蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

他人の目

2016-03-31 | 人々の風景

わたしのブログ。
他人さまが、穿(ほじく)り出してくださった過去の記事を読んだ。
これ、マイブームだといっても、いつも手に汗にぎる。ヒヤヒヤ。

中身。キツイ~。
問答無用で、ビシーっと斬っている。
愛がない。
そう感じた。
一刀両断。自分ごと、他人まで斬っている。

「気持ちよい」を通り越して、痛かった。
ということは、ああいう記事を書いた頃から時が経って、今のわたしは少しは愛に目覚めたからだろうか。
いやいや、老化して、自分を労わるついでに、他人も労わっているのだろう。
自分に甘く、他人に甘い。
基準を甘めに設定して、自分を救済しようとする意図が見え見え。


美しき愛の本質なんぞ、お知りになりたい方は、マザーテレサに聞いてください。

自分をとことん知りたい場合は、自分が大好きなもの、コト、愛してきたもの、コト、してきたこと、したいこと、
それを追究すると、見つけやすいそうな。
魂を高めるもの、こころを満たし喜ばせたもの、夢中になったもの、それは、なんだったのか。

間違っても、寂しいからといって、トモダチとつるんでも、本当の自分は見つからないんだって。
わたしの友人の一人、ニーチェ君が言っていた。(→書いていた)

わたしの友人であるニーチェ君は、1900年に没しているが、わたしにバイブルを残してくれた。
本来は「師」と称したいところだが、あえて、友人にしておく。
なぜなら、わたしには、友人と呼べる人が、たいへん少ないからである。

 

・・・今日は、ここで終わろうと思っていたのに、ついつい、おしゃべりしたくなる。
(友人、少ないもので)


とある、安酒場で、哲学者風の初老の男性が、いつも単行本を3冊ぐらいカウンターに積んで、読書している。
見るからに、清貧。または、赤貧。
髪は、ねとっと、いつシャンプーしたのだろうと思えるような、油っぽい、天然※ポマード(※昭和世代ワード?)付き、白髪のストレートヘア。
七福神の一人のような、でも、貧乏神って、こんなかんじかな?というような、そんな風情。
彼は、その安酒屋に一人で来て、黙黙と本を読む。
そこに来る前は、大手書店でお散歩。おそらく、日課なのだろう。
なぜ、知っているのかというと、たまたま、わたしの事務所がその界隈にあるので、幾度となく彼の姿を見かける。
安酒場は、ドアがないので、通行人からまる見えであるが、そんなこと、哲学者は、気にしない。

〔しかしながら、よくよく考えると、自室で読書という選択もあるのに、あえて人の目のある外で、というのは、彼なりの 楽しみ方?
似非(えせ)哲学者かも?  斜交いに構えたフツーのじいちゃん?
(ちなみに、この人に関して、わたしは何の嫌悪も好意も敵意も共感も感じていません)
わいわい、がやがやのカフェでしか勉強意欲が湧かない学生のようなもの?〕

わたしは、まだまだ孤高の哲学者にはなれない。
そこそこ、自分の気に入った洋服を着たいし、人の目も気になる。
しかし、「人の目」自体が気になるのではなく、人の目に映った自分を、鏡を見るかのように、自分が気になるだけであって、
「人の目」自体は、自分を確認するための単なるツールである。

鏡=人の目
自分流、解釈である。


そう言えば、ふと思い出す。
数代前のおばあさんが書き残した文言に、「立ち向かう、人のこころは鏡なり」というフレーズがある。
こんな言葉だったかどうか、ちょっとあやふやであるが、
仏壇の引き出しに入っているからいつでもチェックできるものの、いつ見ても、原文を覚えられない。

その、おばあさんが、その言葉を書いたのは、今のわたしより3歳若い年齢の時。
(有名人ではないが)ほとんど辞世の句のようなものだろうか。
幕末を生きた彼女(厳密にいうと、亡くなったのは明治初頭)の言葉を借りるまでもなく、平成を生きるわたしが、自分でたどり着いた心境である。
時代は移れど、変わらないものもある。

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しかしながら・・・
平均寿命がこんなに長くなってしまった平成の世で、すでに辞世の句もどきを詠んでしまっては、
残りあと25年~30年、どうやって暮らす?

