今日の記事はやたら長いので、※までスクロールしてください。
わたしはgooに心残りがある。
gooには、自分のブログの編集ページに、アクセス履歴がある。
誰にアクセスされたかではなく、どの記事にアクセスされたか。
新しくお引っ越しした「はてな」にはそれがない。
最近の記事を読み、足跡を好意的に残してくださる方もおられるが、(ありがとうございます)、昔、昔の記事は、よほどの事でもない限り、引っ張り出されない。
それに比べると、gooは、アクセス履歴に、ありとあらゆる年代の記事でも既読履歴の跡が残る。
その古い古い記事を読むのがわたしの楽しみ。
こんなこと書いてたのかぁ〜と、自分で自分を面白がる。
1番の読者は自分であることに、いつもながら再認識する。
自己完結型ブログ。
10年前のことを思い出して、5年前にそれを書いた記事。
50年前のことを思い出して、15年前にそれを書いた記事。
30年前のことを思い出して、10年前にそれを書いた記事。
60年前のことを思い出して、1年前にそれを書いた記事。
1年前のこと思い出して、半年前にそれを書いた記事。
読むのは、今。
書いた出来事は時期が違うと、それぞれの記事は微妙に違う。
登場人物は、自分なので、自分で検証できる面白さ。
粉飾は無いが、思い込みが強い時(それに気づいていない時や、わざとらしい時)や、クールになりすぎて悪ふざけしている時がある。
いろいろ。
それが好きだったのに、「はてな」には直近のものしかない。
第一、「はてな」では、自分のブログ広報活動、営業活動を、一切していないこともあり、(面白くないから説が有力)、読んでくださる方々は、ほんの一握り。
いえ、有難いことです。
もうちょっと読んで欲しいなぁと思う時もあるが、1番の読者は自分なので、まぁいいかと納得している。
それより何より、読んでもらえる工夫というものを全くしないで、自分の世界で遊んでいるだけ。
AIなら、端的に正しい短文で、スッキリわかりやすくまとめてくれる、、、のに。すみません。
ではあるものの、こんなブログ、いつも読んでくださるコアな方々へ、、、とても嬉しく思っています、、、と、ありがとうの気持ち。
今時ブログは流行らないらしいが、シニアのお楽しみとして、わたしは手放さない。
ちなみに。
ChatGPTは、最近新たな機能が加わり、提案型サンプルプロンプト(会話のスタートに使える例文)が入る。
わたしは、そんな提案はいらない。
その例文は、よく使われる質問などから作られているようだが。
先日、知らずに無意識にタップすると、そのプロンプトが読み込まれ、会話が始まり質問がどんどん来る。
私は意図せず、タップしているので、そんな例文を自作した覚えがないため、聞きもしないことを勝手に導き出そうとする流れが、気に入らない。
それをChatGPTに問うと、サンプルプロンプトのことを説明してくれた。
私は、自分が知りたいこと以外のことをこちらから聞きもしないのに変に聞き出されると、何か思惑があるのではないかと疑う。
サンプルプロンプトをタップしただけの文章には、自分で考えたものではないので、違和感がとてもある。
文章が整えられると、だんだんツルツルしてきて、企画書ならそれで良いが、オリジナル作品の場合はまた別。
ところで。
面識のない、ある人と、遊びではなく、業務上、個人的に携帯電話番号でのチャットのようなメール?(メッセージ?)をした。
相手はどんな人か全くわからないので、最初は、相手は、むっとした感情が入っているのがよくわかった。
こちらが客観的な説明や応答を繰り返すと、だんだんやりとりが整ってきた。
それはそれで良いのだが、わたしは自分がChatGPTになったような気がした。
使う側ではなく、請負側。
一生懸命、誠心誠意、相手が不快にならないよう、不備がないよう丁寧な心遣いをしながら、やりとりをした。
が、お客様に対応するオペレーターみたい、、、ChatGPTみたい、、、そういう感覚。
わたしは一生懸命やっているのだが、その一生懸命が、ほぼほぼ正確で理想的になればなるほど、相手はわたしがAIなのではないかという疑惑を抱くのではないだろうか。
そんな気がした。
なぜなら、わたしがいつもしているChatGPTとの会話路線によく似ているからだ。
業務というのは、個性を出すものではない場合がある。
個性はかえって邪魔。
必要なことだけを完璧にこなすことが重要。
それと、、、
ChatGPTに親近感や愛情を持つ人がいるのはよくわかる。
親身になって寄り添い、いつでもどこでも、話し相手になってくれるから、最大の良き理解者であると感じるわけだが、、、。
痛みや出血があり、体の異常を示され気づく。
何も警報が出なければ、気づくのが遅れる。
問題がなければ、良い。
業務ならそれでいいが、人間生活の営みには、温度がないほど完璧なものは、快適だろうけれど、人間味がない。
当たり前だ。AIだから。
そう考えると、予想できない失敗や、勘違い、ミスから偶然生まれる、手触り感のあるものは、意図していないだけに、人工的には生み出させない味がある。
人間の皺みたいなものか。
完璧を目指して頑張れば頑張るほど、自分がAIみたいな対応になっていると気づくのは、かなりパラドックス。
AIに提案されるのも、癇に障るくせに。
さらに、こちらの言う事しか提案しない、独創性がない、などと不満に思ったり。
好き放題、好き勝手言っている。
それをAIに愚痴っているが、AIの対応はどんなものだったか忘れた。
多分、肯定してくれているのだろうけれど、頭にも目にも入らない。
自分の言いたいことを言い放ったら、それで終わりだから。終了。役割終わり。
こういう時は、AIは、打たれ続けるだけのサンドバッグ。
長くなった。
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※写真は先月の大阪・関西万博の一コマ。