蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

あなた自身は、どうなの?

2013-08-31 | 日々のこと

最近、好きでいつもこっそり見に行っているブログ。
先方は、隠れ読者であるわたしの存在など、まるでご存じなく、非常にそれもいい。
ブログ・カテゴリーも世代も、状況もまるで違う。
だからなのか、・・・面白い。

世代は、ちょうど娘の世代である。
比較する気は全くないが、たまたま同じ世代なので、
う~~~ん・・・・こうも違うものなのか、と、ある意味、感心する。

なにが違うかと言うと・・・
やはり、モノの考え方、行動の仕方、友人のタイプ、・・・。
180度違う。

じつは、わたしは、そのブロガーさんタイプの人間である。
ひと世代違うが、過去の自分を思い出す。
思考傾向に、共通するものがある。
(具体的な内容としては、異なるけれど)

性格的なところは似ているが、価値観の「基準」が違うところが、また面白い。
いろんな世界には、いろんな基準が存在するのだ。
同じような人々が集まるので、そのカタマリでの基準というものが発生するようだ。
いわゆる、属している属性「レベル」が似ている。その中での、モノサシ。

牛丼でいえば、少なめ、並、大盛り、大大盛り、・・・???

・・・・・・

ちなみに、とあるブログで、
キャリアウーマンのことをOLと表現されていたが、わたしが捉えているOLの意味とは異なる。
OL(オフィス レディ)は、昔昔、BG(ビジネス ガール)といって、
いわゆる「お茶くみ」「寿退社する人」「制服を着ている人」だと思っていた。
漫画やドラマで植えつけられた先入観。
今でいえば、一般職?
当然、寿退社どころか、産休の時代だが。
で、キャリアウーマンは、総合職だと捉えている。
一般職から総合職に、上る人は、たたき上げ?
ま、どっちでもいい話だが。
この僅かな捉え方の違いが、微妙な違いを生み出している。
というか、元の、根の部分のちょっとした違いから生み出された、ちょっとした枝葉の違いなのだが。

 

・・・・・・

「あなたの回りはさておき、あなた自身はどうなの?」

若い日のわたしに、ある中年女性はそう言った。
そのとき、わたしは、べつになにも思わなかったが、それを言った女性が、
わたしに批判的な目を向けていることはわかった。
なぜ、その女性が、そんな言葉を発したのか、想像できる。
わたしは、自慢をしようとして言ったのではないことが、彼女にとっては、そう聞こえたのだ。

わたしの言い方も悪い。
時と、状況と、相手を見て、話さなければならない。
若いわたしは、相手側に立って、受けるであろう気持ちを察して、話していなかった。
むしろ、わたしは親近感を覚えて言ったことなので、
相手も、親近感を感じてくれるだろう、と思って言ったが、逆効果になった。
その言葉で気を悪くするなんて、思いもよらなかった。
目線が違うと、湧き出る感情も違うようだ。
自分の思い上がった捉え方は、無意識で自覚がなく、悪気がないと思っていただけに、
気をつけなければならないことなのだ、と、後に自分に言い聞かせた。

いつも、この彼女の言葉を思い出し、原点に帰る。

 

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マスオさん

2013-08-30 | 暮らし

女性は強くなった。
特に結婚後、奥さん側の実家に引き寄せられている旦那さんたちの多いこと!

しかし、そのほうが、うまくいく。

イマドキの旦那さんたちは草食系世代なので、マスオさんになっても抵抗がない。
奥さんから愚痴を聞かされたり、夫の母親(姑)との軋轢(あつれき)もない。
だが、べったりマスオさんは、お互い疲れるし、マスオさんにも親側にも息抜きが必要なので、
スープの冷めない距離で別居の休日マスオさん。

休日の夕食を、妻の実家で食べたり(イレギュラーで平日も追加)、
孫も面倒見てもらったり、若い夫婦も楽々だし、彼らのお財布にも追い風。
マスオさんは、家事・育児の手伝いをもっとしろと妻にガミガミ言われることもないし、
妻のお母さんに、気を使ってもらって、上げ膳据え膳、お客様待遇。

