蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

昭和ブロガーさん

2022-10-31 | ブログ
ハロウィン。
お隣の国では大惨事となっている。
日本での同様の事故を思い出させる。
わたしは、限られた面積に流れる人数を規制されずにどんどん進行していく事態に自分が遭遇すると、ものすごく不安になり恐怖を覚える。
流入する量と流出する量のバランスが取れていない。
海外の観光地や、山、プラットホーム、至るところに不安材料はある。
特に海外の場合は、危機管理のシュミレーションや訓練が十分行われず、危険がいっぱいなような気がする。

さて。
週明け。
ブログ村エッセイ、60代の昭和世代のブロガーさん。
面白く拝読している。
ソース焼きそば、カロリー高いんですけど。
それはそうと、わたしは中学生頃に、一晩で(夜食に)泉屋クッキーを一缶まるごとペロリ、とか、なんでもかんでもモリモリだったけれど。
今、思えば一晩で一気に一人で泉屋クッキーを食べてしまうのは、カロリーもさることながら、駄菓子ではないので、もったいない。
ばばばばと勢いで口に放り込まず、少しずつ、じっくりゆっくり、時間も美味も堪能したいところ。


ちなみに、ブログ村に長く在籍していると、味わいある趣味人が深く埋もれているのを知り、楽しい。



兄たちの肖像

2022-10-29 | 人生
それはそうと、、、。
今朝、兄たちに逢いたくなった。
二人とも幼い頃にもうこの世を去っているので、その後に生まれたわたしたちきょうだいは、兄たちの顔を知らない。
先日、彼岸に実家を訪れた時に初めて兄たちの生前の写真を見た。
わたしは、今まで一度も兄たちの写真を見たことがなかった。
父が、思い出すのが辛いからと、兄たちの写真は破り捨てられ、アルバムには剥がしたあとがあるだけだった。
が、姉が、古いアルバムを見せてくれた。
そこには初めて見る兄たちの顔があった。
無性にポロポロと涙が流れた。
こんな顔をしていたんだ。
名前しか知らなかった兄たち。
家族揃って、若い父、母と兄たちの四人の家族の肖像があった。

こんな可愛い盛りに次々と子供たちを亡くした父と母。
上の兄が3歳ぐらい、下の兄が1歳ぐらいの写真だった。
モノクロの若い家族写真だった。


父は他界している。
顔も人生も丸ごと知っているし、時間を共有した日々だった。
だが、夭折した二人の兄たちは、話は聞いていたものの、顔を見たことはなかった。
先日、初めて見た時は、さらっと見たが、今回はマジマジと見てみた。
こんな顔だったのか、、、あどけない幼児。
誰に似ているのかな、生きていたら二人とも70代。
胸に迫るものがある。

わたしの小さい頃の写真も見た。
わたしの長女の1番下の娘(4番目孫)に、少し似ているような気がする。
写真に写っていた当時の年齢的なものが持つ特徴か。
3歳になっているか、なっていないかの頃。
3人きょうだいの中では、ものすごくユニークで個性的な上二人の特徴が濃すぎて、わたしのまあなんと存在感がないこと。
目立たない。
おとなしい女の子というかんじ。
姉は、見た目は漫画に出てくるような、気の強い負けん気いっぱいの女の子。
兄は別として、
そりゃあ女の子二人揃うと、大人達がわたしたち姉妹に投げかける言葉は、似たり寄ったり。
小学生だったある日、立ち寄った店の店員さんに、「同じ学校のお友だち?」と聞かれた。
同じ苗字の名札を二人共、胸に付けていたにもかかわらず。
たった2歳しか離れていないのに、全く正反対の姉妹だった。
どうも遺伝子に偏りが見られるようだ。
きょうだい、5人もいれば、色々バラツキもあるだろう。

上の二人の兄が生きていれば、わたしの人生も少しは変わっていたかも知れない。
すぐ上の兄は、全くころっと生き様が変わっていただろう。
ある意味、上二人の兄が夭折したための、気の毒な犠牲者になったのかも知れない。
三男として生まれて育ち成長していたら、自分らしく、のびのび生きていただろう。
可哀想で同情する。が、仕方ない。
そういう宿命か。
静かに受け入れている。

