蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

他人さまのブログ

2015-03-27 | ブログ

わたしは、好き嫌いが激しい。
といっても、人並み、あるいは、標準以下で、世の中にはもっと激しい人も多くいて、さほど激しくないのかも。
2歳の幼児でも好き嫌いは激しいわけで、人それぞれ、各人、好き嫌いは強いだろう。
好き嫌いがないということは、自分の好みや考えや感性が、無いに等しいと感じる。


と、前置きは、長い。いつものごとく。


好きだと思えば、まっしぐら。
老若男女によらす。
ここ最近は、人付き合いをあまりしていないので、ネットで、皆さんのブログを散歩している。
(ひきこもりは、していません)
とうぜん、コメントはつけない。
わたしは、コミュニケーションを求めていないからだ。


「楽しそうですね」
「頑張りましたね」
「わあ、可愛い!!」
「ステキ!!」


なんていうコメントをつけたところで、べつに、どうでもいいのだ。
それより、徹底的に読む側にまわる。
「素人ブログ」を論評する「素人評論家」というものが、仮にあれば、それ、それです、わたし。

ブログには、ブロガーさんの個性、人間性が垣間見える。
もちろん、ブロガーさんのフィルターを通しているし、ブログは、ブロガーさんの全てではない。
逆のことを書いている人もいるかも知れない。
嘘八百だったとしても、小説だと思って読めばよい。


小説ではないので、ブロガーさんも筋、ストーリーを綿密にしっかり考えたあとに、長作に挑んでいない。
だから、日常のちょっとした文章で、意外な本人の側面が見える。


長く読み続けても、ブランクがあったりする。
またブログ訪問を再開すると、相変わらずだったり、ちょっと変化していたりする。
自分自身も変化しているので、微妙な味わいになる。


どの人も、癖がある。
良い面も、嫌いな面もある。
それは、リアルな人間関係と同じ。
嫌いな面が好きな面を上回ると、疎遠になる。
ほんの少しでも、許せないほど嫌いな面を発見すると、耐えられないが、
逆に、少々おかしなことを言っておられても、好きな面のほうが上回ると、嫌にならない。


ブログの場合、嫌になるのは、やはり個性の強い人。
知り始めはエキサィテングだが、キツ過ぎたりして、突然、グサッと斬りつけられて倒れることがある。
刃物が入っていないかどうか、恐る恐る、そおっと読まなければいけないので、めんどうになり、
遠ざかる傾向にある。
攻撃的で、性格や考え方が合わない人は、ブログが面白くてもNG。
ちょい読み、つまみ読みが、いいとこ取りで、楽でいいかも。
なかなか良いことをおっしゃっているブログは、ふむふむと感心して読んでいる。



「私は億万長者の妻です。そのノウハウをお教えします」みたいなブログもある。
ついつい、庶民は、そういうのにつられて読んでみる。
さきほども、短い文章なので読みやすいからか、15分ほどで、4ヶ月分ぐらい読んでしまった。
当たり前のことが、書かれていて、びっくりした。
例えば、ある一日は、「夢を実現するためには、強く夢をイメージすること、思い描くこと」
と、それだけが書かれていた。
これって、もし、お金を払って読んでいたら、「お金、返せ~」となるような内容だ。


わたしも、似たようなことは書いたような記憶はあるが、無料のブログですので、お金は返しません。
(億万長者の妻でもなんでもないので、なんの得るものもないところがツライところ)


蛇足ではありますが、億万長者妻さん、ご本人が活けたと思われる活花がアップされていたが、
あまりにも、わたしとの好みの違い、感性の違いに、ぶっ飛んで倒れそうになった。



などなど、最近、ブログ散歩をまた再開した。
あなたのブログにもお邪魔しているかも知れません。
自分の足跡は残さないけれど、
gooは、足跡機能に近い、「あなたのブログを読んだ人は、こんなブログも読まれています」というのが、くっついていることを発見した。
amazonで、「この商品を買った人は、こんな商品も買っています」というのと同じノリ。
gooさんも、いろいろ工夫されているようだ。


ということで、本日は、時間切れ。
くだらないつぶやきなら、山のように、どどどっと出てくるが、
時間の壁にでも遮ってもらわないと、永遠に文字数を増やしそうだ。



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非難する人、される人

2015-03-25 | ブログ

御坊さん(高僧)のような、真理を追究される方が書かれている、とある説を読んだ。
ある方のブログにコピペ転載されていたものである。

とても、素晴らしい説で、目からウロコが落ちかけた・・・。
なぜ、「落ちた」ではなく、「落ちかけた」なのか?

