蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

わたしの代は、手抜き迎春準備

2017-12-31 | 
師走。
師でもないのに、やたら忙しない。
行く年、来る年、迎春準備。
女性ばかりが忙しいのは、腑に落ちないので、夫と協力。
夫は〆縄係。
ずいぶん前は、舅(故人)がわたしの息子に、やり方を教えていた。今も息子の丁寧な図入りのメモが残っている。

しかしなぜ、忙しい家と、忙しくない家があるのか。
年末年始はホテルでゆっくり過ごしたり、旅行したりすることもできるのに(お金がそこそこあれば、の話)、忙しくするのは、好きで忙しくしているのか。
都市部では、季節の行事や室礼、礼節には、あまり時間を割かないで、シンプルだと思う。
こういうのは、古くからの家の慣わしだったりするが、お年寄りがこの世を去って、慣わしを踏襲するか、しないか。
引き継ぐのも引き継がないのも、自由だ。(とわたしは勝手に思っている)

今は読まないから知らないが、30〜50年前のミセス向け月刊誌「家庭画報」の、重厚で荘厳なお正月なら、結構、たいへん。
今は、御節料理も外注が多く、あまり家庭で頑張らないところもあるようだが、これまで何代か続いてきた家の慣わしを自分の代で終わらせてしまうのは、こころが痛い。
でも、杵と石臼で、お餅をつくなどという気にはならない。
(わたしが子供の頃は、実家では、やっていた。娘婿は、子供の頃、祖父母の家で行われていたそうだ)
夫の家では、お盆の仏さんのお供え用の餡ころ餅をそれまでは家で作っていたが、二代前の姑の時に、お餅は買うことにした。
パチパチパチ(拍手)
お正月のお餅は、二代前の姑の時にはすでに、饅頭屋に別注予約していた。
でも、お餅専用の木箱に手配しておいたお餅を大量に入れる。
余って余ってしかたない、鏡餅や、小餅。
わたしは、インスタント鏡餅を採用した。
ウラジロや橙、干し柿、などは必須アイテムだが。
夫の家で引き継がれている定番・御節料理があり、それだけは姑がいなくても作る。
お雑煮も、家のお雑煮スタイルを踏襲する。
黒豆や、ごまめ、なども作っていたが、ここ20年ぐらいで姑はやめたようだ。

各神棚に〆縄、干支の置物の交換、など、
最低限、自分が出来ることだけはする。
シンプル。

明日に皆んな集合。
大晦日、元旦、2日、3日で終了。
今日はとりあえず、買い物。
まだ始まったばかりで、何もしていないうちから疲れているが、一気にやってしまおう。
しかし、ただいま、夜更かし中。
目がショボついてきた。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ


不幸自慢に完敗

2017-12-30 | わたし
苦労話を書く人がいる。
昭和の小説のよう。
リアリティは、ずっしり。
気の毒で悲しい、自分の生い立ちなのだから。
若い頃は気づかなかったが、母に感謝、妻に感謝、、、懺悔の毎日だそうだ。
年末に仏壇を掃除していて、彼の頭をよぎる思い。
毎日のように夢に出てきたお母さんも、懺悔するようになってから、夢に出なくなったとか。

わたしは、不幸自慢のネタが無いのが弱みだ。
「コンプレックスだ」とまで書くと、やりすぎ。
弱み程度。
幸せ自慢は、嫌われるだけ。
そっとオブラートに包んだつもりでも、強力な臭いを発する。
不幸自慢は出来ないが、幸せ自慢を隠し通せることも出来ない。

