蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ピカピカの新しいスマホ

2021-05-31 | 日々のこと
携帯電話を最新のスマホに変えた。5G。
6年ぶりの機種変更。
スマホは2台目。
しかしながら、ショップの担当のお姉さんが恐ろしくて、やっと手続きが終了した3時間後には、すっかり彼女がキライになっていた。

わたしはあと1ヶ月で前期高齢者になる。
すると、高齢者枠内ではピカイチ若いことになる。
だが、現在の高齢者ではないククリでは、最年長になる。
スマホへの理解が遅過ぎて、契約者名義変更やら、契約内容変更やら、その他諸々に、なんと3時間もかかってしまったわけだが、、、

有料で申し込み手続きを依頼したものが、2件あった。
娘にやってもらったら無料だし、わたしが自分でやっても出来ることだった。
5000円弱の手数料の無駄遣い。
しかも、有料なのに、あんなにコワイお姉さん。

「さっき、やったばかりじゃないですか。
もう忘れたんですか?」
などと、完全なる上から目線パワハラモード全開でたたみかけられる。
わたしが間違えてトンチンカンな発言をすると、「最初、こう言ってたじゃないですか(何、言ってるんですか)」と、鋭く一刀断ちに斬られる。
そりゃあ、わたしが鈍くボケてるのはわかるけど、、、

わたしが客だ!
しかも、有料で頼んでいるのに。
、、、必要以上に落ち込み、慄き、不安になり自信を喪失した。
彼女は若いし、毎日同じ専門的なことを繰り返してやっているから出来て当たり前のように感じているが、わたしは高齢者(あと1ヶ月で)であるし、スマホやパソコンは苦手だ。
彼女の常識やペースは、わたしの常識やペースではない。
しかも、わたしのほうがお客さん。
そして完全なる弱者である。
言われっぱなし、叩かれっぱなし。

そりゃあ、理解は悪い、覚えは悪い、記憶もひどい、スピードも遅い。
だから、有料でお願いしているのに。
彼女だって、いくらお金をもらったからといっても、ムカつくものはムカつくのだろう。
この、ノロマめ!トンマめ!と。イライラ。
それはわかるが、弱者に対する労りなど1ミリもない。
弱者は自分の弱点がしみじみ身に染みてわかり、自覚するのであるが。
悲しい、情けない、惨めな時間だった。

が、最新スマホ、容量もメチャクチャ大きく、出来ることがいっぱい。
絶対にそんな大容量は必要ないと娘に大反対されたが、強行敢行した。
今は新しいスマホを前のスマホの時のように各々に認証させるための、それぞれ作業中である。
が、高価なモノを持ち歩くにあたって、怖々、ヒヤヒヤ、ドキドキしている。
前のスマホも持ち歩き、2台同時に使っている。
自宅やWi-Fi環境が整っているところでは前のスマホも使えるので、年子の兄弟のような感じである。

お姉さんは怖かったが、新しいスマホに夢いっぱい、期待している。

行きは、遠足

2021-05-28 | 
山あいの集落に向かっている。
正確には、山をいくつか超え、山の上なのだが。
途中に見える山々。
自宅から2時間。
徒歩〜バス〜電車〜徒歩。
車なら45分ぐらい?
わたしの運転だと小一時間。
だが、公共交通機関を利用する。
その間は、スマホタイム。
居眠りも出来る。
ただ、服装はワンマイルウエアというわけには行かない。
だが、そう大して変わらない服装。
お出かけが主ではなく、移動のために服装に凝る必要はない。
行き先では軽作業が待っている。

2時間かかる。(車なら小一時間)。
その場所に行く。
これなら、わたしの実家とさほど変わらない。
これは、夫の実家。
3回目の乗り換え駅で、素敵な特徴的な電車が来た。
まるで、旅行気分。

だが、そうも言ってられない。
今から実家で、リフォーム業者と打ち合わせ。
こころが急にどんより曇ってきた。



政府には大いに失望した

2021-05-27 | 時事&世の中
コロナ渦におけるオリンピック開催は、わたしは絶対に反対である。
この時期、他国で開催されたとしてもどうかと思うのに、よりによって自国で。
スポーツ文化は、人の犠牲や、生活を困窮させてまで死守すべきなのか?
芸術家や、夕鶴のおツウさんが我が身を削って作品を造るのは、わかる。
当事者のエネルギーを自分の身から出している。補給している。