妻の両親は、孫にメロメロ。
言うことない。

それでだかどうかは、知らないが、娘の友人たちは、このパターンが非常に多い。
奥さんの実家のほんのすぐ近くに住む。
近畿圏に点在するママ友は、元・学友。
中学から続く部活などのネットワークは、そのまま。

夫も妻も、関西勤務。
旦那さんの実家は地方で遠いので、勤務上、無理。

妻は日ごろ、自分の実家寄りで、楽させてもらっているので、
時たま、顔を見せに行く夫の実家では、とてもいい嫁、いい顔を余裕たっぷりに、こなせる。
たまにしか見ない孫の顔にも、地方の両親は、大喜び。

息子を都会に出してしまった、地方の親は、あきらめるしかない。
帰ってきてもらえるのは、盆と正月、長期には、定年後。
定年後も、「家の管理」というカタチで、帰って定住、移住、ということにならないかも知れない。
親の介護の問題に直面した時は、知恵を絞ることだろう。

地方勤務の人は、また別だろうけれど。
そして、ばりばり長男意識の強い人は、本人はさほどなくても、親のほうに抵抗があるだろう。
夫は妻に負け、親が嫁に負けるカタチになる。

まあ、なんでもいいから、子育て環境を少しでも整え、ストレスを少なくして、
一人でも多く、子供を生み、育ててもらいたいものだ。

親サイドも、協力バックアップ体制で、支援。
甘やかすのではなく、縁の下から支える。
核家族で、母親だけと(時にはイクメンもまじえ)1対1で子供に向かって煮詰まるより、
メロメロなジジババに、わあわあ騒いでもらっているほうが、風通しもよく、精神衛生上もすこぶる良い。

ジジババの親たちにも、顔を見せたりすると、4世代間交流になり、若い顔とのコミュニケーションに喜んでもらえて、
これまた、結構。
ただし、介護などの問題もあり、そうそう元気なジジババたちばかりでもないが。
早く子供を生むと、ジジババや、そのまわりも若いので、子育て環境が整いやすい。
若いうちの滑り込み育児が、いい。

そうは言っても、誰しも理想通りにはならないのが、現実だろうけれど。

 

 

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核家族の行方

2013-08-29 | 

昨日は、総務課のお仕事を済ませた。
総務課につき、濃い親戚ではないので、ほんのちよこっとのお仕事。
が、行き帰りに要する時間は、たっぷり。
総務課なんて、そんなものだ。

でも、知った顔に会い、いろんな話を聞かせてもらい、あることを感じた。
わたしの直属の上司である総務課長、いや、総務部長がわたしに職務命令を出すのだが、
このお仕事内容、解せないなあ・・・と、思っていたが、イヤなことばかりではない。
葬儀は、人間の生死の区切りのセレモニーだ。
ドラマが、必ずある。

親戚と顔を合わせ、人の生死は、大きな流れの中の一部分、一区間だと感じた。
家に帰ってきて、前にわたしが義母から聞き書きした「親戚関連図」をじーーっと見て研究。
ふむふむ、あの人は、こーで、この人は、あーで。あーなって、こーなって、そーなって。
その親が、こーで、兄弟があーで、あそこに嫁に行って、あっちから婿に来て・・・。
こんなに、ひとつの限定された関わりがあり、めんめんと続いているのであれば・・・。
親戚って、結束が固くなってもわかるような気がするなあ・・・と、つくづく思った。

誰一人として道を踏み外すことなく。
特別、華々しい花火はいらない。
(花火は、冠婚葬祭だけ。今では、そのうちの、2~3つぐらい)
案外、目立たない地味なことだけれど、普通に生活し続けることって、カンタンなようで、カンタンでない。
意味がないなようで、意味がある。

