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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

自分の集大成

2025-03-31 | 
今回の記事はココから※まで、全文、スクロールをオススメします。
超個人的、忘備録なので。
実母の好みは、、、
和風の場合は、京都風。
料理で和食の味付けは、上品なダシが効いた薄味仕立て。
設えの場合は、織物にこだわりのアクセントを付ける。
生け花の場合は、自然派。自然のままの形を活かしたシンプルな活け方。
西洋の美しい調度品も好む。陶器も。
どっしりした骨太テイストではなく、繊細なかんじ。
細いピアノ線が入った強さを持つイメージか。
山小屋カントリー風や、囲炉裏を囲む風ではない。
テカテカ、ゴテゴテは、NG。
好きなテイストを自分の感性で寄せ集め、調和させ体現していた。
美のイメージ空間を創り上げていた。

姑は、全然、設えや調度品には興味なし。
(舅のほうが、買い増ししていた。ただし、わたしとは微妙に趣味が合わない)
姑は理解や知識は多少あるけれど、自分で積極的にどうこうしない。
棄てないが追加しない。現状維持。
(一般的な普通の)骨董品や芸術工芸品は、知った上で保管しているだけ。

だが、わたしが古い物が好きだということで、姑に喜ばれた。
まるで興味がなければ、棄てるか売るか、断捨離対象になるだろう。
ただ、残念なことに、、、こう言うと槍が飛んで来ると思うが、、、容れ物(家屋)が理想には及ばない。
理想を叶えたいなどとも思わないが。
飛躍せず、在るものを活かす主義。

今、わたしの実家から譲り受けた家具を夫の実家に運び入れている。
(中華とマレーの融合、マラッカみたいに)東洋文化の融合なら素晴らしいが、とんでもない。
わたしを軸にして、主体的、能動的に選んだのではなく、中継地点として、受動的に仮置き、受け入れているだけ。
両方、純日本風なので、大きな違和感はないが、どこかマッチしていない。
拒絶反応を起こし機能麻痺しているわけではないにしても、
バリ風とタイ風をごっちゃにしているようなものか。(詳しく知らないけれど)

夫の実家は、閉ざされた歴史ある地域にあるため、ヒトやモノの大きな動きがない。
夫の実家だけかと思いきや、同地域の各家々もそう。
どの家も同じような古い歴史を持つ。
何百年も、直接戦禍や自然災害に遭わなかったからだろう。

姑に喜ばれたように、わたしは歴史を感じる古いものに愛着がある。
歳が行くと、その想いは益々強くなるように思う。
経年劣化という否定ではなく、(自己)肯定、経年持ち味。
先代の人々が、確実に、着実に生きてきた暮らしの証を感じる。

実母が自分の感性で、自分好みの美空間を創り上げたように、わたしの実家からわたしを中継ぎに、文化の橋渡しだったり、融合だったり、そういうものを創りたい。
(ただし実母の場合は、並々ならぬバイタリティと、力と、意志と、ある程度のオカネが動かせるが、わたしはそうではなく、しょぼくれている)

て、大袈裟だけど。どの口が言う?
読んで恥ずかしくなった。
相変わらず、いつもの如く、言うだけかも?
単なるブログ語り?
知らない人が蝶ブログを読んだら、いったいどんな素晴らしいものなんだろうと想像されると思うが、わたしの表現が、主観の世界観をあたかも客観的にも壮大な立派なように取られかねない、まぎらわしい書き方をしているだけ。
すみません。

実母もそうだが、次世代を意識して、というわけではない。
自分がしたいようにしただけ。
わたしも、そうなりたい。
何もしたくないなら、何もしない。

しかしなあ、、、
実家に置いてあった家具は、実家に置かれてこそ、存在感、優美さが際立つ。
チルチルミチルの青い鳥のように、青い鳥を自宅に持ち帰ると黒い鳥になる。
実家の家具は、夫の実家に運び入れたら、黒い鳥になっている。
この黒い鳥は青い鳥には出来ない。
しかし、青い鳥は、黒くなっただけで死んではいない。
ではあるものの、あちこちから引っ張って来た元・青い鳥🟰現・黒い鳥が、家には、いっぱい。
どうすればいい?
迷い物、保護センター化か?

これは、70歳からスタートする(予定の)断捨離で、どうにかするしかない。
出来るか?わたし?

してもいいし、しなくてもいい、
出来てもいいし、出来なくてもいい、
でも、緩やかな目標が出来ていい。
期限のない、自由度の高い、相手のいないタスクは、無いより有るほうがいい。

※写真は、寒い昨日、近場の桜。
まだ五分咲き??



