蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

なぜ服を着ているのか

2016-10-30 | ファッション
ファッションセンスに関しては、人それぞれである。
ただし、奇抜すぎて、アタマの中身を疑われかねないものもある。
時代に吹く風を、追い風にしている場合も、逆風にしている場合もある。
生き方と似ている。

テレビのCMで、「あなたは、なぜ服を着ていますか?」というコピーが度々流れる。
あれ、好きだなあ。言いえて妙。
ああいう側面からのアプローチは大好きである。

人に良く思われたい、カッコ良く見られたい、いわゆる、ファッションの動機。
暑さ、寒さ、外敵、ケガ、、、などから身を守る一次的な目的を満たす、
その次は、オシャレ、快適、機能性、見かけ、と、二次的要素。
快適、機能性は説明しやすい。
見かけ、オシャレ、あたりが、ややこしい。
(高価なものを身に付け、成功者に見られたい、というのもある。
わざとらしく力まなくても、さらりと上流感が出てしまう、いわゆる高品質な「身なり」もある)

人の目を意識することが前提だろうけれど、自分が楽しめなくては意味がない。

70歳ちょっと過ぎの人が、今風、若者ファッションをしていると、かえって若くない年齢を強調しているようで、痛い。
明らかに、体型、仕草、動作、姿勢と服装が合っていない。
流行の服は大量に生産されているので、安いから買った?
息子か娘の服をオシャレ心、あるいはイタズラ心、あるいは、節約心で着ている?
街で見かけるそのファッションには、いつも、着ている人の心が読めそうだ。

似合っていれば、問題はない。
問題は、似合っていないことである。
松岡修造ぐらいの体型、体格、機敏性なら、まあ良しとしよう。
五木ひろし的な人が、ジャニーズ系の服を着ていては、どうも、、、。
背の低い、背中がこんもり、まん丸な、おばあちゃんが、ぴちぴちスパッツにブーツは、どうも、、、。
だが、人のために服を着るのではない、自分が楽しむためだ、というセオリーには反していない。
でも、わたしなら自分の好みファッションが自分に似合っていないと感じた時点で、その服はパス。
あくまでも自分本位の尺度なので、時折ミスをする。
美智子妃殿下が、レオタード、というかんじになってしまうことがある。(例えが失礼か)

ご近所さんに、「変わった服、着てますね〜」と、決して褒められていない感ありありで、まじまじ見られることもある。
いったい、どこがよくて、どういうつもりで、どういう心境で、、、という、言外の感想が汲み取られる。
まあ、別に、ウケを狙っているのではないので、誰に何を言われようが(決して愉快ではないが)、人の反応のせいではなく、自分が嫌になれば着ない服も多々ある。

「いつもどこか変わった服を着ている」と母に言われる度に、自分をどこに持って行けばいいのか、自分をどう収めるといいのか、変わっているのが服なのか、自分自身なのか、身の置き所を見失い、少し溜め息が出る。

たかだか服でさえ、人と変わっていると、(母からだけでなく)あれこれ言われる。
服のように、はっきり外側から見えるものは、わかりやすい。
これが、パーソナリティや、性質、能力、脳、思い、なんやらかんやらだと、複雑である。

人にあれこれ言われるのは、嫌い。
ほっといてちょうだい。
だから、おそらくわたしには友人がいないのだろう。
自分と遊ぶのが一番楽しい。

しかし、思うに、服装は人を現している。
上品で上質な服を着ないわたしは、上品で上質な人間ではないのだろうと、自己分析する。


もやもや、もやもや

2016-10-29 | 人々の風景
昨日の富裕層デパートの記事。
行きの電車の中でほとんど入力し、締めはアポ待ち時間、さらに仕事の空き時間に、加筆訂正したので、まとまった時間を取った上でゆっくり考えられなく、どうも、アタマの中で自分なりの、すっきり感がない。
納得の結論が導かれないまま、今日の朝を迎えた。

で、たまたま、寝ぼけた顔で起きてきた次女に、投げかけた。

「昨日の話なんやけど、どうも、もやもやする」

いつもならメンドくさ煙たがられるところが、本日は非常に珍しく、話に付き合ってくれた。
で、手短に問題点や疑問点を話した。
途中、脱線しまくりで、(「話が外れてるで」と指摘されるまでもなく)ちっとも手短ではなかったが。

