蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

子育て回想、つらつら

2019-02-27 | 子育て
わたしは、激昂しても、絶対に言ってはいけない言葉、禁句ルールを自分に課している。
喉から、ほんとうに出かかっていても、言葉を飲み込む。
言ってしまっては、おしまいだからだ。

それは、最愛の人々に対してもだ。
大好きで大切にしている人に対しては、もちろんのことである。

良い感動やプラス感情は、言葉に出して表現する。
わたしは、つい、皮肉や憎まれ口をきいてしまう性格で、若い頃は気にせず口にしていたが、歳を重ねて自重している。

わたしは滅多に怒らない。
子育てをしている時もあまり怒った記憶がない。
周りの人に、「お子さんに怒らない、穏やかなお母さんなのでしょうね」とよく言われた。
なんで、わかるんだろう?

子供を怒る原因がなかった。
見つからなかった。
例えば、電車内でじっとしてない、とか。
電車内でじっとしている子供はかえって不気味である。
子供はちょこまかして、退屈がるものだ。
だから、それを回避するには、子供を電車に乗せない。

「先生、右手を肩から上に挙げると、肩が痛いんです」
と言われたら、「じゃあ肩から下に挙げてくださいね」とアドバイスするようなものか。
(そんな先生が実際にいると、患者さんは減る一方だろうけど)

小さい子供を連れて、あちこち行きたがるのは親の欲求でもある。
幼児を抱えてじっと閉じこもっていると、息が詰まり、外に向けて発散したくなる。
まだ歩くか歩かないぐらいの子供をはるかディズニーランドに連れて行き、延々待ち時間を耐える。
これは、子供をダシにした、親の欲求だと思っている。
まあ、それで、親子、気が晴れるなら、ウィンウィンだ。

子供は未熟で当たり前。親の言うことなんか聞かない。
親の都合で、あれこれさせる。
食べ散らかす、汚す、暴れる、泣く、理不尽な要求を突きつける、、、

なので、食べ散らかしてもよい場所で、好きなようにさせた。
いつまでも、何歳になっても食べ散らかさない。年齢が来たら、ちゃんとする。
いっときの辛抱である。
家中を保育園だと思って、動物園のようにしていた。
毎日、(やんちゃな)動物の世話に追われた。(ペットなど飼う余裕無し)
口の付くものは、食べさせなければいけない。
動物ではない、人間と話したい、と切に思っていたが、動物園の飼育係の叶わぬ望みだった。
末子が3歳になるまでの辛抱だ、と、耐えていた。
(我慢しすぎて病気になって、家族に、特に姑にお世話になったが)

生活を楽しむための調度品等は全て別に保管し、育児用の家、家具、グッズで過ごしたので、汚されても傷つけられても全然平気だった。
やがて、月日は経ち、3歳になる日が来た。
これが、期限予定の見通しがつかない、終わりのない介護なら悲惨だろう。


娘が今している子育ては、わたしとは正反対だ。
一番汚す時期の子供を3人も抱え、新築の住まい。
わたしには考えられないが、娘は娘の子育て方法があるようだ。
孫たちの、電車内でのおとなしいこと。
ありえないぐらい、お利口さん。

だが、わたしが苛立ちカンに障る孫たちのワガママも、すごく上手にかわしている。
はぁ〜、すごい。
わたしは、キレる老人だ。
「背負った子に教えられ」以上である。
皆んな優秀だと感心する。

わたしの子育てにおける支援相棒は、姑だった。
孫たちのために、誠心誠意、尽くしてくれた。
頭が下がる。感謝以外にない。
だが、その分、その代わり、夫が子育てに参加していない。家事はもちろんのこと。
そういう時代である。
が、夫教育を怠ったわたしにも非はある。

娘婿が稀に用事で不在の時、わたしがピンチヒッターとして駆り出される。
しかし、たいしたことも出来ず、頑張りもイマイチである。
お婿さんのマンパワーはスゴイ。
そのお婿さんを操縦する娘の司令官ぶりもスゴイ。
どこをどう見ても、わたしとは正反対の娘であるが、おそらくわたしは、娘にとって、反面教師なのだろう。


