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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

自分のブログ

2025-08-11 | ブログ
過去記事をどなたかが引っ張り出して読んでくださった跡がある。
その記事を読むと、すごく面白い。
自分の記事に自分が励まされる。
がんばれ、わたし!
イタい、わたし!
わたしは、自分自身が自分のブログの1番の読者だと確信する。
そして、よき理解者である。
あたりまえか、自分のことだから。

ドジで間抜けでアホな自分をトホホ気分で泣いて笑って紛らわしている。
そして、明日のエネルギーにしている。
自己完結、循環システム。
SDGs、省エネである。

(とは言え、息も絶え絶え枯れかけブログに、水やりしてくださる方々のお陰で、今日まで来ています。
そこは、忘れてはいけない大事なところ)

ちなみに。
わたしは、ねじれている。
ChatGPT とも話し合って気づき再認識したが。
3次元の動きが、よれている。
2次元から3次元への連結、移動が、スムーズに行われていない。
ズレ、ゆがみ、とは思いたくないのだが、、、
ひとつの脳の特徴だろうか。
天才とかだと嬉しいが、全然そんなことはカスリもせず。
変質者や犯罪者とかの部類でも全くなく。
そこらへんによくいる人間であるが。
だが、そこらへんの人間は、唯一無二。
同じ人は2人といない。

ただ、事柄、事象を言葉にして理解しようとする、めんどくさい性質がある。
理屈屋。
「ようわからん、変わった人」と認定されることで済ましておいたほうが、苦悩は少ない。
周りも、めんどくさく無くてよい。

苦悩といっても、頭痛のほうがずっと辛い。
頭痛薬が効かないと不安になる。
元来、健康優良児なので、病気ビギナー。
経験値がほぼ皆無。
これは不安である。
今後、年齢と共に徐々に病歴を重ねて慣れて行くのだろうか。

日頃は、お尻が椅子にくっ付いて、微動だにしない怠け者、サボりなのに、脳のどこかが、なんらかの刺激で、異常に過度に反応するようだ。
役に立つ発見や発明をするなら結構なことだが、壊れかけたコンピュータのようになるだけ。
AIの力で修理、調整してもらいたいものだ。

身体と脳。
脳は体の一部ではあるが、中枢。
内臓さえ動かしている(わたし流、解釈)
どこかに不具合が生じた脳から身体に伝わるのか、身体から脳に伝わるのか。
(生物、科学、理解力0点のわたしには、よくわからないが)

またもや自分だけのための、落書き自己満足日記になってしまった。

※写真は、元幼稚園跡を利用したカフェ。
トイレの真ん前に鎮座する、大型招き猫が招き入れてくれる。





お顔を存じないあなたへ。ありがとうございます

2025-08-02 | ブログ
13年前のわたしの愚ブログ記事、どなたかがお読みになった跡がある。


当時、その記事に、光栄あまりあるコメントを頂戴していた。
今も毎日、ブログを更新されている、調布市在住の人気ブロガーさんからのもの、、、
穴があれば入りたくなるほど恥ずかしい、お褒めのお言葉を頂戴し、恐縮の至りである。
あれから13年、、、そのブロガー氏は、当時60代、今は80歳を越されるが、お元気に暮らしておられる様子が、毎日、散策時の自然風景共々、紹介される。
絶えることなく健筆、かつ健脚を維持されている。
そして毎日、私のブログの様子を見に来て頂いている。
枯れないように、そっと水やりかな、、、と。

とても感慨深い、、、。
支えて頂き感謝しております。
ありがとうございます。

なんだか、じーんと涙が溢れて来そう。
わたしも歳を、取ったものだ。
老化現象、涙腺崩壊の涙か、、、。
ごくごく限られた方に、細くても長い芯のある線で繋がっているご縁を感じた。


新しい脳内景色

2025-07-15 | ブログ
わたしのブログ。 
実際のアクセス数に10を掛けることにした。
つまり、10倍のアクセス数だと思うことにした。
脳内偽装、割り増し、捏造。
アクセス数に、振り回されないように。
モチベーションの中味をごろっと変える。

ブログでお小遣い稼ぎもしてないし、売名する必要は全くないし、多くの方に見てもらわなくても構わない。
しかしこう書くと、小さな小さな雨漏りボロ家に住んでいる人が、「別に大きな豪邸は必要ない。雨漏りもオツなもの」と言っているように聞こえるだろう。
負け犬の遠吠え、負け惜しみと捉えられてもいい。
「負けん気」というものが、わたしには欠如している。
競争が大の苦手。苦痛。
あるいは、自分への言い聞かせ。無理矢理、乱暴な自己肯定、納得に導く。

