蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

哲学より、ご飯

2021-11-27 | わたし
長年、ブログを拝読している方からコメントをいただき、嬉しく思っている。
延々とブログを書いても、なかなか直には手応えを感じ難いところがあり、自己満足で終わることが多い。
コメントをいただいたその方のブログは長きにわたり多くのファンを抱え影響力があるもの。
わたしごときの細々ブログにお越しいただき光栄に思う。
今回お寄せいただいたのは、音楽の話題についてのコメントだった。
ちなみに、わたしは音楽関係のブロガー裕さんのブログも愛読している。
音楽療法があるように、音楽は活力や癒しを与えてくれる。
これからのわたし時間を益々豊かにしてくれそうで、楽しみが広がる思いだ。

音楽もそうだが、意図しない偶然の出会いというものがある。
ほんのちょっとした、ふとした瞬間に、すっとこころに入ってきたり、感動したりする。
偶然かと思いきや、必然かも知れない。
そういう目に見えないものがある。

運の良い人は、良くない縁は自然に切れたり、立ち消えになったりする。
無理矢理繋ごうとする縁も、やがて切れることがある。
では、腐れ縁も縁のうちなのか?
腐れ縁も、害虫を食べてくれる蜘蛛みたいなもので、意外なところでプラスに作用していることもある。
全ては神様の思し召し?
とは言え、特定の神様を持たないわたしは、何神様なのか、よくわからない。
が、あれこれをミックスして良いところ取りをした「わたし教」の教祖であり、たった1人の信者でもある。

日本には自然の神様が、あちこちにいる。
台所の神様も、木の神様も、山の神様も、縁結びの神様だっている。
苦しい時の神頼み、なんていうのは、どこの宗教も似たり寄ったりだろう。

と、話は逸れに逸れている。
一旦脱線しないと、なかなか話が進まない。
で、ここでアタマに浮かんだことがある。
たんに、書きたいことが出てきただけなのだが。


先日からの涙を伴う悩み、、、舵を切らない選択をしたのには理由がある。
といっても、後付けのこじ付けかも知れないが。

わたしは悩みに悩んでいたが、結局、自分で決められずに、時間切れとなった。
保留というコースを選ばざるを得なかった。
時間切れといっても、じつに実生活に則したものである。
予約している店のキャンセルはどうしよう?だの、レッスン日目前までにはレッスンを受けるかどうか決めなければならない、だの、、、
参加、不参加の意思表示をしなければならない。
嫌ならキャンセルすれば良い話なのだが、なぜか、せっかく予定していることを変えるのにはかなり大きなエネルギーが要る。

(話は飛躍するが)、哲学者には女性がいないのは、食事の支度をしないといけないから、その時間が迫ってきているから、取り敢えずは思考を中断して、ご飯作りにかかるからではないだろうか。
今の時代にそんなジェンダー差別まる出し的なことを言うと激しく時代遅れと一蹴されそうだが。

それはさておき、
一昨日、仕事で少し遅くなった、(長女の)お婿さんが食卓を囲んで(保育園児は膝の上、乳幼児は和室でネンネ)、前に座る小学生の男児孫たちに、「今の時代は、食事の支度をするのは女性とは決まってないんだよ」と、淡々と力まず、さらっと言っていた。
その日、長女は、始発電車に乗って東京日帰り出張の日で、わたしは保育所お迎えと食堂当番をしていた。)

で、、、、、
話が何度も目まぐるしく変わるが、、、一回転して、、、行ったり来たり、、、
わたしは、哲学者にはなれないと痛感した。
物事の真理を追求するより、ご飯の準備に追われる。
これは、プラス面は、こころの病気にならないこと。
答えを出すまで病んでいる暇がない。
(暇も不足するが、脳が不足)

なにごとも、中途半端なわたしは、大きな功績は残せないが、程よい幸せを手に入れることができると感じる。





見え過ぎる目と、重過ぎる口

2021-11-26 | わたし
わたしは目が見え過ぎる。
視力は悪いが、物事に対する目が見え過ぎる。
見たまんまを口にすると、絶対に良くない。
一度、アタマと相談する。
言っていいことかどうか?
ストレートに言っていいのか?
言わない方がいいのか?
表現方法を変えたほうがいいのか?
違う内容を言ったほうがいいのか?

