蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

スパイス

2013-10-31 | 日々のこと
悩みの時期を過ぎると、虹が現れる。
ぱーっと明るくなる。

悩むだけ悩み、試行錯誤しても、どうしてもうまくいかない時期が延々と続いても、
信念、想いを強く持ち続けると、それなりの方向に向かうようだ。

これは、大きくとらえると、人生そのものに言える。
趣味の世界での話だとすると、説得力はあまりない。
義務でもなんでもなく、好きに勝手にやっていることだから。

そんなおアソビではなく、生きること、人生の問題。

そうやって、眉間にシワを寄せて深刻な顔をして、
「人生とは? 生きるとは?」
と、ぶつくさ言いながら、考え込みながら、
ぼてっと溝に足をつっこんだり、鳥に、「ふ○」をかけられたり、
ああ、人生って・・・
となる。


現実と理想の間をいかに、埋めるか。
折り合いをどうつけるか。
自分でどう納得するか。
調整、コントロールが難しい。

頂点まで行ってしまって、その後、維持できなくなったり、目標を見失ったり、
そういう人の後半の人生を見ると、あまり幸せではない。
目標を高くしすぎて、
一生、虚しく、枯渇、砂漠状態で、味気なく過ごすというのも、いかがなるものか。
自分との対話が大切だと痛感する。

自分だけではない。
自分の道を歩こうとすると、他の人の協力や理解も不可欠である。
孤高の仙人みたいな人生を歩みたい人は、
それなりに、ご自分だけで、お一人で頑張っていただけばよろしいかと。
(少し前のわたしは、そうだった)


好みの味に整えるために、調和や隠し味、調味料が、必要である。
なかでも、スパイスが、効き目がある。

平坦で難なく、ストレートでつまらないと感じても、スパイスひとつで、ずいぶん変わる。
ただし、犯罪や、アウトローはダメ。
安易にくっつく、安物の男女も、スパイスにはならない。たんなる安物。
人の目を盗んでいるから、スパイス効果がある、と感じるとしても、そんなものは錯覚に過ぎない。
裕福なのに、万引きにスリルを感じるのと似ている。
クスリと似たようなものか。

マラソンも、「ランナーズハイ効果が、たまらん快感」、という人もいるし、
人それぞれ、スパイスは、違うのかも知れない。


クスリの軽度なものが、タバコ?
禁煙に失敗した方は、お気の毒である。
が、同時に、究極の喫煙の楽しみを、危うく手放す危機から逃れられたのかも知れない。

喫煙は、非喫煙者との対立が大きい。
もっと生きたいのに、死に直面するほどの病気にでもなれば、たいがいのひとは、タバコをやめる。

死んでもいい。
どんなに愛する人々と永遠に離れ離れになってもいい。
それぐらい、タバコが好きなのだろう。
それぐらいの覚悟もないのに、たんにタバコがやめられない人がいるとしたら、
それはその人の人生であって、わたしは人の人生に、なにも関与しない。
本当に死に直面するその日まで、喫煙するのも、ひとつの幸せかも知れない。
(たんに、重度のニコチン中毒を含む、複合的な病気だとしたら、治療していただくとよろしいかと)

タバコぐらいで、幸せが得られるのなら、(「死」と引き換えには、ちょっと引くが)
薬(ヤク)中毒じゃないんだし、いいんじゃない?って、思う。
ある日、ふとタバコがやめられる日が、突然訪れるかも知れないし。
なんの気合もなく、突如。
それはそれで、その人の人生。

今まで使っていたタバコ代を、それからは何に使うか、考えるのも楽しいかも。
微々たる金額だけれど、予期せぬ微々たる変化も、また、味わい深い。

ちなみにわたしは、タバコは吸いませんが。


スパイスも、危険な遊びで、死んでしまうほどハードなものもあるし、ささやかなものある。
人間の欲求にはキリがなく、快感には天井がない。
なので、カラダと相談しながら、ほどほどに。

これは、やる気や燃焼エネルギーの低下ではなく、人生を大切にしたいから。

年をとった、ともいう。

年とともに角(かど)が取れ、まろやかになる。
対極の性質を両方同時には無理っぽいが、
時系列として、若い時と今と、両方を経験、味わってきているのだから、
両方あることはある。

一人の人間のなかに、両極端なものが同時に存在する、っていうのは、
一見、物静かだが、
じつのことろ、奥行き深く、得たいの知れないエネルギーを秘めていて、パワフルだ。


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コトバ

2013-10-29 | 日々のこと
さて、今日も、真っ白い便箋、羽ペンにインクをつけ、
いや、半紙に、つんと鼻にくる墨を磨って、写経の時間。
脳内読経タイム。
なんて言って、ブログの新規投稿画面をパソコンモニターに映し出す。

と、助走。ウォーミングアップ。
体がなかなか温まらない。脳が、秋風。
時計を気にしつつ、あと15分しかない。
なら、更新しなければいいのだが、これは中毒なので、アップしないと、スッキリしない。

と、無意味に助走時間を延ばす。
その分、持ち時間は、どんどん減る。

・・・

コトバについて。

コトバの違う国での体験。

コトバが通じないというのは、おもしろい緊張感を生み出す。
黙っていれば、普通の人。(→わたし)
他の人から見れば、社会におそらく溶け込んで暮らしているだろうと思われる。

が、じつは、コトバがわからない。言語が理解できない。
読めない、書けない、聞けない、話せない。
脳は、まあ、ちょっとトロめではあるが、動いている。
コトバに関してだけは、完璧にフリーズしている。

なので、挨拶や笑顔、ジェスチャー、回りの反応からの想像力を駆使するしかない。
皆さんの行動を見て判断し、マネをしてみる。
その国の暮らしを深く予習していて、熟知しているのなら怖くもなんともないだろうが、
わたしの場合、予習しない。できない。
土壇場にならないと、動かない、動けない。

とりあえず、にっこり。
会話が出来ないので、顔で会話。
もちろん、深いハナシなど、まったく出来ない。
「ボンジュール」と「オヴォワアール(わたしには、そう聞こえる)」
「こんにちわ」と「さようなら」
これだけで2週間。

