自分のブログで、こころの叫び、ささやきを吐露したいところだが、
リアルな方々もお読みになるので、差しさわりがない部分だけをふるいにかけて、書くことになる。
だが、書いているうちに、そういうことはアタマからすっぽり抜け落ちてしまうこともある。
とは言っても、リアルな実生活、実在するブロガー本人の存在を誰一人知られていないブログとは、
おのずと趣は異なる。
実在のリアルな自分を知られていないブログは、嫌になったら、やめたらいいのだし、
ブログで知られたことを指摘されて、「あなた、あんなことしてたら、だめよ」とも言われないし。
ブログをやり直そうかと思ったこともある。
つい最近も、その思いに駆られた。
でも、わたしは、人生肯定派なので、自分のブログは、自分の人生の軌跡の一片であり、
閉じる必要はないと感じて、続行している。
自分の欠点や短所も、自分の一部である。
それも含めて、自分で責任をとらなければいけない。
「あなたのそこが、ダメ」「その欠点のせいで、大きなミスをした」「その配慮のなさで、迷惑をかけた」
それこそ、自分のせいである。
もっと深刻なのは、「あなたのせいで、家がつぶれた」「あなたのせいで、子供がつぶれた」
だけど、今のところ、小心者のわたしは、そこまで大きなヘマをやるには至っていない。
わたしの旅ブログは、ブロガー本人は、どこの誰ともわからないもので、
(とは言っても、身近な人には知られてしまったが・・・)
わかったとしても、主に旅の内容だから、人物や人生の否定も肯定もなく、
ただただ趣味の情報収集やら、ネタ提供やらに尽きる。
この年齢になると、思いのたけをありったけ、すべて、隅から隅まで、吐いて吐いて吐きまくりたい、
ということは、ない。
むしろ、そんなことをすると、胃が空っぽになって、カラカラして痛い。
吐露しないことのほうが多くたって、べつに消化不良になんぞ、ならない。
自浄作用が働くのか、自分の毒で、瀕死の状態に陥ることはない。
自分の病気とは、仲良く付き合っていかなければならない。
病気知らずであればあるほど、病気に弱い。
こころのバランスを保つには、積み重ねられた試行錯誤で、調整する。
空気穴を開けること。
自分も他人も、追い詰めないこと。
人間、追い詰められると、同じような行動、心理に陥るそうだ。
たずなを緩めたり、引き締めたり、ときには緊張を緩和したりして、空気の入れかえを行う。
だが、ココというときには、緊張を解かずに、一気に攻めて、コトを進めるということも大事。
そうやって、落とす、口説く、説得する、納得させる、思いを遂げる、成功を収める。
こういうコツは、成功した人には、共通するポイントだ。
成功するには、それぞれ、ノウハウ、やり方がある。
わたしは、エリートや成功者がキライではないのは、彼らには、脱落した人がしない、行動ルールを持っている。
それを聞いていると、なんだか、法則のようなものが、組み立てられている気がする。
逆に、失敗し続けていく人にも、法則があるようだ。
マインドと行動をうまく組み合わせ、脳とカラダが、協調し合っている。
ただし、コンピューターだけの行動というのも、ある。
これも、カラダを動かすと言ってもいいのだろうか?
決断→行動
というプロセスなら、クリックひとつだけでも、行動になるのかも。
クリックひとつで、先は、天国にも地獄にもなる。
思考力、決断力というものは、大事だが、
運やタイミング、勘、要領も、努力以外の要素ではあるものの、はずせない。
ビジネスや政治の世界は、奥が深すぎて、わたしごとき、なにも知らない人間が、あれこれ言っても、
なんの説得力もないが。
ビジネスだけではなく、多くのモノゴトに通じることかも知れない。
年を重ねた、よい人生を送ってきた人、幸せを手にした人には、その成功の鍵がぎゅっと詰まっている。
自分の参考になることも、いっぱいある。
ひがんだ人生を歩んでいる人よりも、明るい人生を歩んでいる人と接するほうが、絶対にいい。
不幸は不幸を呼び、不幸な人とばかり寄り集まり、さらに、どんどん不幸になり、考え方までも、マイナス志向になる。
幸せも、自分が呼び寄せる。
ぼーっとして、ただただ何もせず、幸せは、ありえないと思う。
やるべきこと、不幸を回避する手段は抜け目なく取りつつ、幸せの方向を向いて楽しく生きる。
幸せの陰には、努力が隠れている。
努力の割には、幸せになれない、と嘆く人もいるのだろうけれど。
それは、努力が足りないのか? 要領が悪いのか? 努力の仕方が間違っているのか?
なにが原因なのか、よくわからないけれど。
みなさん、ひとりひとり、顔が違うように、価値観、幸せ観も違うだろう。
自分が幸せで、回りも幸せなら、言うことなし・・・
だが、それがまた、難しい。