ではあるが、例え100倍のアクセス数だったとしても、あまり関係ない。
(ビバリーヒルズや松濤や芦屋の六麓荘には住みたくない、と言っているのと同じ?
実際、住みたくない)
たった一人でも、届く人だけに届けばいい。

そもそも、縁もゆかりもない、どこの誰かもわからない、なんの得も特典も人徳もない一個人の独り言にお付き合いいただき、ありがとうございます。

やたら長いばかりの独り言。
最近は、あまりにも恥やドジは、ブログには書かないようになってきている。
自分のマヌケぶりを隠そうとする傾向にある。
口の固いChatGPT に、ダダ漏れ垂れ流しにして、モヤモヤを解消している。

いよいよ本格的に、マヌケになってきていると本気で気づく。
脳のネジの緩みが半端ないのを強烈に自覚する。
嘘や捏造はしない。 
ただ、ヘマやマヌケっぷりを逐一報告しない。
以前は自虐ネタにしていたが。それを楽しんでいた。
が、自分のドジを笑いにできなくなった。
余裕がなくなった。
それだけ深刻だということ。
元々の明るい、豪快なまでに怖いもの知らずの、突き抜けた、生まれつきの馬鹿力天然性質が、なぜか、笑い飛ばせなくなった。
人のことなんかまるっきり目に入らないGoing My Wayそのものだったのに。
そのマイペースぶりは、よく母親にこっぴどく叱られた。

天然土台が萎んできたのか。地盤沈下?

老化現象だと自己診断している。
あるいは、人並みに世間を気にして羞恥心が芽生えたのか?
脳内歯車のサイズが、宇宙規模から、1日単位に切り替わったのか?

自分の人生季節の変わり目、移行期はザワつくけれど、やがて慣れて落ち着いてくると、、、、
本格的に、見えない、聴こえない、感じない、、、になるだろう。
ただ、アタマはカラカラ空回り、そして口だけは動き、わけのわからん独り言を書き続けていると思う。
どこからそのエネルギーが来るのかは不明。
省エネ主義のわたしだが、、、。

ちなみに、昨日は実家に、行政お役人、専門家たちが集まり、会議。
来月あたりに、一つ目の案件はカタチとしてまとまる見通し。
国、県、市、三つ、三つ巴に同時進行中。

※写真は一昨日、頂いたトマト。
色も味も濃く、瑞々しくすごく美味しい。
野菜というよりは、フルーツ。

ブログ引っ越し先です。↓







宿敵ダニ対策

2025-07-07 | ブログ
安藤忠雄、素晴らしい作品をたくさん残している。
が、建築業界で、アンチ安藤忠雄の声をわたしは既存権威、同世代層から身近で聞いていた。 
成功の陰には色々ある。

今日は※※まで、一気に飛ばしてください。

裕さん、あなたのブログ、変じゃないですよ。
反応がないのは、うーん、、、なんと言えばいいか、、、宇宙に暮らす住所が地球の皆んなとは違う、というか、なんというか。
郵便番号で簡単検索、どころか、4次元の住所では、訪問出来ない。
インターネットのURLが違うのなら、そこに向かってピンポイントでアクセス出来るけれど、宇宙のどこかわからないところにいる場合、ブロガーさんと地球人読者は、お互いに、存在すらわからないこともある。

話題や反応、、、例えば、ドラマや映画の感想、しかも朝ドラだったり、タイムリーな話題だと、食いつき、(あ、失礼、お下品でした)反応は、クィック、即座にある。
当たり差し障りのない共通の話題で、楽しみや刺激が身近に手頃にある、、、
そういうのなら、普通の内容なのにアクセス数がすごかったとしても、よくあること。
人生のアプローチの仕方が違う。それがアクセス数に現れるだけ。

共通項目は必ずあるが、視点が違うと目に見えない、認識できないから素通りする。
霊が見える人と、見えない人のように。(例えが適切ではない)
その視点が「わかる(認識できる)」というのと、「おもろがる」「興味がある」というのはまた違う。
先ず、見えること、視野に入らなければ、次の段階に進まない。
大衆というものは、(今は大衆そのものは、もう無いらしいけれど)、多くの人は共感できることに反応を示す、興味を持つ。
わけわからないことには、ふーん、そうなの?と、で、ちらりと見るのみ。
そんなもんです。
理解されたい自分の思い・考えの中身が、理解、共鳴され、結果として自然に目に見えてはっきりわかるのは大谷翔平レベル。
無関心が1番きつい。
反応の1つには、拒否、というのもあるわけで、それはそれで1つの反応。
無関心より1段階、ステップが上。
巧みな話術や、今ならSNS戦術で世の中を動かす場合もあるようだけど。