次女曰く。
「人の目を通しての富裕層ウォッチングではなく、自分の目でHデパートに行って、見てきたら?」

なるほど。納得。

そもそも、富裕層とは?その定義、捉え方が、わたしの姉と、わたしとは微妙に違う可能性がある。
姉妹であるが、家を離れるまでは同じ育成歴でも、離れてからは違う別人生。
(そもそも生まれた時から別人格)
多少の誤差は生じるだろう。

で、
富裕層うんぬんよりも、ファッションセンスの問題ではないかと。
センスは、人によって違う。
多くの人に愛され憧れられるファッションが好きな人は、求めているものと、求められるものが同じだから、一直線で、やりやすい。
わたしのように、自分の好きなものと、一般的な好みとに多少のズレがある場合が、ややこしい。
決して人様からの賛同を得たいわけではないが、人が良いと思っているものに対しても、確かに物理的には良いとは思うが、それがどうした?と、なる。
自分もマネしよう、取り入れよう、参考にしよう、とはならない。
否定はしないが、なびかない。
肯定するとしても、多くあるものの一つ一つとして、それぞれを肯定する。
決して、それだけが良い、他のものは良くないとは思わない。
ふ〜ん、そうなの、それで?
と、なってしまう。
可愛げない。
自分の核を持っているから、混じったとしても、溶けないのだろう。

ファッションから入る富裕層、こういう流れで定義しようとするから、すっきりしないのだ。
ファッションそのものに、頑とした自分を持っているので、「高そう→富裕層」という式はあっても、「マネしたい、参考にしたい」とならない。
しかも、最近のわたしは、同じ「高そう」でも、ファッション性を追求するのではなく、快適性、機能性を重視する傾向にあると思われる。
だとすると、ウォッチングは正解だ。
見て楽しむ。自分なら、買わない、着ない。憧れない。
「ふ〜ん」の一種。

人それぞれ価値観は違うし、ファッションセンスにいたっては、もっとバラバラ。
だから、服が売れるのだろう。

歩んできた道によって、価値観は分かれる。
ファッションセンスは、さらに価値観以前に、感性の問題。
「好み」ってやつである。
人それぞれで、どれも正解で、決まりきった模範解答はない。

富裕層が集まるデパート

2016-10-28 | 人々の風景
大阪、梅田、H百貨店(同じH百貨店でも、下町を走る電鉄会社系ではなく、山の手、高級イメージのほう)に行くと、貧富の差を感じる、と、若手・顧問税理士Kが言っていた。

「金持ちって、いるところにはいるんですね」
と、目を丸くして興奮気味。

姉も、あのデパートで、富裕層ファッション・ウォッチングをすると楽しい、と言っていた。

高級外車で駆け付ける、ベビー連れのママ友たち。
まあなんと、おベビー様は、お高そうなベビー服を着て、ママたちも高級ブランドに身を包んでいたそうな。
梅田のど真ん中、電車で来いよ、と、無関係な他人の声。

若い人はブランドがんがんだが、しっとり年齢層の奥様たちも、上から下まで、それはそれは上質な服装。
ギンギン、ブランドを表面には出していないが、バッグまで、一点ものと思われる、いかにも高額で趣味の良い装い。
ヘアも当然、手を抜くことなく美しく整えられ、トータルコーディネートは完璧、お金持ち〜というオーラを放っているそうだ。
服装、身なりによる、富裕層判定である。

家に帰って、姉のマダム・ウォッチングの詳細を下の娘に説明すると、
「お金の全てを服装に使っているのかも知れへんやん」と。
相変わらず、ユニークな反応。
全身ユニクロ・トータルコーディネイトは快適だ、という、コメント付き。

なるほど。
各自の価値観。
若手顧問税理士Kは、一昨日、会議室で姪が着ていた、とある人のお下がり服を良い品質だと褒めちぎっていた。
が、わたしは、物質的には上質であるとは思ったものの、誰が、どんな人が、いつ、どんなケースで、どのように着るか、だと感じる。
人が身につけて、初めて服は生きる。
物質的に服の質を褒めても、それはあくまでも一面であり、あまり意味がない。

その会議の時に、わたしは自分の着ていた服が安物だったこともあり、自信のなさから来る反発を感じたからかも知れない。
ちなみに、最近の若手・顧問税理士Kの服装は、けっこう、へん。
おそらく、彼の精神状態を表しているとわたしは見ている。