これはやはり、我が友、ニーチェ君に聞くしかない。
彼もまた、今のわたしより少し若い年齢でこの世を去っているので、困ったものだ。


恥知らず

2016-03-30 | 人々の風景

自分のブログが素晴らしいなどとは、一切、まったく思っていない。
推薦する気、ゼロ。
ぜひ、読んでください、などと、とんでもない。

とあるSNS。
多くの会員の中から、事務局が、目ぼしい会員に白羽の矢を立て、抜擢された会員がコラムを書いている。
コラムは、ごく普通の日記よりも、一段、いや、格段、ランクが上がる。
カラオケで言えば、室内で引きこもって歌うのと、観客を前にしたステージでの舞台のようなものだ。
いろんなジャンルの人が見るので、幅広い交流に広がる。

中には、嫉妬するのか(不思議なことに)、他人の非を見つけるのが大好きなのか、そういう人もいて、
コラムを書くからには、それなりのものでなければならない、なんて、批判されていることもある。
単なる自分の日記なら、好きなことを書いていればいいが、(壇上に上がって)コラムとなると、通常の日記より、内容を精査したり、緊張することだろう。
その分、自覚と責任もやや伴う(はず)。

 

と、これは、長い長い、前置きでありまして・・・。

わたしは、そこでコラムを担当しているわけでなんでもなく、コラム読者である。
普通の日記は、あまりオモシロくないから、あまりにもヒマな時は、コラムを読むこともある。

で、前にも蝶ブログにも取り上げた、美魔女。
この方が、コラムを書いているのだが・・・。
言葉の解釈、使い方が、なっていない。日本語、失格。
それを誰かに指摘された。

美魔女は、「わたしは、文章のプロではないので、そんなこと言われても・・・」という自己弁護をされていた。

しかし、コラム記事の内容は、「用語」に関するもので、例を出して説明していた。
その用語の理解が間違っているので、当然、使い方も、例も間違っている。
さらに、書いている内容が、年代と、当時の事実が一致しない。
それも、最大のご自分の自慢ポイントである部分なのだが。

彼女のファンらしき人物(わたしの解釈)が、彼女を擁護していた。

前々からそのSNSは、ダメだと思っていた。
程度が低い。
わたしは、それを承知で利用している。


ちなみに・・・
わたしは、よく墓穴を掘る。
例えば、「もう鬼畜に入っている人のことを言っても。。。」なんて、ヘーキで言ってのけ、
下娘に「それ、鬼籍やろ」なんて、しれっと訂正される。
「畜生呼ばわりは失礼すぎたなあ」と、とぼけながら、「知ってるよ、言い間違えただけや!!」などと内心思うものの、言い間違えすぎ。
ああ、相手が娘でよかった・・・。
真っ赤を通り越して、紫になりつつ、胸を撫で下ろす。
他にもいっぱい、心臓発作を起こしそうな、大それた間違いを口にする。

なんといっても、一番、カッコ悪すぎることは、
カッコつけようとして、ちょっと、難しめの言葉を使う時である。
難易度が高い分だけ、ほんの少し、間違っている。
日本語なら、1文字、英語なら、ちょこっと。
わからない人になら、ほほ~、難しそうなこと言ってるなあ、・・・と思われ、なんとなく想像してもらえるが、
よく知っている人なら、恥をかく。
間違いを指摘してくれるなら、その場の赤恥で済むし、知識を上書きして、恥を次に生かすこともできるが、
その場はすんなりで、後で気づいた時が、そりゃあもう恥ずかしい。
中途半端なら言わなければいいのに、へんに言いたがる。
これは、たいして理解もしていないで、アタマにしっかり浸透していない段階で、
リスニングで聞きかじった知識を、アクセサリー的に使うからである。
カッコ悪い典型だ。

自分ではそう思って、常にヒヤヒヤしているのだが、世の中には、堂々と、恥を恥と思わず生きている人がいる。
そういう人は、指摘されても、逆切れする。
だいたい、特徴が似通っている。

注目を集めたい人、自己顕示欲が強い人、虚勢や見栄を張りたい人が多い。
聞かれもしないのに、自分の生い立ちや、有名人と関わりがあるという話をしたがる。
ほら、嘘じゃないでしょう?と、有名人といっしょに写っている写真を見せる人もいる。
それで、信用する人もいるのだ。

世の中には、自分とはほど遠い世界の人というだけで、目が眩む人がいる。
どう、ほど遠いのか、ちゃんとチェックしないのか?
例えば、おしのび旅行中のアラブの大富豪だとすると、そんな人が通常は普通の場所に、うろうろしていないはずだし、
もし、うろうろしていても、自分もそれなりの仕事なりなんなりをしていないと、知り合わないはず。
だいたい、アラブの大富豪は、職業ではないので、特定しにくい。

アラブの大富豪とまではいかなくても、ちょっとセレブっぽいニオイがすると、それだけで、わあ~となってしまう。
セレブって?
知らないだけに、想像だけが膨らんで、具体的なモノゴトが見えなくなる。
職業、年収、国籍、人種、性別、、、、
外国だとわかりにくい。ぴんと具体的に肌感覚では理解しにくい。
が、日本人で日本語を話す人なら、ハナシをきいていると、だいたい、わかるだろう。
アカの他人に、べらべら自分の個人情報を流す人は、要注意である。
人物がデタラメか、個人情報自体がデタラメか。