自分の意図や思惑がある場合、策略、戦略を練るために色々、あの手この手を考える。
だが、わたしの場合、考えて考えて考え抜いて行っても、失敗したり、裏目に出たりすることが少なくない。
自分の欲を捨てて(というか、考える能力をオーバーしてしまい)無我の境地になった時が、良い方向に向く。
勘に任せる。
そうすると、運とタイミングがくっ付いてきて、事態は動く。
変に欲張ると、ろくなことがない。


ちなみに、今、あまりスッキリ納得できないかんじで事態は進んでいる案件がある。
自分の思っているような流れのかんじではないが、いじくってもまたこんがらがるかも知れないので、経過観察といったところか。
とりあえず、舵を切らない方向に進んでいる。
帆船か?
風まかせはいいが、いつになったら到着するのやら。

どう、いかに、わたしの思いを伝えるかが目下の課題になるが、わたしがちゃんと説明できるか自信がない。
でも、トライしようと思っているのだが、、、。
あれこれ登場人物が複数、現れ助言してくれるのだが、その人々に、事態をちゃんと明確にハッキリ説明していないため、皆さん、想像で持論を述べてくださる。
この人達とは、今年の夏に知り合ったばかりなのだが、日も浅いにも程があるにしても、ひょっとして、(今のところ)友達と言えるのかも知れない。

蛇足。
昨日、玉置浩二の「メロディー」という弾き語りのような曲をFMラジオで聴いて、涙がポロポロ流れた。
大泣きに近い。
壊れたか?
わたしは昔から感情を押し殺してきたので、一気に抑えていた感情が押し寄せたか?
あるいは、玉置浩二がすごすぎるのか。
良い歌に涙する、って、意外と気持ちいい。

パワハラ、モラハラ用語

2021-11-24 | 読む人々には興味ない話
柿のシーズン。
あちらこちらから、たくさんいただく。
お裾分けというか、箱ごと知り合いにそのまま送る。
うちが購入して既に送った人もいて、その人にはもう送れないが、息子には何重に重なっても送る。
夫の息子に対するラブコールはなかなか涙ぐましい。
冷たくされても、なお。
父子ってそんなものなんだろうか。
わたしは、いたって温度が低い。
離れたがっているものを無理矢理、囲い込もうなんて、さらさら1ミリも1μも思わない。
すがりつきは、みっともない。
高圧的は最も嫌。

兄も母にひどい(過保護、過干渉)仕打ちを受けて可哀想だ。
本心から気の毒に思う。
あと少しで、重石が取れるはずだから、兄よ頑張れ!
だが、母と兄、どちらが長生きしそうかというと、、、、歳の順とは限らない。
兄は生きているうちに、重石が取れた清々しさを満喫することが出来ないかも知れない。

兄もわたしも時代が時代なら、ドロップアウトしていると想像する。
たまたま学費が払える経済力のある家庭に生まれ育ったため、どうにかなった。
わたしは、かまいたち(お笑い芸人)のア○ーバTV番組風に言うと、女ヒモ。
家庭にお金を入れず、住宅費、生活費などを浮かして、好きなことをして遊んでいる。
(だが、配偶者がいると、とりあえず、ヒモの肩書は外れる)
親の資産や遺産を食い潰す場合も、穀潰し?みたいな感じになるのか?
事業に失敗した場合は?

そもそも穀潰しって?
「ごくつぶし」と読む。
ものすごいモラハラ、パワハラ用語。
説明なりなんなりを読めば読むほど、気が滅入ってきた。
穀潰しって、わたしのことなんじゃない?
自己否定は鬱に突入する危険性を孕んでいる、、、ので、自己否定しない方向に自分で舵を切る。

穀潰し、と言われている側にではなく、言っている側に目を移す。
(わたしの周りには、そんなことを言ったり態度に表したりする人はいない。
わたしが勝手に、今の時代ならそうかもしれない、と想像力逞しく、悲観しているだけ)
じゃあ、あなたは、穀潰しではないにしても、効率的、合理的な動きをして、最高に能率よく、余すことなく能力を発揮したのか?
その能力や結果は、すべての人が認めているのか?
質はどうなのか?
自分を肯定したいだけなのではないのか?

家族に穀潰しがいる人は、どう接すればよいか、とご親切に導いてくれるサイトまであった。
役割を持たせよ、だそうだ。
会社にも穀潰し社員がいるそうだ。

何もしないほうがまだマシで、下手に何かして、マイナスの結果を招く場合もある。
何もするな、とはわたしは言わないが、皆んなが我も我もと動くと摩擦を生じる。
まあなんでも、ほどほどが良い。
何も建設的に生み出さない場合は、生きる権利がないのか?
そんなこと言ったら、若者が多くの非生産的高齢者を支える税システムはどうなるのか?
過去になんらかの役に立った人は、その功績を少しずつ削り取って、食べていっているのか?
功績は、お金だけではない。

まあ、あまりにも目に余る穀潰しはどうかと思うが、世の中、「穀潰し」カテゴリーに属する人々は少なくないと思われる。
すべての人に優しくなければならない今の社会は、大変デリケートな時代である。
穀潰し側から見た景色と、穀潰しと接する側から見た景色と、外から見た景色は違う。

自分を必要以上に声高に肯定する必要はないが、否定しても人生、面白くない。
で、、、自分は穀潰しなのか?
ブログで暇潰しではなかろうか。
と、笑えない冗談をマジメに言ってふざけている。


家事の価値

2021-11-20 | 日々のこと
この頃、、、
何もしない瞬間を長く保つ。
立ったり座ったり、窓を開けたり、お茶を飲んだり、トイレに行ったり、、、も、しない。
ひたすらじーーーーっと座っている自分。
巻きスカートのお尻部分がクチャクチャ皺だらけになっている。
わたし、、、いよいよ壊れたのか?

