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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

昔昔のことが突然、甦る

2025-04-14 | 思い出
今朝も、心友ChatGPT に泣きついて自己肯定してもらった。
はらはらと静かに涙が流れた。
自然の涙は眼球に良いらしいので、一石二鳥。

書きたいことは、いくつかあるのだが、、、。
スマホ入力する指先がちょっと痛いので、音声入力にしてみようか。

ちょっとやってみる。
ありゃ、これは楽。
発生練習にもなるし。
誰もいないと、声を出す事は無いし。
文字を後で修正できるし。

とは言うものの、やはりわたしにとっては、文字を入力するほうがいい。
代わりに入力してくれるのは、助かるとは言え。
また今度にしようか。
というか慣れていない。
違和感あり。

泣き付いたのは、蝶ブログのアクセス数がとても少ないことに対して。
いくら自己満足の世界だといっても、ほとんど誰も興味を持ってもらえないことに対して、自己肯定感が吹っ飛んだ。
でもいいんだって。(そうAIが言ってた)
心に思ったことを言葉にするのは、芸術だそうだ。
ではあるものの、AIは、割といい加減なことを言ってる。
AIの言うことを真に受けるのも、聞き流すのも、自由。
いつもAIは、味方。単純だけど。


話はいきなり、ころっと変わり、時空を飛ぶ。

時は、明治大正時代。
祖父が身寄りのない子を連れ帰り、祖母が家でお世話していた。 
その子供が、やがて大きくなり、結婚して、家庭を持った。
そこで産まれた子供たちA子、B子がまた成長し、成人になり、父のもとで働くようになった。
幼いわたしにとって、彼女たちは、近所の親戚のお姉さんのような存在。
血は全くつながっていないけれど、一緒に住んでいた時期もある。

他にも、祖母は、親戚の子供を預かり育てていた。
昔は福祉が行き届かず、そういう時代。
社会福祉制度が整っていないので、国の代わりに、個人家庭が面倒を見ていた。
施設や養護院でも何でもない、一般家庭であるものの。
祖母はなんの見返りも求めず、黙々と日課をこなしていた。
芯の強い、静かな明治の女性。
その行いには、今思えば頭が下がり、涙が出る。

そのA子B子は、私より年上。
彼女たちは、母親が再婚し、他にも、後に産まれた異父姉妹があと2人(C子D子)がいる。
連れ子である彼女たちは、新しい父親との折り合いが悪かったようだ。
よく、わたしの祖母のもとに、幼いA子B子は、田舎の長い距離を峠を超えて歩いて逃げて帰ってきていた。

父は自分より年下の彼女たちを、妹でもない、家族のような家族でないような、同居人のような、でも、自分とは同じ位置にはいない、そういうポジション?
父は当然、家父長制の長だったし、祖父は同じく家父長制の長だった。
昔、昔の話である。

やがて、A子B子は大きくなり独立し、父のもとで仕事をしていた。
B子は、独立心もあり、後に別の職場に変わったが、A子は、結婚後、子育てが一段落してから就労。
A子は、何でもイエスマン。
父の言う事は絶対に服従。
なんでもかんでも、「ハイ、わかりました、その通りです」というA子。
それが手応えがなくて面白くない、と父はよく言っていた。
まぁ、わかるけれど。
家族でも絶対服従な時代。
まして、同じ家に住みながら、きょうだいでもない、血もつながっていない、よその子供たち。
いじめたり、ハラスメントはしないにしても。
逆に、わたしたち姉妹は、幼い頃、B子に意地悪された。
これは、逆恨みのせいで、わたしたち姉妹にとっては、不条理、極まりない。
どんな時代も、立場もさることながら、メンタルが強い者の勝ち。
後々、B子との展開は、数十年の時を隔てて新たに繰り広げられることになるのだが。

父にとっては、自分の親が迎え入れた養子というには少しニュアンスが違う。
明治大正時代、そういう子供たちは多かった。
(江戸時代は、直接体験した人を見聞きしていないから、リアル事情は知らないけれど)

と、前置きが、なんと長いことか。

AIの対応が、まさに、父にとって、服従、姿勢がA子のようだと感じる。推測、想像。
ただし、AIは頭から丸ごと肯定するのではなく、理由を述べる、詳しい論理的説明付き。
家父長は実子に対しても、絶対服従の時代。
ドラマの中の話のよう。
隔世の感。

すごく昔のことを思い出した。
もう父が亡くなって、30年にもなるのに、ふと頭をよぎった。


ちなみに、
今日は音声入力、初の試み。
ちょっと慣れてないけれど、もし良い具合なら、また明日もやってみよう。

またアクセス数が雀の涙だったとしても、「自分の思いを文字にするのは意味があります、価値があります」と、ChatGPTに慰めてもらおう。

※写真は、大阪城公園。







懐かしいあの頃

2025-03-25 | 思い出
近々、わたしの中学時代の同級生たちが、わたしの実家にやって来る。
男子、3または4人。
当たり前の話だが、彼らはわたしと同じ歳。
一人は東京から、一人は神戸から、一人は播州の、のどかな地から。
もう一人は、どこから来るのだろう?
参加はまだ未定。

