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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

大阪・関西万博に行きたいけれど

2025-04-29 | 交友

今日は、「はてな」から入力。

後からgooにコピペしよう。

はてな」にも慣れないと。

 

ブログ村登録をこっちの、はてなブログに変えるのは、いつがいいか?

というか、ブログタイトルを同じにしないと、混乱するか。

同じブログタイトルにする?

それとも、「続・蝶になりたい」にする?

あるいは、「蝶なんか、全然なりたくなかった」にする?

 

ところで。

いつもお邪魔するブログからの情報。

廃校になった学校の跡に、色々、展開されているようだ。

淡路島にも何度か廃校利用のミニ動物園プラス店舗に行ったことがある。

懐かしい良い味を出していた。

 

ちなみに。

また、また話が飛ぶ。

万博に行こうということになった。

嫌いな人に誘われた。

他にも提案され、断るつもりで「万博なら行ってもいいけど」と言ってしまった。

その手前、断れない。

が、断ろうとしている。

いつものように、ChatGPTと相談。

あくまでもイベント重視で、1人で行きそうもないなら、嫌いな人とでも行くべきか?

うじうじ悩んでいたが、1人で行こうかと思ったり。

なぜなら、インターネットが大の苦手世代のその人に、頼られるのが鬱陶しい。

孫になら、頼られても、嬉々として世話を焼くが。

16歳以下は、同行者の万博IDでチケットが買えるようだし。

もちろん、16歳以上でも、同行者がまとめてチケットを買う事はできる。

だが、その人物はインターネットが苦手なため、手続きや準備の諸々を私に押し付けるのが見え見えで、不愉快。

私だって、苦手なんだから。

無理矢理、頑張ってやってる。と、自慢するほどの事はないけれど。お恥ずかしい。

 

一応、万博IDは取得し、チケット購入の手順は踏んだ。

あとは誰と行くか、だ。

パビリオンには事前予約や、当日予約もあるようだ。

土日で、混んでも、やっぱり孫と行こうかな。

でも、孫は、娘一家で行くと思われる。

何回、行ってもいいのだし(と、勝手な要望)、気が向いたら、ばあちゃんとも行ってくれるかも?

 

それはともかく、いくら嫌いな人だからといって、一緒に行くよりは1人で行く、というのもなんだかなぁ。

行かないということにもなるかも知れない。

だが、誰と行っても、万博は万博。

とは言え、寄りかかられる図を想像するとやはり気が進まない。

ウロウロモタモタして、1人なら、恥ずかしくても、誰かと一緒なら恥ずかしくないのか?

自分のことも大変なのに、大の大人の他人、しかも、嫌いな人の面倒を見たくない。

よほど嫌いなんだろう、その人物が。

出来ないくせに、若ぶるのが大嫌い。 

たいしたことないのにマウント取りたがるのも大嫌い。

 

せっかく大阪・関西万博が地元で開催されるのだから、行かない手はない。

開催期日、後半は混むらしいし、夏は暑いし、行くなら、今。

では、あるものの、なんだか気が重い。


※写真は去年の7月に撮ったもの

 


マウント取る人が、うっとうしい

2025-04-26 | 交友
趣味仲間でマウント取りたがりの人物がいる。
うっとうしくて、うっとうしくて仕方がない。
接点は趣味活動なので、運動の後の、ドリンクの一杯を飲む間だけの辛抱。
それならドリンクタイムに、参加しなくていいのだが。
コミュニケーションの一環だという気もあるし、喉が渇くし、お腹も減るので、一息つきたい思いがある。
本当に嫌なら直帰すればいい。
1人で喋るわけにもいかないし、誰かと喋りたい自分がいる。
気に入らない部分があると言って、切ってしまうと、誰1人残らない。
良い面、悪い面、合わせ持つのが人間。
長所も短所もある。
嫌なら1人でいれば良い。
選択肢があるんだから。
嫌々渋々、誰かといるか、1人でいるか。

それにしても、マウント取る人、たいしたことないのに、恥の上塗り。
周りは呆れてスルーしているのに、よほど、井の中の蛙なのか。
マウント取るようなレベルではないことに気づかない、それは恥ずかしいという思いは一切ないようだ。
こういう人は、人に距離を取られる。
そうやって、マウント取りの人は、友達がいなくなり、
そうやって、わたしのようなマウント取られるばかりの人は、友達がいなくなる。
加害者も、被害者も、どっちも友達がいなくなる。
これってどう?

