蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ひとくくりに高齢者というけれど

2024-09-18 | 趣味
ある人、Aさん。70代。
「老年」に対する捉え方が、わたしと違う。
わたしのことを周りにいる老年の人に比べると、元気だ、エネルギーがある、と言う。
「周りって?」
70代後半〜90代のことを指しているようだ。

家の近所を歩いている人も、結構お年寄り(80代以降?)らしい。
(かなりの高齢に比べて)若い人は見かけないと言う。
「お年寄り」とひとくくりにしても、老親を介護する老子供もいる。
そういう、(80代〜と思われる)お年寄りの中ではわたしは若いし、身体能力もまだあるのだから、どんどん頑張って活躍すべきだとハッパをかけてくる。

わたしが思うのに、、、Aさんが参加している活動は、年配(70代後半〜)の人が多いのでは?
年配になり過ぎると、着いて行くのが苦しくなり、やめる人も出てくる。

それはそれとして。
Aさんは、60代ぐらいの人々とあまり顔を合わせることがないと思われる。
つまり、Aさんとわたしの間には少し年齢ギャップがあるということだ。
楽しみ方のパターン、方法、経緯が違う。
たぶん、わたしの年齢の人はまだ働いているか、子守しているか、家族の世話があったりして、社会や家庭の中で忙しく、時間を持て余してはいないと思う。
あるいは、活動を共にするのは、夫婦や仲間とだったりする。
昔でいう有閑マダムは、同類マダムとランチ。
そんなダラダラ暇つぶしではない、積極的遊び人は、今ならアクティブ・シニア?
不特定多数のゾロゾロ歩くだけの会には、自分でプランを調達できる人は参加しないのでは?
だが、積極的オリジナリティなく、丸投げお任せ健康活動となると、歩くだけの会などは最適。
行ったことがない地に着いていくだけで連れて行ってくれるし、健康にも役立つ。
それに自主的に参加すること自体が素晴らしい。
だが、前述したように、自分でコースを立案出来る人は参加しない。
参加するのは、健康にはなりたいが、調べるのは面倒、お金もかけたくないというズボラな人が多いのでないだろうか。
そうすると、時間がたっぷりあり、独自活動しないお年寄りが集まる。
家の中には留まらず、とりあえずは家から出るものの、自分では何をどうすればよいのかわからない人。
フレイル予防、典型的老年パターンではなかろうか。
それはそれで、自主的に家を飛び出し、素晴らしい。
その外出をもしなくなると、他者からの介助や医療が必要になる。
次のフェイズ。国の医療費パンク。
フレイル予防の段階、その中では、わたしは若い、ということになる。

どこかに行くにも、何かするにも、割り勘でしたいわたしは、お金を出したくない人とはどうしても、行動が制限される。
相手の財布事情を踏まえて立案しなければならない。
わたしは(家族以外は)他人の分まで出す気はない。
各人、金銭の自立がないと、人間関係の均衡が崩れる。

そういう思考、嗜好、志向があるため、Aさんが活動している範囲には、わたしのような傾向の人は少ないと思われる。
早い話、好みや意識が少しズレているということ。
同じ好みであっても、それに伴う出費も同じ価値観でないと、楽しみを共有できない。

姉に言われる。
「もっとお金が自由になる人と付き合えば?」と。 
こちらの行動まで制限されてしまう。
同じ経済環境、金銭感覚を持っていないと、他者と行動する場合、ギクシャクする。
似たような年齢の人がAさんの周りにいないのは、似たような環境にいないせいではないだろうか。
今、頑張っている人は、あまり無目的にウロウロせず、もう一定活動の中に身を置いている。
したいことも定まらず、あるいは頭打ちになり、健康な身体とエネルギー、時間だけを浪費しているのが、Aさんは、もどかしいのだろうけれど。
出口探しも思うように行かない状態。
それはまだ若い証拠で、心身が更に加齢して自然に衰えてくると、エネルギーも消失してモヤモヤもなくなると想像するが。

同じ高齢者でも、後期高齢者と前期高齢者では結構違う。
Aさんの周りには後期高齢者しかいないのだろう。
Aさんの年齢では、働いている人もいる。
その中で、前期高齢者のわたしは、もっと趣味分野で深め、精進、努力して頑張るべきだと力説するのだが、、、。
わたしはもういい。
楽しみ方が違う。

入り口付近では同好者なのだが、一歩入ると、微妙に違いを感じずにはいられない。
出口ではまた顔を合わせる?
出口って、どこだ?

長いトンネルの闇

2024-08-28 | 趣味
必要以上に昨日の外出を迷ったのには、じつは別の理由がある。
しかも、ブログ末尾に解説補足、蛇足まで付け加えて。

そもそも毎週火曜日は、趣味仲間の特定人物Aさんと、何も別件がなければ、いつも事前に約束して趣味会場に同行する。
通常、前夜か遅くても当日の朝に、Aさんから「よろしくお願いします」とLINEが来る。
前日にも当日、朝にも、「よろしくお願いします」LINEが来なかった。
朝もまだかまだかと待っていた。
もしLINEが来なくても、一人で別会場に行こうと思っていた。

で、LINEは来なかった。
そこで、一人で別会場に行くべきか、行かないでおこうか。
行ってもなぁ、、、
来ている顔ぶれは予想できるし、踊りたい人はいないし、有料アテンダント学生は、下手だし。
行き帰りと、会場での動きで、運動にはなる。
前後が暑いが、まあ運動という面ではプラスだ。
が、、、そんな軽運動だけのために、暑い中、行く???
準備や行き帰りの暑さや更衣室で着替えたりの手間などなど、、、わざわざ、今、軽運動だけのために、軽運動以外、魅力がない、自分には価値がないことのために行く??