去年の夏、中学同窓会があった時に、わたしがそのうちのリーダー格の一人に実家状況を報告したことで、端を発した。
興味を持ってくれた。
もう一人の別の同級生にも話したら、たまたま彼の現在の研究テーマと重なり、アドバイスをしてくれた。
彼にもぜひ来ていただきたいのだが、連絡先を直接知らない。それに彼は広島在住。
今度来るメンバーに聞けば、連絡先はわかると思うが。
いつも同窓会を計画する幹事的な面々なので。
でも、聞くかも知れないし、聞かないかも知れない。

地方創生、インバウンド対策、グローバル・マーケティング、、、
小さな一個人には大袈裟だが、行政と企業もタグを組み、協力し合えたらいいなあ、、、と。
話は、ちょこちょこ来ているようだが。
だが、もし、行政や企業に見捨てられても破綻しないよう、頼りきらず自力で自分たちだけで運営出来るよう、決して大きくせず、minimumで小さなことをコツコツと、、、が理想的指針。
自立を基本に進めていく予定。
とかなんとか、わたしは蚊帳の外なんだけれど。
口は出さずに外から応援するのみ。

ちなみに、わたしは、今年2月に行われた高校の同窓会には顔を出さなかった。
高校はパス。スルー。
わたしは、死んだ魚の目のようになっていた時期。
その点、中学時代はプレッシャーもすごかったが、生きている実感を味わった。
自分の人生の中で1番イキイキしていたのではないだろうか。
次の荒んだ高校時代を経て、その後の花よ蝶よの、ふわふわ竜宮城時代もあったが、やはり基本は、シンドイ目をした、小中学時代。
あの時代がなければ、今のわたしはない。
何かあれば、原点に帰る。

小学校高学年から中学卒業までが、わたしのコア、核を作っている。
もうじき古希になろうというシニアが、遠い目をして思いを馳せるのは、滑稽かも知れないが。
多分わたしの知能面ではピークだったのだろう。
その後、良い恩師に巡り会い、導いてくれたなら、素晴らしいサクセスストーリーの完成なのだが、、、
残念ながら、わたしの不徳の致すところで、せっかくの良い恩師を敵対視し、自業自得の流れになった。
張り詰めた糸が切れ、崩れるのは、一瞬だ。
夫もそうなのだが、天性のものだけを維持する努力はするが、それ以上は頑張らない。
最低限の努力のみ。
料理でいえば、塩胡椒のみ。
必要なら火を通すこともある。

今、思えば、夫婦で似ている。
だめだめ夫婦だ。苦労が足りない。ぬるい。
だから相性が合わないのだろう。

と、話は逸れている。
まあそれはそれとして。
小学高学年の暗黒時代を過ぎ、中学時代は、緊張感を持ち、張り詰めて時を過ごしていた。
ちなみに、野球部エースだった親戚のお兄さんが、いつも中学時代の話をイキイキ自慢げにする。
勉強もスポーツも出来て、モテモテだったんだそう。
やがて高校に進学すると、まわりは秀才ばかりの中で埋没。
よくある話だ。
未知のポテンシャルがある未来に向かって羽ばたく時期。
もちろん頭打ちなど夢にも想像せず。
何かに打ち込んで努力している時代は輝かしい。
わたしの場合は、高校以降は、伸び切ったゴムのようだったのかも知れない。
自分の能力に早々と見切りをつけた。
サボり気質は昔から。

どんな子とも互角に全力で頑張り合った時代が懐かしい。
後にも先にも小学高学年から中学卒業までの、その6年間だけではないだろうか。
その後、余生は延々と今も続いている。


吐きそうになる

2024-11-15 | 思い出
わたしは、高校の時、写真部だった。
ほとんど活動はしなかったが。
昔、好きなものは、今も好きなのかなあと思う。
ピアノは、好きではなかった。
練習嫌い。
先生宅でピアノレッスン中、幼稚園の元同級生男子(名前もフルネームでしっかり覚えている)が、同じ部屋で順番待ちしていたが、それが嫌で嫌でたまらなかった。
下手な練習していない演奏を聞かれたくなかった。
苦痛だった。
相手に罪も非もなく、まったく100%自業自得ではあるが。
ピアノの先生のお姑さん(同居)には、同じ家で、習字を習っていた。
2つの習い事が、応接室から和室に部屋を移動するだけで、同時に行えて便利ではあったが。
ピアノの先生は、フルネームで名前も、顔も、声も覚えているが、この優しい人はわたしの小学1年の時の担任の先生でもあった。
先生の舅さん、姑さん、ご主人、2人のお子さん(男児)と住む、閑静な山の手にある家に、わたしは毎週、通っていた。
背の高い素敵なご主人というイメージを抱いている。
といっても当時の私は幼稚園児〜小学生、、、ご主人は、私の父親世代。
2人の男児は、わたしより、ほんの数歳、歳下の下級生。

(昔の思い出を綴るのは、老化防止に良いらしい。
が、読む側にはスクロール、スキップ箇所です)