なかなか面白い体験である。

・・・

辞書がある。
地図もある。
両方、電子である。
インターネットもある。

そうすると、まったくコトバがわからなくても、どうにかなる。
出かけるには、地図は頼りになる。
手足が少し動くことと、目が見えることが、どうにか助けになった。

もうすぐすると、いまよりもっと高性能な言語変換器が販売されるはずなので、
わたしのフランス語の上達スピードよりも、そっちの発売日のほうが、ずっと早い。
なので、楽観的なわたし。

・・・

日本で、日本語が話せ、聞け、読め、書けることのありがたさ。
通じることの、うれしさ。
でも、親子でも、通じなかったり、世代間の違いや、脳回転のスピードの違いで、
通じないことも多々ある。

コトバの通じない国で、見るもの、聞くものだけを頼りに、全神経を集中させ、
必死で、他の人の思いを読み取ろうとする緊迫したエネルギーは、
コトバが通じる国では、とたんに、ゆるゆるとだらけて、時には、摩擦や誤解すら起こすこともある。

・・・

コトバは、便利なツールである。
つくづくそう感じる。

でも、コトバがないところのコトバに代わるものを理解しようという気持ち、状態、
そこには、思考力というものが必要になる。
思考力は、空気のようなもので、目が覚めている限り、脳が勝手に動く。
ただ、人によって、速い遅い、深い浅い、広い狭いの違いなど、性能、性質が違う。

思考力は、その気になって鍛えれば、どんどん変わっていく。


しかしながら・・・

わたしは、娘に先日、こう言われた。

「おかあさん、考える癖をつけたらどう?」


いつも、あまりにも何も考えていないから。
もうちょっと、考えろ、って。

この娘、何においても、まったくわたしと正反対。
わたしから生まれ、わたしが育てたとは、とても思えないが、こういう現実もある。





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隣の芝生

2013-10-28 | 日々のこと
あたふたあたふた、している。
なぜなら、ブログアップ中毒であるわたしが、ここ2日もアップしていないからだ。
しかも、なぜかこの時期、いい気候なのだかどうだかわからないが
(台風シーズンでもあるが)
やらたスケジュールが、混み混みで、なかなか落ち着ける時がない。

この忙しいのに、パリまで営業電話をかけてきてくれた、とある店長さんから、
またまた、バーゲンのお誘い。
(先方は、まさか、わたしがパリにいるとは思ってないから、
「遠いので電話代高いですから」と申し訳ないので早々に切った。
今回は、「もしもし、いま、パリじゃないですよね?」から始まった)

秋冬物のサンプルをこそっと。
サンプルは、とてもいい。
製品になる前のモノだから、海のモノとも、山のモノともわからないが、(好評だと量産するのか?)
イタリア製、フランス製のモノも、タグなしなので(タグありのモノもある)、
(人に見せびらかしたり自慢したりする趣味がある人は、だめだろうけれど)
人にどう思われようが、自分さえよければいいのだから、実質本位のわたしには、とても理に適っている。


こう書くと、どんなセレブっぽい生活をしているのかと思われそうだが、
実際は、まったく違うので。
パリのハナシなんか、大嫌いな人も、かなりおられるようだし。

おそらく、食わずキライだと思われる。
単語、地名、事柄に対する先入観。
イメージから来る苦手感。


しかしまあ、パリで買わないで、なんで日本でサンプルをバーゲンで買う?
パリで買ったのは、教会のチャリティーバザーの品々。
しかも、フランス語しか話さない(話せない)おばあさんとの、
クレジットカードの機械が故障した、しない、のやりとりは、悲惨。
強固なおばあさん→フランス語を少し英語にできるおばさん→英語を英語ができない人に説明できるおネエさん
この順序で、次から次へと人と人の橋渡し、数珠繋ぎされ、どうにか、わたしとの交渉は成立した。
(わたしが、泣く泣くあきらめて、カードを使えず現金で買った)

そのうちのひとつである、合い服コート、
買ってからパリでも、日本に帰ってきてからも引続き日本でも、じゃんじゃん着ている。
(飛行機の中では、機内荷物入れで、重いリュックを上にででんと乗せられ、ものの見事にべっちゃんこになった・・・)
気兼ねなく、着られるところが、とてもいい。
バザーなので、お古。ユーズド。
センスさえ合えば、とてもオススメ。
わたしは、手足が長いので、欧米サイズでぴったり。(じつのところは、ウエストが、窮屈)

と、なんのハナシ?
あ。そうそう、パリで古着。
ばか高い値段の服を、一流どころのお店で買う気がしない。
世界のセレブじゃあるまいし。

あるいは、なんのデザインもされていない(ように見える)、デザインのものがいい。
つまり、シンプル。
機能美。
清潔感ただよう、スッキリした装い。
これは、好感が持てる。


ある日の大阪市内、とある名のあるホテルで、ランチ客の女性の方々。
大きな大きなヴィトンの紙袋をお持ち。その他の紙袋も、いくつも。
おそらく、お買い物されたのだろう。

わー、セレブ!!
と、思ったかというと、わたしは思わなかった。
へ~、またまた、今ごろ、ヴィトン?
なんて、すごく感じの悪いだろう感想を抱いてしまった。

人は人なので、好き好きがあって、おのおの、購買意欲を持ち、モチベーションをアップさせ、働き、
なおかつ、幸福感につながり、それで、経済は活性される。
なので、非常に世界の経済のためにはよろしいことである。
(「日本の経済のため」と書こうとしたが、ヴィトンなので、「世界の」に変更した)

・・・

モノの味方を変えると、ころっと評価が逆さまになることもある。

たとえば、装飾美。
シンプルな機能美が好きな人から見れば、単なる、ごてごてした無駄な醜悪なもの。
いくら純金であろうが、大理石であろうが、宝石であろうが、ゼロがいくつも付く高価なモノであろうが、
機能性→「使いにくい」という切り口からすると、零点。

食べ物も然り。
ただただその時の味覚、
一瞬の舌触りや喉ごしの享楽、悦楽のために、貴重な労力、時間、お金を費やすことの無駄さ。
素材そのものの味わいや、栄養バランス、手に入れやすさ、価格、調理しやすさ、食べやすさ、
健康を軸にすると、
どんな、まったりこってり、素晴らしく豪華な食事も、零点。
味を貪欲に追求するグルメな人に対して「健康」というキーワードは、ドラキュラに十字架、にんにく。
塩分、油分、コレステロール、おいしいものは、数値が高い。


