蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

今日もブツブツ言ってます

2024-02-29 | ブログ
わたしは、こころの中でケシカランことをいっぱい思っている。
ただし、口には出さない。
SNSで誹謗中傷もしない。
自分の姿を隠して闇から人を罵るなんて、卑怯極まりない。
顔を出して意見を述べていただきたい。
かくいうわたしも、顔出しこそしていないが、特定出来ないように嘆きの愚痴をこぼす。

ちなみに。
さっき、自販機で電車の切符を買っていると、隣の自販機で同じく切符を買っている人が、大きな声で、
「あ〜、ビックリした!」
と、こころの声そのものを口から発している人がいた。
こっちは、突然のことで、ドッキリ。驚く。
発声先、ま横を見る。

切符を買う行為で、あそこまでビックリするには、相当、奇想天外の出来事が起こったのだろう。
しかし、想像の範囲は知れている。

自販機から「ご主人様、お呼びでしょうか?」と、アラジンが登場することはない(→登場してなかった)
自販機の故障でお釣りがジャラジャラ出てくる?(→出てなかった)
ゴキブリが出る?(→出てなかった)
ネズミが出る?(→出てなかった)

補聴器が、いきなり大音量になった?
コードレス イヤホンから、いきなり別の音が出た?
自販機と自販機の間の小窓から、駅員さんが急に顔を出した?(→出してなかった)
このあたりが、無難な路線か?

しかし、こんなこころの声を発する人は年配に違いないと思い、顔を見てみたが、そんなことはなかった。
若い人でも、こういうことはあるようだ。
時折、少し脳に特徴を抱える人が、電車内で奇声や大声を発している。
知らない人だと危険だと怖く感じるが、他人に危害を加えるわけでもない場合がほとんど。
が、やはり人によって出る行動がそれぞれ違うので、未知のものは怖い。

見ず知らずの知らない人が奇異な行動を取ると、つい身構えてしまう。
出来れば近寄らないのは、防衛本能からだろう。
そこまで深刻ではなくても、街で独り言を発する人はよくいる。
大概は年配の女性。
「あれ?」とか、「おかしいな」とか、「どうなってるの?」とか。
が、今回の例のように、そう年配でなくても独り言を言う人はいるようだ。
わたしも(家の中では独り言をよく言っている不気味な人間なので)外でも無意識に、何か言っているかも知れない。
が、人のフリ見て(独り言は)高齢女性にはよく見られる行動だとしても、あまりカッコよくないと感じたので、自分は気を付けようと思った。

と、小学校低学年のような日記になった。

それにしても、わたしのブログこそ、音声は発していないものの、呟き、独り言そのものだ。

それはそうと、どなたかが読んだ蝶ブログ過去記事。
目一杯、叫んでいる、わたし。
そうか、あの時、死んだんだ。
なるほど。
今は再生サイボーグ人間なのか。
生まれ変わったわけではなく、無機質なマシーンになったのか。
それも良し。
時折、部品を取り替えると、まだ機能する。



マッチングはAIがアドバイス

2024-02-28 | 人生
ある企業が恋愛マッチングアプリを福利厚生の一つとして社員が利用できるように整備している。
お付き合いが始まり、いい線に行くと、デートの誘い方や告白タイミングをAIがサポートしてくれる。
今、出生率や結婚する人はどんどん落ち込んでいる。
時代の流れか。

それにしても、マッチングアプリ、面白い。
一昔前は、世話焼き人のような人が親戚や職場にいて、お見合いを薦めてきた。
今は、マッチングアプリに変わっただけ。
広い人材から忖度なしに選べるのかも知れないが、リアル社会での評判などが人づてに聞こえてこないから、ちょっと怖い。
だが、周りから太鼓判を押されたオススメの人だとしても結婚してみたら、あらまあ、なに?これ?
と落胆するケースも多々ある。

(ちなみに、一昨日、映画「マッチング」を観た。
予想外の展開で、居眠りするヒマがなかった)

昨夜、夫と、企業マッチングアプリのニュースをTVで一緒に見ていた。
わたしは、「面白いね」と、ニュースの最初と最後に言った。
夫は終始、無言。
全く目にも耳に入っていないと思う。
仮に認識していたとしても、変な感想を言って妻の逆鱗に触れるのは避けたいため、知らん顔を演じる、、、なんていうような高等テクニックは絶対に駆使しない。
めんどくさいタイプ。
正真正銘、アタマと目と耳を素通りしている。

今の人は、結婚したいと思わなくなったようだ。
片親で子供を育てるのは大変なので、結婚せずに子供を産む人も少なくなり出生率は低下する。
正確には結婚したいとは思うものの、結婚したいと思えるような相手がいない。
経済的に自立していたり、家事が出来たり、社会制度が整ったりサポートしてくれたりすると、何が何でも結婚に生活を託さなければならない状態は脱している。

