蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

言葉も考えも通じないと、、、

2024-07-19 | 読む人々には興味ない話
わたしがとても興味を覚えることがある。

江戸時代あたりに、船が嵐が何かでトラブルがあり、漂流した人。
漂流した先は無人島で、魚を獲ったりサバイバルして生き延びた、、、という展開もさることながら、無人島の後に外国船に拾われ(発見され救助され)、未知の国に連れて行かれた人の話、、、これには想像力を掻き立てられる。

大人で知能もあり、目も耳も聴こえる人が、全く見ず知らずの国、土地に流れ着いたら、、、どうなるか。
現地の女性と結婚して住み着く人もいる。
(実際の漂流者が女性である伝説は稀であるが)
健常な肉体さえあれば、どうにかなる。

わたしが知りたいのは、、、
連れて行かれたアメリカやロシアから、日本に帰国した人。
知性ある人は見聞したことを活かせる。
見聞録を元に、幕府の役に立ったり出来る。
それは良いのだが、、、

耳も聴こえて、目も見え、話すことも出来る、(読み書きは出来る?)大人の人が、外国で体験したこと、見聞きしたことを日本人相手に日本語で伝えられないこと。
それは、見聞きしたことが体験したことがない、見たことも聞いたこともないことで、話を聞き取る相手も未知の世界だったら、話が通じない。
難破した船の乗組員の何人かは、聞き取りには知力不足で応じられなかったが、中には、ちゃんと話せる人がいると、その人は知性がひときわ優れていたということだろうか。
知性の中には、現状認知力、理解力、記憶力のインプットと同時に、人に伝えるアウトプット能力が必要だ。
自分の頭の中だけに物語が詰まっていても、それを表現できなければ、幕府の力にはなれない。
ストーリーテラーにもなれない。

考えをまとめて言語化することは、日常では何気なく行われている。
幼い子供は言語能力がまだ未発達だと、内面(こころの中)を絵にしたりする。
絵にすると、益々、見る人にはわからないこともある。
絵を描くことが苦手な子供もいるし。
それと、深くものごとを考えたり整理したりする力がまだ備わっていない。
たんに、語彙が少ないだけではない。
考える力は、成長と共に徐々に養われていく。
(大人でも自分の考えが整理出来ない場合は、感情表現の一つとして、暴力に走ったりする)

いくら思考力が備わっていても、見たことも聞いたこともない、想像も出来ない事柄を目の前の人にどう説明するのか。
面白い実験になる。

地球人との共通言語を話さない宇宙人のようなものなのだろうか。

訪れた外国の、その国の言語が全くわからなくても、どうにかなる。
(自衛しないと、痛い目を見るが)
ものすごい僻地で、どうにもならないこともあるかも知れないが、現代では秘境はほとんど知れ渡っている。
世界の果てでも、観光化されていると、観光客相手に色々整っている。
未知の文化に触れるのは刺激的で気付きがあるため、人々は外国を行き来する。
今は、ほとんど大まかに情報は掴める。

だが、自分から好奇心で自国を飛び出す場合と、そんなつもりはなかったのに行く場合がある。
しかも鎖国が長い時代だと、外国の情報など入って来ない。
混乱するだろう。
アイデンティティを見失い、揺らぐかも知れない。
というか、過去の伝聞が残っていないため、想像を張り巡らせる。
これが結構、楽しかったりする。

墓の行方

2024-06-17 | 読む人々には興味ない話
墓じまいについて。
65歳以上の人にしか興味がないと思われるが、自分が興味のあることを書く。

前にも書いたが、知人Aさん(推定70歳代)が、住居のある地区で墓地を以前、購入した。
核家族であるAさん家は、誰も亡くなっていないので、墓石はまだ設置していない。
墓石が建っていない更地墓地に管理費を毎年払うが、購入済み、更地スペースはポツンポツンと段々少なくなり、周りはどんどん墓石が建つようになってきて、肩身が狭いという。
別の地域にある親の墓は、親が亡くなってから、Aさんの兄が建てた。
故郷の墓が遠いため、墓の引越をしたようだ。
兄夫婦は、兄が建てた両親の墓に今後、入るが、兄の子供達は、2人とも遠方に住み、そちらで腰を据えるため、親の墓を引き継げない見通し。
引き継がれない親の墓を抱えながら、その一方で自分の墓地を更地で持つ知人Aさん。
Aさんの子供達も遠方だったり、息子のお嫁さんが女系家族だったり。
墓を建てて維持してもらえるのかどうか、未知数。
あまり何も考えないで、自分たちの墓地を買い求めたAさん。
どうなるのだろう。
移動した親の墓も、Aさんの墓も、子供達には負担だろう。
Aさん夫婦のどちらかが先に亡くなったら、残された片方が、やっと墓石を建てるのだろうか。
そこのところだけが、遺族の考えどころ、悩みどころだ。
残された片方がどんな状態かにもよる。
認知症や病気になっているかも知れない。
その時に考えるしかないか。
だが、ぴんぴんしている70代の今では想像もつかないことでも、80代になり、90代になると、だいたい予想がつく。
親の墓じまいをするのも、終活のひとつであるが、自分の墓をどうするのかも、道筋をつけておけば、残された子供達の負担が軽減される。
だいたい終活するタイプの人は、親の墓じまいで苦労したため、子供には同じ苦労をさせたくない、だから自分の墓は要らない、という人が多いかも知れない。

