わたしは、まともな人であっても、「この人、アタマ、おかしいんじゃない?」
と思う瞬間が、度々あった。
それが、若い人であっても、知的な人、優秀な人であっても、肉親であっても。
アタマがおかしいと感じるのは、自分の理解を超える行動や、考えをしていると思ったとき。
本当にアタマがおかしい、老化による脳の病気である認知症の人にも接したが、
この方々は、邪心がなかった。
話を聞いても、
すんなり、「あ、そうですね」「へー。そうなんですか~」と、聞き流せた。
ありえないことを、まじめな顔でおっしゃる。
前から病状の情報を入手しているということもあって、別段、驚きもせず、すんなり受け入れられた。
だが、まだら惚けだったので、若干、ややこしい面もあったが、
惚けのなかに、ひょこっと出るマジな面がある。
その、まだらな部分に現れる、その人の本質を感じた。
母方の母は、にこにこした、童女のような認知症だった。
なにを言っても、うんうんと、笑顔で、うなずき、
認知症になる前の、その人の人柄と、あまり変わらないなあと、わたしは感じた。
生活面では、相当、大変であったが。
かつて、たった、一日、母は祖母を預かり、わたしも、お手伝いしたことがある。
お風呂に入れようとしたが、足の第一歩を出させるにも、すごく重くて、牛のように、一歩も動かなかった。
あのおばあさんをずっとずっと四六時中、自宅で世話する、お嫁さんの苦労は、並大抵のものではない。
当時は、介護保険もなかったし、認知症というコトバも、世に広く出てなかった。
恥ずかしいこととして、世間に隠すかのようにして、家の中に閉じ込めていた。
時代の雲泥の違いを感じる。
現在、ばりばり仕事をしていて、判断力や理解力が必要な、現役の人にさえ、
アタマおかしいんじゃないか、と感じることがある、この事実。
アタマがおかしい、ということは、どういう意味、側面を持つのだろう。
常識、非常識では、判断できない闇の部分になると、
自己チューや打算をうまく理屈で補って、さらにうまく立ち回り、荒波を立てずに、まわりの同意を得ているのだろうか。
アタマが壊れている人も、恐ろしいけれど、
アタマがいい人は、とても恐ろしい。