その補給元が他人からだったとしたら?
例えば、おツウさんが、悲鳴をあげる親友や親戚の羽根を抜いて夜な夜なはたを織っていたとしたら?
自国民の、忍耐や生活を犠牲にしてまで開催するものだろうか?
しかも他国の人から、「日本人は犠牲には強い」なんて、犠牲を強いられてまで。
日本人に犠牲エールを送るのなら、じゃあ、おたくさまの国で開催なさったら?
日本への一般人入国をストップさせて、自国を守ろうという超大国もあるのに。

なぜ、反対なのか?
開催されないと寂しい、、、なんて、そんな子供のような感想の方もおられるが、、、
寂しい??!!
自分の子供の運動会さえ開催されずに辛抱しているのに。
自分の幸せを犠牲にしてまで他人の幸せを応援できるか?

なぜ開催を反対するのか、その理由を考えてみてほしい。
お金ではない。
まだ、コロナワクチンも遅遅で高齢者にさえ接種が十分行き渡ったっていない現状。
飲食店や商業施設は閉まり、行政施設も利用出来ない。
市民もさることながら、飲食業の人々は先の見えない深刻な犠牲を強いられている。
コロナのために、我慢を強制され、反対しているのだ。
自国民に犠牲を強要するその一方で、人流活性化の極め付けである国際イベント開催、、、。

人流を抑えるために我慢に我慢を重ね辛抱していたのに、また緊急事態宣言延長で我慢も延長。
限界に達しそうだ。
こんな状態でなぜオリンピック???
コロナのこと、自分の身に起きているリアルな犠牲のことを考えたことがあるのだろうか。

確かに楽しいことは無いより有る方がよい。
だが、自分が辛抱するのではなく、他人を辛抱させ、他人に犠牲を強いるようなことを、自分の楽しみのために進めるなんて、わたしには理解できない。

全ての人が納得して丸く収まることなどない。
にしても、、、
オリンピック違約金?
こんなコロナ事態が起きるとは世界中の誰もが想像できなかった。
コロナ渦に自国で開催したくないというのは、契約違反なのか?
人道的にはどうなのか?
開催によるコロナ拡大の対策費は?

ソフトバンクの孫さんも反対を表明している。
政治家は反対と言えない縛りがあるのだろうか。
頼りにしていた小池都知事でさえ、安心安全の開催に向けて全力で頑張ります、などと淡々と同じ言葉を繰り返す。
あれだけステイホームを都民に訴えていた人が。
コロナのための犠牲なら仕方ないにしても、コロナ渦オリンピックのために犠牲を強いられている。
怒り心頭である。
国民の声を政治や政策に反映させるのが政府や政治家ではないのか。
誰のためのオリンピックなのか?
誰が決めるのか?

国民への説明は、開催を前提とした、「安全安心の開催を、、、」と機械的に言うだけ。
反対意見に対する説明は無し。
政治には全く無知無関心なわたしだが、今回ばかりは、反対を唱える野党の声は、身体と心に染み渡る。

感情論だけでなく、開催するメリットとデメリットを数値、データ実数、経済指数、予想指数、医療を含め予想社会図をきちんと理論的に納得できるように示してくれたらまだしも、開催までに2ヶ月を切るこの秒読み段階では不可能。
押し切るか、断念するかが舵取りの重要な判断であるが、いずれにせよ叩かれるのは目に見えている。
歴史を振り返り、どう評価されるか、であるが、歴史のそのリアルタイムの当事者、国民にとっては、後に評価なり、社会的意義なりを説かれても自分の生活は返ってこない。
50年後に国に補償や謝罪されている様々な国家的被害者の皆さんは大勢いて、彼らの失われた人生は戻って来ない、、、。
当時の責任者はこの世にいないことが多い。

「責任者、出てこい!」
と、肩をいからせ揺らしながら発する、昭和のぼやき漫才、人生幸朗さんのギャグは、なかなかのものである。


嗅覚過敏

2021-05-22 | わたし
最近、加齢臭が気になる。堪える。
バス停や、駅や電車で、ううっっとなる。
街行く人でも止まってなければよい。
お互いが歩いていて、すれ違うだけなら、空気も動く。
止まると、途端に周囲の空気が滞る。
わたしが気にし過ぎ敏感鼻なのか、その人個人が加齢臭対策をしていないのか。

家のソファや椅子、クッションにニオイ消しの薬剤を噴霧した。
窓を解放したり、カバーをパタパタしたりして、ニオイは収まったかのように思えた。
が、またふとしたことでニオう。
ひょ、ひょっとして、、、わたし?