それは、延々と長々と説法が続き、途中あたりで眠くなってしまうのだ。
こりゃいかん、と、再度、読み込みにチャレンジするが、またまた、途中で挫折。
わたしの脳ミソのキャパシティは、猫の額?
(ちなみに「猫の額」は、庭などの狭さ【=主に面積】を例えるために使われることがあります。
体積には使われないと思うけれど、解釈する必要はないものの、いちおう・・・)
比率からすると恐竜の脳ミソ?

眠くなった原因は、恐竜の脳ミソもさることながら、文字が白ベースに薄いブルーで、ちいさい、ちいさい、ちいさい。
しかも、びっしり、改行なく書き込まれているので、ああ、しんど、・・・となって、
同じ行を何度も往復したりすることになる。

内容は崇高な、論理立てられた、とても素晴らしいものであったにもかかわらず・・・。

とはいえ、なぜ、何度も襲ってくる睡魔にも打ち勝とうと頑張り(じっさいは、打ち負けているが)
その記事を読もうとしたか。

自分のことを非難されていると感じたからだ。
もちろん、特定の人物非難でもなんでもない。
一般論である。
だが、どきっとした。

不幸自慢している人、自分のダメぶりをこれでもか、と書き連ねる人を、傷の舐め合いだとか、非難している人がいる。
そういう他人を非難している人そのものが、非難されていた。
人の欠点をほじくり出して突っつく人こそ、欠点のある人だ、と。
ただでさえ不幸な人を、さらに、もっと不幸のどん底に蹴り落とすような、そういう人は、自分の悪い性格を知り、悔い改めよ、と。

ほんとうは、内容はちょっと違うのだが、なにしろ、眠くなってしまったので、よく理解できていない。

わたしも、その記事をコピペしてもいいのだが、ただでさえわたしのブログ記事は、文字数が多いのに、これ以上はやめておこう。

どっちにしても、人を非難する人間には、ろくな人がいない、ということだ。
ちくり、ちくりと毒入りのわたしのブログは、御坊さんの目から見ると、「もっと修行せよ」ということになるだろう。

一生、勉強。一生、修業。
せめて、読みたい記事のすべてを眠くならずに読めるぐらいの、集中力は欲しいと、切に願う今日この頃。
老化のせいにしたいが、最盛期の若い頃から、この傾向があるので、困ったものだ。
などと書くと、ダメぶりを連ねているブログとなり、似たような愚痴愚痴ブログと十把一絡げ(ひとっからげ)にされて、これまた糾弾されるのか?

なんでもいいです。
いちいち気にしていたら、一文字だって書けませぬ。

ということで、
三度目の正直、もういちど、その記事を、読みに行ってこよう、っと。

 

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昨日の記事の続きも書かないで、ええかげん、このうえない・・・

 

 


人生の選択ミス

2015-03-24 | 人生

人さまのブログを読んでいて、ふらふらしていたら、持ち時間を大きく切った。
これなら、書かないほうがブログの品質保持のためには良いのだが。

「(誰に見られても恥ずかしくないように)気合を入れてブログをアップしています」と、
ご自分のブログに書いておられるブロガーさんもいらっしゃる。
「(聞かれてもいないのに)自分から自分のプラス要因を言わないほうが、ぜったいにいい」という記事をよく見かけるブログだけに、
自分のことと、ブログネタとは、乖離していると感じる。
わざわざ自分で書かなくても、「誰に見られても恥ずかしくない文章」というのは、読む人が感じるものだから。

が、だれだって、そんなもの。
わたしだって、最たるもの。
自分を棚の上に上げたまま放置している、わたしの上から目線は、死んでも治りません。

「わたしも、そうだから、あなたも、そうよ。」
と言うと、「あんたみないな人といっしょにしないで!」と逆鱗に触れる方もおられる。
なので、そういう方には、「わたしは、たかが知れている低レベルな人間ですが、崇高なあなたは別です」
と、あえて補足説明を加えることにしよう。

というわけで、崇高な、高レベルな方は、「誰に読まれても恥ずかしくない」文章を書くのだろうけれど、
わたしは、誰に読まれても、誰にバカにされてもいい、気の抜けた文章を書くわけであります。

・・・

と、前置きをこんなに長く書いてもいいのか?
時間がないというのに。

・・・

見に行ってきたブログは、結婚→離婚→再婚→目下、離活中の女性の日記。
社会人になったあたりのお子さんがおられる。
文章、おもしろい。
内容もまた、おもしろい。

結婚の条件や、幸せになるための条件、結婚相手選びのコツ、みたいなものを自分で勝手に、記事を読みながら同時進行しつつ、
わたしのアタマの中でストーリーが進んでいった。