で、それで、なにかイイことがあるかは、別として。
単なる「『絆』の確認作業」のような気にもなったが。
その絆も、お年寄りたちが強く思っているかも知れないが、
わたしのような中途半端な中堅・総務部員では、まだまだゆらゆら、固まりきっていない。
ましてや、若い世代になると、どうだろう?
ゆらゆらのまま、ゆらゆらを伝えて、次世代には、また次世代的発想で、やってもらうのだろうか。

しかし、地元、地域から一歩も出たことのない人々は、親や、じいさま、ばあさま、親戚から言われ続けたりして、
若くても、魂のどこかに、ででんと「なにか」が、位置し育っているように思う。
地域から出ていても、遠隔操作されているかのごとく、「なにか」は作用しているように思う。
それを取り入れ続けるのか、断ち切るのか、適当に間引きながら、とりあえず続けるのか、
おのおの家の考え方だろう。

べつに、選挙に出るわけじゃなし、仮に選挙に出たとしても、たいしたバックアップ力もないし、
組織票や地元票も、たいしてつながるわけじゃなし。
そんな、目に見える、はっきりわかるご利益(ごりやく)的なものではなく、
こころのつながりなのだろう。
時代の波で、切り離された「核家族」とは、逆方向のものだろうか。

親戚づきあいが遠のく家族は、ますます核家族化し、家族の中でも分裂、個体化して散ってゆく。
(あるいは、個人主義の徹底、浸透)
従来の親戚づきあいは、お年寄りが亡くなっていき、形式を重んじた慣習は減り、
新しいゆるやかな血縁や親戚との絆が生まれることだろう。

いずれにしても、日ごろは別生活、「葬」でだけ、結束集会。

※補足説明をすると、
冠婚葬祭のうち、「冠」は、とっくになくなり、
「婚」も最近は仲人さんも立てない、遠い親戚はあまり呼ばない、個人の「活動」を軸にしたものを多く見る。
「祭」は、ちょっと衰退??(よく知らない)
「葬」だけは、根強く残ってはいるものの、家族葬など、個人の価値観により、かたちは柔軟になっている。


総務のお仕事、仕事内容を再チェックし、見直しを図り、
時代の流れに応じて対応していきたいものである。
総務部がある経営母体、会社そのものの事業内容も、見直しが必要かも。

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総務部のお仕事

2013-08-28 | お付き合い

またまたお葬式に出席することになった。

式場が、遠い・・・。

といっても、今回はまだマシで、何時間も電車に揺られ、延々・・・とまではいかないが。
でも、県をまたぎ、片道1時間半以上はかかる。
(徒歩~バス~電車2本乗り継ぎ~タクシー)
朝の早くから用意して・・・あああ。

今度は、顔を知っている人。遠い遠い親戚だ。
法事やお葬式で、数回ちらと顔を合わせたことがあるので、顔は知っている。
話したことはないけれど。

以前、半年の間に3回連続列席した、遠い遠い遠い遠い親戚は、
[夫(義理)の、オバの、夫(義理)の、兄弟やその配偶者(義理)]
会場も、遠く遠く遠く、それはそれはそれは、イヤになった。
もっとすごいのもある。
[夫(義理)の、オバの、息子の、妻(義理)の、親]
それぞれお互いに、住んでいる場所もかけ離れた遠くの場所(聞くまで、どこに住んでいるのかも知らない)、
日ごろの付き合いはもちろん全くまるでしてないし、
顔も名前も、なにをしている人なのかも、列席当日まで知らない。

あまり近くない親戚でも、お世話になった人とか、小さい時から知っている人、つながりがある人なら、
感情移入できる。
が・・・当日、はじめてお顔を拝見する人には、感情移入のしようがない。

