蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

タコ

2014-02-28 | 日々のこと
朝、コーヒーと、昨夜炊いたタコご飯を食べた。
ドイツパンをトーストしたものを食べた後に、である。
わたしは、決してグルメではない。はっきり。くっきり。自覚症状。
タコご飯を食べ、コーヒーを一口飲み、またタコご飯を食べ、さらにコーヒーを二口飲みながら思った。

絶対に合っていない、この取り合わせ。
でも、自分は、けっこう、平気で食べている。

これは、テイストでのカテゴリー分けをするから合っていないのだ。
和食とコーヒー。
せめて、和食と日本茶。
あるいは、和食を食べたあと、食後のコーヒー。
タコご飯と交互は、よろしくない。

が、思った。
考え方、切り口を変えると、これはおかしくない。
キッチンの流し台前に立ち、目の前にあるものでカテゴリー分けをする。
目の前にあるものは、昨夜のタコご飯と、コーヒー。
トーストとコーヒーで、いちおう、スタンダードな朝食は終えた。
で、まだ満腹中枢はOKのサインを出していない。
さらにトーストを食べるのも、パンは空腹をさほど満たさない割にはカロリーが高い・・・ので、やめた。
パリで貧しい食生活(近所で買ったパンばっかり)をして帰ってきた割には、ぶくぶく太っていたことで、実証済み。
で、タコご飯、となったわけだ。
なので、アタマの中では、決して正しくないことはない。
ただ、テイスト的に、センスよくない、カッコ悪い、趣味悪いだけだ。

が、意外に、タコご飯とコーヒーは、それほど目をむくほど、合わないわけではなかった。
しかしそれは、空腹と、喉の渇きを満たすことを第一条件にしていただろう。
そして、食に対するこだわりがほとんどない、ということだろう。
日常の食生活には、栄養バランス、量、品質(農薬たっぷりではないもの)、価格、そういうもののほうを、
味よりも優先させてしまうからだろう。
なによりも、めんどくさい。
なので、自分だけのために、自分で凝って用意したり、作るなどということは、めったやたらとしない。
そうすると、タコご飯とコーヒーということになる。

・・・

つまらないことを書いた。
お読みになられた方へ。・・・すみません・・・、の気持ち。

・・・

タコご飯とコーヒーを交互に食べて飲んでいる自分に、どうしても、援護、弁護、
あるいは、理屈付けが欲しかったもので。
こんなところにも、わたしの理想と現実がある。

合わないと思われるタコご飯とコーヒーを、合わないなあ、と思いながら、でも、食べ続ける自分。
理想や正しい形を知りながら、現実を乗り越える努力をせず、現実を直視し、そのなかで自分を満足させようとする。
自分を肯定するためには、どうでもいい、だらだら屁理屈が多い。
結果的には、お腹は落ち着いて、よかったね、ということだ。
もう少ししたら、コーヒーと、昨日、義母にもらったチョコレートケーキを食べよう。

・・・

娘と孫とで昨日、義母の家に、行った。
(と、ここから書き始めるべきだった・・・)

義母は、行くと必ず、いろんな食材、野菜、惣菜、お菓子、果物、さらに娘にはお小遣いをくれる。
最近は、ケーキも、追加されている。
これは、ケーキ屋さんに勤めている義母の家のご近所の人が、売れ残ったケーキを持ってきてくれるらしい。
なので、義母の家に行くと、いつも同じようなケーキがある。
(そのうち、そのケーキ屋さんはつぶれるのではないかと懸念している)
「ちょうどよかったわ~」と、ケーキを渡す相手が現れたと喜ばれた。
で、そのケーキやら、なんやらかんやらを娘一家の分とシェアする。

「義母→わたし→娘」という直列の順序というわけでなく
「義母→娘/
義母→わたし」と最近は並列になっている。
娘も最近、世帯を持ったので、モノをいただいたら、別々に分ける。
義母にとって、わたし(義母には長男一家)が、娘(義母には孫)と並列というところが、
(自分はいまだに娘と並列に義母から、もらっているところが)情けない風情を醸し出して、面白い。
(しかも、娘のほうがいいモノをたくさんもらっていたりするのを横目で見ると、ひがむ傾向あり)


そもそも、夫から義母には、毎月、そこそこの額の経済援助がなされている。
その費用で、義母は家や家事周辺、身の回り、その他、雑用などのサポートを補っている。
義母が、自立した生活を送るための、経済、人、モノの循環システムが構築されている。
サポートを外注しているので、これをしてちょうだい、あれをしてちょうだい、と
義母が選んだお気に入りの外注の人に、義母が頼む。
外注さんは、家族ではないので、個人的な好みや主義主張などは介在しないため、指示通りに動いてくれる。
ビジネスで成り立っている限り、イザコザはさほど起こらない。

これが、家族だと、それは必要ないとか、値段が高い、とか、こっちがいい、とか、生活全般の見直しや、
好みに口出ししたり、自分ならしたくない、という感想を抱いたりする。
それを無理やり調和を図って、行うのが家族なのだが。
ひとつの同じ空間に四六時中いっしょにいると、見たくないことも見えるし、まして、財布まで同じなら、ストレスも大きい。
が、世の中の人たちは、それを頑張って協力し合ってやっている。
すごいことだと、アタマが下がる。


ぎりぎりまで、できるところまで、自立した生活を送ることは理想だ。
なかなか、現実は厳しいが。
できなくなる日を少しでも延ばし、自立の日々を享受してもらいたいものだ。



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スローーー

2014-02-27 | 日々のこと
電車の中で、座席でノートパソコンを広げている人を見かける。
駅から駅へと私鉄から地下鉄に移動、乗り換え途中の通路で、ノートパソコンを広げている人もいる。
ノートパソコンを窓側に置き、しゃがみこんで、画面を見ている、サラリーマン風の人。ごくろうさん。