人生の先輩たち

2025-03-29 | 老い
今日は毒吐き、膿を出します。
こころの断捨離です。
あくまでも、個人的範疇、、、です。
なので、ここからは文末まで全スクロールをお願いします。
強く強くオススメします。

そう書いたら3分の2ぐらい、毒を吐いたような気になった。
早く書きたくて、淹れたばかりのコーヒーを急いで飲み干した、、、ら、するとまたまた毒が残り少なくなっていた。
がぶ飲みコーヒーで少し溶けた?

今朝、起きる時に、起きようか起きまいか、少し迷った。
このまま寝ていてもいい。
しかし、寝過ぎは認知症を誘発、助長するらしいので、眠気が完全になくなるまでは横になり、色々思い浮かべながら、おもむろに起き上がった。
別に起きる必要はない。
そうやって、ずっと永遠に寝続けてもいい。
起きるからには、何か理由があるのだろう。
というか、起きない理由がない。
コーヒーを飲まないとね、、、

姑が頭に浮かんだ。
あんなに、よくしてくれた姑。
本人が意図しない、望まない、人生の終わり方を目の当たりにして、複雑な心境になった。
皆、最期は似たり寄ったりではあるが、終わりは同じ。
骨になり灰になる。

だが、姑は幸せである。
ほぼ思いの丈をわたしに吐いた。
自分の人生を提示し、「後は頼むね」と、わたしに託した。
時代が移り変わるその狭間に、姑も生きた。
嫁姑のバトルはない。
代々、家族は仲が良い家らしい。
幸せのループの一員に加えてもらい、有り難く思う。

あれ?
毒を吐くんじゃなかったのか?
予定は常に随時、変更される。


夫。
古い頭の持ち主。シーラカンス。生きた化石。
死んでも治らないので、そのままそっとしておく。
妻たちは、夫亡き後、夫の良さに今更ながら気づく。
わたしの周りの妻たち(実母、義母)は、皆そう言っている。(サンプル2つだけ、、、少ない実例抽出)
もう敵ではないので(邪魔もされないし)美化されるだけ、という側面もある。


姉。
頭カチカチ人間。カチカチ山の狸さん。
古い慣習に風穴を開ける実行力は、持っている。
頭脳プレイヤー。
実利面では、実践、行使。
が、精神面では古い価値観を全面に出す。出し通す。
良いとこ取り。
そうやって時代は進む。


わたし。
プレ認知症。
他人は気づいていない、自分だけが知る、認知機能の衰え。
いずれ周りも知ることになるのか、今のままで進行せずに食い止められるのか。
とかなんとか、、、わたしの場合は、若い頃から超天然なので、誰も気づかない。
わたしのミスに気づかないのではなく、わたしがミスしても、昔からの、いつものことだと認識される。
進行しても、気づかれない。
これは嬉しいことか、悲しいことか。
よくこれで、学業や就労、子育てをこなすことが出来たものだと、我ながら、ひやひやする。
と同時に自分を褒めてあげたい。
ご苦労様。労いの気持ち。
これからは、好きなだけ、めいっぱい制限なくボケ放題できる。
が、焼肉食べ放題も時間制限があるように、節度をわきまえて、、、。


ご近所さん。
蝶ブログにも何度か登場する、ご高齢女性。
姑の古くからのお知り合い。(わたしは44年前から知っている)
わたしが出かける時は、必ずこの人の家の前を通る。
昨日、彼女のお宅から大声が聞こえた。
「コーヒー!!」
たぶん、息子さんの声。
彼女は最近、耳が聞こえないから、息子さんは耳が聞こえない事実は認識しているものの、感情がまだ追いついていないのだろう。
無理ですよ、息子さん。
わたしは、とっくに諦めている。
彼女とは会話は一方的。相互は、不可能。
耳が聞こえなくても、それまでと同じ行動をなぞってリピートしている分には、問題は露見しない。
アクシデントでもない限り。
補聴器を付けたほうがいいが(認知機能低下を促さないためにも)、彼女の性格からすると、説き伏せ、納得させるのは大変そう。
息子さんが同居しておられるので、生活面では安心して任せられるが。