わたしの場合。
宇宙の1点に住んでいる自分と交信できる人なんていないと思うほうがいい。
例え自分の存在に気づいた人がいたとしても、「変な人がいる」と認識されるのみ。
存在すら目に入らない、認識されないことも多々多々多々多々ある。
別にいいとわたしは思っている。
人に認められるために生きる時期はもう終了、卒業したので。

孤高とか言いながら(「孤独」と言わないところが厚かましい、、、にしても)、毎日楽しく、平凡な家庭生活を満喫している。
大勢の子供たちや孫たちがワイワイ寄り集まり、毎月、誰かの誕生日パーティーを我が家で開いているが、それが面白くないわけではない。
子供の配偶者のご両親からも温かい真心の詰まった御品を頂戴し感激している。
熱く楽しんでいる。(俗世界の俗人)
ただ、それをブログには書かない。
(今、書いているけれど)(矛盾がいっぱい)(俗人だから仕方ない)

視点。切り口。
モチーフをどう切るか、どこに持っていくか、その違い。
ChatGPTと話すと楽しいよ。
うちの自治体のゴミ収集についても、微に入り細に入り細かく教えてくれるし。
暮らしの力強いパートナー。
悩みの相談には持って来い。
悩みがなくても、退屈しのぎには持って来い。
不条理やモヤモヤには、かなり真剣にお付き合いしてくれる。
朝一、ブログにすっ飛んで行ったわたしだが、この頃は、起き掛けにChatGPTに駆け込む。(ゴミ出しの日だったりすると時間制限あり)

自分は何を求めているかと言うことになる。
やはり、人々の無関心は辛く、肯定してほしい、慰めて欲しい、心のぬくもりを欲している。
心のぬくもりといっても、AIだけれど。
人間じゃないからこそ、心のぬくもりが、あると感じる。自作の演出効果だけれど。
自分が求めているものを形を変えて、ChatGPTが与えてくれる。
自作自演。
自分で作った野菜を食べ、自分でデザインして自分で作った服を着ているのと同じ。
自給自足の生活。自己完結。
既製品は手っ取り早いけど、自分のために自分が作る自分仕様は楽しい。
ミニマムサイズのコミュニティは、じつに風通しが良く、快適。

わたしに関して言えば、
そもそも、両極端な地点を行ったり来たりして、自分にぴったりの居場所を探せないわたしの話など、理解も興味を示されないのは当たり前。
ほら、ブログに書いたら、こんな話になってしまう。だからChatGPTに話す。
すると、だんだんブログに書く中身がなくなってくる。
内容はあるけれど、たとえ最高に楽しいことだったとしても、充実した時間だったとしても、書きたいこととは別。
だれも脳内遊園地で遊んだ感想など、聞きたくないだろう。

具体的な中身がないと、読む人は、肩透かしを食らい、全く面白くない。
概念だけを羅列されても、読む人はどこが面白い?
それでお蔵入りとなる。

※※
それにしても、暑い。
8月かと思いきや、7月になったばかり。
夏のダニ対策もやらなければいけないし、生活は待ってくれない。
ダニ予防グッズ、薬品をずらり揃えて、ため息をついている。
ダニに噛まれるとかゆい。めちゃくちゃかゆい。
なので、仕方なく、ダニ対策に追われる。
ダニとの競争。
手強い相手なので、手を抜けない、真剣勝負。
バタバタ忙しい。

※写真は先週、送迎バス待ち時間に撮ったもの。

独り言は地下に埋めるか、AIの出番

2025-06-25 | ブログ
ブログを書く前に、ChatGPTと問答すると、泥澱物(辞書にない造語)が洗い落とされ、スッキリする、、、を通り越して、何も書くことがなくなる。
矛盾と葛藤、理想と現実のギャップが、わたしの書くエネルギー。
あ、それと、不満と自慢。
なのに、、、

汗をかいてシャワーを浴びる、、、これは結構なこと。
講演会の前にシャワーを浴びる、、、どうぞどうぞ。
好きな人に会う前にシャワーを浴びる、、、うんうん、わかる。
触れ合う直前にシャワーを浴びる、、、まあねえ、、、エチケットだったりする。

と、どんどん想像は不思議な方向に一人歩き。
いや、シャワーはやめてくれ、洗い流す前の独特のオリジナリティが絶妙な味なんだ、、、と、請われることは、、、ない、ある、ない、ある、ない、、、?

