蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

嫉妬心

2015-06-28 | 人生

仕事とは・・・生きるために必要なお金を稼ぐ手段。

なかには、金額が多少低くても、やりがいのある仕事を選ぶ人もいる。
逆に、少しでも高いお金を得ようとして、やりたくない仕事を選ぶ場合もある。
あるいは、家庭の事情で、勤務地、勤務体制などを考慮し、選択肢が狭まることもある。

必要に迫られて、選択肢がなく、仕方なく嫌々働く場合と、
自分の使命、当たり前のこと、役割と、捉えて、能動的に働く場合がある。

辛い時や、惨めな時は、なぜ、こんな目に遭わなくてはならないのだ?と自問する。
もっと良い仕事はないか、と転職を試みたりする。
本当に転職する人も、夢で終わる人もいる。

先進国では、辛い低賃金の仕事は、他国からの出稼ぎの人に任せている実態がある。

仕事に生きがいを感じている人や、使命感を持つ人、プライドの根源にしている人、
仕事を取ると、なにも残らない人も、いる。
かつては、モーレツ社員(死語)などがいた。
今も、まだまだ過酷な労働条件で働いている人もいる。


・・・などと、おもいつくまま、仕事について書いてみたが、
リタイアした人にとっては、なんの興味もないこと?
あるいは、専業主婦の人にとっては、別世界?
かも知れない。


自分の核となるものは、何か?
絶対に譲れないものは?
自分を支える芯、価値観の元は?

わたしは、「割り切り」だと思っている。
「あきらめ」を負の感情だとすると、
「割り切り」は、ニュートラルな立ち位置から見た、感情を省いた冷静な考え。

今、一瞬(本当にアタマに浮かんだのは、思考後1秒ぐらい)、考えただけで、
延々、自分の人生を振り返って得た結論でもなんでもないが。
次のブログでは、違うことを書いていたら、こめんなさい、の気持ち。

冷静に自分の立ち位置を見る。
たとえば、どうしようもない、最低の客に、こちらが悪いわけでもないのに、頭を下げるとする。
必要に迫られ、こなしている諸々の事態は、自分を貶めているわけでもなんでもない。
ルールに則ってやっている行為である。

「こころが、こもっていない! もっと、真剣に謝れ!!」
と言われたら?
アタマの中で火山が爆発する必要はない。
相手はジャガイモか、玉ねぎだと思って、謝る。

「申し訳ございません。(ジャガイモさま)」


でも、どうしても割り切れない、こころの動きを止められない、感情移入してしまうような事柄に関しては、・・・
どうやって、割り切るのか?
きっと、知恵を絞り、アイデアを出し、試行錯誤して、調整していくのだろう。
意外な方向に向って、舵を切るかも知れない。


しかし、自分が、もっとも羨む、憧れ、目標としている生活、人生を送っている人を、
テレビや本で見るのではなく、身近に、接するはめになったとしたら・・・。
その人物は、自分とは、ほんのわずかな「幸運」という差で、今の幸せを手に入れ、
しかも、対等の立場ではなく、嫌なお客として。
こころは、「ジャガイモさま」と、冷静を貫くことができるかどうか。
わたしは、自信がない。

そういう時は、逃げる。
最低限度のことだけは耐えて、あとは、一目散。
どうせ、未来永劫の付き合いにはならない。
自分の中の「腫れ物」に触ることは、禁じると、平穏が保てる。
隔離政策を取る。

自滅ボタンを押さないためにも、危険ゾーンには、近寄らないことが一番。

棲み分けは、お互いのためである。


 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

 


文章には、書く人の性格が丸出しらしい

2015-06-23 | 日々のこと

とあるSNSで、コラムを書いている人がいる。
その人が、文体でパーソナリティがわかる、と分析している記事があった。

人の文体を分析するのはいいが、分析されるほうは、良い気持ちはしない。
なぜなら、良い評価はしないし、絶対に褒めたりしない。
客観的で、あくまでも冷静、冷徹。
人のことを分析するのはいいけれど、自分はどうなのよ、という気になる。
というか、わたしもよく、そういう分析をして記事にすることがあるが、
読んだ人の気持ちになってみると、あまり愉快ではない。

人の振り見て我が振り直せというところ。
ちょっとした反面教師になった。

びしばし斬るのはいいが、落としどころがない。
斬ってしまって、それで終わりなら、たんなる批判になってしまう。
で、どうなの?と、結論、または提案が欲しいところだ。


