彼女は、子供が幼稚園から同学年同士、地域の自治会、子供会、小学校のPTAが同じ。
いわゆる、ご近所ママ友。
さらに私はとは同じ出身校、夫が同じ職業。
かなりの共通点がある。
子供が地域を離れ、活動範囲を移し、自分の行動をするようになってから、親同士の付き合いも激減した。
ここ数年は、娘一家のほうが、Aさんと偶然、近所で見かけて出会う回数が多い。
私は、顔を見たのは、去年の自治会の会合以来。
普通なら、親友とまでは言わなくても、相当親しくなっても不思議ではないのだが、なぜか、さらりとしている。
わたしの、付き合い嫌いキャラクターのせいである。
で、お引っ越しされた。しかも半年前に。
噂は聞いていたが、わざわざご挨拶に来てくれた。
この地を離れる、元ママ友は2人目だ。
駅から遠い、不便な立地にあるわたしの住まい。
買い物難民も増え、車を持たないお年寄りには住みづらくなっている。
便利な駅近のマンションに住み替える人は、益々増えるだろう。
築30年の家は、大規模リフォームするか、住み替えるか。
で、Aさんは住み替えを選んだ。
元々、親きょうだいをはじめ、親戚縁者もいないこの地。
住み続ける理由はない。
好きな地に移り住める選択。
まだ若いうちに、住み替えるのがよいと思う。
70歳を越えて建て替える人もいる。
最後のチャレンジだろう。
便利な都会とは真逆の、田舎暮らしに入る人もいる。
人それぞれの価値観だ。
たまたま、わたしは、娘一家が近くにいる。(たまたま、でもないか)
今は、ジジババは、子育てサポートに、良いように使われてあげている(出た!上から目線)。
いずれは、我々老人サポートと引き換えに労働チャージを、などという保険をかけている気はない。
そんな魂胆は、期待を裏切られたり、サポート温度が微妙に違ったりして、ストレスの元である。
今の子育てサポートも、両世代に、負担がないような方法で行われている。
どちらかに負担がかかると、その負担分を将来、別の形で担保してもらおうと期待してしまう。
それはやめたい。
その場その場でクリアし、持ち越さないようにしたい。都度精算、貸し借りなし。
どうしてもという、平時ではない場合はもちろん、臨機応変に対応するが、平時は、役割分担は淡々と。
必要以上に、もたれかかったり、もたれかかられたりするのは、重い。
極力まで各世代、頑張るが、無理な時にはギアチェンジして、数段パワーアップ互助へシフト。
このように、近くに子供世帯、親世帯が住んでいるかどうかで、その地を離れるか離れないかのキーとなる。
親子共々、別の地に移住する、という選択肢もあり、ガチガチに決め込む必要はないと思っている。
が、今のところ、わたしの未来図は、あと20年はこのまま今の地に住み続ける。
孫たちも成人し、この地を離れることもあるだろう。
実家は、次世代にバトンタッチ。
次世代がバトンを受けとらなかったら、処分という方法もあり得る。
我々の目が黒いうちは、そんなことはさせない、と言っても、身体も動かない状態ではいくら、わめいても、実行力がない。
それより、20年後は、老人ホーム探しに余念がないだろう。
気に入った老人ホームがないからと娘宅にお世話になるのは絶対に避けたい。
と言っても、どうなっているかわからない。
母や祖母たちのように、自立できなくなる日までは自宅で住みたい。
自立できなくなったら、未練を残さず自宅を去りたい、、、が、、、。
今からあと25年あれば、納得して計画通りに行動できるだろうか。
わからないけれど、少なくとも、今日、明日に近々、引っ越すことはありえない。
次の関門は、5年後。
必ずやってくる、難儀なポイント地点。
生々しすぎて、嫌々すぎて、文字にする気が起こらない。
3年後に考えよう。
(嫌なことは、後回し作戦)
時期が近づくと、事前に事態が動くから考えざるを得ないだろう。
それまでは、まったり休憩。
動物園のナマケモノ状態で、何も考えない楽しい時間を過ごそう。
と言いつつ、おしりが何やら落ち着かない。
もう一人、ご近所さんがいたので、彼女の関心はそちらに移り、ほっとしたが。