両親両方が亡き後は、子供達が自分達の考えを反映して行動することだろう。

ちなみに。
わたしの実家の墓は、とりあえずは、あと40年ぐらいは維持されるだろう。

わたし自身に関しては、夫の墓地に眠る予定。
先代と先先代の嫁が相談して力を合わせて、過去帳と、当時既存の墓石に刻まれた戒名や記録を元にしたり、(たぶん)お寺に問い合わせたりして、墓をリニューアルしたため、わたしは、楽ちん。
だが、わたし達夫婦の墓石は新設しないと、無い。
場所は、同墓地敷地内、先祖、先代達の墓石に隣接。
新設墓石は、夫婦のうち、生き残った方が建てる。
墓の維持費、管理費は残しておく。
子供達は現地に来れないなら、業者に委託するとよいかと。
仮に子供がお金を使い込んでしまったとしても、わたしはこの世にいないから、わからない。
恨めしや〜と、化けて出て来るなんてことはない。

現代や未来に生きる子孫たちに、過去の価値観を押し付けるのは、いかがなるものか。
行われてきた事実の報告だけは残しておくつもりだが、はたして聞く耳を持つかどうか、だ。




白洲次郎の前後左右、斜め

2024-05-14 | 読む人々には興味ない話
白洲次郎のルーツを辿るウォーキング。
身体はいきなり体調が悪化して、日曜日、母の日で娘たちが来てくれるというのに、ぎりぎり直前まで寝込んでいた。

身体は悲鳴をあげたが、白洲次郎への興味はムクムク。
Googleで調べ始めると止まらない。
インターネットでは不十分だし、ところどころ間違いがある。
参考図書、資料書籍を購入しようかと本気で考える。
それは、なにも白洲次郎本人だけへの興味ではない。
今はまだ白洲次郎は、1番最後にさらっと目を通す段階。
過去(わかっているのは14世紀ぐらい?諸説あり)から白洲次郎に行く着くまで、さらに、それ以後、令和にはどうなっているのか、そして、枝分かれした人々はどうなったのか?
それを調べたら、全然調べ尽くせない。
当たり前だけど。
肝心の白洲次郎への関心が1番低かったことに、今回、驚いた。
漫画の主人公みたいにカッコイイ人、と、上べだけをさらっと見ていた。

だが、彼は明治生まれのオボッチャマなので、時代が違う。
それを言うなら、彼の先祖はもっと時代が違う。
明治で社会構造、産業基盤、階級が、ころっと激変した。
継続しているのは、廃業しても引き続きやっていけている、ごく一部の元武士ぐらい。
(呉服屋さんや、酒・醤油蔵元なども創業は江戸時代というところもある)
それと、農民。(海、山の第一次産業従事者も)

わたしは、小学校から今まで社会科歴史は成績はボロボロ。
ろくすっぽ、わかっていない。本も読まない。
知識も見識もない。
そのレベルでの感想。

日本人は農耕民族で、(平安時代はお公家さんが上のようだが)やがて、僧侶が勢力を増したり、江戸時代にはピラミッドの頂点に武士がいて、その近くあたりに皇族がいるのか、と、今更ながら感じた。
明治以降は権力者が権力構造を入れ替えたり、成功を掴むのは、時代が変わる時のドサクサもある。
元武士は、頭が良く、勉強家で決断力があるのだなあ、、、と、またまた今更ながら思った。
男性の面々、特に老齢の男性が、明治維新や戦国時代〜江戸の始まりあたりの日本史が大好きなのが、よくわかる。
「大化の改新」とかは、遠すぎてピンと来ない。マニア向け?
近代史に比べると、史実を現す物証も、少ないだろうし。
時代は、「どうして」「どうやって変わって行ったのか」に興味がある。
歴史を学ぶと面白いことが詰まっている。
そんなのは大嫌いな人にとっては、大嫌いだろう。
林住期を過ぎ、遊行期に向かうと、過去の流れを知ることにより、自分が生きて来た足跡、時代が浮き彫りになる。
わたしは、オタクで引きこもりなので、調べたりして自分だけ楽しむのが好きだ。

ちなみに、白洲次郎、正子夫妻も、派手なパーティは苦手だったらしい。
唯一、ここだけは、わたしとの共通点。

三田藩主、九鬼家について、ウォーキングで一緒になった人と、隣で、おにぎりを食べながら聞いた話がある。
職場に九鬼という苗字の人がいて、出身は三田ではなかったが、その人の周りは苗字は九鬼だらけだったらしい。
実際の親戚も多いだろうけれど、名字帯刀が許された後も、こぞって九鬼と名乗ったのかも知れないと推測されていた。
藩主となった九鬼さん、その地から綾部と三田に分かれ、何もない山の中の僻地に飛ばされたようだ。
(鳥羽から移封された)
日本は狭い。日本中に、いろんな人が散らばっている。