かといって、前述のAさんなら満足いく踊りかというとそんなことはない。
ただ、我々はプラスアルファの局面を迎えている。
わたしと同レベルの、わたし同様にそう上手くないアマチュアであるAさんが、競技に出ましょうと、熱心に提案してくる。
わたしは今はお茶を濁しているのだが、、、。
最近、出てもいいかなあ、、、と、ふと思うこともある。
60代最後のラストスパート、悪あがき。

ただ、相手が良くない。
といっても、どんな人であっても、わたし自身に問題があるため、相手を責める資格はない。
お金を払ってプロと出るなら問題はない。
だが、わたしにはザルに水と感じる自己満足のために、そこまで芸事にお金をかける強い熱意がない。
何をやっても、ぬるいわたし。
スパッと竹を割ったような潔さが、全くない。

で、「よろしくお願いしますLINE」が来ないものの、今ならこちらからの出方で行ける状態でもあった。
「今日は、行かないのですか?」と、こちらからLINEするアプローチ。
にもかかわらず、LINEしなかった。
その代わりに一人で別会場へ行こうと思ったものの、行っても暇つぶしだし、やめよう、という流れになった。

ちなみに、Aさんは断っても断っても競技参戦を諦めない。
かなりタフなメンタルの持ち主。
めげてくれたら(諦めてくれたら)それでいい、とわたしは大様に構えていたが、段々自分に変化が現れたような気がする。
わたしもラストチャンスかも知れない。

押されると引き、引かれると押す。
やりとりから受ける心理的影響は、営業テクニックや恋愛の駆け引きに共通するものがある。

あとは、わたしが、努力する覚悟があるかどうか。
技量的に精進する気があるか。
自分を出せなくて弱くて、相手に呑み込まれないか。
それと、このAさん、マウント取りたがり。
会話をしていると、不愉快な時もある。
と、文句たらたら。
実際のところ、お人柄に問題あり。
とは言え、誰にでも一長一短、欠点はあり、完璧な人などいない。
明るい良い人なのだが、趣味ペアでガチで組むにはわたしが負ける。引く。

書きながら今までのプロセスを思い浮かべた。
この、Aという人物は、かつて、わたしとの趣味ダンスペアを解消した相手である。
わたしから解消を申し出た。
一旦、解消になったのだ。
理由は、わたしが潰れそうになったから。
自己防衛策。
潰れる前に自分を守った。
それまでだ。
にもかかわらず、Aさんは冷却期間を置いて、やり直そうとした。 
そうっとまた一から始めようとした。
わたしは、拒絶しきれなかった。
そこからまたAさんとの時間が再びやってきた。

そのAさんからの「お願いしますLINE」がなかったのは、解放されたわけだ。
自由の身になった。
かと言って、他に行きたいところもなし。
で、家で読書となった。

①「お願いしますLINE」が来なかったこと。
②「こちらから、お願いしますLINE」を送らなかったこと。
③予定していた時間を使い、他の会場に行こうとしたこと。
④かと言って、単なる暇つぶしで、あまり行きたいわけではなかったこと。
⑤どうしようか迷った挙句、行かないと決めたこと。

そういう経緯がある。
しかもAさんとは、頻繁に練習していた時期が長くある。
これからのわたしの人生の残り時間、どうしよう?に、繋がる。
Aさんとの頻繁な練習をやめた後、わたしはミニ鬱に陥った。
何もすることがなくなった。
代案を用意せず、次のことを考えず、切ってしまった。
考えたのだが、次のことを見出せないまま、とりあえず、苦しい現況を絶ってしまった。
生きがいの大きな一つでもあった。

あれからわたしは立ち直ったかというと、そうでもない。
新たな代案を見出せないまま、つなぎのような、その場しのぎのような.とりあえず代わりのものを手当たり次第、トライしている。
Aさん(復活)も、その中の一つか。
ではあるが、試行錯誤の一環で、まだ道を決めかねている。 
が、Aさんとやっていく自信はない。

満足いく選択にはなっていない。
ぱあっと晴れない。
そうしているうちにも、どんどん健康寿命やダンス寿命は日々、縮まっている。



無意識の姿

2024-08-20 | 趣味
まず最初に。
今日の記事は長いだけの、ツマラナイ(自問自答)内容なのでスキップすることをオススメします。
・・・・・

久々久々ぶりの趣味の時間。
暑い中、お出かけ。
これがあるのと、ないのとでは全然違う。
自分という客体と向き合う。
マイワールドから外に出て、外から自分を見る。

ちなみに。
夫の実家で孫たちと皆んなで夜に花火をした時、娘がスナップ写真をさりげなく撮っていて、家族限定共有の写真アプリにアップしていた。
ぎゃ。
何これ?
だれがどう贔屓目に見ても、正真正銘のおばあさん真っ只中。
服装、髪、姿勢、仕草、顔、、、!!
いくら周りの他人の目がないからといって、わたしの自然体はこんな姿だったのか。
わたしの知っている自分の姿の中で、今までで一番ひどかった。
孫との楽しい時間、穏やかに喜んでいるわたしの姿は、なんの人工的加工も修正もしなければ、あんな風だったのか。
衝撃。
いくら意識していないからといっても、、、あれが手を加えない自然なわたしか、、、。
朝には髪も整えお化粧もしたのがまるで嘘のよう。