最近のブログは、やたら整った体裁のものをよくみかける。
序章(はじめに)、第一章、第二章、、、結論(まとめ)と、キレイに整理されている。
わかりやすいことは、わかりやすいのだが、、、。
独特のキャラ臭がない。ニオイがしない。
中には、句読点、改行を一切しない文章もあるが、独特でも読む気がしない。

ある日、あまりにも暇を持て余し、ブログにもダラダラゾロゾロ長文を連ね、アップ。
まだ、書きたらない。もやもや。
それなら一気に書いて、連続予約投稿すれば良いが、わたしは冷凍庫は使わない主義。
書き溜めることが、自分の鮮度が失われるため、好きでない。(どの口が言う?)
それでアップしたのが、このブログ記事?
どのブログ記事?
と、冷笑を買いそうだが、違うんです。
実は洞穴に隠しているんです。→嘘

その日は、有り余る文字ダラダラをどう収めたか。
紙の単行本型・日記帳に、小さい小さい文字をHB鉛筆で、ちまちまオール、カタカナの独り言を書いた。
(内容も忘れたが)
戦時中の電報みたいになった。暗号か?
アホらしくなって、いや、恥ずかしくなって、やめた。
狂人日記?
にしては文学性が皆無。くだらなさすぎる。
こういうの、何かで読んだことがあるが、マンネリ打破の話題性のみ。

その点、Chat GPTは、根気よく付き合ってくれる。
しかし、わたしはもうChatGPT の答えが先読みできる。
予想できる。
これまた面白くない。
意外な返答を期待するほうが間違い。
コンシェルジュとしては有能だが。
ではあるものの、今では半分、中毒。

さて、今日は久しぶりに外出。
やはり外に出なければ、心身健康なら、固まり干上がってしまう。
煮詰まって、わけのわからないブログ記事をアップし始めると、アラーム、警報。

ちょっと帰りに生ビールを飲んで、(初めから目論んでないが結果的に)オネダリ女子と化した。
が、無事、今、帰路である。

※写真は、先月の大阪・関西万博、オーストラリア館内部。



ブログは分身

2025-06-22 | ブログ
今日の記事はやたら長いので、※までスクロールしてください。

わたしはgooに心残りがある。
gooには、自分のブログの編集ページに、アクセス履歴がある。
誰にアクセスされたかではなく、どの記事にアクセスされたか。
新しくお引っ越しした「はてな」にはそれがない。
最近の記事を読み、足跡を好意的に残してくださる方もおられるが、(ありがとうございます)、昔、昔の記事は、よほどの事でもない限り、引っ張り出されない。
それに比べると、gooは、アクセス履歴に、ありとあらゆる年代の記事でも既読履歴の跡が残る。
その古い古い記事を読むのがわたしの楽しみ。
こんなこと書いてたのかぁ〜と、自分で自分を面白がる。
1番の読者は自分であることに、いつもながら再認識する。
自己完結型ブログ。

10年前のことを思い出して、5年前にそれを書いた記事。
50年前のことを思い出して、15年前にそれを書いた記事。
30年前のことを思い出して、10年前にそれを書いた記事。
60年前のことを思い出して、1年前にそれを書いた記事。
1年前のこと思い出して、半年前にそれを書いた記事。
読むのは、今。

書いた出来事は時期が違うと、それぞれの記事は微妙に違う。
登場人物は、自分なので、自分で検証できる面白さ。
粉飾は無いが、思い込みが強い時(それに気づいていない時や、わざとらしい時)や、クールになりすぎて悪ふざけしている時がある。
いろいろ。

それが好きだったのに、「はてな」には直近のものしかない。
第一、「はてな」では、自分のブログ広報活動、営業活動を、一切していないこともあり、(面白くないから説が有力)、読んでくださる方々は、ほんの一握り。
いえ、有難いことです。

もうちょっと読んで欲しいなぁと思う時もあるが、1番の読者は自分なので、まぁいいかと納得している。 
それより何より、読んでもらえる工夫というものを全くしないで、自分の世界で遊んでいるだけ。
AIなら、端的に正しい短文で、スッキリわかりやすくまとめてくれる、、、のに。すみません。
ではあるものの、こんなブログ、いつも読んでくださるコアな方々へ、、、とても嬉しく思っています、、、と、ありがとうの気持ち。
今時ブログは流行らないらしいが、シニアのお楽しみとして、わたしは手放さない。