彼女は不幸話が大好きなので、最近不幸な展開の、そのご近所さんと、話したがった。
わたしとも、ちょこちょこ話を振ってくる。
姑の話になり、いつも姑が彼女に送っていた果物、最近は姑も家を出ているから送れないのでしょうね、、、みたいな流れ。
「送るのは一時的なこと、あれを育てるには手間暇がかかり、手入れや肥料などをプロに依頼し、お金もかかっているんです」と、一言、言っておいた。
わたしはとても胸がすっきりした。
彼女は、勝手に生っているものでタダだと思っているフシがある。
前々から、わたしは喉に魚の小骨が突き刺ささっているような気になっていた。
「あら、何か送らないとダメねえ」と彼女はとっさに反応したが、「姑は家に居ないので送っていただいても無駄になります。
自分で欲しいものは、ちゃんと自分で手配して手に入れてますから」と、断っておいた。
もう社交辞令を交わしたり、善人顔をするのはやめた。
近所の人とはトラブルなく良い関係を維持しなくてはいけないが、もうあの人とは、どうなってもいい、と思った。
個人的なつながりを切る、というスタンスを結果的に意思表示してしまった流れだ。
好かれなくてもいい。
嫌われてもいい。
長年の不快な思い、もうそろそろせき止められない。
彼女も歳を取り、仕事もやめ、社会的には明らかに力を失った。
相手が弱ったからといって、ここで態度を変えるのは人格として、いかがなるものか。
だが、長年の積み重ねは、本人に跳ね返ってくる。
本来は、労らなければならないところを、ここぞという時に逆転復讐するなんて、ひどい人間だ。
お金や地位や権力に寄ってきた人々も、それらを失った途端、すーっと引いていった、ということはよくある話。
人というものは、そんなものだ。
かえって、人間断捨離でき、余計な人が削ぎ落とされてよい。
が、片思いのごとく、信頼していた人までも去っていかれると?
誰も自分など、本気で相手にしてなかったということ、自分の不徳の致すところ。
自覚できて、夢から醒めて本当の自分がわかって良かったのか、悪かったのか。
出来れば、身体か、脳かが、あの世に行くまで、自分にとって都合の悪い事は知らなかったほうが幸せた。
人には相性があるので、苦手な人、嫌いな人て無理やり接触していても、やがて、早かれ遅かれ、破綻する時が来る。
だから、歳が行き、仕事をしなくなったことで相手が弱ったから、逆転して、ではなく、たんなるキッカケ、節目だったに過ぎない。
逆に考えると、若く、仕事をしていた頃は、社会的に有利な状況が、嫌なマイナスな出来事を防御できる盾になって跳ね除けていたのかも知れない。
人に嫌われる嫌な部分を元々持っているが、相手が我慢していて、あるキッカケで、相手が我慢出来なくなった、ということか。
嫌いなその人は徐々に力を失い、嫌っているわたしは、徐々に力を蓄え、ある日、交差し力のバランスが、逆になった。
破綻したら、それでおしまい。
すっきり、それぞれの違う別々の道を歩いていけばよい。
見かけは同じでも、気持ちは決別。
何事もなかったかのように、日常は続く。
ちまちまと、面倒くさい野暮用に忙殺されるが、まさに、全て、住民の暮らしと直結している。
もともと自治会が存在しない地域もあるそうで、そこの住民に聞いてみると、なんの不自由も不便もない、とのこと。
わが自治会が属する(自治)連合が、さらに自治会の上にあるが、3分の2の自治会が、連合から、とうに抜けている。
個々の自治会自体、脱会する個人会員が増えている。
うちの班は、17世帯中、すでに8世帯が脱会し、それに加えて4世帯は、脱会しないものの義務放棄の宙ぶらりん幽霊会員。
(今後、幽霊会員は増えると予測する)
つまり実数としては、3分の1以下の会員数しかいない。
自治会のメリットとデメリット。
たいしたメリットは感じないにも拘らず、何年かに一度回ってくる班長だけでも重荷なのに、今回のウチのように、会長を引いてしまうなどの大リスクがある。
抜けたい気持ちはわかる、、、
が、皆んなそうすると、どうなる?