いや、そんなことはないはず。
自分のニオイなら気にならないはずだ。
それに、お風呂に入る時、裸ん坊の身体からは、異臭はしない。
ただし、自分独自の体臭らしきものはする。
この体臭らしきもの、わたしは嫌いではない。悪くないニオイ。
が、石けんや、制汗剤、香水のニオイではない。
自分のニオイだから、好きも嫌いも、自分なのだが。
体臭は全くなく無臭という人もいる。
わたしは自分自身は無臭ではないように思うが、肉食歴史が長い西洋人のような強烈なニオイはしない。
なかには、チーズみたいなすごいニオイがたまらなく好き、という人もいるようだが。
存在を強力にアピールする。
ほぼ無臭系の微臭であるようなわたしだからか、他人のニオイが最近、気になるようになってきた。

香水も強すぎると逆効果。
鼻が、もげそうになる。
本人は自覚がないのだろうけれど。
それにしても、好みは色々だ。
自分は良かれと思い悦に入っているが、周りにいる他人には、うげうげうげ、助けて〜っ。

これを読んだ男性は、気が悪いだろう。
しかし、加齢臭をとやかく言われるのは、その人のことを気にする人が周りにいるということ。
スルーよりはずっとマシかも知れない。
配偶者にもスルーされている可能性もあるが、超高齢になると加齢臭云々など、どこ吹く風。
というか、もうそんな世界ではないような気がする。
それはそれで天国が近くて、皮肉でも意地悪でも何でもなく、幸せゾーンに突入しているのかも知れない。

蛇足。
今日の記事内容は、自分の胸に留めておくほうがよいと感じる。
ニオイがする方々へ。
気になさらないでください。
たんなるわたしの過剰反応です。

まるで自分のよう

2021-05-21 | 日々のこと
昨日の孫。
小学3年と小学1年、男児。
(下の妹たち2人が保育園にまだ行っている時間帯)
兄は相変わらず宿題に取り掛からない。
まあそれはいいとして。

ジュースの種類で兄弟ゲンカ。
ぶどうジュースが人気で二人で取り合い。
わたしが、同じ形のコップに2つに分けたら?と提案するものの、スルー。
兄主導型で、兄が勝手に決めたっぽい流れ、圧力で、ジャンケンでぶどうジュース獲得権利を決める。
(他にも種類はある)
で、兄が勝ち、ぶどうジュースを飲み始めた。
弟は、シクシク泣いている。

なんやねん!ジャンケンで決めたんじゃないの?
鬱陶しい子やねー。
ひょっとして半分こ案も無視され、ジャンケン案も強硬執行され、弟は争奪戦、最初から負けの位置にいたのかも知れない。
アホのばあちゃん(わたし)は、弟が可哀想になって(それと、ただでさえ雨でジメジメしているところに、シクシク鬱陶しい)、弟に同じぶどうジュースをストック部屋から持ち出して与えた。
良かったね、なのだが、、、。

今度は弟が学童学級でもらってきたお菓子を食べ始めた。
兄は同じ学童に行っているので、同じお菓子をもらっていると思うが、家に置いてきて持って来なかったらしい。
本人は持ってくるのを忘れたと言っているが、わざと持って来なかった可能性も捨てきれない。
(彼は食べ物に関しては知能犯的要素がある。
ただし、頭隠して尻隠さず、バレバレパターン)
で、弟が小さな袋に入ったミニポテトチップスを食べる横で、「ちょっとちょうだい」と頼むが、弟は無視。
「お願い、ちょっとだけ」と、兄はお願いする。
弟は知らん顔で食べ続ける。
「ちょっとでいいから」
「ほんの少しでいいから」
と、せがみ続ける。
「小さな小さな、ほんとに小さなカケラでいいから」
すがりつき懇願。
子供は、見栄も外聞もプライドもないのか。
ピクリとも反応しなかった弟は、(たぶん)兄にひとかけらも与えず、クール、冷徹を貫き通した。
わたしは彼らのいる場所ではなくキッチンにいて、聞こえていただけなので、少しあげたのかどうかは確認していないが。

