蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

怨みが、自分を苦しめる

2024-09-29 | わたし
気分が落ち込んでいる。
落ち込むには原因、理由がある。
原因はハッキリわかっている。
だが、解決できない。
泣き寝入り。

世の中の不条理も、こんなものだろう。 
戦争で勝つ人、負ける人。
長い目で見ると、勝ったり負けたり。
だが、長い間、勝ち続ける側と、負け続ける側に固定的に分けられ、火種は消えないことがある。

月夜の夜ばかりではない。
弱者の怨みは強烈、、、ではあるが、やはり弱者の枠を超えない。
いつか見返してやる、、、と悔しい思いを抱えて歯軋りするばかりで、弱い立場は解消されず、抑圧されたまま。
わら人形と、五寸釘。
生き霊となって枕元に立つしかない。
未来永劫、先々の世まで、恨み貫く。
何の解決にもならない。

わたしは犯罪は絶対に嫌だし、自暴自棄も嫌、理性的で冷静なだけに、怒りや怨みが内に籠る。
負のエネルギーが溜まりに溜まって、いずれ何かのかたちになって爆発、暴発するかも知れない。
が、これから先の未来、相手に起こる不幸を力の限り全力で祈るのみ。陰湿。
ああ、なんて消極的で、非力、力のない方法。
弱い奴めと、相手はほくそ笑んでいることだろう。しめしめ、と。

わたしのキャラクターがこのカラーに染まり定着するのは避けたい。
が、弱いものはこうやって弱肉強食の中で淘汰されてきたのだろう。
消えてなくなり、強いものだけが生き残る。
これは摂理か。
としても、あまりにも強さによる結果だけを重視していないか?
スポーツならそれが全てだが。
勝負の世界もそうだが。
勝負しているつもりはないのに、のんびり明るく楽しく過ごしていると、気がついたらすっかり、ごっそりやられていた。
(オレオレ詐欺やSNSロマンス投資詐欺ではありません)

と、ここまで書いて、全然、スッキリしない。
読む側の皆さんは、ひたすら鬱陶しいだけだろう。
具体的内容も書かず、怨み節オンリーでは、わかるわかると共感どころか、まるで理解出来ない。
こころを沿わせることも出来ない。
もっと楽しい題材もたくさんあるのに。

こころが怨みに囚われて眠れない。

「誰かに相談してはいかがですか?」
「専門家の意見を聞いてみたら?」
「同じような悩みを持つ人に思いを打ち明けてみたら?」
「傾聴カウンセリングを受けられたら?」
などなど、アドバイスを自分で適当に想像してみた。
自分から欲を一切無くすことが、鎮魂への道。
自分だけが身を引き、相手に譲るのは不平等だ、自分が損して相手が得していると感じているうちは、悟りの道は程遠い。
損して得とれ、とは言うものの、、、。

もやもやは、益々深い霧となり、わたしを苦しめる。

スクロール、お願いします。

さよーならまたいつか!虎に翼に泣く

2024-09-27 | 日々のこと
とうとう朝ドラ「虎に翼」が終わってしまった。
ここ半年の楽しみがなくなった。
激しい虎翼ロスである。
この先、生きていけるか?
(わたしのブログが誇張表現、多用だということが、バレてしまう、、、が、それぐらいの気持ち、、、)
虎翼後、8:15からの「あさイチ」虎翼コメント、やりとりを楽しみにしていて、引き続き見ていたのも、やめそう。
虎翼ロスを引きずり、たぶん来週からは朝ドラは見ないだろう。
情熱が続かない。
おにぎり、おむすびでは、、、。

虎翼は、テーマが良かった。
最終回の今日の〆のなんと深いこと。
全女性が力をもらったことだろう。
書き下ろし脚本が卓越。

しかし、板前の格好の道男、最後まで変わらぬお若さ。
恋の予感にドキドキしたお相手、寅ちゃんの義姉の花江さんは、ひ孫と戯れているというのに。
ちょっと、いや、大いに不思議。
というか、それは枝葉中の枝葉。バリエーション彩り。
実は花江さんとの結婚?を少し期待していたのだが。
ありえないか、、、。