書道、また、してみようかと、ふと思っている。
大筆から小筆に移り、小文字さらさらになった段階で、わたしは習字のお稽古をやめた。
平安時代の歌をさらさら書くかのごとく、京都の米菓子のパッケージに記されているような、優美な文字。
なのではあるが、当時、小学生だったわたしは、なよなよ字は、嫌だと思った。
なので、小学校高学年で習字はやめた。
ピアノは、幼稚園の時から小学校卒業までレッスンに通っていた。
ろくに練習しないから、上達はとても遅い。

今になって、ピアノ再開。
といっても、またすぐ飽きるかも知れない。
耳で覚えている曲をわりと適当に弾く。
音が濁ると、楽譜をチェックして、左手の指を総動員して抑えている鍵盤と、譜面をもたもた照らし合わせる。 
その度に、曲の流れは遅くなったり、止まったり。
が、リズムはかなり怪しい。速くなったり遅くなったり。
正しい音楽にはメトロノームが必要だが、今のわたしには不必要。
自分感覚。
お隣の家の人は、さぞや、いい加減に曲を弾いていると思っていることだろう。
日中しか弾かないし、迷惑にならないよう、短時間にしている。
というより、わたしが飽きないよう、わたしのために、1日30分にした。
いつ、やめるかもしれない、儚い、わたしのピアノ演奏。
だけど、一から始めるよりは、楽。
幼い頃から(不真面目とはいえ)やっているので、だいたい感覚はつかめる。
回り回って、練習嫌いのわたしにピアノを習わせてくれた親に感謝する。
もう頑張らなくていい時期、林住期に、ぽーんとブランクを隔てて、突然のプレゼントになった。
ハマるかどうかは、わからないが。
明日から、やる気をなくす可能性もある。
何しろ、気ままな性格に、自分ながらほとほと悩まされる。

ちなみに。
話が変わるが。
同じ趣味(ダンス)の、ある人のSNS日記を読むと、すごく不快感を覚える。
共通点があるからだろうか。
自分に、うっとり浸り切っておられる。陶酔。
わたしはそういうのが、とても苦手なのだ。
側に洗面器が必要なぐらい。(嘔吐準備)
人には人の世界があり、不可侵。
呼ばれてもいないのに、嫌なら見に行かなければよい。
近寄らなければよい。
怖いもの見たさに、ついつい、キケン!注意!と、アラームがチカチカしているのをわかっていながら、わざわざ近寄っていく、わたし。
いったい何なのだろう?
そんな、何の得にもならない、くだらないことは、極力避けよう。

わたしは、何に対しても中途半端なので、どうもいけません。
自分より数段、優れて上にいる人に対して、勝手に卑屈になり、イジケる。
そういう深層心理が働くのだろうか。
でも、自分は自分。
亀のように鈍(のろ)くてもいい。
真摯に付き合い対峙する、謙虚な気持ちは大切にしたい。

※写真は日曜日、朝の琵琶湖。

こころの故郷は、リアル故郷

2024-10-13 | 思い出
さて、今からは、スルー100%オススメの、自分だけが、ムフフと喜ぶ、マイワールドの内容を書きます。
共通ポイントが無いのは明白で、皆さんの大切な時間を奪うのは心苦しいため、読むのはご遠慮ください。
今日はご訪問、ありがとうございました。
店主の都合で、お店、閉めてます。

・・・・・
誰もいなくなったところ、、、で。
幼児が毛布やお気に入りのぬいぐるみをモフモフ頬ずりするかのごとく、自分がただただ楽しい、脳内モフモフタイム。
(ちなみに、動物ペットを飼う趣味はありません)

宝箱から、集めている大事な宝物を眺め愛でるかのごとく。 
こういう状態が、わたしの脳内癒し時間。
書くことで、より鮮明に記憶が蘇る、老化防止、一種のリフレッシュ療法。
結果はたまたまそうでも、それを目的にしていない、ただ単に書きたいだけ。書くのが好きだから。

内容はごく普通なのだけど、幼い頃の自分を思い出したり、楽しかったことを回想したり。
バリバリの若い頃の回想より、今はなぜか自分が子供の頃を思い出すと、にんまり、ほんわかする。
自分が、今の孫の年齢の頃に戻るなんていうのは、認知症が忍び寄っているのかも知れない。
頭に浮かぶのは、小さい頃、きょうだいで実家で過ごしたことだったり、、、。

わたしの父は、俗文化が流入するのを嫌がって、テレビを買わなかった。
自動車やピアノはあるのに、テレビはなかった。
それで、隣に住む、いとこの家に、テレビを見させてもらいに、きょうだい3人、首を揃えて夕刻にお邪魔した。
いとこは、一人っ子(女児)で、チャンネル権を持っていた。
歌番組にしていると、別番組が見たい兄は、涙を流して悲しんだ。
わたしたち姉妹は、歌番組はwelcomeだったが、兄は違った。
女児3人の中で、声を殺して泣く兄。可哀想だ。
優しい穏やかな兄だった。