服装は、人なり。

しかしなあ、お買い物するために都心のデパートに来る時の服装、気張ってみてもなあ。
いわゆる、よそいき。外出だけで、何も作業しない服。
普通の生活がそのレベルだとしても、いかにもお高い上質な服で、作業が出来るか?
1日中、着ていて、着崩れたり汚れないか?
仕事する人だとしたら、演説や遊説のヒラリーさんか、小池さん。
あるいは、ファッション関係の仕事をしている人。
または、皇室などの公人。
映画で見る貴族を想像してしまう。
それ以外の人なら、お高い服は、たんなる道楽。
お金持ちの道楽が、たまたま服だった、ということだ。
服以外にも、道楽の対象はたくさんある。
その、Hデパートの富裕層(認定基準は、服レベル)は、衣食住の暮らしの予算が、庶民の何十倍の額をさらっと消費する、生活水準の高い、とてつもない大金持ちか、
そうでなければ、あまりこだわりのない人生を送っている、欲のない、幸運な人だろう、と人物像を推測する。
しかしながら、お金持ちは、ぼ〜っと、ぼやぼやしていると、相続税であっという間に、身ぐるみはがされる。

まあそれはそれとして、やはり、H百貨店の顧客は富裕層で、わたしは庶民だと感じた。
わたしは、K百貨店派。
地元重視なら、T百貨店。
で、それがどうした?の話でした。



真珠のように煌めく海に、ポケモンはいたか?

2016-10-24 | 
秋、恒例のちょいっと旅。
今回もまたまた伊勢。
というのは、3回目。

べつに、お伊勢さん命、猛烈な神道ひと筋さんではないのだが、関西プラスアルファのチョイスとなると、どうしても行き先が重なる。
というか、仕事関連の家族交流会のため、参加することに意義があるわけで。
そんなこんなで、いつも、けっこう楽しませてもらっている。

が、「去年は、どこへ行ったっけ?」と会員同士、じつにいいかげん。
福井だったか、はたまた、金沢だったか、日本海側ではあったなあ、と。
いったん集合してバスに乗ったら、最後、集合場所と同じ解散場所でバスを降りるまで、脱力しまくり。
添乗員さんに、まかせっきり。
バス内に積み込まれた大量のアルコールは、即効、効果をがぜん発揮し、みなさん、日頃のストレスも吹っ飛ぶ模様。
(わたしは、車内はソフトドリンク派なので、ただただ、おとなしい)

家族交流会であるにもかかわらず、スマホ、イヤホンで歌を聴いている会員さん、隣に座る自分の家族とすら交流しない。
通路を隔て話しかけても、いちいちイヤホンを外して返事する会話、これって、話しかけないで!と発信しているのにもかかわらず、話しかける夫。
みなさん、いろいろで種々雑多なりに、これでも、それぞれに解放され、和気藹々と仲良くまとまっている。

ある家族会員さん。
始終、ポケモン、ゲットネタ。
奥さんは、伊勢神宮、内宮、外宮、どこへ行ってもポケモンを追いかける。(私より5歳ぐらい年下?)
気長に忍耐強く話に相槌を打つ旦那さんA(私と同い年)。
AさんはポケモンGo、途中ぐらいまでしか、よくわからないらしい。
ある会員男性が、
「Aさん、感心やねえ。ちゃんと奥さんの話を聞いてあげて。
僕やったら、疲れてるのにそんな話、聞きたくないわ」と感想をポロリ。
奥さん、「あらら」と小さな声。
ピリピリした雰囲気にはならないのが、大人な集団。
(それ以前に、ポケモン追いかけごっこは、ちょっと下火なのでは?
時事ネタとしては、やや流行遅れ感がある)
アメリカでしか手に入らないグッズ?やらなんやらもあるらしいが。(奥さん談)

一面に広がる鳥羽湾と島々の絶景を見ながらの、フレンチで、口福の時を過ごした。
が、恍惚過ぎて、来年になるとどこへ行ったのか、忘却の彼方かも知れない。
ポケモンさがしの旅、えっと〜、あれはどこだっけ?
それもよかろう。











ガラが悪い熟年女性に、キレられた

2016-10-19 | 日々のこと
さきほど、電車のホームの階から、車いす女性とエレベーターに乗り合わせ、その車いすの熟年女性に口汚くののしられた。
私が降り際に「開く」ボタンを押して降りたところ、
「放ったらかしかよ、開けとけよ!」
と背後から大きな怒鳴り声が聞こえた。