ご近所さんたちは、ポツリポツリと姿を消して行く。
施設に入ったり、あの世に行ったり。
時はゆっくり流れていく。
これは、愚痴や毒吐きではない。

ちなみに。
4年前からの友人が、やっと年齢を明らかにした。
いくら聞いても「同年代です」と答え、今まで絶対に口を割らなかったが、、、
期待せずに「何年生まれ?」と力まずさらりと聞いたら、ぽんと、すれっと、すんなり、いきなり答えが返ってきた。びっくり。
わたしより6歳、上。
これは同世代ではあるものの、はっきりわかるとなんだか、感慨深い。
そうか、、、なるほど、、、と、妙に納得した。

別のある知人?(友人?)は、なんとわたしより16歳も上だということが、去年わかった。(知り合って、なんと19年目に)
他にも、わたしが70代だと思っていた人が、80代だと先日わかった。
実年齢よりも、生き方が年齢を作る?
元気な人生の先輩たち。
最期はさておき、それまでが大事。


今だけの黄金凸凹コンビ

2025-03-28 | お出かけ
「付き添い」という名の、被引率者(引率される側)である、わたし。
春休み、1番上孫Yとのお出かけが計画されつつある。
彼は塾の予定が連日、ぎっしり詰まり、中学入学式まで、あと数えるほどしか自由日はない。 
志摩スペイン村や地中海村に、また行きたいと言う。
だが、泊まれないから、日帰りで毎日、訪れるのはどう?とわたしが提案したところ、却下された。
往復の電車代のほうが、高い、とのこと。
確かに。
時間も労力も2倍かかる。
しかし、宿泊は考えていない。
大人一人、子供一人だと、簡単に予約出来るが、かたや、多人数や、子供が多い家族だと、なかなか希望するホテルが取れないらしい。(長女からの情報)
とは言え、日帰りにするかー、という流れになって、そう遠くない場所になりそう。
孫Yは、前、時間の都合で入城出来なかった彦根城に行きたいと希望を口にする。

「せっかくの貴重な自由時間、一人で好きなところに行きなさい」と孫Yが親に言われているところに、わたしが割り込んだ。
「ばぁちゃんも、行く!」

この「行く!」には、
「着いて行く」なのか、「一緒に行きたい!」なのか、はたまた、普通に、たまたま気分的にノリで「行く」なのか。
どれもだろう。
孫Yもわたしも、(平日に)一緒に行くような友達がいないので、渡りに船。
孫Yは、近所の野球グランドでキャッチボールをする友達はいるが、城めぐりや、乗り鉄、テーマパーク旅行に行く友達はいないようだ。
わたしも、ブログ仲間ならいるが、リアル友人は、ごくごくほんの少数、、、というか、いないに等しい。
友達と協調し合って共同作業的に事を進めるか、はたまた自分一人で行動するか、その後者である我々孫婆コンビ、オタク同士。
二人は凸凹、割といい味、出していると思う。

孫Yは、日頃は家族で思いっきり旅行しているので、そろそろ一人で行動してもいい年頃。
そう、両親(長女夫婦)にも背中を押されている。
が、まずは、初めて自転車に乗る時でも補助輪付き。
一人旅も、とりあえず、ばぁちゃん付き。
ばぁちゃんは、一人旅となると、最近の認知機能低下(人名等、固有名詞がなかなか出てこない)を認識して、自信喪失になっている。
これは、認知機能が衰えている(自分比)ことを自分だけが気づいているのは、主観的認知機能低下(SCD)という段階らしい。
だが、脳がちゃんと発達している孫となら、心丈夫。(人生経験は、わたしのほうが、断然豊富)
発展途上と、衰退途上のコンビ。
珍道中とまではいかない、大人しいコンビである。
まさに今しか成立しないコンビ。
瞬く間にバランスが崩れてコンビ解消になる日は、すぐそこ。
今を大切に楽しみたい。

※写真は記事とは関係ありません。
先週、わたしと孫Yが大阪城に行った3月19日は、ゆず、大阪城ホールでコンサートだった様子。

分裂しながら同時進行

2025-03-27 | わたし
またまた昔語り。
年を取ると楽しみは、コレ。思い出、語り。

わたしは男女共学の高校に通っていた。
高校3年の時は文系女子クラスだった。
文系女子だけのクラスは2クラス。
卒業後の希望先によって振り分けられていた。
当然、理系女子もいたが、人数が少なく、理系男子と混合クラスに入れられていた。
理系男子だけのクラスも2クラスあった。
文系男子もいたが、女子と混合クラス。
女子の文系が圧倒的に多い。

