蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

嫁がいない

2024-03-09 | 
息子の嫁、、、いない。不在。未婚。
娘たちは結婚し、子供もいる。
いわゆる、昔で言うところの外孫ばかり。
この発想そのものが、家父長制を引きずり、古いのではあるが。

わたしが息子を産んだ時、周りは大喜びした。
特に舅の喜びようは一際だった。
わたしは、息子を産んだ段階で、もうわたしの役割を果たしたと感じた。
跡継ぎ製造機、お役目完了。
終了。ごくろうさま。

それはそうと、、、
今、孫は5人いるので、全員外孫であろうがなんであろうが、わたしはもういつあの世に旅立ってもよいと思っている。
(そういう人に限ってジタバタする)
無事、次々世代が存在するのを見届けた。
ただし、あの世に行く前に、家の中のぐちゃぐちゃ不要品の、最低、半分は処分しなければならない。
理想は不要品全部だが、理想が高すぎて挫折するのが見えている。

ちなみに、、、話を戻そう。
わたしが行く次の世界は、、、あの世の住まいなのだが、ものすごい大家族。
もう、嫁に来た時から完全予約制で、予約完了済み。
わたしは、あの世では最も新人になるので、先輩たちにイビられるか、イジられるか、大所帯の中で小さくなって永遠にいるのだろうか。
あの世に行けば、あの世が永遠だとすると、区切りがなくて困る。
あ、ここ、嫌、鞍替えしたい、引っ越したい、移住したい、と思ってもそれがあの世なら、次の場所が思い浮かばない。
生き返るわけにはいかない。
だから、どの宗教もあの世は最高であるよう、日々、信心せよという流れなのだろう。
信じるものは救われる。

あの世、予約席がぎゅうぎゅう詰めの大家族、大世帯である訳は、、、
たくさんのご先祖様を抱えていて所狭しと皆んな肩寄せ固まってお墓に寄り集まっている。
人口密度が高い。
お盆の時は先祖の皆さんは実家に里帰り。
わいわいガヤガヤ。修学旅行のよう。
仏壇の扉は開けているものの、わたしはあの世は見えない聴こえない人になって、この世で暮らす。

しかしこれは、宗教的な観点。
イエの意義、家父長制と重なる。
時代や国によっては、天皇陛下のために命を捧げたり、聖戦をしたり、宗教はものすごい力を持つ。
女性を家に縛り付ける政策や課税方法と同じ。

話は戻る。
この、わたしの嫁ぎ先のご先祖さまは、全員実家の墓に入れるわけではない。
直系血族のみ。
傍系は入れない。
これ、すごくない?
(そういう宗派の考え方、ルールらしい)
傍系が結婚すると、独立して墓リザーブ席からも出て行く。
跡継ぎ以外は、墓に入っている人々は、成人する前や若い頃、亡くなった人ばかり。
未婚のまま独身の成人の人は見当たらなかったが、なんらかの流れで出て行ったのだろう。
あるいは、傍系は全員結婚して出て行った?
血が繋がっていなくても、跡継ぎ養子や嫁は墓に入っている。
不思議。

まあそういう「この世」と「あの世」を繋ぐものが墓なのか?
過去と現在を繋ぐもの?
宗派によっては形式は全く違うだろうけれど、世界中を見ると、亡くなった人には冥福を祈り、祈りを捧げる。
細かい形は、それぞれだろう。

しかし人を生かすも殺すも宗教。
扱いを間違えると悲劇が起こる。

嫁、墓、宗教。
昔は一直線に切っても切れなかったが、今は隔世の感。
結婚しない。
結婚の意味を問われる。

新興宗教もあるし、いつの世も、人のこころは浮遊し彷徨うようだ。







カミサマ

2024-02-22 | 
昭和64年(平成元年)初頭から我が家に鎮座していたカミサマが昨日、復活、復旧した。
息を吹き返した、、、とまではいかない。

うちのカミサマ、2拝2拍手1拝、、、ではない。
2拍手1拝。本来の最初の2拝は割愛、省略。
拍手を伴う参拝は、1日最大1回のみ。
「通りすがりに何回も」は、NG。
カミサマ、なにしろサブ冷凍冷蔵庫の上の、さらにその上に置いた電子レンジの上に鎮座しているもので、何度も行来して日常生活に馴染んでいる場所。
そこに新しい人工榊が仲間に加わると、気になる箇所が増え、つい、親しみを覚える。
が、最初だけ、パンパンと柏手で拍手して、飽きたら知らん顔は、よろしくない。
あくまでも自主規制。
誰も知らないこのルールは、マイルールであり、なんの縛りない。
顔だけ昔から知っていた遠い親戚のような、旧友のお母さんのような、そういうかんじのカミサマと、「はじめまして、いえ、初めてではないですよね」というノリで、お友達になっていそうな気もするが、あまり深入りするとよくない。
カミサマを喜ばせるのはよいが、怒りを買ってはいけない。
カミサマは力があり威厳がある一方で、畏れがある。
サワラヌカミニタタリナシ、、、だが、この場合はちょっと傾向が違う。
ほどほどの距離感がよいのは、人間関係と同じ。
あまりにも心の底からどっぷりは、わたしの信条には合わない。
カミサマを何人も抱えて、一つのカミサマに依存せずリスク分散という手もあるが、わたしはしない。