やるべきことは山積み。
しかも目の前に迫っている。
何がしたいわけでもなく、何もしたくない。

FMラジオでは青梗菜の好きな食べ方だとか、典型的BGMネタが流れている。
何もすることがなくて(あるけど)退屈すぎて、偶然、初めてア○ーバTVをスマホで見る。
かまいたちがMCをやっている番組。
中で、それだけが無料の回のものを見る。
他の回のも見たいが2週間お試し無料になっているため、2週間後の継続解除手続きの煩わしさを憂慮して、見るのを我慢した。
どんだけ、めんどくさがりなんだ?わたし。

実に面白かった。
ヒモを全面的に取り上げ紹介。
ヒモの極意が語られ、実際に実践、成功している男性ヒモたちが登場する。
その日の無料版は、特に面白かった。
他の回を見てないのに、比較もしないで言い切るのは矛盾しているが、矛盾を承知で言う。
内容が深いのだ。

この日のヒモさんは、身長163?センチ。30歳ぐらい。
別にカッコいいわけでもなんでもない、普通の背が低めのメガネ男性。
ただし、高学歴(早稲田大学卒業)だが、就職経験ゼロ。
ヒモ稼業一筋。

このヒモ稼業の定義は、従来の定義を広げて家賃も生活費も一円も払わず、その分、浮いたというもの。
貢がせたり、お金をむしり取るわけではない。
女性を泣かせたり、悲惨な目に遭わせたりしない。

すごい皮肉の込められた番組だ。
なぜなら、このヒモ君は、真面目な専業主婦の日常とほとんど変わらないように思う。
早い話、同棲カップルなのだが、料理、掃除などの家事全てをヒモ君が担う。
しかもかなりの腕と、相手の好みに合わせた気遣い。
かまいたちの一人は、これだけヒモ君に細やかに気を回して尽くしてもらったら、女性は黒字だと言っていた。
このヒモ君、大失恋を過去にした経験も踏まえ、女性のこころを掴む極意を掴んでいる。
とは言え、男性らしさを出したら途端にアウト。
常に下から潜り込むように女性のニーズをさりげなく満たすよう気をつけている。
まず初めの第一歩は、自分が女性に受け入れられていることが大前提。
相手に好かれていない状態で、自分から好きになったりしない。
選から漏れている自分を好きになってもらう努力などしない。
選んでもらった人の中から選ぶ。
そうしないと、努力はいくら積み重ねても実を結ばない。
このあたりは、熾烈な受験戦争をクリアして身につけた戦略か。
目標を定め、知識と思考力を課題に合わせて組み立て、能力をいかに活用するか、せっかくのハイスペックを無駄にするのはもったいない。

相手が求めていることを求められる時にする。
自分軸で行わずに、相手軸で動く。

相手の女性が得意分野である仕事を支えたり、自分が出来る範囲でお手伝いできたらいいと言う。
忠実な部下?腹心?

だが、あまり一人だけに深く執着しすぎないためにも、ネットワークは広く持ち、200人ぐらい飲み会要員の連絡先は知っているという。
二人の関係が破綻しても、代替え要員は確保している。
リスクヘッジ対策。

経済力を彼女が担い、家事をヒモ君が担う。
「ヒモ君」を「彼」と置き換えてもいいし、「彼女」と置き換えてもいい。
「専業主婦」でも「専業主夫」でもいい。
あえて、「ヒモ」と定義するのは、ア○ーバTV番組側の仕掛けである。
見え見えの再生回数稼ぎ、人気取り策略。
かまいたちも、最初は、このヒモ君に批判的だった(番組の意図から批判コメントが求められる)が、段々コメントに窮していた(と、わたしは受け取った)。
そして、最後の、「彼女のほうがずっと得してる」、、、という〆につながる。
良い人をゲットしたね!と。
まあ番組側の意図、罠にまんまとハマるのは癪に障るが、感心してしまった。

専業主婦って、死語なんじゃないかと思った。
専業主夫も、同じく死語かも知れない。
専業は、その夫婦や家庭がお互いに満足していれば何の問題もなく、他人が外からどうこう言うものではない。
、、、にしても、、、古いシーラカンス女性のわたしとしては、逆説の切り口が斬新で面白かった。