で、わたしは理数系は、とんと苦手。
てんで、わからない、ちんぷんかんぷん。
だが、教科書に沿った、教科書通りのやさしい数学の定期テストは100点。
理数系クラス向けに作られたテストなら、たぶん点数は一桁。
それだけ、理系と文系では開きがあった。
文系は数学には凄く下駄を履かせてもらっていた。
へんに、試練を与えない。
国立大学や私立理系を受験するなら、そういうわけにはいかないが、私立文系は、数学が必要なかった。
(私立理系でも数学が必須でないところもあったかも? 自分には関係ないことは、あまりよく知らない)
文系の生徒には、在籍中ぐらいは苦手な数学も良い思いをさせてあげようという教育側の配慮だろうか。
全く100点には信用しなかったが。
取って付けたような点数に、かえって不信感を抱いた。
カンニングしたわけでもないし、白紙で出したわけでもないので、嘘の偽100点ではないにしても、、、。

私立文系は、受験科目が限られていて、さほど勉強しなくてもいい代わりに、差が出ない。
しのぎを削る。

わたしは理数系が苦手過ぎて、理数を捨てた。
親が出した更に難易度の低い安易な受験選択肢に飛びついた。
文系のみの受験科目から、サボり故に、どんどん科目数を減らした。
このサボり選択が、それからの道を決めた。
人生進路の選択肢を狭めた。
身から出た錆。自業自得。
ハードルを下げたしっぺ返しは、後にブーメランとなって、跳ね返ってきた。

やがて、自分は女性である弱みは、強みであると変換した。
だが、それも後々、自分を窮地に追い込むことになった。
さらに、一生懸命、頑張っている人を尻目に、置かれた立場を生かす道を選んだ。
ハードルはほぼなく、バリアフリー状態。
逆境の逆。順境。
読みでは、プラス➕プラス🟰プラスのはずだったが、マイナス➕マイナス🟰どっちもどっち、、、
となった。
シナリオ通りには行かない。
時代の波は、走って渡る後ろから桟橋が壊れ落ちる勢いで覆い被さる。

自立心がない母親(わたし)に育てられた子供たちは、なぜか不思議に自立した。
これは、今もなお摩訶不思議。
反面教師と、時代の流れだろう。
運が良かったとも言える。感謝。

自分自身に対しては、理想と現実が乖離している。
融合も調整も無理。
しかたないから、理想と現実の二本線、並行のまま進む。
もともとそういう性質が潜在的にあったのかも知れないのか、友達がいない分、途中からはブログに支えられながら、さほど難なく違和感なく、今日まで自分を支え持ち堪えることが出来た。
脳が益々衰える、これからはわからないが。
心友、ChatGPT のお世話になりそうだ。

角が取れてツルツルに

2025-03-26 | 老い
本来の自分に、適応する場なんかない。
多くの人はそういう悩み、ジレンマを抱えて社会生活を送っていると思われる。
バランスを取りながら、修正しながら、どうにかやって行く。
試練の場はいくつもある。

やがて角が取れて、まんまるの石になり、ついでに認知機能まで徐々に失われている。
つるっつるの脳みそ。

最近、認知機能が衰えていると実感する場面がたくさんある。
特に外に出て、人と話したりすると、自分がいかにボンヤリしているか気づかされる。 

例えば、昨日。
パン屋さんのレジで、「レジ袋は要りますか?」と聞かれたのに、はっきり耳に聞こえ理解できているのに、なぜか返事をしないでいると、もう一度「レジ袋は要りますか?」と聞かれた。
はっとして、「スミマセン、スミマセン! 要りません」と慌てて答える。
昨日は、そのベーカリーはLINE会員5倍ポイントデー。
レジの自分の順番が来て、スマホで自分の会員バーコードを提示し、QRコードを読み取り、ポイントを得る作業に気を取られていて、返事をするのを怠ったのだろう。
一度に同時タスクが処理できない。
スマホ、モタモタは、心臓によくない。
後ろに人が並んでいると、なおさら。

先日も処方箋を持って院外薬局で薬をもらう時に、マイナンバーカードで、モタモタ。
あれ?作動しない、、、なんで?
という瞬間があった。
かざす場所がズレている? 向きが間違ってる? 逆さ? 左右反対? 裏表、反対?
あれ?あれ?あれ?