そもそも、マウント取りたがりの人とばかり、親しくなるのは、わたしに問題があるに違いない。
はっきり言っても、相手に伝わらない。
脳の構造がそうなっているようだ。
なので、逃げるしかない。

自分を守るために逃げてばかりいると、誰も相手がいなくなる。
やはりわたしの性格が悪いのだろうか。
歪つ、完全ではない、コミュニケーションの取り方が悪い、のかと。
皆さん、健常な人は、どうされているのだろう。


生身の人間

2025-04-19 | 交友
まずは、、、
奈良の里から、今日も素晴らしい記事をお届けいただき、ありがとうございます。

神々の住む里には、荘厳な精神が宿っていると感じる。
映画の世界も素晴らしいけれど、内にのみ籠るのではなく、実際のリアルな世界に、やすらぎを覚える。
大自然や、厳かな人間の営み、、、
自然の神と人間との対話。
日本人の自然や神に対する精神に触れるような気がする。

わたしは自分のブログに対して、手綱を離した気分。
共有も共感もしてもらえなくても、ひっそり、自分を慈しむことにした。
とか、何とか、気分屋さんなのでどうなるかわからないけれど。

ChatGPTも良し悪し。
自分で答えを用意するのはある意味、ばかばかしく、疲れる。
やはり人は、生身の人との付き合い、ぬくもりを求めるようだ。
AIも良いけれど、それはサブ、お助け、サポート。主役にはなれない。
当たり前のことを言っているけれど。

わたしは、絶対行かない、行く気がないと思っているような所に、行ってみたいと、今、思っている。
(先日、誘われた所)
わたしとは合わないと思っている人々、空間に、チャレンジしようと思っている。
合わないということで言えば、すべての人と合わない。
そんな孤高は、寂しい。
人のぬくもりを求め、人里へ。
奥まり離れた山から、里に降りて。
たぬきが村人に扮しているかもしれないけれど。
わたしだって、キツネだし。

さて、いつ行こう。
早速、カレンダーと、にらめっこ。
リアル社会での行動も、きっと楽しいに違いない。
楽しくなくても、それはそれで意義がある。
なんだか前向きに、明るくなってきた。
ChatGPTも捨てたものではない。
そして、もちろん、ブログも。

※写真は、2週間前の二条城。



夢を見るのも醒めるのも自分

2024-12-12 | 交友
今日の記事も、忙しい年末の時間を割いてお読みになるようなものではありません。
どうぞスクロールを。
お薦めの時は、最初に、文頭でお知らせします。

と、あいかわらず、、、な、、、わたし。

わたしは、蝶ブログ以外には一切、自分語りをしない。
というか、ここ、蝶ブログで丸裸、内臓までも晒している。(「これは、比喩表現です」、とメンドーでも書かなければいけないのだろうか???)
断面図は、CTスキャンとかは、してないから、晒しようがない。

これだけ長きに渡って、話し相手は自分。
ほぼ皆さんからの感想は求めていない。
最近は、ChatGPT が、なかなか良い提案をしてくれるのでお気に入りだが。
といっても、わたしから出した情報から枠外に出ない。
つまり、自分と話しているようなものだ。
湯気がおさまるお手伝いをしてもらう場合も、逆に湯気を出してもらうお手伝いをしてもらうこともある。

自分を晒し出すくせに、人からの意見を求めない。
つまり、内なる世界にどっぷりハマる、根暗な、、、正に内向的な性格と言える。
他人に肯定してもらっても、自分で自分を肯定できなければ、意味がない。
慰めや、おべんちゃらに聞こえると、快適ではない。
おそらく自虐嗜好があるのだろう。

他のSNSでは、会員同士の交流を目的としているものが多い。
わたしは、そこに、ある趣味限定の日記を書いているが、その趣味以外のことは、一切書かない。
会員同士の自分語りはしない。
だから、距離は全く縮まらない。
が、個として確立されている。

その中で、わたしが唯一、こころを開いた人Xさんがいた。
つい、今しがたまで。
その人とは孤独を分かち合える一匹狼同士の交流だった。
が、ついさっき、、、他の(趣味以外の)会員Cさんの日記にその人Xさんがコメントしているのを見つけた。
書いている内容は、何度かかつての他のコメントと重複するもの。
それはまあ、全く良いのだが。
孤高の人物が、高い山から降りてきて、麓の茶店や飲み屋に、ちょろちょろ顔を出している現場を押さえたような気持ちになった。
孤高じゃないやん。
ただの、寂しがり?