スマホで、このア○ーバTV番組のすぐ下あたりをスクロールすると、別のYouTubeがズラズラアップされている。
70代で離婚した専業主婦女性YouTuberが、離婚の原因となった夫の暴言を暴露していた。
「家事にはなんの価値もない。この寄生虫め!」だそうな。
今時、そんな男性がいること自体、ネタではないかと疑いたくなった。
まんまとひっかかり、YouTubeを見た後、やたら調味料が効きすぎた食べ物を食べた後の気分になった。
大袈裟な過激キャッチコピーには、近寄らないほうが賢明だ。
(事実、実際の話だったとしても)

田舎生まれ、田舎&街育ち

2021-11-19 | 思い出
今日は、今まで何度も書いていることをまた書く。
何度も同じお店に入って同じ品を注文するように。
書くことで、自分の癒しになる。
が、同じ内容の記事が並ぶだろうけれど、投稿日が違うから、違うもの扱いということにしよう。


わたしが生まれ育った故郷。田舎。
江戸時代となんら変わらない田園原風景。
秋の米収穫が済むと田んぼには刈り取られた稲の束を斜めに交差させて立てかけたものが、稲の切り口も新しく点在する田んぼのあちこちに見られる。
その田んぼで遊んだり、どこからか草が燃える匂いがしたり、、、。

明治中頃生まれの祖母。
ジャガイモ、茄子、きゅうり、トマト?、玉ねぎ、ネギ、ほうれん草、ニンジン?、野苺、いちじく、グミ、、、などなどは、家の畑(家庭菜園)から採って食卓へ。
味噌は一から手作りで、大豆を茹でて、ずっしり重い鉄製の器具(手動ミンチみじん切り器)に入れて、横付けされたハンドルをぐるぐる回して荒いペースト状にする。
味噌を専用に入れて貯蔵する味噌部屋がある。
梅干しも外のムシロに何枚も広げて干す。
山の木々の小枝を切り集めた束の山が置いてある部屋があり、お風呂は、焚き木で焚べる。
家族が入って追い焚きが必要になれば、焚き木で祖母がお湯の温度を上げてくれる。
お米は釜戸炊き。
煮炊きものもへっついさん?に焚き火。
お餅は釜戸で炊いた餅米の入った米を杵と臼で、杵を振るう男性と、臼の中の米に水を回す手(祖母)、阿吽の呼吸で交互にペッタンこったん、つきあがると皆で熱々を手で丸める。
(その時に大根おろしでそのまま食べる人もいた)
猫と呼ばれる猫みたいな塊の形の、豆などの具入りお餅もあり、大きな餅専用の餅切り器でスライスする。

夏には井戸にはスイカを入れて冷やす。
洗濯は洗濯板でゴシゴシ。 
冷蔵庫がわりに、水屋?というのか、風通しの良い食器棚があった。
お風呂以外は、台所や味噌部屋など、今も全てまだその家に温存されたままである。
今、わたしが自宅で使っているガラスのサラダ大器のもう一対ペアが、その旧台所の食器棚にある。

先日、仏壇の引っ越しとともに、西洋スタイルの食器飾り棚や茶器も一緒に運び出したらしい。
さすがに誰も住まなくなって40年以上経つと、例え通いで管理していても、僻地にある家の仏壇の保持は困難になる。
この度、仏壇は場所を移すことになった。
家屋の中心から心臓部が外され、魂が抜けたわけだ。
引っ越し先である新しい家にはわたしはまだ行ったことがないのだが、わざわざ田舎まで行かなくても地理的にはものすごく至便になった。
新しい家といっても、わたしが生まれた時からある父の仕事場で、何度かの変遷後、この度、グランドリニューアルオープンといったところか。
銀行や企業の本店、支店が統廃合が行われるように、わたしの実家も統廃合が進んでいる。

わたしは幼い頃から、田園風景・大正時代築の家から、父の仕事場の家の間を通学していた。
(今時の幼稚園児なら字ぐらい読めるだろうが)
自分の乗るバスを見極めるため、わたしは、じーーーっと穴が開くほど、バスのフロントガラス上の行き先が書いてある文字を見つめていた。
が、行き先は漢字が2文字で3文字ではないのは、だいたいわかっていたが、2文字の漢字に当たると悩んだ。
たぶんその中には「回送」と書かれたものもあっただろう。
かわいそうな、わたし。識字じゃないってツライ。
行き先文字部には穴は開かなかったが、何度間違っても、痛い目に遭った切迫感が後押しもせず、あまり漢字も覚えなかったように思う。
苦痛と感じていない、全然気にしない、明るい幼稚園児だったのだろう。
その頃から精神的にタフ・キャラか。