しかし、まあ、絵に描いたような、不幸なストーリーがあるものだ。(前述の人のように)
絵になる、小説になる、映画になる。

それに引き換え、幸せ自慢は、よほど鋭い視点でも入れない限り、嫌われるだけ。
わたしも、不幸切り口も出来ないわけではないのだが、言いたくない、公表したくない。
故に、文章にはしない。
文章にするのは、自分が書きたいことだけ。
この、自己チューに実に誠実に素直に実直に、わたしのペン(最新は、ペンではなく、右、人差し指)は、わたしの、しもべとなり、執事となり、わたしを助けてくれる。
それに救われ、癒され、友達を必要としない。
わたしの友達は、わたしであり、最大の理解者は、わたしである。
(・・・のはずなのだが、娘たちや、わたしを知る人は、びたっと、わたしの中味の一部を言い当てるので、多少、自分を漏えいしているようだ)

わたしは、書くことを趣味として、自己完結しているだけの、人生を降り始めた、たんなる壮年女性。
オカネの要らない趣味なので、ケチなわたしにはもってこいである。
スマホの充電器さえあればよい。
嘘八百も書けるが、たまたま、わたしは事実を捻じ曲げた作り事を書いて自己逃避するタイプではなく、答えを自分に求めるタイプ。
なので、結論を引き出すためには、できるだけ事実を検証しなければ、意味がない。
と、検証ゴッコも、大好きな(おままごとゴッコ、お人形ゴッコ同様に)、やはり、たんなるヒマ人である。

というわけで、不幸自慢には、対抗できないが、対抗する気がないので、別に問題はない。
だから、それがどうした?の、お話でした。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ


若き日の愚痴

2017-12-29 | わたし
わたしが、こりゃもうあかん、と思った時。

子供がいなかった新婚時代は、同じくノーキッズの、夫のスキー部仲間のご夫婦とスキー旅行に行ったりした。
子供が生まれ、夫の後輩の別荘に、多くの仲間たちと泊まり、テニスをした。

みなさん、ご夫婦でも、同じ職業。同じ出身校。
なのに、奥さんは給仕係で、旦那さんは何もしない。他人の奥さんにも給仕してもらう、他人の夫。
なにこれ?
遊びの場なのに。
家族として扶養される側とする側、ペアになっているわけではない。
しかも、場所は後輩の別荘。
この後輩は、一番下の後輩なので、彼より下はいない。
そこで、他人の奥さんたちだけが給仕。
男たちは、木を切り、魚を獲り、狩に出かけるわけでもなく、サロンで出してもらったお茶だの食べものだのをわはわは談笑しながら食べるだけ。
これで、わたしは、自分の人生のコースをはっきり見た。

実は、その前日に、伏線があった。
幼児を抱える母親たちは、幼児を寝かしつけるために宴会には出ずに、早く席を引き上げた。
サロンで、若い独身女性たちの嬌声と、男性たちの笑い声が聞こえる。
女子供は寝た後に、大人の時間に突入だ。

女であって、オンナでない。
子供を産み育てるのが女。
お酒とともに人生を楽しむのが、オンナ。
まだ30歳そこそこのわたしは、自分の
コースは、給仕係であることを悟った。
しかも、一生、出口のない真っ暗なトンネルを走る自分。
わたしの幽体離脱は、ここから始まった。


さて、ここで解説です。
夫が未熟で気が回らないのと、わたしが夫にわたしの気持ちを伝えなかったことに遠因がある。
が、わたしは、自分の気持ちを伝えなければわからないような夫や、同じ状況で、夫と同じ感覚を持つ男性たちに失望した。
こころの中で、すぱっと切って捨ててしまった。
自分も努力せず、闘わなかったことは、十分、自省の余地がある。
しかし、闘う以前に、それまでのわたしは消滅し、新しいわたしが、生まれた。
上書き、更新されたのだ。

まあ、いつもハッピー、永遠、未来永劫にハッピーな、おとぎ話などないので、くだらない愚痴の一つである。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ


古い自分を踏んづけて、新しい自分になる

2017-12-28 | 趣味
昨日は、年納めパーティにおひとり様で参加した。
人気のパーティで、かなり賑わっていた。
前々リーダーさんが来ていて隠れていたが、声をかけられ、ミニデモで1曲踊った。
自分が変わったのか、前々リーダーさんが変わったのか、わからないが、以前の踊りには戻れなかった。
あっさり、過去は振り返らない自分を見た。

前とは違う自分を感じた。
なんだか明るい。パワフル。
リボン席に座ることもなく、ひっそり自分の席に座ることもなく、ガンガン攻めた。
(競技会場で見かけた)顔だけちらりと知っている人とも、初めて踊った。
しかし、「同じ教室で、レッスンを受ける」という、その人からの提案は、居住地が遠く離れているため、残念ながらあきらめた。

あの人、この人、いろんな懐かしい人と踊った。
新しい人とも踊った。
今後につながる動きもあった。

なんだか、新しい流れが一気に押し寄せた。
「元気?」「どうしてたの?」
近況やら、なんやら。
しばらく(1年半)顔を出さなかった古巣、懐かしさと、以前と変わらない顔ぶれに、安らぎのようなものを覚えた。

学校の学級(クラス)のような、同窓会のような、、、似たり寄ったりの年頃の人々と、同じ趣味、目的をシェア。

以前とまるで同じ状況なのに、4年以上、毎週通っていた会場が、自分が変わることで、こんなに変わるなんて、不思議な気もした。

一つには男性余り現象。年齢人口・分布図の推移。
踊らない(踊れない)で1人でいる男性をちらほら見かける。明らかに余っている。
ぼやっとしていたら、他の男性に取られて踊れない。

次に、わたしの選択に迷いがないこと。
余計な踊りはしない。
踊りたくない人とは踊らない。
これ!という人には積極的に行って踊ってもらう。
あんなに惨めな思いや、劣等感に打ちひしがれていたのが、嘘のよう。
自分に合った場所、というものがあるようだ。
練習は別の場所で、地道に重ねる予定。
おひとり様パーティは、華やかな会場で。
パーティは、ご縁の「るつぼ」。
人々が往き交う交差地にある市場のように活気づいていた。
相手を探すのには最適の場で効率が良い。
静かで大人しい雰囲気のわたしなので、普段は滅多に動かない。(省エネモード)
その気になっている時は、外から見ていてもわかると思う。
(だからすぐにキャッチされてしまう。逃げるのが下手で、逃げながら、探すのは結構、難しい)
使い古された陳腐なフレーズと言われそうだが、「水を得た魚」になって、今年の踊り納めは幕を下ろした。

で、補足です。

楽あれば苦あり。
トラウマあれば、イキイキあり。
ボロ雑巾を踏んづけて、明日の自分に向かいたい。
(でも、またウジウジが出てくるだろうけれど、陰と光は、三位一体だ。→もう一つはなに?
「表裏一体だ」にしようか)

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ



空き家で、行く年、来る年

2017-12-27 | 
ここのところ、急に、スマホのバッテリーが弱り、外ではあまりスマホをいじれない。
ブログはおろか、別SNSのコメント返しも、ままならない。
外での移動時間や待ち時間を利用してのブログや、日記なのに、歯がゆい思いをしている。

自宅でアップすると、家ではもう後は何もすることがなく、頻繁にコメントや足跡(わたしにアクセスしてくれる人)を見に行き、ほとんどスマホ中毒状態になっている。

その状態は、わたしは好まない。
依存症。
もっと他にすることはあるだろうに。
掃除とか、掃除とか、掃除とか。
整理とか、整理とか、整理とか。
断捨離とか、断捨離とか、断捨離とか。

(こういう表現方法で書くと、トラウマの元さんなら、「同じ語が3回かぶっていますよ、消して1語につき1つにしたら?」と、指摘してくるに違いない。一事が万事、あぁ、蘇るトラウマ)


