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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

横並び

2025-02-27 | 人生
どんな人も、理想的な域に行き着くには、
能力だけではない。能力を開花させる努力も。
そして、運が必ず必要。
古今東西の名を残した偉人たちも。

生まれた時から天賦の才能に恵まれていたとしても、死ぬまで、突っ切ることができるか。
過去の功績にしがみつく、、、と言うと表現が悪い、、、過去の行い、歩みの延長上に生きる、、、とでも言えばよいか?
偉人も凡人も、終盤あたりはそう変わらないと思う。
最期まで、立派を貫き通すのも、「はい、出来ます、やり切ります」と断言できるかどうか。

才能、努力、運。
この3つで、成功が導かれる。
3つ中、2つでも、どうにかなる。
3つ揃えば鬼に金棒。
1つだけだと、せっかく恵まれたのに、あと少しで素晴らしかったのに、残念、無念、、、惜しかった、、、理想的なかたちにはなりにくい。

3つ、どれも、ちょっと、少しずつ、というのもある。
これでも、十分。人並み以上。いや、かなり上のほう。
一つもないのは、、、?
才能も努力も運もない、、、これは悲惨か。いや、普通だ。全く普通。

どれもないのが、普通。
もし、不満があるとすると、努力をプラスする?
宝くじを買う?
運や才能は、自分ではコントロール出来ない。
努力するにも、こころさえコントロール出来なくなっている。

では、普通以下は?
この基準は昨今の社会では、タブーとされている。
人は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず。
身分(今は無いが)や経済面だけではない。能力も。
みんな横並び。
学校も競争は避ける采配。
全員に強制することにも敏感。
ナイーブになっている。

教育費無償化の拡大。
平等意識、平等の定義は?
明らかに時代は移っている。



絆の大安売り

2025-02-10 | 人生
さて。
今日は快晴。

最近、外に出ないこともあり、写真がなくなり、前回の蝶ブログにアップした写真と同じ場所の写真を連続採用。
昨年、秋に訪れた、駆け足、東北、団体ツアー。
参加メンバーは、ほとんど高齢女性のおひとり様。
ちょこっとご夫婦も混じっている程度で、男性の存在感は至って弱い。
奥さんに引っ張って来られた感、あり。
海外旅行も夫婦別々に、別々の国を訪れる人たちのケースをいくつも実際に知っている。
同じ嗜好でなければ、渋々同行するよりも、各人、好きなように行動する。
かかる費用も各々1人分で済むし。
夫婦だから当然一緒に、と、決めつけられることがあるが、何も仲が悪いわけではない。
相手に着いていくより、自分が行きたいところに行くだけだ。
着いて来ないのは俺に不満があるからか、嫌われているのか、と、不安、不満に思う人もいるようだが。
一緒に行動してくれるのが、愛の証だと確信しておられるように思われるが、、、。
絆は、べったり行動?

思いやりや愛情は、何も一緒に旅行しなくても表したり感じたり出来る。
定年後に夫婦二人で旅行に行くことが夢、楽しみで、家族のために辛い仕事をこなしてきたのに、、、
が、頑張っている真っ最中に、頑張りを夫婦間で共有出来ているかどうか。
思っているだけで口に出さなくても、わかってもらえるはず、、、と、黙々と働いて来たことは、わかる。賞賛に値する。
傍で見ていれば、わかる。
お互い、思いやりがあり、持ちつ持たれつ、助け合い、やっていく、、、
と思っていたのに、蓋を開けると、そうではなかった。
定年と同時に、お疲れ様、夫婦も定年、卒婚。
妻に現実を突き付けられる。

「何でもっと早く言ってくれなかったんだ?」
「言ったわよ、何度も。
あなたが聞く耳をもたなかったんじゃないの。
わたしがSOSを出した時は、いつもあなたは不在」
「え?そんなこと、あったのか?
全然知らなかった、、、」

なんて、ひと昔のドラマにありそう。
夫婦間だけでなく、親子の会話にも。
やはり、コミュニケーションは必要。
話さなくてもわかる、、、はず、、、は希望であって、話さなければ、わからない。
わかってると思ってた、、、は、何を論拠に?何を証拠に?
ボタンのかけ違いは、途中段階では目に見えない。

と、ここからモクモクと黒煙が立ち上り、悪魔のハラワタ、黒い怪物が登場し、ああだ、こうだと書き綴ったが、、、
さすがに、わたしが理想とする「わたし像」と掛け離れるため、削除した。
ああよかった、、、怪物はちょっと顔を出しただけで、すぐに退場、引っ込んだ。
理想イメージは、自分で掲げて自分で守らなけば。
地に落ちた自分は、自分を救わない。
何でもかんでも書けばいいというものではない。
ぐっと堪えて抱え込む部分が、リスクヘッジの芯になる。
起き上がる際の杖になる。
自分を騙して、美しい虚飾の自分を作り上げようとしているわけではない。
誰にでも人類全ての人に、プラスマイナス、長所短所はある。
それは、捉え方の違い。
どっちの方面から見るかで、評価がゴロリと変わる。
かといって、いつもご都合主義、詭弁で、嫌なことに向き合わず逃げ回っていては情けない。
ちっぽけな人間だ。