すでに結婚してしまっている人(既婚)は、あえて現状をほじくらない。
火に油を注ぐような事態を招く可能性があるなら、そっとしておく。
今更、波風を立てても誰も喜ばない。
どうしても改善しなければ崩壊、破綻する場合は別として。

目の前にいる配偶者が、少々気に入らなくても、もっと更に気に入らない人と結婚しなくてラッキーだ。
理想は追わない。
消極的肯定。
八分目を目指す。
理想を追うと、相手を巻き添えにする。
せっかく不純物が沈澱している、一見、澄んでいるように見える水を、わざわざかき混ぜるのは、お互いに得しない。
知らん顔をして、毎日、楽しく暮らすのが安泰かと。
事故、災害など、不意のアクシデントに見舞われたり、病気になったりすることもあり、その時は、澄んだ水だの、なんだの言ってられない。
とりあえず、澄んだように見える水の中で、そっと安らぎを見出すのが、わたしの省エネ幸せ。

ホレタハレタとは程遠いが、孫も実在している現実から見ると、二人共に過去に若い頃はあったわけで。
共同作業の熱い日々は確実にあったわけで。
その若い頃さえも気に入らない、などと回想したりすると、哲学者になれそうだ。
ではあるものの、その片鱗もない別の生き物になった者同士、また別のフェイズを生きている。
結婚も悪くない。
理想を追求しなければ。


地下で蠢めく

2024-02-27 | 人々の風景
goo編集画面、アピールチャンスが、ぴこぴこチカチカうるさい。
わたしは確信している。
それは、自分自身がブロガーである人には、わたしのブログは響かない。どうでもよい。
写真が印象的だったとしても、内容ティストを既に知っている。
長くて読む気にまったくならない。
だらだら長文は疲れる。
そういうかんじ。

それがどうした?
いえ、どうもしません。
わかっていながら、アピールするのは徒労、無駄。
一番の理由は、長い記事は嫌われる。
それだけだ。


さて。
ここまで書いて、停滞していた。
アップしない日が続く。(といっても2日間)
やはり、人に読んでもらってナンボというブログ、なんだか哀しい。
ウケないお笑い芸人のようだ。
が、スベリに耐えなければ、何も出来ない。

世の中の才能がなく認められない芸術家は、自分では才能があるのに認められないと嘆いている。
芸術家だけでない。
才能を測りにくい。
自分だけでも楽しければ、生き甲斐になってよい。
たとえ悲しくても生き甲斐になってよい。
側から見れば、まるで理解できなくても、自分の糧になればよい。
認められたいなどと、とてつもなく厚かましい。
日本人特有の謙遜とか美徳とかではない。
本人は必死でも、周りとしては、わからんものは、わからんのである。

どこまでは許されるかを計算して、ギリギリまで攻め、尖ったエッジを効かせている、と評される若手タレントがいる。
ユニークな発声、発言の、あのanoちゃん。
時代が後から付いてきたかんじか。
そうではないと思う。
時代はもう進んでいたが、地下で生息していて表に出なかっただけだ。
地上波TVのCMや、NHK紅白歌合戦出演などで一般的に知られ知名度は上がっている。

今の時代は、やたら多様性を認める方向のものが多い。
今まで身を小さくして生きてきた人には生きやすい時代の到来、、、を目指しているようだ。 
それにしても、昭和人間のわたしでさえ隔世の感がある。
明治人間でアタマも身体もちゃんとして生きている人は、現在はほぼいないだろう。
(明治生まれ、最も若くて112歳)

バリバリの戦中派の姑に聞かせてあげたいものだ。
存命でも存命でなくても、聞く耳は持たないだろうけれど。
良きにせよ、悪きにせよ。

時代は進む。

着いて行っても、行かなくても、
着いて行けても、行けなくても。



聖徳太子にはなれない

2024-02-24 | 日々のこと
ブログのgoo編集画面に、アピールチャンスが、チカチカ。
こころが、騒つく。
が、呼びかけには毅然と応じない決心。
わたしは、ガラスのように、もろいハート。
方や、恥知らずで強いメンタル。
プライドの基準がおかしい。
基本的には厚顔無恥。図太く打たれ強い。
なのだが、へんにナイーブなところがある。
まあ皆さん、両面あり、そんなかんじではないかと思うが。
わたしだけ?