さらに改札の所でも、
「車椅子やのに、開けとけよ、アホ!」

どうやら私を追いかけて悪態をついているようだが、私はそんな悪いことをしたという自覚が、とんとない。
普通にエレベーターを降り際に「開く」を押して先に降りたのが、それがいけなかったようだ。
その人の介添え、介護を私がしなければならなかったということか。
響くダミ声がいつまでも頭にこびりつき、あとあと、ずっと気分が悪い思いをした。

自身の車いすの不幸を、アカの他人に当たりちらし、当然の義務のように介添えをアカの他人に押し付けるその人は、大の大人の女性でありながら、あのガラの悪い話し方には、ゾッとした。
あんなに自分の思いを喋ることができるなら、エレベーター内で、「私は車いすなので、最後まで、私が降りるまで開けておいてください。すみませんが、私が降りてから、後に降りてください」と頼めばよいのではないかと思ったりした。
私が「開」のボタンを押したとはいえ、先に降りて、配慮が足りないと反省すべき点があり、彼女にしてみると、そこまでハッキリ子供に教えるように諭すように口に出して示さなければわからないのか、という苛立ちはあるだろうが、あんな言い方をされると、胸に黒い重いものがへばりついた。
先に降りた私の行動は、悪気がないとはいえ、常識として、なんの問題意識も持たず、何も気づかず、自己チューで感心しない。健常人ゆえの無知、無配慮。
その悪気のなさが、あの車いすの女性をムカツかせたと想像する。
もし、私の関係者に車いすの人がいたなら、もう少し考えていたことだろう。
だが、車いすをジャマ扱いしたり、邪険にする人もいて、それに比べると、そこまで私はひどくない。

しかし、あの女性、介添え人なしで、一人で電車に乗っているのだし、自立しているから大丈夫と思って、深く考えず、私は先に降りた。
現に、エレベーターから改札口までは30メートルぐらいあるが、エレベーターから降りて改札口まで普通に歩いていた私と、エレベーターに取り残された彼女は、同時に改札口に到着していた。
しかも、改札をわたしよりも先に通過した。
彼女は、さっさとエレベーターから降り、早くに移動できるのだ。
それぐらいの、健常人と同じ速さを維持できる、あるいはそれ以上の、いたって素早い行動ができる人だった。

先に降りられて、ものすごく不快で大変な目をしたにも関わらず、1分か、2分後には、もう行動はクリアしている。立派なものである。

ただし、あの、ガラの悪い言葉による、マイナス感情の発信!
「世の中、おまえみたいな無神経なヤツがいるから、私は、不快なんだ!」というかんじで、思いっきり自分の感情をぶつけ、不快感を言葉でアピール。
ヘイトスピーチのような音声だった。
あれぐらいインパクトのあるセリフ、音調でないと効果が弱いのだろう。
「悪気のなさ」「自覚のなさ」「無意識」「無関心」「無配慮」が、彼女をキレさせるキーポイントだと推測する。

車いすの人を労らなければいけないのは、重々わかる。
罵声を浴びせられた時は、真っ黒な気持ちが続いていたが、今は少し収まっている。

彼女の気持ちを理解しようとすると、レディーファーストを無視された女性の気分か?
あるいは、電車内、若者が座る優待席の前に立つ、重い荷物をどっさり担いだ、足の悪いお年寄り?
私の気持ちを理解してもらうには、ヤ○ザの足をうっかり踏んでしまって「このやろー、なにさらしとんじゃ、なめとったらあかんぞ〜、ごぅらあ、ぼけ〜、かす〜、おら〜、おら〜」と凄まれ、ビクビクびびって恐怖のどん底の気の弱い人。

あのタイプの女性が近隣に住んでいたら、間違いなく私はストレスで病気になるだろう。
職場や自治会、学校関係で交流を余儀なくさせられたら、、、と思うと、ゾッとする。
幸いにして、今まで、そういう人とは接点がなく、本当に良かった。

弱い立場の人を思い遣るのは、人として大切なことである。
虐げるなど、とんでもない。
うっかり自分の、自覚なくとっている行動が、弱い立場の人を傷つけていることがある。
それがわかったので、これからは、車いすの人には近寄らないようにしようと思う。
(→この、最後の行の感想はNG。
これでは、学習効果としては、倫理委員会には不合格)
模範解答としては、
「今後、車いすの人には彼らの目線で物事を見て、暖かい手を差し伸べ、少しでも役に立てるよう、気を配ろう」
が、大人の優等生としての、まとめ、総論だろう。