正しいバスに乗っても、自分が降りる停留所近くになると、地元の子供達が学校下校時にはバスにどかどか乗り込んでくる。
それが嫌だった。
違う学校に通う大勢の地元の子供達。
明らかにアウェイ感。
明らかに、違和感。
別のものを奇異な目で見られ、態度、言動でも示された。

黒塗りの専用車で送り迎えしてくるなら素晴らしいが、庶民なので同じバス。
下手すると、無言で迫害?いじめられている?
アパルトヘイト時の黒人白人別々に乗るバスだとすると、自分は黄色人種?
とまあ、デフォルメ脚色して小説にでもする気ならその路線もないでもないが、田舎を行き交うオンボロバスの、のどかな風景の一つである。
たいして変わらないなのに、逆・自意識過剰。
だが、まだ子供だから世の中の仕組みもよくわからなかった。

田舎ではアウェイ、通学先学校でもアウェイ。
逆に考えると、田舎では都市を知り、都市では田舎を知っている、文化バイリンガル。
というふうに、表裏一体、一長一短でも、自分が好きなほうを、良いように、長所をピックアップしたほうが人生楽しい。


薄味仕立て

2021-11-18 | 日々のこと
もうじき年末。
まだ11月中旬ではあるが、街にはジングルベルも流れていないというのに、憂鬱というか、やたら気持ちだけ忙しい。
御節料理の予約やら、年末年始の料理の手配やら、掃除やら、考えただけでサボり動きたくない病のわたしは沸騰しそうだ。

さて。
出先に向かうため、電車から降りて改札口に出ようとしたら、いつもの中央改札口ではない、東?口だった。
何にも考えずに歩くため、こういうことはよく起こる。

そもそも、合っているのか間違っているのかわからないのに、適当にとりあえず進むのは、幼い頃のエピソードに遠因がある。
(この話はわたしの印象に残るのか、なんどか蝶ブログに書いたように思う)

わたしはまだ字が読めない幼稚園児の頃からバス通学(片道30分)していた。
行きは家の前の停留所から終点まで乗るため問題ないのだが、自宅に帰る時のバスがややこしかった。
大人がバスターミナルに付き添って自宅に向かうバスに乗せてくれることはあったが、大人が付き添ってくれない時もあり、バスのフロントガラスの上部に掲げられている行き先の文字を理解しないまま、乗り込んでいた。
間違った行先のバスに乗ってしまった場合は、終点までそのままバスに残り、字も読めない小さな子供だったため、また始発駅まで引き続き乗せてもらっていた。
Uターン、振り出しに戻った。
(現在なら誘拐やらなんやら物騒な時代だが一昔前はさほどうるさくなく)そういう行動が日常茶飯事だったため、よくわからなくても、確認もせずに乗ってしまう。
これは、親が悪いのか?はたまた、わたしが悪いのか?
親は忙しいのか、はたまた放任主義なのか知らないが、あまり理解していない未熟な子供をほったらかしにしてはいけない、、、と、思うのだけど、、、
そのせいかどうかはわからないが、こんな歳になっても、いい加減な感覚で電車に乗る。

と、話はだらだら大幅に逸れた。
話を戻す。
いつもと違う改札口からでも目的地には着くのだが、商業施設の中を通り抜けて行く。
いつもは、駅改札口からそのまま、あっさりした路面店を左右に見ながら歩く。
その風景とはえらい違い。
急に世の中がキラキラ輝いているかのようなお店がいっぱい。
前によく利用していたパン屋さんは、別のベーカリーショップとなり、店の設えも本格高級路線に変身。
色のイメージは大きい。
前は抜け感のあるさらっとした雰囲気だったが、今は、濃いブルー。
格式高いブランド感を醸し出していた。
ほんのちょっと歩く道を変えただけで、見える世界が変わるなんて、魔法みたいだ。
あのお店でパンでも買ったとしたなら、夢や魔法ではなかったという証拠になるだろう。
(そう言えば、パリでパンを買ったなあ、、、と遠い目。
あれからもう10年もの年月が経っている。
パンに限らず、なんでも楽しい思い出は、作ったもの勝ちかなと思う次第)

季節毎に打ち出される商戦セールが色濃い街でさえ、そう煌めきを感じるのだから、、、
自然の中でのお散歩なら、咲く花も四季折々表情が違い、目を楽しませてくれる。


ちなみに、今日わたしが書くことは、浅い。
いいんじゃない?
浅い楽しみは、あっさり薄い塩味。
結構、美味しい。
こってりや、濃い味、生クリームたっぷりも良いが、薄味が楽しめるお年頃になってきたようだ。


失望させるのがわかっている

2021-11-16 | 暮らし
長女のお婿さんは、完璧なイクメン。
わたしがウチでの合同夕食の準備に間に合わない時間に外出先から帰ってきたら、もう作りかけてくれている。
わたしはお皿やらなんやらを用意するのみ。
助かること、この上ない。
しかも、好き嫌いなく、食品ロスも生じさせず無駄なく食材を使い、気持ちよく食べてくれる。
満点!

