蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

いろんな面で、成長・・・

2009-11-30 | 時事&世の中
昨夜の亀田興毅と内藤大助のボクシングの試合、瞬きしないぐらい、一生懸命見た。
亀田があまり、内藤の挑発に乗らないかんじで、守りっぽかった。
もっと派手な打ち合いを期待していたが、ちょっと気が抜けた。
しかし、スポーツ紙を見ると、あれでもパンチ炸裂だそうだ。
私は、格闘技など、普段は全く見ないので、
リアルタイム映像で、ガンガン打ち合うのが、面白い試合だと思っていた。
(スローモーションや、別角度での再録で見て、後からわかるようなものではなく)
でも、見る見るうちに、内藤の顔が変形してくるので、早く終わって!!と私の心の叫び。
やっぱり、パンチは、当たっているのだ。
あんまり、ど素人が、わかってないのに、ちんぷんかんな変なことを言うのは、
みっともないので、試合の話はこのあたりにして・・・。

亀田は、大人になっていて、なんだか不思議だった。
試合もさることながら、言動が、まともになっていたし、謙虚になっていた。
さすが、長男。これからの亀田家を背負って立つ、親の代わりができそうだ。
あの亀田お父さん(史郎氏)、子供たちにボクシングの教えは頑張っているにしても、
口のきき方、大人との接し方、そういう常識面を全く教えていなかった。
というより、お父さん自身が、常識を身につけていなかったし、今まで知るキッカケにも恵まれなかった。

久しぶりに見た亀田は、誰か彼に常識を教えてくれた人がいたようで、
ちゃんとした立ち振る舞いになっていた。
お父さんは、ちゃんとした口をきくようになった長男を見て、自分の無知に気づいたかなあ・・・
辛酸をなめ、苦労をし、努力を重ねると、人は変わるのだなあ・・・と、
大人になった亀田興毅を見て、感心した。見直した。

ボクシングだけが強ければ、あとは、どうだっていい。
結果が全てだ。
そういうことかも知れないが、結果を支える、目に見えないものを、私は見る。


ちなみに、昨日の「蝶になりたい」閲覧数が、おかしい。
異変? それとも、コンピューター・ミス?

知人に送るメールを、下書き保存のつもりで、一瞬、ここ(gooブログ)に、コピペし、
「公開しない」とクリックするべきところを、間違ってそのまま「公開する」にしてしまった。
でも、瞬間的に気づき、即、「公開しない」にやり直した。
なのに、閲覧数が、新記事をアップしている時と同じぐらいか、それより多いぐらい。
どうなっているのだろう????
うーーん、gooに翻弄されている。
わけがわからない。

この閲覧数に、一喜一憂していたが、こんな結果になると、あまり関係ないのかな、と
ちょっと複雑な心境。
あるいは、ほんの一瞬でも、自動検索で、たまたまキーワードに引っかかったのか?
それにしても、アップしたのは、一瞬だっただけに、
そんな一瞬(1~2秒ぐらい)でも、自動検索は作動するのだろうか・・・????
まあ、よくわからないこともあるということで・・・
マイペースで、まいります。


ゴキブリ姫?!

2009-11-28 | わたし
足の指骨折からはや一ヶ月、私は室内監禁を余儀なくされている。
いらいらいらいら・・・イライライライラ
お菓子を食べる、コーヒーを飲む、なにかをつまむ、コーヒーを飲む・・・
それの繰り返し。
太らないわけがない。
このまま、もう、ダンスやフィットネスとはオサラバかも、という気もしてくる。
手足をもぎ取られ、行動を制限されるのはツライものだ。
そこで、つい最近、私との戦闘の結果、
打ちのめされ、追いつめられて、手足をバタバタさせ、虫の息になったゴキブリに、
わが身を重ねる自虐ネタに、どっぷり。

頭にはなにも浮かばない。
ニュースを見ても、街を歩いても、なにも心が動かない。
ドル急落は、不安だが、一人で憂っていても何もできない。
この経済局面に、私は真逆の動きをしてしまった。この後味の悪さといったら・・・。
ブログも、書きたいものが、湧きあがってこない。

この頃は、毎日、パリのガイドブックを読んでいる。
この記念館に行きたい、小さな博物館や美術館も覘いてみたい、ホテルはここがいいな・・・
あれこれ、脳内ツアーのプランを立てている。
実現される日など、来ないだろうに。