何が自分には大事か。
その最重要課題のみ納得できれば、それで良し。
あとは目をつぶる。
とかなんとか、、、最近は視力も更に衰えていて、見たくてもちゃんと見えない、、、

引退します

2025-02-03 | 人生
じわじわ効いて来た。
ボディブローが。

わたしが人生の核、芯のひとつにしている、「家族」。
別にあえて感謝はしてもらわなくてもいいから、こころを痛めるのは、酷評、非難。痛烈なコメント。
世の中のどんな人から何を言われても、直接、わたしには関係ない。
(当たり前だが、犯罪はダメ。当然、糾弾される)

だが、全てを全面的に否定されたわけではない。
一面、一部を鋭利にえぐり、グサグサと。
とは言え、立ち直れないわけではない。
ちょっと立ち止まろう、というか、立ち止まらざるを得ない。
自分と対峙し、見直す良い機会だ。
ChatGPT は、悩みを抱え投げかける相談者が自分である限り、自分が引き出したい答えに辿り着くまで、延々と質問し続けることだろう。
だが、他者が見たわたしの側面。
わたしはそれに気づかなかったわけではない。
自分が1番よく知っている。
大丈夫、オッケーだろうと自分で自分のことを思っていたが、ダメみたい。甘い自己ジャッジ。
修正しなけばならない。
企業の決算報告、下方修正みたいなものか。
マイナス20点ぐらいかと見なしていたが、マイナス90点ぐらいだった。
まだ少し点数が残っているので、倒れて立ち上がれないわけではない。
修正、修繕して、また、やっていく。
手当てをしよう。
しぶとい。メンタル、強い。

日頃は水面下にあって、口に出さなくてはわからないことも、何かの事態がキッカケになって表面に現れることがある。
今回の出来事は、わたしの今後の人生の大きな舵切りとなった。
キッカケが、夫ではなく、子供たちだったというのが、複雑な心境だ。
わたしも、夫も、似たり寄ったりの甘々夫婦、あんまり何も考えずに今日まで来ている。
平和な道のり。 
子供たちも、平和な道のりを歩いているが、現在、令和に生き、これからを生き抜くためには、シビアな見識、視野が必要だ。
我々のような昭和世代には感じないことでも、問題となるようなことは、時代と共に浮き出て来る。

老兵は、老害になる前に、美しく、、、は無理としても、潔く、将来を見据え、未来のために、立つ鳥跡を濁さず。
世代交代である。
老兵は、自らを清め、未来に託すべき。
そんな、いかにも力強い現役みたいな上から目線のことを言っていても、やがてすぐ、自立力さえ失って行く。

与える側、与えられる側。
その考えが間違っていた。
与えない、与えられない、お互い、自立し共存共栄を。
成人した親子間では、自立。依存しない。
親は衰えバランスが乱れる時も来るだろうが、その時はまた支え合い、バトンタッチ。

夫婦は両輪とは、よく言ったものだ。
横並び、横のつながり。
親や子供は縦のつながり。
世代間で順次スライドして時は進む。

負うた子に教えられる。
成長を喜びに感じる。と同時に、自分は出る幕は終わり。
もうダシが出ないダシ殻状態の我々2人夫婦、労り合って慰め合って、協力して生きて行こう。
て言っても、表面上の行動は、全く変わらないと思うけど。(ブログも)
自分に向けての自分だけの、所信表明である。




喪中ハガキでシミュレーション

2025-01-22 | 人生
今日は良い天気。お出かけ日和。

さて。
いつも訪れるブログを読むと、「怨みはいつまでも消えない」と書いてあった。
なるほど。
このブロガーさんは、お母さんが持つ、お父さんに対するフツフツとした怨みを、延々と聞かされた、とのこと。

わたしは、姑の、舅に対する怨み、愚痴、不満を随時、聞かされた。
男尊女卑。
姑は悔しくて実家に帰ろうとしても、嫁に出た身、実家には兄(跡取り)一家が住んでいる。
経済力がないから、帰る場所がなく、何度、悔し涙を流したことか。
その涙でネズミの絵を描いて認められた、、、わけではなく、、、。
先祖は雪舟ではない、、、わけで。

