蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

あの人は、今

2014-10-21 | 人生

最近の蝶ブログ。

自分の腕の中で、次第に体温が低下していく我が子を抱く感覚。
ぬくもりを失いつつ、呼びかけにも応えなくなっていく我が子。
もう、このまま死んでしまう・・・

そういった恐怖のような、でも、現実のような・・・
と言いつつ、「そりゃそうだよね」、と冷静に思うような。

ついに、ランキングは圏外になった。(今朝)
ランキング外の、う~んと下位にランクされているブログをペラペラ、パラパラと見てみた。

あれ?
かつてよく読んでいたブログが、ちらほら。
こんな下位でも、ブログは続いていた。
ブログを読むと、相変わらずイキイキと暮らしておられる。
いつごろからブログ書いておられるのかしら?と見てみると、ほぼ、わたしと同時期。
あらまあ、同期の桜。

子供さんもずいぶん、大きくなられて・・・。
7年の月日が経っていた。
ブロガーさんご本人も、もっとお若いと思っていたのに、あれ?こんな年だった?と思うような、けっこうなお年に。
そりゃあそうだ、当時から7歳上乗せ。

わたしだって、同じように7年経っている。

相変わらずの以前と変わらないスタンスの暮らしを続けられているようで、
なんだか安堵感のようなものに包まれた。

その人の、嫌いな部分もある。
性格や嗜好の面で。
ある程度の訪問で遠ざかったのは、そのせいでもある。
しかし、年月が経つと、嫌いな面は、私自身のコンプレックスから来るものだったりしていた。
なので、今、その人と向かい合っても(といっても、勝手に一方的にブログを読むだけだが)、
以前のような感情はない。

わたしも成長した(年を取った、とも言う)。
あの人も、まるくなられたと思う。
意気込みを通り越して、なんだかムキになっていた、肩にへんに力が入っていた、
キツさ、刺々しさ、デリケートな心を隠すような強気の姿勢、無理やりっぽい明るさ、
そういうものが消えていたように感じた。

おそらく、子育てがひと段落して、楽になったこと、落ち着いたことで、
生活そのものを楽しめるようになったのだろう。
彼女は、わたしより10歳も年下なので、いつまでも死ぬまで10歳年下なのだが。
たった10歳で、あんなに生活サイクルが違うのだ、と、自分でもびっくりした。
子供や夫、つまり家庭を軸にすべてが回る生活。
子育て期の専業主婦か否か、では、当然違って当たり前なのだが。

あと10年経つと、どうなるのだろうと想像してみる。
お子さんたちは、全員成長され、独立されるだろう。
日ごろは、ご主人と二人だけの静かな生活。
(フランス人は、日本人の結婚観とは少し違い、結婚は事実婚重視。
嫌いになると、すんなり別れる傾向にあると、感じる。
ご主人と別れていないとは思うものの・・・)
しかし、なにかの機会には、みんなで集まって楽しい時間を過ごされることだろう。

彼女の10年後の姿が、今のわたしか?といえば、そうではない。
それまでの歩みが少し違うので、単純に年月だけを重ねると同じような生活になるわけではない。

それぞれの生活のうえに、それぞれの時間の積み重ねがある。

自分にとって何が大事か、大切か、重要か、
どんな時間を守りたいか、
そんなことを自問自答する、良いキッカケになった。

お互いの幸せは、お互いの胸のなかにある。
目標に向って歩いていると、目標が達成されたあと、喜びの後に、一瞬の虚無感に襲われたとしても、
軸足はしっかり地面についている。
それまでに培われてきた、力強い足だ。

いろんなレースを走っている、いろんな人を、横っちょで眺めながら、
自分もまだ、一生、自分のレースを走り続けることだろう。

 

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捨てた命、拾った命

2014-10-12 | 人生

一年に一度だけお邪魔する、とある割烹のお店。
大手老舗料亭で修業を積まれた、板前さんが、腕を振るってくれる。

いつも和服に真っ白い割烹着を着て、笑顔で給仕してくれる美人の奥さん。
(ご夫婦ともに40代?)
彼女は、近年、妹さんを癌で亡くした。
それと同じ病を発症した奥さんだが、幸いなことに、病が深刻化することから逃れられたそうだ。