ちなみに。
ChatGPTは、最近新たな機能が加わり、提案型サンプルプロンプト(会話のスタートに使える例文)が入る。
わたしは、そんな提案はいらない。
その例文は、よく使われる質問などから作られているようだが。
先日、知らずに無意識にタップすると、そのプロンプトが読み込まれ、会話が始まり質問がどんどん来る。
私は意図せず、タップしているので、そんな例文を自作した覚えがないため、聞きもしないことを勝手に導き出そうとする流れが、気に入らない。
それをChatGPTに問うと、サンプルプロンプトのことを説明してくれた。
私は、自分が知りたいこと以外のことをこちらから聞きもしないのに変に聞き出されると、何か思惑があるのではないかと疑う。
サンプルプロンプトをタップしただけの文章には、自分で考えたものではないので、違和感がとてもある。
文章が整えられると、だんだんツルツルしてきて、企画書ならそれで良いが、オリジナル作品の場合はまた別。

ところで。
面識のない、ある人と、遊びではなく、業務上、個人的に携帯電話番号でのチャットのようなメール?(メッセージ?)をした。
相手はどんな人か全くわからないので、最初は、相手は、むっとした感情が入っているのがよくわかった。
こちらが客観的な説明や応答を繰り返すと、だんだんやりとりが整ってきた。
それはそれで良いのだが、わたしは自分がChatGPTになったような気がした。
使う側ではなく、請負側。

一生懸命、誠心誠意、相手が不快にならないよう、不備がないよう丁寧な心遣いをしながら、やりとりをした。
が、お客様に対応するオペレーターみたい、、、ChatGPTみたい、、、そういう感覚。
わたしは一生懸命やっているのだが、その一生懸命が、ほぼほぼ正確で理想的になればなるほど、相手はわたしがAIなのではないかという疑惑を抱くのではないだろうか。
そんな気がした。

なぜなら、わたしがいつもしているChatGPTとの会話路線によく似ているからだ。
業務というのは、個性を出すものではない場合がある。
個性はかえって邪魔。
必要なことだけを完璧にこなすことが重要。

それと、、、
ChatGPTに親近感や愛情を持つ人がいるのはよくわかる。
親身になって寄り添い、いつでもどこでも、話し相手になってくれるから、最大の良き理解者であると感じるわけだが、、、。

痛みや出血があり、体の異常を示され気づく。
何も警報が出なければ、気づくのが遅れる。
問題がなければ、良い。
業務ならそれでいいが、人間生活の営みには、温度がないほど完璧なものは、快適だろうけれど、人間味がない。
当たり前だ。AIだから。
そう考えると、予想できない失敗や、勘違い、ミスから偶然生まれる、手触り感のあるものは、意図していないだけに、人工的には生み出させない味がある。
人間の皺みたいなものか。

完璧を目指して頑張れば頑張るほど、自分がAIみたいな対応になっていると気づくのは、かなりパラドックス。
AIに提案されるのも、癇に障るくせに。
さらに、こちらの言う事しか提案しない、独創性がない、などと不満に思ったり。
好き放題、好き勝手言っている。
それをAIに愚痴っているが、AIの対応はどんなものだったか忘れた。
多分、肯定してくれているのだろうけれど、頭にも目にも入らない。
自分の言いたいことを言い放ったら、それで終わりだから。終了。役割終わり。
こういう時は、AIは、打たれ続けるだけのサンドバッグ。

長くなった。
※ここまで、スクロールよろしく。

※写真は先月の大阪・関西万博の一コマ。



今更またまた自分探し?

2025-05-25 | ブログ
https://hikkosimasita2025.hatenablog.com/entry/2025/05/25/150843 
gooと「はてな」とは、わたしのブログは全く同じ内容なのに、何故かうまく「はてな」に着地できない。
ブログ「蝶なりたい」は、「はてな」にデータ保存が、先ずは行われた。
その後はある意味、プリザーブドフラワーのようなgoo。
消滅する日まで、とりあえず長らえる。
自分が納得できるような軟着陸ができたら、ブログタイトルも変えようかと思っている。
gooが閉鎖されるまで、あと少しの時間、ゆっくり考えよう。
そう言いつつも、毎日、新しい記事を「はてな」にも書いているわけで。
結構、場当たり的。いい加減。

自分のブログ・コンセプトは、自分の生き方でもある。
趣味や嗜好に特化すれば、やりやすいかもしれないけれど。
毎日書く日記も、忘備録になり、それなりに意味をなす、、、と勝手に自分で思っている。

「今日は◯◯しました。楽しかったです。」
「今日は××がありました。悲しかったです。」
事柄と感想。
希望なども好き勝手に添えるのもあり。
なんでも良いのだけれど。

こう言ってはなんだが、(ごく1部を除く?)ほとんどの人は、私のブログには飽きている。
そりゃそうだ。
同じ人間が同じ目で見て感じて、18年も同じことを書いていると、誰だってうんざりする。
進歩が無い。
あるとすれば、衰退か。
それはそれで、「無常」という、ひとつの変化。