マイナンバーカード、読み取り機の前でモタモタ、、、こういう高齢者は多いらしい。
駅の切符自販機前でも、あれ?あれ?あれ?
おかしい、、、と、奮闘、格闘されている。
駅のホームや改札口の前では座り込んで、カバンの中を大捜索。
他人事ではない。
明日の自分。今日の自分。
のどかな光景だと受け止めてほしい。

ついでに、、、(スマホ人差し指が止まらない)
飲食店でのオーダーは、各席QR読み取り注文になっているところが増えている。
70代の人と一緒に行くと、彼らは自分では絶対に操作しない。
わたしがすることになる。
なんでわたしばっかり、、、と不満でも匂わせようものなら、大きな声で店員さんを呼びそうになる。
なので、いつも、わたしが操作する羽目になる。
彼らは、ある時点で脳がフリーズすると思われる。
明日のわたしだ。
いや、学生時代からその片鱗は確実にある。

※写真は、大阪城公園内のコンビニ。
蒸気機関車の車両、設置の後に、コンビニが出来たよう。








懐かしいあの頃

2025-03-25 | 思い出
近々、わたしの中学時代の同級生たちが、わたしの実家にやって来る。
男子、3または4人。
当たり前の話だが、彼らはわたしと同じ歳。
一人は東京から、一人は神戸から、一人は播州の、のどかな地から。
もう一人は、どこから来るのだろう?
参加はまだ未定。

去年の夏、中学同窓会があった時に、わたしがそのうちのリーダー格の一人に実家状況を報告したことで、端を発した。
興味を持ってくれた。
もう一人の別の同級生にも話したら、たまたま彼の現在の研究テーマと重なり、アドバイスをしてくれた。
彼にもぜひ来ていただきたいのだが、連絡先を直接知らない。それに彼は広島在住。
今度来るメンバーに聞けば、連絡先はわかると思うが。
いつも同窓会を計画する幹事的な面々なので。
でも、聞くかも知れないし、聞かないかも知れない。

地方創生、インバウンド対策、グローバル・マーケティング、、、
小さな一個人には大袈裟だが、行政と企業もタグを組み、協力し合えたらいいなあ、、、と。
話は、ちょこちょこ来ているようだが。
だが、もし、行政や企業に見捨てられても破綻しないよう、頼りきらず自力で自分たちだけで運営出来るよう、決して大きくせず、minimumで小さなことをコツコツと、、、が理想的指針。
自立を基本に進めていく予定。
とかなんとか、わたしは蚊帳の外なんだけれど。
口は出さずに外から応援するのみ。

ちなみに、わたしは、今年2月に行われた高校の同窓会には顔を出さなかった。
高校はパス。スルー。
わたしは、死んだ魚の目のようになっていた時期。
その点、中学時代はプレッシャーもすごかったが、生きている実感を味わった。
自分の人生の中で1番イキイキしていたのではないだろうか。
次の荒んだ高校時代を経て、その後の花よ蝶よの、ふわふわ竜宮城時代もあったが、やはり基本は、シンドイ目をした、小中学時代。
あの時代がなければ、今のわたしはない。
何かあれば、原点に帰る。

小学校高学年から中学卒業までが、わたしのコア、核を作っている。
もうじき古希になろうというシニアが、遠い目をして思いを馳せるのは、滑稽かも知れないが。
多分わたしの知能面ではピークだったのだろう。
その後、良い恩師に巡り会い、導いてくれたなら、素晴らしいサクセスストーリーの完成なのだが、、、
残念ながら、わたしの不徳の致すところで、せっかくの良い恩師を敵対視し、自業自得の流れになった。
張り詰めた糸が切れ、崩れるのは、一瞬だ。
夫もそうなのだが、天性のものだけを維持する努力はするが、それ以上は頑張らない。
最低限の努力のみ。
料理でいえば、塩胡椒のみ。
必要なら火を通すこともある。

今、思えば、夫婦で似ている。
だめだめ夫婦だ。苦労が足りない。ぬるい。
だから相性が合わないのだろう。

と、話は逸れている。
まあそれはそれとして。
小学高学年の暗黒時代を過ぎ、中学時代は、緊張感を持ち、張り詰めて時を過ごしていた。
ちなみに、野球部エースだった親戚のお兄さんが、いつも中学時代の話をイキイキ自慢げにする。
勉強もスポーツも出来て、モテモテだったんだそう。
やがて高校に進学すると、まわりは秀才ばかりの中で埋没。
よくある話だ。
未知のポテンシャルがある未来に向かって羽ばたく時期。
もちろん頭打ちなど夢にも想像せず。
何かに打ち込んで努力している時代は輝かしい。
わたしの場合は、高校以降は、伸び切ったゴムのようだったのかも知れない。
自分の能力に早々と見切りをつけた。
サボり気質は昔から。

どんな子とも互角に全力で頑張り合った時代が懐かしい。
後にも先にも小学高学年から中学卒業までの、その6年間だけではないだろうか。
その後、余生は延々と今も続いている。