上から目線になること、この上ないのだが、
人生の選択をするにあたって、法則のようなものを感じる。
失敗する人は、失敗を繰り返す傾向にある。
岐路におけるチョイスの判断とでもいえばいいのか。直感とでもいうのか。
(上から目線と、わたしはセットになっているので、いちいち上から目線釈明は割愛する)

自分の選んだものを信じて、突き進むとよい・・・などとは、言わない。
へんに信じたりすると、よけいに大変だ。
自分で責任を取ろうと、苦労を自分で背負い込む。
いっそ、人のせいにしておいたほうが、楽。

というか、話はもとに戻るが、岐路のチョイスは、その場で、ぱぱっと、えいやっと、思いついたように選択するかに見えるが、
実はそうではない。
岐路の前も、後も、ずっと思考や活動は続いていると考える。
止まることはなく、連続したものであり、それは、生まれた時から始まり、死ぬ時まで続く。

一朝一夕のものではなく、連続の積み重ねなのだ。

だが、選択の誤りで、人生の航路が、ぐ~んと進路変更することがある。
これは、なぜか?

と、考えつつ、あらま、時間切れ。
ここからが、結論に移行するところなのに。

後ろ髪を引かれつつ、今日は、ここで強制終了いたします。

 

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他人の家の中

2015-03-23 | 暮らし

親戚でもない、自分の肉親(故人)、あるいは自分の兄弟の配偶者(故人)の、生前、友達だった人が、
亡くなった後も、実家に深く出入りするのは、あまり愉快ではない。


お線香をあげに来てくださるのは、けっこうなことであるが、
家の内部にまで、ずかずかと入り込むのは、デリケートさに欠けると感じる。


「お手伝いします」と、おっしゃってくださっても、
家には、他人には知られたくないプライベートな部分もあるし、セキュリティ的に重要な、防犯すべき部分もある。
人を見たら泥棒と思え、とまでは言わないが、
故人にとっては知り合いかも知れないが、残された血縁のない関係者にとっては、まったく知らない他人、
家の中をごそごそ動き回られると、良い気がしない。


もし、善意でやっておられるとしたら、
何度かのこちらからの態度で、わかっていただきたいものだ。
しかし、ご本人は、我々が遠慮して辞退していると受け取っているようで、
入って来てほしくないサインをまったく読み取っていない。



とくに、わたしは、中学の時から23才ぐらいまで、学生時代の親友が頻繁に家に遊びにきて、
わたしの洋服や、お小遣い、親の大金を盗まれたことがある。
机や棚に入れていた、わたしのお小遣いは、頻繁になくなっていた。
お小遣いがなくなっていた時は、たいして気にせず、度々重なっても、不思議なこともあるんだ、と笑い話のようにしていた。
しかし、親の大金の時は、まさか、親友がありえない、と、当時、疑いをかけられたときに、むきなって、反論したが、
今になって思うと、彼女しかありえない。
(彼女がその大金のあった場所にいた1時間の間に、そこにあった大金が、なくなっていた)
当時、わたしと同じ服を着ていたりいても、なんの疑問も抱かなかった。
(しかし、自分の服は、なくなっているのに、どうしたのだろう?)
買ったばかりのブーツも、なんと2足も盗られた。(これは、彼女かどうかはわからないが)


親の大金については、封筒に入れていたものだったが、彼女しかありえない状況であるにもかかわらず、
決定的な証拠をつかんでいないまま、今日に至っている。
というわけで、わたしには、親友に裏切られたトラウマ、癖の悪い人、盗み癖のある人は必ずいる、という実体験がある。
被害者も、ぼんやりしていたり、防犯しないで、目に付くところに置いていたことも悪い。
が、生活していると、隠しようがない。
盗人が、あちこち物色するのだ。


ということで、
どこに、なにがあるか、ということをアカの他人に知られたくない、という思いがある。
拝むのは、仏間で十分。
お手伝いしてくれるのは、台所だけで、十分だ。
こちらが頼んだわけでもないのに、勝手に家の重要な場所にも出入りするのは、お互いのためによくないと思う。
ご本人も疑われたりするのは嫌だろう。


こちらの思惑が伝えにくい。
困ったものだ。



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妻亡き後

2015-03-20 | 暮らし

ずっと以前、専業主婦のママ友が、近所に何人かいた。
(一人は引越ししたが、他の皆さんは、今も、同じところに住んでいる)

