蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、花咲く時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

低レベルの争い

2017-10-31 | 趣味
またまた、大嫌いなAさんが、趣味関係の他人様の日記で持論を展開していた。
それに対して、日記の主から、賛同とは言えないコメントが返された。
その意見を一旦、聞いたふりをして、ふたたび自分の意見を主張していた。

わたしにも再三、言っていた内容である。
自分が下手なことを自覚せず、相手に要求をつきつける。

たまりにたまったわたしは、ついに、コメントしてしまった。
しかも、Aさんとわたしの、共通の先生のおっしゃった実話を交えて。
さて、どう出るか?

しょうもないケンカを吹っかけて、また傷が深まったら嫌だ。
せっかく、離れられたのに。
わたしも、しょうもないことをする人間である。

こっそり見にいって、日記の主が見たら、削除しようか。
でも、実際のリアル先生が言ったことなのだから、反論するなら、先生にしていただきたい。
ただし、先生の発言の一部分だけを切り取ってコメントに使ったので、Aさんは怒ってくるかも知れない。
誤解を招くような紹介の仕方をするな、と。
抗議のメールでも来たら、ぞっとする。

わたしが、言いたいことを強調させるために、効果的に使わせていただいた。
どっちも、どっち?
我々は、低レベルの小者同士の喧嘩かも知れない。

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トラウマが、顔を出す瞬間

2017-10-30 | 趣味
またまた、大嫌いな人物への、ヘドロの想いがフツフツ沸いてきた。
ヘドロは、どろっとして、低温のイメージなのに、フツフツ沸騰は高温、しかも湧いて出てきたイメージ。
表現、温度矛盾を追求するとキリがない。

と、どうでもいい前置は、どうでもいいとして。

別SNSの、他人様の日記にコメントを入れている趣味がらみの某、大嫌いなAさん。
ある人の同じ日記に、わたしもコメントした瞬間、Aさんも同時に(ほんの少し、むこうのほうが早い)コメントを入れていて、それを見つけた一瞬でわたしは、自分のコメントを削除した。

Aさんの、相変わらずの、自分の未熟さを顧みず、人の欠点ばかりを責める、あのスタンス。
思わず、つっこみを入れたくなり、自分の日記を書いたが、非公開にした。
しかも、ふたつも。
想いを文字にしてまとめただけでも、少しは気が静まったような気がしたので。
どんどん日記をアップすると、むこうのSNSでは閲覧数が公開されるため、躊躇する。
なので、御蔵入りが増える。

しかし、まだまだ、依然わたしの気が収まらない。
一気にど〜っと吐き出したい気持ち満々。

Aさんは、本当に懲りない人。
一生、自分は悪くなく、相手が悪い、という、あのスタンスなのだろう。
わたしは、脚をはじめとする身体的ダメージだけでなく、精神的にも追い込まれた。

先月の試合を最後に、解消を切り出したのは、大正解だった。
たとえあと1ヶ月でも、Aさんの望む日まで続行し、試合に出ていたら、再起不能になって、潰れていたかも知れない。
危機一髪!
あとは、起死回生を望むのみ。
なのに、目の前でチョロチョロ、相変わらずの発言を続けるAさんは、かなり目障りである。
不快、この上ない。
コメントだけ読めば、まともそうなことを書いているかも知れないAさんであるが、実態を知っているのは、実際に(ダンス面で)深く関わったことがある人だけ。
ああ、嫌だ嫌だ。
忘れた頃に。

何もない、何気ない時にふと、悪夢が蘇ることがある。
Aさんの申し込みをさらっと、うまくかわした人もいて、断ったことによって、人生の傷がほんの少しでも付かなかった、その人のスマートな選択ができた機転を羨ましく思える。
わたしは、鈍く愚かだった。

でも、過ぎた日々を嘆いても仕方ない。
よい勉強になった。
少しでも、そんな諸々から離れて、忘れて、以前のように、戻ろう。
あまりSNSで、カッカとアタマに来ないで、冷静に。
さらっと、いきましょう。

が、なかなか時間がかかるようだ。

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「頑張る」の中身

2017-10-29 | 人生
わたしは、学生時代から、理想とすることや、目的や目標があって、過ごしてきた。
目標に向かって邁進してきた。
(と言うにはお粗末な努力。内容。
あくまでも自分流、自分温度)