新しく転入してきた、若い世代には入会を勧め、大概の新住民世帯は、自治会に入ってくれる。
かたや、お年寄り世帯は、自治会を抜けていく一方。
しかし、新しく転入する数は知れている。
さらに、高齢により住み替え転出する世帯もこの1年で我が班だけで、2世帯もある。
やはり、少子高齢化の波を感じざるを得ない。
我が家も、この度の会長を最後のお役目として、抜けたい気持ちはいっぱいだが、あと10年は頑張ろうかと、今、新たに思ったりしている。
(しかしながら、他県にある夫の実家も、町内会の役が回ってくる。
住んでいないということで、免れたいところだが、そうもいかない様子)
一年一年の交代では、まるで何がなんだかわからない。
無理やり、ハンカチ落としのゲームのように、くじ引きで会長や役員を班長の中から決めるやり方。
自治会員だからといっても、非会員とあまり変わらず、さほどメリットも感じず、負担ばかり。
いずれは破綻するのではないだろうか。
しかしながら、自治会としてのメリットは実感しにくいかも知れないが、行政からは微に入り細に入り、目に見えない手厚い保護やサービスを受けている。
行政と世帯一件一件をつなぐ役割が自治会なのだろうけれど。
パイプ役を誰かれなくボランティアで押し付けられるわけだが、嫌がる、逃げるという人が続出しているのが現状だ。
自治会の班長や役員になりたくないのは、共有部分の掃除当番を嫌がるのと同じ。
共有部分は、市町村がやってくれるなら、自治会は脱会して、掃除当番は抜けよう、という考え。
メリットといえば、ただ一つ。
住民同士の絆、連帯感、親睦である。
これは、今の世の中、けっこう大切かも知れない。
わたしは田舎の、息苦しい、重苦しい、暑苦しい付き合いが嫌で、ニュータウンに来て清々しい気分になれた。
さっぱり、あっさりした、お付き合い。
「お付き合い」とも呼べないような、薄味のつながり。
この、サラッとした感覚が好きだった。
今もサラッとしているが、昨今は、脱会続きで、サラッとし過ぎて、超個人主義。
何十年も、ま近くに住んでいても、顔さえ知らない。
わたしが、通学先や勤務先、遊び先の都会志向から、リタイア年齢になり、ぼちぼち住まいのある地元志向になってきたのだろう。
地に足着けて、自宅で暮らす生活が、心地良くなってきている。
歳のせいだと分析している。
平凡な暮らし。それも、悪くない。
さて、わが夫。
会議の参加、司会、采配と司令塔を押し付けられたわけだが、
地元のことをあまりにも知らないことに驚かされる。
彼は、子供達が毎日通っていた幼稚園や小学校のある、近隣の丁(住所)と場所が一致しない。
わたしが、これまで自治会や子供会、PTAなどで歩んできた地域との30年の関わり、夫は何一つ知らない。関心、興味もなかった。
そのほうが、むしろ、わたしは驚愕した。
今回の会長、大当たりで、今までの無関与分を取り戻してもらう、いい機会になったと思っている。
義母の40年前からの知人。
何度もバス停で顔を合わせる。
最近は、かなりの確率で遭遇する。
わたしは、この女性が苦手中の苦手。
遠くからでも、その人を見つけると、うっ、、、、となって、がくっとなる。
ああ・・・。
先方は、必ず、わたしに近寄ってきて、蔓延の笑みで、なんやらかんやら話しかける。
話の内容が、不快である。
直近では、娘婿の出身大学を聞いてきた。
じつに鬱陶しい。
どこ出身でもいいではないか。
学部まで気になるらしい。
ホメ殺しというものは、人を不快にさせる、ということを彼女はわかっていないのだろう。
なんでもかんでも、わたしに関連する人物を褒めるのであるが、わたし自身のことは、これっぽっちも褒めたことがない。
