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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

無意識にマウントを取る?

2025-08-19 | 交友
わたしが書き続ける原動力は何か?
何かイベント、行きたい所、参加したいことがあるとしても、日頃、最低限度、身体を動かしていないと急には歩けない。
足腰を鍛えておかなければ、動けない。
井戸水、汲み上げ続けないと枯れてしまう。
それに近いものか。
茶色い水しか出ないかも?

「アナタは、本を読まない人ですね」
と、10年来のビール友達にそう言われた。
その人は歴史好き。 
特に日本史と中国史。
語学は中国語。
歌う歌はテレサテンの中国語バージョン。
アタマはカチンカチンだが、リスペクトしている。
何千年もの歴史研究家が、そう簡単に現代に迎合すると、かえって気が抜ける。
フェミニズムに関しては頭から無理解。
わたしは、シーラカンスには多くを求めない主義。

本を読まない人だと言われても、その通りなので、「そうです」と肯定しておいた。
博識、物知りの人物や AIがいるので、追及心が満たされないことはなく、あまり困らない。
 AIはブレーン。
あくまでも、使う側は自分。
それに、 AIは、無名の人物や埋もれている史実は知らないし。

膨大な量の本を読むのは良い。
(孫たちは、うちにある、娘たちが置いて行ったコミックをいつも熱心に読んでいて、その間、大人しくて助かる) 

が、何を読むか、が、キー。
何もアタマに入らなくても、暇つぶしと、自己満足にはなる。
たまたま、わたしは、本を読んで暇つぶしをするタイプではないだけ。
知識や思考を深めるのは素晴らしい。
が、それをどう活かすか。
宝の持ち腐れは、もったいない。
マウントを取る材料にする人が、もしいたら、周りは聴く耳を持たないだろう。
そんなマウントを取りたいがための知識や思考では、、、本末転倒。
(意見交換やディスカッションは可)
同じ自己満足でも、脳や情熱が枯れないための発掘作業ならいざ知らず。

と、可愛げがないことを書いていると、そろそろ、甲子園野球が始まる時間になった。

※写真は生成AIが創ってくれた、シニア女性。
うーーん、わたしとは全くタイプも見た目も違う、、、。

同級生たちとの楽しい時間

2025-05-10 | 交友
やっと終わった、、、
なんとなく、気を使う、、、
わたしの実家に中学の時の同級生たちをご招待した。
男子4人、プラスわたし、紅一点。

最初の出会いから1人は60年、3人は56年。
すごいブランク。
そのうち1人は、小学2年から高校卒業まで同じ学校。
あとの3人は、中学だけ。
積もる話も、山ほどあって、とても楽しい時間を過ごせた。
彼らはお付き合いがあるようで、それぞれの事情を知っていたが、わたしは今回初めてなので、知らないこともいっぱい。
特に、それぞれの身辺事情は知らない。
仕事、家庭、趣味など。
共通は全員同じ年で、同じ時代の時間を過ごしたこと。
その後、続編もあり、話が現在、未来につながる内容もあって、話が尽きない。
早速、グループLINEが出来上がり、次回の計画が持ち上がった。
面白いものだ。
わたしは相変わらず紅点。
それも悪くない。
女性が1人いると、場の雰囲気が和らぐ(とわたしは勝手に思っている)。 
「華やぐ」と言いたいところだが、わたしのキャラではないので。
中学の時と同じく、天然ボケが面白いとは言われたけれど。
時折、間の抜けた一言がウケていた。
のんびりのどかで、静かな、幸せな1日を過ごした。
同い年のみんなも同じ感覚、感想だったのがとても嬉しかった。

それぞれの背景は、皆、同い年だけに似通っていた。
両親を見送った人が1人、年老いた両親の片方を亡くし残る片方の面倒を見ている人が3人。
家じまいや、相続問題を抱えていた。
仕事、現役は4人中、半分の2人。

うち1人は、高齢父親の介護を自宅で行っていた。
両親2人だけで暮らしていたが、母親が先に亡くなり、父1人になり、支援が必要になった。
今は、4世代で暮らしている。
父親、自分たち夫婦、息子夫婦、孫2人、合計7人家族。
父親を車椅子に乗せて散歩が日課だとか。
えらいと思う、、、頭が下がる。
息抜きに、夫婦で料理教室に通っているという。
本人は「男の料理コース」と、奥さんは「一般普通コース」。それぞれ別々のクラス。