わたしの、ちっちゃいタブレット、あんなかんじのを操作している人は、今のところ、見かけなかった。
見かけるのは、スマホか、ノートパソコン。
ちっちゃいタブレットは、電車で立って操作しにくい。
スマホも両手が必要だろうけれど、ちっちゃいタブレットを片手で持つには、ちょっと長時間は疲れる。

見かけは二つ折れ、スマホじゃないガラパゴス・ケータイで、カッコ悪いが、調べモノや、他のブログを読んだり
自分のブログを書いたり訂正したり、
そういうことは、スマートじゃない見かけほど不自由なくできる。

タブレットは、旅用に取っておくことにしよう。

・・・

ちなみに、

高齢の母にブログの概念、仕組み、一般的説明をした。
端末に配られ、届く、と思っているようだ。
新聞みたいに配られるのではなく、自分で取りに行くんだと説明したが、あまりわかっていなさそう。
メルマガや広告みたいに、メールで届くものもあるようだが、ブログのイメージとしては、ちょっと違う。

行きたい場所を調べるための、グーグルなどの説明も、以前、移動中の車の中でした。
「電話番号は検索したらわかるよ」、と、実際に操作し、そのまま、調べた電話番号に電話をかけた。
母は、電話交換手みたいな人が、「ちょっとお待ちください」と、
リアルタイムに直に電話の向こうで番号を探してくれている、と思っているようだった。
「パソコンを通して自分でこっちから探し出したのよ」と、どうせ理解してもらえないだろうと思いつつ、虚しく説明。
絶対にわかっていない。

べつに、わかってなくてもいいし、概念をわかりなさい、というほうが、無理。

が、母は、経済の動きや、世の中の出来事は、テレビのニュースや解説で、興味深く見聞きしている。
それには、やはり感心する。

姉たちは、母が年相応にボケていると言う。少し反応が遅いだけだとわたしは思う。
わたしは、反応の鈍さなら負けていない。
その母のボケぶりをほんの少し、かわいくしたボケぶり、ミニ版である。
なので、あの程度のボケをボケているというのには、非常に抵抗がある。
あくまでも、年齢に応じた、自然な老化現象である。
ということは、わたしは、年齢より先取りか?
まあいい。

姉たちが賢すぎるのだ。
シャープで、頭脳切れ味キレキレの義姉と、
努力家、情報収集、行動力、実践力あり、で、アイデアひらめきもばっちりの姉。
その姉たちと、とろ~んとしたわたしと、母。
ちょうど、不思議なバランスになっている。
三角形。
クイック、スロー、スローー、クイック、スロー、スローー・・・というリズム。
わたしは、姉側に寄ったり、母側に寄ったり。
最近は、ほとんど母側か。
クイック、スローーーー、スローーーー、クイック、スローーーー、スローーーー。


姉たちに、「領収書はどこ? 明細は? 内容は? いつ? どこで? いついつに郵送された書類は? 一連の関連書類は?・・・」
などと、まるで国会の証人喚問のように問いただされる母を見て、
ああ、気の毒~、
・・・わたしなら、次から次へと降りかかる事務処理を忘れて、小さくなって泣きそうになっているだろう。
あるいは、ほったらかして逃走しているかも知れない。
でも、母は、わたしとは性格がまるで違うので(楽天家なところは同じだが)
怖いものなし。
誰も太刀打ちできない、最強の武器である「開き直り」「逆切れ」は、常套手段。

姉があれこれフォローすることになるのだが。
ごくろうさま。
ただし、口では腰が痛いだの、弱弱しいことも言ってみせる母だが、まだまだ現役の気骨満々なので、
なかなか折れない。
姉が母をあれこれ説得するのにも、言葉を丁寧に選んでいる様子。
母は、以前に比べると、かなり老化現象が見られる。
身体も頭脳も寄る年波には勝てず、反応が鈍くなり弱ってきて、やっと老人の仲間入りをしてきたように思う。

・・・

「50代がいちばん、なにもかもが充実した年齢だ」と、母が言う。
体力、気力、知力、経験、その他もろもろ。
なんだって、やれる時期だ、と。

わたしはそうすると、その黄金の50代をさほど生かしていないような、
ただただ、今後来る老後には、きっと出来ないだろうことを今しているだけのような、
そんな気がする。
全然、人の役にも、社会の役にも立っていない。(迷惑もかけていない・・・はず)
それはそれで、いいのか。
さらに老化した頃には、益々、人さまのお役になど、立てそうもないが。

母を見習って、開き直りのセオリーでいくことにしよう。


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社交

2014-02-26 | 日々のこと
とあるリアル人。
わたしと同じ年齢、同じ性別。
先日、彼女がブログを教えてくれ、初めて見た。
写真入の毎日の日記である。

わたしの、毒にもクスリにもならない、時として読んだ人の気分を害する、恥ずかしいブログとは、えらい違い。
彼女のブログは、いたって健全で、
安心して訪れることができるし、メールで近況をやりとりしなくても、十分日常の日々が、よくわかる。

わたしも、以前は、こんなことがあった、あんなことがあった、と、写真入の日記形式の時もあった。
でも、やめた。
その時に、別のブログに切り替えたらよかったのだろうが、そのまま来てしまっている。


わたしは、写真ナシの、自己完結型。
読みに来られるリアル人の方は、突然、被爆することもあるので、決して来訪をオススメしない。
リアルでわたしをご存知ない方は、どうぞ、ご自由に。
さして、害はないはず。(あったりする? 自己責任でお願いします)

そこで、彼女とわたしの大きな、じつにじつに大きな差を感じた。
それは、お友達の数である。ネットの上ではなく、リアルなお友達だ。
わたし・・・ほぼゼロ。限りなくゼロに近い。
わたしになにがあっても、家族と、ごくごく身近な近親者しか、わたしの動向がわからないだろう。
わたしが、この世からいなくなっても、それを知るのは、おそらく、ずいぶん後のことだろう。