インテリアも、どんなに美を極めようが、大豪邸、大邸宅であろうが、貴重な名品の数々であろうが、
整理整頓、掃除が行き届いてないと、零点。

服装も、そう。
ただただ好きで買ってばかり、家の中は服の山。
買う分、今ある服を捨てる、といっても、たいして着てもいない服を捨ててまで買うって、どんな服?
新しい服を買って、着て、うれしい? 気分がいい?
廃棄するものをどんどん増やして、なにがしたい?
無駄なものは、不必要。

エコ精神 VS 無駄

しかし、そうなると、モノは売れなくなり、経済は停滞するだろうから、
あまりエコ精神を徹底すると、行き詰まり感、閉塞感にもつながる。
いっそ、エコ重視で、国全体で、自給自足の生活を促すのはどうか?
しかし、日本の政策は、減反政策の徹底や、農業が失墜してしまいそうなことばかり。
国民の食べ物が自国で賄えないって、これは大変なことだと思う。

と、深くも考えずに、だらだらと無責任に書いている。

ゆとり教育にしても、弊害が出て、なににつけ、なんでも、ゆり戻しあり。

・・・

テーマが、どんどん、ズレていっている。

店長からのお誘い電話、
ホテルのランチ客のヴィトンの買い物袋。
どうなった?

・・・

わたしは、パリで、十分すぎるほど中途半端な自分を確認、認識した。
ファッション→まったく中途半端
外見、年齢、行動→いまさら、パリひとり旅もあるまい
わたしって、わたしって、わたしって、いったい・・・??

お若い、就職浪人やニートの方々が、ぶつかるような壁?
いや、そういう若い時期には、それに応じた、自分がやるべき時間を過ごしてきている。

じゃ、この遅れてやってくる、「わたしって・・・現象」って、なに?
おそらく、この疑問、
徐々に自分なりに苦労して紐解き、解決し、結論に近づいていくことだろう。

その頃には、それなりの風貌になっていることと期待する。
スペインで見た、激しくインパクトのある(悪い意味で)牛男
みたいになるのか? (じつは、担当の現地日本人ガイドさん。すみません)
あれはあれで、怖いものがある。
わたしは、あの路線は、ぜんぜん目指していない。
むしろ、避けている。

なら、自分の理想とする道をはっきりくっきり、はやく定めて、さあ、と歩き始めるのではなく、
(そんなのは、遅い)
もう、そこそこのところまで、歩いていなければならない。

いま、わたしは、どの地点にいる?
さすがに、ヴィトンには、興味がなくなったことだけは確かである。




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棄てる時~。棄てられる時~。

2013-10-25 | 日々のこと
とある方が、50歳を過ぎて、妻子を棄て(普通に言うと「離婚して」)、若い女性と結婚した。
この方は、いわゆる資産家のお坊ちゃまで、お金持ち。
某有名メーカーの役員さんでもある。
で、別れた奥さんに、そこそこの慰謝料(都心に、新築マンションが買える程度、郊外なら、広々、新築一戸建)と、
毎月20万円の生活費を支払い、新しい奥さんと生活をスタートした。

そして、彼は、若い奥さんとの間に、子供が生まれた。
もちろん、前の奥さんと間にも、子供がいた。

で、このハナシ、わたしは、ちっとも楽しげには聞けない。
なにがかというと、・・・

子供ができた、ということ。
50歳を超えると、あと少しでリタイアして、悠々自適の生活が待っている。
わずかな年金だけの苦しいカツカツの生活でもないだろうから、優雅な優待ロマンスシートが確保できると思う。
そこに、孫でも生まれたら、ますます喜びは一層アップし、充実感たっぷり。
と、思うのだが、
彼は、自分の子供を、50歳を過ぎて新たなる人と作った。
しかも、前の縁を切って。
それまでの積み上げてきたものをすべてリセットして。

なにが言いたいかというと、
子育ては、そんなにカンタンなものではないということ。
人それぞれ、子育てに対する意識が違うのかも知れないが。
競争社会もストレスいっぱいだが、
野山で放牧して(あえて説明するのもメンドクサイが、これは、表現の一種です)自給自足で育てるのも、けっこう、難しかったりする。
ましてや、わたしと同世代の男性であれば、今のイクメンのようになろうとアタマでわかっていても、
なかなか、現代の純正イクメンと同じようにはいかないと思われる。

保育園の送り迎えなど、お金ですませたらいい、などと軽く考えているのだろうが、
自分の稼いだお金でもないお金(親の資産)を使って、子供を育てるなど、根底には甘い考えがある。
お金だけの問題でもない。
育児、子育ては、目標や意識が高ければ高いだけ、大変なのである。

イマドキの父親、母親たちの教育方針に驚きつつ、サポートするだけでも、けっこう疲れる。
若い母親と、祖父の立場でなく、父親の立場で第一線として、子育てしていかなければならない。

優待ロマンスシートで、夫婦いい旅とか、いってられない。
徐々に老化の波が押し寄せても、まだまだ子供は、大変な時期、
若い奥さんには、老化の意味もわからない。
夫に若さがない分、あてにしていたお金も、前の奥さんへの支払いさえも遅延するようになる。
(現実に、支払えなくなってきているそうだ)

ああああ、大変。

でも、火の中に飛び込む勢いで、その人生選択をされたのだろう。
よほど今まで、苦労されてこなかったのだろう。
生きてきた手ごたえを感じられなかったのだろう。
あえて、この時期に、この年齢になって、そんな道を選ぶなんて。
ごくろうさん×10000

子育ての質を追及しなければ、ぜんぜん、取り越し苦労になることだが。
「年のうんといった、甘いパパ」に甘やかされて育つ、なんてことでよかったら。
「かわいい、かわいい」だけで子供がすんなり育つものなら、世の母親たちは、ノイローゼなどにはならない。