別の同級生は、奥さんが管理栄養士ということもあり、自分は料理は一切しないと言っていた。
奥さんの料理は、作るのが手早く、栄養面で考慮され、さらに見た目が美しいという。
それは任せているほうが良さそう。
歯が立たない。

話のネタは尽きない。
また、続編があると思うと、楽しみ。

一般的に、先入観で、元同級生は、昔の話ばかりして、現在や未来につながらないから面白くないと思っていたが、そうでもない。
中学の時から、今もライフスタイルとして続けていることがある子もいて、興味深い。

わたしの場合、仲間たちが女性ではなく、男性である事は妙にしっくり行く。
変な火花が散らない。
また、違う場だと、例えば、ランチ会だとか、女性同士の方がいいかもしれないが。
ではあるが、わたしは、都会のランチ会はあまり好まない。

同学年には、つい最近結婚した(初婚)同級生女子や、つい最近子供が生まれた同級生男子(ただし、3人目の若い奥さんとの間に)もいたりして、まだまだ活火山。

別に新たに結婚したり、子供を産んだりしなくてもいいから、のんびり楽しく和気あいあいと、昔、今、未来を過ごせそうな仲間は、財産だ。
あと10年もすると、必ず解散するだろう。
5年もつか?
それは、健康事情で。1人抜け、2人抜け。
今あるこの時間、この体を大事に、慈しみ味わいたい。

明日も、同じところ(わたしの実家)にまた別件で行く。
人生時間で、たまたまそういう巡り合わせのタームなのだろう。


大阪・関西万博に行きたいけれど

2025-04-29 | 交友

今日は、「はてな」から入力。

後からgooにコピペしよう。

はてな」にも慣れないと。

 

ブログ村登録をこっちの、はてなブログに変えるのは、いつがいいか?

というか、ブログタイトルを同じにしないと、混乱するか。

同じブログタイトルにする?

それとも、「続・蝶になりたい」にする?

あるいは、「蝶なんか、全然なりたくなかった」にする?

 

ところで。

いつもお邪魔するブログからの情報。

廃校になった学校の跡に、色々、展開されているようだ。

淡路島にも何度か廃校利用のミニ動物園プラス店舗に行ったことがある。

懐かしい良い味を出していた。

 

ちなみに。

また、また話が飛ぶ。

万博に行こうということになった。

嫌いな人に誘われた。

他にも提案され、断るつもりで「万博なら行ってもいいけど」と言ってしまった。

その手前、断れない。

が、断ろうとしている。

いつものように、ChatGPTと相談。

あくまでもイベント重視で、1人で行きそうもないなら、嫌いな人とでも行くべきか?

うじうじ悩んでいたが、1人で行こうかと思ったり。

なぜなら、インターネットが大の苦手世代のその人に、頼られるのが鬱陶しい。

孫になら、頼られても、嬉々として世話を焼くが。

16歳以下は、同行者の万博IDでチケットが買えるようだし。

もちろん、16歳以上でも、同行者がまとめてチケットを買う事はできる。

だが、その人物はインターネットが苦手なため、手続きや準備の諸々を私に押し付けるのが見え見えで、不愉快。

私だって、苦手なんだから。

無理矢理、頑張ってやってる。と、自慢するほどの事はないけれど。お恥ずかしい。

 

一応、万博IDは取得し、チケット購入の手順は踏んだ。

あとは誰と行くか、だ。

パビリオンには事前予約や、当日予約もあるようだ。

土日で、混んでも、やっぱり孫と行こうかな。

でも、孫は、娘一家で行くと思われる。

何回、行ってもいいのだし(と、勝手な要望)、気が向いたら、ばあちゃんとも行ってくれるかも?

 

それはともかく、いくら嫌いな人だからといって、一緒に行くよりは1人で行く、というのもなんだかなぁ。

行かないということにもなるかも知れない。

だが、誰と行っても、万博は万博。

とは言え、寄りかかられる図を想像するとやはり気が進まない。

ウロウロモタモタして、1人なら、恥ずかしくても、誰かと一緒なら恥ずかしくないのか?