すべて、わたしではなく、わたしの関係者のことを褒めちぎる。
それはそれで、彼女にしてみれば、おべんちゃら、営業トークのつもりなのだろうけれど。
わたしは、聞けば聞くほど、不快この上ない。
先日、ついに、バスの中で、うんざりの沸点に達した。
「最近では、そういうことにこだわっていては、だめですよ」と。
ちなみに、わたしは、彼女自身についても、彼女の家族についても、顔しか知らない。
学歴だの、職歴だの、まったく知らない。
強いて言えば、わたしと同世代の息子さんが未婚であるということぐらいか。
そのほかは、ご主人や、近くに住むお姉さんが亡くなった時もリアルタイムで知っている。
40年もあれば、ご近所でもあるし、そこそこ、情報は伝わる人には伝わってくる。
真隣に住んでいても、個人情報について、知らない人は知らない。
人の出入り、流れのない、閉塞感のある田舎とは違う、
そこそこ流れがあって風通しの良い、今、住んでいる地域が、住み心地がよくて気に入っている。
しかしながら、個人情報を保護したいわたしは、彼女のような人は、ほんとうに迷惑な存在である。
ご近所に、情報通の人(ぬし)がいて、その人のところには、かなり細かい正確な情報が集まっている。
その人物を通して、他の人の情報を聞く分には、わりと嫌ではないのだが、
自分のことを言われるのは、嫌。
自分の知らないところで話題に上がるとすると、それは止めようがないが、
面と向ってあれこれ言われるのは、不愉快である。
これは、究極の自己チューか。
わたしは、言われるのも嫌だから、人にも、他人の情報を流さない。
最近、娘が、孫を散歩させていて、あちこちから情報を拾ってくる。
情報の出口は、おしゃべりができるようになった、小さなこども。
幼稚園~小学校1年生ぐらいの女の子は、家庭事情をぺらぺらと、よくしゃべるようだ。
こどもの口にも、戸は立てられない。
しゃべられてもいいような、立派な家庭であれば問題ないが、
なんだか、そのために、頑張って襟を正すというのも、順序が逆のように感じる。
バス停などで、いつも会うと、わたしの家庭のハナシばかり振ってこられる。
子供の学歴、職歴、結婚歴、親戚の職歴、
定年している人に対しては、親や親族の病歴。
老いて職のない人に対しては、興味の的は「病気」。健康な人には興味を示さない。
ただし、没している人には興味がないようだ。
なんとまあ、究極の個人情報。
誰も人のことなんぞ興味ないから、他人に聞かれたってかまわない、という人もあるだろうが、
わたしは、バス停で待っている、他のご近所の方や、バスの中の他のお客さんたちの耳が気になる。
で、彼女を見つけると、バス停の手前で立ち止まり、距離をおいて、バスを待つ。
それでも追いかけられることもあり、
「はあ・・・」「そうですね・・・」と蚊の鳴くような声で答えるが、
バスに乗ると、追いかけてこられない遠くの席に座る。
このオバサマは、興味がはっきりしている。
じつに、ピンポイント。
自分の興味のあること、価値を置いていることのみを聞きたがり、
たとえば、親戚に、若い姉妹が2人いれば、そのうちの1人だけの職業について、しつこく聞いてくる。
もう1人に関しては、まったく興味がない。
2人とも会ったこともないので、好き嫌いは、関係ないと思われる。
「○○さんのところの下のお嬢さん、○○されてるんですってね」
「はい、そうらしいですね」
「まあ、すごいわね。どうのこうの、なんたら、かんたら」
上のお嬢さんのことは、まったく一言も触れず。
一度でいいから、そのオバサマのご子息のことを聞いてみたいのだが、