兄は宿題をまだ抱えたまま、今度はキッチンに来て、フルグラ(ドライフルーツ入りシリアル)の袋に目をつけた。
袋を開けようとする。
「こら! 何をする」と、わたし。
「ドライフルーツ1粒だけでいいから」と袋に腕を突っ込んで1粒、口に放り込んでいた。
しかし、彼は何もドライフルーツが欲しいわけではない。
これは宿題に取り掛かりたくないための、時間稼ぎ、無駄な抵抗だとわたしは捉えた。
それにしても、ジタバタあがきが、鉛筆削りや机掃除ではなく、オヤツか。
過食症と拒食症の話を彼にしたが、全く1ミリも聞いていなかった。

しかし、この2人、そんなに飢えているの?
と、オヤツタイムを早々に切り上げ、夕食予定を前倒しにして、夕食メニューを出した。
もう夕方近くになっていたし、お菓子ばかり食べられたら、かなわないから。

食べた後から兄は、これ、オヤツなの?
と文句をぽろり。今日はオヤツ食べてない、と。
「それより、あんた、宿題は?」
彼はほんの短時間でチョチョイのチョイ、チャチャっと宿題を片付けた。
やればほんの一瞬で出来ることを延ばす延ばす、延ばすことMAX。
まるで自分を見ているようだった。


最後は一人でバイバイ

2021-05-20 | 老い
無駄にタスクを溜め込んで、やりたくないエネルギーをチャージしている。
マイナス方向にパワーを蓄積させると、後は爆発するのみ。
わたしの場合、歳も歳だし、爆発はしんどいなあ、と自分を自分で労わり、少しずつ小分けにして、マイナスパワーを消化しようと思っている。
毎日、とは言わないが、気が向いた時に、マイナスからゼロに向けて、ちょっとずつ、借金を返すかのように動こうとしている兆しを感じる。

ゼロになるのが理想で、ゼロからプラス、負から正にはあまり期待もしていないし、頑張る気もない。
とりあえずは、ぼちぼち動いたほうがいいかなあ、と、胎動を感じているところ。
熊の長い冬眠から一瞬目が覚め、トイレタイムか、おやつタイムか。

常にわたしは、マイナスのところに位置する。
それをさらにマイナスにしないよう、そして、少しでもマイナスを減らすよう、ちょっとだけ頑張る。
それで十分、わたしは仕事を成した気がして、満足して落ち着く。
とことん仕事しない人間である。

かといって、世間の皆様のお荷物にはなっていない。
自分はお荷物になっていると感じる人もいて、助けの手を求めないこともあるようだ。
そういう考えだと、生産性のない人間は生きる価値がない、みたいな極論にも達しかねない。

このコロナ渦、芸術関係の人は、生産性云々の面では随分苦しんだだろう。
第一、活動停止で収入が途絶える。
だが、芸術系はいつもいつも発信するわけではないので、穴に潜り、強制的にエネルギーをチャージする機会になっている。
ただし、売れる場合。
売れる芸術は、もはや芸術ではないのかも知れないが。
売れるということは、商業と(芸術的)才能と時代が一致したということ。
どれが欠けても、成立は難しい。
売れない秀悦なものは、世の中ゴマンとある。
芸術に限らず、実業界でも、一人の超優秀な人が、たった一人だけで全身全霊をかけて作ったものは、商業的には成功しないという説がある。
コラボや運、時代の波は必須ということだ。

と、どうでもよい、自分には全く関係ない話をダラダラ脱線。
平凡な名もない歴史に当然残らない一個人の、わたし。
ほとんどの人がそうであるように。
悪名高き大悪人とかよりは、まあマシだが。

ちなみに、お一人様シリーズを掲げて久しい上野千鶴子さんが、お一人様の一人死のススメを提唱されている。
一人住まいの自宅で老衰で死ぬのが、1番の安楽らしい。
発見されるのは、通いのヘルパーさん。
高齢になると、なんらかの介護側の機関や人材、ケアマネさんやヘルパーさんが関わっているだろうから、誰かが毎日のように顔を出してくれるとすると、孤独死放置数ヶ月、なんてことはないはず。
それ、なんだか、気持ちが楽になる。
娘たちは、お互いの自宅の近所の老人施設をわたしに勧めるが、理想はやはり自宅が良い。
病気になれば、入院先病院へ、
認知症になって独居困難なら、認知症を受け入れてくれる施設へ、そういう場所で一生を終える。
とりあえず自立生活できるなら自宅で、老衰希望。
老衰とはいえ、寝たきり期間があるはずだから、最後の一定期間はどこかにお世話になることになりそうだ。
寝たきりで一人住まいは、ちょっと無理がありそう。
寝たきりだとトイレも行けない。