・・・・・
自分の葬式は、前もって、遺言しておきたい。
終活スタート。
白洲次郎が、葬式無用だか、戒名無用だか、言ってた。
自分の遺志としては、「葬式いらん」、だが、残された家族の社会的立場もあるだろうし。
「わたしは、出来れば葬式は家族葬でこじんまり、
他県から、『あああ・・・遠い・・・(距離も、関係も付き合いも・・・)』とか思われて来ていただきたくない。
でも、残った皆の好きにしてちょうだい」
という柔軟性のある遺言にしておこう。

それにしても。
すべての用事をキャンセルして、ああ、お葬式って、辛い・・・。
義理の関係なもんで、義務感のみ。ノリが、いたって悪い。感情移入ゼロ。

地元議員さんなら、ここぞとPR活動の場とばかりに顔を出すだろうけれど。
総務部の仕事だと思って、頑張って行って来よう。

 

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透視能力

2013-08-26 | 日々のこと

わたしは、観察力が鋭いらしい。
無意識のうちに、ひとの行動を見て、心理を分析してしまう。
目に入るだけ、気づくだけ、行動のデータを集めるだけならまだしも、
家に持ち帰り、多くの行動サンプルから、一定の法則を見出そうとしてしまう。

重ねた年齢とともに、サンプル数も蓄積され、あまり考えなくても、
瞬時に過去のデータから似たようなサンプルを自動検索し、これまた自動解析してしまう。
こころの内を想像してしまう。
手に取るように、深層心理を読み解いてしまったような気になる。
(それを「思い過ごし」「考え過ぎ」ともいう)

自分では、それに振り回されることがあるので、やめたいのだが、勝手に目が、脳が、動いてしまう。


ときどき、霊界の方々の姿が見えてしまう、と仰る方がいる。
わたしは、実際に、直接、二人の方(Aさん、Bさん)に、その手の話を聞いた。

これとは逆に、あの世ではなく、現世の人の生き方や、背景、性格、こころが、読み取れてしまう、
「見えるんです」・・・と、
そういう人(Cさん)の話も、直に、お伺いしたことがある。
外見に表れるのか、わたしは、一言も話していない段階から、
わたしそのものをぴたっと言い当てられてしまった。

思わず怖くなってしまった・・・というわけでもなく、
「どんぴしゃり。またか~。なんで、わたしって、こうも、言い当てられてしまうんだろう」
と、外側バリアを張っていない自分の無防備ぶりに、へきへきした。

そう思ったが、あるいは、ひょっとして、言い当てた人(Cさん)が、特殊能力を持っているのかも知れない。


とある霊感のある人(Aさん)に、あることを言い当てられた。
まったく、その手の話題を微塵もしていなかったのに、いきなり、びしっと言われて、度肝を抜いた。
偶然か、カマかけているんだろう、なんてこともあり得るし、微笑んで、ごまかしたが。
ただ、突っ込んで、聞かなかった。
「なぜ? どうしてわかります?」などと。
そうすると、詳しい話をしなければいけないし、わたしは、その気がない。
なので、どきっとしても、「どうです? 図星でしょう?」と突っ込まれても、
「ははは」と笑って、あとは、知らんぶりをする。

これが、深く長く思い悩んでいることなら、そっちの道にはまり込んでしまうところだろう。
が、幸いなことに、わたしには、たいした悩みがない。(悩みを感じる脳が、生まれつき鈍い)
それに、その手の突っ込んだ話は、ノーさんきゅ。
科学で解明できない話を、あれこれ科学的根拠もないのに、他人に、ぶしつけに押し付けるのは、暑苦しい。


わたしは、人に、自分のこころに入ってこられるのを好まない。
わたしのこころには、わたし一人だけが入るのに、きちきちいっぱいである。
なので、定員1名のところを、ぎゅーぎゅーと押し入られそうになると、席を替わる。
別のところに、自分の場所を作る。