べつに、前の奥さんがかわいそう、とか、同情しているわけではない。
たっぷりの慰謝料と、滞り気味とはいえ、なんにもしなくても毎月生活費が入ってくるのだから。
もはや夫婦関係の破綻している、キライな、鬱陶しい夫の顔を見なくても、毎月のお手当て、あり。
楽勝だ。
夫婦生活の退職金と年金みたいなものか。
優良企業に永久就職した元奥さんの実力によるものか。
(あ、永久でないが、倒産する前に高額退職金で早期退職か)
それはそれで、清々しておられるのかも知れない。

しかしまあ、
お坊ちゃまのすることは、よくわからない。
よほど、ご自分が、すんなり育ってこられたのだろう。


いやはや、このハナシを聞いて、いちばんに感じたことは、何度も言うようだが
「子育ては大変ですよ!!」ということだ。
しかも、ああいった成り行きでは。

・・・

日に日に、まったりした、かわいいウサギさんから、獰猛な動物に変化しつつある、
天使の顔をしたギャングに振り回され、
さらに、情操教育とか、教育方針とか、動物以外のケアも可能な限り。
大切に使い、大事にしているモノモノを、次々にギャングによる襲撃の魔の手から守るのに必死。
単純に、喜んでばかりはいられない日常であるが、
世の中のジジババの皆さんの気持ちがよくわかる。

上記の離婚再婚・50代パパは、今までの優雅な生活は一切、忘れ、子育て一本やりで邁進すべき期間に突入する。
これは、決してお金だけでは解決できない、至難の偉業である。
本人にそんな意識があるかどうか、だが。

まあ、関係ないんで、どうでもいいけど。



父親・母親だけでは補いきれないこともあり、
ジジババの手も時間も知恵も、いろんなものをフル動員しても、まだまだ大変である。
わたしも、かなり、両親たちにはお世話になった。
自分たちだけでは、とてもできなかったこともたくさんある。
両親たちの高い意識に助けられた。

親が遠方にお住まいかなにかで、自分たちだけで子育てされてきた方々も多いだろう。
ましてや、シングルマザーは、想像を絶するものがある。


よく考えれば、わたしが、能力が低いだけなのかも知れない。
両親を含め、自分たちが描いている理想に少しでも近づくには、人の手助けが必要だったということだ。

なかでも義母には、子育てでは、すいぶんお世話になったのに、
先日、義母に聞いたら、「そんなこと、まったく忘れたわ」と言っていた。

「孫にいくら一生懸命しても、だめ。すべて親のもの」
と、義母はいつも力説する。
子供はまるで覚えていないだろうが、そして、かんじんの義母自体も覚えていないようだが、
お世話になったわたしが、覚えている。
「わたしが、覚えているからいいんです」と、義母に言ったが、
彼女はきょとんとして意味がわかっていないようす。
義母にしてみれば、もう、終わったことなのだ。燃焼済み。


なにごとも、一生懸命すれば、結果的に、なんらかのいい方向に向かうということだ。
一生懸命しているときは、目の前のことをクリアするので、精一杯。
短期的に結果を求めるのではないということが、肝心なようだ。
長期的に、長い目で見て、自分はどういうスタンス、方針なのか、
それを軸に進んでいけば、間違いはないように思う。

離婚再婚50代パパさんも、おそらく、今までに感じたことのないような緊張感で子育てされることだろう。
そうでないとすると、今度は、棄てられる番だ。


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喉ごし悪く

2013-10-24 | 日々のこと
秋になっても、生ビールは、なお切れ味よろしく、疲れた体と喉にご褒美。
しかしながら、今日は、喉ごし爽やかでない、ごっくんメニュー。
飲むのは、胃カメラ。

憂鬱である。

前回は、喉のどこかに引っかかり、涙もの。
げほっ、げほっ、う、う、、、と、むせた。
麻酔もかかっているし、あんな異物を飲んでいるわけだから具合が良くないのは当たり前のことで、
「苦しい~」、と訴えることができなかった。
死ぬときは、こんな苦しさなんか足元にも及ばず、もっともっと、さらに苦しいんだろうなあ・・・と、
恐怖を自分で何倍にも拡大し、肉体と精神面から同時に苦しさを倍増させ、
自分で勝手に相乗効果をもたらせて、慄(おのの)いていた。


・・・

戦争を体験した方は、少々の困難があっても、あの時代の苦しみに比べるとたいしたことがない、と仰る。
その苦境を乗り越えてこられた、自信のようなものが、一回りも二回りも、器を成長させてこられたのだろう。

病気もそう。
わたしのように、病気らしい病気をしたことのない、健康体にとって、最も怖いものは、病気。
ちょっとぐらいは、スポット的に病気をしたことがあるが、深刻なものではなかった。
病気の予告編程度であって、怖さだけがインプットされ、克服に至る経験がないので、ただただ怖ろしい。

・・・

そもそもわたしは、辛抱強い、忍耐強い傾向にある。(女性の持つ特徴のひとつらしい)
なにがモノゴトがあっても、反応が遅いのだろう。
溜め込んで、ある日、爆発する、最も悪いパターンだ。

洗濯物干し場に、ある日、見かけた小さな芽も、葉が付き、抜かなければ、切らなければ、と思いつつ、
どんどん大きくなり、
今では、花切り鋏などでは切れない、ノコギリが必要なほど、成長してしまっている。
なにも今回に、はじまったことではないのだが。

ノコギリが、我が家の納戸で行方不明になっていることも、その原因のひとつである。
息子が中学校の授業で使っていた、大工道具一式。
非常に便利だと喜んでいたのだが、ありゃりゃ、どこ行ったの?
きっとどこかにあるのだろうけれど、山の中のすき間に隠れて出てこない。

で、「風が吹けば、桶屋が儲かる」の、逆で、「納戸がカオスになれば、クリーニング屋が儲かる」。
(わたしはクリーニングには出さないけれど)
洗濯物は、その、成長著しい木に干し場を奪われ、日々、どんどん干しにくくなっている。

・・・

今日のキー運びは、とても重い、遅い、「ちゃちゃちゃと軽快に」の、逆。
胃カメラの影響もあるのかも知れない。
のたのた。
せまっ苦しい場所でのカメラは、ちょっと進んでは、休み、ちょっと進んでは休み。
カメラアングルも、一方向のみ。

・・・

書きたいことはあるのだが、私的すぎて、気が引ける。
「こころの動き」だと、だらだら無意味に書けるのだが、客観的事実、みたいなことは書きにくい。
重い口・・・みたいな感じか。
「彼女は、重い口を開いた・・・」となるのか、ならないのか。

・・・

今日の記事は、「・・・」ばかりを多用している。
お箸でつまむと、すぐ切れる、安物の冷凍うどんみたいに、短く切れてばかりいる。
たいしてツッコミも入れずに、とうぜん、まとめもせずに、
次から次へと、ちょっとだけ書きかけては、ポイ、書きかけては、ポイ。
幼児が、お腹いっぱいなのに、フォークで目の前の食べ物をオモチャにしているかのごとく。

こういう時は、さっと終わっておくのがよさそうだ。



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牛よ!!働け!!がんばれ!!