しかし、このカミサマ。えらく高いところに鎮座している。
とても手が届かない。(言葉通り)
邪魔にはならないけれど、存在を忘れる。
場所としては方角を含め、設置人の姑のお眼鏡に適っている(はず、たぶん)。

今日は恐る恐るカミサマのお社(お家)をそっと開けてみた。
トントントンと扉をノックした。
が、なかなか開かない。
無理やり開けたら扉が壊れそう。
それはめんどくさすぎるので、そっと優しく扱った。
が、なかなか扉は固い。
扉を少し開けると、中に朱色のキンキラした布が見える。
それを取り出そうとするが、扉の金具が曲がりそう。
で、指先ではなく、頭を使うことにした。
よくよく見てみると、扉はかたちだけ、表面だけのお飾りで、扉が付いている板そのものを扉ごと外すようになっている。
シルバニアファミリーの二階建てのお家のよう。
外す時に、お社は、冷蔵庫の上、電子レンジの前に横たわらせる。
ちょっと、すみませんねーー、こんな場所で。
(こぼれているソースとか付着したらどうしよう、、、)

しかし、よく見るとなんと埃をかぶっていることか。
35年分の埃は、お社に降り積もる、まるで粉雪のよう。
風情があるなあ、、、などと感慨に耽っている場合ではない。
横たわったお社を横目に中から取り出した、神々しい物体をガン見する。
覆われている布は、よくお寺の中で見かけるような朱色に神々しい金糸の入ったもの。
その布をすぽっと外すと、中に何やら固いものが入っていた。
カミサマの名前が書かれた木札。(白木の位牌のように自立するスタンドタイプ)
社は二つあるので、カミサマも二つ。
別々のカミサマ。
二つとも知っている。
一つは夫の実家の地に古来からある氏神様。
もう一つは、40年以上前に一度姑たちと訪れたことがある、結構行きにくい地にある、知る人ぞ知る神社の神様。
なるほど、いかにも姑チョイスである。
自分が信仰している神様をセットアップ・パッキングしている。
神様たちは、お社に詰め込まれたまま、うちの古い前の家から新築の家へ、建て替え中は仮住まいの家へ、あっちに行ったりこっちに来たりと、待遇も足元も悪い中、連れて来られたわけだ。
しかも、さっき、初めて、それこそ、本当に初めて、対面した。
顔はなく、名前だけだが。
ようこそ、お疲れ様。
アラジンのランプから出てくる魔神みたいに急に偉そうぶるわけではないが、長い年月、大人しく誰からも知られることもなく鎮座していた。
なんだか、申し訳ない。
粉雪のごとく埃を積もらせてしまったが、なんでも雑菌にまみれるほうが逞しく育つ。
うちのカミサマも過酷な環境で逞しく生き残っていただく。
あまり手厚い、おもてなしは、しない。
カミサマにさえ、自然派を貫くなんて、カミサマもあきれていることだろう。
何も、特別に素晴らしいことを望み祈るわけではない。
ただじっとそこにいてくれるだけでよい。
ご利益も祈りやお祀りレベルに応じてであれば、ほぼご利益はない。
「今日も無事に生きてます」で、よい。
それぐらいは、望ませて欲しい。


それにしても、こんな話ばかり書いていたら、確実に蝶ブログ閲覧数はゼロになる日が来る。
記事はここで終われば良いものを蛇足は続く。

カミサマも苦笑していることだろう。
いや、カミサマは俗世界とは関係ないので、
カミサマの出番はそんなところに出てきてはいけない。
生きるか死ぬかの瀬戸際のみ、顔を出してくれたらそれでよい。
生命保険みたいなものか。
カミサマの名前を、生命保険会社の保険証書に置き変える?
不謹慎極まりない。
絶対にバチが当たる。

しかし、まだ、カミサマ以外にもホトケサマも、お世話している身。
姑が信心深いと何かと大変だ。
(とは言え、ほぼ何もしていない)



35年間、埃をかぶった神棚

2024-02-20 | 
人工榊(さかき)が我が家に届いたため、神棚の一部を掃除した。
せっかく榊を飾るのだから、入れる神具もキレイに洗って乾かした。
人工榊のため、水に触れると錆びるらしく、榊立てに水を入れるのはNG。
更に、人工榊は曲げたり伸ばしたり、自在に形を作り変えられる。
面白い。
ウィッグ(人工ヘア、かつら)みたいなものか。(→違う)