彼女は、お友達が幅広く、人数も多い。
きめ細やかな心遣いをされる方なので、よくわかる。
わたしのように、お世話になっても、その後、ほったらかし、という、ルーズな人間とは正反対である。
わたしは、お願い事がある時や、したいことがある時だけ、にじり寄って、無事に過ぎると、あとは知らん顔。
そういうかんじか。
アフターフォロー、滅多になし。
日常のフォローも、滅多になし。

お誕生日や記念日、いろんな日に、心を込めたメッセージやプレゼントを贈ったり、そういうことも、ほとんしない。
しないにも、ほどがある。
(最近は、「おめでとうの一言も無い」と、ぶーすか言われて、
家族のお誕生日には、気を使ってお祝いメールを送るようになった・・・)

そんなこんなを年齢分、積み重ねていると・・・
あらら・・・えらいことに。
きめ細やかなお付き合いをしている人と、まったく無頓着な人と・・・この差、この違い。
ブログで、これを目の当たりに見た思い。
交際家と、非交際家。

ブログの特徴にも出ている。
わたしは、なんといっても、かわいげも、へったくれもない、こころの声ブログ。
書くブロガー(わたし)だけのために存在する。
いったい、どんな性悪人間、ダメ人間、サボり人間、最低人間かと思われることだろう。

何度か書いていると思うが、わたしは、無意識のうちに、脚色、演出、デフォルメをしてしまう傾向にある。
淡々と事実だけを書く日記ではない。
自虐的ティストを好むので、まるごと文体そのもの、文章そのものを、まるまる真に受けると、よろしくない。

たとえ、今日が、どおってことない単にお天気が「曇り」の日だったとしても、
「どんより、こころまで曇った、こころの目までも、かすんで見えない、そんな日だ」などと書きかねない。

「曇りの日だと、洗濯しようか、しないでおこうか悩む」などとは書かない。
(書くかも知れないが)


・・・

自慢したりするのは、大の苦手。
でも、自慢したい気持ちが、うずうずしているときは、
おそらく、行間に、ぎんぎんぎらぎら燃えて煮えて、出ていることだろう。
いや、そういうときは、客観的描写のみにしているかも知れない。
まあ、なんでもいい。どうでもいい。

・・・

ということで、自分の交際ベタを思い知り、反省した次第である。
そして、ますます、交際に自信がなくなり、消極的になり、落ち込んでいく。
欠点や弱点をカバー、克服し、伸ばすのは、かなり苦痛を伴う。
長所や強みを伸ばすほうが、ずっと意気揚々とし、のびのび力を発揮できる。(あたりまえか)
自分の交際ベタを克服するのは、すでにもう、努力するサジを投げかけている。
せめて、わたしのまわりのリアルな皆さんに迷惑をかけないよう、最低限度の注意、気は使わねば。

自分の欠点をありありと、日の光のもとにさらし出されたような気になった。
恥ずかしいような、自業自得のような。


病気にならないためには、ストレスをためないこと。
最近のわたしは、これを人生信条にしているので、悩んだ後の解決方法は、開き直ること。
まわりに迷惑をかけない限り、「いい人」「できた人」というプラスの評価もいらないので、
わたしは、わたしらしく、自分の道を行かせていただきます。



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変換

2014-02-25 | 日々のこと
ちっちゃいタブレットに入っていたアプリ。
とっても気に入っている。

翻訳ソフトなのだが、音声を入れる(ふつうに話す)と、選んだ言語に翻訳してくれ、
これまた、音声が聞こえる(話してくれる)。
こんにちわ→ボンジュール
文字と同時に音声を発する。

でも、相手の言うことが聞き取れないではないか?
の心配に対しては・・・
「ボンジュール」と相手が言うと→「こんにちわ」と
と、文字と音声で変換してくれる。

ちょっとした文章もいける。

これなら、音声変換つき電子辞書を持ち歩かなくても、あんなちっちゃいタブレットひとつで、
あれこれいける。
万が一、電池がなくなると生命線、ライフライン切断になるので、
とりあえず、携帯電話は予備に携帯しておく。
これは、旅の必需品かな~と、大喜び。


パリでも、タブレットを持ち歩いていた人がいた。
彼女は、1週間のパリ滞在中、
パリで自転車に乗っていて、携帯wifiの素(海外レンタル)を、ころんと落として失くしたらしい。
で、タブレットは、ただの辞書や本、メモ帳としてしか機能しなくなった。
わたしとのやりとりは、携帯電話か、wifi環境が整っている場所でのメール。
メールは、その日の午前中、宿を出るまで。その後は、メールが度々チェックできないので、行動変更しにくい。
ふたつを使い分けていた。
(わたしとの携帯電話は、通信経由地が遠くだろうから、
目の前で話していても、通話料がおそらく恐ろしく高いと思われる)
彼女は、日本で、情報を紙媒体(情報誌など)から切り取ってタブレットに保管していたので、
スクラップブックを読むかのごとく、wifiにつながらない時も、うまく利用していた。

しかし、海外での携帯電話代と、携帯wifiレンタル料がかかるが、
短いパリの休日を合理的、能動的に動き回るため、
リアル情報を積極的に利用したい彼女にとっては、必要経費なのだろう。


・・・

で、わたしのちっちゃいタブレット。
わあ、いいかんじ~、と喜んで、なんどもいろんな言葉を音声翻訳していたら、
10回目で、「ここからは有料です」という流れになった。
やっぱり・・・。
こんなに優秀なものが無料であるはずかない。
買おうかどうか、目下悩み中。
おそらく買うことになるだろう。コーヒー1杯ぐらいの値段。


機械はどんどん小さく便利になっていく。

異なった言語同士の会話もいずれ、できるようになると思っていたが、意外に早くそういう日が来たようだ。
といっても、まだ、スイスイではないが。
電池の問題もある。
なんたって、ずっとずっと翻訳機ばかりでは、やはり味気ない。
時間もかかるし、相手との距離感も大きい。
言語を真剣に勉強しなくなるし、いつまでたっても覚えられない。