わたしは、へんな文章も、奇妙な文体も、個性だと思っている。
文字が詰まって真っ黒けで、改行もしない、段落ごとに分けない、一字落とさない、そういう文章も、
その人の、ムキになりっぷり、取り組みっぷりが、よく現れている。
(わたしも、読みにくいから、読まないけれど)
書く人にとっては、読まれなくてもいいのではないだろうか。
書いた瞬間に、書く意義は果たされている。

商売、ビジネスではないのだから、読まれようが、読まれなかろうが、それでいい。
閲覧数が、営業成績? 利益にあたるのか?
わたしは、そんなものは、もういいと考える。

精神世界の話などは、興味をもって読まれることがある。
ちょっと哲学めいている。
しかしながら、「幸福感は、人それぞれ」などと言って、結論をファジーにしても、
個人によって、実際の社会における状況や環境、立場が違うのだから、
ひとりひとりの個人的悩みや、こころの渇きには、答えとしてはぴったり万能ではない。

読んで嫌な気になる、斬れすぎるものより、ユーモアあふれる、お笑いの記事は、なんだか、楽しい。

 

わたしなんて・・・・・と、自己評価が低い人は、モラルハラスメント被害に陥りやすいそうな。
あ。わたしだ。
一生懸命、頑張って耐えているのは、決して美徳ではないらしい。
ものの見方を変えると、見える世界が正反対になる。
謙虚にもいろいろあって、「正統な謙虚」と、「モラルハラスメントの対象になる謙虚」があるようだ。
「もっと自信をもって!」と、研究者でもある、上記コラムニストは説く。

根拠のない自信を持っている人もいる。
いろいろだ。
わたしは、どちらかというと、「へりくだりすぎ」、と、「上から目線」とが、二本線で平行、同時進行。
自己評価の基準軸が二つある。
厄介ではあるが、自分のことは、自分が一番よく知っている。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

 


 


生活圏が自宅近辺の、ブログ好き専業主婦

2015-06-17 | 日々のこと

わたしのブログ、ちょっと彷徨っている。
おおいに彷徨っている。

わたしが面白いと感じることと、世の中の皆さんが面白いと感じることが、違うようだ。
世間基準から、わたしの感度は、微妙に、ずれていると感じる。
生活者意識が薄いのだろう。

ありえない夢みたいなことばかり言って、その日、しなければいけないことをしないで、
空想的な絵空事を延々と話している、女の子、・・・
(あえて、「女の子」ということに、しておきました)
「○○ちゃん、いつまでもおしゃべりしてないで、宿題は済んだの?」と、母親に叱られる小学生、の図。


ああ、そういえば、
今年の山本周五郎賞は、小説「ナイルパーチの女子会」(文芸春秋)が受賞したそうだ。
大手商社勤務の総合職女性と、ブログに生きがいを見い出す専業主婦の間に芽生えた友情物語だとか。

甘いストーリーではなく、一見仲良しだけど、こころの中はドロドロ、女同士の闘いのようなものらしい。

「ナイルパーチ」は共食いも辞さない凶暴な肉食魚のこと。
海外出張もこなす総合職女性と、生活圏が自宅近辺に限られる専業主婦の交流を描いているとかで、
こういう環境の違う2人が、偶然出会ったときに互いに感じた煌めきは、瞬く間に色褪せ、感情がもつれまくるようだ。
ライフコースが多様な女性同士の、友情の困難さや煩わしさ。
分かり合えるはずがない。

わたしは読んだわけではないが、そしておそらく、いや絶対に、買わないと思うが、
(ひょっとしてハードカバーではなく、薄く小さいサイズの本で古本屋で安かったら買うかも?)
紙(本)はかさばるから、あとに残って、不用品扱いになるのが困る。

しかし電子図書は、目が疲れる。
が、リスクを冒しても、読みたい気持ちは、大いにある。
(電子図書は、購入しないだろうけれど)
「ブログに生きがいを見出す、生活圏が自宅近辺に限られる専業主婦」
これに、おおいに興味を引かれる。
あれ?わたし?と、どきんとしたブロガーさんは、少なくないだろう。
大手商社勤務の総合職女性は、ちまちまブログを書いたり、行ったり来たりする膨大な時間はないかも?