そして、お久しぶりの神棚とご対面。
何年ぶりだろう?
現在、住んでいる家を新築して以来だから、23年ぶりか。
埃も被るはずだ。ごめんね、カミサマ。
カミサマ、ほったらかし、ネグレクト。
ではあるが、虐待はしていない。
受け入れたまま定位置に鎮座しているわけだから、雨風には晒されていない。
廃棄されても文句は言えない状態。(誰が誰に文句を言う??)
(ちなみに、廃棄する時は、現職の神主さんがいる神社などで炊き上げてもらわなければならないとか)

そもそも無神論者のわたしの家に、なぜ神棚があるか?
しかも、建て替える前の古い家の時、昭和の時代から(かれこれ35年前)、わたしの家に鎮座している。
建て替えと共に、神棚も一時一緒に移動して、また新築の家に収まった。
この神棚、何が入っているのか、何を祀っているのかも知らない。
わかっているのは、誰かのお下がりではなく、まったく新品の状態で(神具店で購入されて)うちにやって来た。
買ったのは、姑。
(この流れは、安易にご想像いただけると思うが)

息子(夫)の家に置く、息子一家の幸せと安泰を願ってのものだ。
善意のかたまり。悪意など1ミクロンもない。
だが、設置された息子の妻は、、、無神論者。(他の宗教の信者ではないだけ、摩擦が少ないからマシ)
その時、断ればよいものを。

「お義母さん、わたしは無神論者なので、へんに扱いを間違っては神聖な神様を冒とくすることにもなりかねないので、神棚は辞退させていただきます」

と、なぜ、言わなかったのだろう。
当時のわたし。
まったく何にも考えていなかったのだ。
時限爆弾でもない限り、「置いてね」と持って来られたら、すんなり考えなしに置いた。
孤児を受け入れる里親のごとく。

特別に過激な、悲劇を生む新興宗教でもない、神代の昔から日本人には身近に慣れ親しんでいる神様なので、拒絶反応は起きなかった。
ただ、受け入れたからには、ホームステイ先のホストファミリーのように、ある程度の世話をしなければならない。
にもかかわらず、鍵は持たせ、門限なし、友達を連れて来るのも友達のところに泊まるのもよし、長期留守も認め放題の超放任ホストファミリーは、いかがなるものか。
信頼をベースに緩やかに繋がっているかんじか。

まあそういう高貴でお偉い居候(→不謹慎)と長年、同居していた。(現在も尚)
居ることは知っていたが、関与しなかった。
夫の実家のカミサマ・ホトケサマに振り回されて、自分の家は二の次。
というか、何もしないことによって、メリハリをつけてリラックスしていた。
緩急、動静。
で、待ち時間は終わり、さて、今からが本番、本腰!
かというと、そうではない。
わたしは、もう本腰は卒業したので。今は余生。
ということは、余生こそ、カミサマホトケサマとお付き合いし、あの世への待合室に待機するのは、間違ってはいない(はず)。

義務から解放され、何もすることがなくなると、究極の自由エネルギーは、人の幸せを祈るのかも知れない。
なら、ボランティア実践でもせよ、ということだが、自分が出来る範囲のことをしたい。
被災地に出向いてお手伝いしようにも、体力のなさからストレスを溜め、倒れたりしたら、かえって周りに迷惑をかける。
それなら遠くから寄付するほうが、まだ役に立つ。
昨夜、NHK TV「クローズアップ現代」で取り上げられていた「遺贈」なんていうものも、あるそうだし。
ただし、もしお金が残っていたら、の設定。
遺贈するために、がむしゃらに節約するのは本末転倒。

と、話は相変わらず脱線している。
さして信仰心もないわたしが、姑に35年前に寄贈された神棚を、ちょっと埃を払ってもう一度、見てみようか、という話。(延々と続いている、、、)
しかし、神棚のお社の中には、どこの、どんな神様が入っているのだろう?
知らないで、ずっと神棚が我が家にあるところが、なんとも言えない。
わたしをはじめ、夫や子供たちも絶対に知らない。
(夫の実家ではない)我が家に神棚があることすら、知らないだろう。
聞こうにも姑はあの世だし、今度、こっそり、お社の中を開けてみよう。
せっかく今までおとなしくしているカミサマが気を悪くして、バチが当たるか??
そもそも、神棚は長くても20年に1回は、新しくするのが良いそうだ。
古い神棚は、神様の力が弱っているとか。
ということは、あまりご利益は、なさげ。

話は変わるが、
今ふと思うのに、精神的に、やっと夫の実家から親離れ出来た兆しではないかと。
雛に餌を運んだ親鳥は、巣から出て行ったが、残った雛は、親鳥が残していった餌が巣の奥に、フリーズドライになって、まだあったのを発見したようなかんじか。
踏襲するのもよし、手を加えるのもよし、改良するのもよし、捨てて一新するのもよし、
なんでもよし。
たたき台があると、それを見本にして、考えを修正したり、見直したり、改善したり磨いたりしやすい。
あるいは、取り止め、廃止することもある。