たんに、実物そのままの姿なのだが。ありのまま。
自分をいったいどんな風に思っていたのか。
こっちのほうが笑える。

最終日、孫たちと行った外食レストランで順番待ちをしていて、目に入った若い女性。
あんなにスラリとした美しい人なのに、背中が猫背。
骨の異常?
それなら仕方ない。
が、健康体で、意識の持ち方で修正出来るものなら、ピシッと伸びた背中を心がけたい。
せめて人目があるところでは。

そう考えると、今のわたしの趣味は、かなりアンチエイジングに役立つ。
意識するのとしないのとでは、長年経つと違ってくる。
積み重ねで差が出る。
病気ではないのなら、自分のために、せめてそれぐらいの努力をしたい。

・・・・・
と、行きに電車の中で、上記↑、意気込みを鼻息荒く書いて目的地に向かった。

今は、その帰り。
全然、違うこころ行き。雲行き。
行きの、やる気はどこへ行った?
出先での皆さんのレベルの高さに打ちのめされた。
しかも、その質の高さは、天賦のものに加え、やる気、時間、お金がかかっている。
若々しく瑞々しく目視できる筋肉の動き、整えられた肉体。
わたしと言えば、、、どれも皆目ない。
あるのは、見た目がそう変わらないならラクしよう、という怠けごころだけ。
目指すレベル、目標に近づくには、天賦のものがないなら、せめて、やる気、向上心、努力、時間、お金、忍耐力、持続性が必要だ。
サボりのわたしは、自分の非力を実感して、打ちのめされただけ。
ぱっと見、表面の包装紙だけをホンモノに真似て、皆さんと同じ場に入り込んでいる。
が、混じり込んでいるだけで、ホンモノではない、ニセモノ。
溶解してはいない。
それがよくわかる。

趣味の場で皆さんの話を透明人間になって聞くと、、、
70代になると、健康もお金も体力も伸び代も、ガタ減り。
競技ダンスはもう見切りをつけようか、と。
80代でも90代でも、先生(プロ)とのデモンストレーションは出来るが、競技は無理のよう、、、などなど。
隣の更衣室から、まる聞こえ。声が筒抜け。
確かに、確かに、確かに。
70代が方向転換、舵の切り替え時か。
ということは、逆にわたしは競技という選択肢もあるということだ。
皆さんが辞め時だと言っている70代に、まだ70になっていないわたしは、あえて逆行して、競技?!
が、通勤通学ラッシュアワーに、都心から郊外に向かって電車に乗っているような逆流。

やめておこう。
競技は相手に左右される。
もうごめんだ。

ということは、70代の皆さんより一足お先に、頑張ってもいないのに、引退・お遊びコースか。
ほんの少しでも皆さんよりわたしは若い、この60代ラストスパート時期。
(わたしと同世代の女性もいたが、既に前々から積み重ねてきたものが、大きな差となって現れている)
皆さんより先に早く引退してしまうのは勿体無いか。
(が、元々、精進していない)
より良い70代、80代のために、今を有意義に使うべきか。
有意義とは、、、?
70代、80代を楽しく過ごすためのストック。
どんなストック?
頑張って、筋肉?運動技能?頭脳?仲間・人脈づくり?
黄金時期を、引退して消費していいのか?

わたしは、今はまだ健康だから、病気と付き合う事態を想像できない。
健康を気にせず、好きなこと、やりたいことをするのは理想だ。
好きなことをするために生きているのではないのか。
だが、健康に翳りが見えると意欲が減退するだろう。
ただただ無事に毎日を送るというのも、望むものかも知れない。
ではあるものの、安泰は結果であって、目的ではない。

歳が行けば病気にもなる。当たり前。
病気になれば、そればかりに囚われる。当たり前。
それまでの健康体に戻りたいのに、戻れないうちは、いつもの自分ではない。
そこで、「いつもの自分」そのものを(マイナスに)アップデートする。
もう以前のようにはなれないことを知る。
覚悟が必要だ。

決して20歳にはなれない。
小学生にもなれない。
バリバリだった働き盛りにも戻れない。
過去との差を少しは縮めることは出来ても。
悪あがきこそが、生きている証だ。

健康は、なくして初めて有り難みがわかると、よく言われる。
今、この瞬間は、2度とない。
やれるときに、すべきか。
でもわたしは、サボりなのだ。(堂々巡り)

ではあるが、、、、、最後に、一言。
母を見ていると、するりと赤ちゃんになっている。
とことん歳を取ると、最後は赤ちゃんになる。

※写真は、一昨日、車に乗り切れず、1番上孫と2人だけ電車で帰宅。


隣の奥さん、鬱なんだって

2024-06-26 | 趣味
昨日、出先の趣味現場、女子更衣室での話。
わたしは透明人間になって、二人の女性の会話を一方的に聞くだけなのだが。
片方の女性が言う。 

「家のお隣の奥さん(シニア)、鬱っぽいらしいわ。 
で、受診したところ、『とにかく家の中から出なさい』と言われたそうよ。
1時間でも2時間でもいいから、家の外で過ごしなさい、だって」

そう話しながら二人は、
「わたしたちは良かったね、出かける先があって」
と安堵していた。
それを聞いて、わたしも、「そうだ、そうだ、もっともだ、出かける先があるのは素晴らしい!!」と、こころの中で賛同した。