今は、目標である理想状態にいる。
今の目標は、少しでも現状を維持すること。
下り坂を無事、事故なく下って行くことである。
現状維持のために、努力する、という選択肢もある。
しかし、サボりであるわたしは、自然降下に身を任せる。
わたしにとって、頑張ることは苦痛である。
頑張らないで得た結果は、自業自得と思い、受け止める。
頑張っていたらこうならずに、ああなったのに、、、は、ない。

もうすでに、頑張ってきたからこうなったので、これ以上は頑張らない。
今を維持するために頑張らなければいけないとしても、最小最低限度のことだけしかしない。

「頑張る」には、人それぞれ温度が違う。
もともと優れている人が、ちょっとだけ頑張るのと、低レベルの人が死にものぐるいで頑張るのと、結果だけ見ると、達成レベルは、どっちがどうか?
人情的には努力を評価したがるが、結果は大事である。
プロセスに重きを置く人もいるが、ジャンルによって、違うだろう。

頑張る内容は、人によって違う。
わたしは、頑張らないだけだ。
が、全て頑張らないのではなく、最低必要限のことは、する。
頑張りはミニマムである。
ほとんどは、サボっている。
頑張りの箇所、ツボ、ポイントが要だ。

だからって、人様に自慢できるようなことはない。
みなさん、それぞれに楽しく頑張っていただきたい。

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幸せは、1日1日、完結で。

2017-10-28 | 趣味
この世の春である。
秋なんだけど、ぽかぽか春気分。
趣味関係で、大嫌いな人に思いっきり痛めつけられ、傷つけられて、痛みが治まるのをじっと待っていた。
で、じ〜っとしていた。
心を無にして、無風の中にいた。

聴こえる音に耳を澄まし、見えるものに目を凝らし、動かなかった。
忍者の修行か、超人バッティング練習みたいに、やがて、見えなかったものが見え、感じなかったものを感じることができた。
味が無かったものに、味覚を取り戻したかのように。

捨てる神あれば拾う神あり。
まさにそういうかんじだ。

厄を捨てて、吉を拾った。
前より断然、良くなった。

でも、回り道をした。

最初から最短の道なんかないのだ。
とても、満ち足りた思いである。

趣味分野で明るい未来を感じている。
ただし、一話一話、完結。
今日が幸せだったから、それでいい。
それ以上は求めない。
欲張って求めたら、その時から幸せは目減りする。

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自業自得の楽園

2017-10-26 | 老い
某さん、お便りありがとうございます。
あなたは、わたしとは、真逆のベクトルですので、脳の構造も真逆。
某さんは、もっともボケないタイプでしょう。
羨ましくもあり、たいへんですね〜と労い気分にもなる。
応援しています。

わたしは、もっともボケるタイプである。
仮に、(内臓疾患の)持病が悪化し、身体の自由が奪われる、辛い日々があるとすると、
持病を悪化させないための予防生活を実践しなかった自分に非がある。
しかし、病気だわ、自業自得の自分を責めるわ、では、鬱が深まるばかり。

ボケも、そうなのか?
ボケてしまったのは、予防努力を怠った自分が悪いのか。
自責の念にかられたとしても、もうボケてしまっているので、本人はケロリ。
家族にシワ寄せが行くだけである。
どこか、世話をしてくれる施設に放り込まれることだろう。
その時に、ああ、もっと予防していれば良かったと、嘆くだろうか。
多分、嘆かない。
観念するだろう。

だが、その日があまりにも近い未来だったとしたら、覚悟が出来ていない。
やはり、何度も書いているが、あと20〜25年後と算段している。
それまでに、ゆっくり、ゆるやかにソフトに寛容に、自分のボケを受容していく予定だ。

頭がキリっと冴えて頭脳明晰、なのに身体が悪い人は気の毒である。
自分の状況が受け入れ難い。
こころがキリキリ痛むだろう。
身体がピンピンしているのに、頭が天国のほうが、まだマシ。

学者や芸術家は、高齢になってもボケない人が多いように思う。
DNAによるものもある。
自分の親や、親せきを見渡してみると、どうも自分はマズイ気がする。
血は争えないので、皆さんと同じようにアタマ天国コースが待っているように感じる。
まあ、早いか遅いか、いずれ、その時は来る。
燃えて脳を活性化しなければ、と自分に義務を課すと、ストレスが溜まり、病気になる。
健康オタクの不健康と同じ。