それにしても濃い半年だった。
いろんな人が次から次へと、出てきては消えまた出てきて消え、、、
ドラマスタートから1ヶ月遅れで見始めたが、みっちり楽しませてくれて、ありがとう。
忘れられない一作となりそうだ。


普通でよい

2024-09-25 | 子育て
勉強のさせ方は難しい。
特にそのサジ加減。
放ったらかしにして、野猿のごとく野山を駆け巡るのならまだしも、昼夜を問わずゲームやスマホ没頭で、視力低下、寝不足で学業が疎かになるのを目の前で見せつけられると、どこまで我慢出来るか?どこまで口を出さずにいられるか?

放任は楽だが、厳しくする方が大変だ。
学業に全く向いていない性質の子供なら無理矢理勉強させても、お互い徒労。
中卒でマグロ漁船に乗るぐらいの根性があるなら、へんに勉強を押し付けなくても自分で生きて行けそうだ。
中途半端が困る。
難しいことや手間暇のかかることはAIがしてくれ、それで職を追われる人もいる。
効率の良さばかりを追求しても、破綻する場合もある。
ただ、そういう段階にまで到達しないで、ポテンシャルを掘り起こさず、裾野のほうでダラダラ無意味に無目的に生きていくのは、もったいない。
まったり裾野が好きな人もいるが。
出会う大人に影響を受ける。
一番近い大人は家族や親戚だ。
一族、同じ職業の人もいる。
身近に見本があると、イメージが掴みやすい。

タイプは2つ。
そのタイプか、そのタイプではないか。
中間、真ん中は?

わたしは、もう子育ては完全に終わり、老いては子にボロクソ、、、という段階。
従うにも、とろくさい。
しっかりした人ばかりが周りにいて、喜んでいる段階は過ぎ、モタモタするわたしは、キツく言われて涙が出そう。
効率重視で、思い遣りというものを育んで来なかったわたしの教育が間違っていたのか。
だが、完全、完璧な子育てなどないので、普通なら善しとしよう。
多くは望まないほうが、幸せが近い。


教育は難しい

2024-09-24 | 子育て
お彼岸を挟んで、2泊3日、夫の実家に娘一家たちとステイした。
孫ちびっ子5人。
上から2番目が10歳の誕生日。
バースデープレゼントで盛り上がった。

、、、のはよいのだが、、、
上2人、塾に行かない代わりに、ドリルをする約束をしていた。
丸つけの後、間違い直しに手こずっている。
2番目男児孫はまだマシだが、1番目男児孫がなかなかハードタイム。
小6ということもあり、手厳しい。
問題集が難しいのもさることながら、なかなか間違い直しが出来ない。
だんだん、ママのボルテージが上がってくる。
ヒステリックに、目が釣り上がる。
キツイ言葉で容赦なく責め続ける。
めちゃくちゃ怖い。
あんなに怖くしたら、出来るものも出来ない。
スーパーパワハラ、モラハラ、心理的虐待だ。
1番目孫Yは完全に固まってしまっている。

なぜ、できない?
なぜ、しない?
なぜ、しようとしない?
◯◯の意味は何?
言ってみなさい。
声に出して。
なぜ、言わない?

と、どんどん追い詰めている。
一向に進まないため、小4男児孫のバースデープレゼントの関連グッズを買いに連れて行かないことにした。
「帰ってくるまでに何が何でもやっておきなさい!」と捨て台詞と共に、1番上孫だけを家に残して、皆んなで出かけた。
ジジババ(夫とわたし)は自主的に家に残り、1番上孫Yに、優しく言葉を掛けた。
「さあ、気分を切り替えて、アイスクリームを食べようか」と夫(じいちゃん)が声をかけ、食べさせようとしたが、Yは過呼吸のような、咳と涙が止まらない状態がある程度、続いて、食べることが出来なかった。