自分のことも大変なのに、大の大人の他人、しかも、嫌いな人の面倒を見たくない。

よほど嫌いなんだろう、その人物が。

出来ないくせに、若ぶるのが大嫌い。 

たいしたことないのにマウント取りたがるのも大嫌い。

 

せっかく大阪・関西万博が地元で開催されるのだから、行かない手はない。

開催期日、後半は混むらしいし、夏は暑いし、行くなら、今。

では、あるものの、なんだか気が重い。


※写真は去年の7月に撮ったもの

 


マウント取る人が、うっとうしい

2025-04-26 | 交友
趣味仲間でマウント取りたがりの人物がいる。
うっとうしくて、うっとうしくて仕方がない。
接点は趣味活動なので、運動の後の、ドリンクの一杯を飲む間だけの辛抱。
それならドリンクタイムに、参加しなくていいのだが。
コミュニケーションの一環だという気もあるし、喉が渇くし、お腹も減るので、一息つきたい思いがある。
本当に嫌なら直帰すればいい。
1人で喋るわけにもいかないし、誰かと喋りたい自分がいる。
気に入らない部分があると言って、切ってしまうと、誰1人残らない。
良い面、悪い面、合わせ持つのが人間。
長所も短所もある。
嫌なら1人でいれば良い。
選択肢があるんだから。
嫌々渋々、誰かといるか、1人でいるか。

それにしても、マウント取る人、たいしたことないのに、恥の上塗り。
周りは呆れてスルーしているのに、よほど、井の中の蛙なのか。
マウント取るようなレベルではないことに気づかない、それは恥ずかしいという思いは一切ないようだ。
こういう人は、人に距離を取られる。
そうやって、マウント取りの人は、友達がいなくなり、
そうやって、わたしのようなマウント取られるばかりの人は、友達がいなくなる。
加害者も、被害者も、どっちも友達がいなくなる。
これってどう?

そもそも、マウント取りたがりの人とばかり、親しくなるのは、わたしに問題があるに違いない。
はっきり言っても、相手に伝わらない。
脳の構造がそうなっているようだ。
なので、逃げるしかない。

自分を守るために逃げてばかりいると、誰も相手がいなくなる。
やはりわたしの性格が悪いのだろうか。
歪つ、完全ではない、コミュニケーションの取り方が悪い、のかと。
皆さん、健常な人は、どうされているのだろう。


生身の人間

2025-04-19 | 交友
まずは、、、
奈良の里から、今日も素晴らしい記事をお届けいただき、ありがとうございます。

神々の住む里には、荘厳な精神が宿っていると感じる。
映画の世界も素晴らしいけれど、内にのみ籠るのではなく、実際のリアルな世界に、やすらぎを覚える。
大自然や、厳かな人間の営み、、、
自然の神と人間との対話。
日本人の自然や神に対する精神に触れるような気がする。

わたしは自分のブログに対して、手綱を離した気分。
共有も共感もしてもらえなくても、ひっそり、自分を慈しむことにした。
とか、何とか、気分屋さんなのでどうなるかわからないけれど。

ChatGPTも良し悪し。
自分で答えを用意するのはある意味、ばかばかしく、疲れる。
やはり人は、生身の人との付き合い、ぬくもりを求めるようだ。
AIも良いけれど、それはサブ、お助け、サポート。主役にはなれない。
当たり前のことを言っているけれど。

わたしは、絶対行かない、行く気がないと思っているような所に、行ってみたいと、今、思っている。
(先日、誘われた所)
わたしとは合わないと思っている人々、空間に、チャレンジしようと思っている。
合わないということで言えば、すべての人と合わない。
そんな孤高は、寂しい。
人のぬくもりを求め、人里へ。
奥まり離れた山から、里に降りて。
たぬきが村人に扮しているかもしれないけれど。
わたしだって、キツネだし。

さて、いつ行こう。
早速、カレンダーと、にらめっこ。
リアル社会での行動も、きっと楽しいに違いない。
楽しくなくても、それはそれで意義がある。
なんだか前向きに、明るくなってきた。
ChatGPTも捨てたものではない。
そして、もちろん、ブログも。

※写真は、2週間前の二条城。



夢を見るのも醒めるのも自分

2024-12-12 | 交友
今日の記事も、忙しい年末の時間を割いてお読みになるようなものではありません。
どうぞスクロールを。
お薦めの時は、最初に、文頭でお知らせします。