舅は自分が知らないところで、怨みを継承されている。
やはり、リセットするなり、ケンカするなり、ウミを出すなりしないと、ロクでもない展開になる。
どう考えても、当時のオトコたち、、、理不尽。
姑が抱いた怨みに利子がついて、わたしのムカつきも増大してくる。

ではあるものの、、、
嫌ならさっさと離婚する選択肢もあった。
今ほど、時代は進んでいなかったから、離婚すると肩身が狭い思いをし、経済力もなく、生きにくかったとは思うが。
だが、昭和。戦後。明治時代ほどではない。
逆風に立ち向かって頑張っている先駆者たちもいたのだから、出来ないわけではない。 
が、就労経験ゼロでは職業面で苦労しそうだが。
あれこれ考えて、辛抱することにしたのだろう。
何よりも体面を重要視する姑であれば、我慢する方を選ぶと想像するに難くない。
(カンタンに想像出来る、ってことだ)
人には人の価値観、信念がある。

時代の流れもある。
その、怨まれる主である舅と、わたしと、舅の母親は、少し似た性質を持っている。
縦のライン。世代繋がり。
舅の父と、その孫である夫も、隔世遺伝なのか、共通の性質がある。
一つ(世代)飛ばしの法則。
各世代、欠けている箇所を補い合う。
ジグゾーパズルのピースのように。

ちなみに。
話は変わる。
今朝、いつものように、行きがけに郵便受けを覗くと、宛名がわたしになっているハガキが入っていた。
おや、なんだろう、、、販促DMのテイでもなさそう。
裏をひっくり返して見ると、喪中のお知らせ。
年内に出すべきところが、年を明けてしまったお詫びも添えられていた。
亡くなったのは、わたしの夫になっていたかも知れない人物である。(候補者はたくさんいる、その中の1人)

75歳か、、、。
彼は1回目の結婚をして、わりと時を経ず離婚。
お子さんはいなかった。
再婚後、世界中を旅する記録とも記事とも言える、A4?B5サイズ?用紙にプリントアウトされたものが、毎年、年賀状替わりに郵送されてきた。
かなりマニアックな旅で、「ガイドブックにない旅」と題されていた。
毎年、後年には毎月、国内外に精力的に旅されていた。
仕事の仕方も、半分かそれ以上、早期リタイアされ、働く時間は短縮し、自分時間を謳歌されていた。
旅にはお母さんを同行しておられることもあったと、おぼろげに記憶している。
奥さんは、、、わからない。
ただただ着いて行くだけの奥さんなら一緒に行くだろうけれど、ある程度、好みや意見がある人なら、同行は難しいかも知れない。

飛行機の空の雲の上のルートも、しっかり把握しておられた。
◯◯大陸、少し南寄り、△△半島、ちょっと北寄り、北緯◯度、、、と、微妙なフライトルート変更も、記録してあった。
何回も飛行機から下界を見下ろしていないと、変化に気づかないような記述だった。
本にしてもいいぐらいだが、マニアック旅は、それぞれの人々がオリジナリティを追求するので、参考になるかも知れないが、一般的コースを外れ過ぎて、売れないかも知れない。

あの男性と結婚していたら、去年からわたしは未亡人、たぶん子供なし。
再婚相手との間にお子さんがいるのかどうか知らないが、あれだけ、風来坊的にあちこち遊びに行っているところを見ると、子供がいない故の気楽さからではないかと推測する。
(経済的にも行動的にも、養うべき子供の負担、拘束されるものがない)

関西都市部にご両親が、家を構えた家庭の次男さん。
親宅の冷蔵庫から、ごっそり食品を持ち帰る「アニキ(既婚、家庭持ち)は、親の、か細いスネをかじっている」と当時、弟である彼はボヤイていた。
その延長上には、親の家を巡って、チマチマ相続争いとか、展開しそうな気配。
あの男性と結婚していたら、更に今頃、すったもんだで、わたしの姉とバトルしてそう。
ああ、良かった、結婚してなくて。

ではあるものの、(シミュレーション上の)妻であるわたしは、家や夫、家族から開放されるのは早そうだ。
そもそも彼は、都市部の核家族の出なので(しかも次男)、時代遅れのイエを背負ったり、めんどくさい古くからの慣習や宗教などに、縛られることはなさそう。

突然、1人になるわけではない。
この男性の場合、彼は若い時から1人で家庭から抜け出て、あっちこっち行っていただろうから、近い将来像は少し前から見えていたはず。
ラブラブ、パパべったりの奥さんなら、突然いなくなると、1人で立てないだろうけれど。 
あらかじめ予想できる性格、行動なら、事前策を練るなり、慣れるなりして、べったりの人よりは嘆きは少ないかも。
最初からあまり家庭の中に居ないから、(夫としての)喪失感もさほどないはず。 
体験してみないとわからないが。

