蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

美しい手紙

2023-12-30 | わたし
夫の実家に来ている。
年末年始に子供たち一家が来て泊まるため、今日は布団を用意した。
ごそごそ。
ちなみに、次女一家は、お婿さんの実家に帰省している。
飛行機でしか行けないぐらい遠い地。
わたしは今まで一度も訪れたことがない地である。
それはそれとして。
長女一家と息子、我々夫婦、合計9人分の布団。
冬用羽根布団をわざわざ四角い羽布団ケースに収納してあるため、引っ張り出すのが面倒だ。
1枚は、合物羽布団で引っ張り出したが、もう1枚はケースの中、そのまま。
しかたないから、6人家族の長女一家には、そこらへんのありったけの布団を手当たり次第、総動員した。
薄い皮を幾重にも重ねたミルフィーユのような、パイ生地のような、モザイク模様のような、パッチワークのような、何枚も何枚も薄い布団を重ね合わせた。
最後に、大きなキングサイズのラム毛布があったので、それを横向けに掛けた。

息子用には、張り切って、なんと敷布団を2枚重ねにし、冬用羽布団と毛布。
薄い、硬い、痛い、と思われないように、見栄を張った。
(母親はこんなところで息子に見栄を張る)
そして、わたしの布団は、あれこれ試行錯誤。
ああでもない、こうでもない、と、合物羽布団と、電気毛布敷布。
わたしは電気毛布敷布さえあれば、ご機嫌だ。ぬくぬく。
しかしながら、2階や別棟から布団や毛布を運び込むのは、結構大変だ。
特に2階からは、大きな布団を抱えて足元もよく見えず、階段を踏み外しそうで怖い。
10年後はきっとふらついて出来ないだろう。

で。
布団を用意していたら、姑の寝室の布団が入っている押し入れの毛布の下から、あるモノを発見した。
いかにも大事なモノが入っている風の和紙で作られた、味のある紙袋。
いったい、何が入っている?
宝石?
現金?
預金通帳?
小ぶりながら、ずしっとした貴重品の重み、手触り。
そっと中を開けると厚めの封筒がごろごろ。
遺言書か?
大事な言い伝え?申し送り?
封筒の表はまあ、さらっと見たが、肝心なのは裏。
見たことがある住所、名前、、、。
何通もある。
これ、わたしやん。
わたしが姑や舅に出した手紙の束だった。
まあ美しい丁寧な文字。
当時、ペン習字を練習していたこともあり、気合いが入っていた。
(今と大違い)
内容がまたキラキラした、健気で泣ける、素晴らしいこころを表したもの。
どこの誰が、書いた?と思えるぐらい、別人だった。
新婚当時の日常や感謝を伝えるもの。
第一子を妊娠、出産したばかり。
人間は、こうも変わるものか。
はあぁ〜。ため息。

決して嘘八百を並べたてているのではない。
こころから思ったことを文字にしている、、、のではあるが、美しすぎる、、、。
ごろっと変わったからといって、極悪人や犯罪者になるわけではない。
環境や年齢によって、人はこんなに変わるものかと驚いた。
それと、わたし、、、自分で言うのもなんなんだが、手紙がうますぎる。
もしあれがラブレターなら、相手はイチコロである。
残念ながら、ラブレターは中学1年の初恋の相手に書いて、こっぴどくフラれて以来、1通も書いていない。
苦い思い出と共に封印された。
それはある意味、良かったのかも知れない。

それはそうと、先日、事務所で廃品処理をしていて、出てきた手紙があった。
20年前の、パソコンで打った手紙のコピー。
わたしが迷惑をかけた人に詫びる内容なのだが、これまた素晴らしい出来栄えだった。
手書きではないので、文字の特徴や雰囲気は醸し出せないが、内容はかなり良かった。
結構、真摯に相手に謝っていた。
(その相手とは今もお付き合いはしている。
クリスマスLINEをもらったばかり)
わたしの未熟な行いを許してくれたのだろう。
書いたことはすっかり忘れているものの、わたしは手紙が上手だと自分で感心した。
美辞麗句を並べたてるのではなく、拙い文章ながら真面目に、ちゃんと相手に向かっている。
これなら、初恋の人にフラれさえしなければ、紫式部か清少納言のように、情熱的な恋文が書けたかも知れないのに、、、残念。
(自画自賛とはこのこと)

