蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

脳ミソ、閉店

2016-06-25 | 老い

病気や怪我は、回復すると元にもどる・・・
かというと、何事も無かったかのような白紙状態のような、
完全、完璧に元通りにはならない。

療養中のことや、なぜ、病気・怪我をしたのか、原因は覚えている。
傷跡や既往症として残る。


朝、起きると、いつもなら白紙。ゼロの状態。
だが、今日は起きた時から、なぜか、マイナス。
気分はマイナスからのスタートである。
マイナスをとりあえず、ゼロまで引き上げなければならない。

良いと思っていたことが、すべて悪く思える。
光の当たる面から見ていたものが、逆方向からの景色に変わる。

離れていて調子が良かったものが、至近距離すぎて、受け入れられないことが多すぎて、バランスが崩れる。
しかしながら、それは、離れていて、壊れた部分がよく見えなかっただけで、近寄ってみると、どうやら壊れている部分があちこちに見受けられる。

血液型が異なる血液は、輸血できない。
自分と異なるものは、無理に受け入れると体調を崩し、病気になる。
ましてや、もはや修理のきかない、正常ではない壊れかかっているものは、わたしとは互換性がない。

異分子を、他のものと「薄める」、「混ぜる」、表紙を変えて「ごまかす」、「砕く」「溶かす」「揮発させる」・・・
なんらかの方法で、無理やり呑み込む。
さて、どうなるか。
こちらの体や精神が壊れる。

自己防衛策として、正常ではないものに対して、正常ではないと見なしてそれなりに対応する。


軽い頭痛に見舞われてきた。
ちょっと考えただけで、拒絶反応の後、今度は眠くなってきた。

学生時代から授業中は、ずっとそれ。
わからないことがあると、眠くなる。

わたしの脳は、なんとシンプルなんだろう。

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内出血

2016-06-24 | わたし

久しぶりに涙を流した。

疲れや、余裕のなさから出る、夫の言動。
モラハラ&パワハラ認定した。
精神的暴力である。
ただし、本人に自覚なし。

お互い、疲労困憊のせいで、相手を思いやる気持ちがない。
背景は、よくわかっている。

人間は、極限状況に陥った時、本性が出る。
その本性は、いつもの顔とは真逆だったりする。

わたしは、極限状況に陥ると、凪状態になる。
脳波が停止する。
と同時に感情も停止する。
(これって、いつもとあまり変わらない)

意識不明の眠っているだけの人が、涙を流していることがある。
あるいは、犬や馬が涙を流している。
そんなかんじか、わたしの涙。

乾いた涙ではなく(あたりまえ、涙だから)
かといって、濃い涙でもない。

淡々粛々と自分で受け止める。
静かな深い哀しみと共生する。

別に夫に殺意を抱くでもなし、憎しみを募らせるでもなし。
ささーっと感情が乾いていく。

この人とは、こういう関係性、シチュエーションであるのは、何十年も前の最初からわかっている。
べつに今更、驚くことでもない。
再確認するだけだ。

自分から血が流れ出るのを見て、「ああ、血が出てるなあ」と思うだけ。
痛いのは、出血しているから痛いのであって、原因あっての結果である。
止血薬を打つのか、鎮痛剤を服用するのか、まあ、どうにかしよう。

いずれ回復すると、事態が改善するよう次善策を打つ予定。
今は、待ちの一手。
これは、わたしの戦法。
得意技でもある。

 回復すると、日常のルーチンワークに忙殺され痛みを忘れてしまうことは、よくあることである。
・・・で、次善策を練る機会を失う。
その場しのぎで逃げ切り、次回に備える手を打つ努力をしない。
なので、体験から学ぶ学習能力が身につきにくい。

楽天家なのか、アホなのか。
身体とアタマが、思いのほかタフなのかも知れない。
ひょっとして、タフさはどんどん増強されているのかも知れない。
あるは、鈍化しているだけか。

