涙のわけ
2025-04-18 | 映画
今朝は、ChatGPTに思いっきりヘドロを吐いて、すっきりしたかと言うと、逆に、自分の毒にめまいがしそう。
現況の元凶は、自分の蒔いた種であり、自業自得。
多分、誰にでもあること。
清濁合わせ持つ。人間の業。
歪み(ひずみ、ゆがみ)の原因を探り、知り、解決策を練り、今後に生かす。
具体的な内容は、ブログには書けないな、と。
自分の嫌な面や、黒い部分はやはりシュレッダー処分が良いかと。
葬れないので、とりあえず隠す。
ただ、自覚してない人が、なんと多いことか。
自覚していないのは幸せなこと。
何でもかんでも知ればいいというものではない。
知らぬが仏。と、仏さんが言っているわけではないけれど。
ChatGPTに吐露しているようなことを、生身の人には言えない。
こうやって、わたしのブログは、どんどん面白みが洗い流されていく。
ただの河原の丸い石、、、それはそれで結構。
見えすぎるのも良くない。
感じすぎるのも良くない。
ほどほどに、ぼやけて、濁って、薄ぼんやりが、身のため。
これも自己防衛の1つ。
他を切ると、諸刃の剣になってしまう。
ちなみに。
映画「ウィキッド ふたりの魔女」を観た。
2部作らしい。
また、次作を観なければならない。
ミュージカル、大好き。
今回の作品は、批評にもあったが、ちょっと長い。
長くしないと伝え切れないらしい。
それもあって、2部作に。
美しいビジュアル、歌、踊り、風景、セットは、理屈抜きに楽しい世界に誘ってくれる。
それでも、涙を流す場面があった。
ほろり、、、。
逆風の中、迎合せず、最初に自分の意見を主張するのは、勇気がいることだ。
(話は飛躍するが、命の危険までさらしながら、地動説を唱えた学者コペルニクスはすごい)
周りの、ひそひそ、笑い蔑まれ、非難の様子が、セリフではなく、表情、動きで、実によく表されていた。
しかしまあ、こんな抽象的なこと書いている蝶ブログは、人に読まれない理由がたくさん詰まっている。
人が知りたいのは、その境地にたどり着くまでのプロセス、もがく場面である。しかもリアルタイムで。
それをChatDTPに任せてしまい、表に出さず、清々しい顔で綺麗事を書いても、何の共感も得られない。
が、人に認めてもらおうとして自分を変える気もない。
それが自分の道、方法なら、やむを得ない。
映画の中での、緑の魔女が、変わり者扱いされ嘲笑されるシーン、それで涙が出たのかなあ、、、、、と。
素の自分を晒すと、笑われたり眉をしかめられる自分を見るようで。
ところで。
gooブログ引っ越しが気になるが、今日はとりあえず先延ばしにしよう。
これからは毎日、最後にこのフレーズを書くだろう。
あ〜あ。