話を姑が大事に取り置きしてくれた手紙に戻す、、、。
若き日のわたしは、真面目だったようだ。
そして、可愛いこころを持っていた。
今は別人でも、過去はそうだったという事実は事実。
舅、姑に可愛がられたのは偶然たまたま相性が良かったからだと思うが、それ以外にも、わたしはとても純真だったなあ、、、と。
今は、カケラも片鱗もないけれど。
どこに行ってしまったのだろう?
どこに消えてしまったのだろう?

男性は過去を引きずるが、女性は上書きすると言われる。
ではあるが、過去があって、今がある。
上書きは、全く別のものを上書きするのではなく、アップデートした、改良・改善されたものを上書きする。
あるいは、劣化したものを上書きする。
人生の経路は色々だ。





老けたなぁと感じる時

2023-12-30 | 老い
人は、老化する。
体力、頭脳、メンタル。
どれかが飛び抜けて衰えるのではなく、どれも同時に少しずつ低下する。
わたしも、そう。

そう感じたのは、、、先日、10年前からの知人に久しぶりに会って。
(わたしのブログをご存知なのだが、もしお読みになったとしたら、ごめんなさい。
というか、ここでストップしてください)

わたしより歳上のその方は、わたしより早く歳を取る。 
そんな当たり前のことを事実として感じた。
そして、どんな元気な人も、どんな頭の良い人も、歳を取る。
これは避けられない。
特に、元々、わたしなんかより雲泥の差で頭脳が優れている人は、ほんの少しでもわたし寄りの老化を感じると、不思議な気になる。

父より11年若い母が老年の父のことをよく言っていた。
「あんなに賢かったお父ちゃんが、最近、前ほど賢くない」
前ほど賢くなくなった父でも、十分、その時の母より賢かったが。
父も父方祖母も、アタマは最期までクリアだった。
わたしもそうありたいが、体が言うことを効かなくなると、アタマだけ冴えていても辛いだけ。
アタマと体は同じ足並みで衰えていくほうが幸せだ。

で。
知人は、わたしの父と母の違いぐらい、わたしとは頭脳に雲泥の差がある。
そうなのだが、やはり寄る年並みには勝てない。
わたしが中学生の時に、家族全員で(同時、麻雀を覚えたばかりの兄、主導のもと)麻雀を一斉に始めた。(ただし母、除く。父、兄、姉、わたし)
その時に、当時50歳を超えていた父の覚えが悪かったことを記憶している。
わたしたち子供はスイスイ覚えるのだが、父はモタモタ。
チョンボも父にはわたしたちは寛容。
わたしは、父を頭脳明晰だと尊敬していたが、あれれ?新しいことは、若い人のほうが覚え易いのだと感じた。
歳を取ると、頭がカチコチになりやすい。
たとえ、頭脳明晰の50歳でも、普通の中高生には負けるようだ。
仕方ない。
生物は生まれてきたからには、その日から成長もするし、衰えもする。
避けられない宿命である。

というわけで、尊敬していたダントツ学業優秀の知人が、父同様に、ピーク時よりダウンしていた。
わたしは、ピークが12歳の時(人生のスタート地点あたり)だから、それから半世紀以上も経ちダウンが著しいけれど。

そして、かつて一緒に運動していた仲間だった知人だが、運動機能的にも衰えを感じた。
その人は、家庭の事情で時間が取れないこともあり、スポーツを全くしなくなったようなので、印象的にガクンと若さがなくなっていた。
どちらかというと、趣味は足腰を動かさない、アタマや感性を使うものなのだからか。
やはり、ウォーキングでもよいので、軽い運動は日常に取り入れたほうがいいと思った。
わたしも渋らず機会があれば、参加したほうが自分のためになりそうだ。