そのうちの一人。
主婦業が大変で、大変で、と、こぼしていた。
いったい、なにが大変なのかと思っていたら、銀行に行ったり、用事が大変だとか。
日常の一環のルーチンワークと捉えているわたしは、そういうのを大変というのか・・・と、当時、不思議だった。


ある日、ご主人のお母さん(お姑さん)が病気で亡くなり、お舅さんを引き取った。
持病も無いのに、あらなんと、引き取ってから1ヶ月で、お舅さんは、妻の後を追うようにして亡くなった。
お二人とも、まだ60代後半ぐらいだったように思う。

専業主婦であるママ友さんは、お舅さんとの、べったり空気が煮詰まった同居の毎日を、
それはそれは毛嫌いしていた。
彼女は、そうとう、ハッキリした人だったので、お舅さんは、息子の家に世話になるより、
ちょっと予定を切り上げて、妻のもとに行くのを選んだのかなあ・・・と、わたしは思った。

あれから、もう20年ぐらいは経つだろうか・・・
今頃、あの世で仲良く暮らしておられるに違いない。

合掌。

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巷のブログ

2015-03-19 | ブログ

わたしのブログ、お若い方はお読みにならないだろうと確信していますので、
ゼネレーション・ギャップはまったく念頭におかず、書きます。

・・・

ブログ村で、
数多くの様々なブログが、各々に膨大な閲覧数のある、某カテゴリーの話を読んだ。
なぜ、あんなに閲覧数が、どのブログもどのブログも多いのか、わたしの理解を超える。
デパートに行き、あるフロアーでは、どの高額商品も低額商品も、どれもこれもすべて売れ行きが良い、みたいなものか。
また、別のフロアーでは、いつも客足が少なく、がら~ん。
フロアー(=カテゴリー)が違うと、こうも違うものなのか。

美術品売り場なんか、がらんがらんだ。
最上階の催し物バーゲン会場や、ご当地グルメフェアは、混んでいそう。
(実際のところは、最近、デパートには、とんと、ご無沙汰なので、最新事情には疎いが)

・・・

さきほど、愚痴愚痴ブログを読んできた。
皆さん、あんなに、様々な大勢の人の愚痴を大量に読んで、面白いのか?
わたしの発見は、そこだ。
書く人は、書いて自分が救われる。
しかし、読む人は・・・?
ああ、わたしだけじゃないんだ、わたしより、もっと酷く可哀想な人がいるんだ、
・・・と、ある意味、救われるから、読むんだろうけれど。
下には下がいる、わたしなんか、まだ、マシなほう・・・と確認して、胸が、す~っとするんだろう。
各人、自分の精神衛生、管理上、ベストなコンディションを保つために、それぞれの方法があって、工夫されているようだ。

・・・

わたしは、べつに自分のことを賞賛はもちろんのこと、賛同も共鳴もしてほしい、と思ってはいない。
似たような人々と集まり、同じ価値観を分かち合いたい、とは、思っていない。
しかしながら、ベースにある価値観は、同じであって欲しい。
たとえば、人権を守るだの、生命を守る、生活を守る、子供を守る・・・
平和を愛する、・・・とか。
書いても、「選挙が近いね。選挙演説?」、となってしまいそうだ。


そうとうの上から目線であることは、まあ、致し方ない。
低レベルの争いや、競争が、くだらないと感じてしまう。
自分が高レベルだとは、一言も言っていない。
わたし自身、自分も底辺で這いずり回っているが、底辺同士、競争しても、つまらないと思うだけだ。
それを上から目線ではなく、下から目線だと、どういうふうになるのか?
「恐れ多くも非力ながら、闘わせていただいています」、みたいなかんじか?

休憩時間に、悪口や愚痴を言っている仲間の輪に入らず、一人、読書している、そういう人間だ。
(嫌われてもヘーキ)
といっても、実際、読書はまったくしないけれど。
どうせ読むなら、写真集に解説がついているような、大きなサイズの本が読みやすいなあ・・・と。(→話、脱線してます)


空気を読むことに対して、過敏になりすぎる人々がいる。
「自分が空気を読む能力」を過信している場合もある。
目の敵にされるのは、
空気を読まない人間の言動で、その場がシラける・・・和やかな雰囲気をぶち壊す・・・そういう、ムードメーカーの真逆。
マイナスのムードメーカーといったところか。
わたしは、それに当てはまるかも知れない。
(大人になる前は、お笑い系だったが、ある日、羞恥心を感じて、無口系に転じた。
しかし、リアルなわたしを知る人は、そんなことを書くと笑うだろう)

