ブログというものは、自分を救う、とあれだけ書いておきながら、
救う時もあるが、幻想、幻影であるようにも思う。
実態のない、ネットの世界だけで使える通貨のようなものか。
ただただ、書いているだけ。
実行するのやら、しないのやら、自分で、口のなかで、もごもご、もにょもにょ、言っているだけ。
しかも、どこの誰だけもわからないわけで、(リアル知人の方は、ご存知だが)
いいカッコ、いっぱい、つらつら書き綴っても、誰も真偽のほどは、わからない。
誰に何を思われようが、自分が納得するか否か、だけの話である。
なのだが・・・。
・・・
自分のブログは、本音を書き連ねているが、心底、シリアスに思っていることは、書いていない。
それは、あまりにも生々しくて、書けない。
傷口なり、なんなり、表面が乾いてからしか書けない。
自分の中で、かなり深いところで進行形であるものは、書けない。
・・・
それと・・・なんというか、自分がブログの閲覧数などに熱情を注いでいたりするのは、
非常に滑稽なことであると感じた。
ネットの向こう側の人々との、強いような弱いような、そういう、あやふやなご縁は、
わたしというキャラクターの生き方、生き様にも大いに関係するだろう。
自分をさらしていない状態で、他の人と、こころがつながるわけがない、と確信している。
お互い、自分を映す鏡である。
・・・
話は変わる。
・・・今は、まだ夢を見ているようだ。
凝縮されたひとつの映画なり、小説なりの、場面、場面ごとを要約したものを
多くの役者さんたちによって、リアルに目の前で繰り広げられているような気持ち。
ある特定の一人の人物(ヒロイン)に関わりのある、自分の知らない世界の人々を多く見て、
自分は、その女性のことを、ほんの一面しか知らなかったのだと思い知った。
わたしの知らない世界で、その人は、こころを解放し、満ち足りた時間を過ごしていたのだ。
職場の人とは、職場の顔しか知らず、私生活を知らないように、
ちょうどその逆で、その人の家庭生活面では、役割分担のある部分での顔しか知らず、
そこを離れたところの、広く大きな舞台での顔を知らなかった。
・・・
ものごとや、人は、一面からだけ見るのと、角度を変えて見るのとでは違う。
そして、表裏一体である。
どの部分を見るかは、立場や感性、感覚、性格や考えによって違う。
人物の場合、すべてを隈なくスミからスミまで知れば良い、というものでもないと思っている。
自分にとって、感銘を受けたり、影響を受けたり、共鳴したり、
吸収すべき、尊敬すべき、見習うべき、
そういう面に主に近寄って行きたい。
自分にとって、少しでもプラスになれたらいい。
逆に、嫌な面があったとしても、すべてを総合して、その人なのだから、
それはそれで、いい。
マイナス面・総合点より、プラス面・総合点のほうが上回っていれば、上等だ。
ましてや、はるかに上回る人は、素晴らしい。
表現によったり、性質の度を超すと、プラスにもマイナスにもなる。
おおらか→ルーズ
真面目→融通が効かない
几帳面→神経質
冷静→冷淡
温厚→鈍感
人がいい→利用されやすい
キビキビ→せかせか
おっとり→のろのろ
などなど・・・
お付き合いの度合い、濃度、利害関係によっても、人間的特徴の出方が変わってくる。
どう関わるか、は、ネットのお付き合いだけでは、限界がある。
やはり、リアル社会でのお付き合いというものは、人を知る上では、必要不可欠だと思う。
それをわかった上で、ネット上で、わたしは遊んでいる。
しかし、個人のブログではない、もっと大きく広いサイトでは、
ネットで多くの人を救う場合もある。
・・・
自分のブログなど、吹けば飛ぶ、蚊の泣く声ほどのものだ。
「実」の上に立つものでなければ、しょせん「虚」であり、力を発揮しないと感じる。
「実」そのものが、芯はインプラントで、「虚」は、セラミックの歯かも知れない。
あるいは、芯もなくて、がばっと、まるごと総入れ歯かも知れない。
芯はあるが、総入れ歯に抵抗を感じて、歯が無いまま放置し、
歯のない顔を見られるのが嫌で、
人には、にっこり微笑んでも、決して口元を緩めて歯を見せないのかも知れない。