「みなさん、間違っても車いすの人より先に降りてはいけません。
ちゃんと降りるのを見守ってから降りましょう。
最低限の社会のルールです」
(なにを今更、そんなこともわからなかったの?とネットの向こうからの冷たい目)


彼女の行動は、他の車いすの人々の代弁者としての意義があったのかも知れない。
胸がすく思いがした、(数々の世間の人の心ない行為で傷ついた)車いすの人々がいることだろう。

自分の世界だけに生きる、のほほんとした人間に、がつんとカツを入れる役割をした。
説明なしに、いきなり、ひっぱ叩かれたか、こん棒で殴られたようなかんじ。
痛いっ! なんで?
痛い理由を理解するのは、痛みが治るにつれ同時進行で、考えたり、振り返ったりする手順になっている。
先に説明、理解、誘導があり、その後に模範行動を引き出すほうが、平和的で望ましい。
が、そんな悠長なプロセスを辿っていると、キレた女性は自分の思いを伝えられないまま、当事者たちは散り散りバラバラ、各自の家路についていることだろう。

冷静になって考えてみると、世の中にはいろんな人がいて、微妙な力、バランスで均衡が保たれている。

買わないなら入るなオーラ

2016-10-15 | ファッション
年をとると、キレやすくなるらしい。
それを地でいくと感じる、今日この頃。

ある、さほど都会でもない、JR快速停車駅、京阪神地区の垢抜けてもいない、駅前マンションの一階に入るテナント。
おばあさんの長ズロースやら下着が、店先に吊って並べられている。
そんなお店と同じフロアにある、女性向けファッション店。
通路側のショウウインドウに、いくつもの白いボタンの並びが印象的な洋服がディスプレイされていた。
通り過ぎたが、一瞬、戻って、ショウウインドウを見る。
カーディガンなのか、カブリなのか、ワンピースなのかチュニックなのか、ざっくりニットなのか、別の素材なのか、分厚いのか薄いのか、軽いのか重いのか、薄暗いガラスに囲い覆われ、ぜんぜんわからない。

で、デザインに興味を覚え、店の中に入った。
一歩入ると、閉ざされた狭い空間に二人の店員。
しーん、、、
(いらっしゃいませ、って言わないのね、この店)

「あの、、表の服なんですが、、、」
しどろもどろに言う、わたし。
店員は、他に客もいないのに、狭い場所で二人はじっと横一列に並んで、動こうともしない。

「あの服、どんなふうな服なのか、ちょっと、、、その、、あの、、」
一生懸命、要望を述べようとする、わたし。

年のいったほうの(年齢はわたしより上と思われる)やたら、どぎつい原色を顔に塗りたくった店員が、怪訝な顔をする。
指の爪には、これでもかと、ゴテゴテ・ギトギト悪趣味ド派手ネイルアート。
魔女か悪魔?
全く似合っていない。
イヤラシ汚らしいと感じさせる、行き過ぎネイルアートも、あるのだ、とへんに感心した。
やり過ぎは、なにごとも逆効果。
もっともわたしが嫌いとするタイプ。
似合わないのに、やりたがる、自分を客観視できない典型的見本。

ネイルアートだけを見ると、そこまでこき下ろす必要はないが、人物像として、今までの人生65年ぐらい?の積み重ね、どうしようもないギットギトのオーラを放っている。
いい年して、あんな趣味の人もいるんだ、洋服屋さん(ブティックとは決して言えない)の店員をするにはいいかも知れないが。

そんなに悪意を込めて頭ごなしに、ボロカスにけなす必要はないのだが、
わたしには、その必要があった。

シーンとして客の出方を見守る店員。
(普通は店員さんが、
なにをお探しですか?
Can I help you?
と駆け寄ってくるのでは?)
あんた、なに? なにしに来た?みたいな、あの態度は、屈辱的、侮辱的。

「あの、、、外に掛けてある服、見せていただけますか?」と、やっと言えた、わたし。
不思議な間(ま)をおいたあと、悪魔ゴテゴテ店員は、いかにも、渋々、嫌々、店の奥から同じ商品を取り出した。