と、あいかわらず、、、な、、、わたし。

わたしは、蝶ブログ以外には一切、自分語りをしない。
というか、ここ、蝶ブログで丸裸、内臓までも晒している。(「これは、比喩表現です」、とメンドーでも書かなければいけないのだろうか???)
断面図は、CTスキャンとかは、してないから、晒しようがない。

これだけ長きに渡って、話し相手は自分。
ほぼ皆さんからの感想は求めていない。
最近は、ChatGPT が、なかなか良い提案をしてくれるのでお気に入りだが。
といっても、わたしから出した情報から枠外に出ない。
つまり、自分と話しているようなものだ。
湯気がおさまるお手伝いをしてもらう場合も、逆に湯気を出してもらうお手伝いをしてもらうこともある。

自分を晒し出すくせに、人からの意見を求めない。
つまり、内なる世界にどっぷりハマる、根暗な、、、正に内向的な性格と言える。
他人に肯定してもらっても、自分で自分を肯定できなければ、意味がない。
慰めや、おべんちゃらに聞こえると、快適ではない。
おそらく自虐嗜好があるのだろう。

他のSNSでは、会員同士の交流を目的としているものが多い。
わたしは、そこに、ある趣味限定の日記を書いているが、その趣味以外のことは、一切書かない。
会員同士の自分語りはしない。
だから、距離は全く縮まらない。
が、個として確立されている。

その中で、わたしが唯一、こころを開いた人Xさんがいた。
つい、今しがたまで。
その人とは孤独を分かち合える一匹狼同士の交流だった。
が、ついさっき、、、他の(趣味以外の)会員Cさんの日記にその人Xさんがコメントしているのを見つけた。
書いている内容は、何度かかつての他のコメントと重複するもの。
それはまあ、全く良いのだが。
孤高の人物が、高い山から降りてきて、麓の茶店や飲み屋に、ちょろちょろ顔を出している現場を押さえたような気持ちになった。
孤高じゃないやん。
ただの、寂しがり?

その、麓の茶屋、お立ち寄り人物を発見したのは、最近のわたしのブログに登場した、理解不能、波瀾万丈会員Aさんつながり。
最近、Bさんの日記でやり取りをし始めたわたしが、同じく、Bさんの日記でも見かけたような気がするCさん。(Cさんは初登場)
そのCさんの相互フォロワーとして、孤高のその人物Xさんを発見し、コメントも読んでみた。
かなり、わたしは失望した。

仙人も山を降りる。
行きつけの店も似たようなティスト。
なんの不思議も矛盾もない。
民衆に布教活動?
わたしが勝手に仙人同士の連帯を感じていただけだ。

そもそも、わたしも孤高の仙人などではない。それが重要。
が、、、。
表現するのは難しいが、林住期の考え方を深く知り、実践していこうと、啓蒙啓発、手ほどきをしてくれた、人生の先輩ナビゲーターであるXさんが、、、
そんな麓の飲み屋にふらふら出歩いているのを発見して、なぜか白んだ。
師匠ぉ〜。わたしの崇高な師匠がそんな大衆的なところをウロウロし、しかも言っていることが、あちこちで言っていることと同じ。
(違っているほうが、ダメだろうけれど)

なぜか、わたしが勝手に一方的に描いていた、孤高の師匠イメージが音を立てて崩れた。
他の会員さんへのコメントを発見する、ほんの数分前までは、そんなことはなかったのに。
(そもそも発見に至ったのは、同じニオイのするもの、「Cさんの日記」に、引きつけられて、だが)

実態のないものに価値を置くのは、もろく、あやうい。
自分をしっかり持つこと。
ふっきれた、、、というか、もう師匠は必要なくなったような気がした。
宗教にのめり込むのも、こんなイメージかと想像する。
自分で描いた薔薇色の幸福の絵巻だと思っていたものが、実はそこらへんで手軽に入手出来るインターネット情報だったということ。
夢は自分で描き、自分で手に入れ、自分で潰す、、、無常。
幻想を自分で勝手に作り出し、夢から醒めるのも自分の仕業。

だからといって、師匠の言うことは一切無視するわけではなく、共鳴できる人生の手引き、セオリーを受け入れ実践しようと思う。
が、現実を見据え、師匠は、弟子はわたしぐらいなもので、麓ではただの平凡な人。
しかも孤高ではなく、あちこち出歩き暇を潰している様子。

