蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

死ぬ直前に思うこと

2015-07-31 | 人生

「人間が死ぬ寸前に思うこと」
どこかの国の看護師さんが書いた本が紹介されていた。

人間は死を前にすると、一生を振り返り、後悔するようだ。


「期待に応えるよりも、“自分らしく”生きればよかった」という後悔。

死を目の前にしないと、人生のピリオドに気付かない。当然だ。
まだまだ先があるから、その時にしようと、先延ばしにする。納得だ。
今でなくてもいいだろう、今日出来ることは、明日しよう、と。
逆に、「明日出来ることを今日するな」という教えもある。
表裏一体か。

 

「がむしゃらに働いたこと」の後悔。

男性は一家の大黒柱という位置づけだった。
日本がどんどん国際的に成長していく中、
今日の日本の地位を築くには、がむしゃら労働は、必要不可欠だったと思う。
いまでこそ、ゆとりの時代だとか、男女平等、子育ても家事も夫婦でシェア、が当たり前になっているが、
時代の流れも大きい。
あんなに家族のために頑張ったのに、
今では、家庭ゴミ扱いされるんなんて、過去の実績との雲泥の差をひしひし感じる高齢男性も多いことだろう。
強くなってしまった女性たちは、もはや、もとには戻らないので、現実は現実として受け止めることが大事だ。
時代には、ある程度、迎合していけないと、生きにくい。

 

「自分を押し殺し、我慢して自己主張しなかった」という後悔。

自分さえ我慢したら、まるく納まる・・・
そう歯を食いしばって頑張って、ストレスをためて病気になったのでは、だれが責任を取ってくれる? 
少しずつ、トライして調整して、バランスを取ってみると、身が軽くなる。
が、死ぬ寸前では、時遅し。

 

「友達とあまり交流しなかった」という後悔。

生活に追われたり、歳をとって疎遠になったりで、手を抜いていた友人関係も、
残りわずかな時間となると、後悔するらしいが、
わたしに関しては、あまりない。
著者の看護師さんは、一般的に、多くの人を見てそう思ったのだろう。

 

「自分の幸せを追求すればよかった」という後悔。

著者は、そう書いているが、
多くの人は、尽くし我慢した分が報われなかったと感じるのだろうか。
わたしの場合、世の中のことで一番の関心事は、自分の幸せなので、
自己チューである自分に関しては、この項目は、問題なくクリア。

死ぬ間際になるまで、自分は生かされていると思っていたのだろう。
神の与えた生であり、死である。(わたし、神様を信じているわけではありませんが)
なので、能動的に生きている、と気づく人は、ほとんどいないと思う。
自分の人生の軌跡は、宿命だとか、運命だとか、偶然、与えられるものと考えている。
幸せそのものが、選択肢であることに気づかない。
旧来の価値観から解き放たれることなく、また、反対勢力の逆風を受ける勇気もなく、改革する気力もなく、
安易に今までどおりの生活を、愚痴りながら送る。
自分ができないでいることをしようとする、新しい芽は、非難し、つぶしにかかる。
右へならえ、まわりの人と歩調を合わせることだけを考え、自分流を確立しようとしない。
死ぬ間際になって、
あれ?
自分って、なんだったの?と気づく。

 

反省したり、悔やんだり。
ああ、楽しかったと笑って死ねる人なんて、あまりいないように思う。
ピンピンコロリが理想だが、どんなにヤンチャな人生を送り、周りに苦笑いされたとしても、
死ぬ時は、優秀、優等生的に死にたいものだ・・・が、おそらく、無理だろう。

 

 

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時間の関係で、焦って駆け足で書いたので、集中力散漫、雑になってしまった。
駆け足で書く内容ではないのに、ね。
きっと、死ぬ直前にならないと、マジメに、真剣に考えないのだろう。


贅沢

2015-07-30 | 暮らし

贅沢って?
好きなだけ、自由に、好きなことに、お金を使うこと?
道楽のようなものか。

では、学問が大好きで、研究に没頭していて、書籍代やら、セミナー参加費やら、登録代やらに、
お金をがんがん使う人は、贅沢なのか?
洋服はあまり構わない、最低ライン。食事も最低ライン。住居も最低ライン。
でも、好きなことには、糸目をつけずにお金を使う、超・勉強家、勤勉家は、贅沢なのか?
たんなる変わり者か?

湯水のように使うことが、贅沢の定義だとしたら、
その研究家も湯水のように、時間とお金と労力、頭を使っている。
後に認められても、生きている間は、キ○ガイ扱いされている、天才アーティストや、建築家は?