とかくSNSでは、うさんくさい人々が、いっぱいいる。
その、うさんくささを、わかって見ているのか、わからず見ているのか、
その違いは大きい。

わたしが世の中をよく知っているとは、決して思わない。
が、世の中をあまりにも知らない人がいるのを時々見かけると、
その人はどんな人生を歩んできたのだろうと、想像してしまう。

いろんな人が入り混じっているなあと実感する次第である。

 

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ウマい話には、なにかある。

2016-03-24 | 人々の風景

ちょっと書くのをサボっていたら、
ブログ村ランキングで、後ろのほうに「○○になりたい」というブログが、二つ並びそうな気配だ。

「蝶になりたい」をやめて「砂糖になりたい」とか、なんでもいいから、タイトルを変えようかしらん。
「牛になりたい」なんていうのも、一案だ。

前にも書いたが、今のわたしのマイブームは、自分の過去記事を読み返すこと。
けっこうオモシロいのである。
なんといっても、自分のことを自分で書いているから。
そのマイブームにはまっていたら、するすると順位は落ちていっているという、
まあなんと素直な結果。現象。

さて、それはそれとして・・・

前回の「ゆるく生きる」を、ゆるゆるのわたしが提唱しては、石を投げられる説。
これに少し関連して、「しなやかに生きる女性たち」の7つの特徴だかなんだか、そういう記事をSNSで読んだ。
これまた、ニーチェの言葉に賛同したのと同じ。
あら? わたしと全部同じこと、やっているじゃないの?
なにを今更??
あら~、わたしって、しなやかな女性? わあ~うれしい~。
(ただし、わたしの場合は、社会における誰もが納得できるような実績が伴わない。
実は、これが要。実績が伴わない人は、片手落ちで、言う資格がない)

「しなやかな女性」としては客観的な実績が伴わないと、「しなやかな女性」の条件にはドロップアウト。
それらは、仕事も結婚も、趣味も子育ても、すべてをうまくやりこなす、お手本みたいな内容だった。
しかも、記事には仕掛けがあって、げんなりした。

両立を実践した、素晴らしい成功した女性達が紹介されていたのだが・・・
記事を読むと、商品PRや、セミナー参加など、営利的なことへとつながっていた。
なあんだ・・・しょうもない。
パブ記事ってやつである。
ああいうのを読むと、いちばん、腹が立つ。
まあ、ボランティアで、素晴らしいことを無償で行っている人など、いないので、当たり前のことなのだが。

起業して成功しているとされる女性の仕事についても、あういう仕事でちゃんとビジネスとして成り立つのか、首をかしげる。
シングルマザーといっても、親元で暮らしていたりすると、労務的、金銭的な、なんらかのバックアップを受けていると想像する。

ウマすぎるもの、デキすぎのものは、うさんくさいのである。


いま、巷を騒がせているショーン・マクアードル川上氏の学歴詐称問題。
あれにも似たものを感じる。
学歴だけを頼りにして必要以上にひけらかす、うさんくさい頭でっかちな人間も、嫌われるが。
体重や体脂肪ぐらいは、詐称してもまあ良いが、学歴は、詐称するのはコンプレックスの裏返しである。

ビジネスや、お付き合いを潤滑に進める、はじめの第一歩には、後ろ盾、実績が必要だ。
しかも競合他社、大勢の優秀な人がひしめく中で。
それをいともカンタンに捏造するのは、安易過ぎる。

通常、まったく実績がない人を起用しない。
大変な壁がある。取り付く島がないのだ。
そこで、紹介や、つてを頼って、アプローチし、チャンスをつかもうとする。


副業で、自分の小さな食べ物店を出した人がいた。
開店当時は、人が集まったものの、その後、ぱたっと客足が途絶えた。
人の足を取り戻そうと、熱心にこだわりのメニューをつくり、さらっと原材料の産地捏造をした。
あまりに、かんたんに捏造するのを見て、わたしは、おったまげた記憶がある。
その人には、さほど深い考えはない、じつに浅知恵である。
所詮、副業だから、生活基盤が崩れることもないので、あんなものなのだろう。
というか、あまりの安易な考え方や行動に、びっくりした。

しかし、そんなことでは成功するわけもなく、しばらくして店を閉じた。
わたしは、「お遊び」だと、思った。
(お遊びで、店を始めて、閉店する人を、ときどき見る)

遊びと本気は違う。

何事も基礎、下積みの苦労がじわりじわりと力を養い、やがて花が咲き、実を結ぶと思う。
一足飛びに、なんていう了見は甘い。
実績がない人は、知恵を絞って努力するしかない。
試行錯誤もなく、ステップを踏まず、いきなり、即、結果には繋がらない。
足と汗と涙が必要、なんていうと、時代錯誤だろうか。