なので、わたしは、リアルな世界では、あまり発言しない。(臆病なだけかも知れないが)
ネットの世界でも、自分のページでしか好きなことは書かない。
静かで穏便、ソフトな自閉症、内向的性格だと自己分析する。

自分の世界が大好きで快適なあまり、閉じこもり気味になるのだが、
なぜか、精神は閉鎖的でも、行動は、外に向って活動する。
精神も行動も両方、閉鎖的だと、(自己評価や結果なども考慮するので)バランスが取れない。

で、人の目は、極力、わたしに向かないことを好む。
注目を浴びるということなどは、もっとも居心地の悪い状況だ。
人の目を意識しない、自分の世界で泳ぐことが、わたしを気持ちよく解放させてくれる。

ブログを公表するというのも、
ある意味、自閉的な面と、外に向う面とを併せて同時進行していると思われる。

「人の心理が見える」、と書くと、「妄想だ」、と捉える人もいる。
いろいろなそれまでの例や行動パターンから、心理を推測することができるのだか、
本人は、そんなことは微塵も思っていない場合もあるだろう。
いちいち、事実や行動を照らし合わせ、ひとつひとつ検証するのは、めんどくさい。
よほど重要な関係である場合は、誤解を解いたり修復するために、そういう手間隙をかけて、改善するのだろうけれど、
そうでもない場合は、たいがい、お互い、放置する。

そして、「よほど重要な関係」というものは、そう多くないと思われる。
だから、大切にしたい。
が、うまくいかないことも多々多々ある。

ということで、わたしの場合は、たいがい、少々誤解されても、
そのうち解るだろう、あるいは、解らない人には解らないだろう、と、ほったらかしている。

なるように、なる。
なるようにしか、ならない。

 

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一生、同じ処に棲むという暮らし

2015-03-18 | お付き合い

田舎の親戚の法事に出席した。

そこで、感じたことは、
男性たちが話す話題と、女性たちの話す話題の違い。

わたしは、女性テーブルにいたのだが、話すことがなかった。
ここで、一言、言いたい!と思っても口をつぐむ。(立場上)

隣の男性陣での話題は、さらっとした、企業の話、業界や組織などの社会系のものだったので、聞きやすかった。
この春から社会人1年生がいたので、配属先や寮のこと、
そこから、ゴルフやら、なんやらかんやら、社会の先輩たちに囲まれ、話題が盛り上がっていた。
もちろん、わたしは口を挟まない。

いろいろと、しがらみが、あって、話す内容が限られる。
で、出された料理の感想や、食材についてなどを述べるに留まる。
その他は、若い人とは、デズニーランドやら、デズニーシーのことやら、地下鉄のことやら、
なせか東京タワーやスカイツリー、あべのハルカスやら・・・
当たり差し障りのないことばかり。
農協のバス旅行で行ったとか、仕事で修学旅行で行った、とか、たわいもないけれど、悪くない話題だ。


年齢の高い女性たちの話は、半径5キロ以内のことばかり。
だが、濃厚に密度高く、人生が詰まっている。
同じテーブルにいた、法事の主催者の家に生まれ、同じ町内に嫁いだ年配女性は、
生まれた家と、嫁いだ家は、なんと、2キロ~3キロぐらいしか離れていない。
主催者の女性は、もっとすごい。
生まれてからずっと今も同じ家。
(今春、社会人になる息子さんが、赴任先の東京から、定年まで帰ってこないのではないかと心配されている)

生まれた環境と、嫁いだ環境の地理的距離の近さたるや・・・
半径5キロなんてものではなく、駅直結型の傘いらずのマンションみたいなものだ。

スゴイとしか言いようがない。

地元の寺院仏閣を改修するにあたって、地元住民、各世帯あたり、大きなお金を徴収される。
よく皆さん、まじめに、支払うなあと感心する。
地域に根ざす古くからの同じ宗教だから、問題がないのだろう。

その地にある家に嫁ぐと、家の宗教のみならず、地域の宗教にも大きく左右される。
わあ。
宗教の非難はもちろん、感想も述べたりしたら、あとでなにを言われるかも知れない。
なので、ひたすら、「この西京漬けは、おいしい」とか、「生麩が入っていてコンビネーションが絶妙」だとか、
どうでもいいことばかりを言って、時間稼ぎをしている。
なんといっても、その地域に住んでいないので、住民ではない。
住民ではないが、よそ者のような、よそ者でないような。