今日が過ぎれば、普通に明日が来る。
単純な繰り返しは、なにかを創り上げるようだ。

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宗教より健康

2016-06-20 | 健康
私にとって、幸せな1日は、夫が不在の自宅での、のんびりした自分時間です。
一緒だと、なぜか、とたんに頭の何処彼処が、ぶちっ、ぶちっと切れます。
(かと言って、永遠に居なくなると困ります)
そういう奥さんたちは、多いようです。
ダンスの女性更衣室でも、皆さんよく言っています。

(※ここで、またまた、「しょうゆこと」と和室から連呼しています。
気まぐれな、電池微量の醤油台オモチャですが、どうやらタイミングがあるようです)

なにも私や周りの人だけでなく、日本人は、このパターンが非常に多いと見られます。
旦那さんたちは、努力して外出するか、あるいは奥さんたちが外出するそうです。
おかしな日本人の生活パターンです。

4日ほど前、JRに乗って窓から見える景色の一つ。
誰もいない線路沿いの小さな公園のベンチに、ひとりぽつんと初老と思われる男性がひっそり座っていました。
なにをするでもなく。
海が見えたり、山が見えたり、景色が良いわけでもなく。むき出しの土の地面に雑草の生えた、あまりぱっとしない密集地街の小さな公園です。
あの男性は、なにもすることがない、そして、家には居づらいのだろうと想像しました。
あれで近寄ると、意外に、音楽や落語を聴いていたり、英語や中国語のヒヤリングでもしているのなら、充実の時間でしょう。
そうでなければ、あの人の人生、想像してしまいます。

なにが幸せか、ですが、自分の意思で選択できる行動ができること。
能動的な人生を送ることが幸せだと感じます。
宗教も生きがいになるのなら、けっこうなことです。
ただし、他人や身内を巻きこまないこと。家のお金を勝手に注ぎ込まないこと。

勧誘されるのは、私は大嫌いです。
なぜ、信者さんは自己完結しないのでしょう。
自分の宗教を押し付ける人とは、近づきたくありません。
宗教で平和を求めるといいながら、かたや、宗教は戦争を引き起こします。

どの宗教でも、どの宗派でも、途中までは同じです。
心が満たされない現状を解説し、問題を提起し、意識を喚起させ解決へと向かうプレゼンテーションのあと、さあ、入って下さい、と入信プッシュがすごいです。
勧誘人数が増えると、その宗派で偉くなれて、出世できるのでしょうか。

かといって、現在あるお墓の墓石を蹴っ飛ばす勇気もありません。
化けて出てこられたら、怖いです。

健康的に、したいことができるのは、本当に幸せな時間です。
好きなことができなくなると、くさくさして落ち着かず、近所をうろうろする、変な人として薄気味悪がられたら困ります。
それなら、家の中で死んだようにじっとしているほうがマシです。

身体の健康が心の健康を呼び起こすようです。
健康に感謝、家族に感謝です。

健康を失った時に、初めて、自分の心と真剣に向き合うと思われます。
にわか入信したとしても、一瞬でも苦しみから逃れられ、救われたらそれでいいです。
ステージは病床からの祈りとなることでしょう。


神様からのプレゼント

2016-06-18 | 老い

この一週間。

介護デビュー・ぴかぴか新人であるわたしは、介護や医療の現場で、新人の目で色々見た。
わたし自身、自分は当事者であり、当事者ではない。

一番、辛くて、一番、楽なのは、医療を受け、介護を受ける「本人」だ。

自分の意思でどうすることもできない、自然界の生命体としての摂理がある。

神様は、厳しくて、素晴らしいものをプレゼントしてくれる。
生命と惚け。

生命の保証期限が過ぎた後は、「惚け」を追加贈与する。

耐用年数が過ぎたからといって、故障はしても、突然、破壊されるわけでも止まるわけでもない。
しかしながら、部品は、生産中止になっているので、あとは、代用品などを使って、自分でどれだけ補えるかである。


すっかり新しいものと入れ替える、一新リニューアルは、医学ではなく、宗教分野になりそうだ。
医学とテクノロジーが融合した、科学の世界では、永遠に生きる方法が研究、開発されていることだろう。

 

