蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

2014-03-31 | ブログ
ブログというものは、自分を救う、とあれだけ書いておきながら、
救う時もあるが、幻想、幻影であるようにも思う。
実態のない、ネットの世界だけで使える通貨のようなものか。

ただただ、書いているだけ。
実行するのやら、しないのやら、自分で、口のなかで、もごもご、もにょもにょ、言っているだけ。
しかも、どこの誰だけもわからないわけで、(リアル知人の方は、ご存知だが)
いいカッコ、いっぱい、つらつら書き綴っても、誰も真偽のほどは、わからない。

誰に何を思われようが、自分が納得するか否か、だけの話である。
なのだが・・・。

・・・

自分のブログは、本音を書き連ねているが、心底、シリアスに思っていることは、書いていない。
それは、あまりにも生々しくて、書けない。
傷口なり、なんなり、表面が乾いてからしか書けない。
自分の中で、かなり深いところで進行形であるものは、書けない。

・・・

それと・・・なんというか、自分がブログの閲覧数などに熱情を注いでいたりするのは、
非常に滑稽なことであると感じた。
ネットの向こう側の人々との、強いような弱いような、そういう、あやふやなご縁は、
わたしというキャラクターの生き方、生き様にも大いに関係するだろう。
自分をさらしていない状態で、他の人と、こころがつながるわけがない、と確信している。
お互い、自分を映す鏡である。

・・・

話は変わる。

・・・今は、まだ夢を見ているようだ。
凝縮されたひとつの映画なり、小説なりの、場面、場面ごとを要約したものを
多くの役者さんたちによって、リアルに目の前で繰り広げられているような気持ち。
ある特定の一人の人物(ヒロイン)に関わりのある、自分の知らない世界の人々を多く見て、
自分は、その女性のことを、ほんの一面しか知らなかったのだと思い知った。

わたしの知らない世界で、その人は、こころを解放し、満ち足りた時間を過ごしていたのだ。
職場の人とは、職場の顔しか知らず、私生活を知らないように、
ちょうどその逆で、その人の家庭生活面では、役割分担のある部分での顔しか知らず、
そこを離れたところの、広く大きな舞台での顔を知らなかった。

・・・

ものごとや、人は、一面からだけ見るのと、角度を変えて見るのとでは違う。
そして、表裏一体である。

どの部分を見るかは、立場や感性、感覚、性格や考えによって違う。
人物の場合、すべてを隈なくスミからスミまで知れば良い、というものでもないと思っている。

自分にとって、感銘を受けたり、影響を受けたり、共鳴したり、
吸収すべき、尊敬すべき、見習うべき、
そういう面に主に近寄って行きたい。
自分にとって、少しでもプラスになれたらいい。

逆に、嫌な面があったとしても、すべてを総合して、その人なのだから、
それはそれで、いい。
マイナス面・総合点より、プラス面・総合点のほうが上回っていれば、上等だ。
ましてや、はるかに上回る人は、素晴らしい。


表現によったり、性質の度を超すと、プラスにもマイナスにもなる。
おおらか→ルーズ
真面目→融通が効かない
几帳面→神経質
冷静→冷淡
温厚→鈍感
人がいい→利用されやすい
キビキビ→せかせか
おっとり→のろのろ
などなど・・・

お付き合いの度合い、濃度、利害関係によっても、人間的特徴の出方が変わってくる。

どう関わるか、は、ネットのお付き合いだけでは、限界がある。
やはり、リアル社会でのお付き合いというものは、人を知る上では、必要不可欠だと思う。

それをわかった上で、ネット上で、わたしは遊んでいる。
しかし、個人のブログではない、もっと大きく広いサイトでは、
ネットで多くの人を救う場合もある。

・・・

自分のブログなど、吹けば飛ぶ、蚊の泣く声ほどのものだ。
「実」の上に立つものでなければ、しょせん「虚」であり、力を発揮しないと感じる。

「実」そのものが、芯はインプラントで、「虚」は、セラミックの歯かも知れない。
あるいは、芯もなくて、がばっと、まるごと総入れ歯かも知れない。


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芯はあるが、総入れ歯に抵抗を感じて、歯が無いまま放置し、
歯のない顔を見られるのが嫌で、
人には、にっこり微笑んでも、決して口元を緩めて歯を見せないのかも知れない。


テレビ

2014-03-27 | 日々のこと
家人がつけていた、とあるテレビ番組をたまたま見た。

ある男性の波乱万丈のストーリー。
見れば見るほど、うんざりした。

スタジオのゲストたちは、「感動をもらった」、だの、
涙、鼻水を流しっぱなしで、呆然としているタレントもいた。

最後の〆あたりは、そう問題はないが、最初や途中あたりが、非常に、疑問符がいっぱい。
番組制作者の意図が、見え見え。
主人公の男性から聞き取り調査をした内容を元に、ストーリー展開されているのだろうが、
波乱万丈の中身について、ん???と、思えることが、ここかしこに出てきた。

「家族を養うために」というフレーズが、あちこちに出る。
人生の舵切りの選択や、行動を起こす理由は、いつも、この言葉が付けられる。


家族を養うために、借金をしてバーを開いた。
もう、最初のここで、わたしは、コケた。
自分がバーを開きたかったのではないのか?
家族を養うためなら、借金までして、そんなリスクの大きな、水商売を選ぶか?
もっと堅実な、ガードマンだとか、そういう職で、きっちり手堅く行くのでは?
(肉体的に支障があるなら、別の手堅い職)
ましてや、素人が商売をするのは、かなり堅実な下準備や計画が必要だ。
特に、健全な資金計画は不可欠。
(どうしても、というなら、たこ焼き屋とか、小さな資本でリスクを最小限に留める規模を選ぶとか)
いずれにしても、なかなか成功するものではない。


