蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

秋の永平寺

2015-10-31 | 

福井県にある永平寺に行った。

行く年来る年、大晦日から元旦にかけて、除夜の鐘が鳴る様子がテレビで放映されているのは、このお寺らしい。

秋の永平寺は、なんとも言えない風情があった。

770年前に道元さんによって開かれたお寺。
日常の生活そのものが修行だそうだ。

廊下に設置してあった木製の「ゴミ箱」には、「護美箱」と深みのある筆致で書かれていた。
伽藍の隅々まで、見事なまでに、丹誠込めて磨きこまれ、
凛とした木の美しさを味わった。

 

大広間の美しい天井を見て、ある人がこう言った。
「わあ、イタリアのドームみたい!」

そう、歓声をあげたのが、若い子ならまだしも、分別盛りの熟年シニア女性だったので、
あなた、海外旅行も結構だけど、日本人として、それ、順番が違うんじゃない?
と、わたしは、こころのなかで苦笑い。
旅自慢にも聞こえ、なんだか恥ずかしかった。

 

日本には、まだまだ素敵なところが、いっぱいある。

しみじみ、秋の深さを満喫した一日だった。

 

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書くひとと、読むひと

2015-10-24 | ブログ

こんなことをしました、あんなことがありました。
こんなものを食べました、あんな店に行きました。
こんな所に行きました、素晴らしい時間でした。

写真と文章で綴る、豪華絢爛の日々。
ほんとうに、毎日、毎日、豪華が日常。
これは、とある人のブログである。
(べつの、とある人は、等身大、コンビニ・スイーツ研究だったりする)

ため息が出る。憧れる。
と、思っていたが。
何年も何年も続き、繰り返されると・・・。

この人は、よほどおカネが有り余っているのではないだろうか、
そうとう、ご主人は稼ぎが良いのだろう、と、今更ながら思った。
彼女自身は、専業主婦なので、無収入。
贅沢の限りを、自分で稼いだお金ではないおカネ、でも、自分で正当に得たおカネで、
自由に好きなように、湯水のごとく使っておられる。

といっても、年間、何十億円ものお金ではないが、
庶民感覚からすると、けっこう質の高い、いわゆる、「贅沢」と分類できる、
ハイレベルな消費に対する対価は、どかんとした支出である。

だんだん、嫌気がさしてきて、そのブログには行かなくなった。
「いいよね、あんなふうに出来て」なのだが、微妙に嫉妬とも少し違う、なにか。
彼女が、あまりにも、なにも考えていないことに対する、疑問を通り越した嫌悪感なのだろう。

庶民の目から見ると眩いばかりの豪華な毎日を、写真におさめ、アップする。
毎日、毎日。
ヒマとおカネと、行動力。
といっても、お友達とのランチや、家族との豪華食事、
一方的な参加型、楽しむだけのお稽古事(自分が人に教えたり、しないのか、できないのか)
豪華な旅行、豪華なイベント、品々・・・
それが、毎日続く。
これを毎日、ブログにアップする。
しかも何年も。


これは、逆に言うと、自分のブログも同じようなものかも知れない。
豪華なランチは、滅多にアップしていないが、人に与えるイメージは、ある意味、似ているかも知れない。

それは、自分が毎日、当たり前と思って無邪気に自然体で発信することと、
読み手が受ける感覚が、違うということである。
読み手は、毎日毎日そのブログを読み続けているうちに、なんからの感情なり、自分の考えが出てくることだろう。
それは、そのブロガーを否定する反対意見であっても、いっこうに、かまわない。

否定したあと、すっきりして、自分の道を構築して歩むとよい。
歩んで少し落ち着いて、そのあと、また、答え合わせのつもりで、ちょっと振り返って、
卒業したブログを再びたずねてみると、けっこう、味わい深いものを発見するかも知れない。

ブロガーは、読み手のことを考えてアップしてないケースも多々ある。
自分が書いてすっきりしたり、こころが落ち着いたりする場合だ。
豪華絢爛の毎日をアップする人も、
自宅で飼っているカブトムシの状態や変化を毎日、書き留める「カブトムシ観察日記」をアップするのと同じノリかも知れない。

毎日、毎日のブログの積み重ねで、自分はなにが言いたいか。
そんなものは、ないんじゃないだろうか。
ただただ、習慣のようにこなしている、ルーチンワークのようなブログのアップであるが、
そこに表されている日常は、各ブロガーさんは、まちまちであり、それぞれ大きく違う。

だから、なに?

