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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

平穏すぎて活力不足

2025-02-28 | わたし
独り言を書いている時が、1番楽しい。
どう思われるか、とか、そういうことを意識すると、なんのためにブログを書いているのかわからなくなる。
評価は欲していない。
ごく稀に、非難してくる人も現れる。
メディアにも何度か顔を出し、文化的にも実践的にも活躍されている方なのに、わたしごとき吹けば飛ぶような埋没個人を相手に、、、まあなんと暇人。変人。
が、ほっておく。
関わっても、ろくなことはない。

負け犬の遠吠え、負け惜しみだと捉えられると思うが、人気がなくてもいいのだ。
わたしが気になることや、興味があることは、多くの人々には全くどうでもいいこと。
わたしは、平均値ゾーンにいないのは重々承知している。
かといって、独特のアイデアや提案があるかと言えば、、、ない。
浮世離れしたことを、むにゃむにゃ寝言のように言っているに過ぎない。

と、わたしのつぶやきなんぞ、受け入れられないであろうという、やたら前置きが長い。
自分に言い聞かせなければ、エンジンがかからないのだろう。
マイナスからゼロにするために、とりあえずエンジンをふかす。
どろどろ雪道や、ぬかるみの中のタイヤみたい。
熱さやエネルギー不足というよりは、もっと別ベクトルを実感する。

さて。
今から好きなことを書く。
とかなんとか、、、最近のわたしは、何もしないと、湧き出るものも何もない。
自分を叱咤激励するために、何かアクションを起こす。
エンジンをふかさなければ、静まり返っている。
不満も嘆きも悲しみも疲労もなく好調だったのだが、最近は変化が見られる。
調子が良くない。
この活気のなさは、ひょっとして、こころの病気の前段階?と、不安になる。
しかも活力の元になるような行動計画を立てるのに、直前に急にやりたくなくなる。嫌になる。
誰とも約束してない、アポなし予約なしなので、誰にも迷惑をかけない。
かえってその気楽さが、自分を奮い立たせないのかも。
で、・・・自分で診断する。主治医は、自分。

気分が乗った時に再チャレンジしよう。
その時は、出来ない状況、状態かも知れないが。
人生、そんなもの。
後になって気づく。後悔先に立たず。
それの繰り返し。それの積み重ね。

ある漫画家女性は、わたしのケースと逆。
頭から火を吹くかのように、けたたましく騒がしく、自分を律する事が出来なくなり、脳内を強制的に整理整頓、落ち着かせるため、医療機関に受診したという。
鎮静剤?を処方され服用したところ、沈静化したけれど、アイデアも全く出なくなったと言っていた。(深夜TV番組で)

モヤモヤや、ガシャガシャ、ぐしゃぐしゃは、考える力、生きる力の、火を起こす作業の一環か。



横並び

2025-02-27 | 人生
どんな人も、理想的な域に行き着くには、
能力だけではない。能力を開花させる努力も。
そして、運が必ず必要。
古今東西の名を残した偉人たちも。

生まれた時から天賦の才能に恵まれていたとしても、死ぬまで、突っ切ることができるか。
過去の功績にしがみつく、、、と言うと表現が悪い、、、過去の行い、歩みの延長上に生きる、、、とでも言えばよいか?
偉人も凡人も、終盤あたりはそう変わらないと思う。
最期まで、立派を貫き通すのも、「はい、出来ます、やり切ります」と断言できるかどうか。

才能、努力、運。
この3つで、成功が導かれる。
3つ中、2つでも、どうにかなる。
3つ揃えば鬼に金棒。
1つだけだと、せっかく恵まれたのに、あと少しで素晴らしかったのに、残念、無念、、、惜しかった、、、理想的なかたちにはなりにくい。

3つ、どれも、ちょっと、少しずつ、というのもある。
これでも、十分。人並み以上。いや、かなり上のほう。
一つもないのは、、、?
才能も努力も運もない、、、これは悲惨か。いや、普通だ。全く普通。