牢獄に幽閉された、お姫様って、哀れだ。
せめて、宮殿に帰してほしい。
わ、私は、お姫様??!!
ゴキブリになったり、お姫様になったり、忙しい。




ひと足お先に、年忘れ

2009-11-26 | グルメ
忘年会場は、オープンしたばかりの、タイ料理店「タイレストラン ライタイ 桜町店」。
このお店は、昼網などの新鮮なトレトレ魚で有名な、魚の棚センター街の目の前の、銀座通りに面している。
以前は、長年続いていた帽子屋さん。
時代の流れには勝てず、閉店したあとに、新たなお店がオープンしたようだ。
同じ市内に、すでにオープンしている、もう1店舗「ライタイ」があるようだ。
税理士氏を交えての例会終了後、そこへ行きたいとメンバーからのリクエストがあり、
さっそく忘年会が開かれた。

本格的なタイ料理だった。
初めの一品は、すんなり、生春巻き。
昨年のベトナムを思い出した。
だが、春雨サラダになると、ぐっと効いてきた。
独特の香辛料や、激辛唐辛子?が、効いて効いて、涙ぽろぽろ、鼻水ぽたぽた。
タイには何度か行ったけれど、その時の料理を思い出そうとしたが、こんな辛かった??
前に行った、大阪市内の事務所近くのベトナム料理店では、激辛のあまり、
鼻水が出て止まらなくなり、途中までしか食べられず残したら、店のおばさんに、
「なんで、辛いのが苦手だと言わないの? 前もって言ってくれたら、味を調整したのに」と逆切れされた。
そのトラウマから、最初に、ぐっと鼻にくる料理には、怖気づいて身構えてしまう。

激辛の味にもだんだん慣れてきて(というか、舌が麻痺してきて)、
次々に出てくる料理の味を楽しんだ。
中華料理に共通するものもあった。
香辛料や香味野菜が、どの料理にも味の決め手となっている。
この店は、今までのタイ、ベトナム、マレーシア、インドネシアで味わったものと少し違う印象を受けたが、
店の雰囲気や、一緒に行った顔ぶれや話題にも左右されるだろう。

中でも、やわらかいので、殻ごと食べられるカニ料理は、
生クリームや卵でやんわり、味つけしてあるのだが、とても、コクがあった。
これは、上海で食べたカニ料理が蘇ったかんじ。
やさしい味わいのカレーも、とても深い味がした。
米は、タイ米だったが、この細長い米粒のカタチを見て、
以前、日本が米不足の時に、タイ米を食べたことを思い出した。
当時、ピンチヒッター米としてのタイ米の味には、驚かされたが、今回はまた状況が違う。
味は、タイ米そのものだ。タイ式カレーには、これが合うようだ。
何種類の料理が出ただろう・・・?? 9種類? 
これで2500円?(or2700円?)は、安い。
(自分で払っていないので、正確なところは???)
どれもこれも、滅多に味わうことが出来ない料理だった。
東南アジアの香辛料の持つ味わいは共通するが、その店流儀の本格タイ料理を満喫した。
本場に行かなくても、本格的タイ料理が味わえるなんて、スパイシーな日となった。


写真は、写メで、しかも、大ブレ、ピントぼけ。美味しさ、伝わりません。残念。

 

血流、悪いです

2009-11-25 | わたし
最近、ブログ記事を用意しても、ボツにすることが続く。
内容が、暗いからだ。
読み返しても、こんなもの、どこが面白い? つまらん!
と、読む人の気になって、お蔵入りとなる。
アップされないまま、溜まっている。

足が治っていないこともあり、趣味のダンスはもちろん、出来ない。
足が痛いから、普通の靴も履けないので、靴もヘン、なので、服もヘン、
ついでに、髪もヘン、顔もヘン。
鏡を見れば、やたら年がいった、ツヤのない、さえない人物が、そこにいる。
運動不足のせいで、ぶくぶく。お腹は、ぽっこり。
せっかく3年かけて、締まってきたのに、元通り。
文章のノリ、テンポは悪く、カラダとともに、アタマの血の流れも悪い。