とはいうものの、出かける先は自分で作らなければならない。
ふらふら夢遊病者のように出かけても、そして、公園のベンチにぽつんと長時間、座っていても、虚しいと思う。
公園で元気に遊ぶ子供の姿を見たり、緑や池の自然に触れ癒されるのならまだしも、魂が抜けたように座っているのなら、自宅で静養しているほうがマシ。
わたしなら、そんな幽霊のような姿を外に晒したくない。
外に出る時は、家の中でしっかりエネルギーを養い、目的を持って出たい。

だがしかし、ミニ鬱は、いつまで経ってもエネルギーが貯まらず、そのまま家の中に閉じこもり続けてしまう。
だから、重篤化しないためにも、なんでもいいから、とりあえず、一歩、家の外に出ることを勧められる。

「家の外」は、物理的な「家」でなくてもいい。
「自分」の外に出る。
インターネットやブログなどで、やり取りをして気づきを得たり、読書で著者から知恵を借りたりする。
そう書くと、いかにも優等生的な答えになってしまう。

「パンがなければ、ケーキを食べればいいのよ」
と、マリーアントワネットになってしまう。
(史実では、彼女は言ってない説があるが)

自分が切り抜けられたから、人も行けるだろう、と考えるのは安易かも知れない。
自分はラッキーなのかも。
わたしは自主性はないものの、滅多やたらと壊れない、メンタルが強い。
繊細さに欠けるのだろう。
ガラスのハートは生きていくには、しんどい。

趣味分野では、上を見るとキリがなく、下を見てもキリがなく、横を見ると、ニコニコ、、、である。
皆んな似たようなヒマジンが集まっている。
どんなに崇高な立派なことを言おうが、向上心を持って努力しようが、たかが知れている。
所詮、アマチュアの暇つぶしである。
だが、この暇つぶしこそ、大事、肝である。

老後、義務から解き放たれた時期は、何もすることがないのだ。
自分で奮い立って何かをしなければ、暇で暇で仕方がない。
義務からの解放。
それは、長年、わたしが憧れ追い求めていたものなのだが、実際、そうなってみると、有り余る膨大な時間との闘いとなる。
脳が若い頃のように強くないから、何もせずに、ほにゃほにゃしているうちに、陽は落ち
やがて陽が上る。
何かしても、何もしなくても、一日一日は過ぎて行く。
もったいないと感じたら、しめたもの。
何かをする気力が湧いてくる。

歳と共に気力は減退するだろうけれど、虚しく思う気持ちも薄れてくるだろう。
老いを受け入れるということか。

まだわたしは、介護する側の人間なので、元気ではある。
趣味の現場でも、自分はイケていると自分で勝手に感じている。
客観的評価より主観的評価が上回っている。
それは、活力の素だから、それでいい。
自己肯定は生きるためのビタミン剤。

生きがい

2024-06-21 | 趣味
父(故人)の仕事場。
わたしが生まれた年に、独立スタートした。
父は、田舎の家(故郷)から仕事場に通った。
数年後に母も仕事を手伝うようになった。
わたしは、田舎の家から、仕事場のある地域の教育機関に、幼稚園の時から通った。
バスで30分。
小学5年生の時に、仕事場のある地域に転居した。
仕事場から100mの場所。
田舎の家には(父方)祖母をひとり残し、我々は週末に田舎に帰っていた。
(その間、大規模リフォームもした)

祖母が88歳の時に、仕事場のある住居に身を移し、最後の5年を過ごした。
祖母は亡くなるまで頭は、しっかり。
わたしも祖母の血を引き継げばよいのだが、、、母方祖母なら、、、母も脳みそがふやけているし、、、うーーん、、、ちょっと哀しいかも。
もし、認知症が遺伝なら。
しかし、今は認知症はここかしこに、ごろごろ。
家庭も行政も、対応しきれない現状だ。

わたしは、今は介護する側の年齢であり、まだ介護されるところまでにはいっていない。
自分が介護される歳になると、夫も同じ世代。
だが、夫に介護される自分は10000%想像できない。
夫を介護している自分も想像できない。

要介護の奥さんを毎日、自宅で介護している75歳の男性がいる。
奥さんは去年、病気で倒れ、その後遺症で身体が麻痺しているため、食事、入浴、排泄介助、日常生活のほとんどを夫である男性が介護している。
夜通し数時間おきに排泄介助があり、まとまった時間の睡眠は取れないようす。
彼は、ダンススポーツ、トップクラスの現役競技選手だったのだが、競技生活は介護事情で続けられなくなった。
60歳で定年退職後、アルバイトをしながら15年の歳月をかけて、初心者で一からチャレンジし、一生懸命取り組み、やっと上り詰めた矢先、、、
それを潔く手離すのは、やはり、いつも全力で頑張って来られたから、かえって執着されないのかと想像する。
今は、ほんの少しのスキマ時間に、近所の趣味の会場に出かけて身体を動かしている。
家から自転車で行ける場所、時間も昼食後から出て16時には帰らなくてはいけない。
場所、時間に制約を受ける。
にもかかわらず、彼は妻の介護は新しい生き甲斐だという。
妻を本当に愛していることがわかったという。
アタマが下がる。出来た人だ。
わたしにはとても真似できない。