わたしは、逢ったこともない兄二人に逢いたくなったらいつでもスマホに取り込んだ写真で逢える。
写真を見たくなる感情が湧いてきた瞬間にはもう目の奥がじーんと熱くなっている。
ウォーミングアップ状態で、感情が先走り、フライングして既に涙。
実際にスマホを開いて写真を見る頃はもう涙ほろほろボロボロ。
何に対して涙が出るのかわからない。
もう人生の変更が効かない、すでに夭折した、顔も知らない兄を思ったところで、何を思うのか。
しかも、生きている期間、時期はズレているため、逢うことは不可能。
兄たちが亡くなってからわたしたちは生まれた。
懐かしい、という感情はあり得ない。
人生が花開かず閉じてしまったことに対してか。
他人ではなく、わたしの実の兄たち。

ちなみに、兄たちが生きていたら、家を長男が継ぎ、わたしたちは、兄嫁や甥姪たちを遠くから見ながら、静かにゆっくり実家から離れて行ったことだろう。
今のような状況や関わり方、心情にはなっていなかったと予想できる。
時も流れ、時代も移ろいだ。




能率主義

2022-10-28 | わたし
学生の時、経済の授業が大好きだった、、、先生もユーモア溢れ、わかりやすく情熱をもって教えてくれたにもかかわらず、、、ずーっと私は居眠り。
これは脳が、「望んでいること」と「現実」には差がある、もしくは、不向きなことを望んでいる、理想と現実にはギャップがある、ということだろうと推測した。
経済の授業をイキイキして受けて身につけるカッコイイ自分と、実際には全然そうでない、授業内容を理解する以前に、受け付けない自分が分裂していた。
積極的に興味があるのに、受け入れられない理解できない、乖離。

私は、学問や思考には向いていないということ。
(あ、実務にも向いてない)
趣味分野においても、そう。
テキストやYouTubeで解説されているものを熟読、熟視すれば、理解が増すにもかかわらず、目や耳を通して脳から伝達されるものには拒絶反応を示しているのだろうか。
何度も何度も屈することなく、諦めることなくトライすれば、少しずつでも理解、上達できるものを、毎度拒絶してしまう脳。
思いは熱いが、脳は薄い。
長い長い年月、それの繰り返し。
強い意志は岩をも通さないまま、今日に至る。
意志薄弱ということだ。
受け入れたい側と、受け入れたくない側では、頑固な閉められたシャッター脳の勝ち。
開けたがる脳の負け。残念でした。

脳を通さず、実践、体当たり派。
考えなし。
それはそれで、当たって砕ける。
学習せず、性懲りも無く何度も何度も繰り返す。
脳(アタマ)は何のために付いているのか。

(※ちなみに、ダンスにおいては、頭の重みを利用して回転する。
機能や中身【ソフト】としての頭ではなく、物体【ハード】としての役目を果たす)


自分に甘い。何が何でも、と頑張らない。
ある程度してダメなら、しがみつかずに代案を用意してしまう。
だからモノにならない、、、が、欲望は消えず、他の動きはある。
高い山に自力で登れないなら、頂上までヘリコプターで行く。行動力はある。
が、中途半端な生半可な自分である。
あっさり諦めてしまうところが、じつに良くない。
それが嫌なら、地面に貼り付いてでも頑張れば良い。
のではあるが、、、頑張っても頑張っても、不毛なものへ努力している。
それなら、同じ頑張るなら、同じエネルギーを使うなら、もっと効果が高い、能率の良い頑張り方をしたほうがよいと考える。
省エネなのだ。
短所を克服するより、長所を伸ばしたいタイプ。
せっかくの頑張りが無駄になっている、エネルギーの無駄遣いを惜しがっているのか。

骨の髄まで成果主義なのだろう。
美談とは程遠い。
プロセスより結果を重視してしまう。
効率が良いほうが、結果もその分、良い。
結果より努力を評価して重んじる傾向がある日本人的思考ではないのかも。