今も、原稿用紙をくちゃくちゃと丸めて、ゴミ箱にぽいっと投げ入れたばかり。
(パソコン作業ですが・・・)
今日も、消化不良の時を過ごす。
クアラ・ルンプールの夜の屋台で買ったCD、マイケル・ジャクソンの「THIS IS IT」を聞きながら。
それが唯一、血流の悪い私を癒してくれる・・・
が、なぜか、時々、音がすーっと聞こえなくなる。
Why?  屋台のCDが悪いのか?
CDが機嫌を直してくれると、聞こえることもある。
なので、明日をも知れないCD、これが最後かも・・と
一期一会の思いで、途方もなく一生懸命、応援しながら、「THIS IS IT」を聞いている。






自爆してます

2009-11-24 | わたし
私が最も忌み嫌うもの・・・
それは、夫や、実家の特権を誇示し、おカネのニオイをプンプンさせること。
「ほら、いいでしょ。トクベツなの」

自分で稼いだのならいざ知らす、なんで、そうするかなぁ。
しかも、大げさにではなく、ささやかに、ほんの小さな、何気ない扱いで。
いかにも・・・という風にではなく、控え目に。
でも、そう装っているところに、偽善のニオイが充満している。

もっと嫌なのは、それを競う合うこと。
さらに、見栄を張り合うこと。
これは、女性に多い。
いかに自分が男性の従属物であるかということを、アクセサリーの多さで、競い合っているようなものだ。

それに反応する私は、同じ土俵にいるということ?
ああ、いやだ、いやだ。
そういうニオイが嫌で、私は、仕事をし始めたと言っても、過言でない。
バックとは無関係のところのもの、自分だけの力、特徴、アイデンティティを確立したくて。

嫌なら見なければいい、接しなければいいのに、
コワいもの見たさで、ついつい、・・・・

やっぱり、背筋が、ゾ~っとしてしまった。
ほんの小さな一言でも、そのニオイを見つけてしまうと、目まいがするほど、クラクラ・・・
気分が悪くなり、悪寒がして、そして、後悔する。
どんなにそれ以外が素晴らしくても、やっぱり、受け付けられない。

時として、突然、地雷を踏んでしまうのだが、
そもそも地雷は、わざわざ戦地に赴かなければ、埋められていない。
最近は、そうでもない、平穏なかんじだったので、つい気を許していたものの
やはり、この後味の悪さと言ったら・・・例えようがない。

猛毒ガスに、すっかりやられた。
致命的打撃を受けた。
「鼻につく」というのは、こういうものなんだと、しみじみ身に沁みた。


お読みになられている方は、なんのことだか、さっぱりわからないと思いますが、
わざと、わからないように、綴っています。
ごめんなさい。
自爆してます。


マッチ売りの少女 VS 暖かい部屋の少女

2009-11-23 | 読む人々には興味ない話
ジングルベルの音はさすがにまだだが、街には、イルミネーションが煌いている。
クリスマス商戦、真っただ中。あと1か月、熱戦は続く。
家庭でも、幸せそうな笑い声が響く、クリスマス。

マッチ売りの少女は、明るく楽しそうな声が聞こえる窓に、顔をくっつけて、
その光景に、こころ奪われる。
実は、そんな幸せそうな家庭も、病魔が潜んでいることもある。
(「本当は怖ろしいグリム童話」、みたいになってくるが。)
自分が幸せだと、自分に言い聞かせているだけのこともある。
そういう人に限って、ことさら、幸せを演じ、装う。
偽善のニオイが、プンプンする。
が、本人は気付いていない。
それは実際のところ、「幸せ」というものなのだが、一生、知らないまま、棺桶まで到達すれば、完璧だ。
幸せに必要なものは、いい意味で表現すると、純真、純粋、悪い意味では、無知、鈍感。
これに、「努力」、「才能」、「運」が加わる。
そうすると、幸せをつかむことができる(らしい)。

マッチ売りの少女は、最後は死んでしまうが、凍死は死因の中では、最も安らかだという。
夢を見ながら死んでいったのだから、幸せかも知れない。
残された家族がいる場合が、悲劇なのである。
彼女の場合、家族はいないのだから。
ぬくぬくとした窓の中から、笑顔の女の子が、ふと、窓の下を見ると、そこには少女の姿が・・・
でも、見なかったことにしよう・・・いや、それでは、罪悪感が残る。
アタシは、見えていないんだ、気のせい、気のせい・・・と、意識的に消したかも。
いつまでも、死ぬまで、その罪悪感と戦う窓の中の少女と、マッチ売りの少女とでは、どちらが幸せだろう。