老けて見えたのは、ちょうど、歳を急に取る年齢に差し掛かっていたのかも知れない。
わたしだって、何年も会わなかった人には、同様のことを思われることだろう。
皆んな同じ。
誰だって歳を取って行く。
自覚症状がある場合もあるが、人の姿を見て、この人、歳取ったなあと感じることもある。
何度も言うようだが、当たり前なのだけれど。

ジタバタあがいても仕方ない。
落ち込むなどもってのほか。
年齢と共にやってくる変化を受け入れると、こころが落ち着く。
歳を取る感覚に慣れてくる。
アンチエイジングの人から見ると、だから老けるんだ!と叱咤されそうだが。
なんで自然の流れ、真理に逆らわなければならないのか、わからない。





家終い

2023-12-29 | 
家終い、仏壇終い、墓終いをする人が昨今、どんどん増えている。
墓は、永代供養にシフトし、自分たち代わりにお寺などに供養してもらう。
さぞや肩の荷が降りることだろう。

かたや、墓地を買って準備している人もいる。
まだお墓には誰も入っていない。
買った当人が、第1号としてその新規墓に入る。
ひょっとすると、一代限りで墓終いされるかも知れない。
が、買った当人が知ったことではない。

主に、墓終いや仏壇終いを実践するのは、女性。
男性は、保守、反対派。
反対はするが、日頃の維持の役割は女性まかせ。
女性たちが、子供の世代には自分たちのような苦労はさせたくない、と、連鎖にピリオドを打つ。
男性にも、後の世代に迷惑をかけたくないと、あっさり、キッパリ、自分が亡くなる前に終活をしている人もいる。
が、女性のほうが、男性より長生きする傾向にあるので、終活の持ち時間が長い。
しかも、夫にあれこれ文句、口出しされるのは鬱陶しいので、夫があの世に行ってから、誰にも邪魔されず綺麗に終活の仕上げにかかる。

お一人様女性は多い。おばあちゃん、長生き。
非婚、死別、色々ある。
一人だと、生活を便利に簡素化したくなり、断捨離に精を出すかも知れない。
その一方で、ゴミ屋敷の人もいる。

わたしは、亡くなってからも夫の墓に一緒に入りたくない、と思っていた頃もあったが、今は、どうでもいい。
残った人がやりやすいようにしてくれたらいい。
生きているうちに墓を先に建てようかと思うぐらいだが(縁起が良いとされるらしいが)、それよりももっと先にすべきことが山積み。
自分の墓になどとても着手できない。
後回しの最たるもの。
それこそ息を引き取る瞬間まで手を付けなさそう。
息が止まったら、後は知らない。

夫の実家の仏壇は今のまま。
家はさらに最低限のリペア(修繕)をして今のまま。
墓は、後の人に丸投げ。
(夫に先立たれたら、面倒だが、自分の墓も同時に作ることが出来て、便利かと)
ということは、今のままで、家終いも仏壇終いも墓終いもしないという流れだ。
今、住んでいるわたしの家は次女に差し上げる。
長女の家と近いから、年がいってから姉妹が近所で住むのはきっと良いと思う。
どっちみち、わたしは高い空の雲の上から見ているだけ。
見ないで、ずっと寝てるだけか。
売ろうが何をしようが、この世にいないので知らぬが仏。正に文字通り。
孫たちが住んでも良し。何でも良し。

実家だけは維持してくれたら、あとは何でも良し。
ということは、家終いもしない、仏壇終いもしない、墓終いもしないで、次世代に押し付けるというわけか。
子孫の皆様、お気の毒様。
頑張ってください。
自治会の役と同じで、最低限で良いので。

と、つらつら書いたが、全くどうでもいい、興味がない人は必ずいる。絶対いる。
環境も考え方も全然違う。
当たり前。
皆んな、いろんな人生をいろいろ歩いてきている。
どれも各々、基本的ベース個で成り立っている。
そして、人との関わりで生きている。