先日、行くと、いつも笑顔で出迎えてくれる奥さんの姿がなかった。
「家内は、新しく、自分の店を開きました」
と、柔和な顔で説明される、割烹のご主人。

我々の訪れる割烹は、オーナーである板さんご夫婦のご自宅から結構遠い場所にあるのだが、
ご自宅がある近場に、このたび、奥さん自身で、和食のお店を構えられたそうだ。

その日、奥さんは、我々が来るというので、ご自分のお店は、料理人に任せて、
わざわざ顔を見せに、夜9時頃、お店に出てこられた。

前から自分の店を持ちたかったと話す奥さんは、言葉を続けた。

「一度、落としかけた命、また拾ってきた命。
せっかく命拾いしたのだから、もらった命、大事にしたい、
自分の思いに正直に生きなれば、と思いました」

奥さんは、悔いのない道を選び、歩き始めた。

なるほど・・・

こじんまりした割烹で、腕のいい板さんと、それを支える、夫唱婦随の美しい構図。
そう受け取っていたが、時代は変わったんだなあ・・・と思った。
そして、奥さんの代わりに下ごしらえや、給仕をしていくれるのは、
板前さんの格好をした、20才の女性。

若い女性なら、和服を着ると、またひと際美しさが増すことだろう。
が、コストが合わないとすると、それなりの若さを強調した格好で、お客さんを惹きつけるというのも、手だと思った。
しかし、実際は、すっきりまとめた髪を、ずべて、すっぽり板前さん用の白い帽子におさめ、
白い板前さんの仕事着に身を包んで、てきぱきと仕事をこなす、板前見習いの女性だった。

和風の京美人風の顔立ちなのに、板さんの格好が、アンバランスなような、
男性主導型の形にはめ込まれていない女性の姿を現しているような、
心の中で、がんばって!!と、拍手を送りたいような気になった。

ただし、奥さん、ちょこちょこ顔を出さないと、あの、若い女性とご主人の、
今後の進展が気になると言えば気になる。
奥さんのお店にも、料理人の男性を雇っているらしいので、
これは、よほどうまく仲良くしないと、いつなんどき、バランスが崩れて、ややこしいことになりかねないとも限らない。
これは、外野である、無責任な人間からの、まったくの老婆心であるが。


夫婦で・・・
自分の道を選ぶと、二本線になるんだなあと、感慨深かった。
仲が良いのと、自分の道を選ぶのとは、違うのだ。

これは、親子でも言えている。
家業を継ぐか、継がないか。
などなど・・・。

自分ならどうするかなあ・・・と考えた。
わたしは、あの割烹の奥さんのように和食の腕はないので、
店を持つとすると、職人を雇い、完全にオーナー、経営者という立場でしか、店を切り盛りできない。
自分として出来るのは、給料計算や、店の掃除、給仕サービス係だけだろう。
顔だけ出して、経済面だけを握り、あとの一切を雇った従業員にしてもらう、ということもあるだろう。
どっちにしても、今のわたしには、そんな気力も体力も、野心もない。

拾った命があるとすると・・・
余生を自分の好きなように、後悔しないように過ごしたい。
さてさて・・・自分ならどうするだろう・・・。

ひょっとすると、今とまったく変わらないかも知れない。
不用品を処理して、断捨離後の、すっきりした気持ちで、身も心も、こざっぱり過ごしたいかも。
これも、今の思いと同じではないか。
(亭主も、こざっぱり捨てたいかも知れないが、まだ役に立っていただくことが、たくさんあるので、
がんばってもらおう)

ということは、すでに、わたしは余生が始まっているのかも知れない。

 

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センチメンタル

2014-10-07 | 思い出

わたしのブログは、いよいよ枯れてきたか。

否。

ほとんど心肺停止状態のようだ。

まあ、それもよかろう。

書く側と、読む側の間に横たわる、深~い河の存在は大きい。

 

以前、熱くなっていた趣味をもう一度、ぱらぱらと再確認してみる。
たとえば、パリ暮らし。
インターネットで、アパルトマンの紹介をつらつら眺めてみる。
また行きたい、暮らしたい・・・か?