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シニアのファッション、こういうのは好き

2016-06-17 | ファッション
仕事関係者と待ち合わせをした。
その道のプロ、現役。
お二人とも70歳はとうに過ぎておられる。

しかし、駅の改札口を出たところで待っていたら、二人とも群を抜いて目立っていた。
そんじょそこらの、田舎のじいちゃんとは、まったく違う。

なにが違うんだろう、と考えてみた。

一、見た目。ファッション。

じいさんのファッションではない。
一人は、シルキー・マロンピンク・トマトベージュみたいな(そんな色があるのだろうか?)、光沢のある、美しい、ハンフリー・ボガートがかぶるような帽子(中折れ帽?)、白地にブルーのストライプのジャケット、色彩の鮮やかなメリハリも相まって、遠くからでも、ぱっと目を引く。
もう一人は、生成りの麻ジャケットをさりげなく脱ぐと、その下は、なんと、かわいらしく、涼しげな水色の7分袖、シャリ感のある麻シャツ。
あの年齢で、袖口のボタンが印象的な、キュートな7分袖には、脱帽した。
ちょっと長めの、脂っぽくないシルバーヘアがいい味を出し、脱力感をさらっと漂わせていた。


二、コンテンツ・中身
学歴、キャリア、仕事実績から醸し出るオーラ。
リタイア世代ではあるものの、まだ現役なので、このオーラは続行中。


三、プラスのオーラ
内面から出る、人格や性格、ポリシーが、重ねた年齢を味方に付け、さりげなく嫌味なく出ている。
穏やかな表情がまたなんとも言えない。

成功体験を積んでも、年月を積み重ねることで、力まない、まろやかな落ち着いた品格を形成していた。

仕事は、豊富なキャリアと、静かながらも燃え続ける情熱。
濃密であるけれど、薄味仕上げ。
お年寄りになっても、こういうお年寄りだと、歳を取るのが嫌ではなくなる。


野球帽にポロシャツ、ジーンズ、スニーカーの明るいおじいちゃんとはまた違う、爽やかなシニアである。


介護デビュー

2016-06-17 | 老い
今週アタマ、midnightから介護デビューしました。
わたし、ピカピカの新人です。
この一週間、救急車搬送された病院に、遠路、日参しています。

介護のお相手は、姑。
愛と憎しみと涙のステージ、はじまり、はじまり〜。

老いの足音

2016-06-06 | 老い

どなたかが引っ張り出してきてくれた、3年前に書いた自分のブログ記事を読んだ。
老化に対する不安に脅えているかんじだった・・・が。
3年経つと、けっこう堂々としてきている。

動物、植物、・・・生物は年を取るのである。人間だけが例外ではない。
自然の摂理に逆らおうとするのは、悪あがきだ。
自分の老いの現実を認めたくない人を見ると、気持ちはわからないでもないが、
人に言われて気が付くのではなく、はやく自分で気づいてくれたほうが、見苦しくなくてよい。
わたしは、みっともないと感じる。
もっと現実を素直に受け止めると楽になる。

科学の進歩で、老化はスローダウンしているものの、究極のところは同じである。

かといって、あまり、年寄りじみているのは、自分の将来として、好きになれない。
理想の年寄りというものがある。

若い人と年寄りでは、世代ギャップがある。
若い人は、年寄りを理解できないだろう。
しかし、年寄りは、昔、若かったので、自分のことを振り返ると、若者を理解できる。
理解は相互ではなく、一方通行になるので、年寄りのほうが、損だ。


土曜日の夜、都心の、ある開放されたスペース。
電車の大きな主要駅の真上に、風通しのよい、憩いの場がある。
そこには、若い人ばかりがいた。
年寄りは、ゼロ。
なんで、こんなに偏っているのだろう、とわたしは不思議だった。

年寄りは、いずこに?
年寄りは、毎日、日曜日なので、なにも土曜日に、しかもわざわざ夜に、都心には出てこないのだろう。
その時間帯は、家にいて、そろそろお休みの時間。
わいわい集団で楽しむグループも、そんな日時には、とっくに解散しているのだろう。