必要は発明の母。
切羽詰ってこそ、人間は底力を発揮する。

まあ、万が一の時のための保険、お守りみたいなものと考えれば、こころ丈夫かも知れない。

そのつもりで、わたしがパリ滞在中、ずっと命綱として持ち歩いていた現地の携帯電話が、
じつは通話できない、なんの役にも立たないものだったとわかったのは、パリを出る帰国日当日の朝だった。

日本から持って入った携帯電話も、パリの固定電話には、つながらなかった。
アパルトマンの固定電話も、うまくいかなかった。
かけ方が、わかってない、ってことかも知れない。
海外保険に含まれている、万が一の時の緊急連絡先にも、
つながるのか、つながらないのか、それもいまだに、はっきりしていない。
携帯電話は日本にはつながるが、緊急のとき、相手が日本じゃあ、間に合わない。

なにを今さら・・・という話だ。



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うれしがり

2014-02-24 | 暮らし
新しい、ちっちゃいタブレットをもらった。
iPadよりずっとずっと入力しやすい。
でも、パソコンのキーボードの方が、ずっとずっとさらに入力しやすい。

しかし、コピペとか、まだやりかたがわからない。

うれしがりの見本、典型のように、電車内でアップしている。
はずかしいからそろそろ、やめよう。

仕分け

2014-02-23 | 暮らし
わたしの家庭は、皆さん方の家庭とは違っているのかも知れない。
あるいは、家族の中で、わたしだけが違っているのかも知れない。
わたしの周辺の家庭だけが、皆さんと違っているのかも知れない。


亡くなった家族の、多くの遺品を整理、処分した(ごく身近な)人の話を聞いていると、
「大量にあって疲れた、まいった、大変だった。
想像はしていたが、量の多さ、内容のガラクタぶりに驚いた」
という声は聞くが、故人を偲んで辛かった、という声が聞けなかった。
中には、すばらしい高価な宝物を見つけ出した人もいた。

母は、祖母が亡くなったとき、一気にすごいパワーで
蔵の整理やら、祖母の遺品の整理をしていたように記憶する。
なにも、こんな時期にしなくても・・・と思ったが、ノリ、勢いというものがあるのだろう。
休憩も入れず、凝縮した作業で、ががががーーっと、根を詰めてやっていた。
その体力、バイタリティたるや、すごい。ブルトーザーのごとく働く。

何百キロ~トン級の遺品を処分したという話も、二人聞いた。家ごと逆さに振ったのか?
彼女たちには、辛さは、精神的というより、肉体的に大変そうだった。
何トンとなると、ひとつひとつ、感傷に浸っているヒマも余裕もない。
「不要」「必要」「重要」「保留」に分ける、その仕分けには、体力ではなく、判断力がいる。
大量にあると、最初の頃の仕分け判定と、最後のあたりの判定とでは、多少の誤差が生じる。
ぱぱぱぱぱぱっとしていかないと、のろのろしていたら日が暮れて、何ヶ月も何年も、何十年もかかる。

「保留」「重要」に分けられたものを横目で廃品回収屋が狙う。
「これ、もらっていきますね」「だめです」
逆に、いいタイミングに業者がスタンバイしている、この機会に、とばかりに押し付けようとする。
「これ、持って帰ってください」「だめです、いりません」
お互いの価値観が微妙にズレる。
お金になるかどうか、売れるかどうか、だ。

引き取ってもらうのに、お金がかかる。
中には、引き取ってもらうと、お金をもらえるものもある。
この差が、おもしろい。

・・・

ひとつの世代が終わるというのは、こういうことだ。
自分で自分の世代を終わらせる、賢い、立つ鳥、あとをにごさず、が、断捨離だろう。
ほったらかして他界し、家族に押し付けた場合、いまいましく、疲れる作業だとげんなりされても、
わたしの周辺では、ひとつひとつに感情移入するヒマは、ないケースが多い。
わたし自身のケースだと、家族は、それはそれはスッキリした気分になると思う。
泣くとすると、すっきりして、泣いて喜ぶ、って涙だろう。

・・・

ガラクタ集めと、コレクターとの違いは?

義父は、コレクターだった。
切手収集も好きで、あれこれ買い集めていた。
「これは、孫にやるんや」と切手帳を見せてくれたときの、喜びの笑顔を思い出す。
切手は、小さく薄いので、いくら大量に集めたところで、あまりかさばらないのが良い。
文学作家の執筆した本は、娘たちが読んだりして、義父亡き後も有効利用した。

価値あるものも、そうでないものも、どっちもある。
初任給以来、ずっと取ってある給料明細書、こういうのもあるらしい。
義母が捨てたかどうかは、知らないが。
夫(=息子)の学生時代からの成績表、こういうのも取ってあるようだ。
「見る?」と義母に聞かれて、「けっこうです」と遠慮したが。
そんなもんは、興味ない。
それも捨てたかどうか、知らないが。
こんなものも?と思うようなものも取ってあるのだが、
じつにきちんと整理整頓されて、ぴしっと、きっちり几帳面に、四角四面状態で収められている。

・・・

本屋で、「断捨離が出来ない人の3つのタイプ」というところを、立ち読みした。
(1)現実逃避型・・・毎日の生活が忙しくて、整理したりマメにできなくて、ほったらかし。
(2)過去愛着型・・・自分の過去の想い出のモノを捨てられない。
(3)将来備蓄型・・・用意しておけば助かるだろう、使うだろうと、せっせと蓄える。

使えるものと、使うものは違う、そうだ。
確かに・・・確かに・・・その通り。
それで言えば、わたしは、使っているものは、じつに少ない。
しかも、使いやすいもの、好きなもの、というよりは、
手の届くところにあるからという理由で、少々難ありのものでも、渋々使っていることもある。
もっともっと使いやすい、いい製品も持っているくせに。