どれもないのが、普通。
もし、不満があるとすると、努力をプラスする?
宝くじを買う?
運や才能は、自分ではコントロール出来ない。
努力するにも、こころさえコントロール出来なくなっている。

では、普通以下は?
この基準は昨今の社会では、タブーとされている。
人は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず。
身分(今は無いが)や経済面だけではない。能力も。
みんな横並び。
学校も競争は避ける采配。
全員に強制することにも敏感。
ナイーブになっている。

教育費無償化の拡大。
平等意識、平等の定義は?
明らかに時代は移っている。



「負けず嫌い」と「負け惜しみ」

2025-02-26 | 読む人々には興味ない話
やたら長い、本日の記事、全スクロール、オススメ度は100%です。   
どうも、時間があると、よろしくありません。

・・・・・
負け犬の遠吠え。
負け惜しみ。
これ、大好きだ。
自分は気に入っていても、周りから見ると、イタイ!と感じられることもある。
というか、ほとんどが、そう。
周りにいる人のタイプ、人柄、属性にもよるだろうけれど。

例えば、とあるSNS会員同士のやりとり。
経済的には普通の男性会員A氏は、話術や行動力で女性にモテるようだが、謙遜して、「俺は黒歴史があって女性を泣かせたけど、モテる雰囲気ではない」と書くと、
「女性は、やっぱりカネなんじゃない?」と、野次馬男性B氏の野次コメントが付く。
このB氏は、いつもA氏にネガティブなことを言って、足を引っ張ってくる。
そこで、「俺はカネに、なびくようなオンナには興味がない」と、ピシャリ、カッコよくA氏は突き放す。
確かにその通りで、信念には筋が通っている。異論はない。
カネの部分を「ルックス」だったり「学歴」だったり、ハイスペック要素に置き換えることも、出来そう。
ある程度の基準があり、客観的に、わかりやすい。
「俺は◯◯になびくようなオンナには興味がない」
と言い切るだろう。
貫一お宮、、、古すぎて誰もわからない、知らないだろうけれど、、、ダイヤモンドに目が眩んだ恋人、お宮がすがりつくのを学生姿の貫一が蹴っ飛ばす(ギャグ?)シーンを子供の頃、何度もメディアか何かで見た。
名セリフもしっかり脳に残る。
(しょうもないことばかり覚えている、幼い頃の、わたし)

ちなみに、尾崎紅葉の小説「金色夜叉」中のこのセリフは有名で、明治期の小説の中で、最も広く読まれたものの一つらしい。
背景は日清戦争後の社会を背景に、金銭と恋愛を描いたもの、、、。
昭和高度成長期に生まれ育ったわたしが、なんで、そんなに脳裏に焼きついているのかは、不明。
おそらく、戦後、豊かになった社会の中で、余裕を表すシニカルギャグとして、よく使われていたのではないかと推測する。
サブカル評論家なら、もっと高度な考察を述べるだろうけれど、サブカルじゃないし。文学だし。
サブカルが格が下で、文学が高尚だとは、言い切れないが。大衆の力。
文芸評論家より、サブカル評論家のほうが、グイグイ来るものがある、、、と、わたしの個人的感想。
ではあるものの、文学もサブカルも、さっぱりわからない、わたし。

まあそれは、社会が激変する明治期の象徴的シーンだったのかも知れないが、令和だからといって、あり得ないわけでもない。
とは言え、社会は大きく変貌していることも確か。

と、話はいつものごとく逸れている。

前述のA氏。
わたしは意地悪なのか、ひね曲がっているのか、性格が悪いようで、どうも違和感がある。
カネ目当てのオンナには興味はない、と声高らかに言い切るには、ある程度のオカネがないと、どうも説得力がない。
婚活パーティーで、高齢男性が年金手帳を参加女性に見せて、「私は、お金には心配ありません」と力説しておられる場面をTVの取材ニュースで見たことがある。