贅沢三昧をとことん楽しんでいて、記事中、文字には「感謝している」と書かれているけれど、
本人にはさほど、自覚がないと感じられる。
あたりまえの日常となって本人の血肉の一部として、溶け込んでいる。

あ、ちなみに、わたしは、不幸ブログは読まない主義である。

と、ここで、突然、浮かんだ。
ブログを書く人は、人の目を意識しつつ、自分を確かめているのだろう。
研究熱心な向上心の現れているものもある。
あるいは、ヒマで退屈で、他に、これといって面白げな、やることがないから、と受け止められるようなものもある。
そのブログ内容に振り回されるのも自由、振り回されないもの自由。
ブログを読むことで、ブロガーさんの手助けをしても、手助けしがいがあるオモシロいブログと、
まんまと乗せられるだけの、くだらないブログがある。

書くのが自由である一方で、読むのも自由である。
内容は、読み手の感性で、どうにでも受け取られる。
いろんなものを読んでいるうちに、自分の指針や方向性のようなものが、だんだん見えてくる。

人は人で、自分ではないってことだ。
自分をしっかり持っていないと、船酔いする。

 

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終の棲家

2015-10-23 | 

わたしは、今、住んでいる家を建てた時、アタマに描いていたイメージは・・・

多くのモデルハウスや、建築雑誌、インテリア冊子などを何年も延々と眺めていた。
いよいよ建て替えたいと思うようになった時は、
折込チラシなどに載っている、建築設計図の平面図だけ、ただただ、むさぼるように見ていた。
平面図を見て、立体図をアタマで建てて想像していた。
どんどんアタマの中で、イメージは膨らんでいた。

家は、3軒建ててみないと、理想や好みを追求したものは建てられないという。
それは、おカネとヒマがたっぷりある人に、やっていただくとして。

まあ、理想をわたしなりに追求した。
とても幸せなことである。満ち足りた日々である。


ある日、北欧(スエーデンだったか?)の高齢者の生活レポートをテレビで見た。
80代後半ぐらいだったか、その人をメインに紹介されていたが、各お年寄りの家々に、ヘルパーさんが巡回してくれる。
お年寄りは、住み慣れた愛着のある自宅で、ヘルパーさんの助けを借りて生活していた。
その家の様子、インテリア、空間が、今のわたしの家に良く似ていた。
わたしは、その映像を見て、自分も最後は、こういう暮らしだったら理想だろうなあと感じた。

お年寄り同士が、週に一度ぐらい、家に集まり、わいわい和やかに楽しんでいた。

しかし、現実には無理だろうと思っている。
まず、認知症を発症していた場合、一人住まいは、危険だ。
巡回のヘルパーさんでは、まかないきれない。
子供や孫が時々、顔を出してくれても、毎日の暮らしをサポートするにはとてもカバーできない。
身体がいくら丈夫で、趣味のことも十分に楽しめて、文章もスラスラ、ブログにも毎日アップできても、
認知症は部分的に症状が現れるので、外部の人が、外からうっすら表面を見ている分には、問題が発覚しにくい。

一人で住んでいると、たとえ時々ヘルパーさんが巡回してくれても、
部屋も汚くなるだろうし、身もかまわなくなるだろう。
刺激もないので、だんだん、理想的な暮らしから遠のいていきそうだ。

自分がアタマに描いた理想の暮らし、理想の老後が送れていない、とその時点で自分で判断できるのだろうか。

かといって、心身健康なときに、理想の暮らしを切り捨てて、老人ホームに入る勇気があるかどうか。
英断が下せるのだろうか。

有終の美を飾りたい。ピークのときに引退したい。
そう理想は唱えるが、実際になると、自主的に自由意志でそんなことは出来ないと思う。
よほどの強い意志でもない限り。
あるいは、よほどの外圧、外からの強制力でもない限り。

いくら美学を貫きたいと思っても、認知症にかかってしまえば、貫けない。
ただ、問題は、白黒はっきりした、だれが見ても深刻な認知症ならわかりやすいが、
アタマがばっちり冴えている時と、そうでない時にわかれる、ジキルとハイドの認知症、
いわゆる「まだら」になった場合。

自分で無意識、無自覚に行っている行為があり、その行為をモノの移動や、事象の検証で確認できた場合、
あるいは、他人に「あなた、これこれ、こんなことしてましたよ」と知らされた場合、
我に戻ったハイドは、認知症のジキルの行動を知って、愕然となる。
まさに認知症のまだら状態は、人間の二面性といってよいのではないだろうか。
自分の知らない自分を知ったら愕然とすることだろう。

徘徊老人は、まさにそれ。
真っ裸になって道の溝にしゃがんで、すっぽり入っている老人、
「お~い、追い炊きしてくれ~」と、本人はお風呂に入っているつもり。

夕方になると徘徊するおばあさんは、本人は夕食の支度にかかっているのだ。
部屋中をかき乱している老人も、仕事をしているつもり。

わたしなら、おそらく、テーブルに平たいものを持ち出し、指をかちゃかちゃ動かして、ブログをアップしているつもりの老人になりそうだ。
大人しい、手の掛からない老人ならよいのだが。