この1年で使ったものと、使わなかったものに分ける。3年、5年、10年、と年数を分ける。
すると、本当に必要なものと、そうでないものが明確に分かれる。


ただ、ここで、わたしは開き直る。
溜めていて、誰かに迷惑かけてます?
虫がわくとか、異臭がする、家の通路がいっぱいで通れない、部屋がふさがって生活を圧迫する・・・
そんな迷惑は、かけていない。
後に捨てる人が大変かも、というだけだ。
全部捨てたらいいので、仕分けしなくてもいい。
(ただし、預金通帳や貴金属類など、本来セーフティボックスに入れるべきものと、芸術品は捨てないように)

その気になったら、特定の収納箇所に、重要品だけをピックアップして、まとめて入れておく予定。
あとは、すべて捨ててもらったらいい。
この、必要か必要でないかを見分ける、アタマを使う仕分けが面倒でイラつくわけで(時には感傷的になったり)、
全部捨てるとなれば、けっこう体力仕事だけだから負担が少ないと思う。

一度も使っていない嫁入り布団やら、嫁入り道具なんかもまだ夫の実家に置いたまんま。
あれを捨てないでいることで困っている人もいないようだし、今のところは、そう切羽詰っていないような気がしている。
なんていう、この環境が、わたしを断捨離できない人間に育てていってしまっているようだ。

せめて、現在の自分のガラクタだけでも処分しようと、
神妙な面持ちで反省もしつつ、思っておる次第でありまする。



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娘のひと言。

「たんに片付けるのが面倒なだけやろ。
せめて、泣き偲んでもらえる程度の分量までに断捨離したら?」

ははっ。こもっともで・・・。


有言不実行

2014-02-21 | 暮らし
モノを捨てられない人。
それは、わたしです。

人が要らないモノまで、もらってくる人。
それは、わたしです。

一例を挙げると、全容が想像できると思うが、
例えば・・・
義姉(夫の姉)が、要らないモノ、捨てられないものを夫の実家に送りつける。
それをノコノコもらってくる。

そのまた一例。
高校生の子どもがいる、とっくに、おっさんになっている甥の、高校生の頃の服。
とっくにいい年になって、小学生の子どものいる姪の、子どもの頃、式典に着用したフォーマルな服。
なにする? なにに使う? なに考えてる?

そのまた一例。
義姉の亡くなったお姑さんのハンカチ(新古品)とか、そういうモノ。
自分でもありえない、と思いつつ、「はい、いただきます」と義母からもらってしまう。

他に、義母が購入したものの身体に合わないとか、なんらかの理由で新古品になったもの、あるいは、しっかりお古。
義姉の新古品もある。
自分の新古品も、山ほどある。

どうするの? こんなガラクタばかり。

人が要らないんだから、おそらく、わたしも要らないはず。
でも、もらってくる。これは明らかに病気。

自分の若い頃からの歴代の服も、ズラリ。
それが積もり積もって、前に、家を建て替えるとき、家ごと捨てた。
子ども用品も多分。
その時、高価なものだけを避難させたが、それはまだしぶとく残っている。


捨てたらすごく、すっきりするモノばかり。
一度捨て始めたら、病み付きになって、どさっ、どさっとゴミ袋に詰め込んで、気持ちいいことだろう。
服は、「リサイクルショップに売ってきてあげるよ」と、見るに見かねた娘からの声あり。

あれもこれも捨てたら、さぞかし気分がスッキリ、爽快だろう。
これを私亡き後に、家族にやってもらうとしたら、気の毒だ。
と言っても、すべて捨ててもらえばいいので、案外ラクかも。

ただし、貴重品のありかを伝えておかなければいけない。
その頃には、貴重品も使い果たしているのかも知れない。
残るはゴミばかり。

・・・

今から少しずつ着手したい。
まずは、今日、要らない靴から捨てたら、気持ちよかった。(ただし、娘が断捨離に選んだ、娘の靴)
ライフスタイルを変えねば。
アタマの中身を変えねば。
人間、人物そのものを変えねば。変革、改革の必要性あり。

わたしは、どこへ行ってしまうのだろう。
モノといっしょに、わたしまで消え去ってしまいそうだ。
それでちょうどいいぐらいかも知れない。

せっかくスッキリしても、またその日から、せっせせっせと溜め込むのかも知れない。
やはり、人間改造が第一だろう。
脳ミソごと、すっぽり入れ替え、名前は同じだが、別の人物に変身しなければならない。

・・・

母たちは、先代が亡くなると、まず、蔵の整理をした。
残すものと残さないものを仕分けする。
義父は、先代が亡くなる前から、時間を作っては整理をしていた。
留袖などの着物の場合は、そのまま継承する場合もあるが、ほどいて洗いに出して、反物にすることもある。
その反物で、また着物を仕立てることもある。
が、母の代からは、そんなことはしなくなったと思う。

母の着物も、わたしたち娘にではなく、母の姪たちに先日、譲ったそうだ。
彼女たちが、気軽にお茶のお稽古に着ていきたいからだとか。実家に寄ってきたらしい。
持って帰りたいだけ、持って帰らせたと、母は言っていた。
ちなみに、母は、フォーマルな着物を着ると、なぜか貫禄がある。誰しもだろうけれど。


義姉(夫の姉)の晴れ着を娘たちが着ることもある。
娘たちが、わたしの晴れ着と趣味が合わなかったりすると、いろんな人の、いろんな着物があるので、選び放題。
ただし、わたしは、娘たちには着物は買っていない。
あんなにたくさん着物があるのに、買う必要はないと思っている。

着物の柄を見ると、お母さんの時代の着物を娘さんが着ていると、一目見てわかる。
なぜなら、わたしが娘だった時代の柄だから。
それはそれでいいと感じる。
今風の柄の着物が着たい、と思う場合は、レンタルにする。
もう着物は、これ以上要らない。