・・・と、わたしの例えはいつも、ノーマル路線を越えている。
一般人の例えをしなければ、ふつうの人は、感情移入して考える気にならないだろう。

やはり、贅沢といえば、道楽。
着道楽、食道楽、かに道楽(あ、これは、店名だ・・・)
贅沢三昧につきものなのは、飲めや歌え、遊べの交遊費。
飲む、打つ、買う。
旦那衆の芸者遊び。銀座の高級クラブ通い・・・
一晩100万円×5×4=2000万円(一ヶ月)  
週休二日(土日は、家でのんびり、遊びをオフ)で遊びまくるとすると、
1年で、2億4000万円、10年で、24億円。
その前に、体を壊す。

愛人に使うと、ばばっとなくなる。
海外逃亡して、横領した莫大なおカネを使ってしまって、ガリガリになって捕まっていた人。
使うとなれば、一瞬。花火。


人にではなく、自分に使う。
豪華な家に住み、世界中の逸品に囲まれ、贅沢極まる暮らしをし、
これでもか、と、目をむくようなキンピカな衣装を身に纏う。
しかし、これは、近隣の人々との調和を乱すとよくないので、そうとう高級住宅街に住むことが条件だ。
ランニング・コストが、高いので、ランニング・インカムも、かなりの額がないと、一生涯は維持しにくい。
途中で、家を売却して、高級老人ホームに身柄を移すという手もある。


あるいは、一点豪華主義。
家は、賃貸でもなんでもいいから、ふつうの家に住むとして、自分自身の美に執着する。
服飾品に、せっせせっせとお金を使う。
カラダの美を保つために、高級エステや美容関係の費用に、制限枠ゼロ、天井知らずで、
美容整形を繰り返し、ジム通いをしてボディを美しくキープする。
年齢には勝てない時期が来たら、その時、考える。


宝石などを買うとすると、体も壊さないし、身につけなければ他人にはわからないから、
贅沢三昧しても、ちっとも周囲には気付かれない。
本人が、うひひひと、毎晩、妖しく光り輝く宝石を愛でるという、そんな贅沢もあるかと。
維持費や、メンテナンス費、ゼロ。保管スペース、極小。
ただし、盗られないかと、ひとりヒヤヒヤも、疲れるかも。


超一級の人とお付き合いする。
師事するのも、世界的に有名な人だったり、どんなことがあっても、なにがなんでも、
あらゆるルート、コネ、手段を使って、お金に糸目をつけずに、お近づきになる。
追っかけをやる、タニマチ、桁違いの後援。
熱狂的に傾倒している人のために、カーネギーホール的なものを作ったり。
企業展開しているケースもありそうだ。


使える金額に制限があるとすると、使う金額を、制限枠に合わせる。
自分で、日頃はしないけれど、ちょっと贅沢かな、と思うようなことを、やってみる。
こころが、贅沢気分になる、擬似贅沢もありかと。

自分が作った、世界にひとつだけのオリジナル茶碗で、食事をするとか、
自分で糸を紡いで織り上げたものや、手作りで染めた生地で、手作りの洋服を楽しむとか、
手作り酵母パンだの、手作りの肥料で育てた有機野菜だの、
手作り旅行だの、手作りパソコンだの、手作り自動車だの手作り飛行機だの(このあたりは、規制があって無理)
なんでもいいから、好きなことに、好きなだけ時間をかけられるのも、贅沢だ。
なんにも、他のことは気にかけずに、好きなだけ読書するというのも、贅沢な時間。


贅沢に育った人は、慎ましやかに暮らす生活に不満を抱く。
贅沢に慣れきっている人は、贅沢が出来ないと、苦痛である。

お金では換えられない贅沢が、わたしの理想の贅沢だ。
こころの自由、時間の自由、こんな贅沢なものはない。
ただし、自由にできるお金がまったくないとすると、
その状態で無からやりたいことを考え出すのは、やる気の問題がある。
活動費ゼロで、やる気が起こるかどうか?
手作りしにても、少なくとも材料費の実費ぐらいは、必要である。
レッスン料や、交通費も。
話がだんだん、現実味を帯びてきた。

ちなみに、
わたしがやりたいことは、自分では全部できないので、人の力を借りることになる。
マンパワー費用は、けっこう高くつく。
ざっと計算して、そんなに高くつくなら、人を雇わず自分でしよう、となり、
自分でするには、カラダや時間が足りない、となり、
次第に、縮小、やがては、やめてしまうことになりかねない。

やはり、贅沢とは・・・
資金を稼ぎ出す能力に伴うべきである、と考える。
どんちゃん騒ぎをするにしても、家業や仕事の面でもピーク、体力も気力もピーク、
贅沢をするにも、エネルギーがいるということだ。


「こころの贅沢」という別カテゴリーを自分で確立して、
悦に入るのが、自分仕様・贅沢で、
比較的イージーに手に入れやすい幸せである。

 

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2015-07-29 | 交友

ちょっと、自惚れたり、自慢したりしてみようかな、と、ふと思う。

しかし、このブログ、リアル人も複数お読みなので、書きたくても書けない。
だが、リアル人の皆さん、くまなく、わたしのブログを読んでいるわけではない。
だから、そう目くじらを立てて、綿密に細心の注意を払わなくてもいいかも?
でも、そういう時に限って、1年に1回しか読んでいない人が、たまたま、読むコトもある。
まあ、どうでもいいや~、の気持ちです。

