蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

テーマパークに優る、ホンモノの重み

2009-07-31 | 
去る連休、飛騨にマイカーで行って来た。
予想通り、渋滞に巻き込まれた。



うんと前に私が英語を習っていた頃、
在日アメリカ人教師たちに、とても評判がよかったのが、飛騨高山。
それで、興味を抱き、一度行ってみたかった地のひとつだった。
世界遺産の白川郷も、ぜひ訪れてみたかった。

白川郷は、時空をひとっ飛びした重厚なテーマパーク(みたい)だ。
こういう感じ方、実は、よくない。
美しい花を見て、「まるで造花みたいにキレイ」と感激するごとく
体験より先に情報(シュミレーション)が入ってしまった現代人の受ける、情報弊害か。
情報と実物の、答え合せのようだ。本末転倒もいいところだ。
しかしホンモノに触れ、感激ひとしお。
200年近く前に建てられた、どっしりした合掌造りの家々。
人々の知恵と歴史が刻まれていた。



 

飛騨高山にも足を伸ばした。
古い町並みが続き、美しく整えられている。
これは、ガイジンさんには、受けるだろうと思った。
だって、日本人で、幼い頃から古民家に慣れ親しみ、結構年を重ねた私でさえ、
「わぁ~、古き日本!!」と感激したのだから。

お土産屋さんが並ぶ中にある、飛騨民族考古館に入った。
そこには、お宝がギッシリ。
展示方法や保存方法が、結構ずさんなので、せっかくのお宝が痛々しかった。

江戸時代の御役所「高山陣屋」も見学。
全国で唯一現存する代官所だ。
飛騨の政治、経済、治安など、人々の暮らしに直結するお役所で、
300年にもおよぶ、歴史のお勉強をみっちりした。
(しかし、なぜか忘れるのも早い・・・)


お土産屋さんには、「さるぼぼ」が、所狭しと並ぶ。
これは、かわいい赤い布で作られたお猿さんのぬいぐるみで、
私は初めて知ったが、昔からの郷土玩具らしい。
雪深い季節に、外で遊べない子供のおもちゃにと、各家庭の母親たちが作ってあげたそうだ。
災いが去る(猿)、家内円(猿)満になるなど、縁起の良い物として、お守りとしても使われているとか。
今はキャラクターグッズとして、いろんな色や形、グッズになって展開されている。



高山市の宮川沿いに、明治時代の町家の古い蔵を改造した、女性専用のお風呂があった。
そこに、夜、朝、と、2回入った。
ノスタルジックで、心地よい空間・・・、まったり、お気に入り。
川のせせらぎをBGMに、ひんやりした風にあたりながら、時間を忘れた。
食事よし、お宿よし、眺めよし、
都会の喧騒から離れ、江戸時代にタイムスリップしつつ、
それでいて、活気のある飛騨高山、
美しい自然と街並みに、元気をもらった。



失われた、ピュアなもの

2009-07-12 | 映画
「愛を読む人」を観た。

ストーリーを紹介するのは、やめる。
鑑賞しはじめて、すぐに、頭の制御装置が突然、止まり、感情スイッチがONになった。
予期せず、すっと、入ってきて、突如、心の琴線に触れた。
なにしろ、私は、全霊全身で魅入り、感動した。
いい映画だった。


1958年、ドイツ。15歳の少年と21歳年上の女性が恋に落ちる。
それは物語の発端なのだが、・・・・。
ハンナ(ケイト・ウィンスレット)は、ナチス戦犯としての暗い過去を背負う。
彼女に、ああいう過去がなくても、
二人はうまくいかなかったのは容易に想像できるけれど、
自分にはない、純粋なものを持っている少年に、泣けてきてしかたない。
思い出すだけで、涙があふれてくる。

純粋な少年が、初めて大人の愛を知る。
愛する女性と、ひと夏の経験をする少年は、キラキラ輝いていた。
表情ひとつひとつが、まっさらで、ウソ偽りのない心を表していた。
少年の頃の、ほんの一瞬だけ、そういう美しい瞬間があるのだろうか。
そのあまりの美しさに、心が痛んだ。