マッチ売りの少女は、自分のせいではない理由で、楽しい思いもせずに
努力のしようがない状況で、人の家庭を羨みながら、悲劇のヒロインで死んでいく。
現在の福祉が整っている先進国では、
そんな幼い子供が、寒空の下で凍死するなんてことは、ちょっと現実味はないけれど、
世界中では、まだまだ貧困による悲劇は後を絶たない。
絶対的不幸は、根絶すべき問題だ。
しかし、戦争は、いつも、世界のどこかで起こっている。

富める国で、幸せ感覚が麻痺してくると、目や感覚が曇ってくることもある。
それを承知で、あえて精神面だけを誇張して言えば、
自分のせいではないことや不条理を恨み、嘆くことは、不幸だが自責の念はない。
が、自由な選択のあげく、自分の生き方に責任を取ることも重いものがある。
幸せの質は、高くなればなるほど、苦しみも増す。
いつも、不満を人のせいにしている人は、ある意味、幸せだ。


人は、偽善を抱えて生きている。
そんなこと、ないわ、アタシは、純粋よ、本当に幸せよ、
素晴らしい家族にも囲まれ、素敵なオトモダチもたくさんいるし、・・・
という人は、周りでは家族が泣いているかも知れない。
暖かい部屋の少女は、何も見えなかった、と無理にでも信じようとしているのかも知れない。





下町のセレブ

2009-11-22 | 人々の風景
事務所近くの、ちょいちょい行くお寿司屋さん。
よく見かける年配ご夫婦。推定68~75歳ぐらい?
お年寄りは、いずれ自分が行く道。
大概は、老いに対する私の無理解から、イヤだな~と感じることが多い。
憧れのお年寄りは、テレビの向こう側ぐらいにしかいない。

ご多分にもれず、そのお年寄り、先ずはご主人。
腕にはジャラジャラ重そうな金色ブレスレット。しかも2つも。
あくまで、金色。「金」かどうかは、知らないが。
さりげなく、ではなく、いかにもこれ見よがしに腕を動かして強調する。

ある程度食べ終えたのか、
シーハーシーハー、チッチッチッ、シーハーシーハー、チッチッチッ、チャッ、チャッ、チャッ・・・
歯(おそらく入れ歯)に挟まったものが気になるのだろうが、長時間それを延々と繰り返す。
ただでさえ、食事中の音に敏感な私、同じカウンターに座っていると実に苦痛だ。
いったい、いつまで続くのか?
見かけはヤ○ザくずれ風、近寄りたくもない。
もちろん注意など、できるわけがない。

そしてそのお連れ、奥様。
いつ見ても指にデッカいルビー(風?)の指輪が光り輝いている。
もしあれが本物なら、博物館行き? 
世界の王族か、皇室ファミリー?
屈指の大金持ち? 香港のオークションで落札され、次は何処へ? 
はたまた、アルカポネの妻の親戚?
生身のリアルタイムを生きる人が、あんな寿司屋に
(すみません、お寿司屋さんのご主人!)来る場合は、お忍びで来るはず。
間違っても国宝級の宝石は身につけて来ないだろう。
だとすると偽物のガラス玉?
あんないい年をして、あんな仰々しい偽物をつける人って、いったい?
いや、ひょっとして、全財産をあの宝石に替えて、いつも肌身離さず持ち歩いているのか?
お年寄りが襲われる物騒な世の中、それは、危険すぎるが。
というより、そんな人は、まず、いないだろうけれど。


社交ダンスのレッスンでご一緒するクラスメートも、ギンギラ宝石をいつも身につけておられる。
それも、お二人も。
普段使いのファッショナブルなものは別として、
正統派の宝石というものは、セレモニーか、それにふさわしい場に身を置く時だと私は、思っている。
発表会ならいざ知らず、毎週のレッスンは、宝石にふさわしい場???
(発表会でも、踊ると、はずれることがあるので、大ぶりのイミテーションがおススメ)