わたしも、別の小説テーマがアタマにちらりと浮かんでいるが、
アイデアが浮かぶだけで、一向に着手する様子がない。
賞をとった作品に刺激されて、小説を書いてみようなどとは、そもそも思ってもみないが。
そんなわたしに、なぜか、「書いてほしい」と言う不思議な変わった人がいて、
そう言われても「無理!」と苦笑いするのみ。

パワー不足、能力不足、根性不足、やる気不足、モチベーション不足、情熱不足、はなはだしい。
たとえ、やる気や根性はあっても、決定的に能力がない。
基礎能力と、生み出す力、才能がない。
その最たるものは「才能の欠如」。

頭脳労働は、もはや向いていない。
現実の実作業をちょいちょい、ちょこちょこしているのが、適合していると思われる。
しかも、しっかりしていない、抜けていてボケていることが発覚しない程度の難易度の作業、行動が、ちょうど良い。
自分の小さな小さな幸せを守るスタンスになっている。

あと三分の一も人生が残っているのに、ちょっと消極的すぎるか?
でも、人それぞれ。

人生のペース配分は、自分で決める。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

 


夢を見ると楽しい

2015-06-16 | 日々のこと

母が受診する病院に付き添って行った。
その膨大な待ち時間に、「スマホで、こんなことできるよ」と、
いろいろ画面を見せながら、紹介した。

「こんな小さい画面で、なんとまあ・・・なんでも出来るんやね」
と母は驚く。

こんなに機能がいっぱい詰まっていたら、さぞかし高いだろうと言う。

「高くないよ、これは、窓口みたいなものだから。
大きな博物館や図書館に、この窓口から見に行っているかんじ」

そう説明するが、わかっているか?


「借りてるん? 借り料は、月、いくら?」
「機械は買ってるけど、中身は、買ってない」

「その図書館は、どこに、あるん? どうやって行くの?」
「世界中にあって、通信でつながっているんよ」

「ほら、この病院も、調べたらすぐホームページにつながるし、
今、わたしたちが座っている、この待合室も、写真がのってるやろ?」
「ほんまや。この写真、ここやね。でも、誰も座ってないよ」
「そりゃあ、誰もいない時に撮影しているから」

「家族写真も、娘が毎日アップしているから見れるよ」
「これは、カメラなん?」
「カメラでもあるけど、アルバムでもあって、家族で共有しているから家族同士は見れるんよ」
「それは買うの?」
「無料のもあって・・・親切な人がいて、タダで使ってもいいものもあるし、有料のものもあるよ」
「どこで買うの? どこにつながってるの?」
「世界中の通信で・・・このスマホの向こうで・・・」

話ながら、きっと、一時間後には忘れてるんだろうなあ、と思いつつ、
自分の理解率アップ、人に対する説明スキル向上の練習になるだろうと、ぺらぺら話していた。

「こんなこと、できるなんて夢みたいやね。いつから、こんなこと、出来るの?」
と母は驚く。
が、5年以上前に、実家でインターネットの手ほどきを義姉から受けたものの、
まったくぴんと来ず、理解を示さない。
ケータイのメールもしない。
アナログ人間なので、目の前にある、存在するゲンブツにしか実感がわかず、興味ないんだろう。
あの年代の人に、機械ものは、無理。
(姑とは、連絡事項はメールでやりとりしているが)

それに加えて、母は、夢のある事を開発したり創る研究には、絶対に向かないタイプ。
ひたすら、言われたこと、あるいは、自分がしたいことを黙黙とするタイプ。
自立し、自分で食べていく世の中の人、ほとんどがそうだと思うけれど。


夢では食べていけない。
が、ほんの一握りの、現実から少し飛び出した、夢のような発想と、技術を結びつける人のお手柄で、
我々は、それまでは夢だったことが、現実になったりする。
夢のような世界に浸ったり、それまででは想像できないような便利な生活を普通に送ったりできる。

夢だけを見て、苦しい現実から一瞬でも逃避するもの、ひとつの手かも知れない。
が、夢を空想から具体案につなげ、試行錯誤していく、時間と、こころと、体力と、お金の余裕があれば、
夢をただただ、モルヒネのように使うのではなく、立体的に組み上げていくととても楽しい展開が広がる。