バブル崩壊で、いろんな人の人生が狂った。
それは、確かに波乱万丈ではあるが、個人の特定のストーリーに、特色として打ち出すのはいかがなるものか。
バブルが崩壊しなくても、借金をして水商売の店を開くなどという、賭けに近いことをするには、
回りを巻き込むことになる。
なのに、「家族を養うため」という説明。

次々、起こる、経済社会現象の波に飲み込まれる。
それも、かなり多くの人々が、影響を受けただろう。
従業員を抱えた中小企業の社長さんや、町工場の主など、悲惨な出来事に襲われただろう。
その重責に押しつぶされる深刻さとは、少し違うように思う。

この主人公の男性は、次もまた、「家族を養うため」という大義名分のもとに、
あまり堅実とはいえない職に就く。

借金が増えに増え、妻子を借金地獄から守るため、離婚。
養育費を稼ぐため、また、あまり手堅くない儲け話に乗る。
この時も、「養育費のため」。

儲け話は泡と消え、無一文状態の主人公を助けてくれた、一人の貧しい女性と結婚するに至る。
後に妻となる女性が、経済的に彼を支えてくれる。
貧しい女性に、貧しい男性をどうやって支えてもらうのか、そこのところは、説明は無し。
最高学府を出た彼女に見合う職業には、就いていなかったように思う。
結婚後、また、不幸に見舞われるのだが、・・・

以前、偽装離婚に近い形で借金から逃れさせるために離婚した、前の妻子はどうなったのか、
まったく説明はされなかった。


あれは、主人公の男性が悪いのではなく、テレビ制作者側が悪いのかも知れない。
話を作り上げる側が、どの部分をチョイスし、見せ場を設けるか、であるが、
どうも、妻子のため、だとか、最高学府出身だとか、
ポエム的なフレーズをあちこちに盛り込んだまま、放置し、
問題点や矛盾点は追究されないまま、また、新しいポエムに進む。

シーンごとに、スタジオ・ゲストの表情を大写しにしたり、あの手、この手で、
お涙頂戴となるわけだが、番組の作り方に非常に違和感を感じた。

こんな番組作りでは、テレビも見向きされなくなり、インターネットに走られても仕方ないかと思った。

・・・

そう、ある人に感想を漏らしたら、
「インターネットを使わない(使えない)人に向けて、テレビ番組は作られているのだから、
テレビは、それで、いいんです」
とのコメントを頂戴した。


「世の中は、そんなものだ」、と、テレビ番組の情報を鵜呑みにする人々もいるそうだ。
情報が氾濫していて、なかには、作為的に作られ、流されている情報もある。
それを見分けるのは、けっこう難しいと思う。
国内からだけでは、日本語だけの情報では、つかみきれない、と、とある方がおっしゃっていた。
どの情報をチョイスするかにもよる。
自分の興味ある情報に偏りがちだ。

いろんな情報を読み込み、自分なりの理解、解釈をする。
仮説を立て組み立て、さらに実証、検証してみたりする。
まるまる、ひとつの情報をそのまんま、すっぽりと飲み込んでしまうのは、リスクがある。
情報を組み立てる時に、自分の頭で考えないと、ぐちゃぐちゃになる。
情報収集の後は、整理、分析し、設計図が必要だ。
たんに受けるだけではなく、そこから考える、そういうことが必要だと思う。



ちなみに、
全くの、個人的な偏った好みであるが、切り口によっては、大好きな番組もある。
切り口は、「人間」「自然」「人生」「音楽」「歴史」「民族」などなど・・・
はっきりした、ブレない視点で捉えられているものは、好き。
ドキュメントも、作り方で、全然、違ってくる。

わたしを含め、視聴者なんて、好きなことを言うものなのだ。



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評価

2014-03-26 | 人生
勉強が出来る、出来ない、には個人の資質の違いがある。
たいして、頑張らなくでも、スイスイできる頭脳を遺伝的に持っている人もいる。
もともと頭脳明晰の人が、熱心に頑張ると、すごいことになる。
その逆もある。
凡人、もしくはそれ以下の人が、いくら脂汗を流して頑張っても、
ある程度のところまでは成果があったとしても、それ以上は、頭がパンクするだけだ。

スポーツもそうだ。
運動音痴や、四肢以外に、内臓など機能的に、身体のどこかが弱い人は、
パラリンピックであっても、活躍できないハンディを持つ。

芸術に至っては、一匹狼では、どうすることも出来ない。
芸術家になるには三代かかるといわれている所以である。
中には、素晴らしいパトロンに擁護され、才能の芽を伸ばす人もいるが、稀。

・・・

才能がない人、または、からきしダメな人。
そういう人は、自分の道に応じた道を選ぶとよい。
が、自分に才能がないと納得できるまで、とりあえずは、トライすべきだ。
努力の結果、あきらめ、方向転換するのならよいが、
努力もせずに、私はだめだから、と、
拗ねたように荒んだ気持ちのまま、そこから考えることを止めるのはよくない。
だめならだめで、別の方法、別の道が、必ずあると思う。

トップ、頂点を目指しても、だめなものは、だめ。
どこで見限るかだ。
一生、「絵に描いた餅」で、空腹に苛まれる道を選ぶのも、その人の人生。

運と要領の良さで、実力以上の位置にたどり着いたとしたら、そこからが大変だ。
一回りも二回りも大きい器、枠の、スカスカの中身を埋めていく、努力の時間が待っている。
どっちにしても、努力しないとだめなのだ。