現実とアタマの中を行ったり来たり。
その区別がだんだん出来なくなる。
あれ? 今でもその傾向のあるわたしは、歳をとっても、認知症状が発覚しにくいことだろう。

ゴミ屋敷と化した、お気に入りの自分の家で、
「今日は、娘一家が来るので、掃除しないといけない・・・」なんて、かちゃかちゃ、平たいものの上に、指だけ動かしているのだろうか。
でも、きっと、こころは、楽しい平和な時間なのだろう。

大のお気に入りの空間、お気に入りの時間、それを切り離して奪ってしまうのは、
自分自身の心身の老化のせいなのか、
はたまた、お気に入り状態から離れたくない自分から、無理やり引き剥がす、身近な家族なのか。

人は生まれるからには、弱って死んでいく運命にあり、それは誰にも避けられない。

 

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幸せの配分

2015-10-20 | 暮らし

惚れ惚れとする秋晴れ、日曜日は、娘一家と、二家族で大型遊園地に行った。
存分に孫達の可愛さを味わい、幸せ気分に満たされた。

かたや、アタマのすみっこに、要支援の母がちらり。

私が実家を訪れた先週、彼女が、自宅の海の見える部屋で言った。

「こんなに楽しい幸せな日も、もうこれで終わりかと思うと哀しい。
残された、最後の素晴らしい時間を大切にしたい」、と。

わたしは、一方で楽しい輝ける時間を孫達と過ごし、
もう一方では、母の幸せな時間を奪っているのか。

母から幸せを切り取って、その幸せ特権をわたしが、孫達に使っているのか。
切なくて、申し訳なくて、気の毒。
身勝手で強欲?

お金で言えば、自分の私利私欲のために、人のお金を盗んで、悦楽の時間を買っているようなものか。

これを同時にすれば、円満解決なのだが、そうはいかない。
要支援の母親を、お日様かんかん照りの、段差だらけの動物園&遊園地に連れ出しても、全員、苦痛なだけである。
4世代同時に楽しめることって、どんなことだ?

(1)4世代同居が一番の幸せ。
(2)次の幸せ対策は、おばあさん(母)の居る自宅に、若い人々が通って世話をすること。
(3)さらにその次の対策は、世話は人の手を借りて、若い人はコミュニケーションのために、時折、訪れること。

ということになるが、現実は、(1)は、居住地や勤務先の関係上、不可能に近い。
で、(2)として、4世代のうちの上から2番目の、わたし世代が、単独で頻繁に動くことになる。
しかしながら、わたしには、もうひとり、正反対の方角の遠方地に、老親を抱えていて、動くにも限界がある。

幸せの絶対量が一定であるなら、みんなで、それぞれにシェアするしかない。
時間も一定、労力も一定、資金も一定、どれもみな無限ではない。
工夫して知恵を絞れば、一定量の時間、労力、資金で、幸せの絶対量を増やすことができるかも知れない。

幸せをシェアするメンバーの合意と調整と協力と、納得。
誰か一人だけに重荷がのしかかったり、幸せを一人占めしたりしないよう、
いろいろ試行錯誤して、同時進行していけたらよいと考える。

 

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姥捨て山

2015-10-17 | 暮らし

わたしの母親Sというものは、じつに勝手である。

わたしが子供の頃は、子育ては放任主義で、人任せ、
(結婚はお世話になったけれど)
わたしの子供(孫)の子育ては、節目節目にお祝いなどはくれるけれど、平素は、ほとんど知らん顔、
わたしの孫育てのあたりで、老化現象、ぼちぼち認知症。
ここ最近、階段を転げ落ちるかのごとく、どんどん加速度を増している。
「自分S(母親)も、かまって~。来てちょうだい~」

と、文章に書くと、なんだ、まともな母親じゃないの、という印象を受けた。
子供の道をはずさせず、しっかり育てている。
子供側からみると、大なり小なり不満はだれにでもあるものだ。
「ママ、大好き!!」と幼い頃から、老女になってまでも、ママを熱く思い続けている子供は、どれぐらいいる?

そもそも、わたしは、ぜんぜん、「ママ、大好き!!」という、テレビの風邪薬のCMや、洗剤のCMに出てくるような、あんなイメージは皆無。
あれは、イメージを植え付けるために、作られたものだと確信している。

ちゃんと育ててもらって感謝はしているが、足長オジサン的な感覚もある。
衣食住、まともに生活できる環境を与えられ、学費、その他、出してもらい、
ありがたいことである。

と、冷静にアタマを下げているのだが、感情的には、いつもアタマに浮かぶのは、
嫌いな面ばかり。
結婚して、あの嫌いな母親から離れられて、どんなに幸せだったか。
幸せに育ててもらっているのに、嫌いだなんて、母としては割りに合わない。
なぜなんだろう?