上野千鶴子さんの理想的お一人様老衰死は、現実的にはまだ詰めなければならない点もありそうだが、とりあえずは行く道に灯を照らしてくれたような感じではある。

元気でまだピンピンしているわたしだが、そしてつい最近、姑を亡くしたばかりだが、さらにまだ老母親が健在だが、先の話は早くからプランしておいても悪くない。
ではあるものの、娘たちが、近所の老人施設に入る案に身を乗り出して賛成するものだから、ちょっと気分を害した。
病児保育と、ばあちゃん食堂で、まだ5〜10年は頑張らないといけないのに。


ちなみに、話はころっと全く変わるが、他ブログを読んでの感想。
モラハラは地獄。
モラハラまたはDVと、優しいフォローの繰り返し(揺り戻しの如く)は、モラハラを断ち切る道をふさぐ。
家庭内だとプライベートでデリケートなので、各人、不干渉という立場を取らざるを得ない。
外から救いの手を差し伸べる機関もあるようなので、勇気をもって相談してみると道が拓けるかも知れない。
親子や夫婦の問題は複雑で、社会から目に見えない。





やりたくない

2021-05-19 | 日々のこと
全く、全く、全く、何もすることがない時はどうするか?
わたしは、1秒、目線を少し上げて、窓の外の緑を見る。
ちょっとした気分転換には、コーヒーを飲む。
そんなにコーヒーばかりガブガブ飲んでいるせいか、就寝中に何度もトイレに立つ。
熟睡できないではないか、自分のせいで。

いよいよ本当にすることがなくなると、空っぽの自分になる。
リセットされて、一旦、ゼロになる。
そこで、やっとこさ、すべきタスクに渋々取り掛かる。
何もすることがないのではなく、たんにタスクを嫌がっているだけだ。
この精神構造と行動が、一番上孫(小学3年)とソックリ。
我ながら嫌になる。

彼も、持ち時間という持ち時間を全て下らない無駄なことに使ってしまい、宿題をする時間を確保出来なくなる。
宿題をとっとと終えた弟が隣の部屋でもう見始めている、見たいテレビも見れず、ひたすらダラダラして、ついには、弟のところでテレビを一緒に見る。
おい!宿題は??
ばあちゃん(わたし)は、何度も「宿題は?」と言っているものの、所詮、教育は親がするものだと思って躾義務ステージを降りているから、もうどうでもよくなっている。
宿題を済ませないまま、家に帰す。
ばあちゃんちに行かせると、宿題をちゃんとしない、とクレームをつけられても知らん顔。(クレームは今のところ来ていない)
自分の子供には教育ママゴンだったが、孫の教育には口を出さない主義。
たんなる、ばあちゃん食堂を開いているだけだ。

と、孫の話になって話が逸れて戻って来ない。

わたしは、すべきことを山ほどかかえていても、何もする気がない時は、、、不思議と縫い物をしたりする。(ピアノを弾く時もある)
チクチクチクチク。お裁縫。
自分のボロっちくなったホームウエアを繕ったり、昔昔のビーズクッションのカバーを布をチョキチョキ立体裁断して縫ったり。手縫い。

あとは、物置の片付け。
物置の一角にあるものを出して、収納カゴや床を拭いて掃除し、入っていたモノをたたみ直したり、入れ直したりするだけ。
全然、断舎離しない。
そうやって、時間を潰す。
正に、「潰す」というかんじ。

タスクを少しずつ処理していけばよいものを、、、あとで疲れるのは自分なのに、、、手をつけず。
一気にドタバタやる予定だ。
孫と同じだ。

やっても、やらなくても、死にはしない。
しかし、やりたくないのは、何故なんだろう?
何故こんなに、こうも、やりたくないんだろう?
孫に心境を聞いてみるか。

お元気でなによりです

2021-05-18 | ブログ
去年、突然、ブログから姿を消したケイコさん。
彼女は異国で奮闘中のギャラリスト。
コロナ渦の中、旅行を目前に、この時期、行ってもよいものかと悩んでおられた。
その旅行、行ったのか行かなかったのか、どうなったんだろう、、、と待つこと数週間、数ヶ月、ついに、一年以上が経過した。
それまでは毎日ブログ更新され、いつもブログ村エッセイ注目記事では1位2位3位をケイコさんの記事で独占されていた。
が、ある日、ブログ村を脱会されたものの、書いておられたので、わたしはブログ村を経由せずに引き続き愛読していた。
にもかかわらず、何も言わずに、ある日、いきなり、、、。プッツーン。