才能がない人が、才能のある人を羨む、妬むのは、いかがなるものか。
人が努力して手に入れたものを、努力したけれど手に入れられなかった人が羨む、恨むのは?
試行錯誤して、自分のやり方を検討すべき。道を探るべきだ。

人が努力して手に入れたものを、努力しないで手に入らなかった人は、羨むべきではない。
目標にしたり、参考にしたり、指針にしたりするとよい。


人が努力しないで手に入れたものを、同じく努力しないで手に入れられなかった人は?
自分も同じく努力していないくせに、妬むだろう。自分は不運だと嘆くだろう。

人が努力しないで手に入れたものを、努力したのに手に入れられなかったら?
ぶーすか、ぶーすか、ズルイ~と文句を言うだろう。
こっちにも、よこせ~と、声高に権利を主張するだろう。


人が努力しないで手に入れなかったものを、努力して手に入れたら?
努力しない人は、だめね、と、上から目線だろう。

人が努力して手に入れたものを、努力しないで手に入れたら?
あまり、他の人にそのことを知られたくないように、ひっそり、満足しているだろう。
犯罪一歩手前の場合もあるかも知れない。

人が努力しないで手に入れたものを、努力しないで手に入れたら?
みんな同じ、なにもしなくても手に入るものには、さほど有り難味や価値を見出さないかも?

人が努力して手に入れなかったものを、努力して手に入れられなかったら?
ああ、世の中って、こんなもんだよな、と、あきらめ、納得することだろう。


いろいろ、パターンを書いているうちに、混乱してきた。
ダブってそうな、漏れてそうな、そんな気がしてきた。

要は・・・
人と比べる、ということだ。
自分ひとりなら、マイペースだ。
自分の道を探求、追及。こころが乱されない。

報われなくても、人も自分も同じなら、それなりに納得ができる。
人と、自分が違う場合に、羨んだり、妬んだり、不公平感を味わったり、嘆いたりする。

上記のパターンで、あきらめるなり、納得するのは、
人が努力して手に入れたものを、努力しないで手に入らなかった人
人が努力して手に入れなかったものを、努力して手に入れられなかった人

もやもやするのは、
人が努力して手に入れたものを、努力したけれど手に入れられなかった人
人が努力しないで手に入れたものを、同じく努力しないで手に入れられなかった人

つまり、格段に条件が違う場合は、納得する。
並列の立場で、同じ条件で同じ結果なら、あきらめがつくが、
同じ条件で違う結果だと、「恨み節」発生となるようだ。
「みんな、おなじ」「みんな平等」の精神が起因か。
似たようなライン、路線にいて、どんぐりの背比べの時に、摩擦や微妙な心理が生じるようだ。

長々書いたような気になってきた。
図で描いたほうが、わかりやすい。(自分が)


横並びの社会なのか。
競争するには、ほどよい刺激になるだろうが、競争には努力がつきものだ。
努力を惜しんで、結果に不満を抱くのはよくない。
が、ひとそれそれ、努力の仕方が、まちまちなので、評価しにくいのが、難しいところだ。
といっても、わたしは評価する立場の人間ではない。
仕事だけでなく、人生そのものの行いについて、考えてみるが、
個人主義や全体主義やらいろいろあって、結論なんかわからない。

ここで、「神のみぞ知る」、などと宗教めいた言葉で〆ると無難なのだが、
「神ってなあに?」などと言い出すと、〆るにも〆らない。


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不公平

2014-03-25 | 日々のこと
毎日、毎日、好き勝手なことばかり書いている。
訪問してくださる方がおられることが不思議なぐらいだ。

いつも、愚ブログにお越しいただき、ありがとうございます。
なんのお構いもできませんが、とりあえず、ココにお座りください。
今、お茶の一杯、茶菓子のひとつも出そうと・・・ごそごそ・・・
していますので・・・ごそごそ・・・。


茶菓子が見つからない。
お茶っ葉は、袋が開封されたまま、賞味期限が切れている。
こんなのでも、よろしいか?


・・・

わたしは、動かない、という欠点がある。
「動じない」というと、堂々としていて聞こえがいいが、動かない、動けない。
お尻がひっついて、はがれない。

火事なんかの時は、腰が抜けて、逃げられないタイプか?
はたまた、大事なものをいっぱい背中に背負って、一目散に逃げるのかも?
人に背負ってもらって、救出される?
少なくとも、人を背負って、救出するタイプではない。

つまり、立派な人ではないということだ。
ちょっと迷惑な、困った人かも知れない。

わたしは、自分のことで精一杯なのだ。
人のことなど、面倒見切れない。
自分のことすら、面倒見切れていないのに。
それを自己チューと言われると、申し開きの言葉が見つからない。
一言たりとも弁明できない。

・・・

「人に○○してあげる」という行為はすばらしい。
しかも見返りを求めず。

なぜ、あなたは、しないのか?と、詰め寄られる、とする。
「したくないだけなら、それは、わがまま。するべき。しなさい。
出来ないのなら、しかたないけれど」

「わたしがしているのだから、あなたもしなさい。
当然の義務でしょう?」

「能力がないから出来ない?
なにを寝ぼけたことを言っている?
そんなものは経験しているうちに身につくものです」


出来る人、やる気のある人ばかりがやって、
出来ない人はいざ知らず、出来るくせにサボっている人は、なにもしないでけしからん。
これは、明らかに不公平。

・・・


不真面目で楽する人がいる一方で、真面目で勤勉な人が苦しい目をするのは、じつに不公平である。
この不公平を公平にするには、両者ともに真面目に額に汗するか、
あるいは、頑張った人だけにご褒美を与えるか。
頑張らない人には、ご褒美を与える必要はない。
頑張った人が得た成果を、頑張らなかった人に分け与えるのは、いかがなるものか。
その状態を放置し、真面目な人のやる気をそぐ悪影響を与えるとすると、非常によくない。