なるようにしかならないのである。

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もう向上しなくてもいい安らぎ

2017-10-25 | 老い
今日は、病気で入院しているような一日だった。
全く何もせず、ちまちまスマホの窓口から世界を覗いていた。

世界というより、今日は日本。
先週土曜日から、なぜか明治維新の前(19世紀)あたりから、昭和にかけての人物のことが気になって、ウィキペディアばかり見ている。

明治維新の頃は、体制がごろりと変わり、旧勢力と新勢力が、カオスでごちゃ混ぜになり、儲ける人はめちゃくちゃ儲けている。
没落する人は、急降下。
今まで鎖国で閉ざされていた日本の力が、世界に向け、メキメキ出てきて、躍動感あふれる時代。
だが、今から見ると、女性の地位の、まあ低いこと。
あり得ない事態が、普通に行われ、普通に受け入れられていた。
落ちぶれた武士の娘が花街に売られ、妾になる。(例→白蓮の母親)
妻妾同居や、何人もの妾の子供、婚外子を正妻の子として籍を入れ、正妻が育てる。
かの明治天皇にも、側室が複数、子供たちは腹違い。
大正天皇も、正妻の子供ではない。
そんなこと、今まで全く知らなかった。
(わたしが無知なだけか。興味がなかった)
大奥があった江戸時代の延長だと思えば、さほど、意外なことでもないのだろうけれど。
でもわたしは、のけぞった。
やはりわたしは、昭和後半の生まれ育ち。
歴史として、過去の史実は受け止めたとしても、今の感覚からすると理解できない。
まあ、時代とはそんなものだ。

社会が成熟していないので、国が貧しい人々全てに手を差し伸べるまではいかない。
国の福祉が行き届かない代わりに、力のある男性が、複数の女性を養う。
今は、女性も自立して生活できるようになり、昔に比べると、ずいぶん社会環境は整っている。

それにしても、以前のわたしなら、この時代の女性たちの地位、暮らしに、沸沸と、烈火のごとく怒り、不快に思い、ありえ〜ん!!と吼えていたことだろう。
しかし、なぜだか、今のわたしは、こころが乾いてしまい、情けなさや怒りさえも凍り、沸き起こらない。

なぜか。
前、感じた時より失望感や怒りはずっと深い。
深すぎて、神経が死んでしまった。
あきらめが、こころを殺す。

まあいい、わたしはどうせ、もう後、活躍することも、躍動することもなく、萎んでいくだけなのだから。
わたしには、上向きの未来はない。
が、日本のホテルでアインシュタインが手渡したメモに書かれていた内容と同じで、わたしも幸せ感に満ち満ちあふれている。
日々、向上しなければならない、後ろから突かれるような焦燥感はなく、あるのは、やすらぎ、落ち着き、豊かなこころ。

もう、上向きのに生きなくていいのだ。
追い詰められたような、身の置き所のない、地に足が着かない、そんな気持ちは決別、卒業。
もう上らなくてもいい、下れる安堵。
(元々、さして上がってない)
下れば下ったで、また哀しい現実と直面することになるのだろうけれど。
わたしのエンジンも燃料も、エコを求めている。
だから、静かなこころが、ちょうど良く、心地よい。

というわけで、悲しみや怒りさえも、ダウンしている。
熱き血潮の逆で、冷たいぐらいだ。


昔の人々の生き方を知るにつれ、新しい発見をする。
良きにつけ、悪しきにつけ。
老人は前を見ず、後ろばかりを見るという。
でも、若い頃は、わたしは後ろを見ず、前ばかりを見ていた。
だから、一生を通じると、前も後ろも見ることになり、良いのではないか。
後ろを見ながら、ついでに前も見たい。


老人が集まると、昔は良かった、将来が不安、という話ばかり(らしい)。
わたしは、不思議とそういうことはない。
昔も今も、さほど変わらない。
だから、これからもあまり変わらないような気がする。

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老人は、老化するものなのである

2017-10-24 | 老い
今朝、洗濯物を干していたら、大声で怒鳴る声。
がなりたてる声が続く。

どこかで、喧嘩でもしているのかと思っていた。
それにしても、一方的に叫んでるなあ、相手の声が聞こえないから、ひょっとして、一人芝居か?
アタマ、大丈夫か?