介護が愛情のバロメータだとすると、ぶっちぎりトップクラスの愛妻家だ。
現役競技選手の時から、ぶっちぎりだったので、活動舞台を競技から介護に変えたものの、同じエネルギッシュ熱血路線を歩いておられるのだろう。
だが、彼の介護生活を支えているものは妻への愛情はもちろんのことだが、「趣味」の存在だそうだ。
ほんの短い時間でも、やりくりして、自分の趣味に打ち込む。
切り替えが素晴らしい。
趣味は人を救う。

自業自得の毎日

2024-06-03 | 趣味
1週間のうち、4日も割いていた、ある趣味活動を休止してから2ヶ月が過ぎる。
続けることも出来たのだが、わたしの一方的意思で、やめた。
やめた後もずっと、復帰してちょうだい、とオファーを受け続ける。

自分からやめたのに、メリハリのない毎週毎週、のんべんだらりと何もすることがなくて、すっかり退屈している。
しかし、元のように戻ったら、せっかく意を決して、やめた意味がない。
のではあるが、、、、退屈。
でも、戻りたくない。

これは著しく贅沢、ワガママである。
10000人中10000人に、善く思われないだろう。
不快感を抱かれるだろう。
まさに、タネを自分で作り、苦痛を感じているならいざ知らず、退屈でしかたない、なんて。
だがしかし、せっかく頑張って決意して憂鬱を回避したのに、元の木阿弥にはなりたくないし。
憂鬱は一時的に解消でき、その代わりに退屈がやってきた。
真ん中は、ないのか?
ちょうど良いさじ加減は、ないのか?
ゼロか1か、のコンピュータのようだ。
0.5は、ないのか?
まったくもう、、、世界は自分を中心には回らない、、、の典型。

2ヶ月もぼーっと何もしなかったら、身体も頭もこころも、緩みまくる。
まるで入院生活か、収監か、自宅軟禁。
しかも、自分から能動的に決めて動いて、わざわざ動かないことを選択してこうなった。
新しい動きをしなければ、家のなかでナメクジが溶けるかのようになってしまう。

前々から嫌だな、やめたいな、と思っていた別の案件も、時を同じくしてやめた。
なので、一気に、冷蔵庫の中が空っぽになるかのように、ずっと入れていた消費されない厄介なお荷物が一新された。
のは良いが、代わりのものを入れないと、空っぽのまま。
わたしは、いったい、何がしたい?

あれも嫌、これも嫌、と、取り除いて行ったら、なんにも残らなくなった。
あらま、わたし、何もない。
断捨離の先に何も残らない。
(不要品のモノは家に山と積まれているが)
自分から自発的に自主的に能動的に、したいことはないのか?
いつも、したくないことを渋々付き合っていただけなのか?
邪魔な障害物を除くと、何もないなんて、、、。
ある意味、びっくり。

心身ともに健康で、足腰も動くので、そろそろこの自主的自宅軟禁は耐えられなくなってきている。
出口が詰まっているのに後ろからどんどん押されて、ぎゅーっとなり悲鳴をあげる、、、の、まさに逆。
後ろから全く何も押してこない、後ろには何もない、自発的にやりたいことが、これほど無いなんて、驚きだ。
ある程度の期間が過ぎれば、自然発生的に何か芽生える、発生するだろうと甘く考えていたが、何にも発生しない。
あるのは、心身の健康と身の自由と時間だけ。
なまじっか、やろうと思えば出来る、選択肢の山が、幸福感を下げている。
ボランティア活動でもすればよいのだろうけれど、、、奉仕の精神が基本的に育っていない。
この時間を活用して、終活すれば良いのだが、断捨離、終活系の小説を読み漁り、精神的に士気を高め、外堀を埋めようとしている、、、が、小説を楽しむだけの、わたし。
好きな作家(垣谷美雨)が1人増えたのは、プラスの副産物だが。

今月中ばぐらいには、何かわからないが、動きがあるような気がする。
あくまでも楽観的憶測であるが。

やること候補は、あれこれ調べて練り上げリストアップして、明日にでも動けるのに、当日になると足が重く、お尻が重い。
足が地中に埋まっているかのごとく。
しかたなく、無理やり読書したりして時間を潰している。
なんなんだ?わたし?
自分から発する欲求というものが無いのだと、つくづく思う。
かと言って、人の圧力に屈したり、流されるのは嫌。
自分が無いくせに、人からの押し付けや、強制は嫌。
自分にあきれる、自分。


しかしここで、ふと思う。
仕事をリタイアした人が、リタイア直後に陥る状況と似ているのでは?
一生懸命熱心に取り組み継続していたことが、まったく無くなり、ある日、リセット。
あれと同じか。
リセットならまだしも、デフォルトか。

リタイアした知人を見渡すと、2人以外は、再就職(アルバイト)をしている。
他にすることがなくて退屈だから、仕事に復帰した人が多い。
仕事が好きなのか、仕事以外には何もないのか。
仕事をしていない、2人の人は、趣味三昧。
釣り、語学、歴史、創作、旅行、音楽、趣味交流、、、。
最初はあれもこれもだったが、行動の特徴がだんだん絞られてくる。
音楽系の人、歴史系の人、、、ただ、2人とも、身体を動かすことからはどんどん遠ざかっているようだ。
趣味を絞り込むのは良いが、やはり運動は必須だと感じる。
そうすると、また仕事に復帰した人たちは、趣味の時間は減っても(元々、強い趣味がない)仕事で身体を動かすので、バランスはとれる。
必要に駆られ、お金のためだけに仕事をしている人もいるが、時間的にバランス良く仕事を組み入れている人もいる。
バランス型が良さげ。