そういったことを、公の場で公人が言ったとしたら、叩かれる。
だが、個人的な閉鎖的な場であれば、なんの問題もないだろう。
その社会のルールに則って、行っていけばよい。

企業努力、然り。
自由競争しない社会は、停滞する。
優れた人も、優れていない人も、努力している人も、努力していない人も、同じ評価では、
やる気がある人は、自分の能力が活かせる社会に流出していく。


しかし、優れた人のとった行動の結果、得た評価やご褒美を、優れていない人が目の当たりに見て、
評価やご褒美をめぐって争いが起きる可能性がある。
サボっている人をへんに刺激し、我も我もと、奪い合い、競い合いになると・・・??
闘いの場と化し、泥沼化したりする。
眠っている人の悪い部分を起こしかねない。

・・・

家庭内や親子のこと(介護や育児)となると、相互補助が必要になる。
自分のしたいことばかりに偏らず、義務を全うすべき。
まったくの正論である。

自分はサボって、サボっていない人と全く同じ評価を受けようなどと厚かましいことを思ってはいけない。
行動の質を落とし、足を引っ張りかねない。

自分のやるべきことをちゃんとやること。
お尻が重くても、頑張ること。
お尻を上げるまでにエネルギーは必要だか、走り出すと意外に勢いは、つくものだ。
事態が好転するよう、自分なりに努力するしかない。




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お彼岸

2014-03-24 | 日々のこと
お彼岸のお墓参りをした。
はるか彼方の遠方に住む息子以外、全員集合。
なんと、集合率の高いこと。

普通は、彼岸の墓参りは、親の眠る墓に、跡継ぎ長男の家族の誰かぐらいなものではないのだろうか。
夫の家の墓は、親以外にも、たくさんの見知らぬご先祖様の方々が眠っている。
お参りしたのは我々だけでなく、長女&婿&孫、次女、夫の叔父夫婦。
夫の叔父夫婦は、毎年最低、春・秋の彼岸2回と、盆、命日、・・・
と、あと、よく知らないけれど、ちょいちょい墓参りに来る。(月命日??)
夫の叔父夫婦は、延々、電車で片道2時間半ぐらい離れているところに住んでいる。
皆、墓参りを一度も欠かさず、義理堅いというかなんというか。
宗教心。信仰心。熱心だ。

夫の父親や先祖諸々の墓には、長女の婿まで参ってくれて、申し訳ないような気持ちだ。

ちなみに、結婚して親の世帯を抜け、新世帯になっても、実家のお墓に、参るものなんだろうか?
わたしは、祖母や父が亡くなった時や、法事の時ぐらいしか、実家の墓参りなど、したことがない。


子どもたちや、その家族を、
別に、嫌がるのを無理やり引っ張って、お墓に連れて行ったわけではないので、まあ良いとしよう。
自主参加である。
我々に宗教心があるからだろうか?

少なくとも、わたしにはない。
まったく、ない、といっても過言ではないぐらい、ない。
(が、ひょっとして自分では自覚してないだけで、ほんの少しぐらいは、意識下にあるのかも?)
今日、自分があるのは、自分以外の人々のおかげであり、感謝はしているものの、それは宗教や信仰ではない。
が、自分の置かれている立場上、イエの宗教行事はこなさなければならない。
義務である。
もし、自分が婿養子をとった、娘であったとしても、やはり、義務だろう。
が、自分が家付き娘なら、自分の代で、簡略化するかも知れない。


そんな、本音中の本音は、せっかくわざわざ休日をつぶして、遠くから来てくれている娘婿などには聞かせられない。
ありがとう、と感謝するのみ。
そして、ご先祖サマ、ありがとう、と手を合わせる。

義母は、お葬式の後の行事の仕方を、
こうして、ああして、これして、あれして、あれこれあれこれあれこれ、わたしに教えてくれた。
ぺらぺらぺらと流れるように伝えられても、頭に残らない。
到底、記憶できない。
実際、その時になったら、地元の人々が教えてくれるらしい。

わたしは、憂鬱で憂鬱でたまらない。
宗教心もないのに、イエのため、それらの、超メンドクサイ、ちまちました、行事をこなさなければならない。
わずらわしい以外のなにものでもない。
昔からのしきたり。

でも、娘婿など、みんな、義理なのに協力してくれているわけだから、わたしがそんなことを言っている場合ではない。
誰も、好きでやっている人など、ひとりもいないだろう。
地元の慣わしだ。


なぜ?とか、どうして?とか、やらなければいけないの?
とか、そんな疑問は、感じていては、ご当地では生きてはいけない。

わたしは、地元に住んでいないので、その地の文化を吸収しきっていない。
愛着があるかというと、義務感のほうが大きい。
というよりは、むしろ、あの風習、文化が嫌いで、寄り付きたくないように思う。
自然に、果物が熟すように、文化を吸収するのならいいが、
青い、いや、渋い、年はいっても未熟なわたしが、無理やり、理解できないまま、納得できないまま、
その地域の風習に従うことに、こころが激しく抵抗している。
異物を噛まずに、ごっくんと丸呑みして、胃の中で暴れている。

都会の人々なら、そんな宗教がらみの、しちメンドクサイ風習はない。
じつに、あっさりしている。
隣近所とは、宗教も違うし、付き合いもない場合もある。
葬儀場で葬式をしたら、あとは家に身内が四十九日や初盆などに、ちょこっと集まるぐらいだ。
なんで、夫の実家エリアの宗教行事は、
あんなに、何度も何度も何度も、何日も何日も何日も、地域の人々たちに参ってもらったりするのだろう。
宗派によるのだろうか。
まったく信じてもいないのに、なぜ、あんなことに振り回されなければいけないのだろう。