三度目の正直?
仏の顔も三度?
二度あることは、三度ある?

一人で自力で行けるところは、限られていて、
誰かのお世話にならなければ、行きたいと思う好きなところには、自由に行けない。
自分で行けるところにしか、行けない。
サポートが必要なのだ。自立していない。

なんといっても、話せない、読めない、聞こえない。
三重苦。ヘレン・ケラー。
(でも、最低限度の知識と意思さえしっかり持っていれば、にっこり笑顔で、どうにかなることを知った)


毎日の予定は、その日の午前中に計画していた。
(いつまでも決めずに、ぐずぐずしていると、一日中、部屋に、こもりっ放し)
ある日、どこにも行きたいところがなかったのにもかかわらず、無理やりっぽい感覚で、あるショップを目的地に設定した。
地下鉄駅周辺工事のせいで、全くわからなくなっている駅を何回もぐるぐる回り、
若者たちが、たむろしている中、違和感を覚えながらも、やっと地上に出た。
その店を探してうろうろしていた。

あまり人のいない広場で、一人で来ている、旅人っぽい同じぐらいの年齢の女性を見かけた。
わたしもあんなかんじなの?
なんか、違う。
わたしの目指しているものは、ああいうかんじではない。

じゃあ、なになの?

パリは、一人が似合わない。
なので、もう、パリには一人で行かないかも知れない。
あるいは、こそっと、一度訪れたことのある邸宅美術館にちょっと行って、すんなり帰国するかも。

夜のエッフェル塔。
20時以降は、電飾イルミネーション・チカチカが5分間、綺麗なのだが、
(季節によって、日没時間に合わせるらしいが、わたしの行った9月~10月は20時だった)
エッフェル塔から徒歩2~3分ぐらいのアパルトマンに滞在していたのにもかかわらず、結局、行かず終い。
なぜか?

あんなロマンチックなところに、若くない女性が一人で行っても、絵にならない。
そう思ったから。
それと、どんな年齢になろうが、どんなに近かろうが、夜の一人歩きは、怖いので。

やたら大きな地図が載っている、パリのカラフルなガイドブックを見ると、懐かしい。
ミーハー気分は、十分に味わった。

秋になり、人恋しくなったわけではない。
ひとつの季節を卒業した、そんなかんじなのである。

でもまた、角度を変えた、別の味を求めて、さまようかも知れない。
自力で行ける場所を増やせるよう、力をチャージするのも、ひとつの方法だ。

 

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ブログとSNS

2014-10-05 | ブログ

わたしが、今、毎日しつこく見に行く、某SNS。
mixiのようなものであるが、当然、mixiではない。
ブログと違い、会員間のネットワークやコミュニケーションに重きを置いているようである。

同じSNS的機能を持つ、例えば、アメーバだとすると、
ゆるやかに会員同士のコミュニケーションができ、会員でなくても読めるし、コメントもできる。
いろんな会員間のコミュニティもあり、いろんなものに参加できる。

ここ、蝶ブログを開設しているgooにも多分あるのだろうけれど、
まったく興味がない。

で、その毎日訪れる某SNSは、会員にならないと、人の日記が読めない。
外部からだと最初のほんの数行だけ。コメントも入れられない。

「行きずりの者ですが・・・」というコメントはできない。
会員になると、コメントしてきた人のページに行ってみて、
まったく日記が書かれていなかったり、あるいは、ほんの少ししか書かれていなかったり、
人にばかり頻繁にコメントしたり、訪れてきて、自分の日記はお留守のような人だったり・・・、
で、こんな人、いやだな~と思えば、アクセス拒否できる。

中には、何度もハンドルを変えて、プロフィールも変えて、出直してくる超・不審人物がいる。
でも日記の中身が少ないから、すぐばれる。


その、わたしのお気に入りSNSで問題なのは、
訪れた人のところに、自分の足跡が残るということだ。
かつてmixiにもそんな機能があったが、選択性で自分で足跡を消せることもできた。(今は知らないが)