立ち止まったまま動かないと、進まない。
立ち往生していると「欲望」は早く進めと背後から圧力を加えてくる。
ある意味、短気だとも言える。
待てない。

わたしの長所は待てることだ、とある人に褒められたことがある。 
が、実際のところは気長に待てないではないか。
人のことや物事は待てるが、自分のことは待てないようだ。
自分でやるより、やってもらうほうが早いし精度も高い。
白米ご飯が大好きでも、自分では稲作しない。
買ったほうが手っ取り早くて便利で美味しい。

苦手を克服し、自分ですることに意義があるらしいが、自分自身をとうに見限っている。
代理人にやってもらえば、苦労しなくても済む。
それは自立心がないのとは違う。
(人々が)わけのわからない、こんがらがった案件は税理士や弁護士に依頼するように。
自分だけの力でやり遂げようとするなら頑張るのは大いに結構。
ただし、分野や案件による。
不正解なんかない。 
どれも正解だ。
答えは一つではない。



中途半端な気持ち

2022-10-26 | 日々のこと
好きなことを書きます。 
内容は、ウザいです。

皆さんの興味あることと、わたしの興味あることが、どうも一致していない。
浮世離れしている自覚あり。

さて。
事務所終いをしている。
これは、一種の終活である。
こんなに、ばっさばっさと自分の行動を切り落として行って大丈夫なの?
これから先、何もすることがなくなるけど、いいの?
はい、いいんです。
一つでも、タスクを抱えていると重いので。
なあんにも責任も管理もしなくていい、脳みそピカピカつるつるを目指している。
認知症になっても自己責任。
何もすることがなくなったら、絶対に間違いなく認知症になると確信している。
それはそれで自分は平和だが、年齢的には少し早い。

最近、ジレンマに陥っている。
それは歳相応に自分が大人として出来上がってきたようで、しょうもないことを書けなくなった。
フラストレーションが溜まる。
どこに書けばいい?
書いたところで、そんなことを思っている自分が、自分の理想と反するため、矛盾の海で溺れそうだ。
この矛盾!!が、また苦しい。
解決方法は簡単。
書いて未公開にすれば良いだけ。
お蔵入り。ボツ。


ちなみに、
1番上孫(小4)が小学校の授業で書いた詩が、ものすごく素晴らしい。
でも先生は大して反応していないようす。
今時の先生は忙しいのかな、と。
見る目ないな、と。
わたしは、彼の詩には大いに感銘を受けたし、楽しませてもらった。
それより、彼の感性がとても面白かった。
さすが、わたしの孫だと思った。
これ、孫自慢???

彼は電車の話しかせず、あとは、コミュニティ誌に載っている地元ネタをわたしに話してくれる。
電車オタク。乗り鉄でもある。 
TVニュースは好き。
TV番組「ぽつんと一軒家」も好き。
食いしん坊。
初めて口にした言葉は、「でんしゃー」と「パン」
わたしにとっては初孫なもので、特にかわいい。
兄ちゃん風を吹かせて1歳半違いの弟には不条理、無茶ぶりを発揮する。
2歳の妹の世話はまあしているほうか。

最近はあれよあれよと身体も大きくなったものの、まだまだ幼稚なニイチャンである。

と、頭に浮かぶままを書いてみた。
孫ネタにはスラスラ、何もジレンマはない。








力ない独り言

2022-10-25 | 日々のこと
さて。
お役立ち情報でもなく、文学でもなく、超サプライズでもなく、ゴシップでもなく、心洗われるものでもなく、
いつものわたしの独り言。
面白くもなんともないですが、お越しいただきありがとうございます。

さて、さて。
失くしていた大事なモノは、見つかった。
やれやれ。
わたしのせいでも責任でもない経緯で見つかった。
あっけない幕切れを迎えた。
結果良ければ全て良し。
めでたし、めでたし。