と、ここまで書いて、やっぱり書くのはやめました。

で、自慢を行間に臭わせることになるのだが、そっちのほうがずっと臭って、クサイ。
いっそ、ばしっと明白に言い切ったほうが、書くほうも、読むほうも、すっきりするだろう。
この煮え切らなさを、「奥ゆかしさ」というのか、はたまた、「イヤミったらしい」と言うのか。

ちなみに、わたしは、嘘は言わない、書かない。
たとえば、陰で努力しているのに「ぜんぜんやってない」とか、言わない。
相手を騙して油断させたスキに、自分は頑張って相手を抜かすなんて、卑怯だ。
ただ、どっちとも取れるような、
相手が勝手に解釈して誤解してしまうかも知れないようなことを、におわせるかも知れない。

「美しい肌ね。どんな化粧品、使ってるの?」
と仮に聞かれ、実際は、超高級化粧品を使っていたとしたら、
「なんにも。牛乳石鹸で、体ごと、洗ってるだけよ」
なんて言わない。
「母が使ってたモノと同じもの。おばあさん用」
と言うかも知れない。
それは、そうとう高いものかも知れないが、めちゃくちゃ安いのかも知れない。
相手の想像に任せる。
わたしの場合、実際は、大手薬局でも大手スーパーでもどこでも売っている、安い化粧品を使っているが、
そこまで、正直に言う必要もない。
(安いが、粗悪品ではないし、30年間、なんのトラブルもない)
あくまでも、相手に想像させる。

仮に、家に掛けてある絵画が、安モノだとする。
「この、絵、お高いんでしょう?」と聞かれたとする。
高いとも、安いとも言わず、
「どうなんでしょう。実家にあったものなので」
あるいは、「ご縁あって頂いたものなので」
と答える。
高モノとも安モノとも答えていない。
実際は高い場合もあるし、安い場合もある。

高いものなら高いで、自慢たらしいし、高いものを安いと、嘘をついてまで言う必要はない。
要は、相手の判断に、おまかせする。

目なんて、ほんとうにホンモノを見極めることができる人なんぞ、そういない。
ほとんどが、先入観や、雰囲気、周りの状況で判断する。
ゴミ箱の中に、ホンモノの宝石や、名のある名画は捨てていない、と考える。

モノの場合はそうであるが、努力の場合は?

高石ともやの「受験生ブルース」に、

テスト終われば 友達に
全然あかんと 答えとき
相手に優越感 与えておいて
後でショックを 与えるさ

こういう歌詞があるが、わたしだったら、相手にショックを与えたい気持ちは別にない。

テスト前に、友達に
勉強しているかと 聞かれたら、
ぜんぜんしてないと 答えとき
陰でこっそり しているよ

てなもんである。
(そっちのほうが、よけいかんじ悪いか?)

「ぜんぜんしていない」というのは、嘘ではない。
パーフェクトな人や素晴らしい人の努力の質に比べると、「ぜんぜん」である。
「まあまあ」「そこそこ」しているという答え方もあるが、結果が出る前に、そう言ってしまうと、
なんだかプレッシャーになる。
成功してからでは、さすがに「ぜんぜん」とは(嘘になるから)言えないので、
「たいして、してなかった」と、言いたい。

与えたいとしたら、油断、与えたくないとしたら、敵対心とか、そういうものか。
相手がこっちに対して勝手に張り詰めてくる、緊張は、苦手だ。

話す相手を見て言う。
相手が、同じ目的を持ち、努力している人で、なにをどうしたか具体的に聞かれたら、
質問に対しては、少しは答えるかも知れない。
あまりがんがん言うと、イヤミになる。

事実を否定したり、捏造したりするのはどうかと思うが、
ありのままの事実を伝えても、どんな相手か、接する相手による。
イヤミと受け取られる相手に、わざわざ伝えない。
同じ土俵にいて、お互い、相手のことは良い意味で刺激を受けたり、参考にするけれど、
嫉妬したり(されたり)ライバル視したりする相手には、オブラートに包んで逃げるほうが得策である。

立場はまったく違っても、「自分を確立している人=自立している人」であれば、
さばさばと、爽快な関係が築ける。

他人と自分をいっしょくたにする人は、厄介である。
他人は他人。自分は自分。
他人がそうだからといって、自分もそうでなければならないことは、ない。


べたっとした、人に寄りかかる人は、重くて、面倒だ。
家族であっても、ある程度の節度は必要。
わたしは、家族は、「最悪の場合の砦」、ぐらいに考えている。
とは言いつつ、実際は、寄りかかっているんだとは思うけれど、お互い様だ。
家族以外の人も、そうなのかも知れない。

「人」という文字は、支えあって、成り立っているそうだ。
でも、支え方が人によって違うから、ややこしい。


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ああ、だらだらだらだら長文になってしまった・・・。

 

 