しかし、川上氏は、もう50歳手前の年齢なので、ちょっと大変かも知れない。
が、経営や国際関係の仕事は幕を下ろしたとしても、ルックスと声の良さとを生かして頑張れば、まだ終わっているわけではないと思う。


ハナシは変わるが、

街中で、異性をナンパするのは、出たとこ勝負のプレゼン力が必要だ。
若い異性なら、見た目だけで十分。
フィーリングが合うとか、合わないとか。
うそ八百、でまかせのデタラメであろうが、その場限りのお付き合いならOK。
お付き合いも、短期が中期になり、長期になると、短距離走向けランナーは、長距離は苦手で、息が続かない。

本人が言っていることが本当かどうかなど、その場ではわからない。
わざわざ学校の卒業名簿を調べるには、時間がかかる。しかも海外となると、これまた、ややこしい。
しかも、たいていの場合、自己申告のみであって、裏を取るなどということは、よほどのことでもない限りしない。

カッコいいデタラメをべらべらしゃべる人がいると、よく聞いてみると、話がおかしい。
騙される人間と、騙されない人間がいる。
人というものは、自分の知らない業界や世界のことには疎いので、圧倒されるが、
熱弁をふるっている人にとって不得意とする分野に、こちらから話を振ってみた時に、常識があるか、ないかが、だいたいバレる。


わたしの知人で、徹底した人間がいる。
自己を守るプロテクターがかなり強固な人物である。
自分の不得意な分野や不利な分野は一切、話さない、触れない、行わない、露出しない。
自分の弱点には、一切、他人を寄せ付けない。
得意分野のみで、世間を渡っている。
それはそれで、良いと考える。
その得意分野が必要な場合は、その人に頼めばよい。
ただし、総合的なことは無理。もともと期待していない。専門的なことのみ。

深く狭いか、浅く広いか、どちらかである。
たとえ、一方だけが秀でて素晴らしいとしても、そこへまた、容姿も声も人当たりも良い、なんて人は、うさんくさい。
しかも、自分がどう見えるか、人から見える自分、人当たりの面で、ものすごく努力していそうだったりすると、なおさら、うさんくさい。

能力も性格も、行動も、私生活も、ルックスも人望も素晴らしいなんて、ありえない。
そんな全知全能の神は存在しないので、
その中の、一点だけをピックアップして、接するのがよいと思う。


人は、なにを目的に近寄ってくるか。
おいしい餌をたっぷり背負った獲物としてターゲットにされ利用されるのは、バカらしい。
相手の意図が見えた場合、騙されてあげてもいいわよ、と、お互いの利害目的が一致するのなら、まあよい。
ただし、持ち寄りパーティであることが望ましい。
GIVE & TAKE というスタンスである。


で、なにが、言いたいのか?
人が憧れるような素敵なものや、コトには、限界や、にた裏があるということだ。
なんでもソツなくこなしているような人は、あまりいない。
もし、そう見えるとしたら、疑えということ。
しかし、人の弱点をほじくり出して探すネガティヴな「イジワル人間」になりたくないので、理想としては、目に見える、わかりやすい長所を参考にして、自分もトライしてみる。
見てくれのいい、聞きさわりのいいことに飛びついても、実際の「実」はどんなものなのか、
イメージに捉われないで、しっかり見極めようとする目が必要だ。

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アカの他人が「ゆるく生きる」のを見て

2016-03-14 | わたし

自分の過去のブログ記事のひとつを読んだ。
超人気ブロガーである「ちきりんさん」の書かれた内容に関してのものだった。

ゆるく生きる。
あっさり書かれたものは、こころを楽にしてくれる。
が、これには、行間に別の意味がある。

有能で努力している人が、数々の実績を積んだ上、得た結果である「ゆるく生きる」を、
無能で努力していない人が、なにも実績を残さず、表面に現れる結果だけをひょいっと自分に当てはめて「ゆるく生きる」。

これは、違うんじゃない?
と、ちきりんさんは、さらりとイヤミなく、でも論理的に書かれている。

したいことと、すべきことと、ヒマだからやっていること、これらを区別して自覚せよと。

わたしが前に読んだときからさらに5年も、人生の残り時間が少なくなってきている今、
新たに読み返すと、なかなか鋭いものがある。

偉い人も、偉くない人も、老化して脳が夢世界に行けば、最後はいっしょやん!
向こう岸もこちら岸も、いっしょやん!
と、偉くないわたしは、元・偉い人の脳が老化しているのを目の当たりにして、感じ悪い感想を抱いていた・・・が、
最後は一緒でも、プロセス、過程、それまでが、違う。
「それまで」が大事なのである。