馬車馬のように働くことが美徳とされ、
自分の時間を犠牲にして、がむしゃらに働くことが賞賛、推奨されていたのに、
いまや、時間外なのに頑張っている社員が対応してくれると、
「ブラック企業?」と、負の疑問を投げかけられる。

世の中、変わりました。

でも、夢を持つのは、わたしは、大好き。
母に、いろいろ説明しながら、この人、まったく理解してないだろうなあ、と思いつつ、
じつは、自分(わたし)自身が楽しんでいる自分を発見する。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村


ギリギリのところ

2015-06-11 | 人生

薄倖にもかかわらず、耐えて一生懸命生きている人は美しい。

仮に、薄倖ではなく、恵まれた環境だとする。
耐える部分のエネルギー、時間を、自分の能力アップに注ぎ、自己実現を目指し果たしたとしたら?

これは、他人の目には美しくは映らない?
よほどの卓越した人でない限り、うざい人、妬みの対象になる。

あの人は、恵まれているだけで、特別だからね。
自分とは、生きる世界が違うと感じ、共感はしないことだろう。
呼び起こされる必要もない劣等感を喚起されるのは、ごめんだ、ということで、
できれば、近寄りたくない。

少しハンデがあり、頑張っていると、応援したり、手助けしたり、サポートしたくなるのは人情だ。
このハンデの種類、性質は、自分ではどうすることもできない。
自分が悪いわけでもないし、落ち度があるわけでもない。
逆境の類。

しかしまあ、世の中というものは、スパイラルになっていて、
良くないことは、重なる。
不運には不運が付いて回る。
不幸な人は、どんどん不幸になる。
そういうスキをめざとく嗅ぎつけて、新興宗教だかなんだか、あやしげな団体が擦り寄って来る。
そっと、すっと、こころに、寄り添って来る。


ちなみに・・・

自分を表現しない、欲求を押し殺す、押し出さない、意欲を行動に示さない、
そういう性格、考え方の人がいる。
明治の女性は、そうだったかも知れない。
女性は、男性の従属品であり、親や夫、子供に仕えるのがよいとされた。
平成の世の中にいれば、希少絶滅種だ。

これは、当然ながら、決して推奨などする気は、さらさらない。
考える能力がないと見なされる。

が、かんじがらめで、ほんとうにどうしようもない環境の人に対して、
がんじがらめではない自由な立場の人がコメントするのは意味がない。
不幸な人には、幸せな人は、なにも言えない。
お互い、違うところで棲み分けをするしかない。

どうしようもなく不幸な人は、どこかの宗教を信心していることが多い。
苦痛をやわらげるために苦肉の秘策だ。

ただ、幸せと不幸せには、境界線、ボーダーライン、グレーゾーンがあり、
ひょんなことで、場所を入れ替わることがある。
そこらあたり、人生の深いところ。
明暗が交差する。

わたしは、他人の人生には首を突っ込まない主義だ。
抜けられないと困るから。
合理主義。自分の人生だけで、精一杯。
常にニュートラルの位置で、どこにも動けるようスタンバイしておきたい。
そして、生活は、小さく。質素を美徳としておくぐらいが良い。
大きな派手な生活にすると、動きが取りにくいし、突然の変動に対応しにくい。
省エネ生活をこころがけたい。

考えることは、大事だ。
考えがないと、流れに呑まれ、嘆くだけになる。
考えることは、自分を守る。
しかしながら宗教も時には、手助けになることもある。


わたしは、家にポスティングされる宗教の冊子をざっと読む。
内容部分は要らない。
導入部だけで、良い。
詳しいことは、直接○○会へ、となっているが、詳しいことは要らない。
そのあと、どうしろ、ああしろ、という、ノウハウは、各宗教によってマチマチである。
いちいち教祖様の言うとおりにしたくないので、教えを乞いたくない。

ほんとうに苦しんでいる人は、スミからスミまで、教義通りに、何も疑問も抱かず実践するのだろう。
そうやって苦行して救われるのだろう。

わたしは、救われない自分を、自分で救う。
人まで救う余力は、まったくない。
せいぜい、自分ひとりが、ギリギリのライン。

 

ギリギリの人が寄り添って、どうにかこうにか程よい緊張感と距離感で、単体を保っているのが、家族かも知れない。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村