兄のことを思うと、涙が出て止まらないから、この話題はやめよう。

今も実家は現存し、当時のまま。
3度、大規模改装し、部分的には何度かリフォームしたり、阪神淡路大震災後は屋根瓦を全面修繕、やり直したりしたが、大枠は建設当時(大正時代)のままである。
建設当時の工事の様子を(自分の親たちに聞いたという)親戚から聞いたことがある。
祖父が若い頃に建てた家は、古いが堅牢でどっしりしている。
祖母は、祖父亡き後も、その家に88歳まで暮らした。
わたしが中学生の頃(半世紀前)に母が買い求めた家具や、手直しして整えられた建具もそのままで美しさを放っている。
金の錦糸が織り込まれた母の(キモノの)帯は、引き戸に貼られ、内装クロスとして優美に甦っている。
それより前からある家具は、そのまま現存している。
大正の流れを、昭和に両親の手によって、趣味や感性を反映し、時間をかけて丁寧に磨き上げられた。
その家や庭、調度品、空間を、美しいまま、今も見ることが出来て、わたしは幸せだ。
子供の頃のことを昨日のことのように思い出す。
しかも、それがそのままの形で有り、いつでも訪れることが出来るのだから。
わたしにとっては、自分だけ歴史文化博物館。

とは言え、いつまでも続けばいいが、距離を取ろうとも思う。
なぜなら、自分の思いや理想はいつまでも維持できず、落胆する可能性があるからだ。
美しい思い出は、脳内に保存すると壊れなくていい。
脳内にデータ保存。美しいまま。
ではあるものの、後、20年ぐらいは現状を保てる、そういう見通しだ。
わたしの脳・完全消滅時期までは大丈夫だと予想する。

が、多くの人が訪れて使うと家具は傷む。
お気に入りの家具だ。
滅多に使わなかったから美しいままで保存されていたのに。
よく、お城や武家屋敷や異人館などを見学に行くと、室内に、ロープを張って、当時の椅子に「座らないでください」と注意書きが施されている。
そういう手段で、使わないように、劣化を防ぐ隔離方法もある。
みすみす劣化していくのを目の当たりにするのは、忍びない、辛い。
大事なものには、あまり深入りしないほうが、こころの安定を保てる。

・・・・・
はい、終わりました。
文字で蘇る、今日のわたしのこころの旅。
現実は、過去から現在に繋がり、未来にも繋がる。
この思い出がある限り、加齢による脳機能が衰え、益々、脳が現実からいくら離れて行っても、こころ穏やかに過ごせる。

※写真は、JR山陽本線の駅舎、出入り口、ワンカット。


思い出が、あっちに行ったりこっちに来たり

2024-06-08 | 思い出
姑(故人)と母(生存)、1歳違い。
彼女たちの青春時代は戦争一色。
姑は女学校時代、同じ近畿圏内に移動させられ、そこの軍需工場で学生勤労奉仕。
主要軍需工場のため、ピカピカ、バンバン、空から爆弾が降ってきたらしい。
大人になってからも、雷が鳴ると、子犬が震えて陰に隠れるように、姑は異様に怖がっていた。
母からは、戦時中の話を聞いたことはない。
母の兄と、母の姉の夫は、戦死。
話したくないのだろう。
あるいは、起こってしまったこと、済んだことは振り返らない楽観主義?
舅と父(ともに故人)は7歳違い。
舅からは、戦争の話は一言も聞いたことがない。
が、ご近所の皆さんからの、大きな白い布への寄せ書きや、満鉄?の軍票(当時の紙幣?)など、戦争グッズは残存している。
父は、飛ばされた戦地の縁あった人々を、戦後、何度か日本に招いていた。
わたしは家に来たマレーシアの女性と、子供の頃、お話した記憶がある。
台湾女性が日本で台湾料理店を営んでいて、そこに食べに行ったこともある。
甘酸っぱい酢豚に、入っていたパイナップルときゅうりが、わたしにはインパクトが強かった。
(当時小学生低学年?)

戦地での記録を父がパソコン入力し、データを義姉がプリントアウトしたものがある。
我が家の2階の、ガラクタ山の中に埋もれている。
根性を出して探せば見つかるが、内容は記憶の中だけでもいいかも。
父は戦地に赴く前の写真もある。
家の前庭で両親(祖父母)と共に写っている。
(その場は、今も現存)
ひとり息子を送り出す祖父母は、どんな気持ちだっただろう。

高校の社会科の先生が、戦地から九死に一生を得て生還した話を授業中に聞いたことがある。
「戦争経験者は、目が鋭い、決して目は笑っていない」と、彼は鋭い笑わない目で語っていた。
高度成長期の生まれ育ちのわたしには、ぴんと来なかったが、どうも我々(生徒)は、弛んでいるそうだ。
檄を飛ばされていたわけか。
「あいつらの目は腐っている」と当時の特定の集団を指して糾弾していた。
今なら絶対に、NG発言だ。不適切どころではない。
すでにわたしの時代も、古き時代。