2013-10-23 | 日々のこと
わたしは、理論派ではない。
へ理屈派である。
あーでもない、こーでもない、うだうだ、うだうだ。

わたしは、偶然、同世代のまわりには理系の女史ばかり。
しかも、すごくすごく切れて冴えて、理解力も記憶力も、すばらしい。
すぱっと切り込みも、するどいツッコミも、整理能力も、まとめも、決断も、目を見張るものがある。
で、わたしは・・・といえば、のれんに腕押し、二階から目薬、昼あんどん、
ぐにゃ~、だら~、まるでその逆。

そういうキリリの人々が集まって(あ、わたしも入っている)、
込み入った複雑な話や、物事を決めるとなると・・・

わたしは、完全にテンポがズレている。
えっと・・・と考えている間に、ものごとは、どんどん進んでいる。

彼女たちは勉強家なので、専門分野外であっても、懸命に勉強し、理解し、専門家のごとき知識を身につける。
そのスピードがまた速い。

わたしは。。。懸命に勉強しようとはするのだが、脳みそのガードが固くて、跳ね除けてしまう。
脳内に飼っている、耕作用の牛が、なかなか働いてくれない。
害のない、かわいい牛なのだが、ずうたいばかりデカくて、うごきがトロい。
どこを探しても、ばりばり働いてくれるクボタかヤンマーか知らないが、耕運機がない。
クワとスキに、かちんこちんの農地。
相棒は、草ばっかり食べている、牛。

脳みそのランクどころか、質が、違う。アタマそのものが、違う。


まあ、それで、うまい方向に物事が進めば、万事よし。
結果よければ全てよし。

しかし思うに・・・
IQやら学歴やら偏差値やらは、伊達に存在しないとつくづく思う次第であります。
アタマの良い人、頭脳の優れている人は、ほんとうに、平凡な頭脳などではなく、ずば抜けている。
いやはや、見ていて、カッコいい。

で、・・・わたしは・・・かっこわるい。



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タダでは、文句は言えないが

2013-10-22 | ブログ
さきほど、持ち時間のすべてを費やして記事を書いた。
が、ボツにした。

なぜか・・・
それは、特定の、身近な二人のリアル人を思い浮かべて書いたものだからだ。
気が引けたので、やめた。

わたしのブログをお読みになるのは、リアル人と、そうでない人が、混在している。
なので、やりにくい。
わたしにとっては、非常にデリケートな問題である。

gooのメールが有料になるまでに、この蝶ブログを撤退したい気持ち、重々。
すぱっと、やり直し、出直したい。
が、ずるずる行くかも・・・。
期限は、来年の3月だったか?
少し時間はある。
前も一度、そんな気になった。
が、ほったらかした。

そのうち、忘れてしまうかも知れないが、今度はちょっと本気っぽい。

やり直すには、今までの分を製本しようと思っている。
それが、めんどうだ。
で、腰が重い。

gooさん、厳しい状況はわかるが、有料はないんじゃないかと?
多くのブロガーさんたちが、それをキッカケとして離れていくのでは?

無料で使わせていただいて、文句は言えない身であるが。


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ある時~。ない時~。

2013-10-21 | 暮らし
二人の似たような年齢の人がいる。
Aさんと、Bさん。
推定年齢は73歳ぐらいかと想像する。
お二人とも、年金をもらっておられる世代。

二人の共通するところは、趣味が同じ。
そして、健康であるということ。
共通しないところは、金回り。自由にできるお金の額。

Aさんは、年金以外に、多額のキャッシュと、毎月定期的に入る、なんらかの不労収入。
さらに原資を元に利回り追求型の投資や、そのリターン、配当を享受。
Bさんは、年金一本やり。(想像です)

お金回りの違いは、細かい行動に現れる。
まず、移動。
Aさんは、どんなところへもタクシー。
Bさんは、自転車。
(二人とも、遠いところは、電車)

お次は、食事。
Aさんは、ホテルの豪華ランチやディナー、
ほんのちょっとした時間待ちも、ホテルのコーヒー(1200円ぐらいする)。
Bさんは、移動途中、電車のホームで、スーパーで買ってきた5個入りミニ・アンパンをパクパク。
お茶は、ペットボトルに水道水。非常食に、飴と、みかん。

そして、
習い事や健康維持にかける費用も、違いが、くっきり、はっきり。
Aさんは、社交ダンスの個人レッスンと団体レッスンを受けておられる。
個人レッスンは、先生を適材適所、習得度合いに合う先生に変え、週に1~2回、レッスンを受ける。
(個人レッスンの費用は、ばか高いが、これは、ダンス業界が衰退する悪の根源であると私は思っている)
都心ホテルのフィットネス会員でもあり、優雅に汗を流す。(高額)
Bさんは、1ヶ月定額(低額)で利用できる、地元ホールの常連さん。
基礎トレーニングをはじめ、自主練に励んでおられる。

さらに、
身につけるもの、いわゆる、身なり。
Aさんは、見るからに高そうな時計や貴金属を身にまとい、
いつも、誰が見てもわかる品質の良いものをさらっと着ておられる。付加価値いっぱい。
Bさんは、大き目のリュックを背負い、ウォーキングシューズ。
健脚。フットワークの軽さが現れる服装。
ただし、いつも同じ(に見える)服。機能性重視。


・・・お二方、1ヶ月に使う金額は、いったいどれぐらい違うのだろう?