それぞれの歳末

2023-12-28 | 暮らし
さて、師走もあと少し。
歳末、デッドヒート。
気持ちだけ焦っている。
いつものことだが。

年末年始、自分たちの家で過ごしたことは今まで一度もない。
夫の実家で、行く年、来る年。
姑もいなくなり、誰もいない家に、別に行く義務はないのだが、必ず、お正月は夫の実家で迎える。
子供たちも夫の実家に集まる。
これは精神的なものだ。
こころの柱となる、今はなきイエ意識の名残か。
(ほとんどの方々には共感されない、理解されないと想像するが)
代々受け継いで行く気持ちがある。(子供たちは、ないかも知れないけれど)
子供たちも実家を離れ、核家族でそれぞれの別世帯の家で暮らしているが、年末年始は故郷。
子供の実家は、わたしの今の家になるが、わたしたちの実家は、親の実家。
ルーツである、これは動かない。
新しく枝葉は分かれるが、一本の幹の部分に集結する。
「故郷の家に来てね」と子供たちには言わないが、暗黙の了解になっている。
自然に集まる。
わたしたちの代の後は、長男にだけ義務を押し付けることなく、子供たちが話し合って、どうにかすることだろう。
気持ちもさることながら、労力もお金も必要になる。
余裕があるかどうか。

わたしの母方実家は、長男、次男が次々他界し、彼らには子供がいなかったため、今は、三男とその息子が、管理している。
この世から消え去る家やモノ、制度もあるが、首の皮ひとつでどうにか繋がっている。
わたしの父方実家も、どうにか引き継いでくれる見通しが立った。
父方、祖母の実家も健在。
地元のみならず、東京や名古屋に就職しても、定年後、実家に戻ってくる子供さんたちもいる。
いわゆるUターン。
郷土愛なのか、地元愛なのか、家族愛なのか、愛着なのか、、、?
地方の考え方なんだろうか。
何人かそういう人を知っている。
都市部ではあまりそういう人とはお知り合いにならない。
価値観は人によって違う。
ではあるものの、年老いた親を介護のため同居したり、通ったりしている年配の人もいる。
老老介護。
故郷に帰る、などという想いはないように想像する。
切羽詰まった状況。
毎日毎日を必死で生きる。
あるいは、楽しみながら生きる。
それぞれの人生。

延々と書くことが好きなだけ

2023-12-27 | わたし
12年前と10年前に海外一人旅をした。
その時は、行きたい、行きたいとブログで何度も何度も書き、脳内ではもうすっかり完全に旅人になっていた。
その、うんざりするような、行きたい行きたいブログを読んだ、実姉が、一言。
「あんた、行きたい行きたいって、言うばっかりやん。ほんとに行ったら?」
この言葉に背中を押された。
わたしは待ってたんだろう。
誰かに背中を押してもらうのを。

今回は、逆。
寒空ウォーキング。
行きたくない行きたくないと、何度もブログに書いている。
姉は今、自分のことで忙しいから、わたしのブログなんぞ読む暇はないと思われる。
つまり、「行きたくないんだったら行かないでいたら?」と、背中を押してくれない。
自分で背中を押すしかない。

あんなに行きたかった海外一人旅、行くまでに長い長い時間、エネルギーを溜め、やっと実行できた。
あの経験はわたしのこころの宝物になっている。
では、行きたくない行きたくない、と拒絶エネルギーを溜めたら、溜まりに溜まったらやっと行かないことを実行できるのか。
(これ、しないことを実行って、、、こんなの実行って言う?)
エネルギーが溜まるまでの間に、断り切れずに行っているかも知れない。
それを繰り返していたら、あんなに嫌いなウォーキングが好きになるかも?
いや、それほど嫌いでもなかったのに、逆に益々嫌いになるかも?
わたしは気分屋さんなので、自分を持て余す。
生死に関わるギリギリのこと以外は、別になんでもいい。どうでもいい。
要は、気分次第なのだ。