お腹一杯になるまで食べるのは幸福だが、何をどのように食べるか、だ。
たんに満腹中枢を満たすだけなら、何を食べても同じ。

そのプロセス、なにを食べるか、が、「質」だと思う。
上質を知らない人には、上質の意味を理解できないだろう。
ただし、人によって、質のとらえ方が違う。
基準があいまいなので、皆さん、プライドが傷つかないようになっている。

わたしは、ちきりんさんのように、有能でもなく努力もせず、実績も残していないので、
わたしが「ゆるく生きよう」などと言っても、「あんたが、なにを言う」と石を投げられるだろう。


わたしは、プライドが高い、らしい。
内容もさほど無いのに、意識が中身を上回っている。
せめて、プライドの高さを客観的に実証できる、根拠となる「何か」を具現化させるため、努力すべきである。

とかなんとか・・・またもや文字数をやたら使って、延々と、サボり肯定論を説きそうな悪い予感。
表現を変えただけの、自己肯定は、うんざりであるが、・・・まあ、いいんじゃないか。

優秀な人には優秀な論理、そうでない人にはそうでない人の論理がある。
お互いに、ニアミスして衝突しないよう、交差点でうまく交通整理がなされている。


そういえば、囲碁対戦では、人工知能が人間を超えたらしい。
難しいことは、コンピューターにやってもらったらいい、ってことだ。

人間には、勘が働いたり、感情に支配されてミスを犯すが、人工知能は、律しすぎて、精密すぎて、
逆にそれが命取りになる場合がある。
新しい経験値をアクシデントの起こったその場で臨機応変に対応して、追加することが出来ない。
人間も試行錯誤して更新していくし、コンピューターもプログラミングしていく。
試行錯誤機能を人工知能に付加して、どんどん性能を上げて行くと、恐ろしく高性能のことが出来ることだろう。

データや数値だけで測ることのできない、人間の目や感覚が必要なことは必ずある。
人間の力と人工知能をミックスさせることが 人工知能を使いこなすキーになる。

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つまり、適材適所、能力のある人、デキる人に、助けてもらったらいい、ってことだ。
あ、またサボり肯定か。


ブログる効果

2016-03-11 | 時事&世の中

テレビでは、震災特集が続いている。
ある被災された人は、行方不明の夫に対して、胸のうちを書き綴っているという。
書くことによって、思いを吐くと、気持ちがすっと楽になるそうだ。
ある意味、ライティング・セラピーだと思う。
書くという方法でなくても「話す」というアウトプットも有効だ。
あるエリアでは、思いの丈を話せる、公衆電話のようなボックスが設けられていることが紹介されていた。


わたしは、いつもブログという、とても素晴らしいツールを使わせてもらっている。
落書き、いっぱい、だ。
こころのなかの、もやもやを吐き出してる。
といっても、わたしの場合、自分の考えや気持ちを整理するために書いていることが多い。
たんに、悪態をついたり、愚痴を言ったり、悪口を書いても、ちっとも自分が救われたような気がしなくて、満足できない。
マイナスの気持ちの原因を追究し、マイナスからゼロへと転換させるための、自分を説得させるための、あーだこーだを書きながら考えをまとめている。

自分のブログを改めて読んでみて、なるほど、と、まるでニーチェの言葉のように(すんません、言い過ぎてます。わざとです)
もう一度、答え合わせをするかのように、自分に言い聞かせ、
これでいんだ、進んだ道、選択は間違ってないよ、と、自分の背中を後ろから、自分で押している。


母も、現実と非現実を行ったり来たりしはじめた頃、すぐ直前の記憶が飛んでしまうため、忘れないように、と、現実のことを無我夢中で書きとめていた。
「これ、読んでちょうだい」、と、人に迫るが、「自分で読めば良いのに」と言っても、どうも、書いた時点でエネルギーを費やしてしまっているのか、読む気力がないようだ。
すぐ直前でなくても、覚えていることを書き留めているのはよいが、客観的な記録だけでなく、
主観的な気持ちも同時に散りばめて書いているので、読まされるほうとしては、良い気がしないことも多々ある。

なので、わたしは、魚嫌いな人が、骨付き丸ごとの魚を食べる時のように、ちょっとだけつまんで、あとは、突くだけで放置する。
このあたりに、危険そうなものが詰まっていそうだと感じたら、飛ばす。
読まない。
自分を守るのは自分しかいないので、悪いものでお腹を壊さないよう、防衛手段だ。