スポーツが上手くない、苦手な人が、「私は、スポーツが得意な人には全然興味も関心もありません」と言っているようなかんじか。
とても、わかるのだが。
一緒に行動すると体力差で、ついていけないことがある。
高圧的、体育会系、熱血系、押しつけ系の人は苦手かも知れないが、そうでない、淡々とスポーツ好きな人もいる。
しかも、努力家だったり、継続力、忍耐力があったり、尊敬すべき美点をお持ちのこともある。
それを、こっちから願い下げだ、というスタンス。
畏れ多くて辞退するならいざ知らず。
負ける前に、相手を否定する。

(それ以前に、野次馬、、、周りから他人の弱点をワザと晒すようなことを言うのは、もっと、けしからん、姑息な小さな器だとは思うが)

イソップ物語の「酸っぱい葡萄」。
自分の劣勢を認める前に、自己の能力の低さを正当化したり擁護するため(自己肯定するため)対象を貶めたり価値の無いものだと否定するパターン。
いわゆる、負け惜しみは、理想的な「負けず嫌い」とは、少し違う。

しかしながら、負けを認め過ぎて、こころを病んではどうしようもないので、自分の尊厳、プライドを守るには良いだろうけれど。

負け惜しみと、負けず嫌いは、リンクしている。
対象を否定する気持ちはわかるが、外から見て負け惜しみが透けてわかりやすいと、微妙な心境になる。
本人は絶対に自覚はないし、自覚しろとは口が裂けても言えない。
コンプレックスの裏返しかも知れないナイーブな箇所に、土足で踏み込んで、人のことをとやかく言える何様でもない。
見て見ぬフリをするのは、容認の一種だろう。
お互いさま。人間だもの。
欠点や弱点は、必ずある。
人の弱点が見えたからといって、いちいち敏感にピリピリ感受性を発揮していたら、やってられないことも確かだ。
その面が、受け入れられるか、受け入れられないか。
積み重なるとどうなるか。
価値観の違いを受け入れられない場合は、受け流せるかどうか。
近寄り過ぎると、良くない。
遠いと気にならないだろう。
距離感は必要だ。








雪の温泉地

2025-02-25 | 
連休は、城崎温泉に足を伸ばした。
「こうのとり」に乗って。
あ、こうのとりは、電車の名前です。

小さな旅情感を味わえて良かった。
日帰りでも十分だが、今回は一泊。
思いつくのが遅く、前々から予約しなかったせいもあり、泊まるところは、空いていた旅館、空いていた部屋。
主体的には選べなかったけれど、たぶん自分では能動的には選ばないだろうと思われる旅館だったので、意外性を楽しんだ。
1878年創業の老舗旅館が、半年前に、一室だけを特別に改装リューアルしたようだ。
改装したばかりだったためか、「総力をあげて」と、意気込みを感じた。
伝統的な和室を現代的な解釈で甦らせた、和洋折衷、、、
栗の木を利用した床には、名栗加工が施され、おや、何かが違う、、、と、扉を開けて足を踏み入れるなり、期待感ワクワク感を目と足の裏に与えてくれた。
手漉きの越後和紙で仕上げられた障子や、円やかな木の手触り、フォルムの家具は、空間に、くつろぎと安らぎを生み出していた。
古き良き旅館の伝統と、昔から愛される素材が、継承者の想いや審美眼により、優しい温もりを添えて再編成され、見事に現れていた。
(ちょっと部屋設備トラブルはあったのだが、、、)

スタッフは、全員、揃いも揃って、外国の若者たちだった。
彼らは、すごく若い。
集団就職??というわけではないだろうが、日本人スタッフは、いったいどこに行ったのだろう??
雇わないのか?雇えないのか?よくわからないが、、、
どこの観光地にも、この現象はよく目にする。

各旅館はそれぞれの個性を打ち出して、時代に寄り添う努力が感じられるが、個別的に旅館は別として、、、

雪が降り、あたりは真っ白。
温泉地の雪は風情がある。 
温泉街自体は、昔々のモノクロ日本映画、、、高峰秀子主演作品を去年、初めてレンタルDVDで観たが、モノクロテイストに置き換えると、あんなかんじか、、、と、逆輸入するかのような、インバウンド観光客になったような目で見惚れていた。
それとも、わたしの感覚が、自分がまだ生まれていないような時代の映画に影響を受けたりして、古いままなのか?