その、麓の茶屋、お立ち寄り人物を発見したのは、最近のわたしのブログに登場した、理解不能、波瀾万丈会員Aさんつながり。
最近、Bさんの日記でやり取りをし始めたわたしが、同じく、Bさんの日記でも見かけたような気がするCさん。(Cさんは初登場)
そのCさんの相互フォロワーとして、孤高のその人物Xさんを発見し、コメントも読んでみた。
かなり、わたしは失望した。

仙人も山を降りる。
行きつけの店も似たようなティスト。
なんの不思議も矛盾もない。
民衆に布教活動?
わたしが勝手に仙人同士の連帯を感じていただけだ。

そもそも、わたしも孤高の仙人などではない。それが重要。
が、、、。
表現するのは難しいが、林住期の考え方を深く知り、実践していこうと、啓蒙啓発、手ほどきをしてくれた、人生の先輩ナビゲーターであるXさんが、、、
そんな麓の飲み屋にふらふら出歩いているのを発見して、なぜか白んだ。
師匠ぉ〜。わたしの崇高な師匠がそんな大衆的なところをウロウロし、しかも言っていることが、あちこちで言っていることと同じ。
(違っているほうが、ダメだろうけれど)

なぜか、わたしが勝手に一方的に描いていた、孤高の師匠イメージが音を立てて崩れた。
他の会員さんへのコメントを発見する、ほんの数分前までは、そんなことはなかったのに。
(そもそも発見に至ったのは、同じニオイのするもの、「Cさんの日記」に、引きつけられて、だが)

実態のないものに価値を置くのは、もろく、あやうい。
自分をしっかり持つこと。
ふっきれた、、、というか、もう師匠は必要なくなったような気がした。
宗教にのめり込むのも、こんなイメージかと想像する。
自分で描いた薔薇色の幸福の絵巻だと思っていたものが、実はそこらへんで手軽に入手出来るインターネット情報だったということ。
夢は自分で描き、自分で手に入れ、自分で潰す、、、無常。
幻想を自分で勝手に作り出し、夢から醒めるのも自分の仕業。

だからといって、師匠の言うことは一切無視するわけではなく、共鳴できる人生の手引き、セオリーを受け入れ実践しようと思う。
が、現実を見据え、師匠は、弟子はわたしぐらいなもので、麓ではただの平凡な人。
しかも孤高ではなく、あちこち出歩き暇を潰している様子。

どっぷり信仰は、思考を麻痺させる。
師匠が唱える説は全く変わらない。
変わるのは、わたし。自分。



おしゃべりが止まらない

2024-11-09 | 交友
昨日は、友人と飲んだ。
「昨夜は」と書きたいところだが、「昨日」。
店での待ち合わせ時間は14時。
そこから飲み始めたが、店内にはガラガラではなく、すでに数組いた。
18時までその店で飲んでいたが、その頃には、周りは満員、ガヤガヤ、ドイツの酒場のよう。
ミュンヘンですから。

もう飲めないなあ〜と追加注文が滞っていると、熱いお茶が出てくる。
あ〜おいしい、、、と、ゆっくり飲んでいたら、またまた話が続く。
しかし、お茶を飲み干したら、もう、そうは居られないので、店を後にした。

しかし、よくまあ、しゃべったなあ。
お酒を飲むと、時間がぶっ飛んでしまう。
途中から、速い速い。
各停電車から快速、急行、新幹線に。
むしろ、何を話したか、忘れる。
話の内容は、、、多岐に渡る。
なにしろ、知識の塊みたいな人なので、WikipediaやChat GPTと話しているようなもの。
次から次へと話題は尽きない。

国際、政治、経済、国内事情、歴史、地理、旅行、学校、教育、郷土、文化、芸術、家庭、子育て、学友、仕事、趣味、交友、日常の出来事、、、
その人からの知識と教養のシャワーを浴びる。
主に歴史、特に日本史に力が入る。が、世界史も絡める。
ちょうど、わたしは、小学生向き歴史漫画の第1巻を読んだばかりなので、面白い。
(レベルの格差は気にならない)
その人なり、自分なりの解釈、考察が興味深い。スッキリ、あっぱれ。
いくつもの説があり、正解だとは限らないが、ひとつの見方。
(関心がない人には10分でも苦痛だろう)