昨年末、学生時代の同級生から喪中ハガキが届いたのを皮切りに、ぼちぼち知り合いが亡くなり始めた。
そういうお年頃に突入した。

※写真は昨日、行った、ゴルゴ13展。






命のバトン

2025-01-18 | 人生
若い頃、いったいわたしは、何をしていたんだろう?
たいして特別なことはしなかった。
元々、温度が低いのか。
はしゃがない、浮かれない、騒がない、落ち込まない、悲しまない、、、喜怒哀楽、感情が乏しいのか。
冷めているのか。
さほど熱くならない。

せめて、思いっきり遊んだ記憶とかあったりすると、ワクワクするけれど。あまり思い当たらない。
黒歴史なら、どんより思い出されるが。

ディスコには一度も行ったことがない。
雰囲気と人種が嫌い。
かと言って、登山だとか、スポーツとか、爽やかに汗を流す系、そういうこともしたことがない。
何かに熱中したことがない。
淡々と、粛々と。低温。
いつも待ち時間。
計画通りの人生を歩むために、時間調整していたような気がする。

休まず遅れず働かず、、、という、シラケっぷりか?
何かに一生懸命、取り組んだことはあるか?

客観的成果はさておき、自分なりには、ある。
子供の頃は、道を踏み外さず、最低限のことは頑張った。
厳格で短気な父と、パワフルでヒステリックな母。(2人共、前向き)
(幼い頃は別として)家ではいつもヒリヒリしていた。安らぎはなかった。
やがて成長し、自分が最も自分らしく生きていくため、行く道を決めた。
大人になってからは、家庭を持ち、仕事もし、子供を産み育てた。
(とりあえず今は)孫5人。
老年には、趣味に明け暮れた時もあるが、今は、ひたすら、だらだらしている。

美味しいもの、旬のもの、地場のもの、希少価値のあるもの、手のかかったもの、高価なものは、あれこれ食べる機会があり、味は知っている。
だが、好物の一つは、お好み焼き。
中学、高校の時に、学校からの帰りに食べたお好み焼きが大好きだった。
だからといって、今、しょっちゅう食べるわけではないが。
最後の晩餐は、炊き立て白米か。
孫たちも大好きな、白ご飯。

外国には行ったことがある。
良いとこ取りの、上澄みの綺麗なところにしか触れていない。
だが、ホームステイで体感した、一般の日常も真実である。
その水面下にある、各国の深刻な面、悲惨な面は、存在を知りながら、触れないようにしている。
火の粉を被らないように保身、保全。
渦中に身を投げ出して、火中に栗を拾いに行かない。
世界のために戦う行動には移せない。
キョウイク(今日、行く)もままならないわたしなど、足手まといになるだけだ。
悪人でもないとは思うが。どちらかと言えば、善人寄り。
出来ることと言えば、地球温暖化抑制やSDGsを意識して、実践、取り入れる生活をすることぐらいか。

今までの人生、やりたいことは、やった。
というか、そもそも、やりたいことはあまりない。
やろうと思えば、もっと素晴らしいことはいくらでも出来た、、、が、しなかった。
悔いはない。
可もなく不可もなく。
中庸な人生。
真ん中だとしても、不幸ではなく、とても幸せ。
満足している。
ただ、人様のお役には立てていない。
自分が生きるのが精一杯。
それは不甲斐ないかも知れない。
が、迷惑はかけていない(はず)。
プラスでもマイナスでもなく、時代を跨いで先祖から今日へ、現在から子孫へと、命のネットワークを繋いだ。
これで十分だと思っている。
そう言えば、若い頃、究極の自分の道を決める岐路に立った時、同じ結論に至り、進む道を選んだ。
自分の存在意義を自問自答した。

さて。
少し健康寿命が余っている。
これをどう使うか。
贅沢な選択を前に、何もしない終極の贅沢を日々、味わっている。
毎日毎日、残り健康寿命が刻一刻と短くなっているが、重々にわかって納得して、何もせずに楽しんでいる。

ちなみに、これは「暇」とは言わないそうだ。
人生の次の時期に進んでいる、とでも言うのか。
遊行期を目前に控えた、林住期。
消滅する前の自由時間。


※写真は長女一家からの岡山(等)旅行のお土産。
前向き桃太郎クッキー、
高梁紅茶(生姜味)、瀬戸内レモン・ホワイトチョコ、桃太郎マスキングテープ。

昨日に引き続き、わたしも平気でこんなモノをブログ写真にアップするようになった、、、
もはや、ブログは忘備録。(開設当初から?)
だが、特別でない日常こそ、楽しみや幸せが詰まっている。