書くことで、救われる。
ただし、読むほうは救われないかも知れない。
セラピストや、カウンセラーや精神科、心療内科の医師などが、患者さんのマイナス部分に触れて、精神のバランスを狂わせられないようにする、テクニックや努力が必要なように、
ブログも、読む側には自己責任が伴うかも知れない。
といっても、わたしの場合、そんな、鬱陶しい、ややこしいブログは読まない。
母親の書きなぐりメモでさえ、まじめに読まないのだから、他人さんの、不穏なニオイがしそうなものは近寄らない。
怖いもの見たさで近寄る趣味は、得るものより、弊害のほうが大きいので、卒業した。
ハイリスク・ノーリターンである。

ちょっと考えたり、笑えたり、明るい気持ちになれたり、う~ん、お見事、と唸るような、そんなのがいい。


今夜のNHK、21時からのニュースウォッチ9で、俳優の伊勢谷友介氏が言っていたが、
「僕は、未来のことしか考えないんです。
今が良くても未来が悪いことは、良くない。
今が悪くても、未来が良いことなら、悪くない」
(ちょっと聞き間違ってるかも知れないけれど)

彼は、顔だけでなく、言うことも良い。

今が悪いと、良い未来は想像しにくいことは確かだ。
が、悪いことは続かないと信じたい。
良いことも続かないかも知れないが、続くと信じたい。

と、ここで、〆の一言を書きたいところだが、
どうも、偽善的な言葉で飾る可能性がある。
なので、最後のまとめ、〆は、今日はナシにしておきます。

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虚ろなキーボード打ち

2016-03-09 | わたし

はじめて蝶ブログをお知りになった方は、そろそろ、飽きられることだろう。
そもそも同じ人のブログを読み続けても、同一人物なるが故に、同じ考え、同じ感性、自己満足、自慢・・・
そういうものが、徐々に臭ってきたりする。
暗闇で目が慣れてくるように。
様子がわかってくると、見えなかったものが、うっすら、見えてくる。

ぱっと見たところ、すごく素晴らしいものでも、アラが見えてくる。
(なにも、蝶ブログが、ぱっと見が素晴らしいとは言っておりません)
日替わり弁当も、オカズを替えて飽きさせない工夫が求められる。

しかしながら、サービス精神を旺盛に発揮して、満足するタイプの人と、そうでない人がいる。
ブログに関しては、わたしはサービス精神はない。
どしんと根強く、根深く横たわっているのは、徹底した自己チュー。

自己チューのわたしではあるものの、
年とともに、今後は、人のお役に立って生きがいを感じるかも知れないし、感じないかも知れないが、
ブログという分野ではそういう展開はなさそうだ。

わたしは最近、「現実社会」を卒業した母と、密接に付き合っているせいか、どうも、脳みそが、ふにゃけている。
理解力はどんどん減退、思考力は地に着き始めている。
怖くもある。
このまま、年齢には少し早いけれど、母とともに、ぬるい、ゆるやかな世界の住民になるのでないだろうか。
自分の脳が溶けていっているような感覚がある。

そのくせに、世の中で起こるデキゴトに対して、感覚的に敏感な部分が出てきて、痛みを伴うほどだ。
五感が騒ぐ。
ニュースを見て、涙を流したり、不安になったり・・・。
自分以外のことはまるで無関心で、今までなにも感じなかったのに、日本や世界の激動に、不安と恐怖が混じる。

テレビや新聞を見ながら(実際には関わらずに)、透明の壁越しに、
世の中のことをあーだこーだ言い出すと、一人前の老齢者の仲間入りなのだろうか。
(ニュースは新聞ではなく、テレビとインターネットで見ます。紙媒体、卒業しました)

今日は雨なので、湿ったかんじの内容になってしまった。
ブログは、感性のまま、キーボードを打つ指にお任せしている。

 

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煩悩が邪魔して、美しくなれない

2016-03-04 | わたし

はじめて訪れた、とあるブログ。
涙が頬を伝った。
わたしは、こういう路線に弱い。涙腺、大全開。

幼い頃の家族の光景が書かれていた。
今は亡き、ご両親と、妹さん。
お父さんの服装、いでたちがノスタルジックな風情を醸し出していた。


ちなみに、今、3歳になる、口のよく回る、記憶力抜群の我が孫。
(記憶細胞が毎日どんどん死んでいく、にぶいアタマのわたしから見ると)
彼が1歳前後の頃、まじっと彼の顔を真近で見て、なんと純粋な顔だろう・・・と涙が出た。
まざりっけのない、自然の彼は、知恵もなにもついていない。
かわいい、を通り越して、美しいと思った。

人は成長していくにつれ、自分を守る技を身につける。
身につけなければ、生きていけない。
その手助けをしてやるのが、親の役目でもある。
そんな教科書に書いてあるようなことは、十分わかっているが、
純粋なものは心惹かれ、吸い込まれそうになる。
それだけ自分のこころが濁っているのかも知れない。