わたしは、聞いているだけではなく、しっかり悩みの相談もした。
ここのところ、Chat GPTに投げかけている、「ハイキングは悪くないけど、行きたくない悩み」。
「嫌ならやめとけ」というシンプルな答えに、はい、ごもっとも、と頷いた。

話の後半ぐらいに放たれた、ピカリと輝く名言があった。
わたしが、「ある人に、こんなことも知らないのか、とマウントを取られるのが鬱陶しい」と嘆いたら、、、
「誰でも胸の中では思ってる。言うか言わないのかだけの違い」
なるほど。
ものすごく腑に落ちた。
カンジワルイ感想は、口に出すか出さないかだけの違いであるが、言うのと、言わないのでは、雲泥の差。
そう言えば、振り返ってみると、結果的にペア解消した相手は、それが遠因。
言わなくてもいい、聞きたくもない、ホンネの感想をガンガン言われて、わたしは傷つき弱り切ってしまった。
些細なことでも、積み重なると大きい。

そう考えると、家族の皆んなに対してはそんな思いはほとんど、したことがない。
長年の間に性格をよく知って慣れているだけかも知れないにしても、深く傷つけられることはない。
というか、人を傷つけるような言葉は安易には出さない。
気をつけている、というよりは、思ってないのかも。
相性もあるのかも知れないが。

それにしても、お酒の効力は素晴らしい。
ペラペラ、口が滑らかになる。
わたしはおしゃべり、口論が大好きだと、今更ながら自覚した。

※写真は、今週の鳥羽水族館。壁に掛けてあったザリガニたち。




喧嘩

2022-05-19 | 交友
こころが落ち着かない。
精神的不安定。
人間関係のもつれ。
もやもや、イライラ、チクチク、、、
嫌だ。
早く解決したい。
自分で決めて、行動に移せない。
人にも相談できない。
アタマが痛い。

タイミングを見計って、手を打たなければ手遅になる。
それがわかっていながら、みすみす指を加えて何も動いていない。

そもそも発端は、今月9日。
8日夕方に原因と見られる出来事が起こった。
なんだか気分を害していたようだったが。
で、9日早朝に向こうから「距離をおきましょう」と提案された。
しかし、その1週間後に、「仲直りしよう」と再提案を受けた。
さらに翌日、「どうなの?」とダメ押し。
それから今日で2日経つ。

喧嘩発端からもう随分長い時間が経ったと思っていたが、まだ1週間半しか経っていない。
相手はその時間で充分、再生、修復できると感じている。
わたしは、舌の根も乾かぬ短い時間と感じている。
この時間の取り方、感じ方に大きな開きがある。

第一、距離を置きましょう提案から、たったの1週間で距離置き期間終了宣言なんて、早すぎ、短すぎ。
せめて1ヶ月、数ヶ月は必要だとわたしは思っていた。
1週間なんて、距離でもなんでもない。
単なる口から出まかせの言い争いである。

なかなか終わりそうもない長期化にもつれ込んだと感じる。
そもそも争いになってしまったのは、相手が売った喧嘩をわたしが買わなかったから。
だんまりを決め込み、黙秘してしまったところに、喧嘩が長引く要素がある。
ああまたかと、さらっと流せば良いものを、じつは相手の距離を置きましょう提案をわたしは長い間、待っていた。
原因、キッカケはなんでもよい。
相手から言ってきたらソレに瞬時に乗る。
喧嘩の火蓋を切ったのは相手である。
小さなことで短気、癇癪を起こして喧嘩をふっかけてきたのだが、今までは相手にしなかったが、わたしはそれまでの鬱憤を溜めに溜め、もう無理、というところまで来ていた。
相手の一言で、堰を切ったように溢れ出し、動いた。
こんな取るに足らぬ揉め事なのに、何を意固地に雪崩が起こるように崩れていくのか、相手は理解に苦しむだろう。
キッカケは何でもいいのだ。