九鬼家代々、歴代三田藩主たちが眠る寺。
墓がある寺の写真は撮らなかった。



時空を越える繋がり

2024-04-23 | 読む人々には興味ない話
仏蘭西に、血のつながらない、戸籍の上では無関係の、乳母とかも全く別の(乳きょうだいではない)、弟が住んでいる。
正しく言うと、「弟のような人」。
日常も、まるで別の生活をし、同窓だとか、同僚とか、仕事がらみだとか、まるっきり関わりがない。
強いて言えば、趣味が同じ。
ほんの少し、弟(のような人)のほうが後輩。
最近、シニアワールドから歓迎のキツイ、プレゼントを受けたそうだ。
ようこそ。
お待ちしていました、と。
わたしは、シニアワールドの先輩でもある。

それはそうと。
ハワイに、血のつながらない親戚が住んでいる。
面識も、お付き合いも、名前も知らないが、親戚であることは事実だ。
いきなりハワイに行って、空港で「ハロー」と迎えに来てください、と絶対に言えない。
でも、一応、本当に親戚。
まだ親戚歴は2年10ヶ月。
いたって短い。
一生、逢うことはないだろう。
ケンカしているわけでも、絶縁しているわけでもない。
直接、接点がないだけだ。

人の繋がりは面白い。
親子や、きょうだい、血の繋がりもあるし、姻戚関係の繋がりもある。
姻戚関係は、離婚したらキレイにぷつんと切れる。
死別の場合は、ケース・バイ・ケースだろう。

ちなみに。
わたしは、自分のルーツより、夫側のルーツに興味がある。
自分のルーツは、あまり多くを語り継がれていないため、ネタが少ない。
それに比べると、夫側は資料があって、研究材料には持ってこい。
物証も、語り継ぎも、言い伝えも、伝承も、いろんな角度から検証出来る。
おそらく、中継ぎのピッチャーみたいな人の活躍までを、バトンを渡したり、受けたりする際に、詳細に正確に伝えたのだろう。
とは言え、そんなに多くはない物証から、わたしが物証と物証を繋ぎ合わせ、想像していくのだが。
電車の時刻表だけを見て、国内旅行をしているようなものだ。
マニアにはそれも楽しい。
想像して組み立て、立体化していく。

ではあるものの、よく知らないことが多い。
過去に色々見聞きしたことがあるお年寄りの関係者の皆さんの記憶力がまだあるうちに、聞き取り調査をしたいものだ。

ところで。(話は長くなる)
わたしの末子が2歳の時、末子は肺炎、わたしは喘息で、共に入院した。
夫の実家近くの、地方の医大系病院の分院。
親子一緒の4人部屋、しかもそこは、老人病棟だった。
小児科と内科と老人科(こんな科はあるのかどうか知らないが、今、調べてみると「老年病科」というらしい)の合同混ぜこぜ病室。
さすが、いなか。地域密着型。
もう一人の高齢女性が同室に入院していた。
このおばあさんは、話を聞いてみると親戚だった。
夫の実家の3代前の明治初期の分家の子孫と結婚した人の母親。ややこしい。
(でも家は近く)
夫の父の父の父の弟の、、、、と説明を書いていたら、読む側は絶対に理解できないだろうと思い、削除した。
ではあるものの、しつこく、説明に再チャレンジ。
同病室のおばあさんは、昔の分家の娘さんの、お婿さんの、親。(=姑)
そのおばあさんが言うには、、、。
おばあさんが小さい頃?あるいは若い頃?に聞いたと思われるが、夫の家、今から4代前の嫁に関する人物評。
お客さんによって、七色の声を使い分ける、商売上手な女性だったそうだ。
この女性は、わたしの生まれた年からちょうど100年前に生まれている。
わたしより100歳、年上。
その人の話を、37年前に入院病室でしてくれたわけだが、、、
その時、一緒に入院していた、当時2歳の末子は、今、2歳の子供がいる。

話が古すぎる、、、
ぴたりと時が止まったような話を書きながら、わたしはいつの人間で、どの時代に生きているのだろうと思ってしまった。

というか、話を元に戻そう。
人の繋がりは面白い、という話だった。
時空を超えることもあるし、超えないこともある。
今だけ、ココだけ、一瞬、瞬間だけ。
そういうのもある。





コガネムシではなく小金持ち

2024-04-15 | 読む人々には興味ない話
わたしは小金持ち風ティストが苦手だ。
小金持ちそのものが苦手なわけではなく、小金持ち「風」「ティスト」が苦手。
これは、あくまでもティストであり、実際の財産、不動産や預貯金の有無は関係ない。
自分が勝手に脳内でイメージするもの。