ということで、編集画面にアピールチャンスがチラつくと、こころ散り散り。
何回も傷ついたので、アピールチャンスから一旦離れることにする。
離脱宣言。
頑張ります。


さて。
昨日は寒さがぶり返し、しかも雨。
着る服をまた真冬モードに。
バス停までの道のり、もこもこの服にもかかわらず、毛糸のマフラーまでしていたので、さすがに首元が暑苦しくなった。
で、マフラーを首から外して、手に持つ。→①
傘は、折り畳み傘で、家を出る時には傘ケースに入れたままだったが、雨の中、歩きながら傘ケースから出して傘をさした。
手には傘ケース。→②
バス停に曲がる道の手前で電話がかかってきた。
「今、いいですか?」
業者からだったが、困ったな、あと少しでバス停なのに、、、と思いながら、バス停に着くまでには終わるだろうと、もごもごマスク越しに話した。→③
バス停に着いてもまだ話は終わらなかった。
が、バスが来るまでにほんの少しだけ時間があり、傘を折り畳んで仕舞おうとした。
ん?
傘ケースがない。
リュックの中をゴソゴソ。ゴソゴソゴソゴソ。
悪い予感。無い。

①マフラー②傘ケース③携帯電話
わたしは、一度に複数のことが出来ない。
これは何度も経験済み。
同時進行キャパが、1つか2つ。
3つになるとアウト。
一度に10人もの人の話を聞くと言われる聖徳太子にはなれない。(だれもか)
仕事では皆さんはいくつもの案件を抱えて同時進行するのだが。
(ちなみに長女は家でも一度にかなりの複数タスクを同時進行する)

なにしろ、手は2本しかない。
なので、3つは持てない。
脇腹に挟むという方法もあるが、知らないうちに落ちている。
注意が3つ目のことに集中され、1つは脱落する。
脱落したことにその場で気づかない。

で、バス停でリュックを開けて、傘ケースがないことを確認して、最初は落とした?という疑惑だったが、落胆は確定となった。
とりあえず、リュックに常備しているビニール袋にビチャビチャの折り畳み傘を入れて、それをリュックに詰め込んだ。

(前日、落とした定期入れとは違い、たかだか折り畳み傘ケースだが、LOFTで買った、吸水機能付きの、長めのお気に入りのもの)

バスがもうすぐ来るため、引戻って傘ケースを探す時間がない。
電話がかかってきた地点に落ちていると推測するのだが。
で、休日で家に居る夫に携帯に電話するが、繋がらず。
固定電話も当然出ないのでメッセージを入れる。
LINEも当然、既読にならない。
仕方ないので、近所に住む長女にLINEする。
雨が上がったら図書館に一家で出かけるという長女からは、「見とくわ〜」と返信。
しばらくして夫から、「拾いました」とLINEがあった。
落ちていた場所はやはり、業者から電話がかかってきた地点。
わたしの行動は、とてもわかりやすくパターン化されている。

一度に同時行動する時は3つ目以上になる段階で、必ず、1つ目2つ目のいずれかが抜け落ちることを自覚するべし。
対策は、、、3つ以上は手を出さない。
もし、やむを得ずそうなった時は、1つ脱落することを覚悟する。諦める。
あるいは、SOSを出す、サポートを求める。
自分の欠けていることは、なんらかで補足する。継ぎ足す。
欠けているのだから仕方ない。

若い頃ならトレーニングして対応出来るように努力し、自分のキャパシティを大きくし高めるのだが、今は、現状を把握して対策に走る。
アタマも能力も、歳とったなあ、、、わたし。ぐすん。




カミサマ

2024-02-22 | 
昭和64年(平成元年)初頭から我が家に鎮座していたカミサマが昨日、復活、復旧した。
息を吹き返した、、、とまではいかない。

うちのカミサマ、2拝2拍手1拝、、、ではない。
2拍手1拝。本来の最初の2拝は割愛、省略。
拍手を伴う参拝は、1日最大1回のみ。
「通りすがりに何回も」は、NG。
カミサマ、なにしろサブ冷凍冷蔵庫の上の、さらにその上に置いた電子レンジの上に鎮座しているもので、何度も行来して日常生活に馴染んでいる場所。
そこに新しい人工榊が仲間に加わると、気になる箇所が増え、つい、親しみを覚える。
が、最初だけ、パンパンと柏手で拍手して、飽きたら知らん顔は、よろしくない。
あくまでも自主規制。
誰も知らないこのルールは、マイルールであり、なんの縛りない。
顔だけ昔から知っていた遠い親戚のような、旧友のお母さんのような、そういうかんじのカミサマと、「はじめまして、いえ、初めてではないですよね」というノリで、お友達になっていそうな気もするが、あまり深入りするとよくない。
カミサマを喜ばせるのはよいが、怒りを買ってはいけない。
カミサマは力があり威厳がある一方で、畏れがある。
サワラヌカミニタタリナシ、、、だが、この場合はちょっと傾向が違う。
ほどほどの距離感がよいのは、人間関係と同じ。
あまりにも心の底からどっぷりは、わたしの信条には合わない。
カミサマを何人も抱えて、一つのカミサマに依存せずリスク分散という手もあるが、わたしはしない。

しかし、このカミサマ。えらく高いところに鎮座している。
とても手が届かない。(言葉通り)
邪魔にはならないけれど、存在を忘れる。
場所としては方角を含め、設置人の姑のお眼鏡に適っている(はず、たぶん)。