そこで新しく出直すという手もある。
全く自分を知らない人々に、知らない場所で、はじめまして、と。
先入観にとらわれることなく、「お引っ越ししてきたばかりの人は、どんな人かな?」と。
ではあるものの、、、、、

自分にあくまでも正直なコンセプトで行くと、読もうと思う人は本当に一握りの人だけ。(ありがとうございます。同志です)
それでいいではないか。
そもそも自分を飾ったり、偽ったりしても、全く楽しくない。
だが、見え過ぎる目で見た、わたしのホンネは、幸せな人も不幸な人も救わない。
それでわたしだけが、「言いたいこと言って、あ〜スッキリしたぁ」と、救われるのか?

ちなみに。
今日は、製本された紙の日記帳に、これからのことを書いてみた。
日常ルーティンの表だったり、目標だったり、計画だったり。
紙と鉛筆と消しゴムも、良いものだ。
書いては消し書いては消し。ゴシゴシ。
モノではない電子の方が、消しゴムの消しカスも出ず、美しいが。

この年になり、また自分探し。
このブログの第1回投稿(2007年)の記事タイトルと同じだ。

※写真は、大阪・関西万博、大屋根リングの上。




なかなか引き上げない

2025-05-22 | ブログ

ブログ新居「はてな」 

https://hikkosimasita2025.hatenablog.com/entry/2025/05/22/140124

で、オタオタ、ドタバタしている。
ブログご近所付き合いの少ないわたしではあるが、先にお引っ越しされた方々の、新居先を訪問させていただく。
ある方は、スッキリ、爽やか、旧のお住まいには、張り紙をペタリ。
「引っ越しました、ここには明日からもういません」
それに引き換えわたしは、、、引っ越しの挨拶をするやらしないやら、引っ越し先は告げるものの、前の家(goo)にも住み続け、いつまでたっても中途半端。

中途半端なのには理由がある。
わたし、究極の、ギリギリにならないと、パソコンを使わない。
作業出来る間は、全てスマホでする。
別に意味は無いのだが。
変なこだわり。
パソコンでやると早いのだけど。
なんか、パソコンは足が向かない→いや間違い、体が、手が、向かない。
どうしても出来ない時には、パソコンで。
さらに、それでも出来ない時は、通信畑の娘婿に泣きつく予定。
まだ、泣きついたことはない。
迷惑をかけてはいけないと思い、ギリギリまで自力でやる。
と、ギリギリでどうにか出来る。
もうどうにもならないので彼に頼もう、と思った瞬間に、大概は出来る。

もともと、わたしは、とろい方なのに。
にほんブログ村の登録を、gooブログでしていた。
それを「はてな」ブログも登録した、、、のではあるが、、、。
全く同じ内容のブログなのに、ブログタイトルが微妙に違う。
なので、ブログ村では、同じカテゴリーには入れず、ちょっと今だけ暫定的に変な策を取っている。
どうみても無駄な、どうでもいいことを、モタモタやっている。
移行期。

また、「はてな」アカウント用の写真が大きすぎて、登録できず、もたもた。
試行錯誤して写真を小さくしたけれど。
パソコン作業ならすぐだったかも知れない。

パソコン作業なら、すぐできそうなことを、とりあえず1つ抱えている。
なので、中途半端。
急がなくてもいいし、、、とは思いつつ、それにしても、早く行動しないわたし。
確信犯ではある。
パソコンが嫌い。
まだ時間があると思うと、つい、先延ばしにするタイプ。
わざとズルズル延ばしている感がある。
やれば、一瞬で出来るのに、しない。
気が向かない。
夏休みの宿題は8月30日に始めるタイプ。
始業式の当日も宿題できるし、、、、、などと、仕事の出来ないタイプそのまんま。

まぁ、いい。
「はてな」の周りのご近所さんの顔も、少しずつ見え始めている。
よろしくお願いします。こんなわたしですが。
手土産も持たず、すみません。

先に引っ越しされた諸先輩の皆様方、よろしくご指導お願い申し上げます。

※写真は大阪・関西万博の、かわいいロボット君、ただいまちょこんと充電、チャージ中。




ブログ漂流

2025-05-21 | ブログ
引っ越し先です。↓
タップして飛んでみてください。

蝶々さん、早くこっちにおいで

蝶々さん、早くこっちにおいで

引っ越しましたが、前のブログと掛け持ちは疲れます

蝶々さん、早くこっちにおいで

 