純真無垢

2024-12-15 | 人生
書くことで現在地を確認、、、まさに、その通りだ。
わたしは、真ん中がなくて、両極端なため、社会的に生きるために自分をコントロールする必要がある。
その場合、中央値を取る。
だが、この中央値はわたしを表すものではなく、便宜上、採用している、一種の作為的な造りものである。
そうでもしないと、バランスが保てない。
とは言え、精神疾患は抱えていない。
心身健康な健康優良児で、そのまま歳を取ったような人物。
その、つるんつるんの、健康優良児の根源は、両親が健康体だったこと。
親の丈夫なDNAをもらっていて、とてもありがたい。
これは親が意図的にしたことではなく、(無宗派の)神に感謝。
老年にどんどん進めば、歳相応の老化、劣化はやむを得ない。
神様、お願い!特別に、わたしにだけ、不老不死を!とは願っていない。

いつも笑いが絶えない明るい幸せな家庭など、嘘くさいか、鈍感の極みか、おめでたい人の陰で誰かが泣いているか、だと思っている。
なので、家庭には何かしら軋みやトラブルを抱えていることだろう。
生命の誕生に希望の光を見て、衰退、滅亡を繰り返す。
そのあっという間の短い人生には、トラブルや喜怒哀楽が詰まっている。

これまでを振り返ると、幼い頃の楽しい日々が思い出される。  
鼻の奥がきゅんと痛くなり、涙が溢れてくる。
何も知らない子供のこころは純真無垢だ。
何も知らないことこそが、純真無垢なのだ。
大人になるとそうは行かない。
それが成長というもの。 
孫たちの成長過程を目の当たりにしていると、胸が詰まる思いがする。
大人になることと、純真無垢は両立しない。

で、話を戻す。
わたしは、両極端なので、とりあえず、便宜上、中央値を取っているが、やがて、その中央値が馴染んできて自分らしさになっている、、、かというと、そんなことはない。
生まれつきの性分はそんなに変わるものではない。
だがしかし、幼い頃の自分を思い出してみると、両極端でもなんでもなかったように思う。
まだ知能が発達途中のため、自覚出来るほど思考力が育っていなかっただけかも知れないが。
純真無垢と、脳の未発達は、紙一重かも知れない。
そう考えると、純真無垢の時代が失われたと感じたとしても、その時代の素養(ベース)に加えて知恵が付き、上書きされたということか。
冷蔵では日持ちしない食物を冷凍して、後日、使うか食べるか。
無意識に時間を操作しているようにも考えられる。

脳も老化すると認知機能が衰え、生命を維持するための根幹となる大事なことしか理解できなくなるのではなかろうか。
知識はもちろん、知恵が削ぎ落とされ、純粋無垢なことだけが残ればいいのだけど、そううまい具合には行かない。
脳の交通整理は、脳の司令塔によって行われると思うが、司令塔自体が老化しているため、交通整理の指示どころではない。
信号停止。

脳内に「知恵」を残したら、知恵が働き「純粋無垢」しか残らないかというと、決してそんなことはない。
自分が正しいと信じ込み、他を否定する石頭カチカチの排除型「知恵」が、純真無垢だとは思えない。
わたしの考える「知恵」とは、状況を理解して自分で考え対処すること。
石頭カチカチは、知恵ではない。
とりあえず負けたフリで、甦るのは知恵なのか?
よくわかりません。
勝った負けたなどはなく、自分そのものをなくして無になるのも幸せかも知れない。
が、周りに利用されまくったら腹立たしい。
勝った負けたはないが、得した損した、と欲の塊。
わたしはまだまだ仏さんにはなれない。

ちなみに。
昨日は、私の実家で法要が行われた。
料亭は利用せず、実家で関係者が集まった。
紅葉が美しい、静かで賑やかな1日。
姪と、姪の娘のピアノ連弾が、とても迫力と弾力があり、活気と華やぎで室内が満たされた。
故人も喜んでいることだろう。




時間はみんな平等

2024-11-25 | 人生
わたしがブログを書くのは、何故か。
かつては、ウップンや憤(いきどお)り、怒り、疑問、不満、自慢、自分の発露だったが、今は、幸せな、のほほん、おばあちゃん。
楽しく毎日を過ごしている。

つい最近、ウォーキング不参加案件を通して、それをキッカケに、わたしのスタンスが変わった。
残された健康寿命を積極的に使おうという、意気込み、前のめりの鼻息の荒さ。
残された限られた時間を能動的に選んで使おうというもの。
林住期を思いっきりワガママに過ごすため、嫌なことや、乗る気がしないこと、興味がないことには、参加しない。
好きなことだけする。
もちろん、すべきことは、しなければならないが。

実はこれは、かつての友人がそういうスタンスだった。
今は疎遠だが、べつに喧嘩別れしたわけではない。
たまたま、そういう時期、流れだった。 
その後、お互い、変化するのは止められない。