虚勢を張った生き方が見える

2019-02-25 | 無題
わたしは、自分より下と思える人とは付き合わない。
必ず、自分より上。
無理やり譲歩しても、自分レベルぐらい。

なぜか?
自分より下はあまりいない。
上の人は、いっぱいいる。

というか、下の人はあまり目に入らない。
目に入っても、お付き合いには至らない。
かといって、上ばかり見て背伸びは息が切れる。
結局、上も下も真ん中も、ほとんどお付き合いしない。
だから、人が寄って来ず、非常に快適である。

人の生活やプライバシーをほじくろうとしたり、うるさく聞いてくる人には、長い時間をかけて無視する。
自分を確立している人は、人のプライバシーには踏み込まない。常識人だ。
非常識な人とお付き合いしても、なんのメリットもない。あるのは、デメリットのみ。

自分は自分の道を行けば良い。
たとえ、他人の目から見て、けしからんと思われても、他人に迷惑をかけるわけじゃなし。
しかし、他人がわざわざ余計なことを言ってくるには、ワケがある。
気に入られていない。
嫌われているからだ。

「あなた、嫌いです」とわざわざ言ってくる人もあるようだ。
(わたしの周りには、いないけど)

嫌われるには、ワケがある。
カンに触るからだ。
言わなくてもいいことを聞かれもしないのに、一言付け加えたり。
自己防衛しているつもりだろうが、弱点を晒していることになる。

この人の劣等感はここにあるのか、と、わざわざ他人に気がつかれてしまう。
昨日、別SNSの、とある人の、その部分をピンポイントで見つけ、蝶ブログで書こうと思ったが、やめた。

無理してるんだな、虚勢を張ってるんだな、と、憐れみの感情が湧いたからだ。

強く出れば出るだけ、裏に隠された弱点を強調する羽目になるが、ご本人は気づいていない。
これは、気づかないのは不幸というより、幸せだ。

同じ年の素晴らしい人!

2019-02-23 | 
母。
嫌い。
わたしは嫁に行って、実家を出て清々した。

代わりに兄に嫁が来た。
わたしの旧姓を名乗ってくれた。
ありがとう、わたしの代わり。
気の毒な気もした。

あの母が姑。
よほどのすごい人でないと、太刀打ちできない。
当時、20代で、美人で、すこぶる頭脳明晰だった。
父は嫁を誇りに思い、喜んだ。
わたしは、実家の兄にあんな素晴らしい人が来てくれて、とても嬉しかった。鼻も高かった。
でも、母は、彼女の良さがわからなかった。
相性の問題だろう。

兄嫁は、眉目秀麗で優秀、優等生タイプで、お嬢様育ち。
母は、寝ずに働く労働者タイプ。
はっきり言って、合いません。

彼女の良さを理解し、崇めたてまつる父が他界したあと、母と兄夫婦は同居した。
わたしには、兄嫁がとても不憫だと思った。
が、母も自分の道があった。
絶対に譲らない。
価値観の違い、相性が合わないというのは、悲劇を生む。

夫婦二人がぴったり寄り添っていたら、姑の存在にも力を合わせてどうにか対応できるだろう。
しかし、兄はマザコン。
ああ、最悪。
強烈な母の前では無力、刃向かえない。

身代わりの兄嫁を尻目に、わたしはわたしで、時代遅れの地方の嫁ぎ先で、喘いでいた。
そういう時代かも知れない。

ちなみに、わたしと兄嫁は同学年。
同じ県内。
時代や地域差、経済格差なんて理由にならない、同じ教育環境だった。
兄嫁はピンキリのピン。素晴らしい秀才。
わたしはその歴然たる違いに、卑屈になることもなく、すごい!と賞賛していた。
ホンネ!である。
わたしは、へんなところがあり、素晴らしいものには、文句なく、自分をはるか越すことには、ストレートに素晴らしさを褒め讃える。
なので、当時の受験事情、時代の色がまったく同じ状況での兄嫁の学力には、はは〜っと、葵の御紋を見せられた町娘以上に、ひれ伏せる。
しかも、さらに、どう?こんなにスゴイお嫁さん!と誇り高く思う。
デキの悪い娘の代わりに、最高ランクのお嫁さんが来た!