マダムサロンに漂う雰囲気?
マダムサロンも、一種のロビー活動のような感じで、夫の仕事や出世に一役買うのなら、あるいは、コミュニケーションで仕事人間関係の潤滑油になるなら、と気配り、尽力すると思う。
「プロ野球・妻の会」「歌舞伎役者を夫に持つ妻たち→梨園」みたいな世界はさておき。
なぜ、さておき、かと言うと、自分には無縁なので関心がないから。

もっと実業界だの、法曹界だの、経済界だの、教育界だの、政界だの、、、そう世界なら身近なのか?
ノン、否。全く別世界ではあるが、興味はある。
なぜなら、「◯◯の妻」ではなく、本人の世界。
それはそれとして。
たんなる、知らない世界への好奇心。

本人が、例えば、政治家になった三原じゅん子に関心があるかというと、べつにない。
政界での活躍より、最近では高級車盗難被害遭遇のほうが実際の動きとしては印象に残る。
といっても、LINEニュースで見ただけで、わたしとは何の関わりもないが。
車庫は、都内の自宅に続くスペースのようなかんじだったので、国会議員さんは、やはり高収入のようだ。事業、多角経営とか?
これは、小金持ち?
まあそれはよいとして。

あくまでも、〇〇風、というイメージ、ティストの問題。
生き方にも関わってくる。
高級品を身につけ、高級品に囲まれた暮らしをしているのが、わたしが描く(狭義の)金持ちイメージ。
では、小金持ちとは?
金持ちのスケールを少し小さくしたかんじ?
ノン、否。

わたしが勝手にイメージ付ける小金持ちとは、、、金持ち自慢。
誇らしげに外に向かってアピールする、その鼻につくニオイが、苦手なのである。
自慢しなくても、垣間見えてしまうのはまあ仕方ないにしても、、、
ただ、わたしが苦手なだけだが。

それと、特権を振りかざす人。
このニオイには頭痛がする。
1日も早く失脚することを願ってしまう。
自分では気づかないだろうけれど、長年、積み重なると、強烈なニオイを放っている。
なんであんなに横柄な、嫌な感じになるのだろう。
家族も距離を取り、誰一人として近寄らないのではなかろうか。
特権を目当てに群がる人々も、特権を失い失墜したら、誰も着いてこないだろう。
特権に溺れた悲しき副作用。結末。
こういう人は、おそらく一生、治らないと思う。
人生には、プラスとマイナスがあるようだ。

小金持ちは、妬まれる。
妬まれないように仲間うちでワイワイしていればよいものを、チラと仲間以外の人にも見せたくなると思われる。
自慢気。
だが、性格が悪いと思われるのは避けたいため、平等精神を心掛けている、、、のが、見え見えの人がいる。
単に、わたしが捻じ曲がり、ヒネクレ者なだけであるが。
やはり、テリトリー内で活動するほうが摩擦が少ない。無難。
価値観を共有できることが多いから。
定年後、どこどこに勤めていた元〇〇、という肩書から離れられない人もいるようだが、わたしのイメージでは一昔前の定年族のように思える。
今の定年族は、リタイアする前からリタイア後の準備をしているため、職を離れても自由を謳歌する無職またはアルバイト、または第二の就職に、軟着陸しているように感じる。
(働かなくては年金では生活できない高齢ワーカーはまた別の話として)

例えば、、、偏見イメージではあるが、、、
小金持は、ホノルルマラソンに参加する。
近所を走るだけでは物足りない。
これは素晴らしい。
登山をする。汗をかく。
ブランド品をジャラジャラ身に付けない。
お金や肩書でないところで、汗を流す。
小金持を意識させない。
だが、高品質、高価格の、快適性、品質重視の普段着を着る。
ユニ◯ロの人もいるが、ハイレベルな品質に自分自身のためにこだわり、ユニ◯ロでない人もいる。

わたしが勝手に抱く小金持イメージを、決して否定しているわけではない。
良いイメージもある。
個人的な好みであって、カレーが好きな人も苦手な人もいる。
ただ、ああ、あの人のことかな、と顔が思い浮かぶ人は、一人や二人、いると思う。

別にどうってことのない、〆のない話になってしまった。

蛇足であるが、
人は、ゴシップや噂話、その場にいない人の悪口が好きである。
そんなことに全く関心がない仙人もいる。
仙人たちが集まって井戸端会議する図を想像すると面白い。
話題はなんだろう?
収拾がつかなくなりそうだ。
やはり仙人は千人集まって、世界平和を願う世界会議あたりを想像するが、決して不幸を生み出す新興宗教会議であってほしくない。


※写真は、ぼんやり小さくわかりにくいが、大阪城の上空を飛ぶ飛行機。
どんどん何機も次から次へと飛んでいる。



教養って何?

