ嫌いだった。
大嫌いだった。
嫌々渋々、レッスンを受けていた。
嫌々なので、進行も遅く、長い間、習ったわりには、たいしてうまくない。

でも、いま、ピアノを開けて、弾いてみようという気になって、実際、弾いて遊んだりもする。
子供の頃、弾いていた曲は、ヘタなりに、覚えていて弾くことができる。
我々の世代は、ピアノを習っていることが珍しくもなんともなかった。
先輩や、同級性、姉妹、・・・まわりは、ピアノを上手に弾いていた。
姉は、高校生ぐらいになっても、まだ、専門的な先生について、レッスンを受けていた。
義姉たちも、将来の進路はピアノ方面に進もうか、というぐらいの熱の入れようだった。
だが、偶然、彼女たちは理数系に進んだ。

ピアノと理数系の関係jは?
きっと、右脳と、左脳が、びみょーに刺激しあってよいのだろう。


わたしが芽をつんでしまった、子供たち。
いずれ、時間が出来た頃に、また、鍵盤に触れることがあるのだろうか。
だが、再開しても、わたしのせいで(結果を焦るばかりの、かんしゃく持ち)、
あまり進まないまま、やめてしまったから、名曲レベルの曲は弾けない。
音符が読める程度だと思う。(確認してないが)
弾くとすると、一から、自分で習得しなければいけないと思う。
大人になってから、これをやるのは、たいへんだ。けっこうハードだ。

わたしは、ダメなりに、子供の頃に覚えた、自分の好きな曲を弾いて、楽しむことができる。
(おそらく、わたしの世代では、平均的レベルだと思う)
さすがに暗譜は無理なので、お目当ての曲が入っているピアノ本を買って弾いている。
せめて、そのレベルまで習得させ、ピアノの楽しみを教えてあげたらよかった、と、後悔する。

二兎を追う者は一兎をも得ず。
怪我なく事故なく健康に育ったんだから、それでいいとしなければ。
あれも、これも、と、欲を張っていては、いいことがない。
そして、嫌々でも、渋々でも、どヘタでも、ピアノを楽しめる自分に育ててくれた、親に感謝。

 
蛇足ですが、
ピアノ、じつは、ワルツの曲が多くて、社交ダンスとリンクしている。
へえ~。
意外なところに役に立つことを知り、喜んでいる。

そして、上娘。
子供への情操教育と称して、iTunesで、ピアノ曲だけのクラシック音楽を流している。
この行為、意外で、けっこう、驚いた。
彼女をピアノ嫌いにさせてしまったが、彼女なりに、ピアノはいいものだ、と感じるものがあるのか???

わたしの、どヘタなピアノより、美しく清らかな、プロのピアノ曲を流すほうが、そりゃあ、耳にはいいだろう。

音楽は、いいものだ、と、この年になって思う、
超・晩生のわたしである。

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嫉妬の炎が、ちょろちょろ小さい

2013-04-23 | 無題

嫉妬、嫉む・・・そういうこころのメカニズム。
それは、女性に多いように思う。
めらめらめら・・・。

源氏物語にも、生霊として嫉妬の相手を殺すストーリーが、あるようだし。

わたしは、その手の話は、あまり乗る気がしない。
けっこう、さらっとしている。
嫉妬とかではなく、「コイツめ~!」と、自分の思うようにならないことに対して、逆恨みをすることはある。

嫉妬に対しては、嫉妬しないようにする対策を講じる。
自分も頑張る、正しい方向に努力するとか、
それが無理なら、嫉妬を感じる対象を日常から目に触れないところに移動させる、あるいは、自分が移動する。
カンに障るものは、見ない、触れない、封印して感じないようにする。
あるいは、虫歯の治療のように、自分の神経を抜く。

どうもこの話題、気合が入らない。

わたしは、どちらかというと、目標に向かってひたすら努力するタイプ。
それは、人間に向かってはしない。
ひとのこころを変えようなんて、思わない。
技量や才能、行動が向上するように頑張る。
自分が、あまりにもダメで足元にも及ばないような相手だったら、別の人の足元を向けて、方向チェンジするか、
あるいは、コツコツと歯を食いしばって頑張る。
だから、あんまり嫉妬しているヒマがない。

努力しても努力してもダメで、嫉妬の相手が高らかに煌々と光り輝いていたとすると、
それは、嫉妬ではなく、憧れなんじゃあないだろうか。

「嫉妬」と、「憧れ」の違いは???
嫉妬も憧れも両方、自分は下のほうから手の届かないものを見上げている。
自分はべつに惨めではないが、対象とする人が手が届かないのが、「憧れ」であり、
自分は、まったく、どうしようもなく身動きとれないのが、「嫉妬」なのだろうか?