人に言えない、子供をまっすぐに育てる方法

2015-07-25 | 思い出

わたしが中学生の時、バスケットボール部に入っていた。
そのとき、1学年上と、2学年上(姉のクラスメート)のF姉妹が、同じバスケットボール部で活躍していた。
とても爽やかで、かんじの良い先輩で、大好きだった。

ある日、彼女たちの母親に、わたしの母が、「なんとか費」という、ちゃんとした名目で(名目、忘れました)、
すぐに返却するということで頼まれ、お金をお貸しすることになった。
当時のお金で20万円、けっこうな額だ。(半世紀近く前)

F姉妹のお母さんは、いつも、スーツをびしっと着て、胸には真珠のブローチをつけていた。
学校行事でしかお見かけしないので、家の近所のスーパーに行く時は、そんな格好はしないだろうけれど。
なにしろ、そういう服装で、恰幅のいい、がっちりした体格だった。
目のくりくり動く、表情の豊かな人、
当然、口もよくまわる。
行動派で、学校関連の役も、おそらく引き受けておられたのではないだろうか。

が、Fさんは、母にお金を返さなかった。
何度、請求しても返さなかった。
母もしつこく要請しただろうけれど、相手のほうが、大物で、根負けしてあきらめたようだ。

そこで、わたしは知った。
どんなに子供が素晴らしくても、親も素晴らしいとは限らないのだと。
F姉妹は、あっさり、さばさばしたタイプで、まっすぐ(見かけはそう見えた・・・)で、
素敵な姉妹だったが、自分たちの母親のそんな現状を知らない。
わたしは、知っていたが、F姉妹に告げることもなく、とても複雑な心境だった。

で、中学生の時に悟った。
見かけ、身なり、口・・・こういうものは、信用できない。
子供が立派でも、信用できない。

おそらくF姉妹は、そのまま、すくすくと育ったと思うが・・・。
わたしは、すくすくと育たず、あっちで、ごっつん、こっちで、ごっつん。
世の中の断片をいろいろ見た。

この話は、姉とわたししか、知らない。
世の中の誰にも言っていないので、F姉妹は、傷つくこともなく、美しい心のまま成長されたことだろう。

 


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うさんくさいセレブ美魔女

2015-07-23 | ブログ

あるSNSで美魔女のブログを見た。
50代。
顔や、全身、パーティ・シーンなど、写真をどんどんアップ。
他のSNSに開設している、自分のブログや会社をPRするのが目的とみられる。

彼女が、美魔女会(コミュ)を立ち上げたとか。
年収1億以上で、単なるお金持ちではなく、メディアでも取り上げられたことがあるのが条件だそうだ。

写真にアップされているように、帝国ホテルでのパーティとか、いろいろ、セレブや有名人が集うとか。

読めば読むほど、うさん臭い。
叶姉妹のミニ版か。

年収1億の業種は明かされていない。
夫が年収1億以上だとしても、なんか・・・どうも・・・本人の稼ぐ収入ではないわけで、
そんな条件を出されて、のこのこ参加する人も、ちょっとどうかと・・・。

自分より20~30才は若いBFを持つ友人マダムが多いとか。
友人のエピソードとして、
エーゲ海産のイケメンモデルとの、クラブなどでの熱い日々なども日記にアップしているが、
ますます、叶姉妹っぽい。

もうすぐ還暦にもなろうというのに、よほど、肉体と気が若いのだろう。
仮にあれが、ほんとうの話だったとしても(そうとう、眉唾ものであるが)、
羨ましいかというと、ぜんぜん、羨ましくもなんともない。

わたしの歩んでいる道とは、全然違うし、憧れもしない、
そんな日記をどんどん読み進めるのは、なぜか? 
偶然に近い、ちょっとした、きっかけがあって、読んだのだが、
いったい、どこまで行くのだろうという、興味本位。

美魔女で、お金持ちで、政財界の人に親戚縁者がいて、都心で遊び回り、・・・商売もし、・・・
デビ夫人っぽいイメージもある。

思いつくまま、業界職種を適当にあげてみると・・・
ハリウッドスター、プロ野球選手の家族会、ファッション・美容会社オーナー、ねずみ講トップ、ギャンブル系オーナー、美術・宝飾関連オーナー・・・
チャリテイ関係では、質素で実質的、実践家的な雰囲気を醸し出しているので、
自分の身ばかりをかまい、自分大好きギンギラ美魔女はあまり出てこないと思うし。
実業界では、美魔女ばかりが集うことはなく、男性社会の中に、少数派で女性が混じる程度だと想像するし、
ギンギン美魔女系は、パーティではコンパニオン系になってしまいそうだ。

が、どこが、わたしの「憧れではない」琴線に触れたかというと・・・。
ほんとうに、そういう人々は、自分の顔を出して、ブログにアップしない。
政財界の縁者とやらに、迷惑がかかるようなことは、しない。
顔を出すのは、売名行為で、商売に利用しようとする人だけだろうと思う。