純粋な彼の目に映るわたしは、どんなものなのだろう。

彼の目には、わたしが映っていた。
鏡を見るように、そこには、わたしの顔があった。
わたし自身が投影された姿だ。
だが、彼の目は鏡ではない。
彼自身が持つ目だ。

1歳では、彼の記憶にはまったく残っていない。
だから美しいのか。
理屈付けできない、わたしがいる。


さて、前述の、そのブロガーさんが幼い頃のシーン。
ご自分で覚えておられるので、1歳やそこらではないはずだ。
わたしも、祖父のお葬式の1コマをはっきりと鮮明に覚えている。
命日から計算すると、当時のわたしは3歳6ヶ月である。
現在、上の孫は3歳1ヶ月だが、似たような年齢だ。

祖父が亡くなる以前の様子もしっかり覚えている。
亡くなる直前などではなく、もっとゆるやかな時間が流れている頃だったと思う。
話したり、受け答えや、やりとりした記憶がある。
よく、祖父の臥している部屋に行って、お菓子をもらっていた。
祖父は、わたしが行くと、新しくお菓子の袋の封を切ってくれた。

ということは、現在の上孫の年齢の頃には、
わたしという人物は、もうすでに彼の記憶の箱に仕舞われているということだ。


幼い頃の田舎での風景、光景、今も目に浮かぶ。
蝶ブログにも何度も書いている。懐古趣味か。
何度か、大改造はされているが、ベースは同じ。
現在もなお、全く同じところに、同じものが、同じようにあるので、とても不思議なような、
過去・現在・未来をタイムライン号の船に乗って見るかのごとく。

玄関脇にある庭石。
この陰に隠れて、かくれんぼをよくした。
あんな小さな隙間によく身を隠せるなあと、いつも不思議な気持ちで見ている。
当時のわたしは、猫だったのか?

祖母が日常に使っていたお針箱。
その近くに、わたしの幼稚園時代の道具箱が置かれている。
旧姓フルネームで、わたしの名前が書かれているが、去年、発見して、よくまあ、あんなもの、まだ置いているなあと、びっくりした。
目をぱちくりと瞬きする瞬間に、ひとっとび半世紀前の時代にタイムスリップ。
ふたつ瞬きすると、百年前。
セピア色の残像が、NHK番組のファミリーヒストリーのようだ。

今も、私が子供の頃と同じ場所に、ツバメが巣を作っている。

・・・と、延々、残像シリーズは、きりがない。


話を戻そう。
そのお邪魔したブログには、クラシックの名曲が流れている。
いいなあ・・・。こころが洗われるようだ。
現在、抱えているわたしの悩みの解決の糸口にならないかと、記事タイトルをあちこちクリックして、
過去の偉人たちの名言を読んでみる。
現世の生煮えなわたしには、まだ、ちょっとすんなり取り入れるには、ハードルが高い。
煩悩がイキイキ。もやもやを通り越して、現役で暴れている。

あと十年は経たないと、しっかり枯れて、いい味が出ないような気がする。
じっくり寝かせて「熟成」などというと聞こえはいいが、
悟りなど、一生、開けないだろう。生きている限り。



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【一口メモ】

あるがままを受け入れることを「受容」というらしい。
これは、決して自分を肯定するわけではないそうだ。
つまり、あがき、開き直りのあげく、あきらめて自分を赦し、認めるのではない。
赦すのでも、肯定するのでもなく、受け入れる。
これは、ニーチェさんの言葉ではない。自己流解釈。
いろいろ解釈の仕方は、それぞれ。

が、今のところ、「美味しく醸造」などという美辞麗句には、まやかされないぞ、とばかりに、
干物になっていないわたしは、机上でなにを言ってもだめ。
道、途中である。
 


ニーチェと、お友だちになった

2016-03-03 | 人生

読書をしない、わたし。が、立ち読みは、毎週。

そんなわたしが、本を買った。
まあ、なんと、ニーチェ。

そもそも、なにもすることがない母のために、退屈しのぎに本を買ってあげようと思って書店に立ち寄った。
もともと本など読まない母だが、時間が腐るほど、文字通り、死ぬまで持ち時間があるので、
なにか母に適した本はないかと物色していた。

すでに、もう1冊はプレゼント済み。
英国人ベニシアさんの京都、大原での生活を中心に、写真を主体にした四季折々の自然を写した本。
けっこう、母は喜んでくれていた。

その次の週も本を探した。
ブッダの言葉集が目に留まった。
これもいいかも。
でも、とりあえず、1週間考えよう。
母にどんな本がいいか、聞いてみたところ、新品でなくても、わたしが読んだあとの本でいいと言う。
なら、母向きではなく、自分が読みたい本にしようと、選択基準を切り替えた。