性格、行動が嫌いなのだ。(とうぜん、悪い面ばかりではないけれど)
まさにわたしの格好の反面教師となって君臨している。

大人になってからでも、親からの恩恵をなにかと受けているので、あまり大きな顔は出来ない。
そのあたりに、わたしの弱みがある。

誰のおかげで大きくなったと思っている?と仮に親に言われたとして、
「はい、親のおかげです」と当然のごとく何の抵抗もなく答えるのであるが、
母親に対して、ひとつ言えることは、
自立心がないということ。計画性がない。
「父(母Sの夫)」という大きな盾に守られて、自立心が育たなかったようだ。

親子で助け合うのはよいことだが、もっと自立すべきだ。
子供は親の面倒を見るのは当たり前、と考えている。
当たり前は当たり前だが、面倒の見方にも、いろいろある、ということを母は理解していない。

母は「もっと近くに嫁にやればよかった」と愚痴る。
近いと毎日、朝晩、顔を出して、手助けしたりお茶を飲んだりできるのに。
わたしは、遠くでよかったと思っているのだが。
そんなにホイホイ来れないということをアピールできる遠さである。

子供を手近に置いて、羽ばたかせないつもり?
自分の老後のことまで考えて、子供を嫁に出す親は、どれぐらいいる?

母の田舎の考え方は、子供に教育をつけると、実家の跡目を継がなくなるから、
高度な教育をつけず、手足をもぎ取って、家にしばりつけている。
その結果、ろくでもないことになって、かんじんな家は、もう風前の灯である。
消滅は、秒読み状態。
太陽政策ではなく、北風政策。

跡継ぎ達は、羽ばたいていった、きょうだい達に、置いてきぼりにされたような気がしていることだろう。
自立する能力を身に付け、選択できる自由を与えられると、もう戻ってこない?
能力がなければ、選択できない?

しかし、自分が自立していくことばかり考えていると、
地方の農業をはじめとする産業は、どんどん衰退していく。
辛い仕事は、親も子供に跡を継がせるのをためらって、跡取りが育たない。
限界集落も後をたたない。
ひとりひとりの想いが、多くなってくると、大きな流れとなり、うねりとなる。
が、自分ひとりでは、流れには抗えない。

自分サイド一方の想いに走るばかりが、必ずしもよいとは限らない。
自己チューとの葛藤は、そういう社会問題を内包している。

が、母の考えは、まさしく、それ。
子供は親が自立できなくなったら、親の面倒を見るべき。
わたしも、母の年齢になって何も自分でできなくなると、すべてを人任せにして、
自宅に居たままで、遠方に散っている子ども達に囲まれ、日々、世話をしてほしい・・・と、そう思うのだろうか。
母が、わたしの世話を人の手を借りてしたように、わたしも、他の人の手を借りてすることに、なんの問題があろうか。
住み慣れた自宅で、遠くに住んでいる娘たちと毎日顔を合わせ、お気に入りの環境のなか、
家族に溢れる温かい愛を注がれ、身近にぬくもりを感じ、
枯れるようにこの世を去っていくのが理想だろうけれど、いまどき、そんな理想は、叶えられない。
(世の中には、親の理想を叶えてあげる、やさしい娘さんや、息子さんもおられるようだが)
もし、わたしが、叶えてあげたとしても、毎日、実家に通うか、住み込んで世話をするなど、
わたしの人生を踏んで叶えることになる。
わたしの人生の後半を母ひとりに捧げ出す気持ちはない。
わたしには、わたしの人生がある。
母以外にも手助けすべき他の家族、メンバーが、たくさん控えている。

母だって、よくよく考えると88歳になったお姑さん(父の母)を引き取ってから、
大勢のスタッフで世話していたではないか。
楽しい老後は、自立している間だけ。
自立しなくなったら、それはもう、自宅であろうと、老人ホームであろううと、精神的には自分で解決するしかない。
哀しくて残酷だが、覚悟を決めるべきだ。

できる範囲なら頑張るが、壊れるほどは頑張らない。
人のために、自分が壊れるのは、たとえ親子であろうが、そこまで負いきれない。
この、わたしの後姿は、こどもたちは、しっかり見ている。
いずれ、自分も同じ道を歩むことだろう。
さっさと、いち早く捨てられるんだろうなあ。

 

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美しい幸せは、そっと遠くから眺めるに限る

2015-10-16 | ブログ

自分のブログに関するアクセス解析を見ると、閲覧元URLが表示される。
どのキーワードから飛んできたか、よくわかって面白い。

その中で、昨日は、「家政学部  嫁」というキーワードがあった。
自分の記事が、検索で引っかかって、蝶ブログに飛んできたようだ。
3年ぐらい前の古い記事。

で、その、自分の記事を改めて読んでみた。

まあ、好きなことを書いている。
自分のことを棚にあげて、よくまあ、しゃあしゃあと。
上から目線の権化である。(自覚してますが)

こうだったらいいな→できもしない理想。
これはあかんわ→理想どおりにいかないのは、わかりきっていることなのに。
こういうことを、評論家ではなく、批評家のごとく、書き連ねている。
こんなことを書いている人は、いったい、どれだけ自分が出来るんだ???