どっぷり信仰は、思考を麻痺させる。
師匠が唱える説は全く変わらない。
変わるのは、わたし。自分。



おしゃべりが止まらない

2024-11-09 | 交友
昨日は、友人と飲んだ。
「昨夜は」と書きたいところだが、「昨日」。
店での待ち合わせ時間は14時。
そこから飲み始めたが、店内にはガラガラではなく、すでに数組いた。
18時までその店で飲んでいたが、その頃には、周りは満員、ガヤガヤ、ドイツの酒場のよう。
ミュンヘンですから。

もう飲めないなあ〜と追加注文が滞っていると、熱いお茶が出てくる。
あ〜おいしい、、、と、ゆっくり飲んでいたら、またまた話が続く。
しかし、お茶を飲み干したら、もう、そうは居られないので、店を後にした。

しかし、よくまあ、しゃべったなあ。
お酒を飲むと、時間がぶっ飛んでしまう。
途中から、速い速い。
各停電車から快速、急行、新幹線に。
むしろ、何を話したか、忘れる。
話の内容は、、、多岐に渡る。
なにしろ、知識の塊みたいな人なので、WikipediaやChat GPTと話しているようなもの。
次から次へと話題は尽きない。

国際、政治、経済、国内事情、歴史、地理、旅行、学校、教育、郷土、文化、芸術、家庭、子育て、学友、仕事、趣味、交友、日常の出来事、、、
その人からの知識と教養のシャワーを浴びる。
主に歴史、特に日本史に力が入る。が、世界史も絡める。
ちょうど、わたしは、小学生向き歴史漫画の第1巻を読んだばかりなので、面白い。
(レベルの格差は気にならない)
その人なり、自分なりの解釈、考察が興味深い。スッキリ、あっぱれ。
いくつもの説があり、正解だとは限らないが、ひとつの見方。
(関心がない人には10分でも苦痛だろう)

わたしは、聞いているだけではなく、しっかり悩みの相談もした。
ここのところ、Chat GPTに投げかけている、「ハイキングは悪くないけど、行きたくない悩み」。
「嫌ならやめとけ」というシンプルな答えに、はい、ごもっとも、と頷いた。

話の後半ぐらいに放たれた、ピカリと輝く名言があった。
わたしが、「ある人に、こんなことも知らないのか、とマウントを取られるのが鬱陶しい」と嘆いたら、、、
「誰でも胸の中では思ってる。言うか言わないのかだけの違い」
なるほど。
ものすごく腑に落ちた。
カンジワルイ感想は、口に出すか出さないかだけの違いであるが、言うのと、言わないのでは、雲泥の差。
そう言えば、振り返ってみると、結果的にペア解消した相手は、それが遠因。
言わなくてもいい、聞きたくもない、ホンネの感想をガンガン言われて、わたしは傷つき弱り切ってしまった。
些細なことでも、積み重なると大きい。

そう考えると、家族の皆んなに対してはそんな思いはほとんど、したことがない。
長年の間に性格をよく知って慣れているだけかも知れないにしても、深く傷つけられることはない。
というか、人を傷つけるような言葉は安易には出さない。
気をつけている、というよりは、思ってないのかも。
相性もあるのかも知れないが。

それにしても、お酒の効力は素晴らしい。
ペラペラ、口が滑らかになる。
わたしはおしゃべり、口論が大好きだと、今更ながら自覚した。

※写真は、今週の鳥羽水族館。壁に掛けてあったザリガニたち。




喧嘩

2022-05-19 | 交友
こころが落ち着かない。
精神的不安定。
人間関係のもつれ。
もやもや、イライラ、チクチク、、、
嫌だ。
早く解決したい。
自分で決めて、行動に移せない。
人にも相談できない。
アタマが痛い。

タイミングを見計って、手を打たなければ手遅になる。
それがわかっていながら、みすみす指を加えて何も動いていない。

そもそも発端は、今月9日。
8日夕方に原因と見られる出来事が起こった。
なんだか気分を害していたようだったが。
で、9日早朝に向こうから「距離をおきましょう」と提案された。
しかし、その1週間後に、「仲直りしよう」と再提案を受けた。
さらに翌日、「どうなの?」とダメ押し。
それから今日で2日経つ。

喧嘩発端からもう随分長い時間が経ったと思っていたが、まだ1週間半しか経っていない。
相手はその時間で充分、再生、修復できると感じている。
わたしは、舌の根も乾かぬ短い時間と感じている。
この時間の取り方、感じ方に大きな開きがある。