街で知らない人の肩が触れて、ムシャクシャしていた気分の時に、不満やストレスを爆発させるスイッチとなり、傷害事件に発展するケースが世の中にはある。
そんなかんじか?
今までの溜まるだけ溜まった不満を切り出せずに溜め込み、どう切り出そうかと様子見していた。
その溜まった不満を相手は気づいていない。
そこに問題がある。

わたしも悪い。
小出しにすべきだった。
だが、少しでも言おうとすると、相手はそんな話は聞きたくないと遮った。
わたしの口を封じた。
全く聞く耳を持たなかった。
相手も悪い。
なので、喧嘩両成敗。
どっちも悪い。

さて、今後、どうなるのか。
仲直りするのだろうか。
激情が収まり落ち着いたら、また静かに行方を探ることが出来るだろう。
毎日、朝起きると色々思う。
復活、断絶、どっち?
せっかく断絶出来る良い機会を相手側から作ったのに、この好機を活かさない手はない?
では、今までの積み重ねは?
そんなに悪い人なの?
一日の中でも時間帯によって思いが変わる。
自分の考えが変わらなくなるまで待つ?

いつまで経っても変わり続けるようなら、もう判定を制御できない。
成り行きにまかせる。
(出た! 思考放棄、成り行き任せ)

赦し合えない時は、厚顔無恥で行く

2018-12-19 | 交友
どす黒いドロドロとしたものが自分自身にあることを発見した。
今更ではないが。
もの心ついた時から。
積もりに積もり、積み重なってキャラを形成している。
皆さんは、そういうことには目を向けないだろう。
自己防衛のために。
あまり自責をやり過ぎると、病気になる。

人の欠点が見えると同時に自分の欠点も見える。
人も斬り、自分も斬られる。
つまり、人を斬ると自分が傷つくのだ。
だから、見て見ぬフリをする。
互助会みたいなもの。
お互い様、持ちつ持たれつ、完璧人間なんていないのだから。

と思うのだが、それにあぐらをかいて、シャーシャーとしている人を見ると、その自己肯定、厚かましさ、無神経さにイラつく。
少しぐらい、痛みを感じて欲しい。
お互い痛みを感じ、赦し合いたいものである。

が、世の中、イラつく人がいかに多いか。
だから、わたしは、誰とも近寄らない。
せいぜい最高に近寄っても片手(肩から手指まで)の長さを挟む至近距離まで。
ハグには至らない。
それ以上は、不可侵ゾーン。
異物混入は、生体拒絶反応が起きるので、お互いのためである。

漢方薬で、じわじわ距離を縮める方法もある。
ただし、忍耐と信念が必要。
徒労に終わってもよいという覚悟が必要。
見返りを求めてはいけない。期待しすぎは自滅の元。
ダメモトぐらいの、軽いノリで。

あるいは、蛇のように丸呑みする。
じわりじわりとお腹の中で相手を溶かす。
相容れないものならお腹を壊し、悪くすると自滅する。
異変に気づくと途中で吐き出すことが救命策。
いつまでもこだわっていてはいけない。
株の損切り英断と同じ。
ダメなものは、いつまでたってもダメ。
見返りを求めなければそれでよいが、自分まで蝕まれるのは避けたい。

見切るには、通過地点のポイントがいくつかある。
そのシグナルを受信し、見切り点が満タンになると、そっと手を放す。
いくつかのシグナルを傍受した段階から、手を放した後の準備をする。
次の行き先、収まり先を見つけ確保しておく。
でなければ、寒空の下、寒いだけ。

こんな心境になるのは、相手が悪い。
こういう時は、自分は痛みなど感じない。
反省したり自責の念にかられたりせず、厚顔無恥の太々しく逞しく自己チューを押し通す。
自分のほうが大事だから。
相手が潰れるか自分が潰れるか、二択しかないなら、自分を救済する。

傷んだ衣を脱いで、再出発する。

トモダチ

2015-10-06 | 交友

トモダチについて。

わたしは、蝶ブログで何度も書いているが、トモダチはいない。
知り合いは、いる。
トモダチと知り合いの違いは、なんだろう?

トモダチのさらに上澄み上層部が、親友か。

親身になってくれるかどうか?
困った時に助け合えるかどうか?