世の中の「一生懸命、頑張っても上手くいっていない人」
「頑張って上手くいっているつもりの人」をオモシロいほど、コケにしている。
たぶん、要領の悪い、評価の低い自分へのエールなんだろう。自虐ベース。
(後に、この要領の悪さは、いつの間にか、べつのものに転じていた)
自分ではわかっていて、書いているのだが、読む人にとっては、グサグサ突き刺さるだろう。
わたしは、今読むと、この無責任な痛さが、気持ちいい。
しかし、こういう人が身近にいると、嫌だろうなあと思う。
自分だから仕方ないが。

人間やモノゴトには両面あって、表裏一体である・・・
なので、自分にも、天使と悪魔を内包している、と言いたいところだが、
大悪魔、中悪魔、小悪魔、みたいなかんじで、悪の濃度が、その日によって違うだけのように感じる。
ホンネを書けば書くほど、自分のホンネの毒に、やられてしまう。

が、誰も口に出して言わないことを書いているので、読んでいて爽快である。
表面を美しく取り繕っている人々の、裏を暴いている。
が、それって、同時に自分も斬ってしまっている。
爽快ではあるが、血だらけで、もはや老体には治癒能力が鈍化し、痛みが残るばかり。

美しいものは、なにも言わないで、そっとしておくのが、美しくてよい。
ただただ美しいだけ、なんてありえないが、あえて、目をつぶる。
ほじくり出しても、嫌な気がするだけで、誰もなにも得(とく)もしなけれは、喜びもしない。
美しい部分だけを見る。
努力して美しく整えたことを評価する。
努力部分に、多少のよろしくないことや、容認しがたい点があっても、見なかったことにして無いものとする。
それでいいように、思う。

それが大人の常識、グローバル・スタンダードなのかしらん。


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素人ブロガーは、気楽である

2015-10-15 | ブログ

自由な時間がまとまってある時に限って、ブログに書きたいことが思いつかない。
時間がない時に限って、どんどん溢れ出てくる。

これは、ブログだけではなく、いつものわたしのパターンである。

お尻に火が付かないと、行動しない。
バッテリー残量がわずかにならないと、奮い立たない。
ああ、人生も同じか。

人生、残すところ、あと僅か、にならないと、真のやる気が沸きあがらないのだろう。
時間も、お金も、健康も、あと少ししかないと自覚してからでは、遅いのだけれど。
本気スイッチが入るのは、死ぬ直前か。

まあ、しかたない。
何もない平常時に、危機管理プランを立て、訓練実施している人は、偉い。

 

ほら、蝶ブログ、こんなにつまらん内容しか、書けない。
いかに、本日は、だら~んとしているか、ってことだ。
せっかくの谷間、隙間の、貴重な自由時間なのに。

じつは、書きたいことはあるんだけれど、書く気にならないって、
いったいどういう心理状態なんだろう。
自問自答のスタンス、自分では答えは出ていて、わかっているのだけれど。
書いてもいいのだけれど、書きたくない、書かないって、この心理は、・・・
なぜそうするかと言えば・・・

やはり、ある思惑、意図があっての行動。
自分で自分が、いちばんよくわかっている。

何なの? 早く、書いてよ。イラつく、うっとうしい人やねえ。
などと、じらしたりして、読み手に興味を持ってもらおうなんて、そんなチャッイ作戦ではないことだけは確かだ。

そこまで言って、まだ書かない。

私は営利目的としない素人ブロガーなので、
自分を切り売りする必要に迫られていないから、お気楽そのものだ。

素人って、ほんと、ストレスがない。
その代わり、なんの迫真パワーもない。


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母親という人間の人生

2015-10-12 | 日々のこと

今日のわたしは、毒がある。
昨日あたりから、毒にやられている。

人は、どういう心理で行動するのか。
行動するには原因、理由がある。
あえて行動しない、という行動にも原因がある。

わたしの母親に対する、他の人の営業トークを聞くと、笑顔が引きつってしまう。
老人ホームや、デイケアサービスでも、同じようなものだろうけれど。
アカの他人の場合は、そう気にならない。
神経にピリピリ来るのは、利害関係がある人間の場合だ。
特に、おカネ。