私にはない、ピュアなもの。
いつ、どこで、失ったのだろう・・・
純粋さは、年とともに失われる。
そもそも、そんなものは生まれたときから持ち合わせていなかったのかも知れない。

無垢などでなく、ただ無知なだけの若い時代だった。
生き方そのものが、不純と打算と保身、矛盾と欺瞞、マヤカシで成り立っている。
自分に正直な心、その心さえ、渇いている。
だからあんなに純粋な少年を見ると、頭を通過せずに、涙がこぼれる。
私には昔も今も、まったく純粋さのカケラも無い、そんな自分が情けなくもあり、
もともと無いものを取り返すことも当然できない、無力感。
いまさらながら、再認識した。
自分には、一生、ありえない、手に入れることのできない美しいピュアなもの、
例え、映画の中であっても、それに出会うと、切なく哀しい。

ストーリー展開から感じるのか、全編の美しい映像を通して感じるのか、
監督のワザで感じさせられているのか、俳優の卓越した演技のスゴサなのか・・・
あの映画を単なる日常の恋愛映画にしてしまっていないのは、
そのテーマ、手法によるものが大きい。
戦争という重い歴史を抱えたドイツの戦後の苦悩、歩みと、主人公たちの人生とを
巧みにオーバーラップさせている。
快楽的な、俗物的恋愛、というティストが全く排除され、
静かに深く、苦悩しながら、思いを醸成させている。

少年役のダフィット・クロスは、キャスティング決定時は15歳、撮影開始は16歳だったが、
SEXシーンは18歳になるまで待ったそうだ。
ケイト・ウィンスレットの、ぶっきらぼうな骨太ドイツ女性っぽい役作りも、とてもよかった。
その愛想のないキャラクターには、とても深い背景が隠されているのだが、
映画を観終えた後、それぞれの表情にはそれぞれの理由があるのに、あれこれ気付いた・・・。
(気付くのが、かなり遅い・・・)

男女の純粋な愛への不信感、永遠の愛を全面否定している私には、
衝撃的なメッセージとなった。

その後悔とも、懺悔ともとれるものが、私の心の中で反乱を起こしたのか、
涙は一向に止まらない。
上映中はずっと、映画終了後も、家路に着く途中の電車の中でも、
電車を降りてから家までの徒歩の間も、涙があふれ出る。

私はピュアなものだけの中では、生きていけない。
きっとハンナと同じように、せっかく社会に戻れるという日が来るというのに、
その直前に自殺してしまうのではないかと、思った。
雑菌、細菌がウヨウヨいる世界でしか、私は生きていけないのだろう。
もう、戻ることができない世界に触れ、心が悲鳴をあげているのか。
それとも、いつまでも頑なに固い殻を被ってないで、暖かい心を持つには年齢はない、
今からでも遅くないというシグナルを読み取ったのか。

あふれ出る涙の訳は、とても深いところにあるようだ。

享楽的生活

2009-07-11 | 読む人々には興味ない話
○○で美味しいものを食べた、▽▽で素敵なものを買った・・・
これは、決して自由なのではなく、お金やモノに縛られているだけだ・・

そうおっしゃる方も、いるそうだ。なるほど・・・

私の考えは、こうだ。

お金を尺度にしない見方。
お金があろうが、なかろうが、
美味しいものは命を延ばす反面、命を縮める。カロリー高いから。
モノは、買った分だけ、捨てるものが増える。今、流行のエコの逆。

客観的な現象として捉えてみた。
なので、決して、お金だけに縛られているわけではない。


また、欲求の充足を、「お金」という側面から見ると
お金がなくて、ガマンしているケースと
お金はあるけれど、別に、行動に移らないケースがある。

人に羨ましがられたくて、目に見えるカタチでお金を使うケースと、
自分の満足のために、人知れずお金を使うケースがある。
また、そのMIXバージョンで、外からは見えない使い方で、お金を人知れず使うが、
実は、心の中では、人の気を惹いたり、羨ましがられたり、人に勝ったりすることで、
満足を得るというケースもある。