一方、平日の、都心、あるいは、主要駅近くにある、ダンス会場。
参加している男性(年配)が、嘆く。
「いったい、若い女性は、どこに行っているんだ? なぜ、ここには、一人もいない?」
これには、笑えた。
ある意味、悲痛な叫びである。

世代によって、出没する場所が違うようだ。
同じ時間帯でも、お店が2軒並んでいたとすると、1軒は、若い女性ばかり、もう1軒は、おっさんばかり。
まったく交わらない。
この傾向は、なんだろう。
嗜好が違うからか。

しかし、年寄りばかり、という店は、あまりないように思う。
なかには、そんな店もあるが。都心には見かけない。
都心には刺激があり、若者は刺激を求めるが、年寄りは刺激より、安らぎを求めるのだろう。


じつは、わたしは、いまのところ、まだ50代である。
ブログ村では「エッセー」のほかに、「60代の生き方」カテゴリーにも登録しているが、近々、仲間入りなので、先取りした。
この年齢は、中年の部類に(無理やり押し込めると)入るのだろうが、シニアの年齢になってきている。
あるサイトで、50歳以上をシニアと呼んでいるが、わたしは50歳になったばかりの頃は、そうとうの抵抗があった。
だれも、50歳ではシニアだとは感じないのではないだろうか。
運営者が、あまりシニアの実態を知らない若い人なのではないかと想像した。

(参考までに、こんなかんじの解説もありました)

そもそもシニアという言葉、あいまいに使っている。
シルバーと似たような感覚。
50歳と75歳は、えらく違う。85歳は、もっと違う。
若い人から見れは、どれもいっしょ、50歩100歩なのだろうけれど。

若い人と年寄りが混在しているのは、老人施設や病院ぐらいなものか。
年寄りのお世話を若い人がする、というもの。
若い人に年寄りが群がっていく、という図は、あまり想像できない。
(逆パターンとして、高齢富裕層に群がるビジネスならありえるが)
やはり、同世代が集まるところが、各世代、居心地が良いと思われる。
適度に混じるのは、仕事や、ボランティア、自治会???


わたしは、夜になると、早く家に帰ってゆっくりしたい、と思う。
若い人でも、仕事で疲れていると同じ思いだろう。

最近は、平日でも、家に居ることがあると、とても気持ちが和む。
くつろぎ空間で、幸せ気分を満喫している。
家が大好きな、家っ子になったようだ。
しかも、家には誰も居ないのが条件。
娘は、まあ居てもいいが、もう一人の、テレビを大音量でガンガンかける人物は、NG。
静寂の時をぶっ壊し、常にテレビが垂れ流しの、うるさいだけの、イラつきを抑え耐える場所となる。
(その人物が居ない間の)家が、好き。
ちょっと(おおいに)課題は抱えているものの、わたしは落ち着くようになったということだ。

見かけがどうのこうの、よりも、精神的な安定が不可欠である。
もちろん、健康な体を維持できるのは、幸せだ。
今後、体力的にも衰えるのは、いたしかたない。
じわりじわりと足音を立てずに忍び寄る老化の予告編をちらりと見つつ、
老いの前夜祭を楽しんでいるかんじだろうか。

 

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注釈
文中、「お年寄り」ではなく、「年寄り」と表現しているのは、自分も含めているからです。

 


一期一会の顔

2016-06-05 | 思い出

フランス、ドイツでは、えらい雨、らしい。
セーヌ川が氾濫などとは、想像もできない。
ずいぶん前のいつか、フランスに行った時も、
「このラインまで水が浸かりました」と、建物に残る浸った跡を指して、説明を受けた。
先月、ドイツに行ったが、豪雨に遭わなくて幸いだった。

 