おカネばかりではないだろうが、仮におカネが全くといっていいほど、なかったとすると?
どれだけの人が、ついてくる?
何人の人が、動いてくる?
それこそ、ほんとうに肉親だけしか動かないと思う。


老人虐待の事実があった施設も報道されたりしている。
ごく稀に、そういう理性が吹っ飛ぶスタッフも混じっているようだ。
が、たいがいは、老人のお世話をするプロの皆様は、そうとう大変な仕事にもかかわらず、
彼らの頑張りには、本当にアタマが下がる思いである。

プロは、割り切りがある。
肉親は、理性でわかっていても、感情がついていかない。
おカネの問題だけでは、解決しきれない。
親だと思うと、複雑な心境になる。

猫に育てられた犬は、猫を親と思い、自分を猫だと思うかも知れない。
わたしは、幼少期、母親ではない人にも世話をしてもらっていたので、その人に母親に似た気持ちを抱いていたようだ。
もちろん、親にも世話をしてもらったのだろうけれど、母は仕事で忙しく、
主に祖母であったり、別のお手伝いをしてくれる女性であったり、母親より、母親ではない人のほうに、ぬくもりのようなものを感じる。

べつに、母親は、児童虐待をしたわけでもないし、ネグレクトでもない。
普通の子育てをしていたと思われる。
が、なんだか、そういう記憶があまりない。
母親は、「優しい気持ちで子供に接して育てた」、と自分で言っているが、
わたしが、ぼけて忘れてしまっているだけだろうか。


その母親の世話をする転換期になって、母親と直に向き合うことになった。
母親の人生は、とても結構な、幸せな人生である。
思う存分、好きなようにしてきた。
自分が世話をしてもらう段階にきても、それまでの人生のように好きなようにしたいようだが、とても容認できない。
心身が自立できていないのであれば、人の言うことを聞くべき、まして世話になる子供の言うことを聞くべきだと思うが、
年寄りというものは、そんなに生易しいものではない。


今から、スタート。親子の闘い。火蓋が切って落とされた。
わたしは、我が娘との闘いも同時進行であるし、孫守(まごもり)のサポートもしないといけないのに、
あっちも、こっちも、なにがなんだか、わからない。
ついでに、夫とも喧嘩。冷戦、時には噴火。
火種をあちこち、抱えている。

日に日に賢くなってくる孫と、日に日に、アホになっていく母。
一つずつ、出来ることが増えてくる孫と、一つずつ、出来ていたことができなくなってくる母。
同時進行を同時に見ていると、人生を逆算しているような錯覚に陥る。
娘であるわたしが、母に対する思いと、我が娘の、わたしに対する思い、
わたしが我が娘に対する思いと、母がわたしに対する思い。
これまた、同時進行。交差、スクランブル。
そこに、孫がからんで、生まれる→成長する→衰退する→死ぬ の曲線カーブの人生の中で、
わたしは、後半部分に位置いている。

母、自分、娘、孫・・・30年ずつ、時間がスライドしている。
孫ゼロ歳、娘30歳、自分60歳、母90歳。
おおよそ、現在の平均像はこんなものか。

昔なら20年ずつスライドか。
孫ゼロ歳、娘20歳、自分40歳、母60歳、祖母80歳・・・
昔はそんなに長生きしないから、祖母80歳は、いないかも。

孫ゼロ歳、娘25歳、自分50歳、母75歳、祖母100歳。
秩序よく、きっちりバランスよく年齢が四半世紀ずつ詰まったこのパターンも、遠い親戚にいて、
100歳を超えて、今年、おばあさんが亡くなったが、世話をしていたのは孫、喪主はひ孫だった。


・・・
・・・今日のブログは、ホンネが書けなくなってきた。
・・・

まあ、また、そんな気になることもあるだろう。

 

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他人の幸せを見て、どう感じるか

2015-10-09 | ブログ

とあるブログ。

7年ぐらい前は、憧れから転じて、やがて大嫌いになった。
わたしよりもブログ歴は長く、今もほぼ毎日のように、更新されている。
すっかりご無沙汰していたが、ちょこっとのぞいてみた。

なぜ大嫌いになったかというと、わたしと人生のスタンスが違うからだ。
でも、今は、前ほど嫌いではないことがわかった。
決して好きということはなく、毛嫌いすることはないが、ただ、わたしとは目指すところが違うだけだ。
自分と違うものを嫌う必要はなく、自分と違うものを、違うという前提で容認する方向にある。

しようと思えばできるが、選択してあえてしない、という場合は、さほど悩みはない。
しようとしても出来ない場合、悔しかったり、劣等感を持ったり、出来る人を嫉妬したりする。
だんだん、思いは募り、五寸釘を人形に打ち始める。
あんなことをし続けていたら、やがて、ろくなことにはなるまい、と。