今日は恐る恐るカミサマのお社(お家)をそっと開けてみた。
トントントンと扉をノックした。
が、なかなか開かない。
無理やり開けたら扉が壊れそう。
それはめんどくさすぎるので、そっと優しく扱った。
が、なかなか扉は固い。
扉を少し開けると、中に朱色のキンキラした布が見える。
それを取り出そうとするが、扉の金具が曲がりそう。
で、指先ではなく、頭を使うことにした。
よくよく見てみると、扉はかたちだけ、表面だけのお飾りで、扉が付いている板そのものを扉ごと外すようになっている。
シルバニアファミリーの二階建てのお家のよう。
外す時に、お社は、冷蔵庫の上、電子レンジの前に横たわらせる。
ちょっと、すみませんねーー、こんな場所で。
(こぼれているソースとか付着したらどうしよう、、、)

しかし、よく見るとなんと埃をかぶっていることか。
35年分の埃は、お社に降り積もる、まるで粉雪のよう。
風情があるなあ、、、などと感慨に耽っている場合ではない。
横たわったお社を横目に中から取り出した、神々しい物体をガン見する。
覆われている布は、よくお寺の中で見かけるような朱色に神々しい金糸の入ったもの。
その布をすぽっと外すと、中に何やら固いものが入っていた。
カミサマの名前が書かれた木札。(白木の位牌のように自立するスタンドタイプ)
社は二つあるので、カミサマも二つ。
別々のカミサマ。
二つとも知っている。
一つは夫の実家の地に古来からある氏神様。
もう一つは、40年以上前に一度姑たちと訪れたことがある、結構行きにくい地にある、知る人ぞ知る神社の神様。
なるほど、いかにも姑チョイスである。
自分が信仰している神様をセットアップ・パッキングしている。
神様たちは、お社に詰め込まれたまま、うちの古い前の家から新築の家へ、建て替え中は仮住まいの家へ、あっちに行ったりこっちに来たりと、待遇も足元も悪い中、連れて来られたわけだ。
しかも、さっき、初めて、それこそ、本当に初めて、対面した。
顔はなく、名前だけだが。
ようこそ、お疲れ様。
アラジンのランプから出てくる魔神みたいに急に偉そうぶるわけではないが、長い年月、大人しく誰からも知られることもなく鎮座していた。
なんだか、申し訳ない。
粉雪のごとく埃を積もらせてしまったが、なんでも雑菌にまみれるほうが逞しく育つ。
うちのカミサマも過酷な環境で逞しく生き残っていただく。
あまり手厚い、おもてなしは、しない。
カミサマにさえ、自然派を貫くなんて、カミサマもあきれていることだろう。
何も、特別に素晴らしいことを望み祈るわけではない。
ただじっとそこにいてくれるだけでよい。
ご利益も祈りやお祀りレベルに応じてであれば、ほぼご利益はない。
「今日も無事に生きてます」で、よい。
それぐらいは、望ませて欲しい。


それにしても、こんな話ばかり書いていたら、確実に蝶ブログ閲覧数はゼロになる日が来る。
記事はここで終われば良いものを蛇足は続く。

カミサマも苦笑していることだろう。
いや、カミサマは俗世界とは関係ないので、
カミサマの出番はそんなところに出てきてはいけない。
生きるか死ぬかの瀬戸際のみ、顔を出してくれたらそれでよい。
生命保険みたいなものか。
カミサマの名前を、生命保険会社の保険証書に置き変える?
不謹慎極まりない。
絶対にバチが当たる。

しかし、まだ、カミサマ以外にもホトケサマも、お世話している身。
姑が信心深いと何かと大変だ。
(とは言え、ほぼ何もしていない)



自分だけの世界

2024-02-21 | わたし
19世紀のヨーロッパ。
社交界、サロン文化華やかし頃。
美しい名門貴族の婦人や、煌びやかなブルジョワたち。
毎日、ブログ村エッセイのブロガーさんが、絵画と共に紹介されている。

うっとりするような優美な世界、芸術、、、。
なんだけど、、、貴族は職業は貴族、収入は貴族階級ならではの不労所得。
では、ブルジョワは?
似たようなもの。
では、中産階級は?労働者は?奴隷は?

実は今、読んでいるのが19世紀に奴隷だった少女のお話。
単行本で大手書店の目立つ場所で売られていた。
その本は「買って買って!」と言わんばかりにわたしの目を引き、買った。

生まれながらに貴族の女性と、生まれながらに奴隷の女性。
同じような時代。
この、奴隷の少女の本はまだ10分の1ぐらいしか読んでいない。
19世紀、自らの体験を綴った自伝、半生。
150年近く前に書かれたということと、著者は作家ではないこと、翻訳されていることで、読みにくい文章ではある。
それは致し方ない。
が、明治時代後半の日本を舞台にした小説「橋のない川」に共通するものがある。
不条理な差別と、自由のなさ。
平等と尊厳。