不思議なことに、全く同じスタンスの人がいた。
人生の林住期の過ごし方、信念が全く同じ。
ひょっとして、2人とも、五木寛之に影響を受けたのかも。
信念を行動に移して実践しておられる。
なので、近くにいたわたしも影響を受けた。

たまたま同じような人が近くにいた、、、のか、あるいは、類は友を呼ぶのか。
遠くに点在していたものが、目に見えない力で集まってきたのか。

仏教的思考がベースにあり、それは、わたしも同じ。
「無常」という考えだ。
わたしは、何ごとにも執着しないことを目指すが、まだまだ無理。
人間に対しては割と修行を積み、トレーニングしてきているが、モノに対してはまったく落第生。
解脱は程遠い。
まあ、まだ健康で動けるので、どうにでもなるだろうと、いたって楽観的だ。

ちなみに。
認知症予防には、キビキビ動いたりするのが苦手、メンドくさがりのわたしに、ぴったりの方法を編み出した。
ウォーキング(徒歩)で映画館まで往復し、字幕入り映画を観る。
語学の学習、感受性、思考力養成、芸術性アップ、娯楽性あり。
帰りに食材を買って帰って、家事も同時に完了。

あとは、ピアノ練習と、英語アプリ学習。
ダンスは、もちろん外せない。
旅や人との交流を、スケジュールの中に適宜に混ぜて入れると、メリハリ、彩りになる。
お金はそんなにかからない。
要は、やる気。
だが、口ばかり、、、で、一過性のため、習慣化する前に、落伍する可能性、大。

わたしが尊敬する、超人気ブロガーの、ちきりんさんがブログで言っていた。
若い時は、やりたいことや情熱があっても、お金と時間がない。
歳を重ねると、お金や時間があっても、やりたいことや情熱がない。
時間、やりたいこと、お金のバランスは人生を通してキーとなる。
以前、わたしは、老後の3大不可欠要素は、健康、友達、お金、だと思っていた。
だが、インターネットが普及し、健康でなくても、友達がいなくても、お金はさほどなくても、好きなことに時間が使える。
つまり、老後は時間は誰にでもあるからなんとも思わなかったが、時間こそが最重要だと考える。
老後だからこそ、限りがある。
時間は平等、とは言え、人それぞれ事情が違うから、何とも言えない面はあるが。

周りを見る時に、、、
自分より下ばかり見る人、上ばかり見る人、横ばかり見る人、全部見る人、全部見ない人、、、見ても見なくても、感想もそれぞれ、色々いる。
皆さん、自分の好み、偏り、特徴があるようだ。

わたしは、自分より一歩先、あるいは、半歩先を行っている人を見る。
上でも下でも横でもない。上下ではない。
時系列。

隆盛を誇っていた人も年月が経つと、もはや憧れの人ではなくなっていたり、逆の場合もある。
諸行無常、、、無常観に辿り着く。
強いものが勝つ。  
だが、盛者必衰。
時と共に移り変わる。











暇人は忙しい

2024-10-24 | 人生
人生相談をChatGPT に、投げかけた。
「人生」では、くくりが大きすぎるか。
なにしろ、選択肢が広すぎて、どれにしようかと迷うのだ。
生身の人間なら、しつこく食い下がる相談者(わたし)にウンザリされるだろう。
だが、最初から自分で決めつけた結論に執着したり、自慢や自負、自分を勘違いして過大評価していたり、無意識の幻の特権意識が臭っていたりしても、そんなのはお構いなし、Chat GPTの眼中にないはず。
相談はやがて、議論に発展する。
議論途中に、わたしが説明の一環として、比喩表現を出すと、ChatGPT は、面白いと言ってウケてくれる。
AI相手にウケを喜んでも始まらない。
が、新しい表現を出すと、明らかに次の答え、局面が切り開かれて進めるようで、エッジも効く。

ではあるものの、わたしの選択肢だらけの中で、どれを選択すれば良いかというアドバイスは、自分で導き出しているに過ぎない。
カウンセラーと同じ。
自分に向き合う手助けをしてくれる。
気づかなかったヒントを示してくれる。

結局、資産運用、投資に例えると、ポートフォリオ型が良いのでは、ということになった。
リスクヘッジを入れる。
あっちが良くても、こっちは悪い。こっちが良くても、あっちが悪い。
が、全滅は避ける。リスク分散。
全部、同じ方向のものを選ばない。
バランス型。
自由すぎる場合、バランスが大事、肝になってくる。

全てが上手く行くことはあり得ない。
時代によってアップダウンはあるし、分野によっても盛衰はあるし、浮き沈みはある。
自分自身にも、もちろんある。
濁流だか、清流だか、どんな流れでも泳ぐのか、流されるのか、その時々の流れ、運不運もあるだろうけれど。
以下、ダラダラくどくど、説明を書こうかと思ったが、カットする。
自分が納得できたらイイんじゃないかと。