(そうすると、人の家族のことを聞かなくなるのではないかという効果を期待して)
わたしの良心がとがめるし、そういう趣味は、わたしにないので、決して聞くことはない。
息子さんの職業は、オバサマのお好みに当てはまらないと思われ、(彼の職業は、義母から聞いて知っている)
オバサマも、「では、あなたの息子さんは、どうされているのですか?」と聞かれることも大いに考えられるのに、
聞かれてオバサマが喜んで応えられる状況でもないはずなのに、よくまあ、人のことばかり聞けるものだ。
わたしは、聞きもしないが。
世の中、いろんな人がいるものだ。
と、思っていたら、先日、オバサマ2号にバス停で会った。
彼女は、たんなるご近所の方。
子供が小さかった頃、子供会やPTA、自治会などで親しくしていたご近所ママ友の、ごくごく近所の方。
そのママ友と親交があった彼女とは、わたしも自治会などで顔を合わすと、ママ友を介して少し話したこともあった。
そのお方、お久しぶり、とばかりに気を許して話していたら、いつの間にか、オバサマ2号になっていた。
その日、新たに2号として認定した次第だ。
バスの中でのおハナシ、他の人に聞かれてないか、ひやひやした。
オバサマは、なんでそういうハナシが好きなのだろう。
個人情報を開示したがらない、わたしが、へんなのだろうか。
自費参加。限りなくクリアな会計。
一等地にある、とても広いお店で、美味しいお料理の数々に舌鼓を打った。
会員さんとおしゃべりをして、今まで話したことのない人の意外な一面を知ることとなった。
頑張り屋さんの方が、大勢おられる。
特に驚いたのは、今回の会場となったお店のオーナー、Fさん。
お年は75才で、成人のお孫さん(3人も!)を時々預かり、世話しているという、ハッスルおばあちゃん。
普段はご主人と二人暮らしだが、お正月は18人分のおせち料理と、正月の賄いを一手に引き受けるそうだ。
20代半ばのお孫さんたちは、実によく食べるらしい。
そのほかに、経営されているお店の店員さんの分も(お正月は店に出るため、帰省できないから)
おせち料理を持たせてあげるとか。
お誕生日には、お孫さんをはじめ、全員が駆けつけてくれ、お祝いしてくれる
と、にこやかにおっしゃるFさん。
府内に大きなお店を何十店舗もお持ちだが、現在も毎日お店に顔を出されているそうだ。
お花を活けたり、全体を見渡して、お店を盛り上げる司令塔。
お料理を盛りつける器は、窯元に出向いて、吟味して一つ一つオーダーされたとか。
お店でも、あれこれ、私たちに細やかな気働きをされ、おもてなししてくださった。
世の中には、息切れしている人も、大勢いる。
年を取ったら、生涯現役とか言わずに、年寄りらしく休ませてほしい、と訴える人もいる。
私は自分が手抜きサボリなので、働き者の人の活躍ぶりを目の当たりにすると、
ものすごく感激するし、活力をいただく。
老後、毎日、フィットネス倶楽部に通い、運動は最小限だけにして、
あとはそこで一日中だらだら過ごすスタイルは、私の憧れではない。
おそらく年をもっと取っても、そういう時間の使い方はしないつもりだ。(年齢にもよるけれど)
が、これも人それぞれ。
どうせ暇だし、何もすることがないなら、
老後の寝たきり防止、医療費抑制のために、体の老化を遅める努力も、ある意味、評価できる。
ただ私は、ああいった、お元気・現役バリバリ社会人の高齢のご婦人を見ると、
本当に脱帽し、応援し、憧れる。
頑張ってください! と、心の底から拍手をおくる。
お土産に、べったら漬けをいただいたから、おべんちゃらを言うわけではないが
( それもあったりする?)