お金を使うことによって、ストレス解消をする場合もある。
お金を何に使ったかではなく、お金そのものを使うことで満足しているケースだ。

お金をあまり使わずに、思いを遂げるのは、ハードなのかも知れない。
多くの場合、成功への近道は、やはりお金か。

お金とあわせて、頭、体、心を使うと効果倍増だが、
それら全てを使っても、できることと、できないことがある。


いずれにしても、
お金は、金額の多い少ないによらず
殺人事件や、ありとあらゆるトラブル、悩みの種にもなる。
お金に振り回される、ということは、お金があるなしにかかわらず、
人間の持っている業のひとつだ。
業が深すぎて、自滅しないように、各自、セルフコントロールする制御装置が、
人間に備え付けられているはずなのだが
時として、壊れている人もいる。


自分が主体か、お金が主体か。
お金を使っているのか、お金に使われているのか。
知らず知らず、お金に振り回されていることもある。
欲求の根本を見極めること。
自分の心の声をきくこと。


マリー・アントワネットは、キュートで大好きだが、
私の目標ではない。マネをしてみたいわけでもない。
享楽的生活は、本当に楽しいのか、
積み重ねた結果や、将来のこと、ただぼんやり考えるのではなく、
足をちゃんと地に着けて、しっかり考えてみるべきだ。

でも、マリー・アントワネットもそうだが、
環境や境遇によっては、いくつになっても、そういったことが出来ないケースもある。
学習の仕方そのものがわからないと、その効果も、見当もつかないだろう。
類は友を呼ぶので、同じような人ばかりが集まっている中では、
新しい考えや、見方、発想はできないだろう。
深く物事を考えてみると、また違う世界が広がると思うのだが・・・。


自分が、本当に求めているものは、何?
知っているのは、自分だけだ。

夏時間の庭

2009-07-10 | 映画
仕事が始まる前の時間を利用して、朝一番に上映される映画を観た。

「夏時間の庭」。フランス映画だ。
マニアックなミニ・シアターでしか上映されていない。
今週で、上映が終わりだと知り、何が何でも見に行こうと思った。
たった60席の小さな映画館だった。


そもそもは、私が20年以上前から会員になっている、ある会からの
活動報告の中で、Yさんによって、この映画のことが書かれていた。
私の尊敬するYさんが観たという映画に、興味を持った。
そして、素敵な題名にビビっと感じるものがあり、映画館に走ったというわけだ。



大叔父(画家)が残したフランス、パリ郊外の広大な家と庭。そして、芸術品の数々。
そんな大層なものを管理する心労、負担を、
子供たち(といっても、もう中年)に負わせたくないという、老いた母親。
「私が死んだら、思い出も消えるのよ」と、遺産を売り払うことを指示する。
長男一家だけがフランスに住むものの、
長女はアメリカ、次男一家は、中国、と、住まいの拠点はフランスではなくなっている。
各地での生活を確立するためには、各家庭、それぞれ資金も必要だ。
フランスの家は、もやは母親の死後は、実際には必要とされない。
家族の思い出が、たっぷりつまった、愛着ある大切な家、庭、愛すべき品々だが、
現実問題に直面し、その維持、管理に決断を迫られる。

日常使いされる名品、逸品。さりげない、上質の極み。
映画のために、芸術品の数々をオルセー美術館から特別に貸し出され、撮影されている。



母の死後、3人の子供たちは、遺された家を売ることを決意し、
アール・ヌーボーの家具など、コレクションの一部は、オルセー美術館に寄贈する。
(コローの絵は売却してしまい、苦い思いとともに、少し後悔するが・・・)
家が人手に渡る直前に、高校生の孫娘が、祖母が遺した家でパーテイを開く。
(高校生が20~30人ほど集まって、音楽ガンガンの、どんちゃん騒ぎなのだけれど)
思い出が刻まれている家で、最後の時を過ごすが、知らず知らずに涙が頬を伝う孫娘。
カタチのあるものは、なくなるが、カタチのないものは受け継がれていく。
心にはいつまでも消えることのない、家族の絆を感じながら・・・。
孫娘たちの若々しいパーティ・シーンが続いている中、映画はそっと終わる。