こころの深いところはそうでも、
普段は社交的で、女性仲間のデパートの買い物や、ランチにはよくお付き合いする。
というのは、まったくの嘘で、そういうことは、大嫌い。
こころは閉ざしていても、いっしょにお付き合いしている人は、おそらくなにか企みや魂胆があるのだろう。
こころを閉ざしていない人は、たんに大勢で楽しいのだろう。
それだけだ。

べつに、わたしは人間嫌いなわけではない。
孤独が好きなわけでもない。
冷徹無慈悲でもない。
情や恩は、しっかり感じ持つし、
涙もろいし、関係ないひとや、コトにでも、心動かされ、うるうるする。
芯の部分はウエットである。
が、クールでもある。

両極端が、内包され、同時進行している。
これを人間界では、「矛盾」と言います。(あ、これ、わたしが勝手に言ってるだけ)

「日本人の精神の奥底には、そういうことがあります」
と、偉いお坊さんが仰るのを聞いて、すっとこころが、軽くなった。
あ~ら、わたしって、典型的日本人だったのね、と。
この精神文化は、西洋とは異なるそうだ。
これは、宗教観にもよるところが大きい。
そして、長い歴史にも示されている。

詳しく書くと、寝てしまわれる方々が続出しても困るので、
(朝、起きたばかりなのに、もうはや、朝寝のお手伝い、睡眠導入・誘発になるのは、気が引ける)

ここらあたりで、おしまいにします。

 

 

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正しい無駄な時間の過ごし方

2013-08-25 | 日々のこと

一日のなんと短いことか。
超超超久しぶりに、一日中パソコンにかじりついていた。
ほんとうに、久しぶりだ。

で、わかったことは・・・
思いっきり、誰にも振り回されずに好きなことができて、よかった・・・
という反面、なんの創造的なことも、建設的なこともせず、カラダもアタマも動かさず、
疲労が、たまった。

それがわかっただけでも、けっこうなことだ。
プラス思考。
これって、楽天家、考えなし。あほ。
あほって、すばらしい。落ち込むこともあるが、時には自分を救う。
正確には、半々だ。

わたしは、メリハリの人間である。
静と動。
真面目と不真面目。

ま逆のことをして、タメを作るのだ。
次の動きを大きくする、強くするため、反動をつけるため、
パワーを蓄積、醸成させる。

・・・・・

で、「時間があるときに、読んでください」と言われていた、新作小説、
そういうのがあったなあ・・・と、読んでみた。

ああ、・・・この人は・・・わたしが、だらだらと過ごしている間に、
こんなにも苦しんで、こんなにいい作品を創り上げていたのか・・・。
とても感動した。
こういうとメチャクチャ失礼だが、その作品を書いた人は、どちらかというと、きちんと基本をこなすタイプ。
抜け目なくお勉強する、ちゃっかり優等生タイプである。
抜け目なく、という部分が、特徴。
くそ真面目な真の優等生ではない。
(ただし、羽目ははずさず、慎重、常識派。きちんと派。
奇想天外な大胆な発想や、ダイナミックなあら削りのハイリスク・ハイリターンの未知数みたいな
そういうものを持ち合わせるタイプではない)
要領のいい、アタマのいい人なので、ちょいっと勉強すると、すぐに点が稼げる。
その上、ポイントをおさえた勉強をするので、実際の努力よりも結果が、ぐんと見栄えがする。
アタマは、もともと良い上に、要領の良さが加わると、あまり真面目に必死で根を詰めて頑張らばなくても、
そこそこのことは、できる。
そういう人生を送ってこられた方である。
(うわ~。すごい上から目線。わたしが要領が悪いドジ人生なので、正反対)

でも・・・今回は、苦戦されていた。
が、その結果が、作品に表れていた。

人間、やはり、苦労しないと、汗を流さないと、要領だけで行けるのは、ある程度のところまでだ・・・
そう感じた。
頑張ったなあ・・・・・。
今までの中で、ダントツ、良い作品だった。

あああ・・・
それに引き換え、わたしは・・・
趣味関係の日記をぐだぐだ書いたり、コメントのやりとりしたり、人の日記やコメントを読んだり、
ただただ、だらだらしていただけの1日。
そして、最近、頑張ってない。頑張れてない。

やはり気合をいれて、踏ん張るときには踏ん張らないと、モノにならない。
机の前でじっと、「がんばるぞ」とキー入力しているだけでは、まったく、ま~~~ったく、意味がない。

(何回、同じことを書き綴っているやら・・・)

さあ、わたし、頑張るぞっ!!