おそらく、ない袖は振れないので、行動から金額を計算できてしまう。
別の、とある人は、100円以上の代金なら、喫茶店に入らないという徹底した信念をお持ちらしい。
(これも、ない袖は振れないので、わかりやすい)
マクドナルドは、かろうじて、OKらしい。ただし、1日1回限り。
1日の使う(使える)金額が、びしっと決まっていて、それ以上は、絶対に使わない(使えない)。
非常にわかりやすいので、皆が声をかけるときも、それを考慮するそうだ。

でも、和気藹々、仲良く、ぎくしゃくしないで、共通の趣味を楽しんでいる。

どんなにお金があろうが、使えようが、趣味の分野は、本人の実力次第。
おもしろいものである。

偶然だか、なんだかわからないが、
お金たっぷりのAさんのほうが、キャリアが短くて、発展途上。(「ヘタ」とも言う)
お金に制限のあるBさんのほうが、昔からやっておられて、とてもお上手。
絶妙のバランスだ。
逆だったら、ちょっと、回りも、にこやかに対応できないかも知れない。

・・・・・


で、ここで、お金とは、また別のハナシ。
よせばいいのに、むくむくと、湧き上がってきた。
まったく違う話題に突入。


とあるCさんと、Dさん。
還暦以後に行われた同窓会をきっかけに、再燃した、熟年の恋。
再燃といっても、昔、つきあっていたわけでもないとか。
お二人とも、同じ年なので、お互いの年齢のことを気にすることはないから、そのあたりは気楽。

女性は、ある年齢になると、
「これで自分は女である身は終わり」と感じる時期があるそうだ。
これは、ある、熟年のモテモテ男性が言っていた。
「つまり、崖っぷちの『狂い咲き』やね」と、そのモテモテ氏の、わかりやすい説明。
なるほど。
コトバは悪いが、納得した。

とくに、今までの人生、まじめに過ごして来られた方ほど、
これでいいのかしら、わたしの人生・・・みたいなことになる。
(なかには、そのスキを狙う悪い人もいるので、要注意)

若い頃に、遊んでいなかった、恋愛しなかった、その帳尻を、
まだ間に合う時期に、取り戻そうとしている場合もある。
ご自分が納得できるまで、そこそこ経験したら、それで、いいんじゃないだろうか。
わたしは、とてもクールである。

それぞれ配偶者がおられる場合、
ご本人たちが、盛り上がって、(お互いの家族に迷惑をかけないで)、充実できれば、それはそれでいい。
ある時期がくれば、あるいは、転勤や単身赴任の配偶者が帰ってくるなど、状況が許されなくなれば
「これで、お別れね」ということになる。
お互いの家庭に戻る、といっても、家庭を捨てていない重複、二重ライン愛なので、
戻るもなにも、ない。そもそも、巣から出て行っていない。
ご本人、当事者にすれば、とても純粋で、お目目キラキラであっても、
それは、お二人の間だけの問題である。
好きにすればいい。
人生の短い残り時間をどう使おうが、個人の自由。

諸々の事情が許さなくなり、キラキラ終了時期が来て閉幕となっても、よい思い出が残る。
「キレイに、さようなら」の予定が、あとが、ごちゃごちゃになることも世の中には普通にあるので、
「いいとこ取り」の予定であっても、リスクもあるから、幸運を祈るばかり。
潮時って、大事なので。
なにごとも、見切りが、おいしいコツかも。(耳年寄りの見聞から)
両者のタイミング、温度が、ぴったりだったら、幕引き温度も、おそらく、ぴったりだろう。


ああ、なんで、わたしは、こんなに冷めているのだろう。
責任を伴わない「お遊び」に対して、わたしは、非常に厳しい目で見てしまう。
「わたしたちは、純粋です。
制度上の結婚、カタチだけの結婚、愛のない結婚では、感じることのできない、愛を感じ、育てています」
と、どんなに俳優のように力説されても、「あ、そ」と思うだけである。
じゃあ、離婚して、再婚すれば?

隠れて愛を育てている限り、それって・・・???
「隠れて」配偶者を裏切っているわけだから。
ロミオとジュリエットのように、あまり、お目目に涙を浮かべて、訴えるのは、どうかと・・・。


ごめんなさい。
「純粋な?」愛を育てておられる方々の応援をしなくて。
なんの犠牲も払わず、責任も持たず、愛だの恋だの、そういうのって、・・・???
お二人の間だけで通じることなのでは?と思ってしまう、いたって客観的、かわいげのない、わたし。

ダイアナ妃とカミラさんを見ても然り。
ダイアナさんは、悲劇のヒロインとなって世界中の涙を誘ったけれど、
悪役みたいになってしまったカミラさんも可哀そう。
男が悪い。チャールズさんが、二人の女性を不幸にした。
(しかし、王家に生まれた宿命、気の毒かも)
その後、カミラさんは、堂々とダイアナ妃のあとに、妻の座に座ったけれど。
悲劇を生んだが、どんなに全世界から非難を浴びても、
公の場で、その非難を真正面から受けることを選んだチャールズさんとカミラさん、
お二人は、わたしは、それなりに評価できると思う。

愛を貫こうとすると、犠牲が伴うってこと。
愛だけ、なんて、世間や義務から逃避したところでの、そんなウマイ話、
うさんくさくて、甘っちょろくて、聞く気がしない。
愛は、日常生活の中で、変化していくものだと、わたしは思っている。
恋愛感情を大切にしたければ、何年かに一度、相手を取り替えるのが、一番の策。
動物学者が唱えていたが、動物は4年に一度、相手を代えるそうな。
これは、理に適っている。

あるいは、べたっと一緒に暮らさないこと。
単身赴任なんていうのは、もってこいかも知れないが、
赴任期間を終えて元の場所に帰る時が、大変、大騒ぎ。(悪い意味で)
単身赴任の間に、結果的に、お互い、毒抜き、ガス抜きすることになるとすると、それはそれでよい。
「あたなの居ない間に・・・あなた、ごめんなさい」みたいな気持ちも生まれ、
再スタートを底上げする効果もある。
あるいは、同居再スタート嫌さに、それを機会に離婚するという手もある。(勇気があれば)

・・・

夫婦は、これまで長く共に歩んできた道のり、思い出、
また、子供や、親族を共有する。
感謝や労わりの念も生まれる。

それはそれとして、キープ、温存しておいて、別の愛の対象を設けるなどというのは、けしからんが、
まあ、そういうことは、よくあること。

よくあることすぎて、世の矛盾、不条理を非常に感じるわけでして。
「どうにかして~~」と訴えたいところだが、
古今東西、芸術や映画、小説、その他もろもろ、
いろんな抑圧されたエネルギーが、素晴らしいものを生んでいたり、
数々の歴史を生んだり、変えたり、・・・
ああ、芸術愛好者としては、どっちの味方をすればいいの??