精神的な強いストレスから、明らかに身体に症状が出ている。
夫は、頭からガミガミ怒鳴らずに、根気強く粘りながら、ゆっくり、わかりやすくYに教えた。

わたしは、子供の教育にはさほど苦労したことがないので、あまりよくわからないが、ママのように、あんなにキツく追い詰めたら、絶対にやる気をなくすと思う。
わたしは劣等生だったため、自分自身の教育には少し苦労した。
が、学校の特徴でもあったが、周りの生徒が強烈に出来すぎ、ハイレベルな中に、凡人のわたしが放り込まれたため、必要以上に出来の悪さを実感した。
逆に、周りが普通の中で教育を受けた子は、へんに劣等感にも苛まれることなく、のびのびと明るく、捻じ曲がらずに成長していた。
羨ましい限りだ。
結果は大して変わらないのに、かたや劣等感の塊、かたや優越感の塊、、、どっちがいい?
あんまり、ぎゅーぎゅー締め付けずに、のびやかに勉強できる環境がいいと思う。
が、その反面、自主性に任せると全く勉強しないかも知れない。
ある程度プレッシャーを与えるのも必要だ。

1番上孫は、塾に行くか、自宅でドリルか、と親が選択肢を与えたところ、「塾に行かず自宅でドリル」を本人が選んだらしい。
が、自宅でドリルはかなり大変。
親が子供の勉強を見るのは、感情的にもなるし、うまくいかないことが多い。
(わたしは、ピアノレッスンの予習を家でやって、子供達をピアノ嫌いにしてしまった。音楽の芽を潰した。
わたしの教え方が悪かったため、胸が痛い)

塾でプロに任せるのが、親子共に、良いのではないかと思う。
介護をプロにお願いするほうが、激しい親子ケンカを回避できるのと同じように。

1番上孫も、母親も、自宅ドリルには限界を感じ、今後は塾に行く選択をするかも知れない。
それにしても、教育は難しい。

ちなみに、テレビ特集で説明していたが、教育虐待する親は、子供に自分が果たせなかった高い理想を押し付けるためらしい。
だがしかし、長女は、1番上孫に、高い理想を押し付けているわけではなく、普通に自分と同レベルを目指しているだけなのだが。
とは言え、子供が皆んな、よく勉強するかというと、そんな子はあまりいないと想像する。
まだ自主性が芽生えていない子供を勉強させるのは、かなり困難だ。
本当に教育は難しい。



楽だけど自分で考えなくなる

2024-09-20 | わたし
昨日の昔の覚書記事で、ふと気付いたことがあった。
インターネットがまだ蔓延していない時にSNSオフ会に集まったメンバーの職種を見て、ふと。
パソコン業界、文筆業界、広告業界。
あれれ?
わたしのライフワークと微妙に繋がっている。
やはり好きなことは、リンクするし、長く続く。

インターネットではないとしても、紙媒体での同人誌に載っているような集まりは、昔からあったわけで。
紙から電子というツールに、現代風になっただけか。
紙の歴史のほうが、はるかに古く長い。

とは言え、リアルタイム、グローバル、一個人から世界への発信。
この違いは大きい。
情報が知れ渡るのが一瞬で範囲や広がり方もすごい。情報拡散。
が、偽情報だの、情報操作だの、良い面の裏には悪い面が隠れている。
良いことばかりではないのは、何ごともそう。

目の前の世界は広がったものの、結局は日常は同じだったりする。
ではあるが、何かを調べるのには、まあなんと便利なこと。
本を読まない人が増えるのは納得する。
スマホがなんでも疑問に即座に答えてくれる。
「おばあちゃんの知恵袋」は、おばあちゃんではなくスマホ。
蓄積された、おばあちゃんの生き字引、地位、崩壊。
これでは昔の情報は常にアップデートされ、言い伝えや、姑の威厳など、あったものではない。
役に立たないなら、老害は去れ、なんて言われかねない。