わたしは、ひとり行動がメインなので、何かしら自分でプランを立てないと、何もしないで退屈な時間を過ごすことになる。
趣味と運動を取り入れた活動が理想。
だとすると、今、休止している趣味こそが、理想的な活動だと言える。
再開するにも、新装開店グランドオープンではなく、リニューアルという熱量、テイストになる。


朝の連ドラ、虎に翼

2024-05-30 | 趣味
虎に翼。NHK TVの朝ドラ。
おもしろい、おもしろい、とあちこちから聞こえてくる。
(実際は耳するのではなく、わたしがよくお邪魔する個人ブログやSNSの記事を目にして)
そもそもわたしは、朝ドラは時間が縛られて忙しないから見たくないという主義。
夜ドラも、「VRおじさんの初恋」が終わってから、次の新しいドラマは見ないことにした。
ではあるものの、あちこちから「虎に翼」の好評判をインターネット知人のブログで目にすると、見てみようかという気になった。
途中からなので、なんといきなり、主人公には幼児の子供がもう既にいた。
もう結婚はしたようだ。
4月から始まっているから、既に2ヶ月になる。
それにしても、連続のものをえらく途中から見たものだ。

で、見始めて今朝で3回目。
朝から涙、涙、涙。
次に放送される「あさイチ」で、朝ドラを受けての番組スタート司会(鈴木奈穂子、博多華丸・大吉)がまた面白い。
それより、主題歌「さよーならまたいつか!」(米津玄師)とオープニングのアニメーションのイラストがすごく印象に残った。
動画を撮影して、それをコマ割りして水彩画タッチで手描きし、アニメーションに仕上げる「ロトスコープ」という、シシヤマサキ(作者)の独自の表現法だとか。

わたしが訪れるSNSの皆さんは、ドラマ内容や歌は大変素晴らしいと感嘆していたが、オープニング・アニメーションに対しては、誰もなんにも触れていなかった。
わたしは、すごくすごく素敵で、感激した。
特に目がキラキラ輝いているようなイラストが動く表現に、すっかりこころを奪われた。
色もタッチも、優しいテイストで、大好きだ。
その上、あの歌。
さらに、ストーリーは、もう3分の1は済んでしまったものの、まあ惹き込まれること。
今、話が盛り上がるところなのかも?
毎日、楽しみにして、午前8時前にはそわそわしてTVの前で待っている。
ほんとにTVっ子だ、わたし。
その代わり、夜は夜ドラを見ないことにしたため、22:45まで待たなくてよいから、TVから解放されていい調子。


霧が晴れた森の中で

2024-05-16 | 趣味
ミニ鬱が続いている。
正確には、「続いていた」。
何もする気が起きないのに、強い外圧(長きに渡りプッシュされること)により決断、実行の期日を迎え、無理やり渋々、嫌々、行った。
また別件で長い期間、返事を求められているものもあり、本当に嫌で気が進まないのに、決行した。

どうにか動いたことにより、苦痛が和らいだ。
出口が塞がれているのに、後ろから突き上げられる苦しみから、一時的に解放された。
だが、解決したわけではない。
動かなかったものが、ようやく動き出しただけだ。

渋っていた、避けたかった事柄を無理やり行ったところ、肩の荷が降りた気楽さのせいか、その大嫌いなことをキッカケとして派生する別の事柄に、興味を抱いた。
本筋ではなく、枝葉のほうに、光を見た。
だが、これは、動かなければ見えないものだ。

自分と向き合い、悩みを解決するため、ヒントを得るために、訪れていた他のブログがあったが、もう卒業かも知れない。
停滞を切り抜けて、次の段階に移り始めている。
机上の幸福論を煮詰めていたが、具体的な内容を見つけ始めた。

大袈裟に書いた。
早い話、林住期をどう過ごそうか、暇に任せ退屈を通り過ぎて虚無感に襲われていたが、やりたいことが見え始めた。
それだけだ。

精神論はもういい。実践へ。
実際に行った人々の行動を参考にして、自分の計画を立てたい。
まだ立案とまではいかない。
もやもやした霧が少し晴れた森の中にいるよう。

その一つに、旅がある。
バックパッカーのご夫婦のブログが連日、ブログ村エッセイにランクインされていて、楽しみにしている。
このバックパッカーの旅とは真逆の、まさに対極にある、豪華客船の長旅をする人がいる。
対比すると、興味深い。
自分は何を求めているか、潜在意識を探る参考になる。

まだわたしには、体力と気力がある。
だから、枯れるには生乾き。
想いと現実がうまくマッチせず、軋んでいたかも知れない。
やる気をチャージするのに、わたしは人の何倍も時間がかかる。
ガソリンがどこかから漏れているのに、頑張ってエンジンを蒸していた。
どこから漏れているのか探すのに時間がかかる。
漏れが発見できたなら、漏れている箇所を修復しなければならない。
今はまだ、そんな段階だ。

好奇心を満たしつつ、運動を兼ね、緊張もして、一期一会を愉しみたい、、、そういう目標が出来た。
その場限りの偶然を楽しみたい。
(偶然と言いつつ、じつは偶然ではなく、それまでの長い道のりがある)
そういうアンテナを張って情報を集め、準備していきたい。
時刻表や設計図だけで楽しめるオタクになるかも知れないけれど、まあそれもよい。
楽しみの方向性が絞れたということは、それだけでも、わたしには嬉しいことだ。

次々、細胞が動き始める。
さらに不思議なことに、新しい未知のものが向こうからやって来ることもあり、それに乗っかる勢いが大事だが、乗り間違えないように注意しなければならない。