・・・と、あいかわらず、
右へ行ったり、左へ行ったり、上に上ったり、下に下がったり、
どっちつかずの宙ぶらりん、結論なしと相成りました。

要は、考えなしってことなんだろうか。


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わーわー会うだけ?

2013-10-20 | 日々のこと
同じ状況に置かれていても、ずいぶん、個人差がある。
と、いきなり、前置きなしの、突然の結論。

というのは、・・・

わたしの知る、ある女性。Aさんと、Bさん。
ふたりとも今年に生まれた乳児を持つ母親、そして、育児休暇中。
年齢も、ほぼ似たようなもの。
来年度から、育児休暇が終わる。
今だけ、限定・専業主婦。

AさんとBさんが、近々、会おうということになった。
今年夏、Aさんの家にBさんがお邪魔した。
で、今度は、Bさん宅にAさんが、訪問しようと、という計画。
2人ともフェイスブックで、お互いの動向を見て、スケジュールを決める参考にしているようだ。

わたしが、おもしろい、と感じるのは・・・
Aさんも、Bさんも、予定がぎっしり詰まっているということ、
しかも、その予定の内容、性質が、微妙に違う、ということ。

子連れママの動ける行動範囲には制限がある。
来年、職場に復帰する前であるし、どうしても、子供を軸に動くことになる。
共通点は、保育所選び。

これはまあ、わかる。

子供を軸にした動きが、共通する部分もあるが、
2人の方向性のようなものが見え隠れする。


Aさんは、ママ友との活動。
Bさんは、子供の教育方針の活動。
これに、ぱかっと分かれる。

同じようにママ友たちとも時間を共有している2人だが、
ママ友たちの関心も、おそらく、子供のことであるだろうが、主の部分はおおまかに同じでも
細分化された方向性が違うのだろう。
食べ物や発育度合いなどは、共通した話題だろう。(想像です)
保育所関連は、貴重な情報交換だろう。
あとの、プラスアルファとして、関心の軸となるものが違うように思う。(想像です)


お付き合いそのものを主とするのか、
お付き合いは、目的の延長(時には「手段」になることもあるかも)と捉えるのか、そこが違う。
たくさんの人たちと、わいわい交流すること、交流そのものを好む人と、
目的を定めて、それを軸に(場合によっては)人と交流する・・・という人、いろいろだ。
鶏が先か、卵が先か。

一方は、誰でも彼でも皆友達、一緒にわいわいやりましょう、という「子育て」という大まかなくくり、
もう一方は、さらに目的意識を絞り込んで付加した、
思考傾向が同じ方向の「子育て プラス 同志の集まり」というかんじだ。
こっちの場合、わいわい皆で集まることもあるが、個々に行動するパターンもある。

わいわいばかりしていると、スケジュールを合わせたりするのが大変だし、
持ち時間を使い切ってしまい、時間が足りない。

どっちにするかは、個人の好み。
考えなしで行き当たりばったりでも、素晴らしい出会いもあったりするだろう。
逆に、着実な積み重ねのない、時間の無駄遣いに終わることもあるだろう。
はたまた、考え抜いても、苦労しただけ損と感じる、たいした結果にならないこともあるだろう。


またまた、
ただただ、わーわー会うだけではなく、
その場限りの享楽的なお楽しみにとどまらず、

大勢の人と会って、適材適所、人材を多方面から集め、コーディネイトする人もいる。
ヒト・コトをひきあわせ、化学変化を起こし、ものごとをプロデュースする人もいる。
自然な流れを生み出し、商品化されたり、いろんな社会現象を引き起こすこともある。
偶然が、必然を呼び起こすこともある。

・・・

で、子育てとはまた違う話だが、
私の場合は、「目的が群れることで、たんに群れるだけ」、という行動はしない。
群れなくても、1対1であっても、時間が制限される限り、「会って、わーわーだけ」は淘汰される。
時には、わーわーも必要だが、チョイスする。

ま、どっちでもいいのだが。
それぞれ、好き好き、それぞれの道。
好きなほうを選んで、好きな行動をすればいい。
自分と他の人は、違うなあ、と、違いがわかるだけでも、自分を再認識、再確認できる。
同じでなくても、意味がある。


ただ、
お互いがお互いの違いを、認め合えたらいいと思うのだが、
グループ(群れ)化して対抗するのは、いかがなるものか。
グループでなく、個人でも、だ。
自分の考えが正しくて、人の考えを認めないタイプがいるので、それが困りもの。
なぜ自分が正しいと思うのか、よくわからない。
そういう人は、人を認めざるを得ない場合は、「負けた」と感じるようで、悔しい、屈辱感が付きまとうようだ。
こういうのを「勝気な性質」というのだろう。
どうしても、受け入れられないなら、「平行線」という考えもできると思うのだが。
五分五分、引き分けパターン。

が、「勝気な性質」は、あるほうが良い場面も多々ある。
なければならない場合も、多々ある。
わたしには、それがないので、なにごとも大成しない。
一長一短である。

しかしながら、
勝ち負けをハッキリつけて、いいことがあるのだろうか?
勝ったほうは、優越感にみちみちあふれ、負けたほうは、敗北感に苛まれる。
だが、「よおし、こんどこそ」、と、やる気にもつながるから、
勝ち負けがすべてのフィールドの場合、良い面もある。

「どおぞ、お先に」と席を譲っていたら、どんどんどんどん後から後から人が来て、
一向に自分は、進めない。永久に進めない。
それって、ひょっとして、たんなる馬鹿かも知れない。
慈善家で、家を潰した、破産した、なんてことになりかねない。
おぼっちゃま、おじょうちゃまの、成れの果て。笑うに笑えない。

日本人は、チャリティ精神が根付いていないのかも知れない。
わたしだけが、セコイのかも?
(このハナシの流れ、あきらかに脱線)

「負けて勝つ」、なんて、ややこしいことを言う人もいる。
負け惜しみか、人生達観か、仙人か。


・・・と、最初の話から、どんどん離れていって、もはや、引き戻ることさえ出来ない。
さてさて、どうすりゃいいの?