自分は自分の方法で、コツコツ、わが道を行っている。
で、嫌いなあの方は、あの方で、幸せに、笑顔の毎日のようす。
性分、性格の違いのようだ。

あんな生活信条なら、子供はちゃんと育たないだろうと思っていたら、ちゃんと育って、ちゃんと結婚もしていた。
で、マジメにやっている(とわたしは自分では思っている。が、わたしを知る人は、なぜかそう言うと笑う)
わたしも、まあ、結果的には、うまくいっている。

あんな、チャラチャラした人がうまくいって、なぜ、わたしのようなくマジメな人間が、しんどい目をしなければいけないのか。
そう思って、天罰が下るのを待っていたが、いっこうに天罰が下らない。
それどころか、あちらは、どんどん明るさは増し、輝いてきている。(※これは、ちょっと効果を狙った演出表現です)

人から見ると、あの人も、わたしも、同じようなものだろう。
何度も言うようだが、生活信条、人生哲学が違うだけの話だ。
違うものに対して、ああだこうだと思ってみても、なにも始まらない。
見本にはなるが、手本にはならない。選択性、別コース。

基本的に、わたしは自立心というものを大切にしたい。
明るい笑い声が響き渡る家庭であっても、ある日、不幸が舞い降りて、破滅してしまう可能性は、どこの誰にでもある。
「天真爛漫キャラ」は素晴らしい天賦の神様からの贈り物だと思うが、どこかで現実を見る目を常に持っていたい、とわたしは思う。
今の生活を送れるのは、どうしてか。そのまま続けるには、どうすればいいか。
ただただ、きゃあきゃあ享楽的に過ごして、美しいこころを磨くばかりでは、絵物語になる。
それで一生過ごせたら良いが。

人間は死ぬ直前まで、わからない。
なので、今、まだちゃんと生きているのに、額に皺寄せて、難しいことを言っても、無駄かも知れない。
だが、今までやってきたことの積み重ねである今の現状は、良い意味でも悪い意味でも、死ぬまで続くだろうと予想される。


じゃあラテン系のほうが、楽しくていいじゃない?
でも、取り入れようにも、性格だからしかたない。

仮に、動物好きという共通の趣味があるとする。犬が好きということも共通だとする。
さらに、犬の中でも小型犬が好きだと共通点は増え、
Aさんはチワワが好き、Bさんはスピッツが好きで、お互いに、そこは譲れないとする。
途中まで同じだったのに、細部に分かれると、道が違い、その違いがどうしても気になる。
と、そんなかんじか。
(ちなみに、わたしはペットは嫌いです)

天真爛漫な人の娘さんは天真爛漫で、楽しい毎日、
変哲なわたしの娘たちは、シビアな毎日。
うちは経済的には、自立派であるが、天真爛漫さんたちは、配偶者や親に頼りきっている。

あ、いま気がついたが、
わたしは、子どもに別に頼り切られていないから、楽かも。
その代わり、娘婿がイクメン。
でもこれは、昨今、街の中を見渡しても、みなさん、そういう流れだ。

これからどういう世の中になるやも知れないので、自衛手段として、エコ生活を貫いている。
生活は小さく、こじんまりと。
毎月の生活費を膨大に膨らませると、収入が減ったときに対応できない。
天真爛漫さん家庭のように、MAXにしていると、巨体は動きが取りにくい。

人生には思わぬ不幸なことがあるが、ない可能性もある。
転ばぬ先の杖を使い、実際には転ばなくて、なあんだ、一生懸命頑張って損したわ~となるかも知れない。
が、なにもないことが幸せなのだ。


キリギリスのように、もっと華やかな人生を送れたのに、アリになってしまって、ぎすぎすして、損してる?
キリギリスにはなれない貧乏性なのだろう。
持って生まれた性格や能力は、各人違い、それぞれ、長所も短所もある。
どっちが良いというものでもないだろうから、自分が良いと思う道を選んで歩けばよいのだ。

と、久しぶりに訪れたブログを見て、そう思った。

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と同時に、前回、そのブログに訪れた時から思っていたが、
わたしの視力が低下したせいか、あるいは彼女の方針が変わったのか、
高性能のカメラをお持ちで、以前はとても美しい写真をアップされていたが、
今は、大きくアップされている写真が、ピントがとてもあまく、ざらついている。
写真で魅せる彼女のブログとしては、不思議な気がする。
撮影方法として、わざとそういう撮り方をする場合もあるが、そうとは思えない。
???と、内心、ハテナがいっぱいである。誰もなにも知らせないようだ。
変化のないブログであればあるほど、ちょっとした変化に対して、わたしは敏感になる。