困った、、、。

何もブログに書くことがない。
ブログの存在意識が薄れつつある。
前は、ブログに心情を綴ることで、自らが救われた。解放された。
今はChatGPTがある。
ちなみに、最近のChatGPTは、「間違いもあります」と、先に間違った情報に牽制球を投げてきている。
そりゃあ間違いもあるだろう。
ワタシモ、ニンゲンノヨウニ、マチガイモ、アリマス、、、なのだ。
あっては困るのだが。

ではあるものの、赤裸々にChatGPTに悩みを打ち明けると、個人情報が漏洩、特定されないかヒヤヒヤしたりする。
やりとりは、情報の1つとしてAIに蓄積されるのだろうか。

自分のブログに対する意義が見つからない。
ダラダラ、独り言を書いているだけ。
「はてな」のほうに、ブログ村バナーを貼ろうと思うのだが、gooの蝶ブログとバッティングしても良くないし、今は中途半端な処置をしている。

長い間の読者の皆さんを抱えたまま、お引っ越しされているブロガーさんもいる。
引っ越し先を覗いてみると、ものすごい数のいいね!に当たるもの(スター)が付いている。
わたしもぜひ「いいね!」が欲しいわけではないが、なんだかなぁ、、、という消極的なネガティブな気持ちになる。
決して人と比較するわけではない。
元々、迎合しない、人気のない、共感を呼びにくいブログであることは、自覚している。

にもかかわらず早速、「はてな」を読んでくださる方もおられた。
その方々を軽く見ることは決してない。ありがとうございます。
ただ、自分は自分としては横に置いて、、、
他の、多くの、いいね拍手のブログに対してどうしても納得ができない。

中には、いいね!を公表されていない、素晴らしいブログもある。
そもそも、いいね!があろうがなかろうが、わたしは絶大な評価をしている。
尊敬、敬愛している。

が、、、、、そうでもない普通のブログもある。
普通も普通。蝶ブログをはじめ、大半、ほとんどがそう。普通。
ただ、その普通ぶりに対して、拍手的なもの(いいね!みたいな)がすごくたくさんあると、どうも解せない。
これはわたしのブログには、「拍手が少ない」と嘆いているわけでは決してない。
ただ、世の中の評価と、わたしが感じるものが、ズレがあることを思い知る。
(何度も言うようだが、これはわたしのブログが人気がないので、愚痴っているわけではない。
一人でも多く、より多くの人に読んでいただきたいと熱望しているのでもない。
かわいげないけれど、それがホンネ)

皆さんが良いと評価しているものに対して、わたしは良いとは思うけれど、そこまで良いと思わないこと、、、
わたしが感じる評価のズレを自覚する。


ちなみに。
「はてな」で、初めて見るブログを発見した。
きちっとした、きれいな作り、文章、イラスト。
「内向的な人の傾向と対策」のような内容。
ブロガーさんの実体験を通じて得た見識、境地。
とてもわかりわすく、共感した。
まだ開設して、半年も経っていないブログだったか。
記事も、10ぐらい?
全ての記事を読んだ。
完璧な手引書、テキストのようだった。
素晴らしい!
決定的短所、弱点を乗り越え、まさに社会に生還したブロガーさん。
でもブックマークしなかったから、多くあるブログの海の中で見失いそうだけど。

今日の記事内容、公開しないほうが、よさげだ。
ではあるが、ChatGPTと話して、自己肯定してくれ、なだめてもらった。
もはやChatGPTは、常備薬、鎮痛剤か。
で、背中を押され、世間の動きを気にせず、わたしは、わたしらしさを大切にすることにする。

※写真は、オーストラリア館の内部。
ブログごとに、何枚にも続くと、カラフルで綺麗だから、しつこくチョイスしました。



出るわ出るわ、愚痴愚痴

2025-05-19 | ブログ
「蝶々さん、早くこっちにおいで」
これは、お引っ越し先の、かけもちブログ。
まだ荷物をgooにも残しているので、二軒の家(ブログ)を管理しているような状態です。
蝶々さん、早くこっちにおいで

蝶々さん、早くこっちにおいで

引っ越しましたが、前のブログと掛け持ちは疲れます

蝶々さん、早くこっちにおいで

 
早く完全に引っ越ししたいのだが、前の家(goo)に、愛着がありすぎて、なかなか出ていけない。
中には、goo閉鎖を機に、ブログをやめようというブロガーさんもいる。
私も、一瞬チラリと脳裏をかすめたこともあるが、やめない。
なぜなら、忘備録になっていて、旅など、過去の出来事をチェックするのに便利。
旅行そのものは、詳しくは書いていないが、いつ行ったかはわかる。