と矛盾や葛藤を思いっきり抱えながら、おそらく、自分が出来る限り、こなそうと頑張るだろう。

遠い親戚の、ある娘さん、といっても70歳近くて、お孫さんもおられる。
関東のほうに、とっくの昔にお嫁にいったが、実家が、こっち。
つい最近、弟さんが亡くなり、すでにご両親も他界されているので、わざわざ関東から関西に度々出向き、
葬儀、その他の一切を切り盛りされていた。
偉いなあ~と感心。
もう家には誰も住む人もいないし、彼女も一連の行事のあとは、関東に引き返す。
なので、少々、手違いやら、省略やら、方法が違っていても、
誰かが、指摘や非難をしたとしても本人には届かない。
住まないというのは、そういうものだ。
なのに、彼女は、頑張ったと思う。

・・・

しかし、へんなことに、今頃になって、こんな年になって、遅遅ながら、わたしは自我が芽生えてきたように思う。
信じていない宗教の行事を行うのが、嫌だ。
「なら、やめたら?」と言われそうだ。
そんなことをすると、その地域で仕事を営業している夫の立場がない。
そして、せっかくここまで継承してきた義母たちに申し訳ない。

小泉純一郎さんの元奥さんのようなものか?(そんな、いいものではないが)
国会議員の嫁は、ノーサンキュー。
自分自身の人生を歩みたい。
だから、嫁を降ります。

そう言いたいところだが、できない。
もし、したとしても、自我を張りすぎ、主張しすぎても、絶対に後悔する。
義理は重んじたい。
なので、わたしは、自分の気持ちを抑えこんで、行事は無事終えられるよう、努力することだろう。
やることだけやって、義務を果たした後、すっきり清清しい気持ちで、サヨナラしたい。
でも、その頃には、また考えが変わっている可能性がある。
年を益々とって、自分があの世が近くなって、ころっと思いが大転換しているかも知れない。

今は、こう思っていても、今後はわからない。

なるときに、なるようになればいい。
あまり、肩に力を入れず、流れに身を任せたい。
大きな流れには、身を任せたほうが、ストレスが少ない。
逆らうと、自分自身が、たいへん。

にっこり、悟ったような穏やかな笑顔で、お経のひとつも読んでいるかも知れない。
明日には明日の風が吹く。


自分で自分が守れない時は、ご先祖様が守ってくれますよ、と思える日が来るのだろうか。
誰も、わたしも、そんな先のことは、わからない。



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同窓会

2014-03-22 | 日々のこと
夫が、高校の同窓会ゴルフコンペに参加した。
その後、飲み会。
社会で成功した人しか参加してしてなかったそうだ。
(成功といっても、この場合の成功は、飛び抜けて、というわけではない。
ちゃんと職業を持って自立して生活している、といった程度だが)

女子はその点、楽。
とは言っても、夫が成功した人しか参加してないようにも思うが。
自分が成功した女子も参加している。

といっても、そう言えば・・・卒業以来、一度も顔を出していない同級生が数人いる。
全員、希望校に入れなかった生徒。
だが、そんな生徒でも、同窓会に、にこやかな顔で参加している人もいる。
中学時代のエピソードをネタに、盛り上がっている。
官僚であろうが、教授であろうが、関係なし。オマエ、オレ。呼び捨て。

わたしは、もう、今度こそは、同窓会に参加しないつもりだ。
いつも、不参加の気持ちを強く持っているのに、「参加してちょうだい~、お願い~」と
世話役から電話がかかってくると、引き受けてしまう。
意志が弱い。

前回は、中学時代に一度も話したことがなかった男子と、同じテーブルだった。
「○○くん、一度も話したこと、なかったね。ちなみに、あなた、友達いたの?」
と、わたしは、いきなり切り出してしまった。
やはり、彼には友達があまりいなかったようで、中学時代は、親の進めた進路に乗っていただけで
何事にもさほど自分の意志や自覚が、なかったようだったとか。

わたしが、一度も話したことがない、当時、ちっちゃかった、そんな男子となぜ話す気になったかと言うと、
爽やかな顔をしていたからだ。
いくらなんでも、すねていたり、荒んでいたり、そんな状態ではなさそうだ。
話せば、アクのない会話、こころは、ひんまがっていなさそうだった。
ちゃんと日本語が通じた。

彼は、役人から教授に転身したばかりだった。
役人の世界は、ある年齢に達すると、こうやって人を減らしていくのか、と理解した。
でも、役人に対する先入観である、四角四面な偏狭なタイプではなかったが、
中学生の彼と、中学生のわたしとでは、まだまだ未熟で、接点を見つけることができなかったようだ。

などなど・・・
あれこれ、書きたいとノッてきた。
が、時間が来てしまったので、今日は後ろ髪を引かれつつ、オシマイ。


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ベビーシッター

2014-03-20 | 日々のこと
ベビーシッター事件で、ママ・タレントの大沢あかね女史が、テレビ番組での発言で炎上しているらしい。

「見ず知らずの人にベビーシッターを頼むのは不安、5,6回ぐらいは様子を見て決めたらいい」、とか、
「ちゃんとしたところに預けるべき」、とか、そういうコメントだそうな。

それに対して、「上から目線だ、富裕層発言だ、お金がないから、少しでも安いところにしか預けられないんだ」、などなどと、
えらく叩かれているようだ。

ちゃんとしたところに、理想的な手順を踏んで預ければいいのはわかっているが、できないところに問題があり、
社会の病理が、どこにあるかを指摘、解明するのが、コメンテイターの役割と、言わんばかり。
しかし、大沢女史は、素人の、たんに、子どもがいるだけの人の発言であって、専門家ではない。
普通に、自分が感じたことを言っただけだろう。

わたしが、知りたいのは、なぜ、「そこに」預けたのか、というのは、想像できるとして、
なぜ、他人に預けたのか、どういう事情があったのか、そこが知りたい。
シングルマザーで、裕福でもないので、安いところにしか預けることができなかった、というのはわかる。
安いといっても、相場より安いというだけだ。
預けたくても、たとえ安くても、預けるお金もない人もいることだろう。


幼い子どもとだけの生活では、身動きできない、息が詰まる、このままでは虐待しかねない。
そういう緊急危機管理・避難的処置なのだろうか?
あるいは、結婚式に出席とか、行事系?