ケイコさんの遠征はギャラリーオーナーさんとの旅行だった。
お一人様、独身バツゼロ、一人住まいのケイコさん、、、ひょっとして、、、オーナーさんはビジネス戦友、親友とは言うものの、異性。
何かしらの展開があって、自分の気持ちに正直なケイコさんのことだから、心の整理がつくまでブログは中止されたのかと勝手に想像していた。

さて、わたし。
この度、スマホの機種変更に伴い、画面に貼り付けているケイコさんのブログを画面から消そうとした。
どうせ更新されていないだろう。
もう一年あまりも私のスマホ画面に貼り付けてあるものの、必要ないと思い、その前にとりあえず、開いてみた。
あ、つい最近、更新されていた。びっくり。
そして記事を遡り紐解くと、1年近く放置されていた理由、経緯も説明されていた。
そうだったのか、、、
別のところで書いておられたとのことだった。

わたしは放置された日まで遡って、ブログ記事を読んだ。
お元気だったし、ケイコさんの日常には変化はなかった。
今もギャラリー作品の紹介をしながら、精力的に書いておられる。

そもそもケイコさんとわたしは、人気ブロガーさんと、1読者の間柄に過ぎない。
当然ながら一面識もない。
わたしは一方的に記事を読む側。
だが、わたしは以前のような熱い気持ちにはなれなかった。
ブログには表さない、現れない、ケイコさんの性格の一端を見たような気がした。
決して非難ではない。 
ある種の失望である。

読み返した記事の中で、ある日、それまでの「ギャラリーパートナー」という表現が、ごく普通に「パートナー」という言い方に変わっていた。
一度、「パートナー」という表現になってからは、「ギャラリーパートナー」という言い方には戻っていなかった。
この男性は、ケイコさんが日本にいる時から、そして異国行き、異国での仕事、その後のギャラリー運営に最初から関わっておられる方だと推測する。(あくまでも推測に過ぎない)

なんでも誰でもいいのだが、わたしは深くブログを熱心に読み込んでいただけに感情移入も彼女への理解もしていたようだ。
(読解ミス、読み間違えもあるだろうけれど)
ただ、ブログ更新にすごいエネルギーを投じておられていたので、このボルテージ、持つかな、続くかな、とは危惧していた。

筆者がブログを更新し続けると、読者は幾つかの反応に分かれる。
いつまでもファンで居続けるか、飽きるか、嫌いになるか、時間を置いてまた戻ってくるか。
筆者は書いているその時その時の気持ちや考えを書いているわけで、主義主張が変わったからといって、責められるものではないと思う。
クロワッサン症候群然り。

少し距離を置いて粗熱を取ってケイコさんのブログをまた読み始めると、わたしが彼女に対する感想は、以前の憧れや全肯定や思い入れは薄れている。
ひょっとして、サポーター気分は、なくなっているかも知れない。
ファンというものは実に気ままだ。
後々まで責任を持ってフォローなどしない。
気分次第で、ふわふわ浮遊するものである。

さてさて、、、
わたしは読み手であると共にブロガーでもあり、、、わたしの愚ブログに関しての考察、その他は、書くのも恐ろしいので、書きません、、、。
ただ、10年前に書いたものも1日前に書いたものも、半世紀前に書いたものも、あんまり変わらない。
ブレないとも言えるが、成長がないとも言える。

溢れ出るニオイ

2021-05-17 | 暮らし
理屈ではない哀しい話を書く。
夫は、わたしのような、ぼーっとした女性を妻にして、満たされた生活を送っているかというと、そうでもない(はず)。
劣等生妻のわたし。
そんなわたしに、平穏無事な生活を送らせてくれている夫には感謝してもしきれない。
と、これはアタマで考えていること。
そんなことを(わたしが結婚した時に嫁入り道具のひとつとして親に買ってもらった)椅子に座って、今、ブログを綴っている。

クサい、におう、、、。
怪しい、、、の意味ではない。
椅子から、ニオイがする。
わたしのニオイではない。
わたしが嫌いなニオイ。
生物としての、動物や昆虫、植物からニオうような、その個体が放つニオイ。

そもそも加齢臭というのは、親きょうだい間で、タブーを破って子供が出来た場合、血の濃い子供は遺伝子的に先天的によろしくない子供が生まれる確率が高いらしく、父子ソウカンにならないために、人類が自然に生み出した防衛的なものらしい。
禁忌。

その、悲劇を生まないための防衛的であるはず加齢臭が、新たな悲劇を作っている。
夫婦なのに、夫の加齢臭が堪える。
こんな悲劇、どうすればいい?