自分が、マイナスのところに位置しているのか、
ゼロのところにいるのか、
ほんの少しでもプラスのところにいるのか、
それによって、感じ方が違うのだろうか。
どうしようもない出口のない思いなのか、出口があるのか、その違い?
あるいは、たんに性格の違いだろうか。

わたしも、若い頃、嫉妬したりしたこともあった。
が、長い目で見たりすると、嫉妬を向けていた対象者は、別の分野では、ぜんぜんどうってことなかったり、
逆に、嫉妬していた分野も、見方を変えれば、嫉妬する必要がまるでなかったり、
そういうことを経験した。

嫉妬しているヒマがあれば、一歩でも近づきたいと努力するか、
わたしとは、別もん!と、負け惜しみしつつ、見なかったことにするか・・・。
あるいは、人にはいろいろあるし、他の分野はどうなのか、別に知りたいわけでもないし、
ようは、あまり、人のことには関心がないというわけだ。
どうでもいい。

こんな内容では、嫉妬について、こころのメカニズムを分析、なんて、冒頭の言葉を取り消さなければならない。
(いま、チェックしてみると、分析、とまでは書いてなかったようだけれど)

すみません。
もっと真面目に、時間のある時に取り組みます。
(といっても、似たようなものかも知れないが・・・)


唐突ながら、今日は、ここで、ぎりぎり時間制限、いっぱい、いっぱい、
で、終了します。

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複雑な想い

2013-04-22 | 日々のこと

自分は、男女平等のステージから脱落した人間だ。
早々に落っこちちゃったのだ。

負け犬の遠吠え期間をしっかり味わい、
さらに、敗者復活戦として、再度、日を改めて戦いに参加。
これまた、敵をぼんぼん倒して・・・とは行かず、
敵にがんがん倒されて、ぎゅんぎゅん踏まれて揉まれて、今日がある。

自分は、男であろうが、女であろうが、戦いには負ける人間のようだ。
なので、自分に合ったステージを探して、自分の生きる道を探すしか、生き残る手はない。



わたしの次女。
仕事の過労でどうにかなってしまわないか、心配している。

男女平等でけっこうではあるが、男性でも辞めてしまう様な、
過酷な労働をし続けている。

土日も仕事。平日も朝早くから夜は深夜まで。
この2週間は、連続、平日も土日も休みなしで、3週間目に突入。
同じ家に住みながら、まともに顔をあわせたことがない。
訴えればいいじゃん!と、人は安易に言うだろうが、現場では、なかなかそうカンタンにいかないことだろう。
辞める覚悟があれば別だが。
職種や職場によって、外部にはわかりにくいこともあるのだろう。

カラダをこわして、こころを病んで、そしてやむなく退職することになる前に、
わたしは、どうにかしてほしいのだが・・・
いまは、そっと、こわごわ、見ているしかない。

朝も、自宅で出勤するまでの間、早朝から仕事にとりかかっていることもある。
この1週間を乗り切ったら、きっと、普通どおりの勤務時間に戻ることだろう。
連続3週間、ノンストップは、かなりキツイと思うが、若いから乗り越えられるかも?とも思っている。
ただし、心配もしている。
脳がパンクしてしまうのではないか、と。


男も女もない。

そういう男女平等が理想だったはずなのだが、
いざ、目の前に、自分の愛しい人間が、苦しんでいるのを見ると、とても複雑な気持ちになる。

自分の果たせなかったことを、夢として子供に託したのか・・・?
だとしたら、とても申し訳ないような気持ちになる。
わたしの、つまらない意地のようなものの犠牲になったのか?

若い女の子らしい、アフター5や、楽しい休日を奪ってしまった、遠因のひとつは、わたしかも知れない。

昨日、彼女が連続して休めない日曜日、ぼろぼろになりながら仕事をしているというのに、
わたしは、のんきに、ピアノを弾いて遊んでいた。

これで、いいの?