昭和枯れすすき

2015-06-06 | 日々のこと

ブログでは、あたかも理想的展開に成功したかのごとく美化して書いているが、
わたしは、じつのところ、子供の頃から、これといった夢などなかった。

「大きくなったら何になるの?
お父さんと同じ職業?」

「うううん。(No!)
おヨメさん。」

幼稚園ぐらいの時からずっと、そう思っていた。
なぜか?
なりたい職業がなかった。マインド、未発育。
というか、なれそうもなかった。頭脳、未発達。
即、あきらめた。

次第に学力差が出始めた学年にさしかかり、さらに、そのあきらめは、強くなった。
べつに、こだわりもなんにもない。
闘う場合は、勝つ目算が出来てこそ。
勝てそうもない闘いには挑まない。
合理主義である。省エネ。

 

今の女性が見ると、昭和の末期人間に見えるだろう。
わたしの母などは、まだ、女性は夫に食べさせてもらうもの、とアタマから思い込んでいる。
女性も自立する時代なんやで、と説明しても、まったく理解できない。
なので、もう、ほっている。
姑のほうが、まだアタマが柔軟である。時代の波をわかっている。

ただ、全くわかっていない部分も大いにあるが、それはそれで、本人の「生きる核」なので、
そっとしておく。

娘たちは、よく「いかにも昭和的やなあ」と言う。
今の価値観に合ってない時などに使う。超時代遅れの場合。
昭和なんて、わたしの生きてきた時代、そのものだ。

彼女たちは、昭和末の生まれなのだが、もはや平成生まれの人が回りに出始め、
ちょっと昭和に微妙な印象を持っているのだろう。

わたしの感覚では、「明治」にあたるかんじが、彼女たちには「昭和」なのかと。

時代がめぐるのは速い。
パソコン世代と、非パソコン世代、
インターネットの普及。
情報共有。情報漏えい。情報操作。

知恵袋なんて、おばあちゃんでなくてもいい。
人工知能ロボットばあちゃんが、家事や育児、教育をしてくれたらいいが。

隔世の観である。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村


外側と中身

2015-06-05 | 日々のこと

ちょっと衣替え、テンプレートのデザインを変えてみた。

内容は、変わり映えしないけれど。
しかし、外側から変えていくという手もある。

おそらく、わたしは外側から、の口だろう。
「自然にしていたら、そうなった」感を醸し出しているようだが、
よくよく自問してみると、こうなりたい、と、目論んで、意図的にやっているような気がする。
(今は、ゴテゴテより、機能美が好き)

成人になるまでは、親の敷いたレールをあえて反発して無理やり転げ落ちることもなく、
であるが、自分のことは自己責任、自己管理になってからも、
自分で敷いたレールから、無理やりはみ出ることもなく、普通にやっている。

大まかに自分の理想の展開を描くわけだが、人によっては大まか過ぎて、
理想だけ先に歩いているようなことがある。
本人は、理想どおりにいかない、と嘆いている。

それは、理想はあっても、実現するノウハウを研究していないからだ。
アタマの中で思うだけでは、単なる空想家。
漫画でも読んで楽しんでいたらよい。

具体的にこうすれば、こうなって、ああなって、・・・やりたいことに近づける、ということを知り、
試行錯誤して実践を積み重ねなけれは、コトは動かない。

レールに載っても、最初は後ろから押してもらったとしても、
途中からは自分で動かなければ、意味がない。

レールは、途中で二つの方向に分かれることもある。
レールではない、草原地や、砂浜を走るかも知れない。
なにも考えないで、適当に選択する場合と、そうでない場合がある。
分岐点では急に選択できないから、前から準備していないと、後悔が残る。

そんな、大げさなことでなくても、
どっちにしても、わたしは、外側から、器から用意し、
後で、少しずつ、中身を増やすなり整えるなりするタイプかなあと。
器は急には作れないから。基礎的な枠作りは最初にしておかないと。
枠がないと、モノがぐちゃぐちゃになって混沌とする。

わたしの場合、中身はきっちり、みっちり入ってないと思う。
スカスカだったりもする。
まあ、それでもいい。
整えるにしても、もう、そんなに頑張らなくてもいい。
むしろ、整えなくてもいいぐらいだと思っている。

もう、枠だけしか残ってないかも知れない。

抽象的な話になってしまった。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

外側は、見た目だけのことではなく、基礎となるもの、枠。
中身は、実際の力。