嫌だったら断ればいいのに、なぜ断れないのか?
恩があるとか、義理があるとか、嫌われたくない、とか、調和を乱すとか、全くそんなことはない。
自分自身の問題なのだ。
嫌いなこと、したくないこと、でも、自分のためにはしたほうが良いことを、せっかくのキッカケがある時に、乗らない自分はどうなのか?
わたしは、運動嫌いなのだ。
実は、49歳の時、50歳を前に、自分にハッパをかけてスポーツジムに通った。
その時のブログを読むと(すっかり自分では忘れているが)、必死で身体を動かしているわたしを見て、近くにいた人が「あなたは、よほどスポーツがお好きなんですね」と声をかけられた(ようだ)。
本人は、大嫌いなスポーツに必死でガムシャラに取り組んでいたのだろう。
5年ぐらい続いて、やめることにした時は、こころの底から嬉しかった。
嫌いなのに、無理していた。
理性的に考えた理想を追い求めていたが、最後は感情が付いていかなかった。
頑張りが続かなかった。へたった。
所詮、嫌いなことは続かないということだ。

交換ダスキンモップもそう。
掃除が大嫌いなのだが、1週間に1度、強制的にモップを有料で取り替える。
プレッシャーがなければ、自由意思では掃除しない。
が、無理やり無理無理、取り替え日前には掃除をする。
すごいストレスだった。
が、それも、何年かでバテた。
今は、娘たち一家が集まる直前しか、ちゃんと掃除しない。
掃除しなくても死なない。
ただし、床暖房をしていると、木のフロアに孫たちが直にペットの動物のように直に寝転がるので、モップ掛けはする。
でなければ、孫たちの着ている衣服がモップ代わりになってしまう。

そう言えば、かつて、裏にモップが付いているスリッパを履いてフィギュアスケートの選手のごとく床をスイスイ滑り、掃除していた。
あのスリッパは、じつに優れモノだ。
が、今だと、床に接する面積が小さいと感じる。
一気に、がががーっと掃除出来るほうが楽だ。

と、話はどんどん逸れている。
つまり、過去を振り返ると、意を決して不得意分野を克服しようと頑張っても、最初は自分に鞭打って頑張るが、だんだん熱意より苦しみのほうが増してくる、ということ。
チャレンジしないより、したほうが良い、後悔は残らないのだろうけれど、段々、歳を取ってくると、結果が見えているので挑戦するエネルギーが不足する。
初めからわかっていることなら、もういいか、と。

病気や怪我で身体が動かなくなった人が、リハビリで回復に向けて努力をする。
元の日常生活を取り戻したい。
スポーツ選手や俳優さんなど、テレビで辛いリハビリの様子を紹介されているのを見るが、目標、目的があると、必死で辛さを克服しようとリハビリに拍車がかかるようだ。
一般人、特にわたしのようなサボり、しかもこれといった義務もない人間は、自分を甘やかし放題。
いずれ、自分のことも自分で出来なくなって、まわりのお世話になる。
が、それを少しでも回避するため、苦手なウォーキングをするのは、まだちょっと人生ステージ的に早い?
いや、早いことはないのか?

姑は、入っていた老人施設の廊下で毎日、手すりに掴まりながら、一生懸命、自主的に歩行トレーニングをしていた。
自分に課していた。
頭が下がる。
が、脳が衰えるに従って、自分の身体を動かせなくなった。
身体の筋肉は十分備わっているが、脳が指令しない。
末端装置は充実しているが、発令システムが作動しない。
そう考えると、今のわたしの、ウォーキング拒否は、発令システム制御に自分でブレーキをかけているのか?
単に、ゾロゾロ皆んなで付いていくだけの、娯楽性のない無言の行進に抵抗感があるだけか?
自分で計画できない、地図が読めない人が、誰かがプランしてくれた道で後を付いて歩くのは、楽だ。
が、、、楽なのだが、わたしとしては、楽しさがない。
なぜなんだろう?