値札に書かれたお値段は12万円。
「これと同じものが10着あって、8着、売れました」
にこりともせず、仏頂面。
ピクリとも微動だにしない。
うさんくさい気持ち悪い金がネタネタこびりついて、履き違えた価値観で歪められた、イヤミったらしい顔。
あんたは、この店の客層から外れてる、と言わんがばかりの態度。

あんなオババに、あんな目で見られる筋合いはない。
第一あの立地で、あの雰囲気の店で、あの商品が売れるはずがない。
(ひょっとしてわたしの見間違いかなあ?
でないと、あり得ない値段)

最低限度にも満たない商品説明のあと、いかにも、「買わないでしょ、あなた」みたいな静寂。
一、二、三、四、五秒ぐらいの、無言タイムのあと、
「あ、どうもありがとう」と言って、わたしはその店を出た。

銀座の高級ブティックじゃあるまいし。
なんだ?あれ?

わたしは自分自身を値踏みされたような気がして、いたく気を悪くした。
その時のわたしの服装。
GAPの(ブルー)デニムパンツ、(着慣れた)厚手の白コットンシャツ、コーチのチョーカー、グローバルワークの(古い)藍色フォークロア調カーディガン、靴はグレーベージュの革ベースに、フラワーモチーフの2バリエーション(素材は同じ革で、グレーベージュと青)がアクセントに付いた、フラット・オープントゥ。スペイン製。以上。
少々、年齢には合っていないのは否めない。
お金がないと思われたようだ。
しかし、あの店員よりは、たぶん余裕があると思う。

今までで一番感じの悪い接客だった。
売る気ゼロ。
それ以前のマインドの問題。

そりゃあ、あの値段なら買わないけれど、それにしても、あの態度はあり得ない。
それより、もう一度、あの服の値段を確かめたくなった。
一つ、位を読み間違えたのかも知れない。
あの店で、12万円は、どう考えてもあり得ない。
もし12000円だったら、あの店員の態度はなに?
しかし、わざわざビニール袋をかけて奥から取り出すには、12000円は、ちょっと安い。
(重い分厚いニットで冬服だったし、まだバーゲンでもないし)
ボケっと二人も、がん首そろえて、なにやってる?
世の中には、終わってる店もあるのだなあと、つくづく思った。
一見客には店内に入ってきてほしくないオーラを撒き散らす店員って、なに?
わたしはそんなに変で嫌な見かけ?

拒否反応気味の接客態度に、むかっとしたものの、なんだか自分自身もどんな人物なのかわからなくなってきた、店である。

一見客は相手にしない店?
・・・にしては、ヘボすぎる。
狭く薄暗く、ごちゃごちゃして、センスのかけらもない。
あれは、商品倉庫?
ひょっとして、あの地区には、なんの趣味もない(あるいは、めちゃめちゃ趣味の悪い)超お金持ちのおばあさん顧客が10人いるのかも知れない。
あくまでも、わたしの悪意ある想像。
それにしても、あの店、あの店員、あかん。あかんすぎる。

書いても書いても晴れない、今日のわたし。
消火装置、故障している?

薄ら寒いファミリー

2016-10-14 | 人々の風景
大阪中心部、至便な場所にある、ある高級ホテル。
ロビー、エレベーター前。

4〜5歳ぐらいの孫(男児)が、おじいちゃんを足でボコボコ蹴っていた。
靴のまま、おじいちゃん目掛けて蹴るが、おじいちゃんは背の高い人なので、当たるのは膝あたり?
おじいちゃんは、「(そんなことしたら)恥ずかし〜、恥ずかし〜」と何度も言っていたが、男児は蹴るのをやめなかった。
男児の顔を見ると真剣。
遊びでふざけているようには見えなかった。

おじいちゃんは、スリムでスラリとした体型に白っぽいコットン系パンツのラフな格好の、上品そうな紳士風。
孫の年齢から見ても、小泉純一郎さんとか、ああいう世代ではなく、一世代若い、今の世代のおじいちゃん。
が、風格、品格は、小泉さんランク。