若いうちは、とことんやるのも、いいかも知れない。
そんな言い訳を自分でしながら、胸が痛い。

そっと、見守るしかない。

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ケチな了見

2013-04-21 | 日々のこと

毎日、毎日、よく書くことがあるものだ。わたし。

ごはんを食べるのと同じように、指の運動であります。
同じ指の運動でも、パチンコとかは、いっさいしない。
ギャンブルは、まったく、大のキライ。

ギャンブル好きの人とは、老若男女を問わず、お付き合いした人はいない。
接点がない。興味の対象が、まるで一致しない。

一か八かの大きな賭けはキライ。

だが・・・結婚は、ギャンブルだという。
なるほど、そういえば、そう。

わたしはニュース以外、テレビをめったに見ないのだが、昨夜、たまたまNHKの婚カツ・ドラマを見た。
観月ありさ主演の「ご縁ハンター」というものらしい。

ヒロインは、婚カツ・パーティに参加していた男性を気に入り、積極的にアプローチする。
が・・・。

「キミは、家庭的ではない、そんなかんじがする」
「家庭的ってなに? 
ふわふわしたワンピースを着て、お弁当とか作って持ってきて、そうすればいいの?」
「そんなんじゃあなくて・・・。
キミらしくして、そのままの素のキミが、結婚に向いてないような気がする」

というかんじの、(セリフや内容は、びみょーに違っている可能性、大)展開で、
この男性には、他の女性とも公然とお付き合いを同時進行、婚カツされ、結局あっさりフラれた。

そして、ドラマのなかで、どこかで見た顔が出てきたと思っていたら、普通の眉毛のイモトだった。
自分に自信のない役を演じていた。
(と同時に、眉は、イモト・キャラの重要な要素だと実感)

大事なのは、
結婚していても、していなくても、人間として、女性として、自信があるか、ないか、だそうな。

へえ~、そうなのね。

結婚って、たいへん。
だって、ギャンブルだから。
えいや、っと、見切り発車して決めないと、ぐずぐずしていたら、相手も動いていて、動きに乗っていけない。
チャンスを逃さないこと。
(能動的ではなく、ずるずる、というパターンもあるだろうけれど)
そうやって、結婚しようと頑張るわけだが、
なぜ結婚したいかというと、
「寂しいから」とか、「将来、不安だから」、とか、いろいろ動機はあるようだ。(ドラマの登場人物が言っていた)

ま、人生の一大賭け、ギャンブルが好きであろうが、キライであろうが、
当たりくじを引いた人も、当たりのはずが、ハズレだった人も、
ハズレと思っていたら、当たりだった人も、
ギャンブルの結果を日々、しみじみ噛み締めていることだろう。



そういえば、昨日、フランス語ラジオ講座テキストを買った。
再開するのかどうか、自信はないが、とりあえず、また聴けたらいいなあ・・・と思っているが、
買っただけになる可能性も、非常に高い。

さらに、そういえば・・・(どんどん話題が後から出てくる)

販促のための情報誌がユーザーに送られてくるが、それに掲載されているエッセイを今朝、読んだ。
名のある人だが、さすがプロだとは思わなかった。
内容はどんなであれ、プロというものは、いかなる状況であろうと、締め切りに間に合うように書く、それがプロである。
書きたくなくても、気が乗らなくても、書く。内なる想いが、あふれなくても、書く。
だから、面白くなくても、しかたないのかなあ・・・と、いま、これを書きながら、プロをフォローする気になった。

フォローはしているが、実際、内容は、たいしたことなかった。
無料で送られてくる情報誌だから、いたしかたないのか。
やはり、お金を払わないと、よいものは期待できないのか。

タダで愉しもうなんて、了見が甘すぎるのかも知れない。


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執着するこころ

2013-04-20 | 暮らし

こころを切り替えるのは、むつかしい。

わかりきっていることなのに、気持ちが切り替わらない。

あたりまえだ、人間だもの。(相田みつを・・・ではありません)

執着心は、とくに、やっかいなものだ。
切ろうとしても切れない。
一生、切れないかも知れない。

それはそれで、いいのかも。
自分で自覚しつつ、問題を抱えながら一生おつきあい。
問題のない人なんて、いないだろうから。
もし、問題がないと思っている人がいたら、
自分で気付いていないだけの、超ミラクル・ノーテンキ殿かも知れない。

世の中に「悪」なんか、ありません。
なぜなら、わたしが「善」だからです。
なんて、言っている人、こういう人がなにかの教祖さまだとしたら・・・
おそろしすぎる。

自分のなかの悪と闘うこと。折り合いをつけること。バランスをとること。
これが、大事だと思う。
これが、また、なかなか困難なのだが。

苦しいし、うまくいかないので、そういうときは、めんどくさいことは、ほっぽって、自分の長所を見る。
人間は、短所を直すより、長所を伸ばすほうが、楽でいい・・・らしい。