だが、似たような情報ばかりを拾いに行き、自分で組み立てたり考えたりしなくなる。
結論に辿り着く前に、他人が考えた結論を先に知る。
それをやってくれているブログやサイトに飛んで行けば、途中の手間が省ける。
自分で調べたり、分類したり、考える手間が省ける分、他者に、それこそAIに安易に任せると、脳が怠惰になりそうだ。
AIに訊ねる中身が「わたしは、どうしたらよいでしょう?」ならまだ良いが、
「わたしは、何をどう感じたでしょう?」では、本人の胸の中しかわからない。
「Aさんの場合は、こうです。
Bさんの場合は、ああです。
Cさんの場合は、状況が違いますが、こうです。
統計的に見て、多くはこういう傾向にあります。
例外は、これです。
過去はこんな風、未来はあんな風に、変化します」
と、例を出して説明してくれるかも知れないが。

掃除は、まず整理から、と言われる。
掃除する前に整理整頓しないと、ゴミ仕分けしないでは掃除できない。
情報収集、シュミレーションして、答えを出すにはまず考える。
この、考えるまでの時間がやたら短くなって、楽は楽だが、大丈夫か?
頭を悩ませる作業を抜いては、深い思考が出来ない。
結論も薄いものになるのでは?

まあ、直感で出した答えが合っていることもある。
だが、直感は、ベースに基礎があってこそ。
何もわからない、知らないのに、直感だけに頼ると、今後の参考にならない。
苦労してモノにした引き出しにはならない。

・・・だらだら書いている。
めんどくさくて、誰も読んでない、、、だろう。
スクロールで結構です。

ちなみに。
関係ないが、「虎に翼」の後、今朝の「あさイチ」に菅田将暉が出ていた。
わたしは大ファン。
インタビューには、あっさりした、ウケを狙わない対応、受け答えをしていた。
マルチタレント。
才能はボーダレス。
菅田将暉の映画、ここ10年、映画館で何本観たことか。
ハイペースで、次から次から新しい映画が作られた。
いろんな主人公を、一定の役柄に縛られることなく、カメレオンのように自然に演じていた。
それぞれを演じ分け、短時間にくるくる変わった。
若いのにスゴイ俳優だと思った。
あまり力むでもなく。ふっと肩の力が抜けている。
実際、水面下では必死の努力をしているとは思うが、まるでその片鱗も見せず涼しい顔で。
わたしは、そういうカメレオン風、涼しげな天才にはとても魅了される。


パソコン通信

2024-09-19 | わたし
わたしは、SNSのオフ会には36年ぐらい前に参加したことがある。
当時まだインターネットは今ほど誰も彼もということはなく、オフ会には、目立ったところでは、パソコン業界、文筆業界、広告業界の人ぐらいしか参加していなかった。
徳島の会社(ジャストシステム)で「一太郎」(日本語ワープロソフト)を作っているという人も普通に参加していた。
インターネットの前身?前夜?「パソコン通信」と呼ばれていた時代。
加入者数は20万人台?
1980年代後半、わたしが利用していたのはニフティサーブ。
義姉がやっていた「朝っパネ」と呼ばれていた朝日新聞社がパソコン通信を提供する「ASAHIパソコンネット」のユーザーは、もっと少なかった?
家で使っていたのは、NECのPC9801。
当時のパソコンは今みたいにアイコンを引っ張って動かすだけのものではなく、黒い画面に映る白抜き英数字をキーボードで入力してコマンドで指示した。
ワープロから何かを繋いで通信している人もいた。びっくり。(ワープロ通信?)

送信された圧縮データを解凍するには、コマンド英文字入力が必要だったような?

また、当時のフロッピーは、四角く大きく薄く、ふにゃふにゃで、それをパソコンにガチャンガチャンとゆっくり差し込んで読み込ませた。
その後は、もっと硬い小さなフロッピーもあった。
今のように丸くない。
隔世の感。
よくわからないなりに、今とはだいぶん違うので、当時のデータを見ようとしても、ツールや仕様、様式が変化しているため、その分野に詳しくないわたしには困難。
そして、、、写真は大きく伸ばしてプリントアウトして、毎日、机の上や玄関で眺めるのが一番いい。
電子はどうも、温度感、立体感がない。