たまたまこの度、人工榊を購入したのは、生協カタログに載っていて目についたから。
何げない、ふとした思い、行動である。
ではあるものの、核家族として、親から離れて35年も経ち暮らしていると、親離れし、自立、独立した新しい自分を水面下で、かたち作っていたのだろう。
もう高齢者なのに、今頃自立って、かなり時間がかかっている。
それは、ある程度、目に見えない力でマインドコントロールされていたからではないかと想像する。
昔からの価値観を、自分で考える余裕も時間もなく、押し付けられている。
その長年の圧力、押し付けからの脱却ではないかと推測する。
それにしても、長い。
20や30歳ぐらいで親離れするはずなのだが、なんと2倍、3倍の時間がかかっている。
それだけ従来の価値観は重く強いものだったのだろう。

35年前から我が家に鎮座していたものの、祀られてはいなかった神棚。
そこに、人工榊が偶然仲間入りし、35年前の神棚から、ピヨピヨひよっ子神棚魂が誕生した。
まだひよっ子のため、成長しないで立ち消えるかも知れない。 
人工榊は、人工なので枯れることはないが、埃をかぶることは大いにあり得る。
すわ、ひよっ子魂、誕生お祝いか、と威勢づいても、また元通りの、埃をかぶっただけの神棚になるかも知れない。
明日のことは想像できても、1年後、10年後はわからない。

うんざりするほど、長文になった。

※写真は、1620年に建立されたという石燈籠

永久欠番?

2024-02-03 | 
2008年の記事(宗教②)を引っ張り出してくださった方、どなたか存じませんが、ありがとうございます。

懐かしく自分の古い記事を読み返してみたのは良いのだが、冒頭文からミス入力を発見した。
ぎゃ。
15年半前の編集画面に遡って訂正する気力がない。
で、しかたなく、コメント欄に自分でちょこっと訂正箇所を書いて、おしまい。
あまり自分のブログを大切に手入れしない、草ぼうぼうブロガーのわたし。

さて。
その記事。
宗教に関するわたしの単なる感想、考えを書いていた。
あれから15年半も経ち、次世代にバトンタッチする時期がとっくに訪れているのに、次世代は欠番。
バトンタッチは次次世代あたりになりそう、、、。
永久欠番かも。
というか、その頃はどうなってるのか、わたしはもうアタマはあっちの世界に行っていることだろう。
ワタシハ、ダレ? ココハ、ドコ?
それでよいのでは?
よくなくても、どうしようもない。

わたしは、嫁ぎ先の数代目の嫁なのだが、ここで途切れさせてしまうのだろうか。
「途切れさせた嫁」「最後の嫁」ポジション。
ちなみに、親戚で、わざわざ家を継ぎに行って、結局、次の次の代で墓じまいをした家があった。
嫁に行った娘さんが、自分の実家の墓じまいを行っていた。
わたしは、先代ご夫婦それぞれのお葬式にも、その息子さんのお葬式にも列席した。
最後の息子さんの、(嫁に行った)お姉さんが、墓じまいをした。
江戸時代からの立派な墓だった。
苦渋の選択だろう。
あとを継ぐ者がいないのだから、しかたない。

あとを継ぐ者がいても、継ぎたくない人もいる。
継げない人もいる。
いろいろだ。
わたしは、嫁の立場であり、次世代にバトンタッチするべきところだが、時代の流れもあり微妙だ。
自分も年齢を重ね、上の代もこの世にいなくなり、自由になった。
だが、出来れば継承してほしいという思いは(強く)ある。
なぜなんだろう?
おそらく自分が置かれている環境だろう。
他の人には他の人の道がある。
本当に、人それぞれの道。
令和の時代。




ある日の宗教記事

2024-01-26 | 
ちょっと元気がない。
涙がぽろぽろ出る。

食べたいものを食べ、欲しいものを手に入れ、行きたいところに行き、やりたいことは、もう、やった。
だが、前人未到の超絶秘境地に行きたいわけでも、わざわざ飛行機に乗って食べたい店に行きたいわけでもない。
話題の美男美女に会いたいわけでも、教祖様に会いたいわけでも、推しのアイドルや俳優に会いたいわけでも、トップ政治家や有名人に会いたいわけでもない。
この世にいない人に会いたいわけでもない。

べつに、何がしたいわけでもない。
何も、新しいことはしたくない。
今のままで、十分満足。十分楽しい。
鬱なわけではない。
なぜなら、気分はいつも良く、明るい。
しょげかえってなど、いない。
だから、鬱ではない。
やる気がないわけではない。
今の状態を維持するために、多少は努力している。
こういうのは、あまり向上心がないと言われるのだろう。
いいの。
無理はしない。
自分が良ければよい。

だが、他人から手は差し伸べられても、他人にエネルギーを分けてあげるほどの元気はない。
自分を楽しく保つことで精一杯。
他人に尽くすタイプではない。

自分と向き合う。
競争相手は他の人ではなく自分。
自分に打ち勝つとか言うけれど、勝たなくてもよいではないか。
なぜ、勝たなければならないのか。
しかも相手は、他ならぬ自分。
自分に負けて、何が悲しい?
自分に勝って、何が嬉しい?