靴でボコボコ蹴り続ける孫、蹴られ続けるおじいちゃん。
いったい、家族はどんな家族なのか?
娘さんらしき人は、無関与。
奥さんらしき人も、無関与。

わたしは、仮にどんなにキライな夫や親であったとしても、孫に蹴られているのを放置しない。
娘や婿もそうだろう。
人前であろうがなかろうが、おじいちゃんを本気で蹴り続け、家族が見て見ぬふりをするなど、考えられない。
わけのわからない分別のつかない孫であっても、4〜5歳にもなれば言って聞かせたら、わかるだろう。
野放し、躾なし。
そういう一家なのだろうか。

おじいちゃんだけが、「恥ずかし〜」と世間体を気にしているのみ。
しかしながら、世間体の問題ではないはずだが。

確かに、世間の一人である、アカの他人のわたしは、どういう一家なんだろう?と疑問を通り越して、嫌悪感を抱いた。

ひょっとすると、奥さんも娘さんも、おじいちゃんに恨みを抱いていて、男児の行動にスッキリ感を覚えているのかも知れない、と思った。

おじいちゃんの経済力で良い目をさせてもらっている、その裏で、全く感謝していない、冷たい家族だと、わたしの目には映った。
そうでないとすると、おじいちゃんは、けしからん行いをし続けてきた、感じ悪い、家族全員からの鼻つまみ、嫌われ者なのか?

男児は、異常児でもなさそうな、普通の顔をしていた。
知らない、教わらない、自分のしていることが良いことか、悪いことか、全くわかっていない。
大人が教えるべきだが、あの家族にはあの家族の価値観やルール、掟があるのだろう。
異常さはかけらも現れていない、見かけは、上品、場所は都心の高級ホテル、なだけに、ちょっと薄ら寒いものを感じた。

お年寄りを大切に、なんて、もう過去の幻なんだろうか。
家族内であんなふうだから、世間で他人ばかりの間では、想像するに易い。

しかし、家族は、社会のミニマム・コミュニティ。
今どきの家族って、ああいう感覚が核となって、肉付けされて大きくなっていくとすると、コワイ。
考えすぎであることを祈るばかりだ。

南国は暑くて熱い

2016-10-09 | 
南の国は、暑い。
秋の気配など、とんと感じない。
沖縄は、まるで異国のよう。

今回は、お一人様ではなく、たくさんで旅に来ている。
遠くからはるばる参加の息子も。
三世代8人の旅。
リゾート地は、若いファミリーでいっぱい。





儚い、想い

2016-10-05 | 人生

わたしのプチ鬱は、20年周期でやってくる。

前に来たのは、40歳前後。
その前は、22歳ぐらいの時。
そのまた前は、たぶん、11歳ごろ?
そのまたまた前は、6歳ぐらい?
あれ?20年周期では、ないじゃない?

周期が5年、10年、20年、と、倍、倍に長くなっている。
では、わたしケースの法則によると、今のは鬱と認定されなく、次に来る鬱は、前回から40年後か。
つまり20年後。

80歳。
きっと、それなら本格的鬱だろう。
80歳には自分の道は自分で決めると豪語、宣言した、入所する老人ホームも決まらず、
家も汚く、ぐちゃぐちゃに乱れ放題で、家族にうんざりされている図が見える。

子供のころの鬱の原因は、自分にはなく、外因的要素から来るものだった。
わりとわたしは無神経なほうなので、あれ?ちょっと痛いと思ったら、擦り剝いてた、程度で、けろっと過ぎた。
20歳、40歳は、自分の行く道、人生の選択や、航路途中のエアスポット。
今回も、エアスポットと言える。

一般的にみて、鬱の原因は、巨大な喪失による、虚無感だと想像する。
外的圧力による、ストレスもあるだろう。

わたしに関して言えば、目標を見失っている、といったところか。
目標に達する過程で、息が切れ停滞している、踊り場現象とは少し違う。

子育てが終わって、更年期障害なども重なって、空の巣症候群や思秋期になる熟年女性も多いらしい。
わたしは、どうか?
まあ、その時期は、通常範囲内の通過。
結婚していない人や、子供がいない人には、空の巣症候群にはならないと思う。

わたしは、女性ならではの・・・という虚無感ではなく、人間なら誰でも当てはまる虚無感。
(リタイア直後の仕事人間も、こんなかんじかも知れない)


しかし、ね。
生物は、生まれてきたら必ず死ぬのであって、生まれてきて死ななかった過去の人は一人もいない。
無常、あはれ(あわれ)、世の常。

はやくあの世に行きたい、と、口癖のように呟いているご老人がいる。
毎日、歩行をこころがけ、必ず健康飲料や、サプリ、薬を飲んでいる。
健康には人一倍、気を使ってるんだそうな。
そんなことしてたら、ねえ、、、その人の口癖の目標が遠のくばかり。