とは言え、PDFで作成書類を送ってもらうと楽!以外のなにものでもない。
速い、嵩張らない、なくさない。
その後の保管は、またフォルダの山に埋もれて、もう知らん〜の世界だが。

わたしは何しろ、パソコンを使わなくなってもう8年?ぐらい経つ。
あの、立ち上げ時の時間が待てない。
別に何もすることなどないのに、時間なんかいっぱいあるのに、なぜか、イラッち。
スマホはなんでも出来て、手軽で便利で、かんたんに持ち運べる。
まさに携帯ミニマムパソコンだ。
昔、父の車の中で見かけた、肩から掛ける、ショルダータイプの大きな携帯電話がまるでウソのよう。

※写真をここ1週間、撮っていないので、延々と「ムーラン・ルージュ! ザ・ミュージカル」の写真が続く、、、




ひとくくりに高齢者というけれど

2024-09-18 | 趣味
ある人、Aさん。70代。
「老年」に対する捉え方が、わたしと違う。
わたしのことを周りにいる老年の人に比べると、元気だ、エネルギーがある、と言う。
「周りって?」
70代後半〜90代のことを指しているようだ。

家の近所を歩いている人も、結構お年寄り(80代以降?)らしい。
(かなりの高齢に比べて)若い人は見かけないと言う。
「お年寄り」とひとくくりにしても、老親を介護する老子供もいる。
そういう、(80代〜と思われる)お年寄りの中ではわたしは若いし、身体能力もまだあるのだから、どんどん頑張って活躍すべきだとハッパをかけてくる。

わたしが思うのに、、、Aさんが参加している活動は、年配(70代後半〜)の人が多いのでは?
年配になり過ぎると、着いて行くのが苦しくなり、やめる人も出てくる。

それはそれとして。
Aさんは、60代ぐらいの人々とあまり顔を合わせることがないと思われる。
つまり、Aさんとわたしの間には少し年齢ギャップがあるということだ。
楽しみ方のパターン、方法、経緯が違う。
たぶん、わたしの年齢の人はまだ働いているか、子守しているか、家族の世話があったりして、社会や家庭の中で忙しく、時間を持て余してはいないと思う。
あるいは、活動を共にするのは、夫婦や仲間とだったりする。
昔でいう有閑マダムは、同類マダムとランチ。
そんなダラダラ暇つぶしではない、積極的遊び人は、今ならアクティブ・シニア?
不特定多数のゾロゾロ歩くだけの会には、自分でプランを調達できる人は参加しないのでは?
だが、積極的オリジナリティなく、丸投げお任せ健康活動となると、歩くだけの会などは最適。
行ったことがない地に着いていくだけで連れて行ってくれるし、健康にも役立つ。
それに自主的に参加すること自体が素晴らしい。
だが、前述したように、自分でコースを立案出来る人は参加しない。
参加するのは、健康にはなりたいが、調べるのは面倒、お金もかけたくないというズボラな人が多いのでないだろうか。
そうすると、時間がたっぷりあり、独自活動しないお年寄りが集まる。
家の中には留まらず、とりあえずは家から出るものの、自分では何をどうすればよいのかわからない人。
フレイル予防、典型的老年パターンではなかろうか。
それはそれで、自主的に家を飛び出し、素晴らしい。
その外出をもしなくなると、他者からの介助や医療が必要になる。
次のフェイズ。国の医療費パンク。
フレイル予防の段階、その中では、わたしは若い、ということになる。

どこかに行くにも、何かするにも、割り勘でしたいわたしは、お金を出したくない人とはどうしても、行動が制限される。
相手の財布事情を踏まえて立案しなければならない。
わたしは(家族以外は)他人の分まで出す気はない。
各人、金銭の自立がないと、人間関係の均衡が崩れる。

そういう思考、嗜好、志向があるため、Aさんが活動している範囲には、わたしのような傾向の人は少ないと思われる。
早い話、好みや意識が少しズレているということ。
同じ好みであっても、それに伴う出費も同じ価値観でないと、楽しみを共有できない。