・・・

わたしが、ひとつ狙っているモノがある。
それは、祖父のスーツケース。
明治時代の、ワイン色のようなブラウンのような色の、革製のずしりと重いもの。
まったく同じものが、実家に二つある。
パリのクリニャンクールの蚤の市で、ほとんど買いそうになった、お気に入りのスーツケースがあった。
1900年頃の製品らしかったので、祖父の品と時代的には似たようなものか。
あちこち、ヨーロッパを旅行したであろう、その蚤の市のスーツケースは、いろんな時代の空気を吸っている。
が、運搬費がえらく高いようだったので、断念した。


祖父のスーツケースには、鍵がかかっていて、壊れていた。
なので、開かないが、中には、母の学校時代の書類が入っているとか。
あのスーツケースを修理して、うちに持ち帰ったところで、あんな重いスーツケースは今時、使い物にならない。
だから、たんなる不用品、という扱いになる。
これ以上、不用品を増やすのはいいが、そのためには、その何十倍もの不用品を捨てることを条件になら、許されるのではないか。
そう、わたしは、甘い基準を自分に設けた。(これを書いていて、思いついた)

ぜひ残したいものがあれば、その何倍か、何十倍かの不用品を捨てることと引き換えに、取り置くということにしよう。
そう決意するだけで、ちょっとは、マシになるか?

とりあえずは、甥の服から捨てよう。
スキーウエアとかも、ぜんぜん要らない。
そう考えるだけで、もう半分ぐらい不用品を処分したような気になった。
こころ、軽々。
おつむ、軽々。

でも、まだ、アタマの中でシュミレーションしているだけだ。
実際に着手するのは、おそらく具体的に、引越しだとか、リフォームだとか、住まいの形態が変わる時だろう。
それは、老人ホームに入る時か、退院予定のない入院時かも知れない。
決して戻ることがない、片道切符の移動だ。

その時は、体力、気力不足で、きっと出来ない。
で、家族に迷惑をかける・・・今日のブログの最初あたりに書いた・・・ああ、またまた、この繰り返し。
お経が二順目になってきた。レコードが同じところをぐるぐる回り、針がおかしくなっている。
(レコードって、若い人は、リアルタイムで知っている人はいないだろう)

・・・

と、書くだけ書いて、半分、すっきり。
いずれ、いずれ、いずれは断捨離する・・・、つもり・・・。


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才能

2014-02-20 | 日々のこと
オリンピックの話題、ぜんぜん、書いていない。
ひとことぐらい、感想を書いてもいいものだけど。

いま、わたしは、どうやら死んだような脳波になっている。
波は上がりも下がりもせず、静かで平坦。
今日は何日?も、カレンダーで確かめなくてはわからない。
これ、ジョークの世界から抜け出ている。
ブラック・ユーモアも、抜けて、たんに認知症、直前予備軍。
とはいうものの、じつのところ、若い時から、こんなかんじ。
よくまあ、今日まで生きながらえたものだ。

・・・

山崎豊子さんの絶筆の資料、筋書きが見つかったとか。
戦争は絶対に回避せねば、との強い思いが込められているそうだ。
戦争に青春時代を塗りつぶされた山崎氏は、もっと勉強したかった、と、顔を歪めて訴えておられた。

わたしの母や義母と同じ世代である。ちょっとだけ山崎氏のほうがお姉さんか。
昨年、88歳で亡くなっている。

旧制京都女子専門学校(現在の京都女子大学)国文学科卒。
毎日新聞勤務の後、文筆活動。
国文科って、こういうことを言うのか。
新聞社って、こういうことをするのか。
ふむふむ納得。
船場の生まれ、ということで、あれ、お嬢さんなのかな?と思いきや、
老舗昆布の「小倉屋山本」の娘さんだったんだとは、知らなかった。
なるほど。

社会派で取材が念入りびっしり、取材資料を使うので、盗作疑惑も幾度かあったようだ。
が、いやはや・・・すごい人、
才能、根気、忍耐力、集中力、構成力、表現力、パワーの人・・・プロの中でも頂点に立つ人は違うと感じる。
わたしごときが、山崎氏のことを絶賛、誉めてみても、なんの関連も、とっかかりもないが。
一ファンとして。
(といいつつ、小説、読んだことがない・・・お粗末さ)

・・・

わたしは、集中力がないので、文字だけに集中できない。
途中に映像が入ったり、音が入ったり、色や、ニオイや、振動や、温度、湿度、質感、
ありとあらゆるものが、こちゃっと邪魔をして、そっちにふらふら流れて、なにがなにやら、わからなくなる。
枝葉ばかりに飛んでいく。

なので、脳みその作りが、雑。
あれもこれも、で、結局なにも、モノにできない。
ちょっとずつ色々の、混ぜご飯で、それはそれで満足しているのだが。

・・・

わたしは、・・・
自分は、自分は・・・と、自分ことしか関心がなく、それ以外は、すべて、自分を取り巻く彩りに過ぎない。
凡人は、そんなものかも知れない。
取巻いてほしくなかったりもする、一人が好きな空想家でもある。


最近、さすがに年をとったせいか、さほど自分に関心がなくなってきた。
これは、非常によい傾向だとわたしは自負している。

自分以外になにに興味が湧くか?
平凡なところでは、家族とか、その周辺の人々。
あとは、自然とか。
分類が極端か。


・・・

子育て時代、夫の実家に毎週末、土日に行っていた。
「行く」のではなく、「帰る」という表現を使わされていたが、なんの抵抗もなく「帰る」と言っていた。
(その影響だと娘は言うのだが、娘たちは必ず毎週、我が家に来る)

片道1時間の、その行き帰りの車の中で、わたしは、子供たちに創作物語を聞かせていた。
デタラメの作り話で、口から出任せだったが、子供たちは、けっこう面白がって聞いてくれていた。
「昔、昔、あるところに・・・」の定番パターンから始まって、冒険モノやら、漫画チックなものやら。
口頭での出任せなので、じつに、程度の低いものであり、あれがもっと高度なものなら、
子供たちは素晴らしい感性に育っていたかも知れないが。
未知の能力が開発されていたかも知れないが。
まあ、いい。
トンビは、鷹を生まない。