しかし、複雑な事情が背景にあった。
価値観の違い、相性の違いはどうしようもない。
わたしは、実家から舟を漕いでたどり着いた対岸から眺め、すでにわたしの居る場所でないことに、安堵した。
火事現場から逃げ去った。


20歳も老けているわたしに、一言

2019-02-21 | 老い
わたしは、母より20歳、老けている。
計算がおかしい、前からおかしかったが、ついにアタマが決定的に狂ったか、と思われそうだが。

母がわたしの年齢の時は、がんがん元気で活発で活動的だった。
まだ父も存命だったし、夫婦ともに現役バリバリだった。
「女性の50、60歳は、一番気力も体力も知力も備わった時期だから、なんだってパワフルに、やりたいことができる黄金期」と、母はわたしにハッパをかけて言っていた。
ハッパをかけられても、別に何をするでもない、へんにおとなしい、わたしだった。

80歳を超えている頃の母の体力、気力が、ちょうど今のわたしぐらいである。
つまり、わたしは実質、80歳超えというわけだ。
体力、気力ともに。
わたしは、母より20歳も心身ともに、早く弱っている。
あと20年すると、「寝たきり」とは言わないが、「座りきり」になっているのではなかろうか。「スマホ持ちきり」か。

母は85歳まではシッカリしていた。
ということは、わたしも65歳までは、それなりにシッカリしていることだろう。

今の母は、最近、体力が落ちて、昼寝をすることが多くなったようだ。
母は今、90歳超なので、母の姿は、わたしの70歳超え未来図かといえば、そうでもないと思う。
70歳超えのわたしは、たぶん、今の母よりシッカリしてそう。
100歳超えになった時の母は、80歳超えのわたし。
わたしは、今とあまり変わらないと思う。
では、110歳超えの母と、90歳超えのわたしは?
そのあたりの年齢では、ボケぶりも大まかには変わらず、だんだん帳尻が合ってきそうだ。

書いていて、だんだん眠くなってきた。
なんとまあ。
このまま、萎れて枯れていくのか。
・・・

ここから下↓に、半分居眠りしながら、たらたら、だらだら長文を綴っていた。
が、ラインが入り、いったん下書きに保存したつもりが、保存されていなかった。
つらつら書いた内容は、ますます眠りへ誘うような意味のない駄文だった。
なので、消えてちょうど良かった。

自分の人生もそんなものかも知れない。
熱心に取り組んでも、夢中になって時間を消費しているだけのこと。
浦島太郎のごとく。
一瞬で歳が行く。

夢中に消費できる時間が、あと20年もある。
とても幸せなことだ。
持ち時間を使ってしまえばそれで終わり。
これ、自分の持ち時間だと気付いただけでも、儲けもの。
病気になったりする可能性も大いにある。
使い古された新鮮味のない言葉だが、まさに「今を大切に」である。

人物判定

2019-02-18 | 無題
ドロドロ記事のご本人、Aさんから引き続きコメントを頂戴した。
ドロドロ記事中に書いているように、わたしは、Aさんの潔さ、行動力に好感を持っている。
ドロドロの原因を突き詰めるため、果敢にも勇気を持って渦中に立ち向かう姿(想像です)には、こころの中で拍手を送っている。
一緒に巻き込まれてドロドロする人ではないあたり、男らしい!?(逆ジェンダー表現になってます)

今後とも、趣味の世界、ぜひ頑張っていただきたいと思っている。
(皮肉でも嫌味でもなく、ホンネです)

で、、、
全く関係ない話に移る。

人を見る時、何で判断するか?
まず、見かけ。
服装をはじめとする、身なりで、属性が想像できる。
話し方や表情をはじめとするアクションで、性格、人間性が顔を出す。
文章を書く場合は、書き方や内容で、知性がうかがえる。