虚栄、かさ上げ、イメージ作り、といった、実質ではない、ほんとうの中身で勝負するのではなく、
いかに、うわべを良く見せるか、で勝負しているように感じる。
あたかも、素晴らしいと想像させる、想像以上のものを想像させるが、
実は、見かけがマックスで、実態を明確にしたら、なんだ、そんなものかと、がっかりする可能性がある。
中身より、見かけのほうが良いので、見かけ以上のものは中身には期待できない。
というか、見かけと中身が同じなら、とても素晴らしいが、
見かけに全力をかけているので、必然的に中身は見かけより落ちる。


勝手に良いイメージをどんどん膨らませて、「スゴイ人々と、ごいっしょしている自分が、スゴイ!」と思い込む人がいる。

実際にセレブ生活っぽいものが好きなマダムたちはいる。
わたしは、ぷ~んと臭うおカネのニオイが嫌いで、参加しない。
ファッションにしても、身につける装身具にしても、経済力がないと纏えないようなものばかり。
安っぽい服で参加したら、しら~とした目で見られそうだ。
ちょっと、ふふん、と鼻で笑われ、軽い軽蔑の目。
あの人、場違いね、と。
自分が好きで着ている服、格好が、場にそぐわないとわかりきっていて、あえてそんな格好をするのは、明らかに快適ではない。
いくら信念をもってユニクロの服で参加しても、信念よりも不快感のほうが強いので、ユニクロでは行かないだろうけれど。
(ラフな格好で参加すると、格式ある集まりなどでは、TPOを考慮しないと、ある程度の年齢になるとイタイ)
というか、ユニクロであろうがなかろうが、そんな場は、窮屈である。

無理して、合わせようとすると、見栄を張り、背伸び生活になる。
余裕しゃくしゃくだったとしても、ライバル心とか、きっとあるだろう。
湯水のように使うのは、自分の稼いだお金なのか? どうやって、稼いだ? 
いったい、どういう職種?
それとも、棚ボタ式、親からの相続?はたまた贈与?
(自分で苦労して稼いで手にした金でなければ、お湯と同じ)

派閥みたいなものも出来たり。
そもそも、グループで群れるのは嫌いなわたしなので、セレブであろうが、ママ友であろうが、
集団行動は避けたい。

目一杯の現状を、すべて表に表す、あっぷあっぷのお付き合いは、わたしは、しない。

まあ、それは、セレブとは関係ないだろうけれど。
見かけや、行動にお金を、これでもか、とかけるのが、嫌い。
同じお金をかけるなら、人に見えないところでかけたい。
そして、人に見せるためではなく、自分のために、時間、労力、おカネをかけたい。

さらっと上質なオーガニック・コットンを着るとか、
デザインも、装飾性よりも、快適性や機能美を追及するとか、
宝飾品など、ごてごてせず、シンプルなほうがいい。
毛皮なんか、とんでもない。動物愛護精神に反する。
「美魔女」美よりも、健康美、こころの美しさが輝く美。

「政財界の親戚、知り合いがいる」と、自分の口から明かすようでは、
それこそ、信用ならない。
それで信用させられ、ろくでもないことに、利用させられたらかなわない。

子供が立派になっていても、もう成人になって、自分の道を歩んでいる場合、
その立派な子供の親だからといって、必ずしも立派だとは限らない。
妄信してはいけない。
自分の目でちゃんと見て、信用できる人かどうか、判断しなければならない。


ということで、セレブも美魔女も、自分で声高らかに、それを公言している人は、
わたしのポリシーに反するから、NGなのである。
自分で発信している時点で、終わっている。


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愛すべき欠点

2015-07-22 | 日々のこと

最近、自分で惚れ惚れするような名言、フレーズを発するのだが、
(あくまでも、自分にウケているだけです)
哀しいかな、公の不特定多数の場(ブログ)ではなく、
娘たちと、わたしのライン(=スマホのアプリ)だったり、趣味の仲間とのメールだったり、
「閉ざされた間柄の人々」とだけのものが多い。

そして、ネットやメディアで目にした、すごく素晴らしい内容の記事や文章に触れると、
またまた、娘たちとのラインで紹介したり、娘たちから紹介されたり、と、
これまた、閉ざされた中でやっている。

以前なら、必死でブログにアップしていたのだが、なぜだろう?
わたしのブログ、さして価値のないものだとわかったので、、
そういうものに一生懸命になる自分に、そろそろ見切りをつけているのだと思う。
直接、手ごたえがリアルタイムに実感でき、共有したい気持ちになるリアル人とやりとりする、
濃度の濃いもののほうにシフトしているのか。


ラインで、例えば、
わたしが墓掃除に行ったり、実家にお手伝いに行ったりする報告がてら、
「親孝行は、なにもすることがないときに、するものだ」
「親孝行は、自分にストレスがなくならないと、しないものだ」
と送ると、長女は即、返答をくれる。