ドライフラワーは、美しいか?
薔薇のドライフラワーは?
かすみ草は、生でもドライフラワーでもそう変わらない。
(プリザーブドフラワーという、花を長生きさせる技術を駆使した、長く枯れない花もあるけれど。
飽きても捨てられないのが、難点)
美しい薔薇を最も素晴らしい時期に大量に刈り取って、エッセンシャルオイルや香水が作られることもある。
一滴に込められた、多くの薔薇の命。
なにも考えなくても、わたしは、単純に、薔薇の香りは大好きだけれど。


なにか大きなこと、功績、人の役に立つことをしなくても、
人の足を引っ張らず、大きなマイナスを導かない生き方もある。
人に、「あいつは、ダメなやつだ。なにも、しない。なにも、できない」と揶揄されても、
なにかしたことが、すべて、どんぴしゃり素晴らしい称賛に価するかどうかなんて、後の時代にならないとわからない。
本人はフルモード、全開で精いっぱい頑張っても、良きにつけ悪しきにつけ、結果はすぐには出ない。

いろんな生き方があり、いろんな終わり方がある。
一滴の薔薇のエッセンスのために、どれだけの美しい薔薇が日の目を見ずに縁の下でうごめいているか。

人知れず、うごめいていても、いいんじゃない?
そんな気もする。

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幸せ探し旅、行き先は?

2016-10-02 | 人生
最近、自分は、生きているのか死んでいるのか、わからないようなかんじだ。

プチ鬱、
老年の入り口で立ち止まっている。

入りたくないけど、年齢、順番が来ていて、背後から押され、前からは、こっちだと手を差し伸べられ。
行きたくない、でも、行かねば。
姥捨山、前日の老婆の気分か。

かくしゃくとしている間に、あえて老人ホームに入る人は、潔い。
実母の入っている施設への専用マイクロバスでいつもお会いしている、入居者の皆々様方は、頭もしっかり、カラダもしっかり。
話し方や、会話内容で、前職、キャリアが想像できる。

家を売却しての、片道キップ。
後戻りはできない。
施設選びは、残された人生への賭けである。
結婚みたいなもの?
結婚には、夢や希望、未来がある。
しかし、老人ホームには?
あえて自分でその入所先を決めるなんてことは、そうとうの精神力、意思がいることだ。

息子に、「将来のビジョンは?」と問われ、「80歳までに、自分の入る施設を決める」と豪語したものの、
「80歳はあくまでも、目安であって、延長は考えられる」と、逃げ道を確保した。

老いた母たちを見ていると、自分の若さも同時に、目に見えない暗黒の穴に得体の知れない力で吸引され落ちていくような気になる。
自分もああなるのか。ああなりたくない。
でも、いずれああなる。ぜったいに。

長生きするのが、未来への、ひとつのぼんやりした、幸せ、希望かと思っていた。
しかし、そうではない現実を目の当たりにすると、自分の幸せ探しは、キ、キーっと軋む音を立て、急停車する。

残された稼動時期、心身が健康なうちに、いろいろやりたい、と意欲的だった。
その考え、思いは、今も変わらない。
が、理想の思いとは別に、全く動かない、動こうとしない自分がいる。

「やる気も、能力もない」そういう状態。
これが、今のわたしである。
(これ、先日、息子が帰省した時に言われたのだか、グサッと突き刺さって失血状態)

息子は、とりあえず、自立し飛び立ち、元の巣をチェックし、やはり新しい自分の棲家が自分の理想だと確認したようだ。
親としては、寂しさもあるが、親とは異なる自分独自の夢を求められる間は、好きなようにすればよいと感じる。


さて、わたし。
人に寄りかからず、足を引っ張らず、重荷にならず、
でも、自分の負担が過ぎない程度に尽力して、自分以外の人の役に立ったり喜んでもらったりしたい。
この、絶妙な自己チューバランスは、自己チューすぎて、難易度が高くて、なかなか保てない。
どこかが、過ぎたり足りなかったり、過不足が生じる。
自分の思い通りにはならないのが、常、当たり前。

親もいろいろ複数、子もいろいろ複数、孫も複数、多彩な複線列車。
同時進行の旅。