英才教育らしきものをゼロ歳児の孫にしている娘を横目に、わたしは、なにも口をはさまない。
鷹にならなくてもいいから、娘が機嫌よく子育てしてくれたらそれでいい。
ひょっとしてひょっとすると、突然変異で鷹に化けるのかも知れないし、遠くから期待せず、見守るだけである。

「あんまり最初から張り切って飛ばすと、息が切れるよ」、と言いたいが、言わずに、ぐっとこらえる。
あんな面倒なこと、ご苦労様だとも思う。
だが、信じて努力するのはいいことだ。
ただ、わたしは、過去に似たようなことを熱心にやっていた親御さんのお子さんたちの、その後を知っているので、
あんまりやっても、やらなくても、変らないよ~と言いたいが、
熱意に水を注すようなことは、言わないほうがいいかなあと思っている。

あの時、やったにもかかわらず、こんなに馬鹿になってしまった・・・と嘆くほうが、
あの時、やらなかったから、こんなに馬鹿になってしまった・・・と嘆くより、
マシかなあ・・・と。

林真理子氏も言っていた。
やった後悔より、やらなかった後悔のほうが、大きいと。

夢は持ったほうが、持たないよりもずっといい。
ただし、ありえないような夢を子どもに押し付けてはいけない。

・・・

可能性の開花に手を貸すのは、素晴らしいことだ。
子どもだけでなく、なんでも人材の育て方、能力の伸ばし方は、ほんとうに難しい。

自分は、もうこれ以上は当然伸びないし、後は消滅に向かってスローダウンするだけ。
ほんの少しでも、人の役に立てたら本望だ。

役に立っていると思っているのは本人だけで、実際は、邪魔だったりするが、
ケースバイケースということで、お茶を濁そう。


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贅沢

2014-02-19 | わたし


エッフェル塔って、世界中から、おのぼりさんが集まるところ。
ほんとうに、ほんとうに。
通天閣のワールドワイド版。

パリっ子だの、東京っ子だの、自分は都会人だと自負している方々。
それがどうしたの?です。
アフリカの動物が自由にたむろしている自然がステキって思う人や、
宇宙から見た地球は青くてキレイって、思う人、
自分のこじんまりした部屋が大好きと思う人、
こ汚い赤提灯が落ち着くという人、
いろいろだ。

・・・

ちなみに、話はころっと変るが、

女性は贅沢だ。
高級レストランのランチには、女性が佃煮のように、わんさかわんさか集まっている。
どの人もどの人も、みんな女性。
平日の昼間ということで客層は偏るとしても、皆さん、とっくにリタイアされたお年の方ばかり。
「あんたは、来なくていい」とばかりに、皆さん、夫は家に置いてきているのか?
男性客は、店舗のなかで、一人いるか、いないか。

彼女たちの家族は、彼女たちの贅沢ぶりを知っているのだろうか?
夫は?
子供たちは?

若い働く女性たちは、また同じような人たちと、テーブルを囲んでいることだろう。
いずれにしても、女性が多いように思う。
男性は、飲むから?
あるいは、他に出費があり、食費は抑えている?

熟年シニア層の女性の皆さま。
もう夫も仕事はリタイアしたので、奥様も家事もリタイア。
今まで食事作りは十二分にしてきたので、今度は自分が楽しむ番、というわけか?
いつ、健康を害して食べられなくなるかも知れないし、今のうちに・・・と、切羽詰る気迫さえ感じる。
たまの自分へのご褒美か?
夫や親の介護を終えた自分へのねぎらい、
または、これから肩に圧し掛かる重圧の前に、最後のオアシスか?
少なくとも、苦労・苦渋・真っ只中の方は、いないように思う。


アベノミックス効果なんぞ、まったくどこ吹く風?と嘆く年金暮らしの人もいる一方で、
景気回復、街は賑わいを戻しているかのように見える。
これが、仮のうわべだけの姿、泡沫(うたかた)でないことを願うばかりだ。

・・・

明日をも知れないわが身。
今日を精一杯生きる。
悔いないように。

最近、そう思うようになった。

悔いなく、だらだら生きても、OK。
ノー・ルール。気分のままに。

ジャッジされる目など取り除き、気にしない。
暗い辛く苦しい顔をして耐え忍んでいると、自分が病気になる。


「一生、このままで」、とか、「永遠に」、とか、そういう言葉を使いたくない。
毎日、毎日、精一杯生きたら、それがつながったら、一生ということになる。
点と点は、やがて線になる。
とりあえずは、毎日、そして、1ヶ月、半年。
短期ビジョンと中期ビジョン。
年を重ねると、長期展望は、自分が死んだ後のことになる。
遺言の世界だ。

100年後のために、子孫に自分の思いを伝えたい。
そう書くと、笑う方々も多いことだろう。冷笑されそうだ。
自分ではできなかったことや、完了していないことを客観的に伝えたい。
継続して欲しいが、できなければ、それは時代のせいでもあるかも知れない。
それはそれでいい。
ただ、思いを伝えるだけ、後は、各自それぞれの生き方に任せる。

・・・

こんな内容だと、まるでわたしは、とっくに85歳を越えた人のような印象を受けることだろう。
わたしは、今、そのお年寄り世代の人を親に持つ、ひと世代若い年齢だ。
つまり、ひと世代早くに、親の姿を見て、自分の将来を見ている。

・・・

今日のブログは、なんとなく、わたしを救った。
お経の効果を感じた。
それだけでもいい。

平穏無事な平和な毎日。
しかしながら、それを精一杯生きるところがポイント。
意識するか、しないか。
必ず、その日と決別しなければいけない日が訪れる。
終りは、必ずやってくる。
なので、精一杯、悔いのないように、サボる人はサボり、勉強する人は勉強し、遊ぶ人は遊び、
家族を養う人は養い、自分を養う人は養う。