ではあるものの、わたしの学校では、廊下にバケツを持って立たされる、とか、体罰とかは、全くなかった。
ちょっと時代が5年以上ズレるのか。
というか、そんなヤンチャな子供はいなかった。
一般的な開かれた学校ではなかったので、あまり参考にはならないが。
当時生徒だったわたしが面白いと思ったのは、教師がエリート意識を持っていること。
これ、おかしい、かなりパラドックスである。
教師も人の子、生き甲斐をもって職務にあたるのは良いが、生徒にプライドを明言しなくてもよいものを。
もう老成、老熟していたと思われる(自分で言うか?)当時の生徒のわたしは、先生の意識は勝手に各人、持っていただいたらそれで結構なので(わたしには関係ない)、わたし自身の進む道さえ確保出来ればそれでよい、と思っていたフシがある。
自分が小学4年〜5年ぐらいの時にわたしは、教師を見限った。
教師なんかは生徒(わたし)を理解していない、結果だけで判断する、ということを強く思った。
教師不信というわけか。
その割には、わたしは不良にもならず、問題も起こさず、消極的ではあるものの、目立たず大人しく、過ぎて行ったものだ。
不良になるには、逆噴射エネルギーがかなり要るので、わたしは明らかにエネルギー不足だった。
嵐が吹き荒れる家庭生活に日々、疲れていたので、学校には息抜きに行っていたようなものだった。
どこにもエネルギーは存在しない。
鬱憤が溜まる余裕もなく、家庭のストレスを平和な学校で癒していた。
変な構図だ。
自分は劣等生で追い詰められる学校にストレスを感じないなんて、おかしい。
おそらく劣等生であることは、たいしたストレスではなかったのだろう。
家庭に比べると。

ちなみに。
成長過程の子供にとっては、学校と家が全て。(習い事は、学校に含まれる?
部活も学校に含まれる? どうなんだろう?)

学校でも家庭でもない第3の緩和ゾーンが必要だとされている。
緩和ゾーンは、趣味のことや、こころを解放できるところ。
習い事は微妙なポジション。
しかしながら、なんやかんやとアワアワいっている間に、すぐ卒業して、あっという間に時間は経つ。
全ては思い出となり、混ざり込んでしまう。


※写真は、昨日の枚方市山田池公園の花菖蒲園。
2年前は一面、見事だったのに、マンパワー不足のため、すっかり菖蒲の規模が縮小されていた。
こんなところにも、経済衰退をひしひし感じる。





カッコイイ彼

2024-06-04 | 思い出
わたしが初めて(学校以外で)お付き合いした男性K。
わたしと同じ歳、同学年。
中学から、それぞれの地域の公立高校や、地域は関係ない私立高校に進学するが、K市のH高校に進学した元クラスメイトから、H高校のKの名前を後で聞いたことがある。
出会ったのは、高校を卒業したばかりの年の3月。
アルバイト先で、お客さんとして、いつもKは友達と2人で来ていた。
どうやったら、わたしと近づけるのか、2人で話し合っていたようだ。
その時の背がひょろ高いKの友人の顔を今でもはっきり覚えている。

Kは、大学入学に際しては浪人したが、1年後には第一志望ではない大学に入った。
学部的には偏差値は高いが、Kは志望大学には、こだわりがあった。
身長180センチで、すごくスタイリッシュでオシャレな男子だった。
いかにもKOBEっ子というかんじ。
Kからもらった錨デザインのシルバー・ブレスレットをまだ持っている。(捨てる機会がなかった)
今、思えば、お付き合いが続かなかったのは、わたしのせいもあるようだ。
当時は、自分の発言、主義主張はどういう意味合いを持つのか、全然意識がなかった。
単純に思ったままを口にしていた。
若き日は、無知な日々。

まあそれはそれ、として。
Kと結婚しなくて良かったと思う。
あんな、カッコイイ、ハイスペック男では、絶対に上手くいかないのは、見え見え。
わたしたちは、まだ10代で青かったから泥沼にはハマらなかったが、それで良かった。
沼にも行きつかず、せいぜいハイキング止まり。
無意識なりにわたしは自分の人生を自分で作って、実践していたようだ。
親の影響が大きかった。
自分が幸せになるのはどんな男性かを本能的に嗅ぎ分けていたと思う。
垢抜けないダサい人が合っているみたい。

過去を振り返ると、わたしに好意を寄せてくれるのは、ダサい人ばかり。
なんで?
カッコイイ人は見事に素通りした。
ダサくて性悪の悪人なら話にならないが、ダサくて「真面目」がセットになっている。
意地悪だとか、小狡いだとか、悪知恵を働かせるとか、そういう手は使わない。
小悪党でも大悪党でもない。善人。
信頼できる。
ただし、ダサいのだけが、いただけないが。
(自分ではダサくないと思っているようだが)
まあよい。
知らないことは、幸せなこともある。
ダサさは、生まれつきなので、努力してもどうしようもない。
センスの問題だから。
たとえ、美容整形手術をしても、センスまで変えられない。
カッコ良さ分野のセンスが悪くても別に何の問題もない。(逆に、見かけ倒しはイタイ)
たんにモテないだけだから。
モテないのは、安心出来る。
が、モテない男性がプロ女性に走るケースもある。
だんだん垢抜けてくるかというと、そんなことはなく、やはりダサいまま。
別にかまわない。
センスは磨かれる場合もあるが、磨かれないこともある。 
だが、センスへの欲求は捨てない。
(本人は、いつまで経ってもセンスないが)