ハナシは、ごろりと変わる。

わたしの年齢、見かけで、「初対面の人とお会いする」と仮定する。
当然、よほどの何か、大きな取引や儲け話でも持ちかけない限り、なんの魅力もインパクトもない。

ましてや、男性であれば、ご縁があるのは、うら若き女性、妙齢の美女が好ましい。
しかも、わたしは、典型的日本人。
自分をアピールしない。
(日本じゃないんだから、当然ながら、もの言わなければ誰も自分をわかってくれないのに)
この年齢、容姿、語学力、発言力で、なんのアピールもしないと、誰の目になど映らないであろう。
ふと、わたしと接していたにもかかわらず、わたしのことなど、目に映っていなかったと思われる人々、シーンが、目に浮かんだ。

それはそれで、当たり前のことであり、べつにショックでもなんでもない。
わたしは、自分というものをとても客観的に見ている。

なにも特徴のない、人になんの働きかけもしないで、まして、自分がなぜ、そこにいるのか、なぜ、その人と対面しているのか、
そういう説明もなく(仮にあったとしても、興味を抱かれないと思うが)
そんな自分をアピールすることは、よほどのシチュエーションや熱意、意図がないと無理だろうと感じる。


5年前、パリの蚤の市で、商品の交渉をしている、すごいオーラを放つ、うら若き女性を見た。
おそらく、バイヤーであろうと想像する。
「パリで、一人で仕事やっているんだ!!」オーラである。
一生懸命の気持ちが全面に出て、攻撃的でもあり、必要以上に無理しているような、かえってキャパのなさを感じた。

わたしは、生まれてから今まで、本当の意味での深刻な切羽詰った状況に面したことがない。(鈍感なせいもある)
なので、オーラはない。
さびしいかといえば、たいして、さびしくない。
いまさら、殿方もさることながら、人にアピールしたいとは思わないし、相手がなにも感じないのは、お互い、無関心さを示す距離感の現れだと思う。

もう少し若い頃、アメリカにほんのちょっとだけ行った時は、ほんのちょっと、人を寄せ付けないオーラがしていた(らしい)。
本人は、必死で頑張っているのである。
でも、結局は、最後は、依存モードまるだしで、人様の好意に甘える格好になってしまった。
その頃には、人を寄せ付けないオーラは、完全になくなっていたことだろう。
あのオーラは、虚勢だったように思う。

蚤の市のバイヤー女性も、相手に見くびられないよう、必死で虚勢を張っていたのかも知れない。
それが、まぶしい、とか、輝いている、とか、素敵だ、とは思わず、
なんだか、追い込まれた悲壮感のようなものと、負けん気とが合わさったような、痛々しいほどであった。
商売には、それぐらいは必要なんだろう。


わたしは無理にアピールすることもなく、同じ周波数を傍受する人だけ、わかってくれたらよいと思っている。
決して、ぱっと一目見て、どうこうというタイプではない。
長い時間がかかる。
興味を示してくれない人に、興味を示してもらおうと、あえて働きかけるのは、ビジネスだけでいい。
興味を感じてもらえないということは、同じものを持っていないということで、
それから共有する時間が無駄になる前に、事前の面談で振り落とされているようなものだ。

もし、何度か、会う機会が重なれば、会話も増え、最初のイメージとは違うこともあるだろうが、
一期一会の場合は、そんなこともない。

まあ、それで、いいのではないか。
ふと思い出す、顔、顔。ワンシーン。
一期一会も、あっさりしていて、うす塩味仕立てで、
こってりした濃厚な思い出の合間、合間の、箸休めの彩には悪くない。

 

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おばあちゃまになりたい

2016-06-04 | ブログ

エッセーおばあちゃまの、ある記事を読んで、衝撃を受けた。
幸福に関するものである。偉人の文言がそえられている。
数日が経って、ちょっと部分的に内容を忘れた。
認知症状が日常。
また、おばあちゃまブログに飛んでいき、知りたかった忘れていたパーツをを確認した。
そのページに、付箋を貼って、バイブルにしたい。


偉人はすばらしい。
凡人ではありえない名句を遺す。
そういう深いことばを読むのは大好きである。
偉人の文章を紹介してくれる記事を部分的に拾い読みする。
省エネのええとこどり。
努力ゼロで、良い教えに接することができる。