子供の場合は、まだ親のカラーそのまま。
しかし、話し方や表情は、成長度合いを現している。
俳優は、見事に役柄の特徴を打ち出し表現する。

身なりといっても、専門職や研究職の場合、あまりわからない。
ブルーカラーか、ホワイトカラーか、サービス業か、ぐらいは、醸し出す雰囲気で想像できる。

身なりはイマイチでも、住まいや持ち物は年収のバロメーターになる。
あくまでもバロメーターであり、価値観によって異なることがある。
知性があっても常識がない人もいる。
隅から隅からまでクマなく知らなくても、ポイントだけ知ると大まかにはわかる。
だが、こころの隅々まではわからない。
よく知りもしない人に自己開示する人は少ない。

逆にフレンドリーで、こころの垣根の低いもいる。
昨日、今日の付き合いなのに、何十年も前からの友人であるかのような錯覚を覚えることもある。
詐欺師などは、相手のこころに付け入るのが、実にうまい。

わたしのチェック方法は、、、
勤務先、住まい、家族構成をベースに属性を想像し、話題の中から知識の有無や、正誤で、知性を判断する。
ご本人の自己申告なので、探偵を雇うわけでもないし、刑事でもないため、どう信じるかによる。
頑なに話したがらない話題には、それなりの理由があると考える。

自分の知らない世界を話してくれる人の話をまるまる夢見がちに信じてしまう人がいる。
が、自分は知らないんだから、信じてはいけない。まずは疑ってみる。
世の中には、うまい話はまず無い、と思ったほうが良い。


こちらから発信力が無い場合、
相手に話させて、相槌だけ打っていたら自分に中味はあまりないのが即バレる。
わたしは営業に回っていた時代、よく墓穴を掘っていた。
さらに、営業に来ている人の話題の振り方で、こりゃあかんわ、という人がいる。
第一関門をクリアするには、共通話題を出さなければならない。
なんの勉強もしていない考えなしの出たとこ勝負で、しかも的はずれの話であるのが相手によくわかるようなことを言っている営業マンは、ダメ。
かつて、あきれるほどヒドイ営業の若い男性がいたが、すぐクビになっていることだろう。

逆に、若いのに、すごくキレる営業マンがいた。
やはり、頭の中味は、仕事に反映される。
それと、センス、勘。
これは、天性のものだと思われる。

と、これは↑仕事の話。
一般的には、人を見る時は、あまりにも整いすぎている場合は、疑ってかかる。
うさんくさい。
背伸びをしていることがある。
ステップアップのための、自分に負荷をかける背伸びは良いが、たんなる見栄っ張りは、わたしは敬遠する。

服装も見るたびに、どんどんボロボロになっていく人がいる。
無い袖は振れないパターン。が、ある意味、裏がなく、正直である。
見るたびに、グレードアップしていく人よりも、信ぴょう性がある。


見かけに騙されることなかれ。
立派なお金持ちでも、こころの病気の人がいる。
経済、属性、年齢が似通っていると、想像しやすいし、発言にいちいち神経をトンガらかさなくていい。

最近、気づいたが、自分と同じような人は、あんまりいないみたいだ。
どっちみち、いてもいなくても、わたしには関係ないんだけど。

それは、わたしです

2019-02-16 | ブログ
わたしの二番目のくつろぎ先である、趣味のSNSから、とある方が蝶ブログに飛び込んできた。

女のドロドロ記事のご本人だそうだ。
ドキリ。
彼女の悪口を書いてないか、読み直した。
ああ良かった。
「潔い人だ」と書いていた。

「それは、わたしです」と名乗り出る心境はいったい、どんなものだろう?
あなたのブログ、見つけて結びつけましたよ〜、という告知、警告?
変なこと書かないでね、と、釘を刺している?