自由時間の無さ、食事タイムの寒さ、味気なさ、そのあたりの、わたしのワガママ欲求が満たされない。
街で目に入ったソフトクリームを買ってスイーツタイムなど、許されるわけもない。
ウォーキングが嫌いなわけではなく、ゾロゾロ、灰色の行進が嫌いなのだ。
それなら自分でオリジナルで計画を立て、自発的にウォーキングすればよいが、しない。
イベントや旅先で歩くぐらい。
何かをする目的があり、その目的を成し遂げるために、歩く。
歩くことだけを目的とする、その会が、わたしのワガママ趣味に合わない。
目的と、手段。
歩くのはあくまでも手段。

だがしかし、常日頃から歩いて(身体を鍛えるとまではいかないにしても)体調を整えるのは大事だ。
先日、旅行に一緒に行った人が、わたしより若いのに、ほんの2時間ぐらい館内を歩くだけなのにバテていてびっくりした。
平素、歩かないと、いきなり歩くことになると、身体が慣れていないようだ。

とかなんとか。
延々と、文字を割いているが、そろそろ〆なければ。
とりあえず、来月(来年)、行く直前に決めよう。
と、またまた先送り。

と、ここで気づいたことがある。
わたしの趣味は「書くこと」のようだ。
文字書き散らしのおしゃべり人間。



せっかく上手く逃げることが出来たのに

2023-12-26 | 日々のこと
寒空ウォーキングを回避できた喜びに浸っていたのも束の間、次のウォーキングに誘われた。
最低でも月1回は行きたいとのこと。
行きたくない、と、わたしは正直に胸のうちを相手に言った。
行かないからといって、その代わり手に入れた黄金時間を有効活用せず、家では1ミリも動かないことも伝えた。
本音をぶつけた。
「皆んな、そんなもんやで」とその人は言った。
あくまでも一緒に行きたい意思は変わらないようだ。
わたしの行きたくない意志を覆すと、一緒に行くことになる。
困った。
断る良い理由が見つからない。
このままでは、相撲のように張り手&張り手で土俵の外に追いやられる。
負けるとわたしが疲れる。
ここは、ぜひとも自分の意志を通さねば。

とかなんとか、結論は持ち越された。
あああ。
だが、来月の話だから、まだ時間はある。

ウォーキングに行かないで自宅で1ミリも動かないわたし、、、自分に申し開きは出来るか?
自分を納得させるような理由が自分にあるか?
難しい。
あまりにも自分を説得出来ない事態に直面すると、意図せず結果的に何らかの打開案が浮かび上がることもある。
別の何かをする、今まで気付かなかった楽しみを発見したり。
案外、そういう良くない流れ、経緯で、予期しない良い展開が生まれることがある。

が、とりあえず先週の土曜日は、ウォーキングを回避、欠席して、家の中で1ミリも動かなかった。
これは、悪い見本、事例。
2回目、3回目となると、家で1ミリも動かないことに嫌気がさして、きっと何かをし始めるだろう、、、と、淡い期待を自分に寄せている。

3回目、断れるか?
来月は来年だから、まだ先。
どうにかなるだろう。
「どうにかなる」は「どうにもならない」のだけれど。

相変わらず、何もしたくない、動きたくないため、うじうじしている。


オシメが取れたのは良いけれど

2023-12-26 | 日々のこと
昨夜はこじんまりファミリー・クリスマス。
ケーキは手作り。
長女が段取りをした。
と言ってもスポンジケーキを手始めに、各ケーキパーツ、トッピングやチョコペン、お菓子ペンは購入、既製品。
これまた購入済みのクッキーに、子供達がお絵描きしたり文字を入れたり、デコレーションしたり。
あとは、ホイップ済み生クリームと、くまモンのイラストラッピングの熊本産イチゴだけ。
ほぼ手をかけず、火を使わずに、容器を使わず洗い物なしで、手作り感が味わえる。
それでいて、子供達は、自分のオリジナルケーキを作った!体験が味わえる。実感。
まあなんと便利なの。
お値段は、生のホールケーキを買うよりうんと安い。
長女は、下2人が遊んでいる間、ずっとノートパソコンで仕事をしていた。
上2人(孫)の習い事(パパ付き添い)が終了し、メンバーが揃うまで、ばあちゃんち(うち)で待機。
1番下孫が、オシメがやっと取れたと喜んでいたのも束の間、トイレが近く、なんどもトイレ行きを訴える。
その度に、長女はモニター画面から目だけを動かして「ばあちゃんに連れて行ってもらい」と指示。
何回もトイレ介助は、じつにめんどくさい。
しかし、これがお年寄り相手だと想定すれば、なんと可愛らしいことか。
ちびっこは、3歳で体重も軽いし。
お年寄りは、意外に重い。