当然、親兄弟、親戚、知人、友人たちには、預けられない事情があるのだろう。

・・・

たった一人で幼い子ども二人の世話をするのは、並大抵のことではない。
経済面はどうなっていたのだろう?
託児所付きの職場で働いていたのだろうか?


わたしなら・・・近所に見てくれる人がいないと、預けないかも知れない。
ひたすら、子どもが大きくなるのを辛抱強く待っているかも知れない。
子どもが保育園に行くまで頑張ろうとか、指折り数えて入園日まで、カレンダーに○をつけているかも知れない。
というか、それ以前に、シングルマザーになる勇気がない。
あとは、どうにかなるさ、という人生計画の上での大胆さがない。
ある程度の計画を実行、クリアしないと、あとは、どうにもならない、と思ってしまう。

・・・

いずれにしても、不特定多数の人が視聴するメディアで、何かを発言するというのは、
なにかしら影響があるということだ。


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手作り

2014-03-19 | 人生
わたしは厚顔無恥で無神経ではあるが、逆に、非常に臆病でもある。
なので、自分で機嫌よく、自分のこねくり回した屁理屈に、うん、うん、そうよね~と、自画自賛しつつ、
無理やりにでも、自分を肯定する。
一種の自作自演の宗教である。

臆病と自分のことを言ったのは、自分の自己満足・屁理屈が否定されると、こころを痛めるからだ。
人のこころを痛めることにはさして細心の注意を払わないのに、
自分のこころが痛められることには、非常にきりきりと痛み、不安を感じる。
鋭い切り口で、構えていないところに、不意に、ぐさっと斬られることがあるので、(しかも正論)
そういうブログには最近、行かないことにしている。

それとは正反対に、ちょっとおとぼけのブログ、ツッコミどころ満載のブログは、
「そりゃあ、ないよなあ」と、ほのぼのして、気が休まる。
切れ味鋭いより、切れないバターナイフで、豆腐を切っているのがいい。
自分のことか?

・・・

話を自作自演の宗教に戻すと、・・・

義母などを見ていると、こねくり回す過程などは一切いらず、ショートカットして、最後のところの自己肯定のみ。
労力、時間の効率化が図れて、非常に合理的だ。
その省エネ分、エネルギーを蓄えられ、祈りもパワーアップ。

ショートカットするにも、「手引き」というものがある。
それは、信仰だ。

プロセスはよくわからないけれど、言われた通りにしていれば、なんか、幸せになれるらしい。
例えば、儀式的なこと。
1日何回、あれをしてこれをして、季節に応じた行事は、あれをしてこれをして。
天国と現世を結ぶプロ導き人(お坊さん、お寺さん)には、お布施やらなんやら、チップよりは大きなお金を差し上げる。
お経の意味もわからなくても、とりあえず、唱える。
外国語をまるごと暗記して、好きな歌を歌うのと同じ。御詠歌は、ゴスペル。
これは、非常にわかりやすくて、大勢の地域の人たちも同じコトをしていて、
自分のしていることは、ごくごく通常、普通一般、生活の一部だと、なんの疑いも迷いもなく、
澄んだこころを一心に捧げられる。

ある意味、うらやましい。
幸福へのプロセスは、丸投げ。
おまかせ状態。
労力的、金銭的、時間的には、捻出が大変だが、精神的にはお手軽。
考え出さなくてもよい。(むしろ、考えると、従えなくなる)
だから、信者様というのは、多いのか。


ひとつひとつ、自分で作っていたら、たいへんだ。
例えば、服。
ベランダでコットン材料となる植物を栽培したり、
あるいは、屋根裏で蚕(かいこ)を飼い、蚕の繭から絹を頂戴し、
それらから糸を作り、布を織り、
ボタンも貝殻や木を加工して作り、一枚の服を材料から何から何まですべて手作り。
そこまでしなくても、手芸キット(セットしてあるもの)を買ってきて、手作り感を楽しむのもよいだろう。
(栽培するのに、肥料までこだわり、自分で作ったり、蚕の品種改良したり・・・
となると、結論より、プロセスそのものを楽しむコースも、ありかも知れない)

それはそれとして・・・
一から作るのは、横井庄一さんのような洋服職人の方なら基礎スキルがあるだろうが、
経験、知識ゼロでは、なにから、どこから始めていいのかわからない。
そこで、学校で、道徳やら倫理やらを習う。
(この部分に国の意図的思惑を知らず知らずに盛り込まれると、怖いだろうなあ)


キリスト教系の学校は、たくさんあるし、仏教や新興宗教系の学校もある。
そこでは、宗教の時間が設けられているだろうが、
生徒たちは、宗教に群がってその学校に入ったのではないことが多い。
進学率やら、スポーツ系やら、なんやらかんやら、外因に起因するケースが見受けられる。
中には、制服に憧れて入学する生徒もいるようだ。
(わたしには、考えられないけれど、そういう単純な発想もあっても、その人を救う)
制服が変わったら、どうするのだろう?
でも、入学して、3年や6年は、変わらないかも知れない。