ええい、面倒なので、ここでアップしてしまいます。



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ブログネタを欲しているのではない

2013-10-18 | 日々のこと
わたしは、毎日、ブログネタに困っているわけではない。
自分が書きたいことを書いているだけだから。
(ネタがなくても、書きたいという、わけのわからない中毒にかかっている)
もし、その、わけのわからんものをお読みになって、面白いと感じる方が、仮におられるとしたら、
これは、エコである。(エゴではありません、念のため)
風力発電みたいなものか?
いや、ちょっとちがうが。

パリも、なにも書くネタを探しにいったわけではない。
せっかくパリくんだりまで行って、ブログに時間を割くのは、あほらしいので、
内容としては、けっこう適当に、いいかげんにアップしている。
(手間をとられるのは、日ごろ使わないiPadによる入力作業だったりする)
もし、息も絶え絶え、頑張っている感を感じる方がおられるとすると、
わたしの無作為の策略にはまっていることになる。

騙されてはいけません。
わたしは、とても涼しい顔をして、パチパチとキー入力している。
「く、苦しい・・・今にも死にそうなほど、苦しい・・・
わ~、飛び上がらんばかり、天井にアタマをガンガン何度もぶつけそうなほどウレシイ・・・」
と、入力していても、実際は涼しい顔をして、時計とにらめっこしながら、やっている。

・・・・・

そして、ブログ村のポイントと、閲覧数は、まったく連動していない。
かつては、どうなっているのか関係性の解明に躍起だったが、
無関係だということがわかった今では、なにも気にすることはない。
どこのどなたが、お読みになろうが、わたしは、自分で風力発電をしていて、
いっしょに、ついでに横で涼む方がおられても、べつにけっこうなことなのだ。

自転車のペダルを漕いで、そのエネルギーで、ライトを照らす。
ただ、それだけ。
自分の前が、暗闇でなければいい。

・・・・・

捉え方は、感じ方は、ひとそれぞれだろう。
それが、あたりまえ。
ただし、人間の本質に迫るようなことは、共通、共有していると思う。
モラルに反すること、反社会的なことは、許されない。
そのモラル自体も、社会によっては違う。

常識となると、もっともっと様々で、違う。
自分を常識の芯、軸と捉えると、他人は、常識はずれということになる。

そこで、協調性というものが大事になってくる。
調整しあう。
個々に違う人々が同じ地球に暮らすには、そういう意識がないとやっていけない。
と、キレイごとばかりを綴っても虚しいだけかも知れないが、
意識しているのと、していないのとでは違う。
目的意識を持てば、人は変われるものだと信じたい。
(もともと、わたしは、小さい頃から協調性がない)

・・・・・

で、ハナシをパリの戻す。
(わ、ここでブログの前から人が、散っている・・・。まあ、いい)

パリにネタを仕入れにいったのでは、決してない。
どこが良かった、あれが美味しかった、どこどこの、なになには、素晴らしかった。
確かに、そういう経験をした。
が、一度目と二度目では違う。二度目と三度目では違う。
深さ、角度、ものの見方を変える。
定点観測をモットーとするわたしは、そういう面白さを味わうのが好きなのだ。
「理解できないものは、あくまでも理解できない」という結論に達することも、立派な結論だと思っている。


今まで、他国のいろんなところにも行ったが、所詮、観光客。
パリだって、何週間いようが、何ヶ月いようが、属性は、「ツーリスト」だ。
ツーリストは、所詮、ツーリスト。
だが、偶然、はっとする場面に出会うこともある。
それは、なにも紫グラデーションの夜明けだとか、見事な雲の動きだとか、そんなことだけでなないもの、
自然美だけではないもの、
人の歩んできた道のりみたいなものや、民族性の違いみたいなもの、
風土、気候、地形、歴史、いろんな要素が絡み合っている。

日本でも、東京VS大阪 で、どっちが、どう?と、テレビなどでも、なんやらかんやらやっているが、
ピンポイントで、それはそれで、面白いといえば、面白い。

・・・・・

おそらく、わたしのハナシの流れは、今、面白くなくなってきている。
なので、やめることにする。

・・・・・

いろんな感じ方、行動の仕方、暮らし方、自分は、どんなものが好みか、
人を見て、違いや共通点を発見すれば、新たな自分を再発見できる。
あるいは、まったく変わらない、石のごとき自分を再確認できる。
それで、いいんじゃないですか?

わたしは、人さまに、別に同調してほしいわけでも、影響を与えたいわけでもなく、
自分の道を行くのみ。

でも、けっこう柔軟性があるようで(ぐにゃぐにゃでもある)、影響はすごく受けやすい。感銘しやすい。
自分に取り入れようとする。
そんなふうになれたら楽しいから。
マネしい。(「マネをする人」の意味=関西弁です)
とりあえず、いいと思うもの、素敵と感じるものを真似して、自分流にアレンジしたい。

どんな、ヘンテコな人も、必ず良いところや、面白い部分があり、それが奥のほうに眠っていて、
偶然、発掘されると、とても興味深い。

その逆もある。
素晴らしい完璧な人の欠点を見つけると、ご愛嬌で、親近感がわくこともある。
だが、良い人と思っていた人が、じつは心底、良くない人だとわかると、親近感どころか、
距離が一気に、がーーーっと開く。

どの部分に自分は興味のセンサーが動くか、だ。
わたしは、ヘンな人は、OKだが、マイナス思考の人は、NGだ。

類は友を呼ぶようで、わたしの周りには、マイナス思考の人は、いない。(とたぶん、思う)
(いたとしても、無理して隠しているんだろう、きっと。
それって、疲れるし面白くないから、いつの間にか消えていくだろう)

現状はどうみても、マイナスであっても、思考までマイナスになってはどうしようもない。

・・・などなど・・・長々、いつまでたっても、終わりそうもないので、
と、毎度毎度、同じことをハンで押したように言っているが、

ここらあたりで、終了いたします。



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