では、
自分に負けて、嬉しい? 
自分に勝って、悲しい?
別に嬉しくも、悲しくもない。
自分同士の闘いなんて、観客もいないし、必死になっても仕方ない。
第一、ジャッジも観客も自分だし。
何を今更、闘う???

自分はどうしたいのか?
自分が楽しいようにしたいだけ。
そんな大それたことは、したくない。
毎日、小さな喜びを見つけて、小さく暮らす。
それではダメなのか?
出来るうちに、どんどん何でもすべきだと思っていたが、べつにしたくなければ、出来てもしなくてもいい。
したければ、すればいい。
世の中の本やSNSの、声の大きい立派な意見やライフスタイルばかりを取り入れなくてもよい。
あくまでも参考意見の一つとして見聞きする。
小さな声もあるし、声をあげていないこともある。

毎日、薄い水の中で静かに暮らしているのが、今のわたしの幸せ。
また変わるかも知れないが。
欲求がどんどん薄く軽くなってきている。
ひょっとして、もうすぐ、、、魂がなくなるのかなあ???
それはそれで、負の感情や考えもなくなる。
プラスとマイナスの振れ幅が小さくなる。
不純物がなくなり浄化されるということか。
いや、不純物こそ生きるには欠かせない要素だ。
美しく清められなくてもよい。
菌に強くなければ生きていけない。
雑菌はそこらじゅうにウヨウヨ。
純正栽培は生命力が弱い。

ちみに。
どなたかが、昔の蝶ブログ記事を引っ張り出して読んでおられる。
その中で、「宗教①」というものがあり、興味深く読んだ。
(自分が書いているのに内容を忘れている、、、)
信心していないのにお経を読めと姑に言われ、思いっきり減らず口をきき、反抗した話。
「家の宗教を内容もわからず頭から信じるのはおかしい。
わかっているなら、内容について詳しく正しく説明してください」と、姑Aに食ってかかるわたしに、Aは、
「先代の姑たちは、立派だった。
こんな未熟な何も知らないわたし(Aのこと)に、怒りもせず優しく包み込んでくれた」と答えた。
当時の若いわたしは、当時のAとオーバーラップするのだろう。 
皆んな来た道、歩む道。
だがしかし、明らかにわたしの質問に答えず話しをはぐらかして、話の内容を変えている。
わたしは、「説明してください」と言っているのに、説明せずに、わたしを未熟だと非難して従わせようとしている。
一時的には人情的にうまく丸め込まれたような気になったが、話の論点は明らかにズレている。
ごまかされている。
そうやって、ごまかし、ごまかし、疑問はクリアに解明されず、今日までどうにか引き継ぎ持っているのだろう。(Aは故人だが)
お坊さんのように何時間も正しく説明されたら、かえってわたしが困ってしまうところだった。
面白くなくて居眠りしてしまうだろう。

人を自分の思い通りに動かそうとするのは難しい。
駆け引きや策略が必要だ。
信じていない宗教のお経を読むことに関しては、自分が能動的に読むのではなく、その道のプロ(お坊さんや神主さん)が読むのを聞く、受け身なら抵抗はないと感じる。
日本には地鎮祭やお葬式、七五三など、強い信者ではなくてもお経や祝詞を聞いている。
初詣やお寺詣りも、抵抗ないイベントとなっている。
あまり深く考えていない、慣わしのようなものか。
へんに抵抗して流れを止めて摩擦を生じさせ、前に進む邪魔をしないようにしたほうが、よいのか。
信心というよりは、おみくじやジンクスみたいなものか。
そのあたりを姑Aは、わたしが納得できるように説明してほしかった。
教義が大事なのではなく、誰もわかってないけれど手を合わせているんですよ、と認めてくれたら、また違った展開になっていたかも知れない。

わたしは、わからないこと、理解できないことに対して、無条件に、何でもいいからツベコベ言わずに頭を下げるんだ、と強制されても不満しかなかった。
自分なりの解釈、納得が必要だった。
古今東西、宗教はとてもデリケートな問題だ。



家終い

2023-12-29 | 
家終い、仏壇終い、墓終いをする人が昨今、どんどん増えている。
墓は、永代供養にシフトし、自分たち代わりにお寺などに供養してもらう。
さぞや肩の荷が降りることだろう。

かたや、墓地を買って準備している人もいる。
まだお墓には誰も入っていない。
買った当人が、第1号としてその新規墓に入る。
ひょっとすると、一代限りで墓終いされるかも知れない。
が、買った当人が知ったことではない。