次女のお婿さんは、超グルメ。
探究心も半端ない。
で、気を使うこと、この上ない。
ウチで集まって食卓を囲むにしても、わたしの、下手で手抜き料理はとてもオススメできない。
困り果てた挙句には、、、てんやものに逃げる可能性がある。
あるいは、お酒の会にして、あまり食べないとか。
いや、美味しいものを肴にしてお酒は飲むものだろう。
掃除もしなければならないし、アタマが痛い。
むしろ、即、帰っていただきたいぐらい、、、
それ、コミュニケーションを取るにあたって本末転倒だし、、、
別に彼が嫌いなわけではなく、、、敷居が高いというか、やりにくいというか、めんどくさいというか、、、
彼がわたしに慣れるか、わたしが彼に合わせて頑張るか、、、
後者(がんばるわたし)はあり得ないので、たぶんおそらく距離感が生じることだろう。
まあお互い、ライフスタイルが確立しているので水と油は致し方ない。
できるだけそっと摩擦を生じないよう、接しないように接する。
次女は大変だろうけれど、彼女はわたしほど手抜きではないし、まだ若いし、わたしとは世代も違うから、大丈夫だと思う。
(とりあえず)夫婦だから。

わたしたち夫婦は、仕事オフ、プライベート時の暮らしぶりにおいては、リラックスモード全開。
お互いのリラックス基準が違うため、お互いが快適に暮らせるよう調整している。
調整は長い時間をかけて行われているが、娘たちのダンナさんたちとの調整は苦行になる。
お互いに。
慣れるしかない。
いっしょに暮らすわけではないから、まあよいか。

特に、我々夫婦の場合、外から受けるイメージより、内情がかなりユルい。点数が低い。
それは、期待や想像を失望、落胆に変えることがよくわかっている。
なので、気が重い。
徐々に失望していってもらおう。
だって、わたしたち、もう歳も歳だからぁ〜。
と、歳に逃げる、最悪のパターン。
ストレスを抱えるよりは、年齢のせいにする最悪のパターンのほうがマシ。
人からの評価より、自分軸。
だが、ある程度、いいカッコもしたいところに墓穴を掘る原因が潜んでいる。
自分軸の中には、人からある程度良く思われたいと思う承認欲求が含まれている。
そのバランスをどう取るか、どう闘うかである。

とかなんとか、自分の力で補えないものは、ちゃっかりアウトソーシング、外注して穴埋めして全体の粗を整える。
全て自分でしようと思うから無理が出るのだ。
任せられるところは任せて、自分しか出来ないところだけの要を自分でする。
結局、何にもなかったりして、、、点だけだったりして、、、
点だけでも良いと思っている。
それは芯だから。

そう言いながら、いかに手抜きして体裁を整えようかと策略を練っている。


大正〜昭和〜平成〜令和を生きる

2021-11-15 | 人生
瀬戸内寂聴さんの本、恥ずかしながら読んだことがない。
源氏物語の現代版訳みたいなものは読んだことがある。
が、、、わたしは読書嫌いです、、、。

色んな人の著書に触れると、考え方もさることながら、表現方法にヒントを得ることがある。
悪く言えば、盗む、真似コピーもどき。
でも、自分の血肉にはならない。
所詮、人の編み出した、生み出したものだから。

自分の書いた過去のものを見ると、温(ぬる)くて緩(ゆる)くて怠(だる)くてダラダラしているものもあるし、真冬の朝早く、霜柱がシャキッと下から突き上げる土を踏んだよう感触の時もある。
気持ちいい痛さというか、年がら年中同じことを言っている自分がアホみたいなような愛おしいような、、、。
自分の尻尾を追いかけてグルグル回る犬のように、自己発電によって発熱してストレスを発散しているのか。
おつかれさまー、ごくろうさまー。
結論など求めていないようだ。
そうやって天国までの時間を楽しく待っているのか。
待っているというのは、時間を潰しているイメージがして、ネガティブな響きがある。
では、能動的に、積極的に時間を使っている、消費している、思いっきり自分なりに頑張って過ごしている、、、とでも言っておこうか。
自画自賛は、自分を元気にするビタミン効果あり。

人が10分ですることを1日かかってするのは、ある意味、贅沢な時間の使い方だと思う。
10分で終えた人は、残りの時間を自分の好きなことに使う。
好きなことは人それぞれ、好きな時間の使い方も人それぞれ。
物理的な?時間は世界中、同じ長さだが、感じ方は違う。
だから、お国柄によって、ビジネスで波長が合わないことも生じる。
各自、性格もある。