姉に言われる。
「もっとお金が自由になる人と付き合えば?」と。 
こちらの行動まで制限されてしまう。
同じ経済環境、金銭感覚を持っていないと、他者と行動する場合、ギクシャクする。
似たような年齢の人がAさんの周りにいないのは、似たような環境にいないせいではないだろうか。
今、頑張っている人は、あまり無目的にウロウロせず、もう一定活動の中に身を置いている。
したいことも定まらず、あるいは頭打ちになり、健康な身体とエネルギー、時間だけを浪費しているのが、Aさんは、もどかしいのだろうけれど。
出口探しも思うように行かない状態。
それはまだ若い証拠で、心身が更に加齢して自然に衰えてくると、エネルギーも消失してモヤモヤもなくなると想像するが。

同じ高齢者でも、後期高齢者と前期高齢者では結構違う。
Aさんの周りには後期高齢者しかいないのだろう。
Aさんの年齢では、働いている人もいる。
その中で、前期高齢者のわたしは、もっと趣味分野で深め、精進、努力して頑張るべきだと力説するのだが、、、。
わたしはもういい。
楽しみ方が違う。

入り口付近では同好者なのだが、一歩入ると、微妙に違いを感じずにはいられない。
出口ではまた顔を合わせる?
出口って、どこだ?

敬老の日、ミニミニサプライズ

2024-09-17 | 日々のこと
敬老の日のサプライズ・プレゼントがあった。
連休、誰もいないこともあり、グズグズしながらも昨日は、重い腰を上げて、近くの商業施設に出向いた。
やや不安と不満を残しながらも目的は60%ぐらい達成できた。
ついでに、新しく出来たスーパーやら、なんやらかんやらを回った。
で、帰りにベーカリーショップに寄った。
1軒目は、地元デパ地下。
もう18:30を過ぎていたので20%オフ。
あまり欲しいものはなかったが、2個買った。
限りなく「オフ」に弱い。
次に、バス出発時間までの10分間を利用して、バス乗り場近くにある2軒目のベーカリーショップへ。
バスの時間も近づいていることだし、駆け足で、パンを適当に選び、レジに並んだ。
レジの若い女性に、地域特典アプリ割引利用を申し出ると、「65歳以上ですか? それなら、こちらを利用されたほうがお得ですよ」と、65歳以上は支払い代金は敬老割引で半額!!というのを勧めてくれた。
あらまあ、歳は取るものだ。
いきなり、レジで半額になった。
喜びを胸にバス停に掛け込んだが、はて?
わたし、やっぱり65歳以上に見えるんだ、、、と、、、間違っていない、当たり前なのに、少し苦く悲しく残念な思いがした。
自分がどれだけ若く見えると思っているのか。
厚かましく、恥ずかしくもあった。
せめて、「60歳以上ですか?」なら、もう少しだけ(ほんの焼石に水であっても)微々たる喜びがあり、嬉しかったかも知れない。
敬老の日に、敬われて半額にしてもらったんだから、欲を張ってはバチが当たる。
清く美しい老人でありたい、、、。が。

帰りは偶然、遠征帰路の長女一家とバス停で鉢合わせ、同じバスに乗って帰った。
わたしが最後に買ったベーカリーショップの斜め前のセルフうどん屋さんで、直前に、食べたばかりのうどん、よほどたくさん食べたようで、2番目孫(小4男児)の胃が、ゆとりサイズのTシャツの上からでもわかるぐらい、パツパツに膨れていた。
元々細身なので、わかりやすい。

複雑な寂しい思い

2024-09-16 | 
わたし。こころ空模様。
小さめの下がり坂が来ている。 
小さいが動きが悪い。
はっきりしない気象情報のようだ。

出かけよう、出かけようと思いつつ、ずるずる延ばし、夕方になり翌日になり、翌日の昼を過ぎ夕方になり、、、。
SNSは何も建設的なこともなく、だらだら依存症、、、
読書は、飽きた。
やたら眠くなる。
いくらでも眠れる。
午前中にまたZZZ.....
そんなに寝たら夜が眠れなくなるのかと思いきや、夜も床に入れば朝までぐっすり。
脳みそが溶けかけている。
(自宅で)食事とお茶、トイレ以外は動かない入院状態が続く。
汗がべとつく中、ずっと椅子に座っている。
引きこもり?
あちこち、室内での移動は、好き勝手に色々行くところはあるが。
椅子に張り付いたまま。