まあ、いずれ自分も介助のお世話になる身。
誰だって、お世話になんかなりたくないだろう。
順送りか。
いつもすまないねえ、、、と、申し訳なく思うのは辛いが、脳の老化で頭が解放されていたら、それほどでもない。
母なんかは、自分がオシメをし始めた時からオシメの存在すら知らない。
脳内は極楽だ。

ちなみに、同じ年頃の子供(孫)のいる家庭のクリスマスケーキも、ほぼ似たような手作り具合だったと知り合いから聞いた。
りく◯ーおじさんのチーズケーキを台にして、まわりに生クリームを塗ったらしい。
どことも考えることは、似たり寄ったり。
省エネで楽しめるアイテムが手軽に手に入る。
本格的手作りケーキでなくても良い。
(昔、友人宅で本格的ホールケーキを作っていたが)

と、話はオシメになったり、ケーキになったり。
相変わらず行ったり来たりの、成り行き任せ。

いつものように次女のお婿さんが、自家製ミートローフを家で焼いて持ってきてくれた。
クリスマス・プレゼントも5人の孫たちや親たちの間で飛び交い(ついでに、ばあちゃんも、もらった)、とても賑やかなクリスマスになった。
全く全員クリスチャンではないけれど。

人の幸せには水を差さない

2023-12-24 | 趣味
趣味SNSで、ペア相手の男性から、女性が喜ぶオシャレなクリスマスプレゼントをもらった日記を読んだ。
いいなあ、、、。
この女性(Aさん)も、ペア相手(Bさん)も、10年ぐらい前から顔を知っている人。
朝からその日記を読んで、羨ましい気持ちになった。
女性は、わたしより10歳弱ぐらい若い。
ああ、わたしも10年若かったらなあ、、、と思いを馳せた。遠い目。
失われた10年か、、、?
と言えば、そうではなく、充実した10年。
後悔はない。
わたしは彼女より10年先を歩む、人生の先輩ということになる。
これが、90歳と100歳なら微妙、100歳と110歳ならもっと微妙。
いいな、いいな、10歳若くて、、、と羨ましがっているかどうかは、ハテナ?である。
人など、どうでもよく、それどころではない、自分の人生にしがみ付くのに必死だろう。

それに、、、
蛇足中の蛇足だが、、、
このペア相手のBさんはAさん(女性)より一回り年上らしいが、Bさんの、前のペア相手(Cさん)は、すごくチャーミングな美人だった。
巷のパーティで2人で踊っていると、周りから拍手が起こっていた。
ペア解消後、Bさんの姿を度々パーティで見かけた。
新しくAさんとペアを組んでからもパーティにはAさんを伴わず、よく姿を表しておられた。
そもそもBさんは、パーティ好き。
お気に入りの女性もおられ、前のペア相手と解消してからも、Aさんと組んでからも、よく、この女性と2人で踊っておられるのを見かけた。
Aさんはご存知なのかどうか知らないが、わざわざ噂を流したり、Aさんご本人の耳に入れるほど、わたしは暇人ではない。
嬉しいプレゼントを頂いた感激日記をSNSにアップしておられるのに、水を差すようなことをする趣味はない。

ちなみに、皆さんもご存知なんだろうか?
わたしは、良いことも悪いことも、知らん顔をするタイプ。
人の領域には踏み込まない主義。
何も知らずに喜んでいるAさんが哀れだ、などとは思わない。
何も知らないことは、幸せなのだ。

Aさん(女性)は、Bさん(男性)をカタブツだとおっしゃっているが、なんのなんの。
あちこち、マメ男さんである。(実感)
でも、2人がうまく行っていれば他人は応援するのみ。

家政婦はミタ(古い!!)の如く、10年近く見続け、見るだけで何も言わない、行動しない、リアクションを示さないわたしのような静かな人も少なくないだろう。
見られている人も、見られていることに気づかない。
世の中、表に出ようが、裏に隠れていようが、静かにしていれば、静かなまま、平和にコトは進んで行く。