第一、距離を置きましょう提案から、たったの1週間で距離置き期間終了宣言なんて、早すぎ、短すぎ。
せめて1ヶ月、数ヶ月は必要だとわたしは思っていた。
1週間なんて、距離でもなんでもない。
単なる口から出まかせの言い争いである。

なかなか終わりそうもない長期化にもつれ込んだと感じる。
そもそも争いになってしまったのは、相手が売った喧嘩をわたしが買わなかったから。
だんまりを決め込み、黙秘してしまったところに、喧嘩が長引く要素がある。
ああまたかと、さらっと流せば良いものを、じつは相手の距離を置きましょう提案をわたしは長い間、待っていた。
原因、キッカケはなんでもよい。
相手から言ってきたらソレに瞬時に乗る。
喧嘩の火蓋を切ったのは相手である。
小さなことで短気、癇癪を起こして喧嘩をふっかけてきたのだが、今までは相手にしなかったが、わたしはそれまでの鬱憤を溜めに溜め、もう無理、というところまで来ていた。
相手の一言で、堰を切ったように溢れ出し、動いた。
こんな取るに足らぬ揉め事なのに、何を意固地に雪崩が起こるように崩れていくのか、相手は理解に苦しむだろう。
キッカケは何でもいいのだ。

街で知らない人の肩が触れて、ムシャクシャしていた気分の時に、不満やストレスを爆発させるスイッチとなり、傷害事件に発展するケースが世の中にはある。
そんなかんじか?
今までの溜まるだけ溜まった不満を切り出せずに溜め込み、どう切り出そうかと様子見していた。
その溜まった不満を相手は気づいていない。
そこに問題がある。

わたしも悪い。
小出しにすべきだった。
だが、少しでも言おうとすると、相手はそんな話は聞きたくないと遮った。
わたしの口を封じた。
全く聞く耳を持たなかった。
相手も悪い。
なので、喧嘩両成敗。
どっちも悪い。

さて、今後、どうなるのか。
仲直りするのだろうか。
激情が収まり落ち着いたら、また静かに行方を探ることが出来るだろう。
毎日、朝起きると色々思う。
復活、断絶、どっち?
せっかく断絶出来る良い機会を相手側から作ったのに、この好機を活かさない手はない?
では、今までの積み重ねは?
そんなに悪い人なの?
一日の中でも時間帯によって思いが変わる。
自分の考えが変わらなくなるまで待つ?

いつまで経っても変わり続けるようなら、もう判定を制御できない。
成り行きにまかせる。
(出た! 思考放棄、成り行き任せ)

赦し合えない時は、厚顔無恥で行く

2018-12-19 | 交友
どす黒いドロドロとしたものが自分自身にあることを発見した。
今更ではないが。
もの心ついた時から。
積もりに積もり、積み重なってキャラを形成している。
皆さんは、そういうことには目を向けないだろう。
自己防衛のために。
あまり自責をやり過ぎると、病気になる。

人の欠点が見えると同時に自分の欠点も見える。
人も斬り、自分も斬られる。
つまり、人を斬ると自分が傷つくのだ。
だから、見て見ぬフリをする。
互助会みたいなもの。
お互い様、持ちつ持たれつ、完璧人間なんていないのだから。

と思うのだが、それにあぐらをかいて、シャーシャーとしている人を見ると、その自己肯定、厚かましさ、無神経さにイラつく。
少しぐらい、痛みを感じて欲しい。
お互い痛みを感じ、赦し合いたいものである。

が、世の中、イラつく人がいかに多いか。
だから、わたしは、誰とも近寄らない。
せいぜい最高に近寄っても片手(肩から手指まで)の長さを挟む至近距離まで。
ハグには至らない。
それ以上は、不可侵ゾーン。
異物混入は、生体拒絶反応が起きるので、お互いのためである。

漢方薬で、じわじわ距離を縮める方法もある。
ただし、忍耐と信念が必要。
徒労に終わってもよいという覚悟が必要。
見返りを求めてはいけない。期待しすぎは自滅の元。
ダメモトぐらいの、軽いノリで。