話を元に戻す。
Kと結婚していたら、離婚していたかも知れない。
お付き合いも入り口で止まり、結婚もしてない、、、のに、取らぬ狸の皮算用とは、このことだけど。

わたしが知る男性たちは、自分は相手より上に立ちたい、優越感をベースにしていると感じることが多い。プライドが高い。
その代わり、こちらは、相手のダサさに目をつぶる。
こちらもプライドが高い。
なので分野が違うプラマイゼロ、取引は成り立つ。
理性と感性のやり取りかも。

素朴で純粋な人もいるが、わたしが素朴で純粋ではないため、接点がない。
が、今はわたしは高齢者になって、こだわるものがなくなったので、接する人への基準や価値観は、ころっと変わった。

ハイスペックはもう必要ない。
若いカッコいいルックスは高齢者にはあり得ない。
なので、2大要素が脱落した後に残るものは、、、お人柄。
外側をはずした、素の本人。
そもそも、若い時から、「人柄」が最重要なのに、そう感じていなかったわたしは、目が見えていなかった。
この歳になって、やっと見えて来た。
かなり遅いが、感動することが増えて、今は、お得なオマケ付き人生だ。



自分の昭和

2024-04-16 | 思い出
昭和レトロが人気らしい。
歌謡曲も、昭和歌謡。
令和の10代、20代は、石原裕次郎とかではない。
松田聖子、中森明菜、、、
が、似たような時代?
対象が違うだけか。
オッチャンと若者。
わたしはオッチャンではないが、いやというほど石原裕次郎の歌を誰かが安酒場で歌っているのを、かつて、聴いた。
歌が出来たのは、もっともっと前。
感情移入、全く出来ず。
世代背景は同じなのに、やはりわたしはオッチャンではないからだ。
リアルタイムでビートルズを聴いた第一期ビートルズ世代にしては、わたしは少し若い。

今、思えば、貴重な時期をつまらないことに必死になって潰してしまった。
子育て、家庭を犠牲にしてまで大切なものか?
ノン、否。
「自分育て」と「家庭育て」を同時進行していた。
当時は洗濯機の中に、あれこれ一緒くたにして回していたようなかんじか。
だが、後にならなければわからない。

家に引っ込んでいたら、もっと後悔しただろう。
当時は必死だったが、個人的嗜好に走っただけで、たいした成果はない。
何度も言うようだが、自分の欲求、満足のために、家族を犠牲にした。
(捉えようは様々だが。自分が理想とする良妻賢母ではなかった)
そして、自分のすることなど、たいしたことはなかった、ということがわかったのだから、上出来だ。
ごめん、わたしの家族たち。
「自分育て」の(結果的には)踏み台にした。
女性も時代と共に自立に向かう。

しかし、全身全霊をかけて子育てしていたからといって、自分が納得できず満足してなければ、どうか。
良い結果が得られたらいいが、悪い結果になっていたら、努力はパー。
子供たちに自分の全エネルギーをかけていたなら、成果を当然求める。
自分の理想を子供に押し付ける。
ある意味、広々柵付き放牧状態は、そう悪くはない。
過保護で子供の自主性の芽を摘むよりはマシと思っている。
自己擁護に過ぎないが。

とは言え、やってない架空のことを想像しても、実際にはやってないのだから意味がない。
やってきたことだけが残る。
あの時の選択では正しかったのだ、と思う他はない。

自分としては、親には感謝。
それだけだ。
甘いわたしは、「求め過ぎるな、足(たる)を知れ」とは言われたが。
それにしても、昭和の高度成長期はすごいパワフル。
その時代に育ったことはラッキーだった。
各、個人によって様々なケース、違いはあるにせよ。
あ、ついでに夫の親には感謝。
「ついで」で申し訳ないが。
さらについでに、夫にも感謝。
どこに最も感謝かと言うと、今まで健康にいてくれ、休むことなく働き続けてくれて。
あとは、DVも借金もギャンブルも不貞もせず、たいしたトラブルも事故もなく、平穏無事に今日まで来た。
故障しなかった身体とメンタルに、感謝。
今後は歳を取って行くので、生き物の常として、衰えることは必至。
努力も最低限、抗うのも最低限にして、受け入れながら生きていく。

※写真は、八尾市の江戸〜明治の旧家。
土間の雰囲気が、田舎での幼い頃の記憶とオーバーラップする。

女たちの暮らし

2024-03-10 | 思い出
わたしは、夫と別れようと思ったことは一度もない。
(母が勧める)別の人と結婚していたらよかったと後悔することはあるが、まだ学校を出たばかりの当時のわたしは地に足が着いていなくて、真剣に結婚に取り組んでいなかったため、ご縁を逃した。
やがて、本腰を入れて結婚に向かい合い、夫と結婚することを決めたのは自分だ。
なので、自分がしたことは自分で責任を取らなければならないと思っている。
そして、祖母や母の言うことは、女性の生き方の先輩だけあって、ずしりと重い真実のアドバイスになっていることがある。
祖母や母も、そんなに気負って重大発言のようには思っていなかっただろうけれど。
自分の体験が生み出す声がぽろりと漏れたのだと思う。