他の男性になびかないため、他の男性には加齢臭を付加させる、神様の計らいならわかる。
本来、仲良くし、素晴らしい家庭を作り上げなければならない夫から加齢臭がしたら、、、。

まずは消極的対策。
○鼻をつまむ。
○マスクをする。
○生活備品や衣類に薬品をふりかける。
○精神的に克服する。

積極的対策
○洗濯をまめに、自分が納得できるぐらい繰り返す。
○においを抑える石鹸や香水、薬品等の使用。
衣類、あるいは身体に直につけてもらう。
○いつもいつもいつもシャワーを浴び、洗濯したての服に着替えてもらう。

カンタンで、一早い方法は、、、
そのニオイがする椅子から離れる。
椅子にタオルやカバーをかけて、しょっちゅうタオルやカバーを洗濯して取り替える。
そんなかんじか。

フェロモンと真逆の効果を撒き散らす加齢臭、、、。
男性だけではなく、女性にもある。
バスなどに乗ると近くにいる女性から、ニオってくる。
若い女性は芳しいニオイだが、正反対のニオイ。
汗臭いような、お風呂に長い間、入っていないような、髪を洗ってないような、衣類に染み込んでいるような。
性別を通り越して、男性だけでなく女性にも。
体臭だろうか。
口臭もあるし、生きているといろんなニオイがする。
まあ、そういうものなのだが、過敏に神経質に抗菌だの除菌だのは、コロナ対策分野だけで、わたしは十分だ。
嫌なら自分で防衛、防御すること。
ニオイを発する人を憎んではいけない。

しかしまあ、生物とは不思議なものだ。
異性と子供まで作っておきながら、年がいくとニオイが嫌!だなんて。
そう思うと、椅子だけでなく、ここかしこにニオってくるような気になる。
洗濯回数増加という、家事労働の頻度や量を、自分の鼻のせいでむやみやたらに増やすことになる解せなさ、腹立たしさ、情けなさ。
気にならなかったニオイが気になる、、、(かたや、ニオイを発する)、、、歳を取るというのはこういうことか。
よほどの愛情や思い遣り、配慮、感謝をもって日々を過ごさねばならない。
黄金のしあわせな思い出でニオイを消臭、帳消しにしなければ、、、。
しかし、なんでもかんでも、「○○ねばならない」と自分を縛るのは慎まなければならない。
と、ふつーに、いつも「ねばならない」は顔を出すが。

平和すぎて、しわあせすぎて、飽和、溢れるあまり、不満の引っ掛かりでも嗅ぎ回っているのだろうか。
だが、歳を重ねるにつけ、嗜好の変化はよくあること。
最近、すごい勢いで自分の脳の衰えを感じる。
我ながら情けないを通り越して、その下降ぶりには眼を見張るものがある。(マイナス要素の場合は、こういう表現はしないか、、、)
おぞましき下降ぶりに、仰け反る。
わたしは割と順応性があるほうなので、しばらくすると、新しい、マイナスのわたしにも慣れるだろうけれど。
今、いっときに、おまとめセールのように一気に脳の劣化が襲って来ている。
その少し後で、体の劣化が追い打ちをかける。
新しいわたし、こんにちわ!なのであるが、慣れて受け入れるスピードより劣化スピードのほうが速くて、あたふたしている。
待っておくれ、わたし。
もうちょっと、ゆっくりお願いします、ねー。

さて、と。
部屋内、場所を変えても変えてもニオイがしてくる。
今週はずっと雨のようなので、大物カバーなどの洗濯は出来ない。
梅雨明けまで待つのは長すぎるので、雨が止んだ頃合いを見計らって、洗濯しよう。

ちなみに、連日、ニュースでお目にかかる菅総理も尾身茂会長も、家の中ではニオイがしているかも知れない。
普通のこと、当たり前のことなんだろうけれど。
そんなことより、はやく緊急事態宣言が開けますように。

コロナついでに追加。
今日もワクチン接種予約日時スタート前からスタンバイし、混み合うインターネット予約に挑んだが、アウト。
何度やっても繋がらない。
やっと1回目、2回目の予約にこぎ着けられたかと思いきや、「○時○分は予約できません、やり直してください」と。
結局、予約できず予約は満杯完了となり、1時間の労苦はストレスと化した。