新しく、行ったことのない場所、外国旅行に行ったような気になれて、電車でスグ、ほんの近くなのに、お得だ。
しかも、、、(と、この接続詞は、適正ではないが)、雪の道を滑らないように歩くのは、相当な緊張感を要する。
頭から(屋根からの)雪の塊は、落ちて来るし。
足元、頭上、前、後ろ、刺激たっぷりだ。



残念な筋肉痛、、、

2025-02-22 | 日々のこと
モテたい、有名になりたい、名声を得たい、お金持ちになりたい、、、
そう憧れ、願うのは悪いことではない。
モチベーション、活力の元。

好きな酒が飲みたい、好物が食べたい、好きな人の顔が見たい、、、
これも良い。
現実で叶わない場合、TV越し、インターネット越し、スクリーン越しでも良い。
食べ物ぐらいは、無茶を言わなければ現実的に実現可能だろう。 
病気で制限されていたら厳しいが。

夢、要望の中身がどんどん変わっていく。
アップデートされる。
(わたしの場合、削ぎ落とされていく)
要望が叶ったら、引き続き、叶い続けることを願う。
これは普通だ。ランクアップしたくなるかも知れない。

山の高みに上がり、頂上から景色を見てみたい。
これは自然な欲求だろう。
山からの光景をしばし眺めた後は、下山が待っている。
せっかく苦しい思いをして登って来たのに、また再び苦しい下山をしなければならない。
頂上で終わりなら良いけれど。
でも、山は色々たくさんある。
また登ればいい。
登らなくてもいい。
登れなくなれば、自室で山の番組でも観ればよい。
登れなくなったら、山にも関心はなくなるかも知れないけれど。

やったことがないこと、味わったことがないことを体験してみたいと思うのは自然だ。
やったことがあるものは、興味が失せる場合もあるし、さらに興味が増す場合もある。
常にやりたいことがあるのが、生きている証拠みたいなものか。
情熱があるか、ないか。

それがどうしたの?
だから何なの?
と、低温になるのは、それはそれで省エネモードではあるが。
湧き続ける情熱を提供してくれるものに、楽してぶら下がっている、わたし。
エネルギーが中途半端で、自分から自発的に、自家発電できない。
最低限度の灯火で生きている。


ちなみに。
いかに普段、運動していないか、痛感する事態が起こった。
腹筋あたりと、臀部あたり、太ももの後ろあたりが筋肉痛。
なぜだろう???
と、思いあたることを振り返り辿る、、、
痛みを感じ始めた前日に、張り切って頑張って、たくさん踊ったからかなあ、、、と、想像していたのだが、、、
どうやら違うような気がする。
今週あたまに参列した告別式。
ぎゅうぎゅうに締め付けられた衣服に身を包み、姿勢を意識して、びしっと背筋を真っ直ぐにして座っていた。
1時間にも満たない時間なのに、あれが、普段使っていない筋肉に負荷をかけたのではないだろうか。
そんな気がしてきた。
背筋を伸ばすのは、良い運動になるようだ。
家でTVを観ながらでも出来そうだが、なかなか出来ない、、、。
気合いが足りない。
腹筋が、今もチラリチクリと痛む。
だが、姿勢を正して座っていたからだとは情けなくて思いたくない、、、やはり、ダンスのせいもある、、、と思いたい。
等身大の自分には目を背け、自分への期待、過大評価。
どっちにしても、筋肉痛が現れるのに時間がかかるのは、はっきりした老化現象だ。