あまり親しくないのに、親身になってくれるのは、少し気持ち悪い。
家族でもないのに、さして親しくないのに、ずかずか入ってこられるのも、嫌。

実際、困ったことが今まであまりなかったせいで、トモダチを作る機会を失っている。
困った時は、トモダチに頼むより、その道のプロや、業者に相談して頼む。
知り合いには、参考として事例を聞くことはある。

では、実生活には、立ち寄らない、心友は?
これは、あまり弊害がない。
実体もあってもなくても、あまり変わりが無い。
ただし、毒にも薬にもならない。
相手が身動きできない事情のある人で、どんなことがあっても、絶対に駆けつけて来れない人も、心友は心友だ。
心の支えにはなっても、実際の生活には役には立たない。
実益はない。

誰に頼るか?
というか、頼ろうという思いが、そもそも間違っている。
支え合うというのなら、わかる。
人に期待する分、自分も人様の役に立たなければいけないわけだ。

わたしは、人の人生にはかかわらない主義である。
かかわるのは、家族や肉親だけ。
これでも、けっこう自分としては大切にし、あらゆる意味で、占めるウエイトが高い。


同性のトモダチは、特にライバル心を持ちあうことが多い。
お互い同じようなレベルだとしても、人生には浮き沈みがある。
複雑、微妙な思いを抱えて交流するのは、好まない。
自分は家族をこよなく愛するくせに、交流のないトモダチたちの家族の話には、まったく興味がない。
どうでもよいのだ。
交流がないのだから、あたりまえか。
というより、交流がないのにトモダチって、定義自体がおかしい。

交流がなくなると、「トモダチ」は、「元トモダチ」で、たんなる「知り合い」に降格するのか?


決して近寄りたくない人に、相手から近寄ってこられると、魂胆が読めることがある。
鬱陶しい。


実社会、実生活は、そんな変人のようには見えず、わたしは普通に日常を送っている。

蝶ブログをお読みになった方は、ますます、こころが、わたしから遠ざかることだろう。
迎合内容を書いて、あたたかい交流を求めるか、
ホンネを書いて、孤独ながらも自分だけスッキリするか。

寂しいからトモダチが欲しいとか、
ヒマだから遊ぶ相手が欲しいとか、そんな気持ちは、さらさらない。

が、トモダチが欲しくないわけではなく、わたしのスタンスを貫いていると、結果的にいない、という現実があるだけで、
自分を確立している人となら、大歓迎である。
個と個の交流は、人生を豊かにする。
しかしながら、わたしは、自分の個を確立することばかりに熱中している。
そういうわたしも、じつのところ、よくよく考えると、トモダチはいるなあと、脳裏に数人の顔が浮かぶ。
(「トモダチはいない」、と冒頭に書いていたのに、書いているうちに雲行きが変わってきている)


そろそろ、自分を確立しつつあるようで、他人も受容できるようになってきたようだ。
お互い、それぞれに影響を受けあっている。
自分の中身も変わり一定でなく、相手の中身も変わり一定でなく、
何事も、動かず一定のままキープされるということはなく、世も自分も人も、無常である。

 

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2015-07-29 | 交友

ちょっと、自惚れたり、自慢したりしてみようかな、と、ふと思う。

しかし、このブログ、リアル人も複数お読みなので、書きたくても書けない。
だが、リアル人の皆さん、くまなく、わたしのブログを読んでいるわけではない。
だから、そう目くじらを立てて、綿密に細心の注意を払わなくてもいいかも?
でも、そういう時に限って、1年に1回しか読んでいない人が、たまたま、読むコトもある。
まあ、どうでもいいや~、の気持ちです。

と、ここまで書いて、やっぱり書くのはやめました。

で、自慢を行間に臭わせることになるのだが、そっちのほうがずっと臭って、クサイ。
いっそ、ばしっと明白に言い切ったほうが、書くほうも、読むほうも、すっきりするだろう。
この煮え切らなさを、「奥ゆかしさ」というのか、はたまた、「イヤミったらしい」と言うのか。

ちなみに、わたしは、嘘は言わない、書かない。
たとえば、陰で努力しているのに「ぜんぜんやってない」とか、言わない。
相手を騙して油断させたスキに、自分は頑張って相手を抜かすなんて、卑怯だ。
ただ、どっちとも取れるような、
相手が勝手に解釈して誤解してしまうかも知れないようなことを、におわせるかも知れない。