話を戻す。
そのくせ、スーパーで迎春用品や、食品を見ると、お尻に火が付いたような焦燥感と、実行していない嫌悪感のようなものに襲われる。
しめ縄、ウラジロ、干し柿、飾り餅、、、
楽しいソワソワではなく、嫌な追われる不快感。
迎春は、誰もいない、夫の実家なので、色々考えただけで疲れる。

31日、午前に夫の実家に移動して、午後に買い物をして、夕方までに準備を整えようという、無理のあるプランそのものに問題がある。
布団は?
暖房は?
うまくいかないなら、いかない、で、来年の課題にしよう。
というか、夫と二人、空き家に移動するだけなら、別にわたしのこころは痛まないのだが、
あちこちから、散り散りの、わたしの子供たち、家族メンバーたちが集結するので、弱っている。(ついでに、ゲストにお姑さん)
どう考えても、せめて前日から用意すべきなのだが、息子のスケジュールに左右されそうな気配。

息子は我々の家(息子にとっては実家)を素通りして、夫の実家に直行、直帰、ということになるかも知れない。
せっかく遠くからの帰省なので、我々の家にも帰ってきて、30日、夜は、近所の娘一家宅で集まろうか、という案が浮上。
娘は独立していて、しっかり娘と気働きの旦那さん、こちら、わたしは老い始めの親、どちらが親元なんだかわからない。

ひょっとすると、30日から夫の実家(空き家)に行くかも知れない。
まだ、今のところ決めかねている。

お客様を迎え、ゆく年、来る年、迎春!
が望ましいが、わたしが出来ないでいると、みんな各自、助けてくれる。
招く、招かれる、ではなく、集まる、という、持ち寄り迎春である。

求心力を欠いた空き家で、メンバーたちが駆け寄り、お正月を祝うのも、悪くない。
ああ、サボりの自己肯定論理。

だって、皆さん、もう大人になってバリバリ働いてくれるから、わたしが、老体に鞭打って、そんなに張り切らなくてもいいのだ。
無理をすると続かない。
本来は嫁は家を整え、ましてや迎春などには、ピカピカにし、厳かに新春を祝うのであろう。
いいの、いいの。誰も文句言う人はいない。
だって、誰もそこには住んでいないのだから。
家は魂の入った箱、誰もいないなら、空箱。廃品回収の日に捨てたって構わない。
それを捨てずに、皆んなで集まってくれる、それだけでも嬉しいではないか。
もし、息子が彼女か嫁でも連れてきたりしたら、気が狂わんばかりに嬉しいが、気が狂わんばかりに、重圧苦の年末年始だ。
その気配がまるでないのは、喜ぶべきか悲しむべきか、、、。

と、これを書きながら、やはり30日に帰ろうかと思ったりしている。

例年は、わたしの実家にも皆んなで新年に駆けつけたが、今回は日にちを少しずらして、集まる日は、お正月ではなくなり、ほっとしている。
ダダダダーっと東へ西へ、一気に民俗大移動は疲れる。

住む人のいない、空き家の実家めぐり。
これが、行く年、来る年なのか。
とりあえずは、我々老人が、本格的に若い人の世話になるまでの間、空き家をめぐれるうちは、どうにかパワーが残っているということだ。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ



毒が、ウケるのは不思議

2017-12-26 | 趣味
わたしは、蝶ブログでは、毒を普通に、日常のごとく、吐く。
毒と、わたしは、三位一体。
あれ?ひとつ、足りない。

いつも行く、別SNSでは、大人しく真面目に日記を書いたり、人の日記にコメントを入れたりしている。
にもかかわらず、わたしには毒があるそうだ。
まあ、仕方ない。
あるものは、ある。
隠そうにも隠せない。

しかし、アタマに来て毒をどどどっと吐くと、なぜか評判がいい。
気持ちいい、とか、スッキリした、とか、キレがいい、とか、喜ばれる。
皆さんの代わりに、皆さんの手を汚させず、わたしがヒール役になって、悪態をついているからか。