子供と大人の間

2025-02-21 | 日々のこと
今日は1番上孫(小6男児)の参観会。
卒業式を控え、リハーサルも兼ねている。
わたしは、おばあちゃん(祖母)なのに、参加してしまった。
場違いだけど、少し気まずいだけ。 
ちょっと孫熱が高いと思われるだけ。
いささか居心地が悪い、推し活。
ずいぶん早めに小学校に着いてしまったが、参加したいと思ったから、行った。

生徒、一人一人、スピーチと、皆んなで合奏。
合奏の選曲は、わたしの好きなTV番組「情熱大陸」のテーマ曲。
とても良かった。

わたしは、本日は先約があったのだが、キャンセルして、孫参観会を取った。
スピーチで、中に、一人、こころに残る子がいた。

彼の好きな言葉は、「平和」。
今は夢はないけれど、長生きしたいです。
長く生きていると夢が見つかるかも知れないからです。
夢が見つかった時は、その夢に向かって頑張りたいです。
そのためにも、ずっと生きて夢が実現出来るようになりたいです。

みたいなことをスピーチした。
大人みたいだ。
生き長らえている、わたしのような高齢者にも夢を与えてくれる。
夢を持つことが、夢。
「大金が手に入ったら、今は買いたいものは思いつかないので、取り敢えず貯金します」に、近いものがある。
子供らしくないような、それでいて、令和の現代を表しているような。

保育所の時から知っている子もいたが、小さい頃と、全然、違っていた。
皆んな、成長している。
中学生になったら、また変わるだろうけれど。
新しい舞台が待っている子供たち。
次世代を担う彼ら。元気に活動してほしい。
応援している。

※写真は本文と関係ありません。

アートって何だろう?

2025-02-20 | 読む人々には興味ない話
わたしは、令和の世の中では、社会・非適合者かも知れない。
病名も、ちゃんと、つけることが出来る。
ただし、自分がまだ若く、学習期だったり、働き盛りの成人なら。
しかし、もうわたしは老後で、現役は卒業しているので、背負うものを降ろしてもよい。
と、自分で自分を定義付けている。
ついでに、甘やかしてもいる。
べつに何もしなくてよい、と。

義務と権利がセットだとすると、義務がないなら権利もないのか?
義務を背中から降ろすと、自由が手に入るのではないのか。
自由は、義務とセットか。
じゃあ、権利と自由の関係は?
義務を果たさないと、権利も自由もないのか。
義務と権利と自由の関係は?
自由を謳歌するには、責任がセット。
こんがらがってきた。

今のわたしでは、学校での学習や集団行動は苦手。
許されるなら、登校拒否になっている。 
親が厳し過ぎて、とても登校拒否はさせてくれそうもないが。

社会で働くのも、今のわたしには、能力と、やる気がないので、出来ない。
若い頃ならいざ知らず。
学んだり働いたりすることが義務だった時期を過ぎたから、もう頑張らなくてもいいのか。
目に見える立派な誇れる成果は無いが、目の前にあった義務はこなした。
それで堪忍してちょうだい。許して。もういいでしょう?

どんどん老化して、心身ともに破滅していくのだろう。
でも、好きなことをして、生きていきたい。

ちなみに、自分を解放する映画が大好き。 
他のgooブログで、面白そうな映画が紹介されていた。
2月下旬に、あまり近くない都心部の映画館で封切りされるようなので、ぜひ観に行きたい。
フェミニズムがテーマかと。

ところで。
「アートの定義は何ですか?」
と、いつもお邪魔する映像プロ(奈良在住)のブログで、読者さんの質問に、コメントされていた。
「定義はありません」
そう答えておられたような、、、。
「好き嫌い」や、「こころに響く」「響かない」は、人によって様々だろう。
感性は人それぞれ。