おばあちゃまにしてみると、「もう何度も読んだ本だから、どなたか、お読みになるんだったらどうぞ」
と、軒下ガレージセールのノリだろう。
「ご自由にお取りください」、というかんじで、「ご自由にお読みください」。


わたしは、クセがある曲者である。
ニオイが、きつい。
おばあちゃまのお年頃になるまでに、取れたらよいのだが、このニオイ、さらにキツくなっているかも知れない。

今日も、どなたかが引っ張り出してくれた過去・蝶・記事を読む。
自分ながら、いいこと書いてるなあ・・・と感動していたら、、、
ああ、最後あたりで、キツいニオイを発して自滅していた。
あのニオイさえなければ、高得点をあげてもよいのだが、あのトドメで、すべてパー。

「嫌な奴」臭を放っていた。

こんなことがあったの、ヘマしているでしょ、わたしってあほでしょ~
わたしたち、同じだよねー、あ、ごめん、ごめん、わたしみたいなあほと同じなわけないよね~、
そう言っておきながら、最後で、どっか~んと、不意打ち逆転にもっていく。
逆転どころか、高い高い高い位置から、仁王立ちになって、見下ろす。
それが見えるのであります。
なぜなら、自分が書いているので、自分の深層心理はまるわかりなのである。
そのニオイにお気づきの方は、二度とお立ち寄りになることはないと思われるが、
意外に人間は、刺激を求めたり、怖いものみたさで、「本当は怖いグリム童話」的な痛さを感じたくなる。

いちばん、やっかいでダメな人は、「バカなくせにデキると思っている、バカ」
二番目に、やっかいでダメな人は、「デキる人間が、自分はデキると思っている人」
三番目は、「バカが、自分はバカだと自覚している人」
では、四番目として、
「デキる人間が、自分はデキないと思っている」ケースは、ちょっと色を変えると、謙虚な人、ということになるのだろう。
でも、わたしは、そんな謙虚な人は、認識がオカシイと思う。
デキるのに、わざとデキないと自覚しているのは、現実をジャッジする目として、正確に判断できていない。
事実を歪めることになる。
バカな人が自分をデキると思い込むのは、バカだからわかるが、
デキる人なら、自分がデキるか、デキないかは、わかるはずである。

「バカのくせに、自分がデキる」と思うケースはじつによくある。
世間に、勘違い人間は、ごろごろ転がっている。
デキる人間は、思っていても思っているそぶりを見せないが、見せる人もいる。
「デキる人間が、自分のことをデキないと思っている」という、そんな人にわたしは、会ったことがない。

デキる、デキない、は、成功体験や失敗体験の実例の積み重ねから実証され、感じることである。
失敗を重ねても、デキると思い込むバカは、自分への期待と自己防衛からそうなるのか。
では、成功を重ねているのに、自分はデキないと感じるのは、舞い上がらないように自分への戒め、慢心しない歯止め?
でも、一歩一歩着々と自信をつけて、ステップアップしていくだろうから、「デキない」と感じないはず。
つまり、(あんまり深く考えていないが)、「自分はデキるのに、デキない」と感じる人は、あまりいないのではないだろうか。
よほど成功体験をする機会に恵まれなかった人だろう。
それは、それで、嫌なニオイもしないし、眠ったままの子を起こす必要もないように思う。
「デキる」部分は、一生、目覚めないままに終わる。


なにを長々と書いて、自分を納得させようとしているのか。
自分への分析である。
「ダメなフリをして、じつはデキるんだよ~」というスタンスは、限りなく嫌われるということだ。
デキないならデキないで、最後まで、「デキない」を通すべきである。
へんに、ちょろっと、「じつは。。。」の部分を出すから、不快なニオイがきつくて、ぞっとするのだ。
後だしジャンケン、後手戦法。
卑怯ではあるが、結果的に勝った者が勝つのである。

勝った、負けたと言っている間は、お子チャマだ。
おばあちゃまの心境になるまで、あと15年近くある。
それまで、修業を積むのみ。
15年先には、ニオイのない、良いエッセーが書けるか・・・な・・???

 

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