ホンネの毒吐きで、皆さんがこんなに、スッとする、ということは、そのSNSの皆さんは、リアル実像を出してネット以外でもリアルに活動しておられるので、嫌われるようなことはしないのだろう。

わたしは、オフ会には顔を決して出さないし、匿名のままなので、なんでも言える。
そこが、ホンネを出せる大きな違い。
だが、「それは卑怯だ」と言うクレーマーがいる。
トラウマの元の人物である。

なぜか皆さん、お利口さん。
リアル実像が明るみに出ているから、仕方がないが、あまりホンネは出さないほうが、摩擦やトラブルが少ない、無難な処世術なのだろう。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ


カチンコチンの石頭

2017-12-25 | 趣味
トラウマの元、Aさん。
自分がトラウマの元凶などとは、自覚ゼロ。
別SNSのわたしの日記に平気で、イヤミ以外にも、井戸端会議的おばさんおしゃべりコメントを寄せてくる。

あんた(Aさん)のことを糾弾しているんだよ、という記事に対しても、書かれているのは当の本人のことなのに、平然とコメントしてくる。
よもや、自分のこととは思っていないようだ。
しかも、上から目線。何様だ?
本当に、めでたい人である。

私が、逆説的な手法を用い、過大演出表現している文章に、真っ正面から文字通りに受け取り、正面切って反論してくる。
(ダメージ加工のジーンズを履いている人に、「あなた、破れてますよ」と親切げに言う人のごとく。
襟を立てて着ている人に、「襟、立ってますよ」と言う人のごとく)

この人、行間を読む、ということは小学校の時に習わなかったのか?
絶対に、国語の成績は悪かったに違いない。
読み取り能力に加え、思考力もひどい。
なにごとも、言語による理解力は基本だと思うので、勉強には向いていない人のようだ。

わたしも、勉強向きではないのだが(アタマ悪い)、勉強以外のことで、どうにか持ち堪えている。(図太い無神経と開き直り)
あのトラウマ氏は、いったい、何で今日まで持ち堪えてきたのだろう。
(推測すると、だいたい思い当たる。
人格は否定したいが、人間そのものまでは否定する権利は、なに人にもないので、やめておこう)

わたしは記事に、最初は、但し書きを書いていた。
「この記事内容は、ヒネリ記事となっていますので、文章そのままに受け取り、真に受けないでください」と。
しかし、文字数が多くなるし、文章教室じゃあるまいし、マニアックで、うるさいかも、と思い、消した。
他の箇所で捕捉説明も加えているので、まさか、真に受ける人もいないだろうと、タカをくくっていた。
そうすると、なんと、選りに選ってトラウマ氏が、読解力ゼロのパワーを発揮した。
ほんま、かなわんわ、この人。

どうどうどうーー、と(牛を)なだめるかのごとく大変。
「頭がカチンコチンの人はご注意ください」という注意書きは、まさに、トラウマ氏のためにあるようなもの。
あんなに、カチンコチンだとは、思っていたものの、それ以上のカチンコチンに、わたしは驚きを隠せない。

1秒もはやく、わたしの前から消えて、いなくなってほしい。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ


おしゃべり男

2017-12-23 | 趣味
今日、ある会場で、「トラウマの元」の人と、メールでやりとりをしたという人、Bさんに声をかけられた。

「解消したの?」

「はい」と答えておいた。
解消に至るまでの経緯は、わたしがトラウマ氏に伝えたことと同じだっだ。
一字一句、同じだっだ。
ひょっとしてわたしが送ったメールを転送したのではないかと思えるぐらいの、同じぶりだっだ。
その後のことも、トラウマ氏は、微に入り細に入り、全てをBさんに話していた。
よほど、ヒマだったんだ。

重要なことも漏らしていたが、肝心なことだけは、どうにか漏えいしていなくて、ホッとした。
それにしても、(ジェンダー役割の刷り込みと捉えられるかも知れないが)、男の割に、よく喋る人だ。
なんで、あんなに隅から隅まで人に明かすのだろう。
自分のことだけでなく、わたしのことも。