さて、さて、さて。
ちょっとぐらいは文学作品を読んだほうがいいかなあ、、、と、また独り言。
直木賞だったか、芥川賞だったか、大きな賞を取った作品は、ちらと読んだことがある。
下手ではなかったが、、、。
ふーーん、、、これが、受賞作なのね、おめでとう。
そんな感じか。

やはり、自分が興味ある分野やテーマでなければ、いくら技巧を凝らしたところで興味ない。
が、興味ない分野を突然、不意にハートを鷲掴みにされるのが、書き手の力量なのかしらん。
ハートを鷲掴みにされるには、つるつるしたハートではなく、それなりに磨き込まれたハートではないと、響かないかも?
いや、磨かれてない粗野な鈍感なハートを揺さぶるのが、やっぱり、力量か。
感動は突然、雷のように頭から落ちてくる時もある。
わたしは、最近は、突然、頻繁に感動する。
一生のうち、感動する分量が決まっているのだろうか。
あまりにもクールな子供、学生だったから。
人生の残り時間が少なくなって、これまでの無感動を取り戻すかのように、感動したがっているのかも知れない。

ちなみに、今、事務所終いをしている。
個人情報の山をどう処分したらよいものか。
シュレッダーを買うほどのこともないし。
また、意外なモノを発見したりして懐かしんでいる。
手が止まり、片付けが進まない。
あっちもこっちも、わたしの周辺は終活ばかり。


ツマラナイのが良い

2022-10-23 | 日々のこと
健康体で長時間、寝るのは疲れる。
寝るのにも体力が要る。
土曜日は見たいTVもなく、したいこともなく、(仕方なく)さっさと寝る。
いつかの土曜日も21時に就寝したような?

やることがない、何もすることがない、空虚時間がある一方で、やりたいことが重なる辛さ。
日曜日は、孫イベントとスケジュールが重なり、かわいい盛りの孫たちを取るか、自分を取るか。
離れた別の区域から、せっかくこちらに出向いて来る次女一家たちとの合同イベントに参加したいが、、、あいにく趣味関係の練習日と重なる。
どちらを取っても、うしろ髪を引かれる。

その前日は、真っ白ひまひまスケジュール。
うまくいかない。
一日一つの割り振りが出来ないものか。
スケジュール配分は、以前より、ちょっとはマシにはなったものの、、、
今も、あああ、、、参加したいけど、、、自分のエゴとの闘い。
両方、自分本位で選んでいるから、原因も解決も自分。
チョコも、クッキーも好き、でも一つしか選べない、さあ、どうする?
みたいなかんじか。
(誰一人、賛同、同情、共感者はいないだろうけれど)

ヒマな時に、チョコかクッキーを作るなり買うなりして備えたら良いものを、ただただヒマを持て余している、、、のもどうかと。
そんなヒマがあれば、昨日紛失が発覚した、失くしたモノを探すなりなんなり、時間を無駄にせず行動すればよいものを。
やる気が起こらず、、、寝る。

わたし。
詰まったり、通ったり、細い管を何かが進んだり、止まったり。
自分の意思で計画的にするならいざ知らず、気分と天然体にまかせている。
水道管からドバっとすごい勢いで水が出たり、断水したり。褐色の水が出たり。
パイプは順調な滑りを見せることもあるが、渋滞することもある。
するすると流れることもあるが、止まったり流れたりを繰り返すこともある。
パイプ内に、ヘドロ状のものがこびりついて、流れを悪くしている時もある。
パイプ掃除が必要だが、下手をすると、パイプそのものを傷つける。
へんに、しゃかりきに頑張らず、弱ったパイプをだましだまし使う。
無病息災が理想だが、、、一病息災で、病気を抱えていると身体も時間も大切に使う。
新品に取り替える時は、サイボーグになった時か。


大事なモノを失くした

2022-10-22 | 日々のこと
記憶力、劇的低下。
覚えておきたいことだけ覚えよう。
鼻歌〜。
だが、忘れてはいけない、重要な手続きや事務的な内容を忘れたら??
ひたすら、困り、対応に追われることになる。
嘆いているヒマはないはず。