2023-08-27 | 読む人々には興味ない話
いつも一緒に運動をしている、体育会系仲間が一過性の病気になった。流行病。
で、運動の場に引っ張り出されなくなり、あまりにも退屈。
この酷暑の中、不要不急の外出は避けてください、とニュースの声。
ウォーキングなど、とんでもない。
自宅でもエアコンをつけてください、と、キャスターの声。
今月の電気代に戦々恐々としている人は少なくないだろう。

さて、トップ画像。
退屈すぎて、戸棚から引っ張り出してきた。
姑の本。百人一首、漫画版。
すごく面白い。
でも、読むのは1日3首にしておこう。
著者は2人いて、1人はわたしより一歳、上。
子供向けに書いたところ、好評だったそうだ。
もう1人は、手塚治虫氏に指導を受けたという漫画担当で、わたしと同じ歳。
同級生が書いているようなノリ。
かなり優秀な同級生ではあるが。

もう一冊は、舅の本。橋のない川。
昭和44年26刷、定価350円のハードカバー装本。
夫の実家で発見して以来、読もう読もうと思いながら手付かずになっていた。
持ち帰って来ていたのも、20年ぐらい前かも知れない。
紙の色はもはやキナリ、ベージュになっている。
まだ3ページしか読んでいない。
読む本を2冊、机の上に用意すると、なんだか安心する。

舅は文学全集をズラリ揃えていて、次女が学生時代、興味を抱いて何冊か、うちまで持ち帰ってきた。
それは、立派な装丁ではなく、紙が劣化してパラパラめくると粉粉になって散ってしまうのではないかと思うほどのもの。
紙は、耐久性が低い。
驚くべきことは、文学全集と舅が結びつかないこと。
舅は文学青年の片鱗もない。カケラもない。
見事、昇華したのだろう(と思いたい)。
晩年、NHK「趣味の園芸」のテキストを見ると、それらしい好みが窺い知れる。
人間って、変わるものだ。

わたしの父は割合、書くことが好きだ。
文学より自作。
晩年は、時間の隙間を見つけて1人で映画を見に行っていた。
(生涯現役のため、オフタイムがとても少なかった)
わたしは父に似ているかも知れない。(文章を書く意味では)
兄も寄稿を頼まれると嫌いではなさそうだ。

父のこころに残る言葉。
「自分から自慢アナウンスしなくても、周りが自然に知る」
背伸びしたり見栄を張っても、いずれバレる。
逆に、何も言わなくても見ている人は見ている。
自慢したくて、言いたくてウズウズしていても、言わないほうがスマートということか。

しかし、悪いことは隠し通せるか?

兄の名言。
「教養は人を見下すためにあるのではない」

これはまさにその通り。
自分が知っているからといって、知らない人や間違っている人を馬鹿にするぐらいなら、そんな教養は無い方がマシ。
ひけらかした知識が間違っている時は、凍る。
コワイ。
わたしはしょっちゅう、日常茶飯事だが。


就学前の子供(孫)が、黄金のおまじない言葉のように、百人一首の句を口にすると、ほぉーーっと大人が目を輝かせる。
あの快感は、水戸黄門の葵の印籠だろう。
それがキッカケとなって、興味や探究心が生まれたらよいのだが、◯◯の一つ覚えにならないことを祈る。
大概は、1句しか知らない。
せめて5句、間違えずに言えるといい。意味も。

知人で、高校生ぐらいの時に覚えたという憲法の第◯条の一文を丸暗記して、今も言える、と、早口で呪文のように言ってくれる人がいる。
のではあるが、その人の知っているのはそれだけで、あとの学校で習ったであろう、あらゆる分野のあらゆることは成人になってから脳から滑り落ちている。
興味がないことは忘れるのだろう。
脳の省エネ。
憲法はたまたまだと思う。

今日の記事、カンジワルイと感じた人は、いろんな経験がおありだと推測する。
逆に、無い人、いるのだろうか。




古い価値観

2023-08-10 | 読む人々には興味ない話
各国、なぜ少子化になっているか?
人口の多い国はこれから栄華の時代を迎える。
昔は貧乏人の子だくさんというイメージがあった。
産めよ増やせよの時代を過ぎて、やがて理想とする子育ては教育にお金がかかる。
質を追求して子供の数を減らす。

自分の生活や人生の質や充実を重視して、子供を産まない、結婚もしない。
少子化の波に歯止めがかからない。

価値観の変移か。
しかし夫婦で協力して子育てしている姿をよく見かける。
女性が普通に家庭外で働くようになって、家事、育児の協働が目立ってきた。

介護について。
老老介護もさることながら、わたしが知る範囲では、リタイア前後の男性が母親の介護を担うケースが増えてきている。
嫁ではなく、息子。
時代は変わった。

だが、まだ旧態然とした価値観は人によっては変化せずにそのまま。
特に前期・後期高齢者あたりの、昭和男性は、アタマの中が変わっていない。
今更、変えようにも無理。
周りは諦めている。
が、少し突くと、火薬庫の爆発が起きる。
啓蒙啓発は無駄なので、あたり触らず、そっとしておくしかない。