オルセー美術館協力なのだが、
カタチのあるものの継承こそ、オルセー美術館の存在意義そのものだ。
古の人々が大切に使っていたもの、熱情を注ぎ、愛でていた美術品は、
人から人へと渡り、長い長い時代を経て、展覧というカタチで、もう一度、息を吹き返す。
個人が所有していた時が、実は一番、芸術品は、血が通い、濃い愛で繋がっているのだろう。


この映画は、派手さは全くないが、私の思いと重なる部分がとても大きい。
静かに見つめ、考える目が、そこにはある。そして、移ろってゆく。
これからの自分の生き方を大きく左右する示唆に出会えるかも、と期待したのだが・・・。
自分の思い、心の問題と、現実の問題とが交差する。
答えは、自分で考えるしかない。

リアルと、バーチャルの、はざ間で

2009-07-05 | わたし
私は、ブログを自分のために綴っています。
読んでいただく方がいらっしゃれば、それはそれで励みになります。
しかしながら、自己中心で大変申し訳ないのですが、
あくまでも、自分のストレス解消のためのブログです。

人様に言えないこと、
本人に直接言えないこと、
心の叫び、
いいことも、悪いことも いっぱい、いっぱい、
心が感じたこと、心が動いたこと、心の目で見たこと、実際の目で見たこと、聞いたこと
それをぶちまけているのです。
そんなものをアカの他人様に読んでいただくということ自体が、実に恐れ多いことなのですが
別に、認めてほしくて、「ほら、ほら、いいでしょう??!!??」の気持ちなど、サラサラないのです。

ブログの世界と実際の世界は、多少、表現や、時間、感情による誤差があります。
その誤差のある自分と、行ったり来たりして、私は楽しんでいるのです。
ちょっと距離をおいて、自分を見つめているのです。

現実のことが、私のストレスになったり、逆に、ふわふわ夢みたいに膨らんだり
バーチャルの世界で戯れている時の私は、
あれこれ、現実の世界に、呼び戻されたくないのです。
だからといって、バーチャルの世界に、どっぷりワープして我を忘れるほど、
現実が嫌で逃避行しているわけではありません。

実際にリアルに存じている方であろうが、存じていなかろうが
コメントは楽しみにしています。
(いつも、○ャ○ット様、コメントありがとうございます。)
交信のチャンネルが違うということは、微妙なプラス効果をもたらします。

私のブログは、世界の事件、真実を動画で見るYouTubeなどのように、
事実をネットでリアルタイムに知ることが出来る、という類いのものと意図が違います。

直接リアルに私を知っている人が、このブログをご存知で、読んでおられるケースもあります。
その中で、読まれても、全然へっちゃらな人々もいます。
全く気にしていません。
しかしながら、人物によっては、お読みになられて、どうお思いになるだろうかと、
私があれこれ気にしながら、綴ることもあります。
顔がチラチラと浮かんでくることもあり、そのことで、書く内容に制限が加わります。
それって窮屈です。
書きたい時に書くことこそが、ストレス発散になるのですから。
見えない手かせ足かせが、勝手に私を縛りつけます。

ここは、あくまで、無名な民間人である私が、匿名で綴るブログです。
オフィシャルブログではないのです。
実名や芸名で、有名人(政治家や芸能人、アーティストなど)が綴る公式なものとは趣旨が違います。
彼らのブログは大勢の人の興味を惹き、影響力も絶大ですが、
一般人のブログは単なる自己満足に終わります。
閲覧数が多い、人気ブログもありますが、だいたいの無名ブログは、その存在は闇のなかでしょう。
リアルな反応がほとんどないというデメリットは、
読む人の反応をいちいち気にせず、自分で好きなことが自由に綴れるというメリットでもあります。

