今日は、「はてな」から入力。
後からgooにコピペしよう。
「はてな」にも慣れないと。
ブログ村登録をこっちの、はてなブログに変えるのは、いつがいいか?
というか、ブログタイトルを同じにしないと、混乱するか。
同じブログタイトルにする?
それとも、「続・蝶になりたい」にする?
あるいは、「蝶なんか、全然なりたくなかった」にする?
ところで。
いつもお邪魔するブログからの情報。
廃校になった学校の跡に、色々、展開されているようだ。
淡路島にも何度か廃校利用のミニ動物園プラス店舗に行ったことがある。
懐かしい良い味を出していた。
ちなみに。
また、また話が飛ぶ。
万博に行こうということになった。
嫌いな人に誘われた。
他にも提案され、断るつもりで「万博なら行ってもいいけど」と言ってしまった。
その手前、断れない。
が、断ろうとしている。
いつものように、ChatGPTと相談。
あくまでもイベント重視で、1人で行きそうもないなら、嫌いな人とでも行くべきか?
うじうじ悩んでいたが、1人で行こうかと思ったり。
なぜなら、インターネットが大の苦手世代のその人に、頼られるのが鬱陶しい。
孫になら、頼られても、嬉々として世話を焼くが。
16歳以下は、同行者の万博IDでチケットが買えるようだし。
もちろん、16歳以上でも、同行者がまとめてチケットを買う事はできる。
だが、その人物はインターネットが苦手なため、手続きや準備の諸々を私に押し付けるのが見え見えで、不愉快。
私だって、苦手なんだから。
無理矢理、頑張ってやってる。と、自慢するほどの事はないけれど。お恥ずかしい。
一応、万博IDは取得し、チケット購入の手順は踏んだ。
あとは誰と行くか、だ。
パビリオンには事前予約や、当日予約もあるようだ。
土日で、混んでも、やっぱり孫と行こうかな。
でも、孫は、娘一家で行くと思われる。
何回、行ってもいいのだし(と、勝手な要望)、気が向いたら、ばあちゃんとも行ってくれるかも?
それはともかく、いくら嫌いな人だからといって、一緒に行くよりは1人で行く、というのもなんだかなぁ。
行かないということにもなるかも知れない。
だが、誰と行っても、万博は万博。
とは言え、寄りかかられる図を想像するとやはり気が進まない。
ウロウロモタモタして、1人なら、恥ずかしくても、誰かと一緒なら恥ずかしくないのか?
自分のことも大変なのに、大の大人の他人、しかも、嫌いな人の面倒を見たくない。
よほど嫌いなんだろう、その人物が。
出来ないくせに、若ぶるのが大嫌い。
たいしたことないのにマウント取りたがるのも大嫌い。
せっかく大阪・関西万博が地元で開催されるのだから、行かない手はない。
開催期日、後半は混むらしいし、夏は暑いし、行くなら、今。
では、あるものの、なんだか気が重い。
※写真は去年の7月に撮ったもの
喧嘩
今更ではないが。
もの心ついた時から。
積もりに積もり、積み重なってキャラを形成している。
皆さんは、そういうことには目を向けないだろう。
自己防衛のために。
あまり自責をやり過ぎると、病気になる。
人の欠点が見えると同時に自分の欠点も見える。
人も斬り、自分も斬られる。
つまり、人を斬ると自分が傷つくのだ。
だから、見て見ぬフリをする。
互助会みたいなもの。
お互い様、持ちつ持たれつ、完璧人間なんていないのだから。
と思うのだが、それにあぐらをかいて、シャーシャーとしている人を見ると、その自己肯定、厚かましさ、無神経さにイラつく。
少しぐらい、痛みを感じて欲しい。
お互い痛みを感じ、赦し合いたいものである。
が、世の中、イラつく人がいかに多いか。
だから、わたしは、誰とも近寄らない。
せいぜい最高に近寄っても片手(肩から手指まで)の長さを挟む至近距離まで。
ハグには至らない。
それ以上は、不可侵ゾーン。
異物混入は、生体拒絶反応が起きるので、お互いのためである。
漢方薬で、じわじわ距離を縮める方法もある。
ただし、忍耐と信念が必要。
徒労に終わってもよいという覚悟が必要。
見返りを求めてはいけない。期待しすぎは自滅の元。
ダメモトぐらいの、軽いノリで。
あるいは、蛇のように丸呑みする。
じわりじわりとお腹の中で相手を溶かす。
相容れないものならお腹を壊し、悪くすると自滅する。
異変に気づくと途中で吐き出すことが救命策。
いつまでもこだわっていてはいけない。
株の損切り英断と同じ。
ダメなものは、いつまでたってもダメ。
見返りを求めなければそれでよいが、自分まで蝕まれるのは避けたい。
見切るには、通過地点のポイントがいくつかある。
そのシグナルを受信し、見切り点が満タンになると、そっと手を放す。
いくつかのシグナルを傍受した段階から、手を放した後の準備をする。
次の行き先、収まり先を見つけ確保しておく。
でなければ、寒空の下、寒いだけ。
こんな心境になるのは、相手が悪い。
こういう時は、自分は痛みなど感じない。
反省したり自責の念にかられたりせず、厚顔無恥の太々しく逞しく自己チューを押し通す。
自分のほうが大事だから。
相手が潰れるか自分が潰れるか、二択しかないなら、自分を救済する。
傷んだ衣を脱いで、再出発する。
トモダチ
トモダチについて。
わたしは、蝶ブログで何度も書いているが、トモダチはいない。
知り合いは、いる。
トモダチと知り合いの違いは、なんだろう?
