わたしの長所でもあり、短所でもあるところは、人に合わせられるということだ。
影響を受けやすい。
まるで、鏡のように、相手をそのまま反映してしまう。
ダンスに関していえば、教え魔の格好の餌食となる。
相手の言うまま、意のままに操られ、フォローは出来ても、自立ができない。
勉学や仕事において、立派な尊敬できる師匠に出会っても、
哀しいかな、わたしは、頭脳明晰ではないので、相手をそのまま反映できず、
まったく吸収せずに、そのまま、まるごと跳ね返してしまう。
脳ミソが、カチカチ、錆び錆び、ガタガタで、拒絶反応を起こすのだろう。
互換ソフトがあれば、脳の内容を少しは交換できたかも知れないが。
いずれにしても、
けっこう柔軟なアタマは持っているものの、勉学の面では活かされなかったのが、残念なところだ。
付き合う人との影響はどうか?
これは、勉学とほぼ同じパターンで、自分と同じレベルの人としか、付き合えない。
なので、影響の幅が広がらない。
そもそも、自分に自信がない。
年齢、容姿、頭脳、性格、能力、キャリア・・・すべてにおいて、自信がない。
恋愛の場合は、ほんの一人でも、ライバルがいると、もう、とたんに、逃げて撤退する。
「張り合う」「しゃしゃり出る」という意識は、生まれる時に、母の胎内に置き忘れてきたようだ。
こんな人なら、絶対モテないから大丈夫、という、もっさりした不細工な人にしか、確信を持てない。
ステキな人がいると、憧れるだけであって、決して自分の立っているラインとは交差せず、荒波も立たず、安心できる。
でも・・・
ダンスの課題と同じで、自立を目指したい。(この年になって、お恥ずかしいけれど)
自分の持分、仕事をこなし、そして、個性も発揮できるダンス、
これは、優劣がつけられない。
個性の違うものは、争えない。
最近、どうにか、そういう方向へと脱皮できつつある。
これは、ダンスだけではなく、実生活や人生そのものにおいても。
それと、また、まるっきり関係ないが、
文体について。
若いとか、新鮮とか、古臭いとか、おじんっぽいとか、そういうのは、読み手側の受けるイメージを左右させる。
じゃあ、オカマの文体は?
わたしは、内容が第一と感じる。
が、世の中、見てくれが、大事。
パッケージやデザインで、モノが売れたり、売れなかったり。
人間も、売れたり、売れなかったり。
ダンスも、パーティで壁のシミになったり、引っ張りだこになったり。
理屈よりも、好き嫌いが、優先されたり。
なので、「中身が勝負じゃー、文句あるか?」と、あまり開き直るのもよくない。
年寄りなんだから、年寄り臭くしてどこが悪い?と。
無理しすぎて、ぎっくり腰になったり、限界を超えてまで頑張る必要はないけれど、
自分の理想、なりたい自分、なりたい年寄り、っていうものが、ある。
それには、やはり、少々の努力をしないと、自然にまかせっきりでは、なれない。
若い人には、勝てない。
若い情熱の時代が終わり、でもちょっと黄昏前の、微妙なお年頃。
夏ではなく、冬ではなく、夏の終わりなのか、秋、真っ只中なのか、冬、直前なのか、
そのあたりは、毎日の天候にも左右されるかも知れない。
どの世代もそうだが、同世代にしか、わからないと思う。
だよね! ですよね! みたいな、同級生同士の同意・共感のノリ・・・
この安易なノリが、わたしは、一番、年齢を感じるときかも知れない。
若さに刺激を受ける、触発されることもいいだろう。
逆に劣等感を感じて、それが不快で、同世代としか付き合わない人もいるだろう。
居心地がいい、安らぎを得るのは、素晴らしいことだ・・・が、発展はない。
発展は、棺桶にどんどん近づき、カウントダウンすること?
本日は、ばらばらブログになっている。(いつも、だが、今日は、とくに)
ある、仏在住のブロガーさんを新しく知った。
わたしと、とても似ていることに驚いた。
父が、外地に赴いた時(赴いた経歴はないが)、
現地の女性との間に出来た、まだ見ぬ兄弟だろうか、と思うぐらい。
とても似ていて、びっくり。
もし、わたしが、違う道を歩んでいたら、違う面が特化されたら、
こういう人生を送っていたかも知れない、という、そんな気がした。
ひょっとすると、そのブロガーさんは、普遍のことを、じつに、自然体で書いておられるので、
読んだ人は、皆、ああ、自分と同じだ、と感じるのかも知れないが。
(大昔、太宰治を読んだ時に、ああ、わたしと同じだ、と感じた、若き日のように)
月や太陽や、タワービルが、
どこからでも、自分だけに見えると思っていても、実際は誰の目にも見えるように。
(この例えは、ちょっと、しっくりしなかったけれど・・・)
人生は、面白い。
人の出会いも、面白い。