落書きアートでも、ユニークな力強いものもあれば、本当に退屈しのぎにやったような稚拙なものもある。
魂の発露のようなものもある。
脱力して、かえって良い味が出ることもあるし、単に暇つぶしだけのヒドイものもある。
暇つぶしも、適当な、いい加減なものは、こころを打たないことが多い。
例え、くだらないことでも、熱意をもって打ち込むと、熱情が伝わる。
個人個人の感受性や受け取り方は、千差万別なので、解説できないが。
でも、近所のコンクリート塀に落書きされているのを目にするが、精度が低い、つまらないものだ。
単なるイタズラ。気合いが入っていない。
一生懸命、遊んでない。
遊びや暇つぶしも、精一杯やると、自分でも想定していなかった、おもしろいものに変化することがある。
わたしは、そういう、意図しない偶然が造る、実は必然、みたいなものが好きだ。
とは言え、練りに練った挙句、別の意外なところからひょっこり顔を現す、、、

一生懸命のこだわりは、ある日、突然、突き動かされるものに変化することがある。
99.999%は、使い物にならなくても。
99.99999%の無駄は、0.00001%のものを引き出すことがある。誘発する何か、、、

自分だけのこだわりや、閃きに、ビタッと合致するものに出会った瞬間が、アートなのだろうか。
しかしアートは、実生活に役立つか?
アート分野ではなく、科学分野の発見や技術なら、画期的だ。実用性がある。

こころと技術が合体すると、世の中が動く。
膨大な時間、エネルギー、労力を費やし、実験、研究が繰り返されている。
ではあるが、科学がこころを追い越すと、厄介だ。

長いばかりの話になった。

※写真は本文と関係ありません。
旧山形県庁舎2階の窓から見た、渡り廊下で結ばれた県会議事堂。
火事により焼失後、1916年(大正5)に復興、完成。





涙が出ないお葬式

2025-02-19 | 日々のこと
お葬式に参列した。
平日だったこともあり、家族葬とは言え、がら〜ん。
喪主の姉妹と、参列者の我々姉妹2人以外には誰も知らない人ばかり。
血縁者は、この4人だけ。
参列者は、我々を入れて10人ぐらい?

次世代参列者は、ゼロ。
喪主姉妹が1番若いぐらいか。
平日なので、仕事、学校があるのだろう。
前日のお通夜は日曜日だったこともあり、子供や孫たちも参列していると想像するが。
しかしまあ寂しいものだ。

しかも、故人、、、遺影の写真、、、かつての知っている顔ではない。
棺、最後のご対面、、、ご本人、、、全然、面影がない。
まるで、テレビか映画の一場面のよう。
当然ながら、感情移入できない。
生きている間に、数回しか会ったことがないと、いくら血の繋がりがあっても、こんな感じになるのか。

私が幼い頃、数回、葬式や法要で顔を見た。
それから学生時代に1回、社会人になってから3〜4回、最後は今回の告別式本人(故人)の配偶者のお葬式。
火葬場に向かうバスの中で隣になり、お孫さんの自慢話を楽しそうにしてくれた。
10年以上前か?
顔を合わせたのは、生涯で通算、10回ぐらいか??
そう言えば、わたしが仕事をし始めた頃、1度お会いして、仕事関係で協力してもらった。
わたしが幼い頃と、成長してからと、近年と、ポイント、ポイントで顔を見たが、ラストは、最後に生きて会った時と顔が変わっていた。
喪主姉妹は、彼女たちが子供の頃とイメージは変わらなかった。

故人は、私が知らない顔になってしまった。
魂がもぬけの殻になって、顔は入れ物に過ぎなくなったからだろうか。
一つの時代が終わった。
次世代の顔を見ることが出来なかったせいもあり、終焉を実感した。


※写真は、昨年、秋に訪れた旧山形県庁舎。
(本文と関係ありません)
現在の山形県が成立した翌年、1877年(明治10年)に建築されたが、1911年(明治44年)年の山形大火で焼失。
1913年から復興建築に着手、1916年に完成したのが現在の建物。
写真チョイスは、個人的趣味に走ってます。