 

 

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短文志願

2013-08-24 | ブログ

わたしも5行ぐらいで、その日の気持ちを綴るブログにしたいな。

と思うのだが、あれやらこれや、つい、付け足してしまう。
で、長々、うだうだ、だらだらに、なってしまう。

その書き方に、生き方が現れている。

 

面白おかしく大げさに書いたほうが、ブログを大勢の人に読んでもらえる・・・

そういうことを言う、たいした文才もないブロガーもいるそうだ。(誰のことでしょ~ね~??)
で、ちなみに、文才って、なに?

真摯にブログに向かうのは良いことだ。
だが、人にはいろんな事情というものがあって・・・スタンスも違う。好みも違う。
共通する部分だけを、吸収すればいいと思っている。

まったく共通するものがない人もいるし、ひとつひとつが気に入らない人もいる。
一人の人間の、すべてを気に入るなんてことは、ありえない。


さて、子供のことでも書こうか。

過保護か、放任か。
子供が自立した後も、親子の血はつながっている。
今度は、老いると親が自立的生活ができなくて、要支援とかになる。(ちょっと意味は違うけれど)
立場が逆転して、子が親に対して、過保護か、放任か、みたいなことになってくる。

ちなみに、ママに大切にされた過保護人間。
優しさを持つ反面、厳しさがない。
なんでも一長一短だ。

 

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正しい老け方

2013-08-23 | 日々のこと

小説の新作が仕上がったので、読んでほしいと知人に頼まれた。
が、まだ読んでいない。

はやく読んで、感想を書かねばならない・・・プレッシャー。

図書館で本を借りて、返却期間が気になるのと同じ。
「時間があるときに、読んでください」と、添えてあるが、時間があるようで、ないようで。
気合を入れて書き上げた力作らしいので、ご本人は、感想が気になるのだろうけれど。

さて、唐突に話が変わって・・・

何を書こうか・・・・

子供のこと、書いてみようかな。
いまいち、乗る気なし。
家族のことを書くと、なぜか(偶然かも知れないが)訪問数が減る。


で、突然・・・なんなんですが・・・

老人ホームでの、自分の過ごし方が、見えた。
ロッキングチェアにゆらり揺られ、居眠り。
美しいものを見て過ごす。
大切な大好きなものを眺め、うっとり。

が、「あ、ない。わたしのお気に入りの、コレクションの指輪がない!!
誰かに盗られた~」
大騒ぎするわたしに、スタッフのみなさんは、冷静そのもの。

「はいはい、スローさん。今、みんなで探してますからね。絶対に見つかりますよ」
やさしく、なだめてくれる。
このパターンは、お年寄りの典型的症状なので、スタッフにとっては、日常茶飯事のことだろう。
わたしは、必死の形相で、「わたしの、・・・わたしの、指輪・・・あれは、命よりも大事なのよ」
と、うわ言のように言う。
スタッフさんは、「はいはい、そうですね、すばらしい指輪なんでしょうね。明日、きっと出てきますよ」
と、始終にこやか。

翌朝、わたしは、またロッキングチェアーで、大好きなお気に入りのモノを愛しむ。
「このネックレスは・・・ね。
わたしが、嫁に行ったとき・・・大切に育ててくれた両親がくれたものなのよ」

ワンコインショップか、100円ショップで買い揃えたガラスのオモチャを
娘たちが、宝石箱に入れて、部屋に持ち込んでくれている。
「はい、おかあさん、今日は、紫色の宝石がちりばめてあるブックカバーをプレゼント!」
今日の包装紙は、IKEYA。