などなどと想像しながら、黙々と洗濯物を干していた。
干し終えても、まだ怒鳴り声は続く。

話の内容からすると、どうも、同居の母親の家の中での行動を責めているようだ。
母親が、置くべきところ、衣類の収納場所に下着類を置かずに、関係のない場所に置いている。
それをがんがんガミガミ息子が怒っている。
「なんで、こんなところに置くんだ?!」と。

どうやら、声は◯◯さん宅からではないだろうかと推測する。
以前にも、そんな大声が聞こえてきたからだ。

かわいそうなお母さん。
おそらく初期の認知症が始まっているのだろう。
息子は母親の認知症は絶対に認めない。
認めたくないので、事実がちゃんと把握できない。
ちゃんと行動できない母親は、認知症のせいだと思われるが、その事実を受け止め、理解し、対処できないのは、息子。
家族が多いと対応も違ってくるかも知れないが、娘さんは別居していて、日頃は息子だけとの暮らし。
こんなに目と鼻の先のご近所さんなのに、老人虐待で事件にでもなったらどうしよう、、、と良からぬ想像がアタマを駆け巡る。

とかく肉親は、血が上るようだ。
わたしも、経験がある。
実母の認知症が始まった頃は、パニックになった。
姑の時は、認知症というよりは、老人性認知障害(わたしが、勝手につけた病名)。
そんな病名があるのかないのか、知らないが、まあ、読んで字の如く。
大なり小なり、ほとんどの高齢者に見られる傾向である。
なので、病気だとはわたしは、捉えない。
妊娠、出産を病気と捉えないのと同じ感覚だ。

老年になり高齢になると、なにかしら老化による変化が訪れる。
それを本人は認めたくないし、周りに老化と思われたくないし、さらに、親きょうだいの老化まで認めたくない。
こんな風だと、ストレスの塊になると思う。
世の中、なるようにならない、人生、思い通りにならない、哀しい、嘆かわしいことだらけである。
老化もその一種だ。
もともと、そういうものだ、と覚悟していたら、「あら、来た」、「意外と早かった」、「意外と遅かった」、「まだ来ない、まだか?」
みたいな、こころの準備が出来ていると、ただただ嘆くだけの、老化に関して全く無知よりは、マシかも知れない。

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インターネット情報は正しいとは限らない

2017-10-21 | 無題
個人ブログは、間違いが平気で載っている。
旅モノで紹介されている、ある武家屋敷の名前を間違えて説明してあるものを2つも見かけた。
説明文が書かれている看板の写真を同時にアップしてあるので、記事に書かれている名前と、看板に書かれている名前が、明らかに違う。
アップしている人は、ちょっとだけインターネットで調べて、最初の名前の頭だけ同じだから勘違いし、全体によく似た名前なので、そのまま載せてしまっている。

わたしは、その歴史的に有名な人物をインターネットで調べていっている途中なので、間違いがあると、混乱する。
その地に、その人物の武家屋敷があっては、出自の確定に誤りがあることになる。
ハナから思い込んでいると、歴史上の別人の名前を平気で書き、しかも、添えられている説明まで自分で捏造したのか、勘違いしたのか、間違えている。

全国の名所を紹介する、個人の旅ブログなので、情報に誤りがあったところで、別に責任は追及されないだろう。
(営利目的ではないし、スポンサーがついているわけでもないので)

たくさん溢れかえっている情報は、全て正しいとは限らないという、典型的な見本を見た。
情報を選択し、真偽を判断するのは、自分であると肝に銘じるしかない。
文章だけのブログなど、文字の間違いや、言葉の使い間違いは、ゴロゴロ。
蝶ブログも、(たぶん)ゴロゴロ。

史実を調べて行く過程で、間違いに遭遇すると、翻弄されるが、いかにも間違いがはっきりわかる場合は、ほっとする。

もっともっと大きな間違い情報を確信犯的に、国民に刷り込まれていることもあるだろう。
大きすぎると、間違いに気づかず、チェックできない。

身近な間違い情報は、間違いに気づく鍛錬がいると思う。
まあ、さして深く考える人はあまりいないかも知れない。
間違い情報に塗れて生活するのも、神経質になりすぎずに、鍛えられて悪くないかも知れない。
食品にしても然り。
ばい菌にしても然り。
純粋培養されると、無菌室で生活するしかない。
少々のニセモノや、嘘、ごまかし、間違いは、身の回りにはゴロゴロある。
自分で調べたり、考えたりしないと、丸呑みは、だめだよ、という軽い戒めだろう。