平凡と善良と毒

2021-05-15 | わたし
2番目孫、ある日突然、脱いだ靴やスリッパをキチンと整える。
誰かが言ったわけでも教えたわけでもなく、見本や手本を示したこともしないのに。
これは、わたしの長男(第2子)を彷彿させる。
ある日、突然、綺麗に並べられた靴を見た時の衝撃を思い出した。
同じような年齢だった。(小学1年ぐらい)
全く同じパターン。
どこかから飛んできたDNAなのか。
不思議。
偶然の神様のイタズラか。

話は変わるが、
わたしは中学1年ぐらいから日記と小遣い帳をつけている。
自分との対話、独り言は今日に至っているわけだ。
まあそれはいいとして、、、あんまり深刻なことは書いていなかったように思う。
誰々(好きな男子)と目が合った(ような気がする)、きゃー。みたいな、ほのぼの系。
親友には話していたかも知れないが、他愛ないものだ。
あとは、思い込みや自慢系。
恥ずかしくて人には言えないようなこと。(たぶん、言っていたと思われるが)
ドサッと中学からの日記帳の山を何年か前に母から手渡され、その日から1ページもめくっていない。
恐ろしくて読めるはずがない。

その点、蝶ブログは一応、人の目を意識しているという第1関門、映倫?フィルターを通しているので、まだマシだ。
今では年だけは十分重ねている。
わけのわからない、何のサジ加減もわからない中学生ではないので(中身はあまり変わっていないにもかかわらず)、ちょっと大人や親の目線が加わっている。

と、実は、これは長い長い前置き。
今からが、中学日記には書かなかったが、(かつて蝶ブログには書いたことがある)本日のわたしが書きたかったこと。
若い日のわたしが、薄い頭脳を捻り絞り込んで、必死で考え辿り着いた結論。
それは、なぜ、自分は生きているんだろう?という問いに対する若い日の自分なりの答え。
哲学とは程遠い、よくある、陳腐な問答ではあるが。
宇宙規模の天文学的時系列の、ほんの一瞬を生きている自分の意味を自問した。
で、出した答えは実に普通の平凡な、どこにでもあるもの。
次世代にバトンタッチする、命を繋ぐために自分はいると考えた。
結婚して子供を産もうと思った。

しかし、もし、子供が産まれなかったら?
子供がいない(産まれない)人もいる。産まない人もいる。
その時はまた、自分が生きてきた、生きている意味を考え直して、別の答えを出していることだろう。

わたしが拒絶反応を示していた、婚家の宗教では、代々、家を受け継ぐことが柱になっている。
血が途絶えても外からの血を接ぎ木のように入れて、どうにか家を継続させる。
そう考えると自分の血の繋がった子供が存在しなくても、家を継続させるのが生きてきた証だと仮定した場合、生きてきた意味はあるのかも知れない。
別に家を継ぐことに生きてきた証を求めず、結婚しないとか、離婚するとか、別のことに生きる意義を求めることも十分考えられる。
臨機応変に、チェンジしないと、やってられない。
封建時代なら、自由意志で生き方の選択が出来なかっただろうけれど。

しかし、現代の日本ではどうにかこうにか飢え死にすることはない。
コロナ渦でかなり過酷な状況に陥っている人はいるようだが、、、。
ワクチン接種も進み、いずれは落ち着いてくることを望む。
必ず先に光明があると信じて今を頑張るしかない。
当たり前だと思っていた日常が、当たり前でなく、平凡な幸せのありがたみを感じる。
こう書くこと自体が平凡の極みだろうけれど。
聞き飽きたことをわざわざ書くな、読みたくもないとウンザリする人もいるだろうけれど。
(内館牧子の直近小説「今度生まれたら」に、主人公に言わせる、そういう類いの、聞き飽きたことを聞かされるイライラ、もどかしさが書かれている)

ちなみに、「今度生まれたら」は、依存してなんとなく生きてきてしまった年配女性の悩みや迷いをうまくまとめてある。
ネタバレになるからあまり書かないが、自分軸で生きろってことかと自分流に解釈した。
社会と繋がることの大切さも感じた。
が、平凡、平凡と謳う割には、結構、上から目線の部分がある。
それも人々の自覚しないホンネかも知れない。
とは言え、鼻につく。
(ワザとの可能性も大。著者の内館氏の技に、してやられたかも)
善良一本槍では面白くないからだろう。
毒は平凡を際立たせるスパイスになる。