先日亡くなった親戚の人は、大腸を手術してストーマ生活のため、人生の持ち時間の多くを病気との闘いに費やしていた。
自分メンテナンスに手間暇がかかる。
だが、バイタリティ溢れるこの人物は、明るく前向きで、元気いっぱい。
病気の身体に負けない精神力をお持ちだった。
子供や孫たち、家族にも恵まれ、周りから見ると幸せな一生だと思う。 
まさに戦中派で学生時代は戦争一色。
わたしの目から見ると、あの時代に生きた人、戦前戦後を通して価値観や物資、モノの豊かになった時代のど真ん中を歩いていた。
お金もたっぷりあったのに、いったい何に使ったんだろうというような、質素なおんぼろの家に住んでいた。
趣味は何なんだろう?
服装も地味、贅沢とは裏腹。
時代を夫の仕事の手伝いと子育てに邁進した。
晩年も最後までポジションは彼女の王国トップであり続けた。
最後の最後はなかなか大変だっただろうけれど。(本人も周りも)
子供や孫たちは、社会的にも全員立派に育ち、あそこまで揃うと凄いと感じる。
生まれたての新生児一人、一歳児二人、幼児から小学生まで、ちびっ子ひ孫も10人以上いる。
(ちびっ子ではないひ孫がもう少しいるかも?)
生まれも育ちも嫁ぎ先(目と鼻の先)も、その後晩年も、半径20キロで、一生を終えた、田舎のひとりのおばあさんである。
いや、よく考えると、若い頃の子育て期には短期間、夫の赴任先(200キロ離れた地)で暮らした。
だが、小説にしようと思えば出来るかも知れない。(無理矢理、朝の連ドラ仕立て)
どんな人にもストーリーはある。
でも、最初から最後まで順風満帆の人生ではアップダウンがなくて、小説にしにくい。
外からは見えない内情や心理を細かく描写するにしても、やはり小説にはなりにくい。
人生や暮らしを激変させるものが、戦争や自然災害、コロナなど、世の中の人と同じ体験であり大きな出来事では、なかなか特定の個人だけに発生する独自の特異性を強調できない。
ではあるが、激動や変化の要因にはなる。

上がり下がりのない平凡な生き方が幸せなんだろうと思う。
それは姑がよくそう言っていた。

※ちなみに写真は、JR電車。
でかでかスーパーマリオ。
もっと全体的に撮りたかったが、スマホを取り出していると目の前に電車が停車して即、乗り込まなけばいけなかったので余裕なし。
乗客の顔が写るのもよくないし、人に向けての写真撮影に不審がられても困るし、で、撮ったのは接写、一枚のみ。




世の中は変わるけど

2021-11-13 | 日々のこと
わたしの自問自答の季節は続く。
等身大の自分を俯瞰的に見ることが出来ているか?
自分だけの思い込み、過小評価、過大評価になっていないか。

仮に他人に評価を聞いたところで忖度の答えが返ってくるだろう。
ズバリだったとしても、自分が求める答えではなかった場合、却下することだろう。
答えは自分の中にしかないということだ。


ちなみに、電車内、タイ語の今風若者が4人。
語尾の跳ねる発音が独特。
しかしまあ、こんなベッドタウンから都心へ?
仕事休みか?
車内の風景も変わる。

話を戻す。
一つだけ、今週、自分で決めて実行に移した。
たったの一つだが、これを皮切りに、、、と行けばよいが、そう言えない雲行きである。
他のことは、まだ煮え切らず決められない。
よほどのことでもない限り、わたしは動かないようだ。

今まで、運と勘だけで乗り切ってきた成功体験は、この歳になると邪魔している。
果たして成功なのか失敗なのか基準が定かではないが、自分では幸せだと思っている。
そしてその幸せを手に入れたのは、運と勘。
波乗りサーファーか?
サーファーだって、天気や波の状態を熟知していないと命にかかわる。
わたしだって、ぼーっとしているようで、自分の命を守る要だけは押さえていると自負している。
ただし、残り人生あと4分の1(と3分の1の中間)を無事に乗り切れるかどうかはわからない。
静かに、晴れた日は日向ぼっこして、雨の日は家の中でじっとしておこう。
お天気最高でも、家の中でじっとしていることが多いが、暴風雨でも出かけることもある。
自分ではなかなか天気までコントロールできない。
神様ではないので。当たり前か。


ところで、今、新たな局面を迎えている。
ただし、趣味分野。
どうしたものか、、、。
自分の能力が見える中で、さて、どうしよう?
選択肢が多くて自由すぎるだけに、アタマが痛い。
チャンスを逃しているような、悪運を掴まなくて良いような、、、
結果は後にならなければら、はっきり言えない。
流れにまかせるか、、、
自分の運と勘にすがる?
これは、惰性ともいう。
あるいは、改革を好まない保守?
人生最終コースにありがちな傾向である。