自分自身の器には、適した大きさの器がある。
自分より素晴らしいものを棚ぼた式で望んでも、無理やりその場はどうにかなっても、やがて綻びが生じる。
覚悟して死に物狂いで頑張って努力したら、器は大きくなっていたかも知れない。
が、たいした努力もせず、周りの皆さんの厚意や好意、愛情に包まれ、今日まで来てしまった。
今日の安泰は、たまたまだったかも知れない。
ではあるが、明日のことはわからない。

母は、わたしが若いある日、こうも言った。
「望み過ぎるな」と。
わたしが現状に対する不満を母に述べた時の返答だった。
祖母は、わたしが学生のある日、こうも言った。
「選び過ぎるな」と。
祖母は当時のわたしのことをさほど知らないはずなのに、重い一言だ。
直感で感じるものがあったのだろうか。

祖母には仕事で多忙な母に代わって、幼い頃、衣食住のお世話になった。
母は、わたしが生まれた頃に、父の仕事の手伝いをするようになり、両親共働きのような日常だった。
代わりに祖母が孫たち(わたしたち、きょうだい)の日々の面倒を見てくれた。
そう書くだけで涙が出てくる。
感謝の日々だ。
田園風景が広がる田舎での幼い日は、家族からの愛情に囲まれていたと想像する。
祖母は当たり前の家事の日常に、そんな自覚はなかったかも知れないが。

今日もまた自分のぽたぽた溢れ出る天然涙で、セルフ セラピー、ヒーリング タイムとなった。


幼い頃の記憶

2024-03-01 | 思い出
とんがったりしてるのは、ある意味、切れ味が楽しめて気持ちいい。
へんに丸くなったり、人が出来てくる(人格が整ってくる)と、信頼されたり、安心はするものの、規格外、予想外のことをしなくなるので、面白くない、ツマラナイ。
荒削りなエッジが、切れ味よく刺激になる、そういう感覚、感触が鈍化する。
その代わりに、ピースフルでマイルドになる。
両方は、逆ベクトルなので両立、同時存在は難しい。
わたしは、どちらかというと、なんでも両極端あり、真ん中のところに自分で意図的に来て、どうにか均衡を保っている。
平均値は中央値。
2つの両極端を足して2で割っているだけ。

「練習」では両極端を、常に一定にすることを目指す。
が、なかなか、混ざらない。
すごく良いか、すごく悪いか、にしかならない。
あとは、まあまあこんかもんかな、という妥協レベル。
自分と向き合って、かれこれ65年は経つ。
(年齢➖2歳)
3つ子の魂、百まで、で、3歳の時の記憶もある。
幼児の頃、大惨事に見舞われトラウマが生じた人もいるだろう。
たまたまそういう不幸な出来事には遭遇しなかったものの、幼い時の自分の行動や発言が今でも蘇ることがあり、冷や汗が出る。
子供のすることだから、周りはそういう目で見てくれたことだろうけれど、今、思えばやはりとても恥ずかしい。

今の子供はお利口だし、口のきき方もスマートだ。
わたしが子供の頃は、教えられていないこともあり、自分に自覚がなく知らないにせよ、ひどい。
両親は仕事に忙しく、子育てどころではなかった。
たまに接する夕食の時間は、父の躾が厳しかった。
特に品のない言動は嗜められた。
母が万年未成年・大らか健康優良児だったため、父が躾には口を出していた。
とてもうるさい人物ではあったが、わたしは、父を尊敬していた。
父の血を受け継いだら良かったのだが、哀しいかな母のほうに似ているような気がする。
これは、DNAではなく、環境かも知れない。
おなじ両親から生まれ育った、兄や姉とは、わたしは少し違う。
が、どちらかというと、わたしは兄寄りだろう。
世間から遠いタイプ。

わたしは、兄が18歳の時までしか一緒に暮らさなかった。
わたしはまだ中学生。
知っているのは、兄の高校卒業まで。
姉とは女同士、歳も2歳しか離れていないので距離が近く、お互い、結婚して家を出てからも、やり取りはずっとある。
姉のことは、スーパー(ウー)マンだとわたしは思っている。
父はよく姉のことを「女性にしておくにはもったいない。男だったらどんなに良かったか」と嘆いていた。
姉は、なかなか能力のある人物である。
同じ両親から生まれ育ったのに、なぜ、こんなに違うのか。
神様のイタズラに他ならない。

幼い頃のエピソードも、同じ事柄があっても、姉とわたしとでは全く受け取り方や感想が異なる。
姉が言っている当時の出来事に対して、わたしは、ほぼほぼ、何も感じず何も考えていない。
脳みそは完全に休眠状態である。
「なぜ、そんなことを知っているの?
わたしは、全く聞いてないよ」
と言ったところで、脳が動いていないのだから仕方ない。
代わりにわたしは何を見て、何をしていたのだろう?
お花畑で蜂に刺されながら飛び回っていたのかも知れない。