あえて、問題を発生させるようなことは言わず、
地下鉄の値上げがどうとか、そういうことを言っているほうが良い。(ただし、若い人には)
年配の人は、地下鉄なんか乗らないので、やはり、春野菜のてんぷらの話題などを選ぶ。
あるいは、足が痛いときの、座り方を指導してもらったりもする。

事なきを得ることが大事。
地域には地域の文化がある。
そおっと、壊れないよう、次の人にそのまま渡す。
次世代へのバトンタッチは、繊細で微妙である。

さて、今や軸足が二つある、うちのイエは、どうなるのだろう・・・。

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もし○○なら・・・

2015-03-17 | 人生

ある人と、社交ダンスを踊った後、わたしは、その人に面と向って、こう言われたことがある。

「あなたは、プロになれますねぇ。あなたが、もし20代だったら」

これは、本気と受け取る人がいるのか?
褒められていると感じるか?
プロになれるんだ~と思うか?

否。

彼が言いたかったのは、わたしが20代など遠い遠い、はるか昔であって、今は、程遠い年齢。
ありえない仮定をしている。
そもそも、ド素人の趣味のどおってことない踊り。
彼は褒めたつもりかも知れないが、受けて側としては、机上の空論が頭を素通りしただけになってしまった。
歯の浮くような、おべんちゃらと捉えられるだけならまだしも、
「どういう意味~~?!」と決してお世辞効果はプラスには働いていない。

たとえは、「あなたが、もし、あと5歳若かったら」ぐらいなら、おべんちゃらとわかっていても、そこまで現実離れしてないと思う。
というか、わたし自身、たいして社交ダンスが上手ではない段階のときに言われたので(今もたいしたことはないが)
「お上手ですね」と、どこの誰に言われたとしても、自信のないわたしは、すべてをこそばゆいお世辞と捉えたと思う。

そこまで卑屈にならなくてもいいんじゃないか?
あるいは、「冗談を真に受けて、痛い人ですね」、となるのかも知れない。
彼は、たんに、わたしを喜ばせようと思ったのか、はたまた、社交辞令的に、するっと流れた出まかせなのか。
けなされたわけでないので、ちょっと複雑な思いはあったものの、言われる側は、気分的にはハッピーである。


ほかの事例を考証してみる。

「あなたは、さぞかし美人だったでしょうね。若い頃は」
(これは、言われたことはないが)
(綾小路きみまろトーンではないと想定する)
褒められているのか、それとも、現在は、昔ほど美人でもなく容色が衰えていると感じられているのか。
言った人は、今は劣化していると思っているのだが、
はっとして、それを自分で気付いて、失礼になると思って、必死で「今もお綺麗ですが」と付け加える。

褒められているのに、否定されているようにも受け止められる。
褒めようと思って言っている場合、とんだ深層心理が表面化してきて、あたふたとなる。
人に感想を述べるのは難しい。


多くのことを知って、広い世界で泳ぎ、そして自分の立ち位置を確認し、ああ、今の自分は幸せだ。
と思えたらそれでいい。
だが、選択肢があることも知らず、何も知らない無知な状態、
あるいは、無知ではないが、知ったところで手が届かないことであれば、
かえって知らないことは、自分は幸せである。
知ってしまったが、できない場合は、
イソップ物語の「酸っぱいブドウ」のように、あんなことは、価値のないこと、と、全面否定する人もいる。
いいえ、いつかは出来る、と夢を見る人もいる。
夢だけで、ちっとも努力しない人もいる。
あるいは、憧れを体現した人と近づいて、自分も疑似体験した気分になる。

「もし私が鳥なら、空を飛ぶのに」(英語の仮定法の文例で、一番初めに習いました)
鳥ではないので、飛べないということだ。

「あなたは素晴らしい。ただし、天性の才能が、もっとあればね」
「あなたの夢は素晴らしい。ただし、自分の能力を正確に把握していればね」
「あなたと結婚したい。ただし、あなたがあと30歳若ければね」

「不便な暮らしも悪くない。ただし、便利な暮らしを知らなければね」
「刺激の無い楽しみのない暮らしも悪くない。ただし、刺激や楽しみの良さを経験していなければね」
「僧侶のような人生も悪くはない。ただし、快楽を知らなければね」

これは、前文を肯定しているのか、否定しているのか。

実際に、快楽に溺れない人もいるだろう。
逆に「快楽に価値を見出さないこと」、厳格な自分に価値を見出すのかも?
快楽の捉え方にしても、「ランナーズ・ハイ」みたいな苦しさの先にある、みたいこともあるし・・・
(話、脱線してます)