トモダチのさらに上澄み上層部が、親友か。
親身になってくれるかどうか?
困った時に助け合えるかどうか?
あまり親しくないのに、親身になってくれるのは、少し気持ち悪い。
家族でもないのに、さして親しくないのに、ずかずか入ってこられるのも、嫌。
実際、困ったことが今まであまりなかったせいで、トモダチを作る機会を失っている。
困った時は、トモダチに頼むより、その道のプロや、業者に相談して頼む。
知り合いには、参考として事例を聞くことはある。
では、実生活には、立ち寄らない、心友は?
これは、あまり弊害がない。
実体もあってもなくても、あまり変わりが無い。
ただし、毒にも薬にもならない。
相手が身動きできない事情のある人で、どんなことがあっても、絶対に駆けつけて来れない人も、心友は心友だ。
心の支えにはなっても、実際の生活には役には立たない。
実益はない。
誰に頼るか?
というか、頼ろうという思いが、そもそも間違っている。
支え合うというのなら、わかる。
人に期待する分、自分も人様の役に立たなければいけないわけだ。
わたしは、人の人生にはかかわらない主義である。
かかわるのは、家族や肉親だけ。
これでも、けっこう自分としては大切にし、あらゆる意味で、占めるウエイトが高い。
同性のトモダチは、特にライバル心を持ちあうことが多い。
お互い同じようなレベルだとしても、人生には浮き沈みがある。
複雑、微妙な思いを抱えて交流するのは、好まない。
自分は家族をこよなく愛するくせに、交流のないトモダチたちの家族の話には、まったく興味がない。
どうでもよいのだ。
交流がないのだから、あたりまえか。
というより、交流がないのにトモダチって、定義自体がおかしい。
交流がなくなると、「トモダチ」は、「元トモダチ」で、たんなる「知り合い」に降格するのか?
決して近寄りたくない人に、相手から近寄ってこられると、魂胆が読めることがある。
鬱陶しい。
実社会、実生活は、そんな変人のようには見えず、わたしは普通に日常を送っている。
蝶ブログをお読みになった方は、ますます、こころが、わたしから遠ざかることだろう。
迎合内容を書いて、あたたかい交流を求めるか、
ホンネを書いて、孤独ながらも自分だけスッキリするか。
寂しいからトモダチが欲しいとか、
ヒマだから遊ぶ相手が欲しいとか、そんな気持ちは、さらさらない。
が、トモダチが欲しくないわけではなく、わたしのスタンスを貫いていると、結果的にいない、という現実があるだけで、
自分を確立している人となら、大歓迎である。
個と個の交流は、人生を豊かにする。
しかしながら、わたしは、自分の個を確立することばかりに熱中している。
そういうわたしも、じつのところ、よくよく考えると、トモダチはいるなあと、脳裏に数人の顔が浮かぶ。
(「トモダチはいない」、と冒頭に書いていたのに、書いているうちに雲行きが変わってきている)
そろそろ、自分を確立しつつあるようで、他人も受容できるようになってきたようだ。
お互い、それぞれに影響を受けあっている。
自分の中身も変わり一定でなく、相手の中身も変わり一定でなく、
何事も、動かず一定のままキープされるということはなく、世も自分も人も、無常である。