大粒の真珠、ダイヤ、ヒスイの指輪、大きなカメオブローチ、・・・などなど。
私は時々、ユニークな服を着ていると、そのうちのお一人に、「それ、あなたが作ったのですか?」
「金時(きんとき)さんみたいですね」と言われる。
一度ならいいが、何度も言われると、その人の美意識からすると、きっと理解できないのだろう。
いかにも素人の手作りくさい、チャチな縫製、素材の服を、わざわざ買うなんてありえない、
恥ずかしげもなく、いい年をして、そんな恰好で来るな、とでも言いたいのかも知れないが、
私は、たかだか社交ダンスのレッスンごときに、なんでキバルのか、理解できない。
彼女たちにしてみれば、そういった類のものをつける機会があまりないのか、
あるいは、外出する時は、宝石武装で身を固めるのが信条なのか、それは知る由もないが。
双方、意識が違う。
持たざる者のヒガミと取られると、私の言いたいことと、大きくズレるのだが、
世の中、いろんな人がいるということだ。


まぶしい笑顔

2009-11-21 | お付き合い
私は極端に友人が少ない。
その数少ない友人の一人が、Fさん。
彼女は、私がずっと以前に勤めていた会社に、外部スタッフとして登録していた、
元気はつらつの、フットワークの軽い女性だった。

彼女が本格的に仕事をしようとした矢先、上のお子さんとずいぶん離れて、下のお子さんが生まれた。
その子育て専業主婦時代から、専門学校の学費をバイトで貯めて、国家試験に挑戦し続けた。
40代後半で、やっと社会保険労務士の資格を手にした。
今のところに就職する前は、小さな事務所に就職していたのだが、
かなりひどい扱いを受けて、参っていた。
前々から約束していて一緒に行った、ミュージカル「マンマ・ミーヤ」も、丁度その職場に勤務していた頃だった。
体の調子が悪く風邪薬を飲んでいたため、楽しみにしていたにもかかわらず、彼女は不覚にも居眠りをしていた。
本人は、せっかくのミュージカルなのに、居眠りを残念がっていたが、ストレスや疲れもあったのだろう。

彼女が新しい職場に就職して間もない頃に会ってから、はや1年、
その彼女から久しぶりにランチのお誘いがあった。
いつも昼食は、セルフサービスのお店で、昼食後は、店内で勉強するのが、彼女のパターンだそうで、
ちゃんとお店でゆっくりランチをしたことがないと言う。
私も、ランチに時間を割くことはない方なのだが、久しぶりに彼女の話を聞きながら、ランチしようということになった。

彼女は、長い間、資格試験に挑戦するものの、落ち続けて、すっかり落ち込んでいた時期があった。
勉強、勉強、勉強、家事の合間にまた勉強、そう若くはない頭に、覚えては忘れの繰り返し。
かなりきつく、苦しかったようだ。
今、Fさんには、そんな苦しんだ時があったなんて、ちっとも想像できない。
「Fさんにも、弱いところがあるんですか? なんだか想像できませんね。
仕事がバリバリできるような、強い女性のイメージですから」と人に言われたとか。

Fさんは、今ごろになって、やっと、自分の人生を振り返って、
「私、もっと人と会ったり、遊んだり、楽しい時間を過ごさないと、損なような気がして。
今まで、がむしゃらに真面目にやりすぎたかなって。」
と言う。
そして、人と会うのが楽しくなってきた、とも。
前に会った時は、次の資格試験に向けて頑張っているけれど、うまく進んでいないと苦笑いのFさんだったが。
もう、そんなに頑張らなくてもいいじゃない・・・と私は思う。
休憩も大事。ひと休み、ひと休み。
今の職場に就職し始めた頃は、出先で、先生と呼ばれることに戸惑っていたが、
もう慣れた、と言うFさん。

いきいきとした彼女の笑顔に、まぶしさを感じながら
仕事の話をはじめ、いろんなを聞いていたら、あっという間に、ランチタイムは終了。
仕事の時間があるので、時を忘れて、ということはないのだが、楽しい時間だった。

マイケル・ジャクソンの「THIS IS IT」を彼女も一人で観たらしい。
今後、本場のエンターテイメントを、ぜひ本場に見に行こう!!と約束し、盛り上がった。
ほんわか夢が広がり、またひとつ、目標が出来、その楽しみを胸に包み込んで、お互い、仕事に戻った。