と、話は、脱線に、脱線を重ねている。

宗教という、芯があれば、楽だということ。
死の病に冒されても、飛行機事故に遭っても、かなり心強いと思う。
死を直前にして、入信したり洗礼を受けたりする人もいるようだ。
かなり強烈にパワフルに、多くの人を救ってくれるようだ。

手作りの、繭から絹を作ってどうこうしていたら、自分を救う前に、先にあの世に行ってしまいそうだ。

・・・

既成宗教にのっかって、訓え通りにマニュアル小僧になっているほうが、楽は楽。
じたばたあがいても、大河には呑み込まれてしまいそうだ。
というより、いっそ身を任せたほうがいいのかも知れない。
が、わたしは、あんなにアタマからすっぽり、意味もわからず、納得もせず、まるまる信じるという超芸は出来ない。
たんに、世の中の事例の一つとして、参考にするに過ぎない。

もっともっと事態が深刻化し、自作の祈りなどでは、到底追いつかなくなったとき、
真剣に考えることにしよう。
極寒の真冬が到来しようとしているのに、まだ、蚕の働きが遅かったりしたら、優雅に待ってられない。
「しま○ら」か「ユ○クロ」で買ってきたほうが、早い。
案外、見栄えも悪くなく、快適だったりする。
カシミヤは、自分では作れないし。

・・・

大河に巻き込まれるまでの、小さな小さな、かわいらしい一人時間。
そこでは、チマチマと、自分のブログ宗教で、自分を救っている。


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肯定

2014-03-18 | 暮らし
ちょっと前までは、核家族などというものは、存在しなかった。
家父長制のもと、長男が代々家督を継承していた。
娘は嫁に行き、次男以下は、分家するか、分家するほどの資産のない家は、都会や外国に出たりした。
片道切符であることが多い。

家族は、大家族で、親夫婦には、その上のおじいさん、おばあさんがいて、
長男一家には、嫁や子どもがいて、さらに、長男のほかには、嫁に行っていない娘や、きょうだいたちがいた。
子育ては、大家族でやっていた。
大きな家では、子守や女中さん、男衆たちがいた。

が、核家族になると、年寄りたち世帯は、老老介護、子育て世帯は、親をあてにできずイクメンが戦力、
それぞれが、自分たちの人生を自分たちだけで賄う必要が出てきた。

最小の核家族は、シングル。
独身世帯。

家族の形態、在り様は大きく変貌を遂げた。

・・・

核家族は、お互いのいいとこ取りをしている。
が、交流がうまくいかない核家族は、年寄り世帯と若い世帯が、別個に存在し、自分たちとは異なる世代のことを知らない。
これは、相互理解を阻害している。
世代間のギャップ、溝が深まる。

いずれにしても、キーマンとなる求心力のある人物を中心に、家族がまとめられている場合が多い。
そのキーマン求心力が、新しい家父長制に代わるものだと、わたしは思っている。

キーマンが中心になって、バリバリと統率力、リーダー性を発揮する。
キーマンが弱ると、急激に、家族の求心力も低下する。
そのキーマンは、昔なら当然、家父長であるが、今は、女性なんじゃないかと思ったりする。
おじいちゃんより、おばあちゃんのほうが長生きするし、息子より嫁のほうが、しっかりしていたりする。

たまたま、わたしの場合は、嫁であるわたしは、しっかりしていなくて、
夫は、ただただ古いだけのガンコ頭の持ち主、
今のところ、義母がキーマンである。
ポスト義母は、いったいどうなるのか、想像がつかない。
わたしが、義母の代わりに、ばりばり頑張るかというと、まったくそんな気配すらしない。
どうにか自分の任期をことなきを得て終了し、大急ぎで弱弱しく、次の代にバトンタッチすることだろう。

次の代は、バトンを受け取ってくれないかも知れない。
あるいは、次世代が老人になる頃に、バトンを受け取り、一瞬手にしただけで、バトンを落とすのかも知れない。
ころころと転がったバトンは、どこに行くのだろう。
それが、時代の流れなのだろうか。

転がったバトンを拾いに行けるほど、わたしは元気ではないだろう。
というより、あの世から、その様子を見ていることだろう。
その転がったバトンを孫が受け取ってくれるのだろうか。
そこまで心配していても、確かめる術もない。

この憂い・・・いつも孫に言っていたとしたら・・・
吉と出るか、凶と出るか・・・
おばあさんに、孫守をしてもらって楽だ~と喜んでいたら、おばあさんは、なんのことはない、
なにやら、ぶつぶつと、孫に、いつもいつも言って聞かせていることがあったりして、
三つ子の魂百までも、とまでもいかなくても、どこかでその影響が出たりして。

・・・

そんなことは、思ってないにしても、この孫たちが、いずれ、自分の後を引き継いでくれる・・・
などと、自分にとって都合のいい理想やら妄想やらを抱きつつ、孫守をしていたとしたら・・・
ある意味、怖いような、怖くないような。
それを言い伝えというのだろうか。

わたしは、なにもぶつぶつと孫に語りかけるつもりはない。
ただ、愛情を持って接していけたらいいと思うだけだ。
孫の両親(娘夫婦)は、まだ若いし、仕事も忙しいだろうから、
そのサポートを、少し離れた距離感をもって出来たらいいと考える。
たんに、それだけだ。