あるいは、蛇のように丸呑みする。
じわりじわりとお腹の中で相手を溶かす。
相容れないものならお腹を壊し、悪くすると自滅する。
異変に気づくと途中で吐き出すことが救命策。
いつまでもこだわっていてはいけない。
株の損切り英断と同じ。
ダメなものは、いつまでたってもダメ。
見返りを求めなければそれでよいが、自分まで蝕まれるのは避けたい。

見切るには、通過地点のポイントがいくつかある。
そのシグナルを受信し、見切り点が満タンになると、そっと手を放す。
いくつかのシグナルを傍受した段階から、手を放した後の準備をする。
次の行き先、収まり先を見つけ確保しておく。
でなければ、寒空の下、寒いだけ。

こんな心境になるのは、相手が悪い。
こういう時は、自分は痛みなど感じない。
反省したり自責の念にかられたりせず、厚顔無恥の太々しく逞しく自己チューを押し通す。
自分のほうが大事だから。
相手が潰れるか自分が潰れるか、二択しかないなら、自分を救済する。

傷んだ衣を脱いで、再出発する。

トモダチ

2015-10-06 | 交友

トモダチについて。

わたしは、蝶ブログで何度も書いているが、トモダチはいない。
知り合いは、いる。
トモダチと知り合いの違いは、なんだろう?

トモダチのさらに上澄み上層部が、親友か。

親身になってくれるかどうか?
困った時に助け合えるかどうか?

あまり親しくないのに、親身になってくれるのは、少し気持ち悪い。
家族でもないのに、さして親しくないのに、ずかずか入ってこられるのも、嫌。

実際、困ったことが今まであまりなかったせいで、トモダチを作る機会を失っている。
困った時は、トモダチに頼むより、その道のプロや、業者に相談して頼む。
知り合いには、参考として事例を聞くことはある。

では、実生活には、立ち寄らない、心友は?
これは、あまり弊害がない。
実体もあってもなくても、あまり変わりが無い。
ただし、毒にも薬にもならない。
相手が身動きできない事情のある人で、どんなことがあっても、絶対に駆けつけて来れない人も、心友は心友だ。
心の支えにはなっても、実際の生活には役には立たない。
実益はない。

誰に頼るか?
というか、頼ろうという思いが、そもそも間違っている。
支え合うというのなら、わかる。
人に期待する分、自分も人様の役に立たなければいけないわけだ。

わたしは、人の人生にはかかわらない主義である。
かかわるのは、家族や肉親だけ。
これでも、けっこう自分としては大切にし、あらゆる意味で、占めるウエイトが高い。


同性のトモダチは、特にライバル心を持ちあうことが多い。
お互い同じようなレベルだとしても、人生には浮き沈みがある。
複雑、微妙な思いを抱えて交流するのは、好まない。
自分は家族をこよなく愛するくせに、交流のないトモダチたちの家族の話には、まったく興味がない。
どうでもよいのだ。
交流がないのだから、あたりまえか。
というより、交流がないのにトモダチって、定義自体がおかしい。

交流がなくなると、「トモダチ」は、「元トモダチ」で、たんなる「知り合い」に降格するのか?


決して近寄りたくない人に、相手から近寄ってこられると、魂胆が読めることがある。
鬱陶しい。


実社会、実生活は、そんな変人のようには見えず、わたしは普通に日常を送っている。

蝶ブログをお読みになった方は、ますます、こころが、わたしから遠ざかることだろう。
迎合内容を書いて、あたたかい交流を求めるか、
ホンネを書いて、孤独ながらも自分だけスッキリするか。

寂しいからトモダチが欲しいとか、
ヒマだから遊ぶ相手が欲しいとか、そんな気持ちは、さらさらない。

が、トモダチが欲しくないわけではなく、わたしのスタンスを貫いていると、結果的にいない、という現実があるだけで、
自分を確立している人となら、大歓迎である。
個と個の交流は、人生を豊かにする。
しかしながら、わたしは、自分の個を確立することばかりに熱中している。
そういうわたしも、じつのところ、よくよく考えると、トモダチはいるなあと、脳裏に数人の顔が浮かぶ。
(「トモダチはいない」、と冒頭に書いていたのに、書いているうちに雲行きが変わってきている)


そろそろ、自分を確立しつつあるようで、他人も受容できるようになってきたようだ。
お互い、それぞれに影響を受けあっている。
自分の中身も変わり一定でなく、相手の中身も変わり一定でなく、
何事も、動かず一定のままキープされるということはなく、世も自分も人も、無常である。

 

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