匂いを振りまく、大アピール

2025-03-24 | ブログ
昨年、ご主人が急に亡くなり、未亡人になった50代、セレブ美人女性。
わたしがたまに日記を書いている、あるSNSでお見かけした。
塞ぎ込む日常から気持ちを切り替えて、交流を求めているとか。

未亡人になってから書き始めた、その日記を拝読すると、セレブ生活が浮き彫りになっていた。
あんなに生活環境をさらすと、変な人が、悪いことを企んで寄って来ないかと、他人ながら心配する。
老婆心。

ひょっとして、その未亡人こそが、未亡人に群がる男性を騙すためのオトリだったりするが、、、。
書き手は女性ではなく、男性かも知れないし。
SNSの世界。
わたしは、信用していない。
特に、出来すぎた話は。

ただ、コメントにリアリティがあり、なかなか現実的なので、信用してしまうかも。
実在の人物でなければ知り得ないことなども随時、アップされていて、リアルタイムにコメントもやり取りされている。

ハッキリ明確なことは書かなくても、だいたいアウトラインはわかる。
わざとなら、巧妙な作りだが、無意識なら、無防備すぎる。
よほどセキュリティに自信がないと、危ない。

あるいは、ひょっとして、美人局かも知れないし、一般ユーザーも安易に信じて、のめり込んだら痛い目に遭う。
お互い、危険がいっぱい。

話がよく練られて構成され、文章スキルが高いと、それなりのことは出来そうだ。
が、手の込んだ詐欺やロマンス詐欺もありえる。
自分を多くの不特定多数の人に向けて発信するには、注意が必要だ。
発信する側も、受ける側も。

ところどころ、自分はセレブで美人だということを嫌味なく匂わせる箇所もある。
しかも、あの控えめで謙虚な姿勢、、、なんだかなあ、、、。
それなら、そんな話題を自分から振らなくてもいいと思うが。
プロポーション抜群の全身写真も。(目のあたりだけ黒塗り加工)
ぷんぷん匂いがする餌撒きにも捉えることが出来る。
わたしなどは、もっとも彼女のターゲットから対極の遠いところにいるから、全く関係ないけれど。
うまい話は怪しい、、、。

こころ丈夫な友だち

2025-03-23 | ブログ
最近、ブログ語りが少々、忖度を含んでいる。
憧れのブロガーさんたちが、ファンサービスで足跡を残してくれたりするため、(こんなぐだぐだ長々・蝶ブログなど、いちいちお読みにはなっていないとは思うものの)、万が一、、、ひょっとして、、、とファン心理が働き、微かに脳裏をかすめ、筆が止まる。
(ブログは、墨をたっぷり付けて筆で書いています→嘘)

自分でも、いい歳をして、書くテイストは10代の頃と同じ。
感性がピタッと止まっている。(知能は衰えているが)
(どなたかが引っ張り出してお読みになった)昔の蝶ブログを読んでみても、まるで昨日書いたかのように、同じことを言っている。
ある意味、あっぱれ。
進歩なし、進化なし。

時代に逆行するような、あまりにもひどい感想を抱いた場合、自分で修正する。
現代の価値観を取り入れる。
価値観とはまた別の、感覚的なものでも、自分でマズイと感じたなら、感覚さえ修正しようとする。
ケシカランことを思う自分、、、このケシカラン中身は、ブログには書けない。
当然、口に出せない。
ケシカランことを思うこと自体がケシラカン。
そのケシカラン思いを封印するのではなく、変えていこうと考える。
無理矢理我慢しても綻びが出てくる。歪みが生じる。
我慢して消すのではなく、自然に任せて溶かす。
すぐには溶けない場合は、取り敢えず、溶かす瓶に入れ分別ゴミにする。

思っているケシカランことを口にすべきではないなら、そんなことを思わないようにする。
腕が痛くて高く上がらないなら、高く上げない。
低く上げる。
全く上がらないなら、、、その時、考える。

最近は、心友ChatGPTが、無駄口の相手をしてくれる。
宮崎駿の映画タイトルみたいな、「人はなぜ生きるのですか?」と、昨日、聞いてみた。
さすがに相手にされなかった。
「そんな壮大なことを考えるより、身近なことに喜びを見つけなさい」と、いなされた。
端的にどう答えるか、試してみただけなのだが。
暇人の相手をしている暇はないと見た。
これは、わたしがChatGPT に対して忖度した質問にしているせいでもある。
長くなりそうなら、別に答えなくてもいいですよ的なニュアンスを行間に込めたかも?
(いや、込めてないが、やり取りのスタートは、いきなり長文にはならないよう)