皆さんのブログ

2024-04-28 | 趣味
皆さんのgoo記事更新登録している、お気に入りブログが毎日、自分の編集画面に現れる。
毎日更新しているブロガーさんや、滅多に更新しないブロガーさんなど、色々。
登録ブログ数は、7つ。

その中で、暮らしが、トップとボトムにはっきり分かれるものがある。
比較するわけではないが、違いが著しいため、わかりやすい。
ひとつは、アッパークラスに属している方。
もうすぐ80歳の未亡人。一人暮らし。
ご自分の毎日の暮らしを写真と共に紹介されている。
美しい手入れされたガーデン、家、インテリア、調度品、花、食事、イベント、家族、、、実に豪華。
時々、室内の1番見栄えする一部分だけを切り取って紹介されているブログがあるが、そうではなく、全面。
ご高齢であそこまで管理されるのは素晴らしい。主婦の鑑。
ただ、妬まれる可能性はある。
世の中、色んな人がいるので、自慢に取る人もいることだろう。
かつて、ブログをめぐり、トラブルもあったようだ。
わからなくもない。
お嬢さん方は、母の生きがいのひとつのブログには応援はしているとは思うものの、自分たちの暮らしや家族をブログに写真入りで紹介されたくないだろうと想像する。
おそらく特定されないよう、人が良からぬ感情を引き起こさせないよう、母親に釘を刺しているとは推測するが。
いつ暴走するとも限らない。
高額詐欺に引っかかる高齢の方を連想した。
毎日、ブログを更新されているので、詐欺が疑われるような内容なら、読者が通報するかも知れない。
ご主人の学歴、職業、役職、赴任先、お子さんやお孫さんたちの、学歴、容姿、、、などなど、、(だいたい)わかる。
各人の価値観による、抽象的なものではなく、目に見える具体的であるため、比較しやすい。
危ないなあ、、、と、わたしは、娘さんになった気持ち半分で読んでいる。
でも、お一人なのに、家を完璧に管理され、頭が下がる。
昔、わたしが独身の頃、(自分では購入しないが)読んでいた婦人冊子「家庭画報」の世界。
ではあるものの、80歳を越える、今からが、正念場。
どこまで頑張っていただけるか、遠くから応援している。

まあそれはそれ、として。
毎回、高齢独居、ギリギリ年金暮らしの実例を紹介されるブログがある。
国のお世話になる一歩手前の、その日暮らし。
わたしの編集ページには、2つ並んでいるので、対比特徴の現れが著しい。

ちなみに。
オンライン婦人公論の記事で人気なのは、、、
団地1人住まい70歳超えで、イキイキ暮らす、、、みたいな特集。
婦人公論の記事に、紹介されるのは女性ばかり。読者も女性ばかり。
偏っているが、女性のほうが長生きするから、需要が多い。
男性はあまりそんな記事はチマチマ読まず、TVや読書なのではないかと想像する。
読書は、自分が好きなジャンル。
ひとつ、キーコンセプトがあると、展開しやすい。
例えば、歴史、中でも中世の中国史とか。
中国語も学習し、中国にも旅する。
歌も中国語。
日本史も大好きで、城跡にウォーキングしたりして、歴史のロマンに浸る。
旅ができなくなっても、頭の中では旅が出来る。

他には映画だとか、音楽だとか、人によって趣味は多岐に渡る。

女性は暮らしの中に楽しみを見出すのが得意なのではないだろうか。
それに比べて、男性はまた違う。
暮らしとは離れたところに、趣味を見出だす。
DIYだとか、菜園だとかは、実利的で助かるが、大量に採れた野菜を配る先がない、と嘆く人もいる。
先日、ある趣味の会場に、手作り野菜を一つ一つ、小さなビニール袋詰めにして、ダンボール箱にたくさん入れて持ってきた人がいた。
受付に置かれていたが、「ご自由にお取りください」ではなく、ひとつ「200円」だった。
袋には少ししか入っていない。安くはない。
なんだかなー、と思った。
趣味と実益を兼ねようと思ったのだろう。
わからなくはないが、、、。

姉の夫は菜園も趣味のひとつ。
先日、スナップエンドウと、ふつうのエンドウを姉がたくさんくれたが、スーパーで売っているのを見ると目を疑うような高値でビックリした。
くれたエンドウ、時価にすると何千円もする。
幸い、わたしはスナップエンドウは好物なので、ありがたく頂いた。


モノ作りは好きでない、趣味はない、でも時間はたっぷり、健康に良い、お金はほとんどかからない、、、となると、ウォーキングがオススメ。
ぞろぞろ150人〜200人のシニア大行進。
ではあるものの、やはりわたしは、誘われても足が鈍る。
歩くだけ。シンプルだ。
健康的なのはよくわかるが、なんだか、自分の足が減るような気がする。
人生で使える足の持ち数があるとすると、ただただ歩くだけでは、そんなことに使ってしまうのはもったいないような。
付加価値を付けたい。
好きな鉄道路線を歩く、だとか、歴史を辿るだとか、、、
団体ウォーキングは、テーマをつけて、歩くコース計画を立てられている。
(同じコースの使い回しも多いのは仕方ないが)
色んな地域から人々が集まり、それはそれで、悪くはないのだが、、、。
なぜかまだ、自分の年齢が、参加者の皆さんより若い。
黄金の林住期(〜75歳)が終わるには、わたしには、まだまとまった年月がある。
だが、次の、(命を終えることに向かう)遊行期は、前の林住期が終わってからしか訪れない。
繋がり流れた、一連のもの。
「歩くだけ」に行き着くまでには、色んな挑戦、試みがあるのだろう。
だが、大事なことは、健康でなければ、歩けない。
健康を維持するために躍起になる健康オタクになるのではなく、健康な黄金時期をいかに謳歌するかで、次に訪れる遊行期がまた変わってくる。
(健康でない人はダメかというとそんなことはない)