「還暦前になって、やっと親孝行か」

このキツさ、辛辣、毒舌が、たまらなく気持ちいい。(わたし、M系か?)
他人なら、絶対に言わない。言えない。

べたっとした親孝行など、褒めたり、ありがたがったり、温度の温いものは、わたしは苦手だ。
確かに、ありがたいのは、あたりまえであり、親孝行はすべきものだ。

わたしは、親孝行とは、・・・自立して、親に倒れ掛からず、迷惑をかけないことだと思っている。
だから、べつに何もしなくても、自分のことだけしてくれたらよい。
元気に前向きに暮らしてくれたら、それが親孝行。
余力があれば、気が向いたら、親孝行してくれたら、それで十分だ。
自分にストレスがなく、そして、なにもすることがなくなった時で、よい。
それにしては、遅すぎる、と、長女に言われてしまったが。

たま~に、ちゃんと生活しているよ、という一片が実感できるような交流を持つぐらいでいい。
親が大ピンチに陥れば、それは出来る限りのことをしたい(されたい)とは思うが、
一番の親孝行は、自分が大ピンチに陥らないことだ。

自分が先。
それから、親。
自分を置いてまで、親に尽くす必要はないと思っている。
親より早く死なないことが、親孝行だ。

なので、子供たちを見ても、やいやい、がんがん言う気持ちは全くない。
母の日プレゼントや、誕生日プレゼントなんか、なくてもよい。
もらったら、もらったで、ありがたいけれど。

ずっと前に、「あんたは、母の日に、なにも送ってこない」と、母にクレームを言われた。
気が向いたら、贈ったりしたが、あくまでも気が向いたらであって、機嫌をとるつもりは、さらさらない。

親孝行を子供に強制するなどとは、もっての他だ。
娘に、母の日プレゼントを要求するなんて、わたしには信じられないことだが、
おそらく、母は、姉や、他人さんからもプレゼントをもらっていたのだろう。
で、それに比べて、あんたは・・・となったのだろう。

ちなみに・・・
母のことを書くと、愚痴が堰を切ったように、どどどっと出てくる。
なんで、だ?
その、気に入らない母に、最近、わたしは、とてもよく似ていると感じ、ぞっとする。
行動が似通ってきている。
歳をとると、似てくるのか。
反面教師になればいいが、そのものコピーだとしたら、もっとも、わたしの理想としない、アンチお手本である。

娘たちも、きっとわたしのことをそう思っていることだろう。
おばあちゃん(母)に似てきた、わたしに、そのうち似てくる娘たち。

人生には、見本が必要だ。
お手本でなくても、反面教師でもいい。
たたき台があってこそ、修正したり、磨いたり、議論は深まる。
愛も深まっていく。

愛すべき欠点である。

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オトコたるもの。

2015-07-21 | 日々のこと

オトコのようで、オンナのようで、よくわからない、わたし。

年々歳をとると、男性は女性化し、女性は男性化して、中性に近寄ってくるようだ。
ホルモン減少・現象。

ジェンダー(社会的性)をとやかく言うくせに、ゴキブリをつぶせない家人(男性)たちを、
オトコのくせに、なんだい!!と、思ってしまう。
理論と感情は、別枠で同時に働くのか。


目の前にゴキブリが現れた。

バシッと新聞紙をまるめて、ゴキブリめがけて撲滅大作戦に、わたしは即効、取り掛かろうとした。
オトコは、「噴霧タイプの殺虫剤は、ないのか?」と、上司が部下に指示すかのごとく。
今から探せと?

はあ? 悠長な。
そんなもん、探している間にゴキブリが逃げるじゃないの。第一、家に無いし。
1匹見つけたら、100匹ぐらいいるって、こと。
最初はエアコンの陰に隠れていて、さらに、壁を這って、つつつーと移動するゴキブリ。

オトコは、噴霧殺虫剤がないなら、ベストを尽くしようにも無理、とばかりに、臨戦態勢から、ちゃっかり降りている。
現場の部下に丸投げ。
台所の椅子を持ってきて、それに乗り、くるめた新聞紙で、バシッと・・・叩こうと思った直前、
「おい、おい、そんなことしたら、飛ぶぞ」

「なに、言ってんよ。飛ばないよ」
と、わたしは、力の限りを込め、ばっし~んと壁のゴキブリめがけて、振り下ろした。

びゅー~ん。

ゴキブリは、空中遊泳より、もっと速い、・・・なんだろう? ジェット飛行?
あんまり変わらないなあ・・・。第一、そんな単語はあるのか?
なにしろ、飛んだのだ。

わあっ。

飛んだやないか、云々かんぬんの議論は、明後日するとして、
(壁から45度の角度で)飛行した後に、ソフト・ランディングした床を見てみると、
やはり新聞紙・打撃を受けて、弱っているゴキブリが、もぞもぞ動いていた。

「さあ、ここからは、オトコの出番かな?」
そう言うと、オトコは、「こんな状態なのが、一番キライや」
とノタマウ。

バシっとつぶしたとして、つぶれた出たものをどう処理するつもりだ?
と、そんなことは、もう自分の仕事の範疇からは完璧にはみ出てていると、オトコは逃げた。

オンナは、案外、無常、冷徹、・・・グロに強いのかも知れない。
弱るゴキに最後の一撃を与え、新聞紙の先で、庭にほうり捨てた。

 

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つぶす?