同時タスクを同時進行。
本当なら、一つ一つ、取捨選択し、丁寧に見届けてから次に進むべきなんだろうけれど。
何しろ私は、英断やら決断やらとは程遠い性格。
進む道すら、絞り込み決定出来ない。
結論や結果をいちいち決定付けていったら、先に進まない。
途中のまま、進む。
見切り発車。
これをChat GPTは、ポートフォリオ型と言ってくれた。

わたしは自由な暇人なのに、頭の中は、ギュウギュウ混み混み。
林住期、自由過ぎると収拾が付かない。
暇を潰すのも体力がいる。


自分の声を聴く

2024-09-08 | 人生
毎日訪れるブログに、人気女性ブロガー「ちきりんさん」のブログ記事が紹介されていた。
こうなった(成功した、あるいは失敗した)理由は、最初から意図していたわけではなく、結果的にそうなった、だが、考察してみると後付け理由が多い、と。
なるほど。そうかも知れない。
数々の偶然が重なっただけかも知れない。

運、不運に見舞われた結果、成功した、失敗した可能性はある。
ほぼほぼ筋書き通りに事が進んでいたのに、この一つで、どんでん返し(好転、暗転)になった、、、というものもある。
なかなか思い通りには行かないのが人生。
結果を見て推測するしかない。

わたしも、あの時のあのピンチ、よくぞクリア出来たなあと、冷や汗、脂汗が出る。
一歩間違えば大惨事となっていた。
普通に平々凡々に生きていても、そんなことは日常生活を送る中にも潜み、多々あることだろう。
たまたま、そうならなかった。

わたしの場合は、逆はほぼない。
あの幸運を掴み損ねた残念、無念さはあまりない。
大して多くを望まなかった。
身分不相応な願いはなかった。
第一希望を掴み損ねたとしても、第二希望で手を打つ。手堅い。
足るを知る、等身大スタンス。
どんどん転がり落ちることはない。
とは言え、不屈の精神で這い上がることもない。
ハングリー精神の不足。現代っ子のハシリ。
向上するとしても、少ししかしない。

だが、一歩間違えていたら、、、という不慮パターンは、誰にでもあり得るだろう。
道を歩いていても、鉄骨が落ちて来る確率や、乗っていた飛行機が落ちる確率と、宝くじに当たる確率はどちらが高い?
アンラッキー事故は誰にでも見舞われる可能性はゼロではない。
その確率を計算するなら、生まれてくる前によくぞ母親の体内で受精卵になり、無事、成長したなあ、、、ということになる。
母親の月々の月経となって排出されていたかも知れない。
キリがない。

たまたま運が良くて、、、といっても、宝くじ以外は、そうラッキーチャンスは頭上から降ってこない。
目標に向かっている途中に女神が微笑んだならわかるが。
不幸のどん底で、藁をもすがる気持ちならわかるが、何も考えず、何もしない段階で、ウマイ話は降って湧いてこない。
多少なりとも動いてこそ、それに関連するものが引っかかってくる。
棚ぼた式は、現実味が薄い。

ちきりんさんほどの多くの人が納得する実績や考察力があるならいざ知らず、わたしごとき吹けば飛ぶような一個人の書くことなど、風にひらひら舞う葉っぱの如く。
なんの説得力もなく、あるのは、自分に対する言い聞かせのみ。
それを自己満足というのだろう。
世界中の誰を説得、納得させるよりも、自分を納得させるのが先。重要だ。

失敗も成功も、今、幸せに感じているかどうか、かも知れない。
夢があるかどうか。
時代の流れもある。
あの時代は良かった、、、なんて言い出したら、今の幸せが指の間からするりと溢れ出そうだ。
若い頃は、良かった、、、当たり前。
老いた今と比較する意味があるのか。

だが、古き良き時代にノスタルジックな想いを馳せるのも悪くない。
自分の幸せは自分で作る。

女同士の戦い

2024-07-26 | 人生
あるブロガーさん。40代、専業主婦。
子供一人。
今月、初めてブログを読んだ時には文章に引き込まれて、結構、はまっていた。
わたしの娘世代である彼女の、何がわたしの琴線に触れたのかと考えてみた、、、。