いくら目の前で若い婿が家事・育児をしていても、自分には直接関係がなく、映画を観ているようなもので、自分事として捉えていない。
その状況が許されているわけではなく、アタマのカタイ人は、居ないもの、存在しないものとして扱われている。
特別な地位、特権を与えられているわけではない。
治外法権の例外区。
経済発展区なら良いが、限界集落のようなもの。
再生などには手付かずで、やがて朽ち果てるのは時間の問題。

ちなみに、我が家があるのは、半世紀前に大規模開発された地。
我が家の近所周り、土地家屋の新旧移り変わりが著しい。
開発、分譲当初、安い値段で買って入居した人々は90歳近くなっている。
家を手放し、駅近くのコンパクトなマンションに引っ越しているか、老人ホームに入っているだろう。
綺麗に区画され整列していた各邸は、歯抜けのように、どんどん古い家が更地になっていく。
そして、新しい家が建つ。
ちょっと家の周りを散歩すると、あちこちに動きが見られる。
1番の動きは、わたしが寝ている2階の部屋から見える風景が変わったこと。
今まで何もなかったのに、窓から全面にドーンと大きな家が立ちはだかり、こちらの2階と目線の位置が同じになった。
うちの1階からは見えないのだが、2階から見ると存在感を現している。
なぜ、1階からは見えないのに2階から見えるのか。
というか、2階からしか見えない。
うちの玄関の反対側(背後)の家の、更に道を隔てたお向かいの家。  
何十年も手付かずの空き地だった。
裏側の筋を一つ進んで足を運ばなければ、家が建っているのが1階からではわからない。
そして、うちの2階から見えるのは、大きな家の横側。横姿。
道路側の間口より奥行きが広く建っている。
道路側の横から見ると幅が狭いが、直方体の大きな家。
大きな家が建ったと思っていたら、それは横側から見た姿で、実際はもっと大きかった。
(書いても書いても、うまく表現、描写できない。
図面か、写真なら一発でわかるのだけど。
なぜか、この家の形状、形態を表現したい)

その家が新築されている同じ筋には、南側、一軒飛ばして1軒、さらに南側、1軒飛ばして1軒、合計2軒も家の取り壊し。
そしておそらくその取り壊される家と家の間の1軒も取り壊されることだろう。
すると3軒連なって全部取り壊し。
北側4軒目(うちの2階から突如、姿を現した家)は新築ということになる。
そのお向かい東側の家も潰して別の人が新築。
新築主は、その隣家の娘さん。
親子で2軒続きになる。
すごい。
(だらだら同じようなことばかり書いて、自分ばかりが、興奮している)

新旧入れ替わり。
新しい人や、新しい世代、2分割にされたりして若い世代が入ってくる。
活性化され、若返って良い。
半世紀でこんなにも一戸建て(建売ではない個別オリジナル注文建築)の住人は、丸々家ごと入れ替わるのだ。
それに引き換え、夫の実家やわたしの実家地域は、全く入れ替わりがない。
新しい人が入って来ない。
閉鎖されているから停滞して衰退していく。
住民の精神と、行政の遅れ。
高齢化は進む一方。

考え方が古く、いつまでも旧態然としていると衰退、退廃する。
老人たちが自分の蒔いた種。

若い人が結婚しようという気にもなれない、昔の価値観。
価値観が今の時代に合っていないことに全く気づいていない。
少しでも古い価値観に触れると、逆上する。
古い価値観の人がこの世からいなくなるか、新しい価値観と闘わなければ、古い価値観はなくならない。
やがて、徐々に社会は変わっていくだろう。
が、時代が移っても、次世代に伝えるべき良いことは踏襲すべきだと思っている。

同じことを何度も書き散らしている。
シツコイわたし。

わたしも40年、古い価値観と闘ってきたが、大元がこの世からいなくなり、解放されたと思いきや、古い価値観そのものの幽霊が残存していた。
古い価値観の親の価値観をそのまま受け継ぎ引き継いでいる子供が歳を取り、親がいなくなったその後も、亡霊が乗り移っている。

※写真は、今日の大分・別府。
台風の影響で遅くなり疲れているのに、旅先で、全く関係ない内容のブログ記事。

悪意記事

2022-12-01 | 読む人々には興味ない話
さて。
いきなり、始まる。

LINEに配信されるドキュメント記事で、悪意の塊を感じた。
記事で紹介されるAさん。
まあ叩かれても仕方ない行いをしているのではあるが。
本人が望み、法には触れていないなら、人に迷惑かけてないなら、なんでもいいの?の類い。
最後には、行為を介して移る病気に感染し、Aさんはこれではいけないと強く思い、悪癖を絶ったものの、次の、空虚を埋める手段も見つからず、満たされない時間を過ごしている、と記事では〆られていた。