さて。
ある大事なモノ(実用品)を失くして、こころが零下10°。
本日、午後から急激に凍っている。
見つからなくて、こころが溶けそうもないので、しばらく放置する。
自然にどこかから出て来ることはまずないとは思うものの。
あちこちに、「どこに行ったか知らないですかー?」と声を(LINEで)掛けている。

第一声。次女からの返信。
「いつも置く場所の奥に入り込んでるんじゃない?」
はあ〜。
既に何回も何回も探したが、見つからなかったのだ。
アタマにずし〜んと巨大石。
ああ、もう。

忘れよう、忘れよう、こころの暗黒重荷は忘れようと思いつつ、
忘れてはいけない、はやく探さねば、と、矛盾回路を行ったり来たり。
実は数年前にも、ものすごく大事なモノを失くし、真っ黒な気持ちを抱えて、しょげかえって、すっかり諦めたころ、忘れたころに、ひょこっと出てきた。
思わずこころの中で叫んだ。
「こんにちわ。お帰り。どこに行ってたの? ありがとう、戻ってきてくれて」

しかしながら、わたしは数年間、そのモノに翻弄された。
だが、結果良ければ全て良し。

今回は早く書類を作成しなければならなく、その失くしたモノが早急に必要なのだ。
書類を送る相手には、とりあえず4日間の遅延の猶予をもらうことを伝えた。
4日では出てきそうもない、、、
すっかり困っている。弱っている。

声を掛けた残りのあと3人、、、ノー・リアクション、、、
期待薄、、、
絶望的な気分である。

が、まだ1日目なので、比較的お気楽、楽観的。
どうにかなるはず、、、で、あってほしい。



文学に縁がない

2022-10-20 | ブログ
裕さん、ブログ村エッセイの、ご注目の文学ルーキー、どなた様かな?
興味津々。
わたしも本は読まない。
社会的な教養書みたいなものは、たま〜に読むことがある。
が、ほぼ読まないと言っても良さげ。
ブログ村住人のある方に昔むかし、リクエストされ、自分で小説を書いたこともあるが、ほんの少し。
ちょびっと、リトルビット。
あくまでも要望に応えてみただけのチャレンジだった。
当時、リアル知人が文章教室で小説を習っていたこともあり、小説を書くにあたりルールを色々教えてくれた。
が、それが重苦しく、自由に書きたい野生児のわたしとしては、窮屈で足枷になった。
自分が好きなように伸び伸び書きたいわたしには、面白くなかった。
なので、一作でやめた。
制約やルールは、わたしは大嫌いである。

ちなみに、他人の書いたものを読む時、わたしは、文章表現法はさることながら、視点、感性、考え方、捉え方に着目する。
だが、かなり良い内容でも、書き方があまりにも読む気を削ぐようなら、ちょっとだけ読んで、サジを投げる。
読み進める体力がない。Too hard しんどい。

あるいは、難解すぎるものもNG、
何が言いたいのか、何を言っているのか、さっぱりわからないものもNG。
当たり前のことを当たり前に書かない作風は、わりと好き。
自分が興味あることしか読まない。
そして、究極は、自分に関わりがあるものしか読まない。
いたってわかりやすく、現実的。
だが、歴史や科学、自分には直接関係ないが、人間には間接的に関わっているから、脳が元気な時は読む。
さらさらと、すでに知識として知っていることの確認、答え合わせみたいなものか。
知らないことに出会うと、結構、脳は喜ぶ。
まだ脳はそれなりに生きているようだ。

互助会的なブログは敬遠する。
(会員同士がフォローし合うもの)
いいね!のポチは増えるかも知れないが、いずれ苦しくなってくる。
縛られないものが気楽で良い。
ただし、アクセス数は増えない。
あれもこれも、欲張るには、それだけの筆力や人気がないと無理。
中にはすごく文章力がある人もおられるが、所詮他人なので、山のように存在する達筆家の中に埋もれてしまう。
やはり、自分と何らかの接点、関わりがあるものに興味引かれる。
つい最近では、農作しておられる方とか、自然界で生きておられる方、昔流の暮らしをされている方、、、応援したくなる。
わたしには出来ないことだからだ。