美味しいお料理と、べったら漬けをありがとうございました。
そして、なによりの人生先輩のお手本に触れることができ、充実した思い。
楽しい時間をありがとうございました。
ブログ村 自分らしさ
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その後は、ご町内の欧風レストランへ。ランチ忘年会だ。
前々から、参加か否かを申し込んでいた。
男性は3人しかいつも会議には来られないが、そのうちの1人は不参加。
あと、女性は全員参加かなあ・・・と、顔ぶれをチェック。
レストランの壁面には、素敵なアート刺繍の力作の数々が飾られていた。
オーナー女性が趣味で作られたそうだが、その腕前は、教室を開かれてもいいぐらいだ。
得意分野は、料理だけには留まらないようだ。
室内もトイレも、大きなお生花が活けてあり、全体に優しい、女性好みの雰囲気。
テラスから見えるガーデンも、可愛らしく爽やか効果。
彩り美しい、食べ応えのあるフレッシュサラダ、かぼちゃのポタージュスープ、バジルとクルミのブレッド、
ボリュームたっぷりのお肉がゴロンと入ったビーフシチュー、
紅茶のシフォンケーキに生クリームを添えて、
そして自治会からの特別クリスマスケーキ。最後に、コーヒー。
おしゃべりは、はずむ。
私は、少し遅れて行ったので、席を選ぶ自由はなかったが、同席したのは、
健康増進・実践家の博識男性(63~4歳ぐらい?)と、
これからの街の住民同志の連帯を考え、サークルを立ち上げた活動家の女性(60歳ぐらい?)。
自治会役員という括りなので、共通点は、居住地、生活圏が同じ、ということ。
健康維持に関するノウハウ伝授や、痴呆老人の介護、社会参加のススメ、身近なゴミ問題、
グルメ談義など、朗らかに会話は進んだ。
次に移ったテーブルでは、M女史(50才)の、ひとり独演劇場。
周りは、聞く一方。
彼女の趣味のビーズ・アクセサリーの作り方、材料の仕入れ方、使い方、ストックの仕方、
偶然、彼女の作品を見て、作って売ってくれという人が現われた経緯、
どうやってその人にオリジナル手作り品を作り、配達したか、仕入れ値、売値、
…云々カンヌン、微に入り細に入り、延々と続く。
そのテーブルには、40代中ば?の派手派手女性Sさんという人もいたが、
Sさん、M女史ともに、こんなご近所店なのに、細身のロングブーツ。御苦労さま。
他には、自治会長さん(65~70才?の女性)と、独身らしい55歳ぐらいの男性。
この男性は、小柄で色白、影の薄い、ほとんどしゃべらない大人しい人。
独身と聞いて、なるほど・・・と納得してしまうタイプ。
派手派手女性と、M女史が延々と話していたけれど、他の同席の人のことを考えると、
もっと共通の話はないの???と思ってしまった。
一瞬、私が席に入った時、自治会長さんに、「スローさん、ご趣味は?」と聞かれ、
「社交ダンスです」と答えると
M女史は即座に、「社交ダンスぅ~? あれって、男性とくっついて、キモチ悪いよね~」
私「そう? キモチ悪いとかではなくて、上手か下手かで、違ってくるけれど。
私の先生、20代!」
M女史「ダンスが上手な人と言えば、私の知ってる○○さんは、嵐や、NEWSや、・・・
(ジャニーズ系をずらずら列挙する)に振付を教えていて・・・」
またまたM女史の世界へと引っ張っていく。
あんな内容は、50代の男性も、70手前の自治会長さんも、全く知らないだろうと思うけれど、おかまいなし。
ガールズトークはそこそこに切り上げ、もうちょっと、周りの人の年齢、性別を考慮すればいいのに。
だが・・・
この50代独身男性は、このケバいM女史の話や身振り手振り、「ケバさ」がお好きなよう。
以前も、凝ったターコイズ・ブルーのストーンやヒカリモノを盛り込んだネイルを見せながら、
延々とウンチクを話す、M女史のネイルアートの話を、井戸端会議で、大人しく、聞いていたから。
全く接点はないけれど、彼にしてみると、楽しいのかも?