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世の中に潜む悪人

2017-10-20 | 日々のこと
昨日、詐欺にやられたもよう。
怪しげな四人組。
うさんくささ満載の、いかにも嘘っぽさが漂っていた。

詳細は省略、割愛するが、こちらも四人いたので、「大勢」対「大勢」だったため、気が緩んでいる雰囲気の中で、警戒心が薄れ、注意力が散漫になった。


悪事に手を染める人々には、独特のにおいがする。
それをみすみす感じていながら未然に防げなかったことは遺憾ではあるが、金額的には、おそらく大ダメージとまではいかないだろう。(が、ダメージではある)
教訓料、勉強料と思い、大難が小難にとどまったと解釈し、今後の戒めにしたい。

悪人を嗅ぎ分ける力、少し見る目があった、と自分の目に狂いはなかったことは自画自賛してもよいかも知れないが、防げなかったのであれば、なんの意味もない。
むしろ、感づいていながら、善処できなかったことを反省すべきだ。
これからは、人を見れば悪人と思い、嫌な人間と思われようが、疑心暗鬼になり、自己防衛するに越したことはない。

取り敢えず、見知らぬ他人は、まるまる信じないで、疑ってかかるほうが、無難である。
疑いの目で見た相手に嫌われたとしても、その相手は、こちらが別の悪人に騙された場合でも、責任は取ってくれない。
自己責任である。

悪人は、善人の中に混じって、ひっそりじっとマヌケな善人を狙っている可能性がある。
しかも手口は、日に日に巧妙になっている。
注意するに越したことはない。

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衰えを直視する

2017-10-19 | 
昨日は、娘一家と、実家へ行ってきた。
まだ幼い孫たちは、「夫の実家」と、「わたしの実家」の区別がついていないようだ。
似たような和風建築、築年数なので、混同するのだろう。

雨戸を開けると、頭にヤモリが降ってきた。
ヤモリの洗礼。
ヤモリは、「家を守る」という意味らしいので、いきなり挨拶してきたのだろうか。
誰も、居ない、誰も住んでいない、文字通りの空き家である。

空き家とはいえ、祖母がその家に88歳の時まで一人で住んでいた。
もう、37年ぐらい前になるだろうか。
祖母は、高齢での一人暮らしが大変になり、わたしの両親のところに88歳を区切りとして引き取る格好になった。
37年前から空き家といっても、両親にとっては実家である。
両親は、51年前、実家に祖母を残し、新たに仕事の拠点としての別宅で暮らし始めたが、祖母とは別居という感覚である。
その新しい家から足しげく両親は元々の実家に通い、美しく庭の手入れをし、家を整え、冠婚葬祭はその家で行っていた。
わたしは、生まれた時から10歳ぐらいまで、その実家で祖母も一緒に暮したが、親の教育方針で、地元の学校には入らなかった。

実質的な空き家となったのは、母が老人施設に入所してからである。
その少し前から、我々子供は、親とバトンタッチして、本格的に、手入れ、管理するようになった。

わたしもちょいちょい、訪れ、手入れ、管理の一端を担っていたが、ここしばらくは行けなかった。
植木屋さんが定期的に入っているものの、母が小まめに草を引いていた時とは違い、やはり、草が目立った。
家の中も、母がいつも綺麗に(スタッフを率いて)掃除していたから整っていたが、その頻度、精度が落ち、美しい邸宅は、がくんと落ちていた。
家は生き物だと、つくづく思った。
手入れをしない家は、美しさを失っていく。
でも今の状態なら、草を引き、掃除をすれば、まだキープできる。
前の水準までには、とうてい及ばないが。

しかし、やがて我々は更に老い、気力を失い、あの家の手入れが遠のき、維持、管理できなくなるだろう。
時間の問題だ。
せめて一年に、一回は、孫たちを連れて訪れたい。
迎えてくれる人のいない、実家へ。

とかなんとか、まだ行かなけれはいけない家(夫の実家)があり、そっちのほうは、郷愁だのなんだの感じている場合ではない。

子供たちを縛り付けている実家の家々をはやく処分して、子供たちを解放させてあげるべきだ、と、諸々を依頼している税理士は言う。
そうなんだろうか。
我々が、元気なうち、目の黒いうち、アタマがまだクリアなうちは、できれば処分などしたくない。
が、理想や想いと、我々のパワーは、反比例し、衰え、非常に近い近未来に理想と現実が交差する。
じつは、もう交差してしまっているのかも知れない。
理想だけがひとり歩きしているが、もはや我々の手には負えない。

都会暮らしのほとんどの人が、こんな想いは体験しないし、理解も感情移入もできないだろう。
みなさんには興味ないことだが、わたしは固執してやまない。
どんどん自分が衰えると、また変化することだろう。

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