しかしまあ、かたやその一方で貴族文化や芸術をもてはやす。
芸術はパトロンがいないと成り立たないこともある。
ブルジョワがパトロンになるわけで、芸術を支える。
プロレタリア文学とかもあるが。

所詮、庶民、一般人であるわたしは、訳もわからず上っ面だけを見てキョロキョロするのみ。
深くは、わからない。
自分の感性に響くものだけに対して、きゃあきゃあいっているミーハー。
時折、頑張ってお勉強として知識を得ようとするが、感性はついていっていない。知識も根付かない。
(これは、あくまでわたし個人のことであり、皆さんのことではありません。と、変に先回り)

自分が好きなもの、良いと思うものに触れたらよいのでは。
例え理解なんかしなくても。
東洋趣味を、時代や国をごちゃごちゃにしている西洋人のように、西洋趣味をごちゃごちゃにしている日本人のようであっても、自分フィルターで寄せ集める分には良いのでは。
学会で発表したり、人に教えたりするわけではない、自分だけの世界に浸るには、何でもよい。
ただ、少し深く知ると、味わいも増す。
自分の熱意が、自分に返ってくる。
自分に対するご褒美。

断言するが、、、こういう中途半端な感覚は、絶対に、頷いたり賛同したり共鳴したりする人はいないだろう。
ほんとうに、自分だけの世界を愉しんでいる。

35年間、埃をかぶった神棚

2024-02-20 | 
人工榊(さかき)が我が家に届いたため、神棚の一部を掃除した。
せっかく榊を飾るのだから、入れる神具もキレイに洗って乾かした。
人工榊のため、水に触れると錆びるらしく、榊立てに水を入れるのはNG。
更に、人工榊は曲げたり伸ばしたり、自在に形を作り変えられる。
面白い。
ウィッグ(人工ヘア、かつら)みたいなものか。(→違う)

そして、お久しぶりの神棚とご対面。
何年ぶりだろう?
現在、住んでいる家を新築して以来だから、23年ぶりか。
埃も被るはずだ。ごめんね、カミサマ。
カミサマ、ほったらかし、ネグレクト。
ではあるが、虐待はしていない。
受け入れたまま定位置に鎮座しているわけだから、雨風には晒されていない。
廃棄されても文句は言えない状態。(誰が誰に文句を言う??)
(ちなみに、廃棄する時は、現職の神主さんがいる神社などで炊き上げてもらわなければならないとか)

そもそも無神論者のわたしの家に、なぜ神棚があるか?
しかも、建て替える前の古い家の時、昭和の時代から(かれこれ35年前)、わたしの家に鎮座している。
建て替えと共に、神棚も一時一緒に移動して、また新築の家に収まった。
この神棚、何が入っているのか、何を祀っているのかも知らない。
わかっているのは、誰かのお下がりではなく、まったく新品の状態で(神具店で購入されて)うちにやって来た。
買ったのは、姑。
(この流れは、安易にご想像いただけると思うが)

息子(夫)の家に置く、息子一家の幸せと安泰を願ってのものだ。
善意のかたまり。悪意など1ミクロンもない。
だが、設置された息子の妻は、、、無神論者。(他の宗教の信者ではないだけ、摩擦が少ないからマシ)
その時、断ればよいものを。

「お義母さん、わたしは無神論者なので、へんに扱いを間違っては神聖な神様を冒とくすることにもなりかねないので、神棚は辞退させていただきます」

と、なぜ、言わなかったのだろう。
当時のわたし。
まったく何にも考えていなかったのだ。
時限爆弾でもない限り、「置いてね」と持って来られたら、すんなり考えなしに置いた。
孤児を受け入れる里親のごとく。

特別に過激な、悲劇を生む新興宗教でもない、神代の昔から日本人には身近に慣れ親しんでいる神様なので、拒絶反応は起きなかった。
ただ、受け入れたからには、ホームステイ先のホストファミリーのように、ある程度の世話をしなければならない。
にもかかわらず、鍵は持たせ、門限なし、友達を連れて来るのも友達のところに泊まるのもよし、長期留守も認め放題の超放任ホストファミリーは、いかがなるものか。
信頼をベースに緩やかに繋がっているかんじか。

まあそういう高貴でお偉い居候(→不謹慎)と長年、同居していた。(現在も尚)
居ることは知っていたが、関与しなかった。
夫の実家のカミサマ・ホトケサマに振り回されて、自分の家は二の次。
というか、何もしないことによって、メリハリをつけてリラックスしていた。
緩急、動静。
で、待ち時間は終わり、さて、今からが本番、本腰!
かというと、そうではない。
わたしは、もう本腰は卒業したので。今は余生。
ということは、余生こそ、カミサマホトケサマとお付き合いし、あの世への待合室に待機するのは、間違ってはいない(はず)。