長女Mに、「次女Rにこの家、あげてもいいと思ってる」と呟いたら、「こんな(しょうもない)家、要らないんじゃないか」と言われた。
長女Mは、うちのすぐ近く(徒歩3分ぐらい?)に家を建てている。

次女Rに、「この家、(将来)あげようか」と言ったら、浮かない顔。
「そうよね、こんな家もらっても、行動の制約を受けるだけよね」と、わたしは提案を弱々しく引っ込めた。
読み終えたばかりの桐野夏生小説では、家を巡って奪い合いする姉妹もいるストーリーだが、そういう中で、親には依存しない自立している子供たちは、嬉しくもあり、やや寂しく残念でもある。
すっかり親を乗り越えた。
親は踏んづけられたゴミ跡のようなもの。
骨肉の争いにはならないものの、もう用済みのものには関わりたくない冷たさが(勝手に)感じられる。

売ってキレイに現金化したなら、貰ってあげてもいい、と考えているのかも知れない。
親の背中は見たくない、過去は引きずりたくない、と、否定されているような気になる。
だが、わからないでもない。
わたしの家は欺瞞に満ちている。
生きていくために、なあなあ主義で、夫婦がお互い不満を持ち合っていても、臭いものに蓋をして、どうにか表面を整え、持ち堪えている。
子供たちもそうだったのかも知れない。
そんな家から離れ自立出来た子供たちは、よく頑張ったと思う。 
今更、戻りたくないのだろう。
わたしが子供たちとの思い出に感じていることも、子供たちにとれば、蝉の抜け殻みたいな、もうどうでもよい役に立たないものなのだろう。
自分たちの新しい家族と新しい思い出を作ることに、前向きに取り込んでいく。
頑張ってね、と応援するのみ。
時折、子守の役に立てそうなことは、引き受ける。
押し付けでもなく、押し売りでもなく、自分の楽しみの範疇で頑張る。
夫もわたしも、甘い甘いじいちゃん、ばあちゃんである。
我々の介護が必要になる日まで、お互い距離を取りながら、子供たちとは楽しみたい。
介護は、できるだけ夫婦で完結したいが、どうにもならない時は、ちょっと手を貸してもらうことがあるかも知れない。
子供の足を引っ張ってはいけないという、遠慮のかたまり。
ぴーんとした目に見えない緊張感で均衡を保っている。

実家など、子供にとってはノスタルジーでもなんでもないようだ。
それに比べると、なぜこうもわたしは実家に愛着があるのだろう。
愛着を通り越して、執着になっているかも知れない。
嫁ぎ先の家(夫の実家)にも、強い思い入れがある。
長い歴史を紡ぎ、今日に繋がっている。
今の子は、そういう家に対する考え方は全く違ってきているようだ。
核家族の申し子。
言葉に出して胸のうち、その考えに触れると、がっかり落胆する。
出汁を取ったあとの出汁がら、お茶を煎じた後の茶がらのごとく、美味しい良いものが抽出されたなら、結構なことだ。
古き良き時代の思いは、子供たちにとっては、無いのだろうけれど。
この違いは、なんなんだろう。
どこから生まれてくるのだろう。
へんに寄りかかられ頼られるよりマシか、、、
子育ては完了か、、、。
敬老の日は、自分を敬う日だ。

ムーラン・ルージュ! ザ・ミュージカル

2024-09-15 | お出かけ
ミュージカル「ムーラン・ルージュ! ザ・ミュージカル」を観た。
地方公演は、大阪が初らしい。
しかも昨日が公演初日!
良い音響、良い舞台。