無知の導くもの

2009-11-19 | 読む人々には興味ない話
人のブログを読んでいると、面白い。
何が面白いのか・・・・それは、ひとそれぞれ、面白いと感じる視点が違うからだ。
自分と違うからといって、不愉快というわけではない。

ただ、自分の考えや感性、価値観と、すべてがあまりにも全く違う場合は、
無意識に、条件反射的にシャッターを下してしまう。
お互い、相い入れず、不快なので、近寄ろうとしない。
見たくもないし、興味もない。

なにかしら共通点があるうえで、別の、相違点を発見すると、それが面白いと感じるのだ。
考え、感性、価値観、全てが同じ人など、この世にいるわけもなく、
友人というものは、ある部分が共通しているだけだ。
その、「ある部分」が、大事なのだけれど。

なので、友達にもいろいろあり、
職場仲間、学友、ママ友、ご近所さん、趣味仲間、ファン仲間、飲み友達、遊び友達、ヒマ友達、
頑張り仲間、病気仲間、悩み仲間、愚痴仲間、ネット仲間、、戦友、盟友、悪友・・・
共通の部分で、盛り上がり、絆を強める。

価値観というものは、生まれ育った環境や、生きざま、体験、精神構造などで、大きく変わる。
上昇志向の頑張り屋さん、苦労知らずの楽天家、不幸を背負う人、はね返す不屈の人、などなど・・・
だが、願望や目標と資質とが、あまりにもかけ離れていると、不幸の元だ。
犯罪につながったりする例もある。
自分を見極めて、目標を持つべきだ。
そして、一気に目標に到達しようとするのではなく、少しずつ、少しずつ、気長に、忍耐強く。
時としては、柔軟路線を取り入れ、方向変更もありだ。

毎日をいい加減に生きている人も、その人が楽しければそれでよし。
しかし、周りに迷惑、悪影響を与える場合は、NG。
人それぞれ、価値観が違うのだから、自分と近い価値観の人と付き合えばよい。
ただし、自分の属すグループだけを重んじるあまり、協調性がなさすぎると、
自己中心的な、他人を思いやる気持ちが生まれなくなったりして、
そういう人が増えると、国としても将来の展望は、憂いあるものとなりそうだが。

私は、自分が劣等感を感じている部分がある。
その劣等感分野で、もっともっと劣等感を感じるべきレベルの人がいても、
全くそんな劣等感は感じていない、むしろ、満足している人もいる。
ある意味、羨ましい。
それは、価値観の違いというよりは、棲む世界の違いだろうか。
それとも、心の持ちようだろうか。
自分の立ち位置を知って、精神面をコントロールするのと、
知らなくて、幸せなのと、どちらがいいだろう?
無知というのは、不幸も引き起こすが、時として、幸せを導くこともある。
どうせ手に届かないこと、どうしようもないこと、達成不可能なことなら、知らない方が幸せだから。
羽をもぎ取られたウミツバメよりも、ニワトリのほうが、生きるには居心地がいいかも知れない。

世の中には、いろんな人がいるので、自分の尺度は、人と同じかどうかは、微妙なところだ。
だが、私は、無知を恥じる。
知らないよりは、知って、受けとめ、そして強くなりたい。






映画「沈まぬ太陽」

2009-11-18 | 映画
渡辺謙、熱演。
彼は、熱かった。

「破綻」か「自主再建」か、今、日航は国を巻き込んで、揺れに揺れている。
前原国土交通相は、今日の衆院国土交通委員会では、
日航の再建手法は企業再生支援機構にゆだねる考えを示したが、
機構が「自主再建が不可能」と判断すれば、法的整理に追い込まれる可能性も残っている。