快楽を知り、快楽を全否定するのか、それとも我慢するのか、
ある価値観を知り、その価値観を全面否定するには、あきらめて否定するのか、まったく別の価値観を見つけるのか、
乗り越えるのか、ドロップアウトするのか。
いつまでも、自分の中でクリアーできないと、解決できず、尾を引く。すっきりしない。
それによって、気になったり、劣等感を抱えていたり、うじうじしたり、あきらめきれなかったり、妬んだり羨ましがったり、へんに虚勢を張ったり・・・
人によって、まちまちだろう。

今まで信じていた価値観を肯定するにしても、否定するにしても、更新するにしても、改善するにしても、
そう一朝一夕には変わることはできないと思う。
グラデーション状になったり、マーブル状になったり。
行ったり戻ったり。
そういう時に、自分の弱さや悩みに突然、触れることがあると、人は冷静さを失う。
大なり小なり、みんな、そうなのではないだろうか。

 

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ブログにも、いろいろ、あります

2015-03-15 | ブログ

毎日の平凡な積み重ね、これは大事だと思っている。


平凡なブログがあるとする。
毎日、毎日のことを綴っている。
それはそれで、その毎日への取り組みに対する気持ちが現れ、
その人のお人柄や、現在の落ち着いた心境を物語っている。
あるいは、ブログによっては、読む人にとっては何も感じないものもあるし、
プラスと捉える(好感を持つ)ものも、そうでないものもある。


奇抜なブログがあるとする。
それはそれで、平凡なブログの中では目を引く。
毎日、読む気にはならないが。

愚痴&愚痴ブログがあるとする。
読む人は、「あら、この人、私より、つまらない人生を送っているのね」と優越感に浸るかも知れない。
わざわざ、優越感に浸りたいがために、毎日、読みに行く人もあるだろう。
傷の舐め合い。
生活が少しでも上向きになるのなら、気持ちが和らぐなら、それもよし。



情報たっぷりブログがあるとする。
ニュースのピックアップ基準や捉え方、視点に共通項があるとすると、
ニュースの評論ごと読みに行く人も多いと予想される。
ニュースに限らず、モノでも、取っ掛かりの窓口、入り口を探す。
世界中に氾濫する商品があるとして、どこに行けば手に入るか、わからない人は、ネットで検索したり、
デパートに足を運んだりする。
お気に入りのバイヤーが仕入れた服を売っているショップに行けば、やみくもに探すより、手っ取り早い。
ただし、どんな分野においても、無料のものは、無料の限界があり、
ボランティアでもない限り、手数料的な対価が発生したり、もしくは商品や信仰がらみへの勧誘への導入となる。



ブロガーさんの人柄は、すこぶる良い。
だが、訴えるものがないブログがあるとする。
実力派俳優が出ているのに、脚本に恵まれなくて、興行収入が振るわない映画のようなものだ。
映画の場合、運があれば、ヒット作品が生まれることを祈る。

人柄が良いのに仕事が出来ない人と、最低の人間性なのに、仕事が出来る人がいると、
どっちが実利があるか? どっちを応援するか?
世の中は厳しいので、人柄だけでは、社会の大波は、乗り越えていけないことは多々ある。
理想論、キレイごとだけでは、良い暮らしが出来ないこともある。


痛快なブログがあるとする。
気分爽快、スカッとするために、見に行くことだろう。
その場限りの清涼剤、精強剤。


慈悲深い言葉を並べてあるブログがあるとする。
精神安定剤代わりに、通って滋養につなげる人もいると想像する。
傷ついている時は、癒され、カウンセリング効果ありだろう。



憧れブロガーがいて、仲間になりたいと願うブログもあるだろう。
一種のファン。
コメントを必死で書いて、熱意を示そうとアプローチしたがる人も、いるかも知れない。
べつに仲間になりたくはないが、隠れファンとなることもあるだろう。
影響力の大きなものは、多くの人が足しげく通うことになり、
ネットワークを構築し、ムーブメントを起こす場合もあるだろう。


薀蓄(うんちく)ブログがあるとする。
知りたい分野の細かい、深いことまで研究し尽くされていて、重宝することだろう。
その場合は、ブログ以外にも、あっちこっち調べることになると思うけれど。


ある職業の人のブログがあるとする。
日ごろ、接点のない、自分の知る世界とは別の世界が垣間見えて、興味深い。
職業を通して、生活や人生や見ると、それぞれ、違う見方ができる。