訪れた人の足跡が、しかも、きっちり時間付きで残る。
最後に訪れた時間が示されるのだが、ちょいちょい自分の管理ページをチェックしていると、
「あ、この人、2時間前にも、あら、1時間前にも、来てる・・・!!」なんてことが、わかってしまう。

そして、全員が見ることができる、各個人のページトップには、その人を訪れた人のハンドルと日付が、数人、出る。
あ、こんなところに、この人が、あの人のところに行っている・・・なんてかんじで、
まるで団地かマンションの、近しい幼稚園のママ友同士が、お互いの行動を監視し合っている目のようだ。

そんなことをネチネチやっている人が、実際にいるのかどうかは知らないが、
とりあえすは、そういう機能があるということだ。

その機能が実は、ネックになっている。
鬱陶しいのである。

自分がどこに行こうが、構わないではないか。ほっといてっ!
そして、自分のところに誰が来ようが、いいではないか。ほっといてっ!
見なければいい、気にしなければいいことだが。

当然、主となるのは日記。
日記にコメントがつけられたり、拍手(共感)されたりの機能があるのだから、
そこで十分、意見や感想、言いたいことは表現できると思うのだ。
足跡機能さえなければ、もっと快適なのだが・・・。
逆に、それが気になって、いつもいつも、自分の管理ページを見に行ってしまう。
誰か、来たかな?と。
足跡が気になる・・・。

あのSNSは、それがひとつの手なのだろうか。
だとしたら、まんまと罠にかかっている。


キライな人が一人いる。
(何度も、ここに書いているが)
その人のことが気になるのだが、最近、「キライなのに見に行きたい禁断症状」も克服して、
その人の日記がアップされても、見に行かなくても、済むようになった。
涼しい顔。
見に行けば、わたしの足跡が残るから、見に行かない。
ほんとうは、キライなのでとても見に行きたいのだが(この定義、おかしい)、ぐっと我慢。
そうすると、最近、その人が、わたしのところに、しばしば訪れるようになった。
彼女は、「キライなのに見に行きたい病」に、かかったばかり?
その人も、わたしのことが、絶対、大嫌いのなずなので、お互い、禁断症状・克服競争?

何個かアップされた日記を溜め、今度、一度だけ訪れた時に、日記を一気読みしようと思っている。
何度にも分けて読むと、時間が、その度に、あちらのマイページに残るから。

(しかし、まあ、わたしは、なんと、くだらないことを書いていることか・・・)


ちなみに、そのSNS、これでは息が詰まるだろうと、作り手側が、気配りしたのかどうだか知らないが、
自分のページを離れて、匿名で書ける日記がある。
そこには、皆さん、好きなように書いておられる。
やはり、匿名性というのは、多くの「しばり」から開放される。
匿名という気楽さや、責任のなさから、人間性が如実に現れる。

ある程度、なにかを書く人は、内容なり、表現なりに、慎みをもって書くべきだと私は実感する。


この蝶ブログは、ほとんど一方通行。
よくこれで、ここまで来たものだと自分で感心する。
書くほうも書くほう、お読みになるほうも、そう。
忍耐と継続性。
お読みになるほうは、おもしろくなければ、ぽい。
書くほうも、飽きたら、ぽい。ブログ閉鎖。
じつに簡単で後腐れがない。

しかし・・・
例えば、ある人のブログをじっと追っているとする。
最初に書きたいことが、ど~っと出てくる。
堰を切ったように。
真面目だったり、おふざけだったり、パロディだったり、重厚だったり。
何年かすると、書きたい内容が変わってくる。
濁流が澄んで来る。


(ちょっと読まない期間があったとしても)
ひとつのブログを腰を据えて読み続けるのも、人間観察、
定点観測のひとつかも知れない。
ただし、その人のことに興味を持ち、価値観がどこかの部分で共通するものがなければ、
とても続かない。

 

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