ありがとう・・・
わたしは、にこにこ。
で、またまた
「わたしの大事な娘たちがくれた宝石ブックカバーを、誰かが盗った~」
と大騒ぎ。

スタッフたちは、微笑を絶やさず、「はいはい、また、明日、出てきますよ」

わたしは、おそらく食べ物を食べてないだの、なんだのは、あまり騒がないと思うが、
間違いなく、500パーセント、「大事なモノを盗られた~」と騒ぎそうだ。

宝石色のアメ玉を、きれいなボンボン入れに入れて、テーブルに置いておこうか。
食べてない~。盗られた~。
そう言っている自分のほっぺは、ぽこっとアメ玉状のふくらみが、ぽっこり。
口からは、ぽたぽた。宝石のしずく。
甘い涎で、ぺたべた、クマのぷーさんみたいになっていることだろう。

・・・
わたしが、書きたいのは、こんなことなんかじゃなくて、・・・
違うテーマなのに、・・・勝手にキーを打ってしまった。

「誰かが、わたしの指を押さえつけて、勝手にキーを打たせる~」
そういうわたしに、スタッフは、にこにこ。
「大丈夫ですよ。明日になると、また、ピアノのキーを打ってますよ」


わたしの老後(末期)は、芸術的でなければならない。

 

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黄金の不文律

2013-08-22 | 日々のこと

今日は、なんだか鼻歌気分。
時間的には、数分後と1時間後に迫る、ふたつのスケジュールに追い込まれているが。


それとはまた別に、このうだる暑さとはまた別に、
なんちゅーか、楽しい気分になっている。


それは、とある出来事があったからだ。

自分から能動的にとった行動が、うまくいった。
いつも、わたしは、受身で、自分で決められないまま、人に決めてもらっていた。
指示待ち状態だった。
それを、えいやっと、自分で決めて行動した。
周りに振り回されることなく、自分の意思、考えで。


たんなる思いつきではなく、いままでの失敗例をアタマの中でデータ化し、
失敗しないように、もともと少ない学習能力を無理やり駆使し、
試行錯誤の後に、ようやく生み出された行動パターン。
それが、昨日、見事に成功した。


特定個人の行動パターンの今までの実例をあげ、データ化し、分析。
こういう時は、こうなる。
ああいう時は、ああなる。
ああじゃない時は、ああじゃなくなる。
あれこれ、あれこれ。なんじゃら、かんじゃら。


じゃあ、こうしたい時は、どうすればいいか?
こうなってほしい時は、どうやればいいか?


アタマの中で、データ検索・・・ちゃかちゃかちゃか。


今回がうまくいったからといって、これからもうまくいくとは限らない。
10回に1回、うまくいくのかも知れないし、100回に1回うまくいくのかも知れない。
あるいは、誤作動、気まぐれで、うまくいったのかも知れない。


心理作戦。人のこころを行動から読み取る。
これって、人間を動かすときには、要だ。
行動心理学の原点。


このパターンを身に着けると、だれでも意のままに操縦することができる・・・はずだが・・・
無理。
教祖様が、マインドコントロールするみたいなわけには、いかない。
理屈をこねて、操縦したわけではないので。


いわば、行動ルールの把握。
喉が渇くと、水辺に行きたくなる、とか、
お腹いっぱいになると、眠くなる、とか、
音楽を聴くと、癒されるとか、元気が出るとか、
だまされないと思っている時ほど、だまされるとか、
頭ごなしに言われると、反発したくなるとか、
突き放されると、付いていきたくなる、
逃げられると、追いかける、とか・・・。