こう育てたい、とか、そんなことは口出しする気もないし、親に任せる。
縁の下サポート。

・・・

お姑さんのせいで、子どもの教育をしそこなった、と嘆く、とあるお嫁さんがいる。
とんでもなく強いお姑さんであれば、そんな怖いお姑さんを持った経験のない人にはわからないことだろう。
わたしは、意地悪な人との悶着や騒動に巻き込まれた辛い経験がないので、いつまでも甘い。
それが幸運だったとも思うし、困難に打ち勝った経験がないという、自信のなさにもつながる。

あまり揉め事が起こらないのは、わたしはすぐに、従ってしまうからだろう。
自分を曲げることはけっこう、カンタンに安易に、プライドも同時にへし折って、どおってことなく出来るようだ。
なので、あまり騒動も起こらない。
曲げて合わせているようで、じつは、全然、合わせていないことに今頃になって気付く。

・・・

ストレスを長年ためると、絶対に良くない。
病気になる。
なので、自分を肯定する。
人が自分を非難したり否定したとしても、自分は自分を肯定する。
それでいい。
(反省や学習も必要だが)

他人に自分を壊されるのなら、他人の言っていることより、自分を信じるほうがいい。
自分を守るのは、自分しかいない。


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入り口

2014-03-17 | 日々のこと

昨日、IKEYAに行った。
スエーデンの大規模家具店。
超満員だった。
若い層が多かった。
子育てが今から始まる、ああいう年代の人が、
IKEYAの家具や雑貨で子育てするなら、夢もあり、現実的でもあり、いいだろう。
なにしろ、ショールームで商品をチェックし、店舗内にある倉庫から自分でレジに運び、
自宅に自分で持ち帰り、自分で組み立て、価格は低コスト。
子育てと同じで、家具も部屋も、手作り感覚だ。

わたしは、北欧家具は好きだが、もはや、そういう子育て世代ではないので、
すでにガチっとフィックスされた家具やインテリア、空間がある。
部屋の模様替えをする気はない。
北欧風に変えると、すべての家具を変えなければいけなくなるので、非常に合理的ではない。
テイストを揃え、合わせた上での、模様替えということになる。

キッチン用品や、洗顔ネット、洗濯用品、収納用品を購入した。
それでも、夢は広がる。
少しでも、快適な生活に改善したい思いだ。

・・・

ちなみに・・・

孫守りの、なんと疲れることよ。

「『孫は来て嬉し、帰って嬉し』の気分、味わえた?」
と、孫を我が家に放り込んで、本人は外出の娘は、しゃしゃーと言う。

まあ、そんなかんじかな~、と、言葉を濁したが、まさにその通り。

同居して、孫の面倒を見ておられるおばあちゃんの方々・・・
本当に本当に本当に心の底からアタマが下がる。
絶対にわたしは、できそうもない。

孫に振り回され、娘婿に気を使い(娘婿も気を使い)、ついでに自分の夫もいる・・・
そんな、がんじがらめの日常生活・・・よく皆さん、耐えておられるなあと感心する。


わたしは、子育て時期には、優雅な生活とはきっぱり決別し、住まいも家具も衣類も、すべて子育て仕様に徹底した。
子どもが使って、どう壊れても傷ついてもいいもの、
「コラ!それは、高価なものなんだから、触ってはいけません」とは絶対に言わなくてもいいものばかりに、すべて換えた。
家も社宅や中古住宅。
すべての生活を、子どもに合わせた。
そうやって、子育てを終了し、無事、大人の落ち着いた生活を満喫できる日を手に入れた。

子育て期間中は、田舎の蔵に眠らせていた家具たち、それらを出してきて、さあ、これからは、充実の趣ある生活を楽しめる・・・
そう期待して、愛しみ続けた家具たち、家。
が、ちびっ子ギャングの出現で一転。いや、暗転。

一からデザインを描いた、思い入れたっぷりの家、内装・・・空間・・・
べったべたの手で、あちこち触りまくるわ、よだれがボトボトだわ・・・は、拭いたらまあいいとして、
家具や床の間を噛むと、剥げ落ちて歯型がくっきり。
床も、モノを投げたり、モノで叩いたり、引きずったりで、べこべこへっこんだり、傷がつき、雪平鍋のよう。

新築後、大事に大事に暮らしてきたのに・・・
涙、涙、涙・・・

娘は、「おばあちゃんは、孫より家具のほうが大事らしいで~」と言う。
「アンティーク路線で行けば?」とも。

古いものと、傷だらけのものは違う。
古いものを大切に使うのが、アンティークである。

孫は、ほんの1歳になったばかりなので、まだまだヤンチャではなく、大人しい。
これが、どんどん成長していき、やがて一人が二人になり・・・あわわわ、あわあわ・・・。
想像するだけで、恐ろしい。
いっしょに、洗濯機の中に放り込まれたように、子育て大合戦に巻き込まれる図。

もともと、家や家具にこだわりがあるだけに、とても複雑な心境だ。
ぼろぼろで、そろそろリフォーム時期なら、なんの問題もないが、
新築以後、とても丁寧に使ってきている。

ババのわがままだとは思うが。
ぜんぜん、気にならない家で子守をするなら、どんなに気楽か。
そんなこと、言ってられないんだろうなあ・・・

「出来る限り、自分の出来ることをして子育てをサポートしたい」・・・との理想に燃えたキレイごと発言、
口から出任せではないはず・・・なのだが・・・。


子育て戦争、真っ只中、最前線・・・
これから、益々激化する様相を呈している。

・・・

街で見かける60代の女性たち。
いきいきと若々しい。

「50代は孫育てに必死、大変だったので、やっと手が離れてとても嬉しい、
もう、孫は、十分。十二分に面倒見させていただきました」
と、充実の時間を過ごされている。
ハードな時期を乗り越えて手にした、今のゆとり時間。
わたしなど、ほんの序の口。
こんな、まだ入り口で、アゴを出していては、早すぎる。



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