2015-07-17 | 日々のこと

久しぶりに、昔の古巣に行ってみた。
あ、これ、他人さまのブログです。
そこには、少し、老いた彼女が、静かに佇んでいた。
彼女を崇拝するファンの一人である人のブログにも行ってみた。
ああ、わたしには、ちょっとキツイなあ、と。

精神世界、うっぷ、となってしまう。
出口のない、厳しい世界を根掘り葉掘り、掘り進んでも、体力や気力が消耗するばかり。
羨望、焦燥・・・劣等感・・・
もう、いいか~、この言葉は。

卒業するのではなく、パスします。するっと。

今は、老化の波に、サーファーのごとく乗りかけている。
波にすいすい乗っても、いいことは何もないが、自然の摂理なので、まあ、受け入れるしかない。
哀しく受け入れるよりは、堂々と開き直って、受け入れたほうが、精神衛生的には良い。
じたばた逆噴射して、美魔女になってみたところで、暑苦しい。(なってから言え、と神の声)

おんぎゃ~と生まれたからには、老いは必ず訪れ、死に向うのは、抗うことのできない摂理なので。

じつは、いいことも、あるのだ。
それは、老いて頭が、そうとう、ぼんやりしてきている、元は賢い人々が、
もともと、ぼんやりしているわたしに似通ってきて、その自分の惨状に、めちゃくちゃ悔しがっている姿を見ると、
わはははは・・・という気になって面白い。
愉快なのである。

あら、忘れたの?(わたしは、もともと覚えてないけど)
いくら頭脳明晰でも、歳には勝てないね~。

なんて、頭脳明晰の人に、ぽろっと言ったら、ムキになってアタマから火を吹く。
でも、人のプライドを根っこから、ズタズタにする権利はわたしにはないので、
いじめられた人に対してだけ、お返しをすることにしている。


さて、ここからは、
書いて発散する、最近のミニ・ストレス。
読もうとお思いの方は、スルーをおススメします。

ある、二人の人(Aさん、Bさん)と別々の時間に話した。
二人とも、自分のことばかり話して、こちらが話すタイミングを見つけるのが大変。
わたしはべつに聞くだけでもいいのだが、Aさんとは、話を進めなければいけない事案があったので、
頑張って切り出そうとするが、なかなか糸口タイミングをつかめない。
ずっとずっと自分のペースで話されると、待ち時間が長すぎて、いらっと来る。

Bさんは、どうも耳が良くない。
いちおう、わたしが話していても、賛同の声しか、拾ってもらえない。
耳のセンサーが、そうシステム化されているんだろう。
話題があって、掘り下げて話していて、「わたしの場合は・・・」というところになっても、
まったくキャッチしてもらえない。で、あきらめる。
興味ある共通の話題で、自分も同じ活動をしていても、なぜか聞く一方となる。
興味ない話題ならともかく、中途半端で不完全燃焼の思いが残る。


ちなみに、
小さなストレスのほうが、ストレスの原因になるそうだ。
上記のストレスは、別にたいしたことはないが、カンに障るストレスというものがあって、
ピンポイントで、その部分に障ると、わたしの神経が痛がって、痛がって、(マイナスのほうに)ビリビリくる。
触れない、障らない、見ない、聞かない、考えない、・・・と、消極的対処で、逃げる。
根本的根絶、モトの根を絶つのは、あきらめる。臭いものに蓋をして、お茶を濁す。

しかしながら、分析や理論的解析が行われ、原因がわかったとしても、
誰が悪いとか、善悪がはっきりしないような、理屈では解決できないような、
そういう小さなストレスの積み重ねは、意外と、こたえるらしい。
悪者がハッキリしていて、勧善懲悪的ストーリーのほうが、わかりやすい。


・・・話は変わりますが、

ヒマのつぶし方は千差万別ある。
つぶしている間はさほどでもなくても、つぶしたあと、虚しい気持ちになり、後悔するかどうかで、
わたしは、その時間の充足感を判定する。
「つぶす」という時間の取り組み自体が、すでにスタートから、終わっていると感じる。
つぶす時間など、一秒もないはず。
よほど嫌なこと、過酷なことを強いられている場合は、一秒でも早く過ぎてほしいと思うだろうけれど。
与えられた時間は、だいたい、夭折したり、アクシデントがないかぎり、ほぼ平均年齢の持ち時間。

どう捉えるか、どう取り組むかは、各自、まちまち、自由である。

 