主に、墓終いや仏壇終いを実践するのは、女性。
男性は、保守、反対派。
反対はするが、日頃の維持の役割は女性まかせ。
女性たちが、子供の世代には自分たちのような苦労はさせたくない、と、連鎖にピリオドを打つ。
男性にも、後の世代に迷惑をかけたくないと、あっさり、キッパリ、自分が亡くなる前に終活をしている人もいる。
が、女性のほうが、男性より長生きする傾向にあるので、終活の持ち時間が長い。
しかも、夫にあれこれ文句、口出しされるのは鬱陶しいので、夫があの世に行ってから、誰にも邪魔されず綺麗に終活の仕上げにかかる。

お一人様女性は多い。おばあちゃん、長生き。
非婚、死別、色々ある。
一人だと、生活を便利に簡素化したくなり、断捨離に精を出すかも知れない。
その一方で、ゴミ屋敷の人もいる。

わたしは、亡くなってからも夫の墓に一緒に入りたくない、と思っていた頃もあったが、今は、どうでもいい。
残った人がやりやすいようにしてくれたらいい。
生きているうちに墓を先に建てようかと思うぐらいだが(縁起が良いとされるらしいが)、それよりももっと先にすべきことが山積み。
自分の墓になどとても着手できない。
後回しの最たるもの。
それこそ息を引き取る瞬間まで手を付けなさそう。
息が止まったら、後は知らない。

夫の実家の仏壇は今のまま。
家はさらに最低限のリペア(修繕)をして今のまま。
墓は、後の人に丸投げ。
(夫に先立たれたら、面倒だが、自分の墓も同時に作ることが出来て、便利かと)
ということは、今のままで、家終いも仏壇終いも墓終いもしないという流れだ。
今、住んでいるわたしの家は次女に差し上げる。
長女の家と近いから、年がいってから姉妹が近所で住むのはきっと良いと思う。
どっちみち、わたしは高い空の雲の上から見ているだけ。
見ないで、ずっと寝てるだけか。
売ろうが何をしようが、この世にいないので知らぬが仏。正に文字通り。
孫たちが住んでも良し。何でも良し。

実家だけは維持してくれたら、あとは何でも良し。
ということは、家終いもしない、仏壇終いもしない、墓終いもしないで、次世代に押し付けるというわけか。
子孫の皆様、お気の毒様。
頑張ってください。
自治会の役と同じで、最低限で良いので。

と、つらつら書いたが、全くどうでもいい、興味がない人は必ずいる。絶対いる。
環境も考え方も全然違う。
当たり前。
皆んな、いろんな人生をいろいろ歩いてきている。
どれも各々、基本的ベース個で成り立っている。
そして、人との関わりで生きている。

食べる気力

2023-12-18 | 
やっと食べる気力が湧いてきた。
食欲というものは要。
わたしにとっては、健康のバロメーターだ。
いつもは何も感じないのだが。
食欲不振で、生協の宅配も今月は一度も発注していない。(無配達でも毎回、宅配料は取られる)
食べ物のことを考えるのも嫌だった。
やっとどうにか、何か口に入れてもいいという気力が戻ってきた。

気づけば師走も、半ば。
師ではないないにしても、走る気力もなく、半ばになってしまった。
ホーム・クリスマス会を目前に控える。

ジイサンタさんには次々と発注が届いている。
バアサンタさんは、小銭なんだそうだ。
上から3番目孫には貯金箱がパパママサンタさんからのプレゼント(内定)だそうで、貯金箱に入れるコインをママ(わたしの長女)からこっそりリクエストされた。
「1円にしよう!」とわたしが言ったら、「ダメ!」と、3番目孫にダメ出しされた。
「消費税の関係から1円玉も貴重なんよ」とわたしはぼそっと言ってみたが、1円にする気はない。
ママからは、「300円ぐらい」と打診されている。
100円玉、集めなければ。
300円✖️5🟰1500円
100円玉を取り敢えず15個、今週中に用意。
シニア枠バス代が100円なので、100円玉はわたしには必須アイテムだ。

ちなみに。
やっと年内にすべきこと、気になっていたことがクリア出来、ほっとしている。
というか、ぼんやりしている。
というか、ヒマにしている。
気が抜けている。
だが、年末大掃除とかは、全く念頭にない。
年末年始は、夫の実家に行く。
行く年、来る年は、いつも必ず夫の実家。
今回は息子が久しぶりに帰ってくる。
と言っても元旦の夜帰ってきて翌る日、昼には戻る、1泊2日の弾丸帰省。
彼は姑よりうるさい、食事・家事評論家であるが、まあよい。
welcomeである。
長女一家と合同になるので、短い時間だが賑やかにはなる。

わたしは夫の実家が大嫌いだったくせに、今では全然嫌いではない。
大規模リフォームして、気持ち良い快適な家に生まれ変わり、皆んなが集まりやすくなって喜んでいる。

別棟には、わたしの実家からもらってきた調度品を設えているが、どうもテイストがしっくりいっていない。
不具合を生じる生体移植のような感じ。
微妙な趣きに、ズレがある。
仕方ない。
わたしの実母の趣味(優美で繊細)と、夫の実家の趣味(質実剛健)が、部屋の中で不協和音を奏でている。
(次女にもテイストの違いを指摘された)
歯科で新たに作った歯が合わないような、不調和。
どうせ誰も行かないし、使わないのだから、誰の目に触れるわけでもなく、そのうち、わたしの目が馴染む。
わたしが、東と西の文化を融合させようとして、上手く行かなかった途中、プロセス、過渡期、一時期のような、調整、統合される手前の状態のようなものか。
(うまく表現できない)