ものの見方、角度を変えると、執着心は、頑張りにつながる。
「生」への執着心は、奇跡をも起こす。

自分の核となるものは、執着心だったりする。
どんなものよりも、なによりも、譲れないもの。
それはそれで、いいのだけれど。

ただし、判断を誤っては、つまらない。
徒労に終わる人生など、誰もが送りたくはないはず。

たとえば・・・
人の持っているもので、自分が持っていないもの・・・
つい比べてしまう。
あたりまえだと思う。

あーあ、あの人は、あーなのに、わたしは、なんで、そーじゃないの?

人は人・・・と、思いたくても、なかなか思えない。
まして、目の前にいたり、毎日、顔を会わせていたりすると、
こころの中からおっ払おうったって、まとわりついてくるだろう。
そういう負の感情が積み重なると、こころの中で、溜まりに溜まって、えらいことになる。

距離感、風通しが必要。
特定の人の、すべてを把握したり、知ったりしようとしないこと。
表面に現れているのは、ごく一部であるということ。
目に見えない部分で、とても努力していたりする。
あるいは、人に言えない不幸な面があったりする。

野球の選手に、美術や、音楽の才能は問われないだろう。
大学教授に、スポーツの資質は求められないだろう。
自分の持っている、なにか長所を見過ごして、短所ばかりに日を当ててもしかたない。
どうしても短所が気になるのなら、少しずつ、自分が納得できるまで、克服できるまで頑張るしかない。

それが、埋めようの無い才能や資質の違いであったり、経済的な違いであったりしたなら、
ないものを欲しがって、不幸になるのは、ばからしい。
あるものを伸ばす方向に頑張るほうが、ずっと楽しいし、やりがいがある。
たとえ、取るに足らないようなレベルであっても、だ。


わたしは、卑怯である。
自分と同じような位置にいる人と、実生活において、深く付き合おうとしない。
競争心、ライバル心、劣等感が芽生えて、平常心が乱れる。
(めんどくさがりでもある)
付き合うとすると、うーーんと離れて、糸電話で話すかのごとくの、付き合いかたをする。
しかし、なんの説明もしなくても、同じような位置にいる人とは、通じるものがある。
それはそれで心地よい。

あの人が頑張っている、わたしも・・・
と、よい意味のライバル心は、おおいに結構だ。


手が届きそうもないような、たいそう素晴らしいと感じていたことも、
目が慣れてきたり、自分が変わると、見方も変わる。
ある日、それほどでもない、と感じる。
逆に、まったく取るに足らないこと、当たり前のことだと感じていたことも、
見る目を変えると、それはそれは大変な、不断の苦労の賜物だったりすることに気付く。


と、ぐたぐたと、具体性のないことを綴ってみた。

こころ穏やかに、
でも、じぶんのこころは、どこか、ぴんと張る部分をもって、
つつがなく暮らしたい。

(こういう表現、高齢の澄んだ方のエッセーにあるような、
なんだか、人生を達観した、お迎えがいつ来ても怖くない、80代後半のように捉えられそうだ・・・)

と書きつつ・・・
諸々の煩悩と闘う毎日である。

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ひとり

2013-04-19 | 日々のこと

いま注目を集めるブログを読み、面白かったものの、
詳しくコメントを自分のブログに書く気にならない。

ブログには、それぞれ特徴がある。
丁寧に書かれている文章は、読み甲斐がある。
キレのあるものは、刺激がある。
書き手の人格や、思考力、性格、そういったものが現れる。

たとえ、日常の取るに足らない1シーンであっても、
表現方法に、書き手の目線、感性が出る。

わたしは、こころのメカニズムを分析するのが好きである。
悩みや困りごとがあれば、原因・理由を探って、問題解決の糸口を見つけ出す。
そして、具体的な対処法を考える。
わからないままにしておく、というのも、ひとつの方法。
意識的にであろうが、仕方なくであろうが。

うまくいかない場合は、試行錯誤を繰り返す。
対人関係であれば、どうやって相手に自分の意志を伝えるか、方法を考え出す。

これは、いつも、失敗の繰り返し。
長い時間、根気と忍耐力を要する。

気が付けば、一人行動が多い。

でも、不思議なことに、
わたしは、けっこう、ご機嫌で、こころは晴れやかである。

 

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