まあ、記事的にはそんなものなのだが。
わたしは共鳴も賛同も同情もしないAさんであるものの、、、
書き手の目線、切り口が、わたしは気に入らない。
Aさんがやっている行いは決して良いとは思わないが、彼女を取り巻く環境についての記述が気に入らない。
(それがどうした?の感想で、すみません)

時代が変わり価値観は多様化した。
あくまでも多様化しただけであり、過去の一定の価値観を否定するものではない。
過去の価値観を含め、価値観は押し付けられるものでもなく、一つだけでもない。
国民が一丸となって同じ方向を向いていた時代は終わっただけである。
強制統一から解放され、自由に柔軟な展開になったのだ。

妻は家庭、夫は仕事。ほんの半世紀前までは。
今は共働き。
夫婦別姓はまだ国会を通過せずモタついている。
離婚はよくあることで、シングルマザーもゴロゴロいる。
後ろ指差されるなどは大過去の話。
結婚相手や恋人も同性だったりもする。
マイノリティもカミングアウト数が増え少ないなりに価値観が認められ、法制度が整い生活を守る。


価値観が多様化したのは結構だが、
公の大手サイトで広く読者に向けて発信する書き手は、気をつけなければならない。
多様化した選択肢の多い中、自分の価値観を基準にして、そうではない価値観を否定、糾弾しているかのような書き方には、違和感、不快感を感じる。
被害者妄想的にわたしが勝手に歪んだ受け取り方をしているのかも知れないが。
(現在の風潮をさらっと書かれているものに対して必要以上に行間を感じ取り、いじけているだけか?
今の時代の価値観を受け入れられないのか)

価値観が多様化したというのは、他の価値観を否定することではない。
一つだけの価値観ではなく、多くの価値観もあるという、選択肢があるということ。
自分の価値観からだけの発想で、決めつけてはいけない。
自分の価値観が自分にはあるなら、他人には他人の価値観がある。
同じではないからといって、自分以外を否定するのは、もはや多様化とは言えない。

なんだかな〜。
取材や手記による読みものが多いサイトなのに、、、著者によって色合いがころっと変わる。
読者個人の感想文ならいざ知らずに、発信側はニュートラルに構えて欲しい。
時代の風潮を、良い時代が来たにもかかわらず、わたしが反発して、時代遅れなだけかも知れない。

わたしは一見、ものわかりの良い老人のテイなのに、実のところは頭カチカチの、自分の価値観以外は認められない狭量な人間なのだろうか。
しかしそれは、芯だから。自分が生きる指針だから。
まあ、芯がないというのもグニャグニャで、よろしくない。

曲がるにしても、しなやかに、しなる強さが欲しい。



遠い親戚のおばあさん

2022-11-17 | 読む人々には興味ない話
わたしのブログ記事は辛口だ。
自虐傾向があるため、自分と同時に、自分に似たような人も斬ってしまう。
人間が持つ共通の心理だったりすると、他人が読んで自分のことをけなされているような気がして不快になることもあるだろう。
触れたくない、触れられたくない、こころの奥やヒダだったりすると尚更。

楽しいことや興奮するような嬉しいことは、共有したくて、元気になりたくて読まれるが、逆のマイナスは近寄りたくないのが自然。

それと、わたしは普通にさらりと思っていたり、していたりすることも反感を持たれたることがある(と思う)。
自虐ネタは、読む人は嘲笑なり優越感なりを感じて、こころの余裕を生むが、そうでないネタは、自慢だと感じられる。
自慢する人に悪い人はないという説もある。
だが、ニオイに過敏なわたしは、ニオう自慢は避けたい。

実力が伴う人がさらりと現状を述べるならオッケーだが、自分の力でもない人間が、無自覚で優位に立っている現状をべらべら話す(書く)のは、痛い。
わたしは、自然体で書きたいのに、どこかにニオう自分を感じる。
自虐は逆自慢の現れか。
自意識過剰か。

二面性が顕著にあるため、一面のみの顔を表に出している。
が、裏の顔で悪事を働くわけではない。
健全な善良な一市民である。
にもかかわらず、、、
自分のもう一面と対峙するのは自分であり、人に相談したりしない。
同じような状況の人の話を参考にしたりするが、その方法を取り入れるか、取り入れないか、あくまでも、叩き台にするだけ。
自分の思いを吐露できない苦しさはある。
そして、わたしの嫌な面を深く知る人は、この世から去って欲しいと願う。
まるで、犯人が証拠隠滅を試みるように。

わたしには良い面もある(はず)。
ではあるが、取り立てて騒いで持ち上げて欲しいとは思わない。
かえって暑苦しい。
ただ、ほんのちょっとした、些細なことに遭遇して、知ったりすると、じわじわと喜びが広がる。
意外に単純である。