義務から解放され、何もすることがなくなると、究極の自由エネルギーは、人の幸せを祈るのかも知れない。
なら、ボランティア実践でもせよ、ということだが、自分が出来る範囲のことをしたい。
被災地に出向いてお手伝いしようにも、体力のなさからストレスを溜め、倒れたりしたら、かえって周りに迷惑をかける。
それなら遠くから寄付するほうが、まだ役に立つ。
昨夜、NHK TV「クローズアップ現代」で取り上げられていた「遺贈」なんていうものも、あるそうだし。
ただし、もしお金が残っていたら、の設定。
遺贈するために、がむしゃらに節約するのは本末転倒。

と、話は相変わらず脱線している。
さして信仰心もないわたしが、姑に35年前に寄贈された神棚を、ちょっと埃を払ってもう一度、見てみようか、という話。(延々と続いている、、、)
しかし、神棚のお社の中には、どこの、どんな神様が入っているのだろう?
知らないで、ずっと神棚が我が家にあるところが、なんとも言えない。
わたしをはじめ、夫や子供たちも絶対に知らない。
(夫の実家ではない)我が家に神棚があることすら、知らないだろう。
聞こうにも姑はあの世だし、今度、こっそり、お社の中を開けてみよう。
せっかく今までおとなしくしているカミサマが気を悪くして、バチが当たるか??
そもそも、神棚は長くても20年に1回は、新しくするのが良いそうだ。
古い神棚は、神様の力が弱っているとか。
ということは、あまりご利益は、なさげ。

話は変わるが、
今ふと思うのに、精神的に、やっと夫の実家から親離れ出来た兆しではないかと。
雛に餌を運んだ親鳥は、巣から出て行ったが、残った雛は、親鳥が残していった餌が巣の奥に、フリーズドライになって、まだあったのを発見したようなかんじか。
踏襲するのもよし、手を加えるのもよし、改良するのもよし、捨てて一新するのもよし、
なんでもよし。
たたき台があると、それを見本にして、考えを修正したり、見直したり、改善したり磨いたりしやすい。
あるいは、取り止め、廃止することもある。

たまたまこの度、人工榊を購入したのは、生協カタログに載っていて目についたから。
何げない、ふとした思い、行動である。
ではあるものの、核家族として、親から離れて35年も経ち暮らしていると、親離れし、自立、独立した新しい自分を水面下で、かたち作っていたのだろう。
もう高齢者なのに、今頃自立って、かなり時間がかかっている。
それは、ある程度、目に見えない力でマインドコントロールされていたからではないかと想像する。
昔からの価値観を、自分で考える余裕も時間もなく、押し付けられている。
その長年の圧力、押し付けからの脱却ではないかと推測する。
それにしても、長い。
20や30歳ぐらいで親離れするはずなのだが、なんと2倍、3倍の時間がかかっている。
それだけ従来の価値観は重く強いものだったのだろう。

35年前から我が家に鎮座していたものの、祀られてはいなかった神棚。
そこに、人工榊が偶然仲間入りし、35年前の神棚から、ピヨピヨひよっ子神棚魂が誕生した。
まだひよっ子のため、成長しないで立ち消えるかも知れない。 
人工榊は、人工なので枯れることはないが、埃をかぶることは大いにあり得る。
すわ、ひよっ子魂、誕生お祝いか、と威勢づいても、また元通りの、埃をかぶっただけの神棚になるかも知れない。
明日のことは想像できても、1年後、10年後はわからない。

うんざりするほど、長文になった。

※写真は、1620年に建立されたという石燈籠

ただただ平穏無事を祈る

2024-02-19 | 日々のこと
今日は、のんびりした一日。
何をするでもないのに、もう夕方。
もったいない時間を使うことこそが、贅沢なのだ。たぶん。
というよりは、頭のネジが緩んでいて、時計の針がちゃんと読めないだけか。

午前中は、あっという間に過ぎた。
何をした??
ペットボトルゴミを出して、昨日の片付けをして、うだうだ、ぼんやりスマホで他のブロガーさんのブログを読んだり、LINEでやり取りしたり(午前9時まで)。
それからは、紙の日記を書いたり、この1週間の出費をレシートから書き写したり。
その中でも特に、意外に時間がかかるにも拘らず、砂を噛むような無駄時間になるのは、紙の日記で、見たテレビの内容を書く時。
なんだった?誰だった?なんと言う名称?
などなど、なかなか思い出せなかったり、漢字をぽろっと忘れたり、、、
あっという間に時間が過ぎていることがある。
いつもスマホ入力のため、ほんとうに簡単な漢字なのに、自筆する時、自信がなかったり、、、。
これはかなり来ている。忍び寄っている。じわじわ足音を感じる。(脳)
大丈夫か、わたし。