そう思ってブッダの本コーナーに行くと、隣に、ニーチェがあった。

という長い長い、前置き。


現代風に、超意訳されていて、活字嫌いのわたしにも、すんなり読める。
最初に、ぱらぱらと読んだ時に、あれ?と思った。
なぜなら、いつもわたしが日頃、思っていることと同じだからだ。
こんな内容なら、わたしのブログは、ニーチェのパクリだと思われそうだ。
あるいは、自分の考えなのか、ニーチェの考えなのか、ボーダレスになって自分でも混乱しかねない。

太宰治の「人間失格」を初めて読んだとき、「あ、これは、どんぴしゃり、わたしのことだ」と思った。
それと同じ感覚か。(これって、「共感」っていうみたいです)
共通するものを感じるということ、それは人間の本質を突いているのだろう。
うやむやな、よくわからない感覚、考え、思いを、どう整理し、表現するか。
心理学とも共通するものがある。


わたしは、学校で心理学を学んだ時は退屈していた。
成績も最低。
社会学を学んだ時は、付いていけずに脱落した。
ちんぷんかんぷん、まるで漢文を読んでいるかの如く。
フランス語も、そう。
アタマが勉強向きではないようだ。(かといって、スポーツ向きでもない)
作業向きでないし、労働向きでもないし、何向きだ?
緻密でもない、ダイナミックでもない。

つまり、何にも向いていないということだ。
神様が製造した中にも時折混じっている、欠陥品。
醜いアヒルの子ではなく、醜い白鳥の子。
アヒルの中に混じっている白鳥ではなく、白鳥の中に混じっているアヒル。
なので、周りと同じように理想を求めても、高度なことは無理なのである。

ある、研究熱心な研究者が、わたしのことをこう言った。
「あなたは、でんでん太鼓ですね。
紐でつながれたバチが、太鼓の表面に触れそうで触れなくて、でも触れる時は、ちょっとだけ触れて、
ぶるんぶるん回しているだけですね」

研究者のわりに、うまいこと言うやん、この人!と思い、思わず、座布団10枚あげそうになった。
わたしは、深く考えるとアタマが痛くなるので、はい、次!とすぐに逃げる。
学者や研究者にはなれないのは、この、忍耐力と耐久性の無さらしい。(それ以前の問題か)

そこで思いついたのが、バランス学。
サボりを肯定するための、屁理屈を体系化したものだ。
一生懸命やってもデキない自分を慰める、いや、肯定するための、一種の自己暗示、思い込みのためのツールである。

デキないことは、代わりの代理品であったり、代理人であったりに、代わりに動いてもらう。
各分野、専門家にやってもらい、弱いスキルを補強する。
生活分野でフツーに言えば、「メガネ」だったり「杖」だったり「グーグル」だったり・・・。

よくよく考えてみると、お年寄り向けのグッズは、みなそんなかんじだ。
そうか、わたしは、お年寄りなのだ。ちょっと早いけれど。
お年寄りを先取りしているのか。

しかし、20歳の頃からすでに、わたしはお年寄りだったのか。
これって、小学生の息子が「はやく、おじいさんになりたい」と発言するのと似ている?
さすが親子・・・と感心している場合ではない。

わたしは能力に均整、均衡が取れていない。ばらつき、ムラがある。
なので、バランス力が発達したのだろう。
それを後になってニーチェさんが、整理してまとめて、セオリーみたいに力強く言ってくれるので、
肯定の背中を押されるかんじ。
「あら、これでいいのね、わたしのこのやり方で」、なんてへんに自信を持ってしまう。
(ニーチェは、なんでも否定らしいけれど。自分の都合の良いように自己流解釈)

大の苦手の心理学や社会学、哲学が、今、こんな年齢になって、とても興味があるなんて、
皮肉なものだ。
だが、学問は学ぶだけでは退屈そのものであり、実生活に役立たなければ、何の意味もない。


人間は完璧な人なんていないので、どんなに賢い立派な人だって、
ごくかんたんな家事ができない、身の回りのことができない、そんな人もいるんだし。
秀でることは素晴らしいが、すべての分野に秀でるのは不可能である。
各人の持ち場で、持ち味を発揮できたら、それが一番いい。

いくら優秀でアタマでっかちだったとしても、いずれ、今までできていたことが、できなくなるんだから。
優秀な人ほど、デキない自分は受け入れがたいと思われるが、
受け入れてみると、楽ちんである。
(「あほなお前といっしょに、するな」と言われそうだが)

ただし、ある程度の努力は必要。できるところまで、やってみる。
なにもしないで、楽を取るのは、けしからん。
高い険しい山を登るのか、低い山を登るのか、各人の志向に合わせて、能力と相談しながらどうぞ。
少しずつハードルをあげてみるのもよし、維持するのもよし、下山するのもよし。

決定するのは自分。
いろいろ調べて、人にも聞いて、自分と相談するのがいいと思う。

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