わたしの近い近い近親・血縁関係者もこのブログを知っている。
だから、何を書いても今更、取り繕うにも、すでに巻き返しは遅く、変な感じ悪いブログでも別にどうってことはない。
身内たちは、忙しくて人のことに首を突っ込む気も余裕もない。
しかも、役に立つ時事ネタ解説など皆無で、自分だけのホンネが書かれすぎていて、よほどの気分転換の時にしか近寄らないのでは?
身内たちは、わたしのことなどにはまるで関心はなく、そんな暇人はいないことは絶対に言える。

もし、「ブログのあのコトだけど、、、」と彼らが話を振ろうものなら、わたしの、機関銃の如き思い込み発言を一方的に聞かされるハメに陥る危惧があるため、皆さん、自己防衛型・賢者だから、腫れ物には触らない(と多分、思う)。
ブログ記事アップの時点で完結しているから、聞かれても、「面白かった?」と聞き返すぐらいだろうけれど。


2011年、はじめてのパリひとり旅をした時、さすがのわたしも念のため、コケた時のセイフティネットとして、現地の人と連絡を事前に取った。
わたしとのやり取りから、その人は、わたしの蝶ブログを見つけ出した。
あの時は、圧巻だった。驚いた。
わたしは、一言もブログの存在をほのめかしていなかったのに。
「どんな人なのか、予め予備知識として知ろうと思って」と、その人は言っていた。

もし、要領の悪い人ならブログをクマなく読んで、わたしの全体像を掴むところだろうが(第一、そんな暇人はいない)、ひらめきのある人なら、どこのどの記事を読めば、だいたいわかる、と勘が働くと思う。
わたしは、頭隠して尻隠さず、なので、すぐバレるが。
膨大なブログ、全部読んだら、皆様の貴重な寿命時間が減るだけだ。

わたしの蝶ブログ攻略法としてオススメなのは、「よく読まれる過去記事」というのをチェックすると、おおよその概要は把握出来るだろう。
わかったところで、ツマランということがわかるだけだが。

蝶ブログは、自分の毒吐き&自己救済のために書いている。
意外に毒ワクチン作用があり、解毒用として効くかも知れない。
しかし、ご自分の身の危険を冒してまでチャレンジするものではないことは、日の目を見るより明らか。

今日も電車内で、無駄に右手の人差し指をスマホ画面の上で動かして、自己救済している。
救済予定のはずが、ふと、気がつくと、降りる駅のドアがすーっと閉まった。
特急だから、うんと先の次の停車駅から折り返しUターンということで、えらいことになっている。
スマホで何かを書くと、すぐ降車駅を乗り過ごす傾向には、うんざりである。
自己救済の見返り、引き換えに、何かをミスっている。

平凡が良い

2019-02-08 | 
姑は、働き者だった。
特に気働きの人。
炭鉱で男に混じって真っ黒になって、一人息子を育てた、なんていうのなら、文学ものになりそうだが。プロレタリア作品。
残念ながらそっち系ではなく。
地方都市の普通の専業主婦だったので。

TVファミリーヒストリーには、あるあるタイプかも知れない。
その気になれば盛れそうだ。

なにしろ親戚の話、同級生の話、地域の人の話が好きだった。
特に、没落した人の話は大好き。
華やかし頃と、没落後の落差を語るのと、定型文のルーチンワークのノリ。
台本があるんですか?
(だが、第二次世界大戦を挟んで、日本は大きく変わり、社会も変貌を遂げた。
影響を受けなかった人はいない)

同じ没落ストーリーでも、源氏と平家とかはダメ。
戦国時代もダメ。
自分の身近な、実際にリアルに見聞きした、知っている人が登場しないと、臨場感が無いようだ。

いつも、崖の下に落ちた人を見て、安心する。
ああならないように、頑張る。
上を見ることはあまり無いように思う。
なぜだろう?
上には行けないが、下には簡単にドロップアウトしてしまう。
しっかり気合いを入れて現状維持を目指す。
そんなかんじだろうか。
ハングリー精神とはまた違ったプレッシャーがある。
上を目指すのではなく、下に落ちないよう、一生懸命努力する。

上を目指すには、現状をキープする方にエネルギーが必要で、余裕がない。
上昇しないで、いつまでも低空飛行かというと、低空飛行ではない。
上昇はしないが、高いところを飛んでいる。
上昇志向はないが、普通にしていると落ちてしまう。
結果的には高い位置を維持すること自体が上昇志向なのではないだろうか。
と、ここまでは姑の話。
「聞き役、お疲れ様でした」と自分を労おう。