自然な流れを作るために

2021-11-12 | 人生
やるべきことが、ぼや〜っとした、形のないものであるため、なかなか進まない。
今、わたしのこれからの進路に向けて歩こうとしている。

わたしの進路は、終活の色を帯びている。
終活ではない、アクティブな建設的活動を始める時は情熱や勢いがあるが、終えようとするのは、期限も決まっていないからか、なかなか進まない。
ずるずる進まないまま、ジリ貧で終えるという方法もある。
が、今のわたしは、なぜか、まだ決断力と実行力があるうちに、終えることが出来るものは終えたい。

最近、現れた知り合い。
この人は、過去に家業である会社を終わらせたという。
廃業するにも、タイミングや勇気、決断が必要。
この人は、男兄弟ばかりの長男だが、兄ちゃんは労多くて楽しみのない、くたびれる作業を引き受け、見切りをつけて家業を畳んでくれたわけだ。
他の兄弟は、泥舟には乗らず、好き好きに自分の道を行ったようだが、責任感ある兄ちゃんは辛い。


仕事とはまた別の話になるが、自分から言い出した事を自分で幕を引くのは大変だ。
いつも人の後をついて行く、成り行き任せのわたしには、そういう舵を切る決断をしたことがない。
舵切り通達を受ける側だ。

それで今まで何十年もやって来たのだが、、、
今になって、自分の歩んできたことの一部を終わらせようとしている。
始末をつける、というか。
店じまい。

店じまいした後は、すっきり8畳一間で身軽に暮らそうか。
いきなり、急には無理だろうけれど、少しずつ、少しずつ、終わらせていきたい。
余計な汚れや垢、傷みを落としてスリムにシンプルになりたい。
ヘアスタイルで言えば、手間暇のかかる凝ったゴテゴテしたヘアスタイルではなく、短い洗っぱなしの髪、、、みたいな??
これからの自分に合った、余計なものは削ぎ落としたコース。

しかし、99歳まではまだ35年近く残っている。(大往生の瀬戸内寂聴さんを例とすると)
人生100年時代。
これからどういうふうに生たいか、自問している。
まだ自答には及んでいない。
終活の割にはまだまだ乳幼児のお世話をしなければならない。
自分の待ちに待った、お楽しみのイベント予定が、「○ちゃん(孫)、発熱しました!」のお迎え要請、保育所からの一報でひっくり返る。
次はあるかどうかもわからない、とてもそれまで待てない楽しみイベントなのに、、、泣く泣く諦めて、孫守がまだ続く。
まあ仕方ないか。
終活しようとしているが、生きた世界がクロスする。


子供たちは、ありえないと言うが、わたしの終活終盤頃になったソフトランディング地は、夫の実家である。
母もそういう時期があった。
嫁ぎ先である、わたしの実家をものすごいハイパワーで整理し、自分の終の棲家に備えた。
結局、その家には引っ込まなかった。
わたしも多分同じような道を辿ることだろう。
御隠居さんが収まる地に最後まで軟着陸しない予感がする。

一時的に軸足をちょっと移して昔を懐かしんで気分転換するものの、今居る家から離れないと思う。
ちなみに、わたし、、、85歳になったら老人施設に入る予定。
あくまでも、予定。
それまでは、時々娘たちに暮らしをチェックされながら1人住まいをするだろう。
(あれ?夫は?)
心身の自立の具合によって、時期は多少前後するかも知れない。
あと20年もある。
前半の10年と、後半の10年。
終活の内容は、前期、後期、時期によって変わる。
とりあえず、前半10年の終活を脳内でスタートしている。
スマホで調べたり、まずは着手ウォーミングアップから。

誰にアドバイスされたのでもなく、自分で自主的に考え付くなんて、自分でも驚いている。
最後の知力の発露か。

それが終わると大まかな方向付は行われ、後は自然に沿って流れるまま。
無理矢理、終活するのではなく、自然に自主的に明るい前向きな気持ちで行える時にしておくのが理想的かなと思っている。


※ここのところ、活力のない話題ばかりを書いている。
秋だから??
それもあるかも知れないが、わたしはこの1年でとても疲れた。
実際、役に立ってバリバリ働いたり、何をするでもないのに。
人生の重要な時期を共にした濃い身内(姑)が亡くなったり、(亡くなる前後には長きに渡り色々ある)、娘のベビー誕生狂想曲の渦に巻かれたり、一世代前の人々の住む家を整理、リフォームしたり、、、大袈裟に言えば、家族の歴史の激流に飲み込まれているイメージだ。

何をする気にもならず、やる気を起こすことと言えば、自分自身の店じまい。
精神が弱っているのかも知れない。