「野生の島のロズ」を観た

2025-02-19 | 映画
映画を見た。
「野生の島のロズ」
生まれて初めて見たものを親だと思う雁。
その卵を孵化させたため、ひな鳥に親だと思われてしまったロボットのストーリー。
声優は、綾瀬はるか、柄本佑。
なぜか、ずーーーっと涙がポロポロ、ハンカチが、ぐっしょりになった。
上映中、3分の2ぐらいの時間、涙が流れ落ちていた。
平日昼間ということもあってか、映画館のお客さんは、男性1人と、女性はわたし以外にもう1人だけ。
合計3人。ほぼ貸切状態。
男性には興味ない内容だと思うのに、3分の1が男性!(元々、トータル絶対数は少ないけれど)
しかも彼はまだ40歳前後?中高年にはなっていないような年齢だった。

他の2人よりわたしは、1番後ろの席だったため、彼らからはわたしの姿、様子、気配がわからなくてよかった。
なぜなら、、、わたしの手の動きがおかしい、、、
ずっとハンカチを顔のところに持っていったり、顎を拭いたり、、、頬をつたい流れ落ちる涙の処理のため、落ち着きがない。
タオルハンカチなのに、ショボショボになり、上映終了後、トイレに行って顔を見ると、瞼が腫れぼったかった。
が、それは、元々のわたしの顔かも、、、。

それはいいとして。
わたしが、なぜ、こんなに泣けるかというと、、、
登場するのは動物とロボットという、人間は出てこないところ。
ヘタに人間で実写版にすると、リアリティを追求するとなんだか嘘っぽくなる。
動物とロボットで、しかもアニメ!!
生身の人間ではないところ、生々しい変な熱さが無いところに、無機質感がかえってリアルな想像力を掻き立てる。
ハナから、あり得ない現実味がないストーリーだからこそ、感情や好み、思い込みや偏見、思考に邪魔されない。
ところどころ「この展開、あり得ないわ」とツッコミを入れたりするものの、それはそれとして余裕で楽しめ、その一方で雑念が削ぎ落とされる。
自分が持つ主観とは違う頭脳ゾーンに、真っ直ぐ素直に、内容が入って来る。
とは言え、あり得ないこともないかも知れない。

親の役割を既に終えたわたしには、刺さる、刺さる、、、グサグサ、グサグサ。
子育ては義務観だけでは出来ない。
愛がないと。
親に対しても感謝の念が生まれる。
頭で考えるのではなく、こころから。
子供を自立させるのが親の勤め。
確かに確かに確かに。
子供は自立させたが、かく言うわたしは、自立しているのだろうか。

またもや自問自答に移る。
涙があれだけ出たということは、心身に良かった。
涙を流すのはストレス解消になるらしい。
だが、大量すぎる。涙腺、故障。修理不可能。
きっと心身が泣くことを欲していたのだろう。

帰りは雪雨が混じりかけていた中、早足ウォーキングで自宅に向かった。


みるみる、まるまる

2025-02-17 | 日々のこと
自分の引きこもりの、目に見える変化を実感した。
それは、、、
喪服がピチピチ、ぎゅうぎゅう。ぱっつん、ぱっつん。
洋服なのに、まるで着付けをしてもらった和服を着ているような感覚。 
ぎゅーっと帯で締められているような、、、。

本日は親戚のお葬式。
なのだが、、、服に問題があるのか、わたしに問題があるのか。

そう言えば、引きこもり期間、きっちり行なったことは、食べて寝ること。
しかも、パクパク、ぐーぐー。
何もせず、何も考えず、とらわれず、自然のなすがままにしていた。
快適だった、、、が、、、結果は、、、明確、明白、可視可能、、、脂肪増加。
わかりやすい。
やはり、身体は動かしたほうが良い。

反省と戒め、さらに、ふっくらボディは元に戻るのだろうかという不安、、、
苦しい喪服を一日中、着用する今日は、長い1日となりそうだ。

※記事と写真は関係ありません。