・・・

ちなみに最近、わたしは、不思議な変化に見舞われている。
それは、「あなたに影響を受けた」と面と向かって直に言われることだ。
とてもとても摩訶不思議なのだが、自分でもよくわからない。
どうも、悪い意味で文句を言われているようでもなさそうだ。

人生の答えあわせの時期を前に、今までの行いを振り返ってみる。
今、現時点は、過去の積み重ねの結果だ。そして、将来の礎、土台になる。

失敗は、必ず活きる。
人生に無駄なことはひとつもない。

無駄だらけのわたしが言うのだから、真実であるに違いない。

・・・

今日のブログは、自己陶酔型。
自分に酔っているっぽいかんじが、笑える。



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素人

2014-02-18 | わたし
ブログにこんなことを書きたい、とか、こんなブログにしたい、とか、
そういう思いを抱いていると、ぱたっと自分のブログに伸ばす手が逆方向に動き出す。
自分のブログから遠ざかりたくなる。

最近、ブログ合併症というか、副作用で、
こころや目にに留まる、ちょっとした、ほんの些細なものを見ても聞いても、「ああ、これ、ブログ・ネタだ」
と思ってしまう。
メモ、メモ、・・・となって、目の前のものをゆっくり楽しめない。

これはい良い、ぜひ残しておかねば!!と写真撮影ばかりして、
実際の風景や事柄をじっくり味わえないのと同じだ。

カメラにではなく、自分の生の目のスクリーンに焼き付けておくべきなのに。
本末転倒。

雪がしんしん降る光景や、枝から積もった雪が、どさっと落ちる音で、静けさをさらに感じる時でさえ、
ああ、あの映像、あの脚本、あの絵画、あの音楽、あの詩、あの俳句、・・・と、
過去に見たり聞いたりした印象や残像と照らし合わせてしまう、わたし。
答えあわせをするかのごとく。

ちゃんと目の前の美しいこころに響くものをまじっと見て捉えず、さきに、作り物を想像、連想してしまう。
これは、なんだ?
こころの底から美しい生きた花を見て、「ああ、なんと美しい。まるで、造花のように美しい」
と、思ってしまうのに似ている?
造花の美しさにこころ奪われ、いかにホンモノのように美しく作られているかに、うっとり。
(これって、生身の男性が、ホンモノの女性より、ゲームの女の子のほうを真剣に愛せる、というのと似ている?)
こころが、ニセモノや作り物に冒されている?
(わたしは、ゲーム世代ではないのだが)
こころの目が、生きた人間の目ではなく、カメラマンのカメラや、映画監督の目になってしまっている?


・・・

いつもいつも、自然の中に自然にいるのに、第三者の目が同時進行し、わたしを捉える。

これは、じつは、ものごころついた頃から自覚する、わたしの特質である。
5歳ぐらいの時に、とても不思議に思ったことがある。
なんで、感じた思ったことが、無意識にアタマに連結して、次から次へと浮かび上がるんだろう?
いくらたくさん思っても思っても、感じても感じても、許容量は大きく、ぎゅーぎゅー詰めになることはなく、
キャパには制限がない。
「思い」って、いくらでもどんどん出しても出しても出る、わあ、不思議でおもしろい・・・、と感じた。
「思い」を出す自分と、それを感じる自分がいた。(その頃は、感じる一方で、受け止められなかったが)


その当時は、「思い」が変換されるのは、言葉や文字ではなく、かといって、音楽でも絵でもなく、
ただただ、「思い」がどんどん思いのまま、どこかからアタマに移動していっているような気がした。

小学生の時、とても辛いことがあり、
「自分はなんて辛い小学生なのだろう。家庭が真っ暗って、こんなかんじ?」
と、実社会の舞台にいる自分を見て、ナレーションを入れる、あるいは、ト書きを書く、もう一人のわたしがいた。
これって、正常範囲内ぎりぎりの、軽度の分裂症なんだろうか?


・・・

「映像や音響、芸術がコラボ、融合して、自分の内なる思い、アート観を僕は世界に発信します(そのうち)」
なんて、やすっぽい芸人がテレビで言っていた。
わたしは、寒い~思いで見ていた。

そんなことは、やってから言ってね、と。
人間には2タイプある。
やる前に先に誰かれなく公言し、自分を追い込みプレッシャーをかけ、奮い立たせ、動きはじめるタイプと、
コツコツ努力している間は、やっていることを内緒にして、成功してから発表するタイプ。
有言実行と、不言実行。
わたしは、前者は、失敗したとき、できなかったときが、激しくカッコ悪すぎると思う。
有言不実行は、恥の中の恥。
後者のほうが、断然いい。

極限の、理想の成功した最高の瞬間イメージを、先に言葉に出して公表してしまうと、
あとは、なにが残る?
公表したことより、さらにすごい、期待以上のことをしないと、回りは評価しない。
そんな恐ろしいことは、わたしは絶対にしない。

お金と、人脈(ブレーン)と、理想の熱い思いがあれば、自分のイメージに沿ったことが、ある程度はできるかも知れない。
わたしは、当然のことながら、そんなことは見る側、受ける側の一般素人である。
一般素人は、気楽に、あっちに行ったり、こっちに行ったり、
無責任に、自分の好きなように嗜好に応じて、ふらふらしていればいい。
こんなラクで、負担なく、楽しみがカンタンに手に入れられるなんて、
素人っていうのは、どれだけイイか。素人の特権である。

素人の強み、特典を思いっきり駆使して、存分に楽しみたいと、わたしは貪欲になっている。
で、それが高じて、なんでもプログネタ、なんでも目カメラになってしまっているのか?
まったく、本末転倒である。
素人は素人らしく自分の場所にいるのが、いちばん幸せである。



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