そんなこんなで、午前はレシートを処分したり、過去の仏事記録ノートを見たり。
過去の仏事記録ノートは、舅の仏事に関して、小姑(夫の姉)が記載しているものは、きっちり正確で見やすく、わかりやすい。
それに比べて、わたしが記録した姑に関するノートは、わたしの整理能力のなさ、アタマの悪さが露呈されている。マズイ。
性格が出ている。
後から記録を見る場合、きちんとキレイに整理されたノートであれば、誰が見てもすんなり把握できる。
わたしが書いたものは、まずは、文字や数字の表し方がごちゃごちゃしていて、読む意欲を削がれる。
書類や領収書などをちゃんとノートにまとめず、そのまま束にして、どさっと紙袋にひとまとめにして置いているものもある。
自分がわかればいいというスタンスの忘備録。
後の人が調べて紐解く場合、一番、手のかかるパターン。
仕事を溜めるタイプ。仕事が出来ないタイプ。
数字や文書を扱う仕事には絶対に就けない。

ちゃんとまとめてノートに書き直せばよいものを、喉元過ぎれば熱さ忘れる。
無事に終わったことは、忘れる。
小姑のまとめたノート(2001年作成)があるから、それを参照すればよい、と、わたしはタカをくくっている。
サボっている。
第一、仏事のやり方は、まるまる踏襲しなくても、時代や人によって変わってもよい、と考える。
自治会の役員のなり手が激減しているのと同様に、煩雑で手間のかかる、時代に合わない部分は端折って合理化を推し進めなければ、誰も引き継いでくれない。
そんなノートを見比べたりしていたら、あっという間にお昼になってしまっていた。

お昼にはレターパックが届いたり、電話がかかってきたり、今年は前々から停滞していたことがやっと動き始め、なんらかの変化を見せている。
しかし、そのスピードの遅いこと。
お尻が重いので、なかなか動かない。
が、いよいよか。

そうなると、一つではなく二つまとめて処理しようとする。
めんどくさがりなのだ。
行きに用事をするとすると、帰りは絶対に別の用事を入れる。手ぶらでは帰らない。
動く時はあれもこれも、一度にまとめて。
なにしろ、ものぐさなので。


ところで。
仏事で姉一家と集まった。
欠席7人、出席16人。
姉一家は来週?また、仏事で一家の集まりがあり、総勢25人。
仏事は鬱陶しいとは思っていたが、仏事そのものは、めんどくさいものの(→不謹慎)、兄弟一家、姉妹一家が集まるのは、なかなか興味深い。
ついに、自分たちが1番年長の世代になったせいもある。
世代代わりが行われ、孫、ひ孫と、世代は若返る。
お年寄りにとっては、一族の集まりは賑やかで活気、元気をもらう。
もっと歳を取れば、娘たちの代にバトンタッチされ、我々はお客さん状態で参加することになる。
かなり高齢の人々はもう参加するのは心身ともにキツいようで、参加しない。
我々も次の代にバトンタッチするまでの間が、活力がある期間。
とは言え、つい最近、上の代からバトンタッチしたばかりだが。
エリザベス女王のあとを引き継いだ高齢のチャールズ国王のようなものか。(明らかに例えが適切ではないにしても→不謹慎)

こんなことを書いていると、ますます閲覧数は下がる一方だ。

ちなみに、スマホを触らずに、今日は今のこの時間(夜)まで持ったのだから、これは益々、今日はいったい何をしていたのだろう、と検証したくなる。

話は変わるが、人工榊を注文し、手に入った。(※榊=植物。神事、仏事などに使われることが多い)
(夫の家では今も常時、生のホンモノ榊)
わたしのは生の榊ではないのだが、うちの神棚にお供えするもの。
これは、わたしの人生の中で大転換である。
無宗教で無神論者のわたしが、、、。
しかも、人工であるところが、超矛盾している。
どういう心境の変化だろう。
いよいよあの世が近くなったという自覚に背中を押されたのか。
このまま平穏無事を祈る気持ちからか。
ささやかな気持ちではあるが、平穏無事を維持するのは1番難しいかも知れない。





悩みは優柔不断であること

2024-02-17 | わたし
自分の行動を選ぶ時、目的と難易度と適性を考える。
自分とはまるで関係ない雲の上のようなことでも、憧れ眺めるだけなら、自分の適性(能力)は関係ない。
自分もやってみる場合は、ある程度、適性(能力)が関係する。
その間に横たわるのが、難易度。
それを柔軟に跳ね退けるのは、熱意、どれぐらい好きか。

あまりにも適性がない場合、いくら好きでも、費用対効果や、能率、効率を考えてみる。
見通しなど、まるで無視、でも良い。
人それぞれの時間の使い方、労力の使い方、お金の使い方、エネルギーの使い方。

そう考えると、危険でハードな「登山」なんて、よほど好きでないと出来ない。
緊張感や達成感は何ものにも代え難いのだろうけれど。
わたしには無理。

わたしは、怠け者なので、何ごとにも、ぬるい。
緩い、温い。
最小限の労力で最大限の効果を期待する。
省エネ。
あまり無茶はしない。無謀な試みにはチャレンジしない。
手堅く行く。
ローリスク、ローリターン。
おそらく、満足の沸点が低いのだろう。
なので、なかなか行動には移らない。
活気がない。
感情の起伏が少ない。 
淡々としている。