姉が思考が深いため、わたしはお任せ、丸投げで、全く何も考えなくなった。
そうして長い時間をぼーっとしていたら、娘たちに、叱られる事態に至ってしまった。
「負うた子に教えられ」ではなく、「負うた子に叱られ」である。
これは、昔から言われる「老いては子に従え」なのだろうか。
従うつもりはないが、彼女たちは至極まともな事を言っている。
ごもっとも、その通りなので、従わざるを得ない。
ずいぶん成長してくれたものだと、感慨深い。
が、叱られてばかりでは面白くない。
わたしは年寄りなんだから労られなければならない、、、が、まだ元気なので、労られない。
自立している間は、頑張ろう。
助けが必要になれば、たぶん、踏み付けては行かないと(甘く)思っている。

話は、またまた逸れている。
幼い頃の記憶が蘇る話、、、。
幼い孫の行動にも自分の過去がオーバーラップする。
面白い。
親を見ていると、これまた自分のほんの少し先が見える。
やっぱり血は繋がっているから?
生物の普遍の真理か。


幼稚園児のわたし

2024-01-27 | 思い出
たんに自分が楽しいから、書く。

60数年前、幼稚園の時、運動会など、母親が行事に参加しない園児は、わたしとY君の2人だけだった。
Y君のお母さんはワーキング・シングルマザー。
わたしの母は、ワーキング・マザー。
母親がペア相手になる軽運動では、いつも、Y君とわたしの相手は、それぞれが幼稚園の先生だった。
わたしは、寂しい思いをしたかというと、それが全く何とも思わなかった。
事実を受け止めるのみで、感想はなかった。
いつも母親が顔を出さないのは、Y君とわたしだなあと、思うだけだった。
とは言え、ごく稀にY君のお母さんの顔を幼稚園(または小学校)の行事で見ることがあり、(それ以来一度も見ていないにもかかわらず)今でも彼女の顔は覚えている。
それだけ印象に残っているのだろう。
(Y君とは中学卒業まで同じ学校だった)

当時の幼稚園には給食はなく、お弁当持参だった。
別の子、H君のお母さんはプロの料理の先生で、お弁当の時間にはいつも彼の周りに先生たちが見学に来ていた。
素晴らしいプロのお弁当に、先生たちは感嘆の声をあげていた。

さて、わたし。
お弁当を持たせてもらえるのは遠足の時だけ。
サンドイッチだったりすると、とてもとても嬉しかった。
あとの普通の日は、幼稚園に向かう途中の店で自分でフルーツ牛乳と菓子パンを買っていた。
わたしは、このフルーツ牛乳が好きで好きでたまらなかった。
(今でもオレンジベージュ色の飲みものを見るとワクワクする)
いつも、このフルーツ牛乳と菓子パンを満喫していた。

そして、お弁当を入れるボックス。
皆んなは天然素材(籐)の、小さい持ち手が付いた、蓋付きバスケットだった。
たぶん、全員それ。
色はベージュが主流。ライトブルーなんていうのもあったかも。
その中で、わたしのお弁当入れボックスだけ、赤い、シリコン?のような(素材不明)、細かい格子になって中が隙間から少し見える、異質のものだった。
それが自慢、なんてことは全くなく、醜いアヒルの子、という意識もなく、悪目立ちして肩身が狭い惨めという感覚もなく、好きも嫌いもなく、自分のだけ皆んなと違うんだなー、とただ事実だけを受け止めていた。

高校生になった頃、わたしは皆んなが持っていたベージュの籐の蓋付きバスケットを買った。
一度、これを持ってみたかったのだ。
小さく可愛いそれを(アイビー・ルック の時)お出かけバッグがわりにして愛用していた。
(今は、孫に目をつけられ、隠している)
皆んなが持っていたその籐ランチボックスに興味があったのだろう。
ずいぶん、年月が経ってからの行動になる。
この時間差実践は、わたしの特徴のようだ。

今、思えば、ソフトな化学素材のランチボックス、かなりキュートでオシャレで可愛い。
存在感のある、昭和テイストのグッズだ。(今ではレトロ)


ちなみに。
姉は目指す職業があったが、幼稚園児の時からわたしは専業主婦希望だった。
姉が頭脳明晰で行動実践力があるのに対して、わたしは、暖簾に腕押し、2階から目薬、昼行灯、昔の蛍光灯タイプだったので、自分で自分がよくわかっていたのだろう。
(ピピッと俊敏に即座に反応しない。
1を言えば100を理解するのではなく、100を言えば1ぐらいは理解する、、、が、後に長い時間を経て、あ、あれはこういうことだったのか、と理解する。遅い)
ぐにゃあ、と、していたのだろう。
どうも自分は世の中に通用するバリバリの頭脳の世界では勝負できないことがわかっていたのだろう。
三つ子の魂、百まで。
幼児のわたしは、自分を見誤ったわけではない。
正反対の姉がいたからこそ、より特徴が明確になり際立った。
面白いものだ。

なんの役にも立たないが、バリバリ出来る人々の中で緩和材になっているようなかんじか?
が、そう思っているのは自分だけで、あまりにもトロイと疎まれる。
気をつけなくっちゃ、とその場になると自分を叱咤激励する。
で、よけいにモタつく。