TVも良いものだ

2022-10-19 | 日々のこと
なんか知らないが、閲覧数がブログ開設以来、最低となっている。
まあいいか。
あまり、気にしていないわたし。
(いつも読んでくださる方、ありがとうございます)

さて、さて。
NHK TVで、バタフライエフェクトという、実際の過去の映像を使った番組がある。
一昨日はジェノサイドの内容。
すっかり気が滅入り、不安に陥り、暗い気持ちになり、何度TVの電源を消そうと思ったことか。直視出来ない。
わたしは学生の頃に、「夜と霧」という書物を読んで、一通りは知っている内容だったが、実際のフィルムを次から次へと公開されると、なんとも言いようのない不安と漆黒の闇に包まれた。
今、きな臭い戦争が現在起きている最中では、想像の世界ではなく、延長のリアル世界のように思えて、恐怖に慄いた。
どんどん加速する円安も同時に体感し、時代の激動前夜であるかのように戦慄した。

同じ日、それとはまた違う番組だが、久々の「ファミリーヒストリー」放映には喜んだ。
西川貴教。
番組に出てくれる出演者を探すのは大変だと感じた。
ネタ探し、取材も1世紀以上遡るのは困難だろう。
だが、親戚の人が保管していた、おばあちゃんのVTRが流されて、とても柔和で良い表情、ものの言い方に感激した。
古文書や行政書類などは事実を伝えるものだが、動画は生き生きと当時の空気を物語ってくれる。
さらに、23時から放映される、若手女優が過去の女性を演じる番組がある。
そこで、「ナンシー関」という女性を始めて知った。
38歳で亡くなっているのだが、異才を放つ女性だった。
こういう人物も取り上げてくれるNHKに感謝した。
NHKは、ぶっ潰して欲しくない。



暗闇トンネル

2022-10-18 | わたし
わたしは書きながら考えるためにブログをツールとしても使っている。
ホワイトボードみたいなものか。
会議なんかの時に使う、あれ。
筋道を考えたり、図に描いて関係や流れを見て、まだ描かれていない部分の行方を想像したりしている。
なので、お読みなる方には全く得るものがない、貴重な時間泥棒になる。
そこのところをまずは最初に書いて、と。
あとの時間は、自己責任でお願いします。

独り言が滑り出す。
いくら立体空間をシェアするリアル友達が出来ても、話す内容は限られている。
好きなことを好きなだけ話すと、わたしは嫌われると思う。
なぜなら、わたしは悪い人なので。
行いはそう悪くないが、こころが悪い。

基本的には善人であるが、黒い部分も持っている。
「わたしは生まれてから一度たりとも嘘をついたことがありません」などと言おうものなら、政治家なら一日として務まらない。
いや、適正合格か。
舌の根が乾かないうちに、反対のことを平気で、しれっと言ってのける図太さ、厚顔無恥なタフさが必要だ。
かといって、誰でも政治家になれるわけではない。
弁が立たなければ、どうしようもない。
が、ぺらぺら話し続けるお喋りが良いわけではない。

会社の社長もCEOも、嘘をついたことが一度もない、清廉潔白な人がなっているようには思えない。
第一、生まれて一度も嘘をついたことがない、なんて傲慢な無知から来るデタラメだ。
一度ぐらいはウソをついているはずだが、自覚がない、認識がない、気づいていない、忘れているだけだろう。

まあそんなことは、どうでもいい、時間潰し的な不毛な話題でありまして、、、

色んな部分がある中で、各人、どの部分と接しているか。
悪の部分同士がくっつくこともあるだろうし、良い面でつながっている場合も当然ある。

悪い面を、あえて必要もないのに、そんな局面でもないのに、わざわざ自分から意図的に自主的に出す必要性はない、と考える。
良い時は群がるが、(人気やお金、人脈など)目当てのものがなくなった時に人が離れていくことがある。
客観的にマイナスの不幸なドン底状況は、真の友人を見極める、ふるいにかける作用がある。
逆に、自分がピンチの時に、人に頼らず自分単体で意外な良い面が現れる「火事場の馬鹿力」。