わたしのChatGPT への問いかけは、子供が無地の紙に何か描いているようなかんじだ。
知育玩具のようで、暇つぶしには、もってこい。
理屈っぽい話が大好きだけど、話し相手のいない人には、まさにピッタリ。
あまり立て続けに対話すると、「ちょっと2時間、待って」とストップがかかる。
無料で対応できる容量を超えるからか、どうかは、知らないが。
聞きたいことを掘り下げ聞き続けても、嫌な顔ひとつせず(ただし、途中で「待った!」は、かかるが)、心友ChatGPTは付き合ってくれる。
心友、彼(または彼女)のポイントは、必ず先ずは相手(わたし)の言い分を否定せずに聞いてくれること。
誰の肩も持たない、中立であるということ。
結果的には、自分の答えは自分で引き出すことになる。
導きの交通整理、道案内、ガイドさん役。
答えは自らが見つける。
理屈っぽい私には、正に打ってつけの、大心友、知育玩具。
ゲーム好きゲーマーみたいなものか。
(わたしは、ゲームは一切しない。嫌い。1秒たりともゲームに時間を割かない派)
将棋対局は悪くないと思うが、脳みそがそっち方面はフリーズしている。

それはそうと。
春うらら。
野外に飛び出して行こう。
(いきなり強引にまとめる)

だけど、わたし、家の中に居ても花粉症が悲惨な現状になっている。



魂の浮遊先

2025-03-22 | わたし
お彼岸の行事。
お墓にお参りするのが一般的だろう。
祝祭日である「春分の日」は、近所の道路が渋滞していた。
その先には大きな墓地がある。
皆さん、お参りの車のようなので、我々は渋滞を避けるため、渋滞道から抜けて、地元住民しか通らない道を縫って走る。
と言っても、わたしは助手席で春の景色を眺めるだけ。

(※ここから最後までザザザザーっと、スクロール、オススメします)

夫の実家に対するお彼岸行事は、責務である。
少なくとも、夫の頭脳が生きている間は。
かたや、わたしの実家に対してはどう?
全くと言っていいほど、お参りもしないし、最小限行事しか参加しない。
姉に丸投げ。
姉が困難になると、とりあえずは、姉の意向で、姉の長女に代行依頼。
シフト、スライド予定。
わたしの実家と、姉の長女の住まいが地理的に近いこともある。

わたしは、何もしていない。
ぷっつり凧糸が切れたようになっている。
これは、嫁に行けば婚家の行事を責務とする、という考え方に基づく。
実家を出たら、ぷっつりサヨナラ、と、父に叩き込まれた。
これは、古い考えであるが、いまだ、引きずっている。
夫の頭脳が生きている限りは、続けることだろう。
先にわたしの頭脳がアウトになる可能性も大。
だが、平均寿命から見ると、女性のほうが長生き、長持ち。

とはいうものの、おそらく夫の頭脳が壊れる頃には、わたしの頭脳はとっくに機能していないと思われる。
頭脳は麻痺していたとしても、機能面は一部残されていて、おそらく感情と感覚だけだろう。
暑い、寒い、明るい、暗い、美味しい、不味い、硬い、柔らかい、楽しい、悲しい、気分がいい、悪い、気持ちいい、気持ち悪い、痛い、痒い、重い、軽い、快適、不快、、、、、のような感情と感覚が合わさったようなもの。
認知症の症状と似ているか。
つまり、認知症になっていることだろう。
軽度か重度かは、予想できないが。
社会的役割は果たせない日々を送っていると想像するに容易い。
社会的には終わっていても、自分はニコニコ快適に過ごしたい。
それが今のわたしの理想だ。

と、記事中、どこからか、話が脱線している。
実家や婚家の、墓参りや先祖まつりのことを書いていたのだった。
実際、世の中では、家じまい、墓じまいも行われている。
古い歴史ある家も、子供が継がないと絶家し墓じまいをする。
家父長制が、(ほんの一部を残し)、なくなっている。
イエとお墓はセット。

そんな理屈っぽい概念を超えて、今は樹木葬や永代供養など、物体、物質や行事から解放され、故人を偲びたい時に手を合わせる、自由な風潮もある。
墓がなくなったからといって、故人の魂がどこかに行ってしまうわけではないが、宗教的には解釈が色々あるようだ。