まあ一応、わたしが書いたシナリオ通りにストーリーは進んでいるようなので、まあ良しとしよう。
しかし、Bさんは、「ほんとに、そうなの?」と疑いの目を向けてきた。
さすが。
やはり、解消に至る過程として、出来過ぎた話には無理があり、他人は、うさんくさいと感じるのだろう。
当のトラウマ氏は、なんにも感じていないところが、また、トラウマ氏らしいところだ。

二度もBさんは、「ほんとなの?」と聞いてきたが、「ほんとです」と二回答えた。
本当に本当のことを言う必要がないので、言わなかった。
無神経なイジメに耐えきれず、心身を病んでギブアップした、とは言えない。
とりあえずは、火消し、成功。
Bさんによると、トラウマ氏は、残念がっていて、わたしとの続投に意欲を見せているらしいが、わたしは絶対に嫌。
あり得ない。

トラウマ氏の実力レベルは知れている、さらに、わたしは競技は初めて、なので、たいした成績は出ないだろうとタカを踏んでいたが、意外な良い結果になり驚いている、とBさんが言っていた。

でも、ドクターストップがかかる程の足の悪化(表向きは)なのに、ヒョコヒョコとパーティ会場に足を運んでいる、わたし。
そりゃあ疑惑の目も向けたくなりますよね。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ


敵は自滅の道へ

2017-12-20 | 趣味
トラウマの主。
別SNSのわたしの日記に、イヤミったらしい非難コメントを次々に付けてくるのだが、そのせいで、彼自身の評価を下げている。

外から見えない状態で、わたしをイジメていた時とは違い、コメントが白日の下にさらされた。
すると、わたしを擁護してくれる人が出現した。それも複数。
頼もしく、心強く、嬉しかった。
イヤミコメントに対する、わたしの対応が、冷静でアッパレだったと褒めてくれる人まで出た。
わたしは、直接手を下さず、何もしないのに、トラウマ氏の評価が下がり、代わりに、わたしの評価が上がった。
実に不思議なものである。
アクセスブロックという強硬手段に出なくて正解だった。

今まで、二人だけの閉ざされたやり取りだったため、外には漏れなかった、トラウマ氏の嫌な部分が明るみになった。
トラウマ氏の自滅に、わたしは助けられた。
(彼はあまり物事を深く注意して考えないタイプのようだ)
またまた不戦勝。
相手のミスに救われた。
トラウマ氏が、勝手に完全に敗退していってくれる日を待つが、しばらくすると、下がる評価など、ものともせず、復活しそうだ。
ゾンビの可能性がある。

その時はまた対策を考えよう。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ


鬱陶しい粘着質タイプ

2017-12-18 | 趣味
鬱陶しい、トラウマの主が張り付いてくる。
わたしの別SNSに書いている日記に、ネチネチ否定的意見や、批判コメントを入れてくる。
限りなく不愉快、不快である。
アクセク禁止したくなってくる気持ちがムクムク。

ねっとり粘着質タイプ。
ベタっとまとわりつき、離れない。
やめて〜〜。
吐き気さえしてくる。
気分が悪くなり、頭が痛い。

トラウマの主も全身全霊、自分の全力をかけて、反論してくる。
そんなことをしても、見苦しく、暑苦しいだけだし、読んだ人に、なんでこの人は、いちいち、つっかかって絡んでくるのだろうと疑問を抱かれ、かえって、評価を落とすだろうに。

自分の評価を落としてまで、自分を投げ捨ててまで、わたしに、かかってくる。
変わった人だ。
不快な、おえ〜っとなる気持ちは横に置き、わたしは冷静にクールに、コメント返ししている。
エスカレートすることになれば、アクセス禁止も視野に入れかねない。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