長い沈黙を破って、最後にひとこと、口を開いた彼の言葉は、こうだ。
派手派手Sさんに、「その財布、ブランド?」
私は、コケそうになった。
この人のアタマ、どういうナカミなんだろう、と、・・・・思いあぐねた。
話を合わせているのか、(それにしても、唐突・・・)
はたまた、自分は地味の極みだが、実は派手好きで、ケバフェチなのか。
キャバクラにでも居るノリなのかなぁ~。
案外、ああいった男性が、結婚詐欺に引っ掛かるのかもしれない・・・などと(失礼ながら)思ってしまった。
M女史が、車で、送って行ってあげようかと、私に言ってくれたが、
「いいわ、いいわ、近いから」と(本当に近いし)断って、他の3人の人と歩いて帰った。
しばらくすると、その背後から、プァップァッと、クラクションの音。
振りむくと、ジミジミ男性を含め、何人かを乗せ、
M女史の運転する真っ赤なベンツが、颯爽と風を切って走り去った。
時間切れにつき、最後に選んだ、オワッているコートに、家族の一言、
「やる気の無さっぷりが、うまく表れている、ちょうどいいコートやね」
に背中を押され、たったった、と、走るものの、ちょっと遅刻。
「ハーイ!」
アメリカ映画に出てくるような、キャンパスで、クラスメートと挨拶するノリ。
実際は、「おはようございます」。
自治会の面々が、公園で一斉に枯れ葉ををかき集めている。
一家総出で参加しているファミリーもあり、子供でも、結構役に立つ。
「僕は、ちょっと旅に出てくる」と、小学生のお兄ちゃんの声。
気に入っているのか、何度もこのフレーズを使う。
そう言って、あっちこっちを、うろちょろ。じっとしていない。
弟「枯れ葉を袋に詰めたら、一袋につき1000円くれる?」
お兄ちゃん「1万円なんか、すぐ、貯まるな~。じゃあ、旅に出てくるわ」
第二、第三の平田オリザ君は、好奇心旺盛だ。
ご近所さん同志、近況報告が、あちこちで行われている。
老若何女、わいわい、「公園掃除」という名の、「課外パーティ」。
グラスを持つ代わりに、ホーキ片手に、
あっちの知り合い、こっちの知り合いのところに渡り歩いて、おしゃべりの花。
掃除が終わった後、参加者にはペットボトル入りのお茶が配られた。
その後、自治会館で本日開催の、うちの自治会の中高年サークルが主催する「バザー」を覗く。
そこでも、ご近所のお知り合いと、顔を合わせる。
「いいモノ、ありました?」
「シーツ買いましたよ。クリーニングするより安いから」
帰りに、隣接するスーパーの前で、別のお知り合いと出会う。
「バザー、行かれました?」
「いいえ、今回は、忙しくて」
笑顔で挨拶。何年ぶりだろう、あの人と会うのは。
ごきげんよう、ごきげんよう。
自分が、マリ―・アントワネットになって、宮中の人々に挨拶するよう?
王女役のオードリー・ヘップバーンにもなる私は、背筋を張って、明るく会釈する。
今朝は、いいお天気で、およろしいことね。→実際は、ベタな大阪弁。
脳内劇場は、勝手に進む。
別に私が偉そばっていて、先方がへりくだっているわけでもなんでもない。
日曜日、午前、爽やかモーニングの心象風景を例えれば、こういうシーンになるかなあ・・・と。
本来なら、憂鬱な自治会がらみの公園掃除も、映画仕立ての脚色をすると、とても楽しくなる。
さらに、帰ってから、NHK番組「のど自慢」を何十年振りかで、見た。
生放送なんだ、この、番組。
自分が年をとったせいで、番組を見る目や感覚も変わっていることに驚いた。
45分の間に、涙あり、笑いあり。
どこかに、素晴らしい公演を見に行ったような錯覚を覚えた。(→ノリすぎ)
自宅で、こんなに身近なネタで、こんなに楽しめるなんて。
(今、この瞬間だけの気分かも知れないけれど。次なる脳内上映予告編は、まだ未定)
夜は、帰りにスーパーで買った野菜で、家鍋だ。
安上がりにも程がある。
私、ひょっとしたら、お金があまりなくても、人とあまりお付き合いがなくても、
楽しいことが特別なくても、立派な人に囲まれなくても、
毎日、楽しく、一人になっても、
平凡な幸せを噛みしめて、生きていけるかも・・と、思った。