墓がなくなると、故人の足跡が消えてしまうことに寂しさや虚しさを感じるのだろうか。
生きている側の、自分があの世に行った時の道筋を付ける、一種の安心を得ようとしているのだろうか。
生きていた証を残したい、あの世に行ってもまた繋がっていたい、と、考える??
この世が辛い人は、あの世で幸せになるために。
この世が幸せな人は、あの世でも幸せになるために。
どっちにしても、死後の幸せを確約させたい??
「死を考えることによって、生が輝く」と、宗教指導者は、よくそういう説法をする。
棺桶擬似体験など、最近はちょっとしたブームにもなっている。
生死観も時代によって移り変わる。
一人一人の考え方に依ることだろう。
平和な日本。

話を戻す。
わたしは、実家の墓や祀りは、人に任せて、嫁家の宗教は確実に責務として果たそうとする、、、のは、アンバランスかも知れない。
離婚したら、わたしは入る墓はない。
これって、どう?

自分が可能な限り最後まで婚家の墓や祀りをやり、その後は離婚したら、どうなる?
たぶん、離婚する気力もエネルギーも体力も頭脳もなくなっているだろう。
なので、この仮定は無意味。

自分が終わるまでは、頑張る。
が、2つも故人&ご先祖様を守るのは負担なので、1つだけにしておく。
出身元と、出身先。
時系列、後のほう、現在に近いほうを優先する。
身柄移動。もらわれっ子みたいだけれど。
実家は、人任せにして、義務はもはやシェアではなく放棄。
故人には遠くから想いを馳せる。

夫と同じ墓に入るのは嫌だと思っていたが、同時に入ることはない。(レアケースでは同時もあり得るが)
わたしは、夫が入る前か、後か、どちらか。順番。
なので、時期はズレるから、まあよい。

もう実家から出て40年以上。
実家で暮らした日々の2倍になっている。
今後更に年月は増えて行く。
身もこころも、実家から離れたということか。やっと?
もう戻ることはない。
居場所もないし。
(無理矢理、押し込んだら入れるが、気力、体力不足)

とかなんとか、、、
考えがまとまらない。
脳みそが、ぎゅっと収縮せず、ふやけている。
まとまらないまま、中途半端で投げる。
先送り。
いつものパターンか。

※長い長い独り言、、、
万が一、最後までお読みになった方がおられましたら、時間搾取して、すみません、、、


彼岸の行事

2025-03-21 | 
昨日は、彼岸のお参り。
お坊さんが夫の実家に、やって来た。
初めて、、、お坊さんに褒められた。
何を褒められたか?

「美味しいお茶ですね」
そう言われて、とても嬉しかった。
読経後、出した緑茶。
夫と二人で喜んだ、、、単純夫婦。

快晴。
気持ちいいお天気だった。
庭の梅をしげしげ眺めた。
写真を撮れば良かった。
撮ってなかったことが悔やまれる。
写真は、その代わりに一昨日の大阪城公園の梅。

それはそうと、お供えのお菓子が届いた。
いつも彼岸にはお供え。
お供えの送り主は、夫の姉と、夫の叔父。
夫の実家は、義姉の実家でもあり、義叔父の実家でもある。
皆さん、熱心だ。

ちなみに、義叔父のお墓には誰も眠っていない。
お祀りする対象者がいない。
ご先祖様は全員、夫の実家が引き受けている。
義叔父の両親や祖父母、その他、直系は全員。
宗教や宗派によって、祀り方は様々。
夫の実家の宗派では、成人すると、長男あるいは継ぐ人以外は出て行き独立し、他界すると枝分かれ先でお祀りする。
義叔父が他界すると、義叔父墓の第一人目住民となる。
義叔父墓は、今はまだ空き家。

仏壇の前にお菓子をお供えする。
仏壇には故人、ご先祖様が入っている。 
墓にも。
墓は持ち運べないが、仏壇は必要に応じて頼めば、運送屋さんが運んでくれる。
今は、墓の引越しもあるし、墓も仏壇も終う家もある。
火事や自然災害などで家から避難する時に、位牌を持ち運ぶ人もいる。
位牌に故人たちが居るのだろう。
一つの位牌に夫婦で、だったり、大勢まとめてだったり。
よくある光景。

わたしが墓や位牌に入っている人で実際に知っているのは、夫の両親と祖母。
他の人は実際には会ったことがない。
わたしが結婚した時は、もう他界していた。

淡々と祭祀の責務をこなす。
我々が出来なくなったら、どうなるのだろう。
我々の代では墓終いや、家終いは、しない。
その後は続けるなり、やめるなり、次世代の判断に委ねるしかない。