その、まさに今、渦中の日航を思わせる大企業を舞台にした
まるでノンフィクションのごとくリアリティあふれるこの作品は、
実在の日本航空元社員・小倉寛太郎がモデルに繰り広げられる、
山崎豊子の綿密な取材に基づくフィクション小説だそうだ。
彼女の現実社会を見る確かな目で、問題点が浮き彫りにされているが、
登場人物一人一人にモデルが実在するため、イメージ悪く描かれている人は、不満タラタラらしい。
例えば、ちょっと枝葉の人物だけれど、ジャーナリスト氏。
いかにも女好きというような設定に、大層ご立腹とか。
別のサイトのお仲間の一人(元ジャーナリスト)が、裏ネタをぶちまけていた。
渡辺謙扮する主人公、恩地も、さにあらん。
アフリカで、象牙を売って儲けたらしい、とか。
色々諸説はある。
原作に比べると、映画は、パッチワークみたいに、ペタペタ貼付けているだけ、
という感想を持った人もいるようだ。

小説発表時も勿論のことだが、いずれにしても、今、騒がれている、ナイーヴな企業だけに、
微妙な反応があちこちから起こっている。
もうずいぶん前のことだが、私の長女が、就職したい企業のひとつとして、JALをラインナップしていた。
しかし、志望動機を書く段階で、どうも、いまひとつ、自分の動機がわからなくなって、
つまり、本当に就職したいのかどうか、自分で、決められなくなり、結局は、リストから外した。
もし、彼女が就職していたら、予想以上の荒波が待っていたのかも知れない。
家族である私も、他人事のようには捉えられないだろう。
しかし、結局、JALには就職しなかったので、今は、無関係である私は、お気楽な一観客に過ぎない。

なので、いつもの如く、なんの先入観も、知識も持たずに、そして、原作も読まずに、映画に臨んだ。
客席は、あら不思議。
いっぱい、人がわんさか、ほぼ満席。
いつも私が利用している映画館は、よくても半分しか入らないのに、ものすごく盛況だ。
期待度の高さが伺い知れる。
公開初日、舞台あいさつが都内で行われた時の、主演の渡辺謙の、号泣、男泣きが、効いた???

超大作で、3時間を超える長時間のため、途中で10分の休憩が入る。
トイレに行った後、なぜか私は、急にソフトクリームが食べたくなって、休憩時間に買い求めた。
それを持って、あたふた場内に戻ると、もう、場内は暗く、後半は始まっていた。
ソフトクリームをペロペロ、べちゃべちゃ、コーンをボリボリ、かなり回りに気を使って食べた。
こんなんじゃあ、買うんじゃなかったと思ったが、後の祭り。
お隣に座っておられた方、ゴメンナサイ。

三浦友和、ステキに年を取っている。
西村雅彦、なかなか、大げさ演技ではあるけれど、ふてぶてしさが良かった。
加藤剛、お久しぶり、こんなオジイチャンになったんですね。でも、背筋がしゃんとして、いいかんじ。
恩地の娘の婚約者のご両親役は、桂南光と、秋野暢子、
なんで、あんなにコテコテ大阪人をキャスティングする?(おもしろいけれど)
鈴木京香演じる奥様、ちょっと出来過ぎかな?

ちょっと渡辺謙だけがかっこ良く、熱く描かれすぎな気もしないでもないが、
そこは、メリハリ、デフォルメ、演出効果。
恩地も、奥様も、大変だっただろうけれど、別々に暮らしていて、良いこともいっぱいあったかも。
亭主、達者で留守がいい。
リタイア後、あの夫婦は、かかあ天下になるだろうな・・・とその後を想像した。
そうやって、シャープなチータか、豹だった企業戦士は、
リタイア後には牙を抜かれ、人畜無害の小さな猫になるのだろか。
そういう収まりどころがあって、安泰があるわけだ。

こんな感想を述べていると、
熱き血をたぎらせながら、社会悪や不条理と闘っておられる方が、お読みになると、
頭から湯気が出るほど、怒り狂うかも知れない。
が、清濁あわせ持つ社会は、家庭のなかにも、その原理は働くのだ。
この映画では、家庭も強く逞しく、清く正しく美しく描かれていたが、
ここで家庭をおどろおどろしく、ややこしくすると、
訴えたいテーマがあっちこっちに散って、ぼけてしまうので、ここは、そっとサポート路線が無難だろう。

企業戦士の方々はじめ、熱く燃えるものを共感された方もおられるだろう。
とにもかくにも、渡辺謙、頑張ってました。
(私としては、三浦友和の悪役も、魅力ありました。効いてました。)

アフリカの大地って、心洗われる何か、強さがあるんだろうなあ・・・
一生懸命生きた人は、清々しい。