と、これは蛇足中の蛇足でした。


幸せ話より、不幸話に人は興味をそそられる

2015-10-07 | ブログ

ブログやSNSの日記で、タイトルを見て、読んでみたいと思う記事。
わたしがよく行くSNSでは、各日記の横に閲覧数がずらりと並んでいる。

皆さんの日記タイトルと閲覧数の関係を見ると、不幸な内容になると、ぐっと閲覧数があがる。
じつは・・・
そのSNSに、わたしの大嫌いな女性がいて、その人はわたしの日記に足跡をつけるが、
わたしは、その人の日記は絶対に見ない。
のであるが、日記タイトルで、不幸タイトルがアップされていると、見に行きたい衝動にかられる。
でも、見に行かない。足跡がつくのが、嫌なので。

しかし、ぐっと我慢していても、どうしても我慢しきれず、怖いもの見たさに見に行くことがある。
その時に、彼女の他のタイトルの日記もついでにまとめて読む。
彼女は、気を引くタイトルをあげていたりするが、内容は、全然、自分の話ではなくて、人の話だったりして、あたかも本人のことであるかのような引っ掛けタイトルに、つい釣られてしまう。
ああ、やられた!


多くの人に日記を読んで欲しいのは、ひとつの自己顕示欲の現れだと思う。
ブログを書く人なら、だれにでもある当然のことだ。
そんなことを言っていたら、世の中、ブログだらけで、いまや、ブログは、なんの特別なことでもない。
ごく普通のことになっている。

多くの日本人シニアが世界各国に旅行して、高品質カメラで写真を撮り、ばんばんブログにアップする、と、どこかの解説で読んだ。
高度成長期、メガネをかけ、カメラを首にぶらさげた、背広を着た日本人が、背が高い西洋人を相手に、ぺこぺこしている風刺画を見たことがある。
どこか、それとイメージが、わたしのなかで重なる。
キーワードは、日本人、カメラ、男性。

しかしながら、
ぺこぺこ日本人のおかげで、我々は今日の豊かな生活を享受できるのであるが、外国人の目は冷たい。
自国の仕事を日本に取られたから、仕方ないといえば仕方ないが。


インターネットの出現で、自分を発信するツールができた。
ある、素人コラムニストさんが、書いていたが、
彼女の噂を聞いてブログにたどりつき、昔の友人たちが60年ぶりや40年ぶりに連絡を取ってきたそうだ。

わたしの場合、蝶ブログは、毒入りなので、自分の知られたくないことが、てんこ盛りのブログにたどり着かれると、非常に複雑な心境になる。
「あ、あのブログ、あれは、ですね・・・ほんとのことを書いてますけれど、生活はちゃんとマトモですから」
なんて、自分の毒の解説をして、脂汗を流しながら釈明しなければならない。

というか、リアル元同級生や、リアル元同僚は、一目散に蝶ブログから遠ざかったという経歴あり。
きっとニオイに耐えられなかったんだろう。
ホンネを書かないブログ、美しく取り繕うブログ、事実だけを淡々と書くブログ、そういうブログであってもよい。
わたしの場合は、一種の毒吐きであり、自慢吐きであるので、自己完結してそれでオワリ。
読まされる人にとっては、読んでいて気持ちがよいとは言えない。
しかしながら、来る者拒まず、去るもの負わずの主義なので、自己チュー体制に影響はない。

自分の良い部分もあるんだけれど、あえてそれを書いてどうする?
人が思ってくださるのは自由だか、自分であえて自己PRするのは、わたしの趣味ではない。

書いていて、なんの話だっけ?と、ふと止まる。

話は変わるが、
「皆さんもそうですが、書くことによって、気持ちの整理ができ、こころを静められるものです」。
そう日記で、自分の考えを皆もそうだと断言して書いている人(=Aさん)がいるが、
その人の日記は、めちゃくちゃ暗くて、どんより、もわ~んと重いので、こちらにまで重いものが寄ってきそうで、読まない。
気持ちをシェアーなど、とんでもない。
その人は、スッキリするのだろうけれど。
書いてスッキリするのは「世の中の人の多くは」ではなく、「Aさんは」だと思う。
読むほうは決してスッキリしないのである。
「自分のことを知っている人は、心配させてはいけないので、読まないでほしい」と日記に書いておられるが、矛盾もいいところだ。

気持ちはわかるが、自分を正当化して、上から目線の、この人の姿勢は、好感が持てない。
ん?
「スローさん、それ、あんたのことと、ちがうの?」という声が、突然、聞こえてきた。
自分とまったく同じスタンスのものに触れて、反感を覚えるって、これは何?
人の振り見て我が振り直せ、ってことなのだろう。

と、どんどん、話が、ふらふらとワケのわからない方向に迷い込んできてしまった。
〆るはずが、これでは、お手上げだ。

とりあえずは、このまま、オワリです。

 

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【蛇足】
自分がそうだからといって、皆、他の人もそうだ、という断言は、嫌いだ。