人に押されて渋々動く。
しかし、動くからには効率を重視する。
期待が少ない。プラスがあれば、儲けもの。
なんでもいいのだ。
こういうのを覇気がないと言うのだろうか。
だけど、いつもだいたい機嫌は良い。
(でも、怖いものはいっぱいある)

ここまで昨日、書いて、ボツにしようとした。
が、今朝、捨てる前に読み直してみた。
このまま続けて書くことにする。
日が変わると気分も変わる。


わたしが最も苦手とするのは、自分から自発的に能動的に動くということだ。
自分で考えて自分で決断して自分で行動する。
この局面になると、途端に苦しむ。
受動態が楽。
どうしたい?わたし?
どうすればいい?わたし?
2択か3択。
①する②しない③保留

わたしは保留が多く、もたもたしている間に選択肢が狭まり、最後には選択肢がなくなる。
それは避けたい、と考えに考えるのだが、熟考しすぎて、決断できない。 
これを優柔不断というのだろう。のろま。
自分の性格は自分が一番よく知っている。

したいか、したくないか。二択。
これに、「別にどちらでもよい」が加わる。
すると、事態に流される、ということになる。
そうなる前に決めなければ。行動しなければ。
期限を気にしながら、ぐずぐずする。
最後あたりには、脳の空気が圧縮されて決まってくるのだが。

選んだことが失敗方向だったとしても、嘆くのは自分。
誰の迷惑にもならない。
自業自得。
あまり能動的な欲求がないため、困る。
そう言いつつ、損はしたくない。嫌な目には遭いたくない。
煩悩のカタマリである。
損得感情が動き始めると、たちまち躍起になる。
欲深い。

※写真は、吹田の地車(だんじり)
天保期(1830〜1843)頃の作だとか。





書くひと、読むひと

2024-02-15 | ブログ
嫌味、自慢と取られるかも知れないが、忖度せずに書く。
文章は書く人の性格が表れるとよく言われる。
小説家は空想、捏造の世界なので、よくわからないが、何作も書いている人は、それなりに作者の奥に流れているものを感じる。
ある意味、制作の原動力だったりする。
疑問だったり、怒りだったり、問題提議だったりする。

ただただ「嬉しい、楽しい」の作品は、つまらない。
見せ方、表現の仕方に工夫が要る。
共鳴を得る何かがないと、すぐに消えてしまう。

読む側、見る側は、楽だ。
好きなものを選別して、好きだ、嫌いだ、面白い、面白くないと、好き勝手に感じていればよい。
好きなものは追い求め、嫌いなものは避け、どうでもいいものは忘れ去る。
自分の感性に素直に従って楽しむ。
ある意味、暇つぶしである。
楽で楽で楽な暇つぶしである。
時間、お金、労力の中で、主に必要なものは時間ぐらいだ。
時間は誰にも平等に与えられる。
ただ、時間の中身、濃さは1人1人異なる。

冒頭の、嫌味、自慢に話を戻す。
わたしは読み手ではあり、書き手でもある。
しかも、生まれつきの天然のため、あまり人の影響を受けない。
独自の自分コースを行く。
わたしの文章には、わたしらしさが出る。
(わたしテイストに対して感想を言われることも稀にある)
文章はテイストではなく中身だと思うのだが、わたしは中身をあえて書かない。
書くとすると、わりとどうでもいいこと。
肝心の具体的な部分は自己開示しない。
戦争体験者(従軍)が沈黙を破り重い口を開くように、いつか、あの世が目前に迫った時に書く日が来るかも知れないが、たぶん、来ない。(と、相変わらず大袈裟な、幻の文豪か)
自分の胸の中で収める。
日頃、書いている書きつぶしの山は、読んでくださる方には申し訳ないが、暇つぶしである。
本当に書きたいことは、書かない。
そのほうが、自分を守る。
防衛本能である。
言ってしまえばお終いなことは、言わない。
一歩手前で止める。
だから、トドメを刺さない、つまらない文章になる。
すみません、確信犯です。

どんな大きな出来事があっても、日常風景描写でそのままストーリーは終わりたい。
日常はまた続くから。
終わりがないまま、続いたまま終わりたい。

ちなみに。
わたしが一番重要だと感じるのは、生死。
わあわあ騒いでいるその問題は命まで持っていくか?
命の危機がかかっているかどうか。
が、自死は絶対に勧めない。(勧める人もないだろうけれど)
絶対に生きなければならない。
わりと些細なことに神経をすり減らすのは、命を削るから、やめましょうね。
(だが、仕事で正確さを求められる場合は、神経を集中させて頑張ることになる)
若い頃は、生命は無尽蔵にあると思っていた。
が、残り時間が狭まってきて初めて「生」の大切さを感じる。

※写真は、昨日、撮りたてほやほや。
11キロ、ウォーキング最中。