これから益々歳を重ねていくわたしにとって、自分の居場所の一つとして、少し楽しみにしている。
て、こんな内容、誰も興味ないだろうけれど。







先の長い楽しみができた

2023-09-26 | 
長女一家、次女一家と、長女の2番目孫の合同誕生日パーティ。
アイスケーキには、今回のスーパーマリオやディズニープリンセス、トイ・ストーリーやら、何やらかんやら色々なバージョンで今までお祝いしてきた。
にもかかわらず、うちのテーブルクロスは10年以上同じ。
変わり映えがしない。
(上にかける透明ビニールクロスは変えている)
ヘタをすると20年間、ケーキの写真をアップするのは良いが、同じテーブルクロスなのがバレてしまう。
まあ、ケーキが主役だから、それでよい。
ブログに見せるための忖度作業はしない。
(とか言って、ちょっと恥ずかしい気もするが)

と、可愛げなく開き直って。(じつに、可愛くない)
さて。
次女Rに夫の実家について、最近、発見したことを一気に、ばばばばっと図や写真を見せながら、早口でまくしたてた。
息もつかぬ、一人しゃべくり舞台。
次女Rの娘(2歳)が寝ている間に、時間は限られている。
図は、大きな包装紙の裏にわたしが前に書いたもの。
下書きの家系図。
写真はその前日、発見した書をパチリ。
遠い親戚をインターネットで確認できた喜びもついでに、エピソードと共に熱く語った。
ではあるが、さすがに興味ないことを延々聞かされている次女Rのうんざり空気感が伝わり、そこで、一呼吸。

「あなたの年齢では興味ないだろうけど、70歳近くなると、自分のルーツに関心が出てくるみたいよ。
わたしは、おばあちゃん(姑)に、あなた(R)の年齢で延々と聞かされたから、当時は、またかと、さすがに飽きてすっかり嫌になったけれど」

と、わたしは次女Rの顔色を見た。
すると次女Rは、ぼそっと言った。

「小説、書いたらいいんちゃう?」

おう!それだ!
それがいい。
あの世に行くまでの待ち時間、楽しみができた。
次女R、ありがとう。






彼岸

2023-09-23 | 
ブログ記事、書いたがボツにした。
自分の本日の行動日記。
スケジュールの羅列。
単なる忘備録である。
しかも、なんだか嬉しそうで、自慢に取られたら心外だし、、、
アップするのは気が引ける。

ということで、その内容はやめたが、代わりに、といっても、たいしてボツにした内容と変わらない。
どっちみちツマラナイ内容なら自分さえ満足すればいいかな、と。


今日はお彼岸で、夫の実家にお坊さんにお参りしてもらった。
が、電車が遠い。(自家用車運転は、数年前から止めた)
朝、6:50のバスで自宅を出た。
夫の実家の近所の家にお参りに入るお坊さんの後ろ姿を見つけて、お坊さんより早く家に着かなければと焦りながら到着。
雨戸を開け、お布施やお供えを用意し、バタバタしていたら、早々とお坊さんは家に来た。
早っ。
お坊さんがお経を読んでいる間に、急いでお茶と、おしぼりの用意をした。
あ〜、焦った。
ギリギリセーフ。

て、またまた、出来ごと、忘備録になっている。


いにしえの人々に想いを馳せる

2023-09-22 | 
今朝の涼しさ。
幸せをもらった。
昨夜は集中豪雨(線状降水帯)の地域もあったようだが、異常気象は、人間が人工的に変えられない。
自然の厳しさ、過酷さと、自然の恵み。
自分ではコントロール出来ないだけに、一喜一憂してしまう。
農業人口が多くを占める昔の人が、生活の糧を得る元になる、雨乞いの儀式をしたり、神頼みになる気持ちもわからないでもない。

悪い意味で(不安になって)気になるなら、
堅牢な建物の奥深くに閉じこもっていれば、外の自然に接することもないだろう。
台風や大雨の時は、外の自然の猛威を遮断すれば良い。
竜巻の時は地下へ退避。(アメリカ映画でよく見かける)
地震の時は?
ミサイル攻撃には、核シェルターへ逃げ込む?
いったい、どこにある?