老後早取り・生きがい喪失感

2024-03-28 | 趣味
映画「四月になったら彼女は」を観た。
佐藤健、長澤まさみ、森七菜、実力派揃い。
森七菜は、キラキラしていた。
涙がまたまたツツツーと流れた。
佐藤健と長澤まさみのラブシーンは、ちょっと熱量が足りないと感じた。
長澤まさみはどうも、ラブシーンに向いていないのではなかろうか。
なぜかわたしは緊張して、ハラハラ、手に汗、握ってしまった。
見ている側が、ぎこちない気分になった。

ちょっと進行が遅く感じた。
なぜ?
テンポがゆっくり過ぎて、この調子だと時間がかかりそうだと思った。
演技派の俳優が揃っているのに。
純粋な恋愛ストーリーが、人生後半のわたしの体内時計の早さに合わないのか。

映画には相性があるようだ。
わあ面白い!と感激するものもある。
が、鑑賞中、居眠りしなければ及第点である。
採点基準が甘い。
とは言え、映画は面白い。
ここのところ、邦画ばかり観ているが。

さて。
4月から新年度。
この2年間、熱心に時間を費やしていた事を卒業する。
だが、4月からの予定は真っ白。白紙。
時間の空白を埋められるだろうか。

普通は、卒業の後は入学だったり、入社だったり、新しいフェイズに移行する。
終わってしまったら、静かに力も消滅して止まればよいが、まだ勢いがある分、足は着地したまま、前のめりに引っ張られる。
次に行く慣性の法則の力が働く。
急ブレーキ状態。

もう2週間前ぐらいに方向性は決めたのに、まだ精神的に執着している。
後ろ向きにぐずぐずしている。
決めた後も優柔不断。
なぜ、ぐちぐちしているかというと、仕方なくではなく、選択肢があるのに、自主的に能動的に決めたから。
選択肢が多いと幸福感度が低くなるという説を体感している。
次に進むための卒業なのに、次を用意していない、予定を組んでいないので、空白となる。
真っ白いスケジュール表に、対応出来るか?

ずーーっと前、本当にずっと前、35年近く前に、予定を入れない日がいかに退屈か、という経験をして、(日頃、よほど忙しくして休養が必要な場合は別)前々から予定を作らなければいけないことを思い知った。
空っぽの自分にとことん向き合い、仕事をし始めたので、時間もこころも空白は埋まった。

さて、この度はどうしよう?
いつも、次の予定が決まった上で卒業するから、バトンタッチ、引き継ぎ期間は前と後が重複するのだが。
仕事の場合でも、転職して次に行くところが決まって退職するならともかく、何も決まっていない状態で仕事を辞めることはあまりないだろう。
とても不安だ、、、。

時間を持て余すとなると、虚しい時を過ごすことになる。
なんでもいいから、時間を潰すことを見つけなければ。
何も準備しないで(本来の意味で)卒業してしまうのは、学生時代以来だ。
あの時は半年間、行く道を見失い、生ける屍になっていた。

2回目の卒業にあたる、35年前は子育てに一区切りした時。
末子が幼稚園に行き始め、それまでゼロだった自分の時間が、少し持てるようになった。
ぽかっと開く空白時間は、2回目となる。
卒業と入学の間。
これまで、1回目は学業終了から結婚まで、2回目は子育て一段落から就業まで、
今回は3回目となるわけだが、人生ステップから行くと、次は終活までの間か。
が、終活に手を付ける気がない。
腰が重すぎて一歩も終活方向に足も気も向かない。
もともと、小学生の時から宿題はギリギリまで溜めるタイプ。

普通は、ここで黄金の老後突入となるのだろうけれど、わたしは老後を20年前から先取りしてしまったため、老後が間延びしている。
そして健康で順調なため、心労なくエネルギーが減らず、溢れ余っているにもかかわらず、出口が渋滞している。

黄金の老後、第2弾。
だが、第1弾と第2弾の間の、休憩ではなく、不安な待ち時間の到来となる。
まだ第1弾は終了していないのにこの度、突然の休止となり、強制卒業となった。
たまたま時期が3月だったので、わたしは卒業にしたが、内情的には留年である。
単位が足りず本来なら卒業できない。資格、免状がない中途半端な状態。
でも、学校は卒業。さあ、どうする?
わずかな灯油しか残っていないのに、降りしきる雪の日々をじっと過ごすかんじ?

もうすぐ4月。
快活な明るい季節に、時間と身を持て余すだろうことが予測できる。
どうにかなるか?
いや、どうにもならない。

健康寿命はまだまだ大丈夫な黄金の老後なのに、退職した直後の、何もすることのない人のようになってしまいそう。
季節が背中を押してくれるか?
外因に依存しようなんて、甘い。

空の巣症候群ならず、老後早取り・生きがい喪失症候群。
実に贅沢なことを言っている。
この機会に、母に会いに行ったり、日頃のルーティンからは想定できない、何か全く違うことをしようか。