「美しい肌ね。どんな化粧品、使ってるの?」
と仮に聞かれ、実際は、超高級化粧品を使っていたとしたら、
「なんにも。牛乳石鹸で、体ごと、洗ってるだけよ」
なんて言わない。
「母が使ってたモノと同じもの。おばあさん用」
と言うかも知れない。
それは、そうとう高いものかも知れないが、めちゃくちゃ安いのかも知れない。
相手の想像に任せる。
わたしの場合、実際は、大手薬局でも大手スーパーでもどこでも売っている、安い化粧品を使っているが、
そこまで、正直に言う必要もない。
(安いが、粗悪品ではないし、30年間、なんのトラブルもない)
あくまでも、相手に想像させる。

仮に、家に掛けてある絵画が、安モノだとする。
「この、絵、お高いんでしょう?」と聞かれたとする。
高いとも、安いとも言わず、
「どうなんでしょう。実家にあったものなので」
あるいは、「ご縁あって頂いたものなので」
と答える。
高モノとも安モノとも答えていない。
実際は高い場合もあるし、安い場合もある。

高いものなら高いで、自慢たらしいし、高いものを安いと、嘘をついてまで言う必要はない。
要は、相手の判断に、おまかせする。

目なんて、ほんとうにホンモノを見極めることができる人なんぞ、そういない。
ほとんどが、先入観や、雰囲気、周りの状況で判断する。
ゴミ箱の中に、ホンモノの宝石や、名のある名画は捨てていない、と考える。

モノの場合はそうであるが、努力の場合は?

高石ともやの「受験生ブルース」に、

テスト終われば 友達に
全然あかんと 答えとき
相手に優越感 与えておいて
後でショックを 与えるさ

こういう歌詞があるが、わたしだったら、相手にショックを与えたい気持ちは別にない。

テスト前に、友達に
勉強しているかと 聞かれたら、
ぜんぜんしてないと 答えとき
陰でこっそり しているよ

てなもんである。
(そっちのほうが、よけいかんじ悪いか?)

「ぜんぜんしていない」というのは、嘘ではない。
パーフェクトな人や素晴らしい人の努力の質に比べると、「ぜんぜん」である。
「まあまあ」「そこそこ」しているという答え方もあるが、結果が出る前に、そう言ってしまうと、
なんだかプレッシャーになる。
成功してからでは、さすがに「ぜんぜん」とは(嘘になるから)言えないので、
「たいして、してなかった」と、言いたい。

与えたいとしたら、油断、与えたくないとしたら、敵対心とか、そういうものか。
相手がこっちに対して勝手に張り詰めてくる、緊張は、苦手だ。

話す相手を見て言う。
相手が、同じ目的を持ち、努力している人で、なにをどうしたか具体的に聞かれたら、
質問に対しては、少しは答えるかも知れない。
あまりがんがん言うと、イヤミになる。

事実を否定したり、捏造したりするのはどうかと思うが、
ありのままの事実を伝えても、どんな相手か、接する相手による。
イヤミと受け取られる相手に、わざわざ伝えない。
同じ土俵にいて、お互い、相手のことは良い意味で刺激を受けたり、参考にするけれど、
嫉妬したり(されたり)ライバル視したりする相手には、オブラートに包んで逃げるほうが得策である。

立場はまったく違っても、「自分を確立している人=自立している人」であれば、
さばさばと、爽快な関係が築ける。

他人と自分をいっしょくたにする人は、厄介である。
他人は他人。自分は自分。
他人がそうだからといって、自分もそうでなければならないことは、ない。


べたっとした、人に寄りかかる人は、重くて、面倒だ。
家族であっても、ある程度の節度は必要。
わたしは、家族は、「最悪の場合の砦」、ぐらいに考えている。
とは言いつつ、実際は、寄りかかっているんだとは思うけれど、お互い様だ。
家族以外の人も、そうなのかも知れない。

「人」という文字は、支えあって、成り立っているそうだ。
でも、支え方が人によって違うから、ややこしい。


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ああ、だらだらだらだら長文になってしまった・・・。

 

 


合格速報

2014-02-09 | 交友
知人のA女史。
社労士の資格に加えて、行政書士の資格試験に合格されたご様子。
喜びの合格報告メールをいただいた。

苦節何年か・・・?
けっこう、長い間、頑張っておられた。
とくに、社労士の仕事をしながら、行政書士の勉強をされていた時期は、何度も試験に落ちて、嘆いておられた。
もう、あきらめたころかな~と思っていた矢先、合格メール。
ご苦労様でした。