ただし、ご招待だったので、知り合いご夫婦を3組見かけた。
しかも、隣はガタイのデッカい旦那さんだったので、圧迫感を感じたが、観ているうちに隣の存在は忘れ、没頭した。
素晴らしかった。
特にビートの効いた歌とダンスは、直接、目から心臓に響く。
さすがに歌が、上手い。
ダンスは、血が騒ぐ。
(書けば書くほど、稚拙で平凡な表現になっていく、、、、)

ちなみに、大都会、梅田。
超久しぶり。 
土曜日の夜ということもあり、すごい人。
わしゃわしゃと、どこから降って湧いて出て来るのか、若者いっぱい。
ではあるが、梅田芸術劇場に集まる人は、そんなに若い人ばかりということはなかった。
落ち着いた年齢層の人々もいて、すこし安心した。

梅田は庭のうちの一つではあったのに、もう遠い昔のよう。
田舎ネズミで、強烈な方向音痴、そこにグレー・プレ認知症のわたしは、ちゃんと会場に行けるかしらと不安になった。 
自信がなかった。
だが、身体で感覚を覚えていたようで(子供の頃、乗れた自転車には、ブランクがあっても乗れるのと同じ)、全くロスなく一歩も間違えることなく現地に着くことが出来た。
待ち合わせの時間まで30分近くあり、人間ウォッチングをして待っていた。

ある面識のない女性二人に、いきなり、スマホで二人の写真撮影をお願いされた。
しかも、すみません〜、とかではなく、不躾に、ツアーの添乗員に頼むかのように当然な感じで頼まれた。
人にものを頼む態度ではなかった。
二人とも洗練された格好をした熟年なのに、礼儀がなってない。
単にスマホ撮影など、誰でも簡単に出来るが、わたしは自分のスマホを片手に持っていたし、バッグも抱えていたので、けっこう、モタモタした。
しかも、シャカシャカ敏速に行動するタイプではないので、自分なりには、負担だった。
何枚かシャッターを切ったが、その画面を確認した二人は「まあいいんじゃない?」と、たいして礼も言わず、目の前からいなくなった。 
引き続き、待ち合わせ場所である会場建物(梅田芸術劇場)の玄関前で待っていると、また二人はお互いに写真を撮っていた。 
田舎ネズミのわたしは、都会では、立派な良い歳をした熟年になっても礼儀知らずな人はいるものなんだなあ、、、と思った。

座席場所はわかるかしらと、じつは、ドキドキしていた。
というのは、わたしは飛行機では何回か座席番号を間違えて座っている黒い経歴がある。
前と後ろの座席を勘違いするのだろう。
なので、人一倍、ナーバス、慎重、そして自信がなかった。

なにしろ、グレー・プレ認知症になってからはほとんど新しい場所には切り込んで行っていなかったので、感覚がどんよりしていた。
最近は、広々した自然に接することで、身も心も解放されていたついでに、脳みそも緩んでいたのではないかと危惧していた。
でも、まだ、大丈夫みたいなので、とりあえず、安心した。
だが、またいつ、ポカミスをするか推測できない。 
有名人の名前がアタマに浮かんで出てこない不安に特に今、駆られている。
が、皆さんたぶん、通る道。 
グレーのまま、ずっと行く可能性だってあるわけで。

今回、一緒に行った次女は今、知的ジャンル、芸術鑑賞にとても興味があるそう。
直近ではバレエの舞台を観たらしいが、自分には響くものがなく、あまり次には繋がらなかったようだ。
わたしもバレエはロシアで観たが、まったく脳を素通りした。
昔、少し習っていたのがウソのよう。
次女が通っていた中高学校では、音楽や舞台など芸術鑑賞が行われていた。
知らない分野に触れる、良い取り組みだと思う。
それもあって、次女は、また脳が活性化され、子育て真っ盛りではあるものの、その合間を縫って、復活したのかも知れない。

わたしも、いろんなものに触れたいと思った。
若い頃にあれこれ行ったり観たりしているのだから、またエンジンが動くうちに活動したい。
まだ都会に出向けるところに住んでいる間に。
田舎ネズミが動ける間に。