頑張らず、背中を丸めて猫になる

2023-12-23 | 日々のこと
極寒ウォーキング、断る気持ちを固めて相手に挑んだが、、、
こちらから言い出す前に、先方が取りやめの提案をしてきた。
あらま。
わたしは、こういうことがよくある。
わたしが反対意見を示す直前に、相手が取り下げる。
結果的には、相手が自主的に選択権を持ったことになる。
相手の意見を無視して無理強いしたり、強行したり、頭を下げて懇願しないで、意見や要望を言う前に、わたしの思い通りになる。
やれやれ、よかった。

寒い中、ウォーキングに行かなくてよくて、わたしはとても喜んでいる。
というか、そもそも、最初から断っていれば済む話なのだが、ギリギリまで答えを延ばして様子を見る、話の流れ、経過を見るのは、わたしの傾向。
どうしようかと悩み、時として土壇場でGoになることもある。
意外に、渋ってはいても、行動の後は爽やかな疲労感を体感したりする。
躊躇していても、いざ、行動すると、行動前にグズグズ思い悩む程、嫌なことではないこともある。
スポーツ嫌いで、行動嫌い、フットワークの重いのわたしは、そういう経験を何度かしたことがある。
ではあるものの、やはり、寒空の下のウォーキングは回避できて、安堵している。

寒空の中、行きたくない

2023-12-22 | 日々のこと
ウォーキングに誘われている。
10キロ。
ここのところ、急に寒くなって来ている。
明日も寒い。
ランチタイムは地面か石に座ってオニギリ。
公園かどこかの屋外。
ウォーキング会が主催し、自由参加で、事前予約は不要。
現地集合、現地解散。
申し込んでいないのだから、ドタキャンももちろんあり。
ただ、、、問題がある。
一緒に行こう、と前々から誘われているのだ。

お一人様がほとんどなのに、なんで大の大人が子供じゃあるまいし、一緒に行かなければならない?
気候の良い季節なら、散歩がてらに参加もするが、寒い中、アウトドア派でも登山派でもない、軟弱なわたしが、参加する?
(ちなみに海水浴も嫌い)
行きたくない。
運動になるのは間違いないが、渋々行ってもストレスが溜まるだけ。
ということで、(一緒に)参加するのをやめようと思う。
さあ、どうやって断ろう。 
頭を悩ましている。

「1人で行ってください」が、なぜダメなんだろう。
前にもそう言って断ろうとした。
皆さん、1人で参加の人がほとんどなのに。
行きたいなら1人でも行くはず。
健康な大人が1人行動できないなんて、、、考えられない。

というわけで、角が立たないようにその人へはドタキャンの予定。
毅然とした態度なら、仕方ない納得の理由なら、不参加も諦めることだろう。

実は、今年の夏、炎天下の酷暑真っ只中にも、ドタキャンでお断りした。
1人で行ってもらった。
たくさん参加者がいたそうだ。
行きたい人が行けば、すべて丸く収まる。
行きたくない人を連れて行こうとするところに、摩擦が生じる。
皆さん、各々単独行動がベストだと思う。
さあ、勇気を出して断ろう。

断ったからといって、わたしが代わりに有意義な時間を手に入れるかと言えば、そんなことはない。
なあ〜〜んにもしないで、家でうずくまっているだけ。
ぬくぬく籠っているだけ。
クリスマスイブなのに。
寒いところ、嫌いなんだから仕方ない。
せめて、素敵なクリスマスのお誘いなら喜んで飛んで行くかも知れないが、文字通り、寒空の下、、、やはりわたしには合わない。
人には合う、合わないがある。
嗜好、好みがある。
わたしはスポーツ志向ではない。アスリートではない。
のたっと、猫みたいに丸くなるのが好きなのだ。軟弱なのだ。
翌日は家でのファミリー・クリスマスパーティを控えていて、わたしも掃除したり片付けたり、会場整備(大げさ)しなければならない。

ということで、ウォーキングは何か理由をつけて断り、明日は家に籠ろう。
書いて決意を固めようとしている、わたし。