我が家は雨戸さえ無いので、いつも自然と共に生きている。
どの部屋にも窓があるので、逃げ込む部屋もない。
雷、稲光は、最も怖いものの一つ。
押入れに頭から突っ込み隠れるしかない。

異常気象の度に、ビクビクしている。
ゲリラ豪雨では、あっという間に庭が水田になる。
2階のベランダ、排水が心配。
排水量より、雨が降る量のほうが同時進行で多い時、頭の中でシミュレーションして、雨水がベランダ側のガラス窓を押し破るのではないかと、ドキドキひやひやする。
わたしは怖がりである。

逆に、少しでも良い風が、すーっと入ると、幸せ気分に浸れる。

と、朝の気温ひとつで、駄文だらだら。

さて。
わたしは人生が整ってきた感がある。
自分なりの人生。
余計なものや、こころ乱されるもの、憎しみなど、段々なくなっている。減っている。
モノ(物品)としては余計なモノだらけで、断捨離の概念に抵抗して闘っている。
わたしの敵は、断捨離。
一生、目の上のタンコブとして君臨して、わたしを苦しめ続けることだろう。
(こういう自己肯定の仕方もある)

ブログには、感情の吐け口として必死で思いを綴っていた頃があるが、憤慨したり逆上したりしているその時のブログのほうが熱く力があって、面白い。
今は、すーーっと力が抜けて、読む側としては気が抜ける(と思う)。
ツマラナイ。
これも変遷である。


と、ここで話が変わる。
わたしは今、昔の人々と対話している。
夫の実家にある、昔、先祖が暮らしてきた足跡を発見するにつれ、感慨深い。
蔵にある、昔昔のおばあさんの箪笥の中をふと5日前に覗いたところ、日常に使っていたクシや髪飾りなどを見つけて、怖いと思う時もある。
日用品、使い込まれている。
長年、使っていた当人の魂や息吹まで感じる。
辛く苦しい目に遭っていた当時の女性の怨念が篭っていたらどうしよう、、、。
(わたしのブログのように)
断捨離指導者から見ると、1番に捨てるべきものだろう。
断捨離優先順序、1番が100個ぐらい同時に並んでいる。

骨董品、アンティークショップで買ったものや、世界のあちこちで見つけた掘り出し物とは違い、確実にその地、その家で暮らしてきた実在の身元の知れた人々の生きた証拠である。
何年生まれ、何年没、戒名、親、きょうだい、夫婦、子供、孫、、、その中での何時代の誰それ、、、この場所、この家で生まれ育って亡くなった、その証が実際のモノが物語る。

人形やクシなどは、魂が篭っているから、お祓いして処分するのが良いとされる。
人形だけに特化した、人形を供養する神社もある。
針供養するところもあるらしい。
お役目ご苦労様、というものだ。

医学の発展により、昔は多産多死だったが今は寿命は伸び続けている。
過去の一人一人に思いを馳せると、(やんごとなきお姫様とは程遠いが)さながら絵巻き物のようだ。
幼い子供を亡くし、でもその後も家族は生き続ける。
立ち直り、生きる。
時間軸を遡り、過去から現在に繋がっている。

わたしは、血が繋がっていないから、夫の家とは血縁としては関係がない。
が、外から来た血を継ぎ足し、次代を繋ぐ役割りは果たしている。
第一、跡取りをはじめ、大事な子供たちを産んでいる。
嫁達の役割は結構、大きい。
お殿様ならたくさん嫁以外にも子供を産む女性はいるだろうけれど、一般庶民ではそうはいかない。
少なくとも、夫の実家では、同時に複数のお腹からは子供は産まれていなかった。
(ひょっとして表に出ていないだけか?
だが、実証できない。証拠がない)

子供がが生まれなかった場合は、養子を迎えたりして繋ぐ。
夫の実家は、不思議なことに、子供が生まれなかった代はなかったようだ。

今は、墓じまいや仏壇処分も行われる時代。
跡を継がないからといって非難されない。
自由。
煩わしいことや、制限を受けることから逃れる選択が出来る。
宗教を信仰しない自由もある。
価値観も変わる。
強制は出来ない。
各家、各人、個人の自由。
続けたい人は続けて、やめたい人はやめたらよい。
個人を取り巻く事情もあるだろう。
そういうことだ。

わたし個人に関して言えば、先祖の皆さんに関心を寄せている。
皆さんの生き様を想像している。
先祖を大切に大事に思っている割には、日頃の仏様への扱いが超手抜き。
わたしは、彼岸と盆、正月しか、直接、現地で接していない。
バリバリに熱心な仏教信者ではない。(日本人によくいるタイプ)
が、外国でも皆さんも各国、各人、各宗、似たような宗教的な行事が行われている。
俯瞰的に見ると、何教かは、それほど大事ではないように思う。
宗教同士を比べてみても不毛。
ただ、皆さん、家族を大切にしている、その強い思いが伺い知れる。

小さな部屋に置かれる小さな写真や祈りを表すものに、毎日、思いを込める。
それで十分。
祈りに形は関係ない。宗派も。
今の気持ちを伝える。
そうするとなんだか生きる力が還元されるような気になる。

ではあるものの、歴史を紐解くと、宗教の違いは古今東西、紛争の元となっている。