と、自分の悪の存在へ自己弁護。
皆さんもあるでしょう?あるはず?無いとは言わせない、、、などと、へんに罪悪感を煽るようなことはしない。
あくまでも自分による、自分のための解釈、講釈。

さて。
人は良い面と悪い面がある。
99%悪くても1%が良く、1%のその良さが99%の悪さに打ち勝つなら、良し悪しは人それぞれの尺度に任せるしかない。
逆に99%良くても、たった1%の嫌な面がどうしても受け入れられないなら、これまた仕方ない。
さじ加減やバランスは、個人の嗜好や思考、解釈、捉え方による。
素晴らしいハイスペックの全てが完璧の人なのに、生理的に好きになれないと結婚には至らない。
政略結婚ならいざ知らず。

たった一つの1%は、引き金に過ぎないと思う。
その他の嫌な面が知らず知らずに積み重なって、最初は1%と思っていても、実は1%どころか、かなり高い数値になっていて、良い面を上回ってくる。
最後は、あんな些細なことが気に入らないなんて不可解、となるが、それ以前に水面化でどんどん嫌いな部分が増えていっている。

悪い面=嫌い
良い面=好き

だが、嫌いになり始めると、どんどん悪い面が目につく。
好きな時は、良い面ばかりを好意的に捉えて、悪い面は全然気にならない。
しかし、やがて慣れてきて慢心し初心を忘れると、良い面は減少し、悪い面は増え、逆転する交差地点がある。

最後は、箸の持ち方が嫌いだ、プッチン!となったりする。
「アバタもエクボ」が、どこがエクボだ、アバタはアバタ!と、冷静に客観的になり、更にマイナスの主観が加わり、アバタが最高に大嫌い、になる。
取るに足らない、理由にならない理由が背中を押す。
そうやって、溜めに溜めていた不満が一気に溢れ出す。

どうしても、受け入れられない行動を我慢して受け入れていて、更に、また別の気に入らないことが追加され、そして、のっぴきならぬ行動が加わると、、、許容容量から溢れ出す。

何が、決断する決定打になるか。
複合的だったりする。
基本的柱となるものは一つで、あとは、枝葉。
枝葉で色々傷つくことはあっても、それらを積み重ね、そして、肝心の幹の部分がダメだと判断したら、もう後腐れはない。
自分から見切りを付ける。
しかし、時間がかかる。
決心してから行動に移るまで。

嫌だと感じて我慢ならないなら、その度に少しずつ改善していけばよかったが、やっと気持ちの整理がついた。
本当に長く苦しい、暗いトンネルだった。
わたしの場合は、決断や行動が遅く、単にぐずぐずしているだけかも知れない)


人々の悩みは人間関係のことが多い。
大切な人を亡くすことや、中にはペットロスなんていうのもある。
自身の病気や経済的なことなどもあるだろう。
人はそれぞれ、苦悩から逃れるために、解決に向けて動く。
間違った方向に動く場合もある。
一人で袋小路に迷い出口が見つからないなら、もう一度、悩みを整理してみる。
自分の気持ちを確認する作業が第一ステップ。
アタマの中が、こんがらがっているなら、信頼できる人に相談すると良い。
(わたしの場合は、自問自答パターン。
わたしに取って都合良い答えばかり出すのが良いやら悪いやら)
解決出来ない時は、時機が来るまで待つ。
痛みや傷が癒えるまで、じっと待つ。
音楽を聴いたり、絵画を観たり、屋外の自然に触れたり。
ジタバタするとエネルギーを消耗するので、出来るだけ動かない。
冬眠中の熊になる。
やがて春になる。

それと。
歳取ると、マイナス感情は取り入れない、溜めない。
そのためには、自分が嫌なことはしない、嫌な人には接しない。
ある70歳を過ぎた方が、ご自分のスタンスをそう語っておられた。
わたしは先取りしている感がある。