少なくとも、いくら退屈で刺激が無くて、日常に、飽き飽き、へきへきしているからといって、
怖いもの見たさで訪れるブログは、そうないと思われる。
ごくたまにあるが、「う、やっぱり」と、一目散で逃げ帰る。
番町皿屋敷だ。


とある別SNSで、現役時代には大組織で何百人も部下がいたという、大物が日記をアップされている。
そのSNSは、趣味のことに特化されているのだが、この大物のブログは、すごい。
ほんの一握りの太鼓持ちのような人が、彼の日記に賛同コメントを入れているが、
あとの大多数の人々は、自分の管理ページや、人のページに非難支持コメントを入れ、彼の主張を非難しまくっている。
たまに、彼のところに、直にコメントを入れているツワモノもいるが、一網打尽か、あるいは、方向違いの返事で煙にまかれている。

彼は、自分の主張を曲げない。
陰で(といっても、自分たちの管理ページで)、彼の悪口を書いて、皆で、やんややんやと炎上している。
じつに、おもしろい。(傍観者の立場では)
なにがかと言うと、どんなに否定されても、彼は、折れない、曲げない、屈しないところと、
叩いても叩いても、ちっとも自分の意見を見直してみようか、という気が微塵もないところ。
でも、アップしては、指摘のあった部分を削除したり訂正したりして再アップ・・・ということを繰り返されているそうだ。
そこのところも、おもしろい。

大勢で弱いものいじめをしている図のはずが、この弱者は、ちっとも弱くなく、その他大勢の人々と闘っている。
さすが、部下を大勢率いていた大物は、違う、と感心する。

だが、弱者だか強者だかわからない、この人物が主張している内容は、
非常に、勘違い、自己陶酔、自己肯定のものが多いと感じる。
それを指摘されても、お構いなしで続行されるあたりが、この人の部下たちや、仕事は、いったいどんなものだったのか、
どんな風に仕事を推し進めていたのか、そして、その内容、成果は・・・???と想像する。
もし、お国のお偉い役人だったりしたら、間違った方向であっても、がんがん引っ張って行かれる、ということだ。
彼の部下たちは、気の毒な気もするが、
その職場を辞めないのであれば、「考える力」を放棄して「考えない人」になって割り切る、
そのほうが気が楽になっている人もいるのだろう。

リタイアして何年も経っても、前職の影響は大きいと感じずにはいられない。
しかし、ある意味、あの、絶対に折れない不屈の根性は、
(内容が良いか悪いかは別としても)評価するものがあるような気もする。

頑固ってことか?
自分の主張を曲げると、自分自身を否定し、自分の今までの人生までも否定することになるのだろうか。
そういう重いものを背負い込むと、けっこう、辛くてハードだと思うが。

しかしながら、「一」対「一」はもちろんのこと、「一」対「大勢」で勝負できず、
周りで、「そーだ、そーだ、あの人が悪い!!」と、はやし立てるだけの人は、しょせん、そのような器なのかも知れない。

いろんなパワーがあると感じる今日この頃である。

 

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行間には、何が埋まってる?

2015-03-13 | 日々のこと

わたしは、じつのところ、冗談の塊なのである。

う~ん・・・そういうふうに感じる人は、あまりいないようだが、
実際は、そうとう、フニフニ、おちゃらけなのだ。

文字が勝手に踊っているのだろうか。

そして、行間を読む癖があって、
行間には、時として、書いている本人でさえ気付いていないことが埋まっている場合がある。
深層心理という、厄介なものだ。
そんなものは、本人でさえ気付いていないのだから、他人がとやかく言う筋合いのものではないが。


それと・・・
ひとつ感じたこと。
それは、類は友を呼ぶということ。
集まっている人を見ると、似たような人。
そりゃ、集まるわ。
これは、とても実感しました。
まあ、当たり前のことだけれど。

 

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ちなみに、
「アカの他人の文章に接して感じたこと」、というのは、
なにも、「そのアカの他人がそう言っている」という決め付けではない。
たんに、そのアカの他人の文章を読んで、そこから自分が自由に連想して感じたことであり、
「その人がそう言っている」、と、糾弾していることとは、程遠い。

「接して」という曖昧で微妙な表現は、「読み込んで」というわけではないので、あえて、そういう表現を使った。

だが、大いなる誤解を生むことは、想定内である。
それで、気を悪くされる方がおられるのなら(現実に、おられるようです)
わたしは、人に不快感を起こさせることを目的としていないので、そのあたりは、とても不本意である。