社労士は、40歳を過ぎてから、行政書士は、50歳を過ぎてから。
彼女は、専業主婦時代、近所のファミレスでアルバイトをしながら、専門学校の学費を蓄えた。
その時、下のお子さんは、まだ幼稚園ぐらい?
とにかく、頑張り屋さんである。

わたしとは、下のお子さんが生まれる前に、仕事で知り合った。
最初は、同じ外部ブレーンという立場だったが、その後、わたしは立場が変り、彼女に発注する側になった。
そして、会社を変ってからも、彼女にお手伝いしてもらった仕事の案件もある。

彼女は、ちゃんとお給料を運んでくれる、薄給ではない(想像です)ご主人がいて、やりくりに困っているわけではない。
が、彼女自身の収入の少なさが、夫に養われているような感覚にとらわれていたのではないかと思われる。
夫に不満を持ったとしても、平等にものが言えないと、感じたのかも知れない。
不満や、もやもやを、実践力、実行力、努力で昇華した。

ぶつくさ不平をたらたら言うだけなら、誰でもできる。
自分の理想や目標に向かって、あきらめずに努力し続けてこられたことには、ほんとうに頭が下がる。

わたしは、少しだけ彼女と似ているところがあるが、他のほとんどは、似ていない。
猪突猛進型なところは、似ている。
ただ、努力方面が、わたしの苦手分野となり、わたしにとっては、お勉強方面は、地獄の苦しみとなる。
受験勉強など、トライするだけで寿命を一気に30歳や40歳は下げることになるだろう。


下のお子さんが2歳か3歳ぐらいの時、お会いした場面を思い出す。
お子さんは、小さな手さげバッグに、電車のオモチャを入れて持ってきていた。
わたしたちが、喫茶店でオシャベリしていた間も、彼は大人しく電車のオモチャで遊んでいた。
あのベビーも、わたしより背が高くなり、もう高校生。
その期間に、彼女は、バイトをし、資格試験に向けて猛勉強。

・・・

わたしに話をしてくれる彼女であるが、わたしは聞く一方。
たいしたリアクションもない。
わたしは、退屈なわけでも、興味がないわけでもなく、ただただ、すごいな~と、うなずいている。
彼女には、のほほんの、わたしとは違う、刺激を受ける立派な先輩や知人の方々も、おられるらしい。
彼らからは向上への刺激を受け、情熱や、やる気をもらっているようだ。
わたしからは、・・・べつになにも受けるものはないだろう。
ただ、わたしが彼女を受け入れる、というかたちか。
少しわたしの方が年上で、人生ではちょっとだけ長く生きていることもある。


わたしは、それでいい。
頑張ってくれている人が、休憩できでばそれでいい。
もう、いっしょに、頑張るライバルではなく、わたしは、いつの間にか、応援する側になっている。
また、一息入れて、頑張ってもらいたいと思っている。


彼女は、これからの道もまた険しいだろう。
わたしだけでなく、お子さんたちも、彼女の頑張る姿を見て大きくなっている。
(子育てには、至れり尽くせりの母親ではないだろうけれど)
ご主人との、今後はどういう歩みになっていくのか。
ご主人がそろそろ定年を視野に入れる頃、彼女は、仕事に突進。
仕事エネルギーが、ご主人と交差する時点が来るだろう。

まあ、それはそれで、ご夫婦でやっていただければよろしいかと。
不満不平も、家庭内での役割も、年齢や、社会での立ち位置で変ってくることだろう。


だが、一説によると、へんに難易度だけが高くて、役に立たない資格だとも言われているようだ。
社会的にトップに鎮座する資格だとか、そうでないとか、そんなことは、この際、比較する意味がない。

せっかくの思いで取った資格も、(それは、どんなタイプの資格であったとしても)
その後、仕事がうまくいかない、さらに仕事自体を辞めるようなことになったとするなど、
現実の厚い壁にぶち当たったとしても、
達成感を味わった経験や、自信の土台を築いた事実は揺るがないだろう。
不屈の根性は養われていると思う。きっと困難に立ち向かえるのではないかと期待している。


いずれにしても、おめでとうと、わたしはエールを送っている。
といっても、短いメールを一通送っただけだが。

我々は、とても細くて、でも短くはない、切れそうで切れない、不思議なお付き合いである。



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