ここからは、自分の感想。

高い、低いは、自分の中にあるもの。
人と比べるのではなく、自分との闘い。
高いと感じたければ、自分より高い人は見ずに低い人を見れば良い。
低いと感じたければ、自分より高い人を見て、低い人を見なければよい。
自分が見る人は、自分で選んでいると思う。
いつまでも過去にとらわれていても進展はない。
劣等感や優越感につながる。
劣等性と優越性とは違う。

自分がどうなりたいか、だ。
上を見たり、下を見たり、横を見たり、斜めを見たり。
周りがどうであっても、自分は自分。

考え方や感じ方は、人によって違う。
年代や地域、職業、収入、環境などによって、大いに違う。
姑のものの見方や考え方は、それはそれで確立され、存在している。
自分とは違っていても、目指すところが同じなら、共存共栄でありたい。
平凡が一番の幸せだと姑は言う。

またまた、お蔵入り

2019-02-07 | 無題
昨日、わたしの人生、第二編を引き続き書いたが、お蔵入り。
あんなもんは、発表できません。
この感じ悪い人物は、誰?
はい、わたしです。

わざわざ皆さんに知っていただかなくても、もうご存知だと思うので。

わたしは、自分のブログでガス抜きをしている。
趣味SNSの方は、光の部分だけしか書かない。
光も真実。
ただし、裏には闇がある。
なんで、闇をアップする?
ある意味、確信犯ではありますが。

で、
自分の光の部分を維持するためには、闇で動くことも必要だ。
光、明るい部分だけの人物がいるとしたら、ある意味、病気なのでは?
自己防衛もせず、損ばかりして、気の毒がられる、というよりは、知恵がないと見なされるかも。
あるいは、周りはストレスの渦かも知れない。
感情だけで、思慮、考えがない。
良き保護者、理解者がいれば良いが。
が、無抵抗、非力な人を叩いてはいけない。

たとえば、報酬を得るために、ムカつくこともやってのける。
純粋な人は、やってられなくて、次々、転職する。
しかし、嫌なことを無理やりやっている間に、抵抗力が付いたりもする。
無菌では、生きられない。

自分を生かすために、相手を潰すのではなく、自分を生かすために、相手を上昇させる。
相手が自滅していることもある。
自分は手を下さず、悪役にならず、相手が勝手に消える。
いっときの辛抱、ガマンは必要だが。
そのうち、共存共栄へと進む。

どうしても、ムカつきが収まらないなら、相手を追い越し、抜かした後に、復讐すればよい。
わたしは、復讐なんてしないけれど。
なぜなら、復讐しても気分は晴れない。

今までありがとう。
さよなら〜。

結果的に自分を育ててくれたわけだから、復讐には至らない。
復讐するには、自分の立ち位置がよほど気に入らない状態のままの時だろう。

人は、不遇の時代を乗り越え、たとえ逆転してでも、幸せになると、今までの相手なんか、別にどうでもよくなる。
それまで悩まされていた人々に憐れみの気持ちさえ、生まれる。

ではあるが、毎日、生きて行くためには、何かしら、嫌なこともしなくてはならない。
まあ、最小限にとどめられたら、それで良し。
感謝のこころを忘れず、しかし、自分のための策略、知恵は必要だ。
自分のことを一番大切にしているのは、自分だから。
自分を守る、救うのは自分しかいない。
人に頼ってはいけない。(もちろん、常識範囲内で)

相手に見返りを求めないなら、尽くすのもよいだろう。
見返りを求めないといっても、無意識で自分の欲求を満たしていることがある。
あなたのためだから、、、は、結局、自分のためなのである。

あなたが良くなってくれると、わたしは嬉しい。
誰だって良くないより、良いほうがいいに決まっている。
本当に「無心で」「無欲で」、一生懸命、人に尽くせるか?
スーパーボランティアの心境、フットワーク、体力には、わたしは到底、及ばない。

だが、人の情けに触れた時や、思い遣り、労りを感じた時、こころの底から感動する自分がいる。

わたしの30代

2019-02-06 | 仕事
末子が幼稚園に行って、子育てもひと段落、やっと手が離れた30代前半の頃。
ものすごい開放感とともに、抑圧されていたエネルギーが一気に吹き出した。

手に入れた、この自由!
さあ、何をしよう!?