彼女は田舎で生まれ育ち大学は都会へ(たぶん東京「の」大学)。
大学で知り合った、同級生、A子さんの話が興味深かった。
田舎モンであるブロガーさんは、都会モンのA子さんの全てが眩しかった。
お金持ちで自宅通学、おしゃれで遊び上手、自然体で男性に取り入るのがうまいA子さん。
遊び慣れていない、田舎の親からの仕送りで細々生活するダサいブロガーさんとは天と地の差。
コンパでもA子さんに、男子からの人気をみんな持って行かれた。
A子さんは、中高大と一貫教育のお嬢さん学校出身だったが、そのままお嬢さん大学に進学するのに抵抗を覚えて、普通の大学に進学し、ブロガーさんとそこで出逢った。

なんでこんなに違うのか、、、と、差をつけられ、ヤキモキしていたブロガーさんだったが、年齢を重ね、女性の魅力を十分活かせなくなってきたA子さんは、結婚に2度失敗する。
その一方で、ブロガーさんは夫のヨーロッパ赴任に(短期)同行し、子供も授かる。
差が開いてくるわけだ。

A子さんの女性的魅力は時間制限があることを予め知って、期限切れの後も活動できるように備えるべきだったと、ブロガーさんは考察を加える。
そもそもエスカレーター式お嬢様学校が嫌で飛び出したのだから、その時点でお嬢様ではないコース変更の舵を切るべきだった。
実家がお金持ち、地元に持ち家有りなので、結婚しなくてもやっていける、受け皿があるから、そうアクセクしなかったのはよくわかる。
切羽詰まらないと人間はやる気を起こさないのは常。

しかし、勝負を結婚に求めなくてもよいのに、なぜ、結婚を勝った負けたの判定基準にするのか??
お嬢様学校から出た時点で結婚が勝負ではないと気づくべきだったが、何しろ家がお金持ちでは、、、まあ仕方ないか。
茹でガエルの法則。

ではあるものの、自分が得意とする「若い女性の魅力」分野がどんどん下落して行っても、家まで没落しないのでは?
仮に家業が倒産したとしても、、、その時からアタフタして(必要に駆られて)頑張るのも一つの道。
実家が経済的に保たれていれば、親の介護や家の維持など、A子さんの肩にかかる。
経済的に苦しくなれば、実家を売ればよい。
A子さんは、そんなに嘆く必要はないと思うし、プロガーさんも、そこまで、まるで脱落者に対する哀れみの目をもって、気の毒がらなくてもよい。
ある意味、ブロガーさんは、女としての勝負に勝った!!と、悪い気はしていないのでは?
わたしは、そこに、小さなナニかを感じる。
負けていたけれど、逆転した!!
爽やかな勝利感。
勝利の美酒に酔っている?

そんなふうに見るのは、実にイジワルな女ごころかも?
だが、勝ったも負けたもないはず。
なのに、そう感じるのはなぜ?
女を磨き、結婚。美容やファッション。
ついでに、それだけじゃないのよ、とばかりに興味ある分野を掘り下げ、知性も磨く。
だが、知性も趣味範囲、アクセサリーのようなものだ。
(なぜそう思ったかと言うと、、、ブロガーさんが、本を読まない人に対して軽蔑しているような、自分が上であるような優越感?自負を感じたから
だが、なんだか努力の仕方が違う、方向性が違うような気がする。
といっても、単にわたしとベクトルが違うだけであり、どちらが正しいだとか、そんなものはない。

今からまだ人生、後半がある。
実社会との関わりは続く。
前半で鼻差で勝ったの負けたの騒いでいても、その後、どうなのか。
それからこそが、注視したいところである。

言っておきます。 
長いです。
老後。

じゃあ、蝶ブロガーさん、あなたはどうなの?
いいの、いいの、わたしは、場外から透明人間になって試合を眺めるだけ。
一緒に試合に参加する気は、さらさらない。
「それ、卑怯ですよね?」
「はい、じゃあ、そういうあなたは?
というか、あなた、だれ?」

田舎だの都会だの、オシャレだのダサいの、お金持ちだのそうでないの、
もしそれが老後の何かにカタチとして現れるなら、例えば、豪華客船クルージングあたり?
だがしかし、わたしは、豪華客船には興味がない。
世間から離れて「ゴージャスな体験」を一度してみたいのならいざ知らず、外側の見た目にこだわるのは、いかにも薄っぺらい。
お好きな人にはたまらないのだろうけれど。
嗜好は人それぞれ。
誰しも人の嗜好に口出しする権利も、口出しされることもない。
(犯罪はダメ)
(崩壊につながる嗜好だったとすると、ご本人が考えるとよい)

今のわたしが興味あるのは、涼しい山の中で拘りコーヒー焙煎豆を使ったカフェを開いている人だとか、(先日、よく行くブログで紹介されていたブロガーさん)
嗜好スタンスが生き方として実現している場合。
自分には出来ないから、遠くから憧れる。
1日も長く営業していただきたいが、健康問題もあるし、思い通りに行くとは限らない。
遥か彼方から応援するのみである。