小さな玄関を開けて、どうぞ、どなたでもいらっしゃいませ、と開店しているものの
ズカズカと土足で入ってこられると、困惑してしまいます。
ささやかな、私の大切な世界を、どうか、そっとしておいてほしいのです。











寂しいオヤジたち

2009-07-02 | 人生
ある、お方、K氏。
肩たたきリタイア直前の仲間と飲んでから、ほろ酔い気分で我が家へ。
誰も居ない。家族は皆、仕事。自分が一番早い帰宅だ。
かつては、午前様のレンチャンだったのに。
めっきりお酒は弱くなっている。
今は待つ身。
家族の帰りを待つ家での待ち時間が、寂しいと言う。

つなぎタイムのほんの一瞬。
常に誰かと一緒でないと寂しい、独りぼっちはイヤ、という理由以外に、
もし寂しさを感じるとすると、その人、K氏の生き方に関わると思う。

家族は、それぞれ仕事で不在。
もう大黒柱であるK氏の手を離れている。
結構なことだ。
いつまでも専業主婦面(づら)、学生面されなくて。

マイルドな第二の人生が待っていると思う。
で、何がマイルドなのか?



寂しさの原因、わかるような気もするけれど。
人生のステージの変わり目、誰もが経験すること。
「かわいいオジイチャン」という生き方もある。
映画「グラン ・トリノ」のクリント ・イーストウッドみたいな硬派な生き方もある。
どういう生き方を選ぶか、だ。

男性はリタイア後に生きがいを失い、
趣味を持たない真面目な人ほど、アルコール依存症になったりするケースが多いとか。
地域のお付き合いも、妻まかせだったりする。
仕事人間はリタイア後の生活に、いかにうまくスムーズにシフトするかだ。
熟年離婚は、妻が働いているケースには見られるものの、専業主婦の場合は稀なように思う。

経済力と生活能力、バランスが大事だ。
一家の経済を担う義務から解放され、束縛されることがなくなった家庭内外のステージで、
おカネの事情で離婚出来ず、窮屈な思いで暮らさなければいけない夫婦。
それは、豊かではない。
老親や配偶者の介護事情なども避けて通れない。
せめて心だけでも豊かになる方法を、どうにかして自分で独自に見つけ出さなければ
これからの長い老後を生き抜けない。

余談だが、
K氏も、お仲間も、老後の蓄えは、とても十分とはいえない様子。
彼らは口々に、こう言う。
「俺らは長生きしない」とかで、いたって、お気楽。
飲んで飲んで、遊んで遊んで。
そしていつも、「生活が苦しいのは政治のせいだ」と、ぼやく。
まあ、そういう生き方も、アリだ。
つくづく、そう思う。

ただ、私は貧乏性なので、ついつい、機会があれば、あれこれ考えてしまう。
何も考えずに、何も努力しないで、夢うつつ、なんてことが、出来ない。

きっと私は、ぱぱっと、死ねないだろう。
でも政治を恨む前に、自分を省みるだろう。

笑って、さよならするまで、まだまだ時間はある。



ゼロからスタート!!

2009-07-01 | 趣味
さっそく、社交ダンスの個人レッスンにトライしてみた。
先生は、181cmの長身、しなやかなリード。軽い足取り。
的確に教えてくださる。無駄がまるでない。
一秒も、一言も、聞き逃すまいと、全身全霊、集中する。

「岩にしみ入る蝉の声」とは、言わないが、
「カラダに染み入る先生の指導」・・・といったところだろうか。
今まで、あんなに行き詰まっていたのに、なんだかふっきれたような気がした。
一から初心にかえって、スタートする思いだ。

というわけで、私は、浮かれている。
昂揚している。

ノリノリ。(→平気で死語を使う

今まで気分が落ち込んでいた分、浮上しているのかも知れない。

自信がなかったことが、やる気が出て、前向きに取り組もうという気持ちになっている。
モチベーションは、上がりっ放し。

浮かれた後には、また落ち込みが、おそらくやって来るのだろうけれど。
とりあえず、やってみようと思う。

私は、単純だ。