趣味の英会話を楽しんだり、講座を受けに行ったり。
でも、趣味の人ばかりで本格的な人はいなかった。
片手間、息抜き、暇つぶし程度の気合ぶり。
ではあるが、高い理想を掲げ本格的にやるには、わたしのサボり体質、頭脳の頭打ちが邪魔して、英語系の仕事にはたどり着けなかった。

「英語」がダメ、となると「国語」で行こう。
舵を切り替えた。

同時に、フリーペーパーで地域レポーターが募集されていて、飛び乗った。
早々に英語は脱落、記者の端くれとなった。
とてもオフィスとは言い難い、雇い主の仕事場は、古ぼけた団地の一室にあった。
ちょっと斜に構えた、業界人くずれをきどったような雇い主は、自分が請け負った仕事を、雇った人にやらせ、マージンを抜いていた。
でも、あちこち駆け回り、茶封筒に入れられ手渡された、一記事二千円の代価に、満足していた。

さらに、大都会大阪の会社で、記者募集があり、応募した。
ピカピカ大企業社屋ビルでの面接に目を丸くした。
こんな会社に勤められたら、どんなに素敵だろう、、、と、わたしは目を輝かせた。

相変わらず、鬱陶しい人

2019-02-04 | 日々のこと
鬱陶しい人がいる。
趣味SNSに、いつもいつもコメントをつけてくる。
気に入らないなら、スルーすれば良いものを私の書いたことに否定的で、自分の場合はこうだ、と、自己肯定してくる。
なにが言いたい?

反対意見に、「ああそういう見方もありますね。あなたも正しい、わたしも正しい」と、丁寧にいちいちコメント返しがめんどくさい。
反対意見なら、その理由を客観的根拠を提示しながら論じていただけたら、議論が白熱して面白くなるかも知れない。

が、ただただ、幼稚園児か、小学生のように、「あたしは、そんなんじゃない、あたしは、素晴らしい、おりこうさん」ということをアピールしたいだけだ。
なら、自分のページに持論を展開すればいいのに、人の集まるところに行っては、「あたしは、あたしは、、、」とアピールしてくる。
良い内容の話題には「あたしも、そうです」、良くない内容の話題には「あたしは、そうじゃありません」と、いつも必ず自分の自慢に行き着く。

例えば、おデブちゃんで嘆いている内容が他でアップされたとしたら、「あたしは、若い時からウエストは60センチを超えたことがありません」だとか。
だれも、あなたのこと、聞いてません。
ましてや、この話題、ここ、自慢するとこじゃありません。
踊る相手がいないで嘆いている内容だったりすると、「自分は30歳以上若いイケメンとずっとペアです」と、イケメン写真をアップしてくる。
確かに若くてイケメンだけど、これって、どうなんですかね?

彼女のリアル、実物を知る人の話では、ガリガリ鶏ガラ体型で、ゾッとする、なんて言っている人もいた。
ダンスは、めちゃめちゃ下手で話にならない、ということだ。
どこが良くて、何が目的でく若い人が着いてくる?
想像不可。
でも、自分ではイケてると思っている。
自分を見るメガネ、いったいどんなフィルターに覆われているのだろう。
・・・
自分を救うのは自分だと、いつもわたしは言っているが、「程度」というものがある。
なんで、客観的事実を伴わないことを、外に向かって自己アピールしなければならない?
自分の胸だけに抑えておけないのか。

相手に、リアルなシビアな客観的リコメを返すと、火を吹いて怒る危惧もある。
だからといって、なんの意味もない、いつもオモリ、いい加減、嫌になる。
とりあえず、ここに愚痴ります。