救う時もあるが、幻想、幻影であるようにも思う。
実態のない、ネットの世界だけで使える通貨のようなものか。
ただただ、書いているだけ。
実行するのやら、しないのやら、自分で、口のなかで、もごもご、もにょもにょ、言っているだけ。
しかも、どこの誰だけもわからないわけで、(リアル知人の方は、ご存知だが)
いいカッコ、いっぱい、つらつら書き綴っても、誰も真偽のほどは、わからない。
誰に何を思われようが、自分が納得するか否か、だけの話である。
なのだが・・・。
・・・
自分のブログは、本音を書き連ねているが、心底、シリアスに思っていることは、書いていない。
それは、あまりにも生々しくて、書けない。
傷口なり、なんなり、表面が乾いてからしか書けない。
自分の中で、かなり深いところで進行形であるものは、書けない。
・・・
それと・・・なんというか、自分がブログの閲覧数などに熱情を注いでいたりするのは、
非常に滑稽なことであると感じた。
ネットの向こう側の人々との、強いような弱いような、そういう、あやふやなご縁は、
わたしというキャラクターの生き方、生き様にも大いに関係するだろう。
自分をさらしていない状態で、他の人と、こころがつながるわけがない、と確信している。
お互い、自分を映す鏡である。
・・・
話は変わる。
・・・今は、まだ夢を見ているようだ。
凝縮されたひとつの映画なり、小説なりの、場面、場面ごとを要約したものを
多くの役者さんたちによって、リアルに目の前で繰り広げられているような気持ち。
ある特定の一人の人物(ヒロイン)に関わりのある、自分の知らない世界の人々を多く見て、
自分は、その女性のことを、ほんの一面しか知らなかったのだと思い知った。
わたしの知らない世界で、その人は、こころを解放し、満ち足りた時間を過ごしていたのだ。
職場の人とは、職場の顔しか知らず、私生活を知らないように、
ちょうどその逆で、その人の家庭生活面では、役割分担のある部分での顔しか知らず、
そこを離れたところの、広く大きな舞台での顔を知らなかった。
・・・
ものごとや、人は、一面からだけ見るのと、角度を変えて見るのとでは違う。
そして、表裏一体である。
どの部分を見るかは、立場や感性、感覚、性格や考えによって違う。
人物の場合、すべてを隈なくスミからスミまで知れば良い、というものでもないと思っている。
自分にとって、感銘を受けたり、影響を受けたり、共鳴したり、
吸収すべき、尊敬すべき、見習うべき、
そういう面に主に近寄って行きたい。
自分にとって、少しでもプラスになれたらいい。
逆に、嫌な面があったとしても、すべてを総合して、その人なのだから、
それはそれで、いい。
マイナス面・総合点より、プラス面・総合点のほうが上回っていれば、上等だ。
ましてや、はるかに上回る人は、素晴らしい。
表現によったり、性質の度を超すと、プラスにもマイナスにもなる。
おおらか→ルーズ
真面目→融通が効かない
几帳面→神経質
冷静→冷淡
温厚→鈍感
人がいい→利用されやすい
キビキビ→せかせか
おっとり→のろのろ
などなど・・・
お付き合いの度合い、濃度、利害関係によっても、人間的特徴の出方が変わってくる。
どう関わるか、は、ネットのお付き合いだけでは、限界がある。
やはり、リアル社会でのお付き合いというものは、人を知る上では、必要不可欠だと思う。
それをわかった上で、ネット上で、わたしは遊んでいる。
しかし、個人のブログではない、もっと大きく広いサイトでは、
ネットで多くの人を救う場合もある。
・・・
自分のブログなど、吹けば飛ぶ、蚊の泣く声ほどのものだ。
「実」の上に立つものでなければ、しょせん「虚」であり、力を発揮しないと感じる。
「実」そのものが、芯はインプラントで、「虚」は、セラミックの歯かも知れない。
あるいは、芯もなくて、がばっと、まるごと総入れ歯かも知れない。
芯はあるが、総入れ歯に抵抗を感じて、歯が無いまま放置し、
歯のない顔を見られるのが嫌で、
人には、にっこり微笑んでも、決して口元を緩めて歯を見せないのかも知れない。