カラダと、こころ、脳は、結びつき、影響しあう。


心理と行動のパターンを分析、システム化して、あらゆることに当てはめると、
うまくいくんだろう。
そういうノウハウ本が、よく出回っている。


ノウハウ本に載っているとおりのことをやってみて、成功するよりも、
自分独自のデータと分析の結果、手に入れた方法で、成功するほうが、感慨もひとしおだ。


でも、わたしは・・・ケチで、器が小さいので、
その黄金のノウハウの一部を、ここに、披露いたしません。
みなさんも、そういう操縦法の実例の一つや二つは、お持ちでしょうが。


あきらめないこころ、忍耐力があれば、きっと黄金の不文律は、見つかるはず。
どんなちっぽけなことでも、見つかると、楽しいものです。




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操縦不可能

2013-08-20 | 日々のこと

人って、相性があるんだあなと、つくづく思う。
身近な人の悪口、愚痴を連ねてあるブログを読むと、
同情できるものや、共感できるものもあるが、
まったく、え?どこが、だめなの?というものもある。

あら、この非難されている人の行動、わたしに、似てる~、
という、自分にこたえる痛~いものもある。

根本的なとことで、価値観が違っていたり、生理的に合わないと、すべてが合わないのだろう。
利害関係が発生すると、ますます許せないのだろう。

しかしながら、
人にも自分にも長所も欠点もあり、自分は許せても、人は許せないなんて、おかしい。
よほど、自分が完璧でないと、人のことをとやかく言えない。
完璧な人と付き合って、いつも、その人に文句を言われるようでは、煙たくて近寄りたくない。
完璧な人は、他の完璧でない人に腹が立つだろうけれど、
完璧なところが、じつは、完璧すぎて潔癖症すぎて、欠点かも知れない。
じゃあ、完璧な人同士で付き合えばいい。
そういうグループ、こわそう。
どうやって、完璧な人同士、調和を図るのだろう?
完璧だから、きっと、思いやりや、協調も、完璧なのだろう。

不完全な人同士が、お互いに補い合って進むのが、よろしいかと。
一方的に、完璧な人が、不完全な人の尻拭いをするのは、疲れるかと。
ギブアンドテイクでないと、続かない。

距離感にもよる。
小さなアラまで隅々、見えるほど、近づきすぎない、
そのアラと、ひんぱんに接しないことも、
人間関係の摩擦を少なくするコツだ。

びたっと、くっついて暮らしていたり、職場で毎日、顔をあわせていると、
すごいストレスだろう。
職場も家も、いつもいっしょ、なんてのも、スゴそう。
あるいは、職場がなくて、家オンリー、ずーーーーっといっしょ、なんていうのは、
亭主在宅症候群だかなんだか知らないが、定年後の夫婦を襲う、大恐怖の展開のようだ。

・・・・・

ちなみに、
人は、うんと年を取ると、嫌われて、肉親から「死んでくれ」、と心底、思われないと、死ねないらしい。
ある人が、そう言っていた。
「お願いだから、死んでくれ」
その人はそう強く念じて、数年後に老親が亡くなったそうだ。

一生懸命、仕事をしながら遠距離介護をされている方も知っている。
それぞれに、皆、大変だ。

自分の死に方なんて、自分で選択できない。(自殺はだめです)
今までの生き様が、死に様に出るというが、そんなことはない。
その時にならないと、わからない。
いくつものパターンがある。

孫たちと和やかに会話していて、突然、なんの予兆もなく、すっと息を引き取ったおばあさんも、いる。
まるで、御伽噺のようだが、実際、そんな人もいる。
その人が、素晴らしい人生を送っていたかどうかは知らないが、
少なくとも、その最期を聞いただけで、どんな人生だったにせよ、素晴らしい人生のように感じる。

新しい生命が宿り、人が生まれ、老いた人たちがこの世を去っていく。
そんな当たり前のことなのに、それぞれの人生、それぞれの個性、それぞれの生き方がある。
生まれた喜びは、なにようにも変えがたいが、
終着駅は、自分で操作できないだけに、ほんとうに、深くて重い。

家族は、おもいっきり振り回される。

 

 

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