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ヒマ人の逆切れ

2015-07-16 | ブログ

ヒマな層、人々は、確実に存在している。
そのボリューム・ゾーンは、一日の大半を自分のために使っている。

ヒマというのは、時間がたっぷりあることだ。
自分の時間が確保できる、というと聞こえがいいが、ヒマをもてあましている場合が多い。

膨大な自由時間を「有効に」使っている人は、おそらく、あまりスマホやら、パソコンにかじりついていたりしない。
1時間以上(だったか?)、インターネットでうろうろしている人は、依存症だそうだ。
もし1時間なら、わたしも依存症になる。


無職。
これは、仕事をしていないということ。
仕事のために費やされる時間がないと、膨大な時間を確保できる。
というか、時間が余る。

仕事をしていない状態にも、いろいろある。
リタイアした人々も、その中にもちろん入る。
専業主婦も。
失業中、仕事がない人も。
仕事をしたくない人も。
したい仕事しか、しない人も。
病気やなんらかの事情で、仕事ができない人も。

どの国も、失業率で、国の、ある一面の実態が浮き彫りにされる。
ちなみに、この失業率は、気に入った仕事しかしない人のことは、カウントされているのだろうか。

とにかく、仕事をしていないと、育児や要介護の家族でも抱えていない限り、ヒマである。
退屈。

退屈との対峙は、各人、いろんな方法で取り組まれているようだが、
インターネットは、もっとも安易で手軽なお遊びとなっている。

と、じつのところ、ここまでが、今日の記事の序章、リード部分である。
じつに、じつに長いのが特徴だ。
さて、ここからが、本題。

 

わたしの参加している「ブログ村」、各カテゴリーの閲覧数(ブログ村のポチ、INやOUT数)を見てみると、
時間がたっぷりあるだろうと思われる人々の参加するカテゴリーの各ブログは、とてつもなく閲覧数が多い。
他のカテゴリーと同じような内容、濃度、質でも、桁が一つや、二つ、多い。
とりわけ、特段、極めて稀で特異な内容でもない、普通の一般的な場合であっても。

まあ、それはそれでよかったね、の話であるが。
その中で、今日、はじめて読んだブログがある。
夫との生活を嘆く主婦の愚痴ブログだが、おそらくこの夫は、モラルハラスメントの加害者にあたると思う。
部分的に感情移入できる記事もいくつかあり、なかなか興味深い内容に惹きつけられ、次々記事を読んでいった。
が、どんどん読み進み、何箇所かのところで、ぴたっとわたしの感情が止まってしまった。
と同時に、クリックする人差し指も止まった。

記事内に時々入る、商品の詳細。(広告が大きく、べたっと貼り付けてあるものではありません)
記事と思って読んでいると、自然な成り行きで広告に飛んでいく仕組みのパブ広告。

記事は、薄々で、「いかにも広告目的」というブログは見え見えで、読まないが、
今回のブログは、そうとう巧妙だった。
内容がよかっただけに、落胆も大きかった。
一回目の広告登場には、それまでの記事が、まじめな内容だっただけに、
ふう~ん・・・よほど、ご自分のおススメのお気に入りグッズがあるのね、と思っていたが、
二回目の記事を発見すると、こころのシャッターが下りた。
落とし穴が、突然、ぽっかり口を開いていたので、その不意な仕掛けに驚いた。
(このブロガーさん、文章、上手だし、うまく利用すると、資本主義経済は、うまく回る・・・
能力と時間と趣味を活かして、お小遣い、欲しかったのは、わかるけれど)


自分の人生時間は無限ではない。
ちょっと目に留まり、わたしの時間を少しでも割き、ほんの短い間でも興味深く読んだ。
それは、無駄ではない時間だった。が・・・。

あのブログは、もう二度と読まない。
惜しいブログである。

 

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貴重な時間、返せーと言いたい気分。。。。
いい線いきそうだった、お気に入りの人にフラれた人が、
「プレゼントや、飲み食いに使ったカネ、返せ~」と、
悪態をついている風か。

 

 


後味、悪すぎ

2015-07-15 | 日々のこと

インターネットって、すごいです。

良いものから、良くないものまで、天文学的な数が、存在する。
ここ1時間、良くないものばかり、ずっと閲覧した。

家の中で、外の世界にも接せずに、一日中、年がら年中、こんなことをやっている人がいたら、
そりゃ、おかしくもなるだろう。

わたしとて、ごく稀にそういうものもの(ネット)に、接したい時があり、延々と見続ける。
ああ、ゲップ、不味いものを見続けた後の、後悔、後味の悪さ。

だいたい、なぜ、さして暇でもないのに、そういうことをしたがるのか、
自分の感性、感覚。
早急にやらねばいけないことをほったらかして。

きっと、バランスを取っているのだろう。

自分の理想とするものをもっともっと明確に、焦点を合わせたいのだろう。
余計なものをそぎ落としたいのだろう。
良くないものに接して、ほんとうに、良いものをこころの底から求める、そういう心境か。

良い、良くない、は、定義が広すぎるので、各人のお好みで、判断してください。

 

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