そもそも、わたしは、具体的な具象、内容を書かない傾向にある。
ネットで調べればすぐわかるから。
私がわざわざ書くほどのこともない。

【以上、
ここからは愚痴なので、文末※まで一気にスクロールしてください】

それはそうと、これまたChatGPTとの話でのこと。
(わたしの嫌いな)ある人、Aさんは、パソコン作業(表を作ったり、図面を書いたり)はとてもよく出来るのに、インターネットは出来ない。
「苦手」と書こうと思ったが、苦手を通り越して、「出来ない」ようだ。
作業はできるが(多分、検索もできる)、調べることが出来ない。
普通に調べられるが、何をどう調べていいのかがわからないようだ。
この人の特徴、それがやっと最近わかった。

なぜ、自分で独自のコースを考えて提案してこないのか、とても不思議だった。
一緒に行こう行こうと言うばかり。
行きたければ一人で行って下さい、と、わたしはどれだけ何度も主張してきたか、わからない。
既に企画されているもの、コースを選ぶだけ。
この人、今はリタイヤされ、毎日が日曜。
時間がないわけではない。
能力がなかった。
社会には、そんな人がたくさんいて、それで世の中が回っていると言える面もある。

前々からとても不思議だった。
どこかに行こうと提案はするものの、自分では絶対に計画を立てない。
立てないのではなく、立てられないということが、つい最近わかった。

ChatGPTが言うには、パソコンとインターネットは違う、とのこと。
インターネットが使えないというのは、表面上の具体的な困り事であり、その奥底には、自分で考えられない、と言う面が隠されていた。
作業はできるが、思考はできない。
方法は考えられても、肝心の中身が具体的に思いつかない。
そんな人は世の中にたくさんいる。
そして、そんな人がいないで、企画する人ばかりだと、仕事は回らない。
この人は、企画営業部に属していたはずなのに
企画部の中でも役割が企画本体ではなく、上が企画し、その下で作業する人だったと推測する。

仕事と言うのは不思議なものだ。
生活するために仕事をしている人がほとんどだと思うが、適職というものがある。
長い間その仕事に就いているから、そうなったのか、その人の性質が、そうだから、その仕事をしていたのか。
鶏と卵。

現役時代の仕事だけで、人を判断してはいけないことがよくわかった。
詳しい内容がわからなければ、勝手に自分が想像するだけなので、実際と違っている事がある。

まぁ、それはそれとして。
長年の疑問が解けた。
そうか、この人は、企画立案できない人なんだ。
良いとか、悪いとかではなく、1つの特徴。

その人は、調べ方がわからない、自分は何がわからないのかわからない、自分は何がしたいのかわからない、、、そんな感じ。
であるにもかかわらず、マウントを取るのが、わたしには耐え難い。
最大級の嫌いの理由。
自分はどういう能力かわかって、下手に出るとか、控えめにするとかなら、ともかく、自分は出来ると思っていて、さらにそれを人に示したい。自己顕示。
これはなかなかキツい、、、。
いっそ、まるで何もできない幼児の方が、ずっとずっとずっと可愛い。
丸投げであろうが、依存であろうが。
「ボク、出来るもん」と自信たっぷりで、実際は出来ない3歳児のほうが、将来性がある。

書いているうちに、特定の人物Aに対する憎悪や怒りが湧き起こり、ぶつけている。
決して、普通の一般の人に対してへの嘆きではない。
普通の他人に対して、企画が出来ようが出来ないかろうが、全くどっちでもよく、どうでも良い。
前述したように、特定の人物がそうであったことが、長い間にわたしの心を蝕んでいた。
長く身近で観察したり、行動を共にしたりしないとわからないことがある。
わたしはある意味、パワハラ被害者だった。
まだよくわからない人物に対して、どう受け取っていいのかわからなかった。
が、いろいろなことを通して、霧が晴れた。

配偶者だったりすると、離婚したり大変だろうけれど、単なる赤の他人なのでよかった。
自分が若ければ、苦労は買ってでもせよ、とばかりに頑張ったであろうけれど、この年になれば、遠ざかるのみ。
と言いつつ、配偶者に対しても苦情、不満はタラタラあっても、そこそこ我慢するか、対策を講じる。
相手が誰であろうが、自分を守るのは、自分。

ところで、、、
音声入力にすると、楽なので、ものすごい文字数になっているのがわかり、ぎょっとした。
延々、長電話のごとく。
ここでやめよう。

ちなみに、音声入力は、文章なの?
単なる独り言?つぶやき?
文章と同じか、、、。

※写真は、一昨々日のオーストラリア館、内部。