つい先日、遠い親戚で、ほとんどつながりも、会うこともない、長い長いスパンでの関わりの人の口から、不意にわたしの下の名前がぽろっと出た瞬間に、なんだかわからない嬉しさが込み上げた。
アラジンの魔法のランプから、もわっと巨人が出現したかのよう。
その親戚は、80歳ぐらいの女性なのだが、今までほんの数回しか不祝儀の会でお会いしたことがない。
季節品を送っていただいたお礼の電話をかけた時に、苗字を言うと即座にわたしの下の名前が出たことには驚きを感じた。
(長年、わたしは夫の名前で礼状を出していた)
よくよく考えるとわたしも、その人の下の名前を知っている。
親戚というのはそんなものか。

(ちなみに、その親戚との関係は、、、
夫の父の父の父の弟の息子の娘。
明治初期に枝分かれした親戚。
はあぁ、長い、、、
「ファミリーヒストリー」の世界)

嫁ぎ先の親戚というのは、親戚になってから長い時間が継続している。
実家の親戚は自分が嫁ぐまでの時間が加わる。
娘たちの配偶者の親戚も広がりを見せている。
海外にも広がるなどとは思いもしなかった。
新しい未知の文化に触れる機会を得た。
同じ県の近隣の人としか縁談を認めなかった、母の実家はそのせいもあり、後継者がいなくなった。
ガッチガチに凝り固まった古い考え方。
まさに隔世の感である。

話はまたまた脱線している。
脱線に脱線を重ね、終わることがない。
おばあちゃんの昔噺は、これだから聞いていられない。

パワハラ、モラハラ用語

2021-11-24 | 読む人々には興味ない話
柿のシーズン。
あちらこちらから、たくさんいただく。
お裾分けというか、箱ごと知り合いにそのまま送る。
うちが購入して既に送った人もいて、その人にはもう送れないが、息子には何重に重なっても送る。
夫の息子に対するラブコールはなかなか涙ぐましい。
冷たくされても、なお。
父子ってそんなものなんだろうか。
わたしは、いたって温度が低い。
離れたがっているものを無理矢理、囲い込もうなんて、さらさら1ミリも1μも思わない。
すがりつきは、みっともない。
高圧的は最も嫌。

兄も母にひどい(過保護、過干渉)仕打ちを受けて可哀想だ。
本心から気の毒に思う。
あと少しで、重石が取れるはずだから、兄よ頑張れ!
だが、母と兄、どちらが長生きしそうかというと、、、、歳の順とは限らない。
兄は生きているうちに、重石が取れた清々しさを満喫することが出来ないかも知れない。

兄もわたしも時代が時代なら、ドロップアウトしていると想像する。
たまたま学費が払える経済力のある家庭に生まれ育ったため、どうにかなった。
わたしは、かまいたち(お笑い芸人)のア○ーバTV番組風に言うと、女ヒモ。
家庭にお金を入れず、住宅費、生活費などを浮かして、好きなことをして遊んでいる。
(だが、配偶者がいると、とりあえず、ヒモの肩書は外れる)
親の資産や遺産を食い潰す場合も、穀潰し?みたいな感じになるのか?
事業に失敗した場合は?

そもそも穀潰しって?
「ごくつぶし」と読む。
ものすごいモラハラ、パワハラ用語。
説明なりなんなりを読めば読むほど、気が滅入ってきた。
穀潰しって、わたしのことなんじゃない?
自己否定は鬱に突入する危険性を孕んでいる、、、ので、自己否定しない方向に自分で舵を切る。

穀潰し、と言われている側にではなく、言っている側に目を移す。
(わたしの周りには、そんなことを言ったり態度に表したりする人はいない。
わたしが勝手に、今の時代ならそうかもしれない、と想像力逞しく、悲観しているだけ)
じゃあ、あなたは、穀潰しではないにしても、効率的、合理的な動きをして、最高に能率よく、余すことなく能力を発揮したのか?
その能力や結果は、すべての人が認めているのか?
質はどうなのか?
自分を肯定したいだけなのではないのか?

家族に穀潰しがいる人は、どう接すればよいか、とご親切に導いてくれるサイトまであった。
役割を持たせよ、だそうだ。
会社にも穀潰し社員がいるそうだ。

何もしないほうがまだマシで、下手に何かして、マイナスの結果を招く場合もある。
何もするな、とはわたしは言わないが、皆んなが我も我もと動くと摩擦を生じる。
まあなんでも、ほどほどが良い。
何も建設的に生み出さない場合は、生きる権利がないのか?
そんなこと言ったら、若者が多くの非生産的高齢者を支える税システムはどうなるのか?
過去になんらかの役に立った人は、その功績を少しずつ削り取って、食べていっているのか?
功績は、お金だけではない。

まあ、あまりにも目に余る穀潰しはどうかと思うが、世の中、「穀潰し」カテゴリーに属する人々は少なくないと思われる。
すべての人に優しくなければならない今の社会は、大変デリケートな時代である。
穀潰し側から見た景色と、穀潰しと接する側から見た景色と、外から見た景色は違う。

自分を必要以上に声高に肯定する必要はないが、否定しても人生、面白くない。
で、、、自分は穀潰しなのか?
ブログで暇潰しではなかろうか。
と、笑えない冗談をマジメに言ってふざけている。